Notes:不思議な接着剤 #33/カタリ派における祈り
Notes:不思議な接着剤は、執筆中の自作の児童文学作品『不思議な接着剤』のための創作ノート。
#33
2009/12/15(Tue) カタリ派について#6/資料#4/カタリ派における祈り
☆カタリ派における祈り
神秘主義における祈りの分類(ここではブラヴァツキーの解説による)。
①嘆願。
②神を呼ぶ、まじない。
③「隠れたるところにおいでになる父」との霊交。
③を唯一可能にする、神秘そのものの清浄な意志の祈り(これは、祈りを錬金術でいう哲人の石に変えるので、霊的変質の過程といわれる)以外の祈りは、容易に黒魔術の手段に堕ちる。
神秘主義では祈りについて、それが人間の自信をなくさせ、生まれつきもっている以上のひどい自己本位を育てる畏れがあるとしており、祈ることが脳天気に奨励されることは決してない。〔わたしは過去、重体の母の枕許で祈りについて徹底的に考えさせられた。祈ることができなくなり、そのあとですばらしい内的体験が訪れた→当ブログの過去記事:手記『枕許からのレポート』参照。〕
戦争では殺しさえ神の名のもとになされることがあり、自分だけのメリットを願う祈りは広く一般化している。神秘主義は、こうしたありふれた祈りが放つ臭気に怖気をふるうのだ。
宇宙と人間の構造に関して神秘主義の哲学(表現の違いはあっても、東西の神秘主義は同一の知識を共有していることがわかる)を採用していたカタリ派は、祈りの危険性に敏感だった。だから帰依者(一般信者)に祈ることを禁じたのだ。
神秘主義に通じてさえいれば、この辺りの事情はすぐにわかるのだが、『モンタイユー ピレネーの村1294~1324』(エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ著、井上幸治/渡邊昌美/波木居純一訳、刀水書房、1991年)を著したアナール派にはわからなかったようだ。
『モンタイユー』が凄腕のエリート異端審問官ジャック・フルニエによる異端審問記録をもとにした貴重な民俗誌であるのに、異様に読みづらく、この読みづらさは何だろうと思っていたら、キリスト教的分析という以上の独断、偏見といえる感想が夥しく混じっているからだと、カタリ派の祈りが採り上げられた箇所でようやく気づいた。
何としたことか、カタリ派は中世と現代における二重の異端審問の禍に見舞われたのだった! それにしても、またしてもアナール派だ! カトリックの牙城なのか?
以下に、『モンタイユー』から問題の箇所と、『異端カタリ派の哲学』(ルネ・ネッリ著、柴田和雄、法政大学出版局、1996年)から、カタリ派における帰依者に対する祈りの禁止の一件を解説した箇所から抜粋しておく。
以下は、『モンタイユー』から問題の箇所。
忘れてならないのは、サバルテスにはフランチェスコ会の影響が低平地ほど強くなかったことである。そのため、頻繁かつ熱烈な、いわゆる集中祈祷の習慣はフォア伯領高地部の本来のカトリックには見出されない。かえって、この地域の異端にその習慣が見られた。それも、完徳者が、あるいは完徳者だけが、熱心に祈っているのだ。ベリバストは一夜に六度も寝床から起出して、下着のままで熱心な祈りを捧げた。ひどくこみあう宿舎では、ベリバストが飛び出して跪くたびに一つの寝床に寝ている他の客が目覚めるので、わざわざ寝床の端に寝させたほどである。同室の客たちが聖人に倣うなどということは問題にならない。彼の敬虔な習慣は誰にも感染していない。そもそも、ベリバスト自身、自分をお手本にせよとは信者に全然要求していないのだ。それどころか、信者には祈るなと申し渡しているのだ! 普段の暮らしのせいで帰依者たちの口は不浄だから、彼らが祈れば「われらの父」という言葉まで汚れてしまう。いみじくもピエール・セリが言っている。
