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2011年7月16日 (土)

午前中いっぱい、書き殴り。病人にとっての節電のメリット・デメリット。久しぶりの神秘的な便り。

午前中いっぱい、書き殴り。

朝からずっと、出てくるままに(見えるままに)小説の粗描きをしていました。

苦労して種を仕込んだお陰で、それは既に別の世界で出来上がっているため、写しとればいいだけなのです。でも、早くしないと、疲れや雑念が誘因となって、別の世界とこちらの世界との間に紗のカーテンが次々と何重にもかかっていき、ついには何も見えなくなってしまいます。

ところで、家族のいない時間にエアコンを入れることはなかったのですが、連日の暑さが祟り、あまりに体が疲れていると感じたので、ざっとした家事のあと入れたのです。

すると、書けるわ、書けるわ(見えるわ、見えるわ)。ずっとスランプと思い込んでいたのですが、脳が暑さ負けしていたのでしょうね。

澄明な意識は脳と連動して働く……というより、澄明な意識は脳に満足のいくだけの状態が備わらなくては、連動して働けないようです。澄明な意識にとって、脳は生きた道具のようなものなのでしょう。

わたしを包んで(しかし普段はあまりに遠く)存在し、ごくたまにわたしという存在の直中に降下してくるこのとてつもなく澄んだ意識だけが、わたしに別の世界を――そこに生きたものとして存在しているわたしの短編小説という小世界なども――垣間見せてくれます。

創作作業を通して、プラトンのイデア論がわたしには実感としてわかります。でも、垣間見えたものを満足に写しとれた例しはあまりありません。(たぶん心のきよらかさが不足していて、頭も悪すぎるのでしょうね)

まだこれからが夏本番と思うと……北極の白熊になりたい。一段落したら、またエアコンを切りますが、この我慢比べをしているような日々はいつまで続くのやら。夏の暑さをとっておいて、冬に使えたらいいのにね。

ウォーキングしたほうがまだ、暑さに半ば無感覚となった状態で行ける気がします(これが健康的なことかどうかは疑問ですが)。でも、こんな我慢が続くと、心臓がいずれいかれそうな不安。病人は特に、我慢によるメリットとデメリットのバランスをよく考えなければなりませんね。でないと、節電死なんてことになり兼ねませんわ。

さて、書き殴ったぶんをとりあえず、パソコンに入れておかなくては。時間が経つと読めなくなりますから。うーん、確か昔、書道で三段まではいったはずなのに、字とも思えない、まさにミミズが這っているみたいですわ、わが字ながら。

例の舞台劇風、神秘主義的短編です。

そういえば、水曜日、久しぶりにお亡くなりになった神智学を教えていただいた先生から、便りがありました。生きていらしたときは葉書や便箋に書かれ、お亡くなりになって数年はテレパシーといってよい直截的な言葉で、そのあとからは空間に星のように煌めく金色や青色や紫色の光で。

紫色の光でした。ある絶望感から先生に「わたしのことなんか、お忘れなのでしょう?」と心の中で呼びかけたところ数時間して、さりげなく紫色の星のような煌めきが空間に(テーブルの高さくらいのところに)見えました。雄弁でありながら慎ましやかな、美麗な光でした。

死んで7日内の彼の世に行く前、わが家を訪ねた人は神智学を教えてくださった先生を含めて今のところ4人ですが(幽霊が見えたわけではなく、2人はオーラがはっきりと見え、残る2人は感覚的に察知できました。そのうちの男性の訪問者が今回取り組んでいる小説に出てくる人物のモデル)、このような文通(?)が互いの生死とは無関係に可能なのは16年前にお亡くなりになった神智学の先生とだけです。

エレナ・レーリッヒが「紫、青、銀色、そして金色の点は、いつもよい死者たちであり、あるいは師匠のご放射が近いことを示すものである」と書いていますが、この解説もわたしには実感としてわかります。

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