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2010年11月14日 (日)

今日は娘の誕生日。そして、児童文学作家リンドグレーンのお誕生日。

 リンドグレーンの誕生日は13日と思い込んでいて、14日だと気づいたのは一昨年くらいだったか。

 13日だと、父と同じ誕生日ということになるのだ(いやはや)。

 父とわたしは、昔から、意志の疎通という点で問題のある父子関係で、寂しい以前のワケのわからない思いをしてきたから、父のことを考えるのは苦痛だ。

 父は一方的にしゃべり、わたしが受け答えしても聴いていない風で、途中でまたしゃべり出すのが常だった。まともにコミュニケーションのとれたことなど、1度もなく、わたしの会話の試みは独り言に終わってきた。

 それでも、父には一般人に括り込めるだけのしっかりとした輪郭があり、通じるべきところは通じているという安定感があったとはいえる。

 それが再婚後にその輪郭がぼやけてきて、追跡できないほどに危険な人生の軌跡をたどり始めた。

 今となっては、父もとんでもない女性と再婚しちゃったなあ、再婚してなけりゃ妹夫婦と同居して一般的な老人……酒宴好きで趣味の多い、個性的な人間としての人生を終えられただろうに……と躊躇なく思う。〔※カテゴリー「父の問題」参照。〕

 これが一方的なわたしの物の見方であることはわかっているのだが、この先父夫婦がどうなるのかと想うと、暗澹たる思いがある。

 リンドグレーンの誕生日に父の誕生日が重ならないことがわかってからも、娘の誕生日にはリンドグレーンを想い、そこから父への連想が働く。

 しかし、そこには根本的なところで共通する感じ……ある感触があるからだとも思える。

 それは彼らの物事の捉え方にあって、(スケールが大きいとか型破りとは微妙に感じが異なる)ダイナミックで、(純粋というべきかどうか)真っ正直な物事の捉え方が、畏れ多くもリンドグレーンと一緒に3人をまとめて思い出してしまう理由なのではないかとわたしは考える。

 娘は、純粋培養したみたいだといわれたことがあった。お嬢様みたいだともいわれる。

 よくも悪くも、確かにそんなところがあって、世間的なことを考えるといろいろと心配なのだが、わたしが児童文学を執筆するのにふさわしい環境は娘がつくってくれているといってよい気がする。それには感謝したい。

 息子がいった。「おふくろと僕は同類で、何を考えているかおおかた想像がつくし、物事を観るときには多かれ少なかれ主観が入るけれど、お姉ちゃんは純粋に客観的な観察ができると思う。特技だよ、あの域になると。それに、とぼけたような反応はお姉ちゃん独特だよね。ところで何かね、姉はまだ結婚はしないのかね……いい年だと思うが」「他人事みたいに人物評してないで、誰か紹介してちょうだいよ。大学に戻ったりなんかする前に。あんたんとこは給料いいし、都会で暮らせるし……」といいかけると、息子は逃げる。

 息子は祖父、つまりわたしの父が気に入っていた。「おじいちゃんは笑ったらガンジーそっくりだったけれど、あの笑いはもう失われているのかもしれないね」と、いつだったか残念そうにいった。

 そういえば、長期出張中で大変なのか、最近息子は影をひそめている。

 娘は男性の好みに気難しいところがある。それについても、息子は気になる言葉を吐いた。「そりゃおふくろなんかと暮らしていれば、普通のレベルの人とは結婚できなくなるよ」

 どういうことなのか? そのわたしは、海賊カラーではあるが、ごくフツー(だろうか!)の男と結婚して暮らしてきたではないか。

 占星術によると、娘は晩婚型らしい。バースデーの今宵は、職場の女友達と食事をしてくるという。

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