レビュー 026/窓/百年文庫(ポプラ社)
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- ポプラ社「百年文庫」が素晴らしいので、読書ノートを作り、気ままにメモしていこうと思います。
- まだ読んでいない作品については、未読と表示しています。
- 一々「ネタバレあり」とは書きませんので、ご注意ください。
遠藤周作『シラノ・ド・ベルジュラック』
「そんなものは宗教がやってくれる」とウイ先生がいうのは、告解のことだろう。
確かにウイ先生の言葉は、的を射ている。下手をすれば、私小説はただの告解になってしまう。ウイ先生は文学は修辞学というが、前掲の言葉からすれば、心理学でいうところの昇華作用が文学には不可欠だと先生は考えていたのではないだろうか?
そんな先生に比べ、「私」はゴシップを欲しているような嫌らしさがある。
そして、シラノの手記か贋作かわからない古文書まで出しているわりには、この小説はつまらないところで終わっている。
ウイ先生はいわゆるコキュで、古文書に描かれたような醜い感情を克服すべく、規則正しい生活と修辞学で身を処していたのだろう。
そのウイ先生が妻の自殺で初めて、彼が家庭教師を勤める生徒である「私」に弱みを見せた。
ウイ先生と「私」との人間的なふれあい――すなわち文学――がここから始まろうとしていると考えてもおかしくないと思うが、ゴシップ好みの「私」は、ウイ先生の弱みを嗅ぎつけて満足し、厭世的な言葉で小説の最後を飾っているのだ。
そんな終わりかたが、作者と語り手「私」との距離のなさをあかし立てている。ウイ先生に秀逸な私小説批判をさせているわりには、遠藤周作のつまらなさがはっきりと出た作品になっているとわたしは思う。
ピランデルロ『よその家のあかり』
戦慄が全身を走った。文学作品からこれほどの衝撃を受けるとは。何という作品だろう、ありがたいことに同じ作者の作品がもう一編入っている。
底本を見ると、ハヤカワ文庫に入っていた作品ではないか。ここには宝石のような作品が紛れ込んでいることがあるので、時々チェックしてきたものだが(ジョージ・マクドナルド『北風のうしろの国』がここに紛れ込んでいたりした)、ピランデルロ……全く知らなかった!
ルイージ・ピランデルロ。1867年にイタリアのシチリアに生まれ、1936年に亡くなっている。
ずいぶんと大変な生涯だったようだが、詩で出発し、短編、戯曲……と精力的な執筆活動を行い、1934年には演劇における功績でノーベル文学賞を授与されている。
ノーベル文学賞作家だったのか、全く知らなかった!
何て、何て、すばらしい一編なのだろう! 結末に至るまで目を離せない人間模様。しかし主人公はあかりだ。いや、闇かもしれない。クライマックスを以下にご紹介。
かれはテーブルのうしろの小さなソファーに腰をおろしていた。大きくない部屋に次第に色こくひろがって行く暗がりにむけて、かれはぱっちりとひらいた眼を、なにを見るともなく、ただまんぜんとただよわせていた。夕闇になる一歩てまえのさいごのうすあかりが、これ以上の悲しみはないといった様子で、ガラス窓から消え果てようとしていた。
ぱっちりと眼をひらき、ものも考えず、かれをすでにつつんでいた黒々としたあたりの色にも気がつかずに、どれほどの時間かれはそのようにしていただろうか。
とつぜんかれは見た。
呆然として、かれは周囲に眼をやった。大きくない部屋が、急にあかるくなった。なにか不思議な風がそっと一吹きするように、静かで、やわらかなあかりが部屋をてらしたのだ。
なんだろう。なにがおこったのだろう。
ああ、なるほど……。よその家のあかりだったのだ。正面の家に、たったいまともされたあかりだったのだ。暗闇を、空白を、砂漠のようなかれの存在をほのぼのとした光でてらすために、しのびこんできたどこか別世界の生命のいぶきだったのだ。
暗闇、窓、あかり……というイメージは今後、ピランデルロのこの短い作品と切り離せないものとなりそうだ。
ピランデルロ『訪問者』
この作品はあまりに神秘的、抽象的にすぎて、わたしの好みには合わなかった。わたしは自称神秘主義者であるに拘わらず(だからこそ、というべきか)、神秘的な表現にはこの上なく気難しいのだ。
正確さ、適切さを何より重視する傾向にある。それからすると、この作品では神秘的な表現が過剰で、放恣に流れているとさえ感じさせる。
