従姉からの電話
数日前、東京に住む従姉から電話があった。「Nちゃん、家がなくなったんだって!」と息せき切った声音。
「うん、まあね。実家が土地だけ残して消え失せたのは本当よ。父夫婦が勝手に壊しちゃったんだもん」とわたしがいうと、従姉はわたしの冷めた反応に拍子抜けしたようだった。
従姉は、わたしたち姉妹が両親及び父の奥さん(母の死後に父が再婚した女性)に振り回されてきた歴史(?)にそれほど通じていないから、定期的にこれまでハプニングをもたらされ、ずっとこんなものだったことを知らないのだった。
その度に対応を迫られてきたわたしは、同じハプニングをもたらしがちなタイプの男と結婚したために、事情を知らない人には、独身の頃は恵まれて見え、結婚してからはお気楽な専業主婦に映っているかもしれないが、物心ついてこのかた、何となく戦場の一角で暮してきたような感じを持っている。
父に裁判を吹っかけられた辺りから、昔のことも従姉に少しずつ話すようになって、従姉はさぞ驚いているだろう。「NちゃんもJちゃんも恵まれたお嬢さんにしか見えなかったよ。でも、そういわれれば、Jちゃんがちょっと暗く見えたことはあったけど。Nちゃんは明るかったね」と従姉はいう。「猫かぶってたんだもん」とわたしはいった。
明るいどころか、家政婦さんの息子たちからセクハラされたことなどもあって、この世は闇だと思ってきた。両親からもいろいろと持ち込まれて、そちらのほうの悩みも深かった。
それでも、結婚してからは、夫とも子供たちとも感覚的にフィットするという基盤があるせいか、いろいろあっても楽しい。妹も結婚して楽しそうだ。まあ妹とも話せば、彼女にもいろいろと気苦労はあるようだけれど。独身の頃のあの暗さはどちらにもない。「あの頃は暗かったよね」と妹としみじみ話したことがある。当然、今も、父のことは常にわたしたち姉妹の頭にある。
従姉も独身の頃はいろいろとあったはずだが、両親の知性と愛情に包まれて幸福だったらしい。むしろ結婚後に苦労したのだそうだ。
確かにそうだ。最初のご主人にも、再婚したご主人にも先立たれたのだ。いずれも仕事中の事故だったため、幸い労災が下り、従姉は経済的には死ぬまで――贅沢しなければ――安泰だそうだ。それでも、裕福であれば、音大の作曲科に進んだ娘を大学院にやりたい思いはあっただろう。従姉がデパートに勤めていた当時、そんなことを聞いた記憶がある。
この従姉は母方の従姉で、沢山いた母の兄姉のうちの長姉(わたしの伯母にあたる)の娘だ。末っ子だったわたしの母とその伯母は親子ほどの年齢の開きがあった。
成人する前に両親を亡くし、高校も子守りのバイトなどしながら通った母にとって、伯母が母親代わりで精神的支柱だった。伯母にとっても、母は賢い頼りになる妹だっただろうと思う。
わたしは、従兄姉たちの中では、この従姉が一番好きだ。芸術好きで、いろいろなことが話せて楽しく、ボルテージが上がって弾けてしまう。従姉は独身の頃から踊りを習ったり絵画に熱中したりしていたが、今は句会に入っているそうだ。俳句の話もできるのは嬉しい。
ところで、前に電話をしたときにわたしたちの祖母の実家がやまとのあや〔Notes:卑弥呼を参照〕に繋がるだろうことを話した。その続きというか、わたしには確かめたいことがあった。
長女だった伯母はまだ両親が健在であった戦前に嫁いだはずで、その嫁いだ相手が、伯母の恵まれていたはずの環境と釣り合いがとれていないように思えたのだった。
従姉は3人兄妹のうちの真ん中だが、彼女の父親(わたしにとっては伯父)は当時問屋業のようなものを営み、伯母はそれを手伝っていた。裕福に見えるどころか、貧乏に見えた。おまけに、伯父は、一時期女の人をつくって遁走していたことがあった。慎ましく見えた伯母だったが、愛人の家に乗り込んで夫を奪い返したそうだ。それ以後は傍目にも睦まじい伯父と伯母で、伯母が亡くなると後を追うように伯父も亡くなった。
しかし伯父は、お姫様といわれて育ったような祖母が嫁がせた相手とは思えない迷走ぶりだった。本当に、祖母はやまとのあやに繋がるような家系の出だったのだろうか。このところ、そんな疑問がわたしにはあった。
母方の親類はよく集まって宴会などやっていたにも拘らず、親類の素性に関することはなぜかほとんど知らないのだ。宴会では伯父を中心にわたしの父も絡んで弾け、大いに盛り上がったものだが、皆、貧乏そうで、その中では外国航路の船員をしていた父は――母も働いていたし――お金を持っていたほうではないだろうか。
「父はただの商人だったけれど、頭はよかったと思う」と従姉。元は三菱商事の社員だったそうだ。脱サラして満州で手広く製麺業を営み、成功してリッチだったという。彼女の母親である伯母はそこへ嫁いだのだそうだ。戦争でまる裸になり、日本に引き揚げてからはうまくいかなかったのだろう。
考えてみれば、伯父は複雑な人だった。楽しむことが大好きで底抜けに陽気で、わたしなども始終伯父の軽トラックでどこかへ連れて行って貰ったものだが、テレビで政治番組を観るときは人が変わったように真剣だった。近寄れないほどだった。知性の塊に見えた。何を考えていたのだろうか。
グルメぶりときたら並みではなく、美味しいとなったらハイカラなものから悪食に近いことまでやってのけた。伯父は、沼から生け捕りにしてきた大きな食用蛙を常に3匹くらい甕に飼っていた。勿論食べるためだ。その蛙が夜になるとヴォーヴォーと甕の底で鳴いて、わたしは恐かった。
恰幅のよかった伯父は顔立ちも悪くなかった。祖母は、好感の持てる成功した商人に娘を嫁がせたのだろう。伯母はこの夫によく仕え、貧乏しても家庭を完璧に清潔に保ち、家族一人一人のプライバシーを保つ工夫をしていた。
問屋業のようなことをして島原から仕入れていた味噌と、どこからか仕入れていたおかきは美味しかった。わたしはあの味を求めて久しいが、あんなに美味しい味噌とおかきには出合わない。伯父が満州でのように成功していれば、あの美味しい味噌とおかきを毎日食べられただろうに、とわたしは思う。
このところ異端カタリ派の研究に没頭していたのだが、従姉の電話で卑弥呼関係に引き戻された。メモである「やまとのあやⅡ」を中断したままだったが、なぜか今日になってとんでもない思い違いをしていたことがわかった。西漢氏と秦氏を混同していたのだった。無知で恥ずかしい。また今夜から『Notes:接着剤』に戻る。
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