西村賢太『苦役列車』(第144回芥川賞)が面白い
西村賢太に対する評価には、間違っているところがある。彼が私小説作家と見做されているところだ。
自らの体験を淡々と語るといった作品の体裁からすれば、一見私小説作家に見えるが、違う。
体験を有効活用しているだろうが、彼は、バルザックの言葉を借りるなら、紛れもなく《人間喜劇》の世界を創出しているのだ(※ギリシア古典では、神々の物語を悲劇、人間の物語を喜劇という。バルザックはこの意で自らの小説群に人間喜劇と冠したと思われる)。これは才能というしかない。まだその世界は誕生したばかりで、初々しく危ういが。
私小説作家に括られなかったとしても、実質、私小説的書き方から抜け出せる物書きは、プロ・アマ含めてめったにいないと思われる。
他人の体験をも自分のものとして採り入れることのできる物書きだけが、創造の悦びを享受できるのだ。
例えば、村上春樹の作品は私小説の体裁をとっていないが、自らの体験枠を出ていない。どんな舞台を設け、どんな登場人物を置いたところで、役者はいつも春樹。単一の世界。それに厭きるか、安心感を抱くかで、春樹の読者になれるかどうかが決まるのだろう。
同時受賞した朝吹真理子の『きことわ』があまりにつまらなかったので、わたしは西村賢太の『苦役列車』をうっかりスルーしてしまうところだった。
西村賢太の経歴には、同人誌作家だった一時期がある。当然ながらわたしの興味は、どんな手を使って下積み生活から抜け出したのかしらね、同じ穴の狢だったんでしょ?……という点にあった。しかし、第二章に入ってから、まるで雲が払われたように、彼の才能が輝いてわたしを照らし、どんな手を使って……というようなことはどうでもよくなったのだった。
今の文学界に彼の才能を見い出す力があるとはとても思えないので、彼の経歴が世相に受けるとして買われたのではないかと想像するしかないが、何にしても、出られてよかった。
今ここでストーリーの紹介をする時間的余裕がないが、第二章に相棒が登場するまでの主人公の生い立ちを語る部分は、同人誌作家にありがちな古色蒼然とした書き方だ。
私小説然としていてもいいだろうが、生彩を欠くこの導入部は、もう少し何とかならないだろうか? それ以降とのつながりが悪い気がする。それ以降では逆に、導入部とのバランスのためにも、丁寧な仕上げを心がけたほうがいいと思う。
日雇いの相棒を登場させてから、作品はにわかに活気づく。死んだふりをしていた獣が暴れ出したみたいですらある。
作者には友人がないらしいが、彼は芯から人間が好きなのに違いない。そうでなければ、他人を描いても自分になってしまうだろうし、他人を描くことで別の世界が重なってきたりもしないはずだ。
四十代の作者が19歳の自分を描いているかに読める小説。中学しか出ていない作者に、専門学校生日下部を完璧に書けるはずがないのだ。体験したことのない他人を描ききる技術などない。しかし、日下部は現に、肉体の温もりと確たる存在感を備えている。
おそらく作者は共感という霊感の一種で、一旦日下部になってしまい、日下部を完全に自分のものにしたのだろうと想像する。
主人公貫多によって成り立っていた単一の世界に、日下部の世界が紗のように重なりかかる美しさ。
まだ作品にはかなりの斑があり、この先、彼がありふれたところに堕ちてしまいそうな不安も感じさせられないではないが、今後の執筆活動を注目したい。
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