「まことの道にあるお師匠さまたち[ノ・セニユール](善信者)以外には、誰もわれらの父[パテル・ノステル]などと言ってはならないのであります。このわたしどもがわれらの父を口に致しますならば、大罪をおかすことになるでありましょう。それは、わたくしどもがまことの道に入っていないからであります。わたしどもは肉を食べたり女と寝ることもあるからであります」
したがって、あたかも近代国家が塩と煙草を専売にしたように、ベリバストは主の祈りを独占しているのだ。もともとサバルテスの農民は、純朴なカトリックの伝統の中でも、長々と熱心に、心を込めて祈る習慣などもってはいない。アルビジョア派の帰依者になってから余計祈らなくなったのは、この習慣のベリバスト版にすぎないのだ! 実に、彼らは「カタリ派」完全主義の名において、世にももっとも祈らぬ者たるべく指導されているのだ。完全主義はごく一部の者を天使、そして大多数の者を野獣扱いする結果となったのである。
以下は、『異端カタリ派の哲学』から、カタリ派における帰依者に対する祈りの禁止について解説した箇所。
『ヨハネによる福音書』には悪魔がしばしば登場する。しかしこの世の創造者としてではなく、この世の〈王〉としてである。真の神は物質界の「父」にあらずというキリストの断言――もちろんこれをいろいろに解釈できよう――が、この福音書に見出せる。霊的な意味合いからすれば、罪人とは悪魔の申し子である(それゆえにカタリ派では、単なる帰依者[クロワヤン](カタリ派における一般信者)たちは「彼らの父」〔=悪魔〕に呼びかけることになるから、「主の祈り[パーテル]」を神に向けて唱えることはできないとされたのである)。キリストはこう言っている。「あなた方は悪魔を父とする。だから父の欲望をあなた方は満たそうとする!」(同8-44、クレダ版175ページ)。
カタリ派における帰依者に対する祈りの禁止は、祈りの本質を厳密に分析した結果の用心深さであって、『モンタイユー』の著者が鬼の首でもとったように批判するような(人道に反するとでもいいたいのだろう)、理不尽な差別を原因とするものではない。それは神秘主義における祈りの定義を踏襲した結果の科学的判断といってよい。
マドレーヌ・スコペロ著『グノーシスとは何か』(入江良平/中野千恵美訳、せりか書房、1997年)の日本語版への序文の中に、次のような一文がある。
グノーシス主義者――この名称は彼らの思想を反駁したキリスト教の反異端者が用いていた通称なのですが――は、二世紀と三世紀における知的エリートでした。彼らは、哲学的な文化およびさまざまな伝統(ギリシャ、ユダヤ、キリスト教)に養われた繊細な聖書の釈義者であり、寓意の技術にたけており、自分たちの思想学派を創設して、その教義をローマ帝国内に普及させました。
カタリ派がグノーシス主義の影響を受けたのだとすると、グノーシス主義では寓意が好まれたことをよく考慮せねばならない。悪魔、とはある科学的な性質、現象、段階といったものを寓話で語った場合の表現に他ならないのかもしれないという想像が働く。
ところで、グノーシス主義とは何か?について、アカデミックな学会はどう定義づけているのか、前掲のマドレーヌ・コスペロは述べている。
グノーシス主義とは何か?
