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2010年2月26日 (金)

Notes:不思議な接着剤 #41/南仏におけるマグダラのマリア伝説

Notes:不思議な接着剤は、執筆中の自作の児童文学作品『不思議な接着剤』のための創作ノート。

#41
2010/2/26(Fri) 『マリヤによる福音書』に関する私的考察 #3/南仏におけるマグダラのマリア伝説

 南仏――カタリ派――グノーシス――ナグ・ハマディ文書の『マリヤによる福音書』――マグダラのマリア

 と連想して気になるのは、南仏におけるマグダラのマリア伝説だ。以下はウィキペディアより抜粋。

カトリック教会での伝承の概略

四福音書にはマグダラのマリアと特定されていない女性が何人か登場する。その中のベタニアのマリアなどがマグダラのマリアと同一視され、イエスの足に涙を落し、自らの髪で拭い、香油を塗ったとされる。それゆえ図像ではアラバスターの香油壺を手にする姿が代表的。

伝説中のマグダラのマリア、たとえばヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』 (Golden_Legend)などによれば、マグダラのマリアは金持ちの出自であって、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに出会い悔悛したという。娼婦をも意味する「罪の女」(the Sinner)との異名を与えられたり、ルネサンス以降「マグダラのマリアの悔悛」(The Penitent Mary Magdalene)を主題とする絵画、彫刻が多く制作される。このイメージはカトリック教会の作為が関与していると指摘されている。(罪の女を参照。)

イエス昇天後、兄弟ラザロ、マルタ (マリアの姉) らとともに南仏マルセイユ(あるいはサント=マリー=ド=ラ=メール)に着き、晩年はサント=ボームの洞窟で隠士生活を送ったのちにその一生を終え、遺骸はいったんエクス=アン=プロヴァンス郊外のサン=マクシマン=ラ=サント=ボーム(fr:Saint-Maximin-la-Sainte-Baume)に葬られたと信じられた。ヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂はその遺骸(頭蓋骨)を移葬したものと主張している。しかし、サン=マクシマン側はいまも遺骸を保持していると主張しており、一部はパリのマドレーヌ寺院にも分骨されている。

マグダラのマリア. (2010, 2月 23). Wikipedia, . Retrieved 18:50, 2月 25, 2010 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2&oldid=30673179.

 『マリヤによる福音書』を読むと、イエスの死後、弟子たちの間で分裂が起きたのではないかという疑念が起きる。イエスに教えられたことをマリアは話すが、アンドレアスは信じないといい、ペテロはそんなことはありえないといって怒る。

 それに対して、マリアは泣きながらも堂々と抗議している。マリアは知的であるだけでなく、弁の立つ女性であったことを窺わせる。

 レビが間に立ってとりなしをしているが、アンドレアスやペテロのような頑固そうな男性と、マリアのような簡単には引き下がらない女性とがこの先うまくいくとは考えにくい。

 この福音書の終わりかたも奇妙で、弟子たちがまとまりなく布教に出かけたようにもとれる。以下は、『ナグ・ハマディ文書Ⅱ 福音書』(荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳、岩波書店、1998年)より、最後の部分を抜粋。

 彼らは[告げるため]、また宣べるために行き始めた。

 『フランス――詩のふるさと紀行』(田辺保、同文書院、1994年)には、マグダラのマリアが絡む「海の聖マリアたち」伝説が以下のように紹介されている。その部分を抜粋。

 そしてほどなく、かなたに、あの特徴のあるサント=マリー=ド=ラ=メールの教会の塔が見えてきます。〔略〕青い地中海の波打ちぎわはすぐそこです。
 サント=マリー=ド=ラ=メールとは、「海のマリアたち」という意味。なんとも美しいこの名が、わたしたちの心をひきつけます。そうです。ここは、マリアたち――三人のマリアたちが海の向こうから到着したところなのです。
 三人のマリアとは、マリア・ヤコベ、マリア・サロメ、そしてマグダラのマリアです。マリア・ヤコベ、マリア・サロメは、イエス・キリストの母マリアの姉妹、または義理の姉妹にあたる人と伝えられ、聖書に出てくるキリストの弟子たちの母でもありました。マグダラのマリアは、もと罪の女(娼婦)でしたが、キリストに救われ、師を慕ってその生涯の最後まで、すなわち十字架の下まで忠実に従いつづけた女性です。
 これらマリアたちとともに、先にも名をあげた老トロフィーム、聖マクシマン、リモージュやトゥールーズの町の伝道者マルシャル、サチュルナン、盲人であったがキリストに目を開けてもらったシドワーヌ、さらにマリアたちの召使いで黒人のサラなど、大勢の人たちがイエスの死後ユダヤの国を出て、嵐の海を渡って、このフランスの海岸にまでたどりついたというのです。
 南フランスの各地はじめ、フランスの主だった町々はこの人たちの尽力によってキリスト教信仰へとみちびかれたのです。

 大勢の名が挙げられ、しかも嵐の海を渡って来たとは、まるで政治亡命であるかのようだ。「イエスの死後ユダヤの国を出て」とあるのは、いつの頃だったのだろうか。

 ユダヤ戦争は66年から73年までで、イエスの死が30年頃であったとすると、戦争が起きるまでに36年が経過していて、マリアたちがもしその戦火を逃れたのだとすると、若くはなかったはずのマリアたちに、嵐の海を渡り、その上布教までするのは、年齢的に無理な気がする。

 もっと早い時期だったとすると、ペテロたちとの勢力争いに敗れて、新天地に活路を求めたということも考えられる。伝説によると、彼らは精力的に布教活動をしたようだから。 

 それが本当なら、南仏には、カトリック教以前に、マグダラのマリア一行による教えが根づいていたことになる。

 グノーシス派の文書として、エジプトの洞窟で長きを過ごさなければならなかった『マリヤによる福音書』――南仏の「海の聖マリアたち伝説」――「異端カタリ派」と並べてみると、一筋の流れを見事に形づくるパズルのようだ。

 しかも、『マリヤによる福音書』でマリアがイエスに教えられたと語る内容は東洋哲学そのもので、わたしが東西(の思想的分裂)をつなぐミッシング・リンクと衝撃を覚えたゆえんだ。カタリ派がときに、《西欧の仏教》と呼ばれたことを、思い出しておきたい。

 イエスが西洋人でなかったことを考えると、イエスの教えが西洋的でないといって驚くほうが不自然な気はするが、マリアの伝えるイエスの教えに対して、「異質な考えのように思われる」といったアンドレアスの言葉をどう解釈するかだ。

 ただわたしは思うのだが、もしこの『マリヤによる福音書』がでっちあげられたものだとすれば、マリアの言葉に対して、「異質な考え」とアンドレアスがいったり、ペテロが怒ったりしたといった図は生々しすぎる。イエスの教えに別の教えが作為的に挿入されたり、あるいはごく自然に混入してしまったのであれば、まるでドキュメンタリーのような、このような場面はむしろ存在しないのではないだろうか。 

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