考察…異端カタリ派における祈り
神秘主義における祈りの分類(ここではブラヴァツキーの解説による)。
①嘆願。
②神を呼ぶ、まじない。
③「隠れたるところにおいでになる父」との霊交。
③を唯一可能にする、神秘そのものの清浄な意志の祈り(これは、祈りを錬金術でいう哲人の石に変えるので、霊的変質の過程といわれる)以外の祈りは、容易に黒魔術の手段に堕ちる。
神秘主義では祈りについて、それが人間の自信をなくさせ、生まれつきもっている以上のひどい自己本位を育てる畏れがあるとしており、祈ることが脳天気に奨励されることは決してない。〔わたしは過去、重体の母の枕許で祈りについて徹底的に考えさせられた。祈ることができなくなり、そのあとですばらしい内的体験が訪れた→当ブログの過去記事:手記『枕許からのレポート』参照。〕
戦争では殺しさえ神の名のもとになされることがあり、自分だけのメリットを願う祈りは広く一般化している。神秘主義は、こうしたありふれた祈りが放つ臭気に身震いするのだ。
宇宙と人間の構造に関して神秘主義の哲学(表現の違いはあっても、東西の神秘主義は同一の知識を共有していることがわかる)を採用していたカタリ派は、祈りの危険性に敏感だった。だから帰依者(一般信者)に祈ることを禁じたのだ。
神秘主義に通じてさえいれば、この辺りの事情はすぐにわかるのだが、『モンタイユー ピレネーの村1294~1324』(エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ著、井上幸治/渡邊昌美/波木居純一訳、刀水書房、1991年)を著したアナール派にはわからなかったようだ。
『モンタイユー』が凄腕のエリート異端審問官ジャック・フルニエによる異端審問記録をもとにした貴重な民俗誌であるのに、異様に読みづらく、この読みづらさは何だろうと思っていたら、キリスト教的分析という以上の独断、偏見といえる感想が夥しく混じっているからだと、カタリ派の祈りが採り上げられた箇所でようやく気づいた。
何としたことか、カタリ派は中世と現代における二重の異端審問の禍に見舞われたのだった! それにしても、またしてもアナール派だ! カトリックの牙城なのか?
以下に、『モンタイユー』から問題の箇所と、『異端カタリ派の哲学』(ルネ・ネッリ著、柴田和雄、法政大学出版局、1996年)から、カタリ派における帰依者に対する祈りの禁止の一件を解説した箇所から抜粋しておく。
《……ここまで、体調不良のため不精して携帯からなので、あとでパソコンから続きを書きます。記事が完成したら、カテゴリー「Notes:不思議な接着剤」に組み込みます。
島原の乱についても、メモしておきたいことがありまして。
今日は寝たきりでしたが、今からスピーディーに(まるく)掃除し、洗濯して、夕飯はクラムチャウダーを作る予定。冷蔵庫のアサリがへばらないうちに、食らわねば。もうへばっているかしら?》
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