ここではグノーシス主義を、ローマ帝国で後二、三世紀に発展した、知識の概念を中心とする一つの思想運動という意味で用いる。
グノーシスというのは、彼らの共通する思想傾向を指す。これは知識の概念をめぐって見出される彼らの公分母である。この意味においては、マニ教、マンダ教、カバラもまたグノーシスの諸形態とみなしうる。
つまり、グノーシス主義という術語には明確な歴史的含意があるが、グノーシスという術語にはそれがない。
グノーシス主義とグノーシスのこの区別は、ウゴ・ビアンキ教授を議長としてメッシーナで開催されたグノーシスをめぐる学会(1966年)における討議を通じて定められたものである。
ここで話題は、今一度『モンタイユー』に戻るが、 異端審問官ジャック・フルニエが凄腕を発揮したのは、1290年から1320年にかけてのことだった。
カタリ派最期の砦モンセギュール陥落が1244年だから、フルニエは彼の管轄した地域に残るカタリ派の余韻を徹底して消し尽くそうとしたわけなのだ。フルニエはその後出世して、1327年に枢機卿、34年にはアヴィニョンの教皇に選ばれた。法号はベネディクトゥス12世。
ところで、ブラヴァツキーは『シークレット・ドクトリン』で、彼女の『アイシス・アンヴェールド』ではグノーシス派や初期のユダヤ人のキリスト教徒やナザレ派やエビオン派の体系が充分に考察されたといっている。
神智学協会ニッポン・ロッジの前会長の死後に二つに分裂した会のどちらでも『アイシス』の邦訳が会誌に連載されていたはずだと思い、捜してみたが、一方ではナザレ派に関する章は見つかったのに、グノーシス派に関するまとまった章は既に訳出されたのか、まだなのか、見つからず(こちらに入会するのは遅れたので、わたしはある時期からの会誌しか所有していない)、他方では邦訳の進行状況がナザレ派よりずっと前の段階にあって、グノーシス派が考察された章には届いていないことがはっきりしている。
いずれにしても、まだどちらも本になっていないので、仮にグノーシス派に関する邦訳部分があったとしても、ここで勝手に引用するわけにはいかない。
ただ、『シークレット・ドクトリン』でも、ブラヴァツキーの他の著作でも、グノーシス派の文献からの引用はあちこちに散りばめられている。例えば、マドレーヌ・スコペロの『グノーシスとは何か』に、グノーシス派の著者たち自身の文献として『ピスティス・ソフィア』と呼ばれているものが紹介されているが、『シークレット・ドクトリン』にはこれが出てくる。
ナグ・ハマディ叢書の発見は1945年のことで、ブラヴァツキーは1891年に亡くなっているから、彼女にとって『ピスティス・ソフィア』は特に貴重な文献と思われたに違いない。
以下はブラヴァツキー著『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(田中恵美子/ジェフ・クラーク訳、神智学紹介ニッポン・ロッジ、平成元年)の付録――議事録――からの断片的な抜粋にすぎないので、ここで質疑されている内容についてはわかっていただけないだろうが、ブラヴァツキーがグノーシス派を出す場合の方法をお目にかけることはできると思うので、あえて以下に抜粋、紹介しておきたい。以下は質問に対するブラヴァツキーの答えで、ここで話題になっているのは、『ジヤーンの書』と呼ばれる書に出てくる“第二の七者”と“原初の七者”及び“神聖な四者”との関係。
〔略〕魔術師シモンから史上で最も高尚な哲学体系である『ピスティス・ソフィア』にいたるまで、西暦の最初の二、三世紀のグノーシス派の体系を先ず勉強すれば、その関係をもっとよく理解できる、というよりもすべての理解力を超えたものであることが分るでしょう。そうした体系はみな東洋から得たものです。私達が“原初の七者”と“第二の七者”と呼ぶものは、魔術師シモンに“アイオーン”、そして第一、第二、第三のスズキー(対[つい])のシリーズと呼ばれます。それらは等級制の発散物であり、根源的な原理からますます深く物質に降下するものです。シモンは根源的な原理を火と呼び、私達はスヴァバヴァットと呼びます。私達の体系でもそうですが、その火の背後に、顕現したが、沈黙を守る神、即ち、“有り”、“有った”、“永遠に有るであろうもの”が存在します。シモンの哲学体系とそれとを比較してみましょう。
