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2010年3月17日 (水)

Oさんにお電話:純文学の技法について。わたしの本音。 

 作品の感想をきちんといっていなかったので、Oさんにお電話した。

 筆任せに書かれているのではないかと思っていたが、やはりそのようだ。それでいながら、最後は決めていた様子。

 最後の場面(テーマの落とし処)を決めていたというのであればわかるが、そうではなく、どういったらよいのだろう……あらかじめ、テーマの追究の結果を限定してしまっているような、技法上の重大な欠陥があるように感じた。

 彼の文章には生命が宿っているのだから、大事なところだ。

 彼の創作姿勢は、エンター的というわけではない。エンター的な書きかたであれば、読者の意識に徹底して添ったサービス精神が備わっていなくてはならない。

 彼が備えているのはそれではなく、テーマの追究という純文学の意識であるから、そうした限定はどうかと思うのだ。

 純文学が読者に与える悦びは、いわば錬金術的変成の過程を公開することによる秘密と発見の分かち合いだとわたしは思う。

 作者の側の苦労は、ひとつの作品ごとに、1つ以上の発見をしなければならないことだ。俗にいう芸術家の苦悩というものは、ここから来るに違いない。

 ところがOさんの書きかただと、作品を通じた発見が期待できないばかりか、作品と共に味わう自己変容の神秘も、作品と共に成長する悦びも期待できなくなってしまう。芸術の悦びが。

 それに、構成もなしという行き当たりばったりの書きかたでは、掌編の場合に限り一筆書きも可能だろうが、長いものでは、それなりの下準備をしなくては、作品が死んだり、上手く育たなかったりしてしまうと思う。

 わたしは作品ごとに、薄いものでいいから、プランを練ったりメモしたりするためのノートを1冊作ることを勧めた。

 うるさくいい過ぎたかもしれない。彼はまだ、とにかく楽しく書いていたい、文学的な交際を賑やかにして触発されたい段階にあるようだから。

 時期的なずれを感じるので、病気を隠れ蓑にしているわけではないが、積極的に文学づきあいをしたい気持ちになれないのだと思う。

 盛んに交際して、技法を論じ合ったり、発表の場を求めて情報を交換し合ったり、作品を批評し合ったりという時期はわたしには長く続いたが、それは5年前に終わったのだ。

 今はひとり沈潜して、書いていたい。邪魔されたくない。他人の創作を見守る義務もなければ、その資格も持ち合わせていない。

 上に書いたことも、あくまでわたしの考えにすぎないのであって、親密な交際をすることで、押しつけになることを畏れる気持ちもある。

 わたしにも、再び交際の波がやってくる気もするが(ホロスコープからすると、2~3年先かしらね)、少なくとも今は沈潜期。無理に引きずり出させると、陸に揚げられた魚になってしまいそう。

 わたしが再び交際期に入る頃、今度はOさんが沈潜期に入っているかもしれないし、そもそも彼はまだ書いているだろうか? 素質のある人であることは間違いないけれど(だからこそ、視線を向けてきた)。

 Oさんと時期を同じくして創作を復活させた文芸部の先輩が思い浮かぶ。創作仲間にいいんじゃないかという気もするが、どうだろう?

 しかし本音でいうと、わたしはどちらも信用していない。こんな時期から文学だなんて、正直いって笑わせる。専業主婦は気軽に利用できる便利な存在なのだろうということも、彼らは感じさせる。

 作風は違い、欠点も違い、文学観も人生観も何もかも違うが、長く書き続けているFさん、ドクターのKさん、Kくんは、わたしを主婦としてより書く人間として見てくれる。それが感じられる。社会的評価とは別の、こんなところで、キャリアの違いがはっきりと出るのだ。

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