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2011年10月 7日 (金)

トーマス・トランストロンメル『悲しみのゴンドラ』を読んでいるところ。

 昨日ノーベル文学賞に決定したトーマス・トランストロンメルの訳詩集『悲しみのゴンドラ』を、夫に図書館から借りてきて貰って読んでいるところ。

 神話、伝説、歴史、時事問題などから拾われた言葉と日常的なありきたりの言葉が同じ強度で並び、どれもが象徴的に響く。選びぬかれた石ばかりをはめこまれた石畳を歩いているような感じがする。その石たちは、石であるにも拘らず(言葉であるにも拘らず)、重責を担っているように感じられる。

 言葉たちは宇宙を志向しているかのようにイメージをひろげるが、自律していて、節度を持っている。その節度が甘美である。だいたい優れた詩というものは皆そうだが。

 分野は異なるが、比較的最近ノーベル文学賞を受賞した作家クレジオとパムクを連想した。純度の高さという点ではクレジオを(しかし透明な印象のクレジオに対し、トランストロンメルは密な印象である)、絵画的で万華鏡のようなという点では「わたしの名は紅」のパムクを連想した(パムクの「紅」はテーマ的集約に欠け、中途半端な印象に終わったところが惜しかったと思う。どこか嗜好的で、もう一つ芸術作品にはなりきれないところがパムクの作品にはある)。

 引用してこまかく見ていきたいところだが、思潮社のホームページを閲覧したところでは現在重版中であるようなので、やめておく。

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