『フィロソフメーナ』即ち、『哲学的思想』の著者はシモンの著作の言葉を引用します。“ 最初の顕現した原理である‘火’(第三ロゴス)は永遠の安定性と不死性を持っているが、その不変性はは活動を排除するわけではないし、そこから発する第二の原理は知性と理性(マハット)をもっているので、火は活動の可能性から活動そのものへと移った。この一連の進化から六人の存在が形成された。即ち無限の力からの発散物である。それらは対の形をとった。つまりそれらは二つずつ炎から発せられたものであり、一方は能動的、他方は受動的であった”。シモンはこれらに霊(ヌース)と想念(エピノイア)、声(フォーネー)、と名称(オノマ)、理性(ロギスモス)と反省(エンテュメーシス)という名前をつけました。“これら六人の原初の存在それぞれの中で、無限の力の全体が存在していたが、活動としてではなく可能性として存在した。その本質と美徳と壮大さと影響力が完全に現れるために、イメージ(模範の)を通してその中で確立されなければならなかった。するとはじめて親なる力のように無限永遠なものとなることができる。一方、もしイメージを通して形成されなかったら、その潜在力は決して無力となり、活動に移ることはなく、使用されないので、なくなってしまう。文法あるいは幾何学の才能を持っている人がその能力を役に立てないと、まるで才能がはじめからなかったように、なくなってしまうのと同じことである。”
アイオーンが高級、中級、低級の世界のいずれかに属するにせよ、みな一つであり、その質料の濃密度が違うだけであるとシモンは言います。質料の濃密度はアイオーンの外的な現れとそこから生じる結果を決めますが、同一のものであるその本当のエッセンスと、不変の法則によって永遠に定められたそれらの相互関係を決めるわけではありません。
さて、第一と第二と第三あるいは原初の七者とリピカはみな一つです。それらが一つの階層から別の階層へと発散して行く場合、それは“上の如く、下も然り”の反復です。質料と濃密度という点で分化していますが、特性では分化していません。同じ特性は最後の階層である私達の世界にも降りて来ます。人間には最高のディヤーニ・チョーハンと同じ可能性が備わっていますが、それをどのように展開したらよいのか分りません。
アイオーンのヒエラルキアに関して、シモンは三つの対を示しますが、七番目のものとは、一つの階層から次の階層に下降する四番目のものです。
リピカはマハットから発します。彼等はカバラでは、四人の“記録する天使”、インドでは人間の各々の思いと行為を記す四人のマハーラージャ(四天王)と呼ばれ、『黙示録」では聖ヨハネは“生命の書”と呼びます。彼等はカルマ及びキリスト教徒が“最後の審判”と呼ぶものと直接関係があります。東洋では、それは“マハーマンヴァンタラの翌日”あるいは“我々と共にあれという日”と呼ばれます。大変に神秘的な教えによると、その時、すべてのものは一つとなり、ありとあらゆる個体は一体となりますが、同時にそれは自らを知るでしょう。しかし、今、私達にとって非常識あるいは無意識と思われるものが、その時に絶対的な意識となるでしょう。
魔術師シモンと呼ばれる人物は、前掲の『グノーシスとは何か』で、グノーシス主義の大物、重要な教師たちとして紹介される人物のうちの筆頭に来ている。ブラヴァツキーは、『ジヤーンの書』に出てくるある重要な寓意を、ここではそれに当てはまるグノーシス派の寓意で解説しようとし、さらにそこに隠された科学的な意味合いを近代的な用語で解説するという骨の折れる作業を続けているのだ。
『ジヤーンの書』については、前掲の『シークレット・ドクトリン』宇宙発生論の上巻に補遺(その1)として編者による註がある。以下。
『キウ・ティ』Kiu-tiは、顕教的にも有名なオカルト文献のチベット語のシリーズの総称的な題目であって、これには寓話と象徴の形で深遠な秘教の教えが含まれている。キウ・ティ=シリーズの最初の巻の一つは『ジヤーンの書』である(ジヤーンはサンスクリット語のディヤーナのチベット風及び蒙古風の発音)。その書には本来の古代の教えが含まれているので、HPBがそれをもとにして書こうと、特に選んだものである。明らかに本来の秘教はキウ・ティ文献中の外部からの関係のない沢山な材料で包みかくされている。『ジヤーンの書』の本当のオカルト部分はキウ・ティ諸巻の最初のほうの一巻であって、主に宇宙発生論を扱っている。
中世のカトリック教会はカタリ派を、そして自分たちの力の及ぶ範囲からグノーシスを根絶したつもりだったのかもしれないが、グノーシス派の哲学はブラヴァツキーの著作の中で生き生きと息づいている。その後、ナグ・ハマディ叢書と呼ばれる大量のグノーシス派の著者たちの文献(古いコプト語の写本)が密封された大きな壷の中から出てきて(発見したのは上エジプトにある村の農民で、発見された場所はナグ・ハマディという場所の洞窟の中)、学術機関での研究も進んできたようだ。
カタリ派はヨハネ福音書を偏愛したことで知られるが、福音書の中ではそれが原始キリスト教の精髄を伝えるものと思われたからだろうし、ヨハネ福音書がそれにふさわしいだけの哲学性(科学性)を備えていたからに違いない。
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