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2012年2月26日 (日)

書評 - 円城塔『道化師の蝶』(第146回芥川賞受賞作) 人間不在の見切り発車小説 

 娘に「文藝春秋」を買ってきて貰い、『道化師の蝶』から読み始めた。

 趣味的に書かれた作品というムードがあって、整備されていない砂利道を走らされるような苛立ちを予感させられたものの、わたしには気楽に読めそうな気がしたのだった。

 しかし、離乳食で財を築いたという男の話辺りで興味を失いかけた。

 『道化師の蝶』は観念小説だと思うが、この作者には思いつきを並べれば小説になるという誤解があるのではないだろうか? 小説を書くのに必要な情報収集力に欠けているところもあって、架空世界を現実世界と想わせるための土台作りの段階で手抜きをしている――というより、土台作りの必要性すら感じていないようだ。このままでは、純文学小説ともエンター系小説ともいえない半端なシロモノだ。

 細かな指摘をしていったらきりがないが、前掲の男――エイブラムスが財を築いたという離乳食の内容(あとで引用しておくが)、作者は乳児というものを知らないとしか思えない。

 乳児は様々な理由から泣く。乳児は空腹のみを理由として泣くという前提に立たなければ出てきようがない商品――、こんな商品で財をなすなど嘘臭い以前に馬鹿らしくて読めなくなる。

 思いつき――創作メモ――の段階で書き始められために、整理が出来ていないばかりか、作品にインスピレーション(霊感)が宿るまでに至らなかったという印象。

 作者の着想に対する拘りがそれを象徴しているかのようであるし、作品のつまらなさ加減の原因も示している。

 着想にすぎないから、これは金銭(エイブラムスの物欲)としか結びつかないのだ。

 着想は所詮は人間の霊媒的一性質を利用して転々とする。神秘主義的な考えではそうなのだが、そうした現象を追った小説とわたしは解した。

 それとは別に作者は言語の不思議も追っていて、その二つをいびつに合体させた。

 いずれにしても、これはまだ小説にする以前の準備段階にすぎないものを、インスピレーションの到来を待たずに作品化した失敗例だと思う。インスピレーションというものは単なる思いつきとは違っていて、それ自体が総合力を備えているものだから、こんな風な行き当たりばったりの創作にはなるはずがないのだ。

 また、言語の不思議を扱っているわりには、言葉の遣いかたに不正確なところのある気がする。

 例えば、「台所と辞書はどこか似ている」。ここは「料理と翻訳(あるいは言語使用)はどこか似ている」とすべきではないか?

 現象に言葉を当てはめるのではなく、言葉に現象を無理矢理当てはめようとしているような、乱暴な言葉遣いが目につく。

 ここまで思わせぶりに、またわかりにくくする必要があったとは思えないが、作品構成を以下に見ていくと、

  • Ⅰは、友幸友幸という多言語作家の小説『猫の下で読むに限る』。
  • Ⅱは、『猫の下で読むに限る』の翻訳者による、友幸友幸とA・A・エイブラムスの関係の説明。
  • Ⅲは、友幸友幸による語り。
  • Ⅳは、Ⅱと同一人物である翻訳者の語り。この人物は、A・A・エイブラムス私設記念館に雇われているエージェントである。
  • Ⅴは、エイブラムス私設記念館の女性係員の語りで、この人物はⅢと同一人物の友幸友幸。

 わたしが目を留めたのは、以下に引用する箇所だった。わたしも似たようなことを考えた。

[引用 ここから]……
 わたしにとっては、宝石も、編み物も、刺繍も、言葉も、数式も根は同じものと映っていた。こうしていると、それは何かが違うと感じる。根が同じだとは感じるが、同じのあり方が異なっている。同じさ加減は、固さの程度なのだと考えていた。柔らかさの程度なのではと今は感じている。固さという性質は存在していないのではと何故だか思う。本来はただ動きだけがそこにあり、たまたま同期している現象を固さと見なすだけなのではと。
……[引用 ここまで]

 根は同じ光、粒の大きさによるあり方の違い――と考えるのは、わたしが神秘主義者だからだろう。

 この小説のわかりにくさは内容の深さから来るものではなく、作品としての雑さから来るものだと思う。

 わたしは本来こうしたタイプの作品が嫌いではないが、小説であるからには、もっと人間が描けていなければ、肝心のものに欠けている感じがする。バルザックの哲学風小説『ルイ・ランベール』などと比較するわけではないが、小説として貧弱に感じる。

 余談だが、インタビュー記事を読むと、息子と会話しているみたいな気分になった。ポスドク(ポストドクターという任期付研究員)生活の大変さにも触れられている。

 息子は化学――物理にも入るような分野――が好きで学んでいる最中、そして、歴史には趣味的にベタぼれという感じだが、円城塔も世界史が好きらしい。

 インタビュー記事を読みながら、ふと、いつか息子と作品を合作できないだろうか――などと考えた。わたしには欠けている科学と歴史の側面を息子に担当して貰い、ジャンルはまだわからないが、壮大な文学作品に完成させて出版社に持ち込む……。

 まあ息子に話したところで、呆れられるのが落ちだろうけれど。

 ところで、わたしは現在、児童文学作品『不思議な接着剤』を書くための下調べをしているところで、マグダラのマリアの謎に夢中だ。

 マグダラは、ヘブライ語で塔を意味するという。

 塔といえば、円城塔は、なぜ塔などという変わったペンネームを持っているのだろう?

 円い城というと塔だろうから、ヘブライ語で円城塔を呼ぶとマグダラ・マグダラか。ヘンな男……

(インタビュー記事を読み直したら、ペンネームの由来が語られていた。指導教官の小説に出てくる物語生成プログラムに由来しているそうだ)。

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