2回、映画『インセプション』を観て
2回『インセプション』を観て、ほぼ疑問が解消しました。
以下、ネタバレあり。
至ってシンプルな作りになっていると思います。1回観ただけでは、混乱したままだったでしょうね。リンボー(虚無) の設定が不徹底なための混乱で、観客の読み取り不足ではないと思いました。それ以外は首尾一貫していました。
夢か現実かのコブのトーテムは子供たちですね。
長いエンディングロールの音楽の変化は単純に、観客に対するメッセージと捉えていいのではないでしょうか。
第1回目に観たあとで、わたしは以下のように書きました。第2回目鑑賞の今回も同じことを感じました。
『インセプション』は夢とギリシア神話をモチーフに、哲学的、心理学的な深みを持たせた、娯楽作品としても第一級品といえる、あらゆる意味においてスタイリッシュな作品だった。
アメリカ的商業主義が極まれば神秘主義に近づくのかと『アバター』を観たときに思ったが、『インセプション』を観て、その思いはより確信めいたものになった。
また記事を改めて、きちんとした感想を書きたいと思っています。
以下は、「Nの手帳」に記した未整理のインセプション・ノート。
- サイトー:味があり、温かみがあった。彼がいるといないのとでは、映画の快さがちがってくるだろう。
ただ、人物設定としては権力がありすぎたり、変に素直だったりと、ストーリー展開のために制作者に都合よく使われていて狂言廻し的。ドンの風格も備えてはいるが、お人好しにも見え、アラジンの召使い風。穿った見方をすれば、日本はアメリカにとって彼のような相棒であることを求められている(?)。
ストーリーには不自然なところが多々ある。小さな子供が2人もありながら、コブとモルが夢遊びに浸れたこと自体が不自然。衣食住を満たしてやることなど必要でなかったかのよう。夢の下の階層に潜るほどに多くの時間が流れるという設定は、その不自然さをいくらかはカバーする。夢遊び三昧であっても、現実生活でとられる時間は少なくなるから。実際の夢の中では、時間は……。短い眠りの中でも様々な出来事が起きたりするから、夢では現実より多くの時間が流れるようだが、いつもそうだろうか?
現実の匂う箇所では、モルのトーテムはバランスを崩したり、倒れて置かれて、現実性が強調されている。しかし、それはあくまでモルのトーテムであり、コブのトーテムは子供たちだ。
子供たちが振り向いたとき、それは現実であることを意味する。
終局部で飛行機の中で目覚めた6人。さり気なく別れていくが、皆、そこはかとなく連帯感を滲ませた温かみのある、実によい顔つきをしていた。出迎えた義父も、自然なよい表情をしていた。
現実性を取り戻したコブにはもうモルのトーテムは必要がなく、それが回り続けようが倒れようがコブにはどうでもよくなっていたわけだ。
エンディングロールでは目覚まし代わりのピアフの歌が流れた。それで終わりかと思ったら、また不気味な効果音に続いて、ゆっくりとなったピアフの歌。終わったはずの映画がまた始まるかのように。だがこれは映画のストーリーに含まれるものではなく、この世は夢という観客に対するメッセージではないだろうか。
夢だから何でも行えるというわけではなく、法則があることを示したという点に、映画を超えた新鮮さを覚える。
2010年8月20日(金) 05:22 - モルの自殺は真に恐ろしい。現実を見失ったモルを道連れにコブが列車での心中を図る場面は恐ろしい。そんなやり方で現実に戻っても、モルは真の現実感を回復できず、自殺してしまった。まるで、薬物中毒者の自殺とその後の運命を描いたかのようだ。この映画の魅力は、SFにも幽霊譚にもとれるところだ。
この世に降下したときの記憶を呼び覚まされるようだ。そして、その目的を思い出させられるかのようだった。
どんな階層の世界でも(彼の世でもこの世でも後の世でも)不変であるものを、変わりやすいこの世でも保持する強さを身につけるために降りてきたのに、この世ではぞんざいに扱われるそれを自分でもぞんざいに扱い、下手をすれば見失う危険があることを改めて警告されたかのようだった。
夢の中で、「わたしはいつ、どうやってここへ来たんだっけ? それまでは何をしていたんだっけ?」と思い、焦燥感に駆られることがよくある。たまには自分が夢の中にいることを認識したり、一旦目覚めたあとで同じ夢の続きを見ることもある。夢の中で、同じ舞台装置が使い回されていることに気づくことはしばしば。夢の中の体験のほうが現実の体験より生々しく感じられることもよくある。
『インセプション』は、夢とギリシア神話をモチーフとして、哲学的、心理学的な深みをもたせた作品。映像も人間関係の描きかたもスタイリッシュ。素敵な映画だと思う。
2010年8月20日(金) 05:37 - 皆さん、寝顔が可愛かった。
2010年8月20日(金) 08:05 - サイトーには、「世界のために」フィッシャー社によるエネルギー供給の独占を阻むという大義名分があった(サイトーがときにお人好しにすら見える行動をしてしまうのには、この動機が関係していそうだ)。コブには「子供たちのために」家に帰るという目的があった。
彼ら以外にも、明らかな低級な欲望や全くの悪意によって動いた人間はいない。そのことが犯罪集団を描きながらも、映画のムードをどことなく温和で上品なものにしている理由だろう。
2010年8月21日(土) 08:45
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