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2010年6月23日 (水)

『尼僧の告白―テーリーガーター』を読む……凛々しいブッダの女弟子たち

 中村元先生訳による『仏弟子の告白―テーラーガーター』『尼僧の告白―テーリーガーター』というパーリ文の聖典中、経蔵所収の詩集をタイトルの面白さに惹かれて購入。

 両書は姉妹篇であり、弟子たちがブッダの教えに帰依した喜びとそれまでのいきさつが詩の形式で語られる。「実際の作者は多勢いたが、それらがある時期に一つに集成編纂された」そうである。

 中村元先生の訳で読む、調べの美しさ、みずみずしさ、凛々しさ、力強さは比類ないもので、かつてこのようなものが存在したのだとすれば、人類はなぜこのような調べをなくしてしまったのだろう、と不思議な想いに捉われた。

 『仏弟子の告白』解説によると、

 この両書は、どちらもパーリ語でのみ伝えられ、全体としての漢訳、チベット訳などは存在しない。正確な成立年代は不明である。個々の詩はブッダ時代につくられたもののあることは疑いないが、全体として現形のように成立したのは、アショーカ王時代(西暦前三世紀後半)または少しく遅れた時代できなかろうか。

 とあり、両書に登場するのはブッダその人の息がかかった人々に違いない、との想像をたくましくさせられたのも、なるほどと思われた。仏教の精神とは、本来このようなものではなかっただろうか。

『尼僧の告白』の解説には、以下のような記述があった。
 尼僧の教団の出現ということは、世界の思想史においても驚くべき事実である。当時のヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、東アジアを通じて、〈尼僧の教団〉なるものは存在しなかった。仏教が初めてつくったのである。
 仏教が出現してから百年あまり(一説によると二百年ほど)経ってから、シリア王の大使でギリシア人であるメガステネースがインド王のもとに来て、その見聞記をギリシア語で残しているが、その中で言う、
  インドには驚くべきことがある。そこには女性の哲学者たち(philosophoi)がいて、男性の哲学者たちに伍して、難解なことを堂々と議論している!
と。
 この自由さ、清新さ、哲学性こそ、ブッダの息吹だったのだろう。

 『尼僧の告白』から読もうと何気なく本を開いたわたしはいきなり、自分にいわれているような箇所に出くわし、唖然となった。

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