待ちに待ったカルヴィーノ著『マルコヴァルドさんの四季』(岩波少年文庫)の刊行
イタロ・カルヴィーノの『マルコヴァルドさんの四季』が、新訳で岩波少年文庫から刊行されました。関口英子訳です。
訳者あとがきに「日本では、1968年に安藤美紀夫さんの訳で紹介されましたが、ここ15年ほどは、図書館や古書店でしか会えない状態が続いていました。」とありますが、購入して自分のものにしたいけれど、それが叶わないので図書館で読み、図書館で読むだけでは足りずに一部をコピーまでしたわたしです。コピーしたときから、何年経ったでしょうか。
旧訳と新訳のどちらが原文により近いのかはわかりませんが、コピーをとってまで愛読してきたせいか、わたしは安藤訳に馴染んでしまっていて、旧訳で読まなければ物足りない気さえしてしまいます。
わたしがコピーをとったのは、「小さなベンチの別荘」「市役所のハト」「毒入りウサギ」「まちがえた停留所」です。児童文学作品として出合いましたが、勿論、子供にも大人にも読み応えのある作品です。
わたしは特に「毒入りウサギ」を愛してきました。
マルコヴァルドさんは、入院した病院に飼われていた実験用のウサギを盗んでしまうのですが、それは病原菌を注射された毒入りウサギでした。ウサギが、いやマルコヴァルドさんが騒動を惹き起こし、それが終息――つまりウサギが捕獲される――までのドタバタ悲喜劇が描かれています。
ウサギの様子があまりにも生き生きと描き出されているために、自分が毒入りウサギになった気がするくらいです。
実験用に飼われていたウサギの全生涯を想像させる絶妙な描写力、ウサギの矜持すら薫らせる作者の鋭い、それでいながら温かな視点……忘れがたい味わいを残すこの珠玉の一編の中から、ウサギの描かれた断片を安藤訳からいくつか拾い、以下にご紹介しておきたいと思います。
それは、長い、ふさふさした毛の白ウサギでした。ばら色の小さな三角形をした鼻に、びっくりしたような、まるく、赤い目。耳は、ほとんど毛がなく、からだにぺちゃんとはりついていました。けっしてふとったウサギではありませんでしたが、おりがせまいので、しゃがんだ、たまご形のからだがかなあみをふくらませ、そのあみめから、毛の束がはみだして、かるくふるえて動いていました。テーブルの上に、おりの外に、たべのこしの草と、それに、ニンジンが一本おいてありました。マルコヴァルドさんは、そんなせまいおりにとじこめられ、目のまえのニンジンをみながら、たべることができなくて、ウサギはどんなにかなしい思いをしていることだろうと、考えました。そこで、マルコヴァルドさんはおりの小さな戸をあけてやりました。ウサギはでてきませんでした。中にじっとして、ただ鼻だけをぴくぴくさせていました。ニンジンなんかにすぐとびつくほど、がつがつしてはいないんだということを示すために、わざと、口の中のものをかむようなふりをしている。そんなふうにみえました。
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ベランダへでると、子どもたちはウサギを走らせようとしました。でも、ウサギは走りませんでした。みんなは、ウサギを屋根のむねにのせて、ネコみたいに歩くかどうか、みてみようとしました。でも、ウサギは、めまいがしそうなのを、じっとがまんしてるみたいでした。子どもたちは、ウサギがうまくからだの平均をとるかどうかと、テレビのアンテナの上にのせてみました。でも、だめ。ウサギはおちてしまいました。おもしろくなくなって、子どもたちは、つなにしていたリボンをひきちぎって、この小さないきものをはなしてやりました。そこは、ちょうど、みとおしがよく、ウサギの目のまえには、ななめになって、角ばった海のように、屋根がどこまでもつづいてみえました。子どもたちはいってしまいました。
ひとりになると、ウサギは動きだしました。二、三歩あるいてみて、あたりをみまわし、方向をかえて、ひとまわりし、それから小さくぴょんぴょんとんで、屋根のほうへむかいはじめました。このウサギは、おりの中で生まれたウサギでした。それで、自由になりたいというのぞみはあっても、さて自由になってみると、なにをしたらいいのか、よくわかりませんでした。生まれてこのかた、あまりびくびくしないでじっとしていられればしあわせで、そのほかのたのしみなんて、なにもしらなかったのですから。゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。
ウサギは、だまってえさがさしだされるという、このけいりゃくに気づいていました。そして、腹はへっていましたが、たべようとはしませんでした。人間がえさをくれて、じぶんをひきよせようとするときは、いつも、なにか、いやな、かなしいことがおこるのをしっていました。肉のあいだに注射器がさしこまれるか、それともメスか、そうでなきゃ、ボタンをかけた上着の中へむりやりおしこまれるか、それとも、首にリボンをかけてひっぱられるか……。そして、このさいなんの思い出は、いま、じぶんのからだのぐあいがわるいこととからまりあって、一つになりました。ウサギは、じぶんのからだの中のあちこちが、ゆっくりとわるくなっていくのに気づいていました。死ぬかもしれないと思っていたのです。それに、とにかく、いまは、おなかもぺこぺこでした。でも、からだの中のほかのくるしみはなおらないにしても、おなかだけはいっぱいにしようと思えば、いつでもできる。それに、あの信用のおけない人間たちだって、ひどくいじめるだけじゃなく、ばあいによってはじぶんをまもってくれることもあるし、家族のようにやさしくしてくれることもある。そんなことを考えたのでしょうか。ウサギは、ここはひとつこうさんして、人間たちのけいりゃくにひっかかってやろうと決心したようでした。こうして、ウサギは、ニンジンのきれっぱしをたべはじめ、ならんでいるきれっぱしを一つずつたべていきました。もちろん、おわりまでたべていけば、ウサギは、ふたたびとりことなり、火あぶりにでもされたことでしょう。でも、ウサギは、一つほおばるごとに、なんども口をもぐもぐやっていました。土のにおいのする、おいしい野菜をあじわってたべるのも、もうこれがさいごだと思っているようでした。
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ウサギは、銃弾がじぶんのまわりにとびはね、その一ぱつが耳をつらぬいたのを感じました。ウサギは、はっきりとわかりました。これは、宣戦布告です。これで、もう、ウサギと人間たちとのあいだのつながりは、すべてこわれました。ウサギは、人間たちをけいべつし、なんとなく、これは、つめたい恩しらずなしうちだと感じ、いのちがけで、その恩しらずを思いしらせてやろうと決心したかのようでした。
うすい鉄板でおおわれた屋根は、ななめにさがり、そのさきはからっぽ。なにもない、みとおしのないもやがあるだけ。ウサギは、まず注意ぶかく四本の足でふんばり、それから、どうにでもなれと思いました。こうしてウサギは、からだの中も外も病気にむしばまれて、屋根をすべり、あとは死ぬばかり。屋根のへりで、ほんの一瞬、ウサギはといにひっかかり、それから、からだのつりあいをうしなって、下へ……。
そして、ウサギは、とうとう、はしごのてっぺんまでのぼってきた消防士の、手ぶくろをはめた手の中におちました。ウサギは、あくまで、動物のさいごをかざるにふさわしい、おおしい態度をとろうとしたので、にげようともせず、そのまま救急車にはこびこまれました。救急車は、フルスピードで病院へとむかいました。車の中には、マルコヴァルドさんにおくさんに、子どもたちものせられていました。からだのようすをみながら、いろいろなワクチン検査をするために、病院へ強制収容することになったからです。〔イタロ・カルヴィーノ作『マルコヴァルドさんの四季』(安藤美紀夫訳、岩波少年文庫、1977年〕
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