よく考えると、先に読んだ『よその家のあかり』にわたしがあれほど夢中になったのは、作品のうちに湛えられた神秘主義的傾向ゆえだったろう。表現は抑制が利いていた。
それが『訪問者』では剥き出しにされ、下からは欲情の火で炙られているとあって、ここへ来て、まるで、先に読んだ絶品『よその家のあかり』が豚みたいに丸焼きにされたみたいな気さえした。
とはいえ、『よその家のあかり』は完璧ともいえるほどのまさに珠玉の作品で、それと同じ完成度を求めるほうが無理なことかもしれない。
それに、この『訪問者』でピランデルロの神秘主義的側面が確認できたので、ワタクシ的には別の満足感を覚えることができた……いや、つい、自分の好みに惹き寄せて《神秘主義》を連発してしまったのだが、この作品に関してはシュールレアリスム的という見方もできよう。
神西清『恢復期』
海の見える家で、療養中の少女が薬包紙に綴った日記、というスタイルをとる作品。
日記から感じとれる明晰さは、少女のものらしくない。思考の緻密さ、計算されたようなデリカシーも。「百年文庫」の「1 憧」に太宰治の『女生徒』が来ているが、それと共通するものがある気がする。だが、彼らの作為は大層心地よい別世界を創り出す。
父からの手紙で、少女の境遇がわかる仕掛けとなっている。画家の父は、妻の死と娘の発病(原因不明の熱病)から逃れて、旅に出たのだった。少女のいる家は熱海にある。付添婦の百合は少女の様子を、彼が泊まる宿々に書き送る。
少女が恢復するにつれ、旅先の父も内的な恢復を意識し、自分が再生するように感じるのだった。
少女の日記は恢復録であり、絵画的思索のノートでもある。父と共に暮らすようになった少女は、画家になりたいと打ち明ける。父はアングル随想録を贈る。
ふと思い出したのだが、外国航路の船員だった父は、細い厳つい字で頻繁に手紙を書いてきた。わたしはかなり大きくなるまで、その字が読めなかった。母が読んでくれたが、子供心に父の独り善がりな感傷を手紙から感じとり、恥ずかしかった。返事は、宿題と思って書いた。
太宰の『女生徒』からも、この作品からも、わたしは父の手紙と同類の男の感傷(ロマンというべきか?)をいくらか感じとって、やはり気恥ずかしさを覚える。彼らの作品に盛られた観照の高さからすれば、それは作品を飾るリボンのようなものだろうけれど。
わたしの父は陸の人になったかに思えたが、今も荒れ狂う海の彼方を彷徨っているようだ。奥さんと二人、自分たち専用の船に乗って。ある日、訳のわからない手紙が届き、わたしと妹は宿題にとり組むように裁判官宛ての準備書面を書かなくてはならなかった。
父は船員だったとき、船のクリーム色の個室で動物を飼い、慰めとしていた。栗鼠は懐かず、猿は悪戯ばかりして父を困らせた。今の父はパートナーから困らされてもいるようだから、総じて、わたしたちの関係は昔と変化ないという気もする。
わたし自身も父の子らしく、陸になかなか辿り着けない。うまく港に入れたときも、上陸は許されなかった。それで、ネットの大海原に、小瓶に入れた創作物を投じ続ける。お父さん、わたしたちは海で死ぬ運命にあるのでしょうね……わたしは父の結末を見たくない。それはたぶん、わたし自身の結末を物語るものだと思うから。
感想がいつのまにか、独り善がりなエッセーとなってしまった。『恢復期』は、そんな自省と感傷に浸らせてくれる作品。
ネタバレを歓迎する方々のために、軽井沢に移ってからの少女について、触れておこう。少女は、画家の卵としての観察を深めていく。そして、少女は以下のように描写するものをこの世に見出す。
私は明るく光るものの姿を見た。愛? それは外光によるものではなく、それは色彩をもたなかった。私にはそれが全くわからなかった。同時に私にはそれがよくわかった。
少女が《明るく光るものの姿》を見る前に目撃したものは身を寄せ合う男女で、男は父、女は付添婦の百合だった。少女の父は、男やもめになって日が浅いはずだ。
二人の間にあるものが少女の描写するほどのものとは俗なわたしには信じ難く、作者のロマンチシズムと思ってしまうのだが、中学から高校の生徒にはぜひ読んでほしい作品だという気がする。
作者神西清は、わたしには何よりチェーホフ『桜の園』の訳者だった。小説もお書きになっていたとは。もともとは建築家志望でいらしたそうだ。
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