ジェイ・ルービン『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』(畔柳和代訳、新潮社、2006年)を読んでⅠ
村上春樹の作品を世界的なヒットにつなげた男ジェイ・ルービン。翻訳家、元ハーバード大学日本文学教授。
ジェイ・ルービン『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』(畔柳和代訳、新潮社、2006年)冒頭に、「本書のための調査研究をはじめるにあたり、社会科学研究協議会およびアメリカ学術会議協議会の日本研究のための合同委員会から、全国芸術機構の提供による助成金を受けた」とあった。
ネット検索したところ、ルービン氏の奥さんは佐賀県の小城出身で、よく佐賀を訪れるという記事が出てきて、びっくり。世界は広いようで、狭い……?
春樹の生い立ちから作家になるまでの経緯、作品が世界的にヒットするまでの経緯がよくわかる。ルービン氏は日本文学の研究家とあるが、評論能力には不足を感じる。
とはいえ、この本を読むと、彼が同じ創作スタイルを保っていることが村上春樹の作品を全部読んだわけではないわたしにも、わかる。気分に任せた、自動筆記のような書き方で、そこに主観的な歴史観を注入したような創作法。
大作を構想中だったが、それは恐らく余りにも大作でありすぎたのだ。というのは、それは「不思議な紆余曲折を経てぱっくりとふたつに細胞分裂し、」次の二作の長編『国境の南、太陽の西』(1992)と『ねじまき鳥クロニクル』になったのである。前者は以前の作品で仕残したことの総仕上げとなり、後者は歴史研究の成果を得て、多くの評者たちから村上の傑作と見なされている。
肝心のルービン氏は二作をどう見ているのか。
以前の作品で村上春樹が仕残したことの総仕上げという『国境の南、太陽の西』だが、何度読み返しても、ルービン氏のいうセールス・ポイントが作品のどこにあるのか、わたしには呑み込めなかった。
「資本主義の原理に対して『ノオ』と言った、1980年代後半、70年代初期の反抗的な学生たちの一人でありながら、いまは『より高度な資本主義の原理』に従って機能する世界で生きている」というハジメ。
バーとジャズ・クラブを経営し、結婚して小さな娘が二人。経済的独立への近道を義父の金によって得たという罪悪感を自覚し、「これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな」とふと思ったりするハジメの前に島本さんという幼馴染が現れ、関係を深めていくが、彼女は実在の人物とも幻想の産物ともつかない存在。
妻に島本さんのことを打ち明けたあとで、「私の考えていることが本当にあなたにわかっていると思う?」と尋ねられ、今度は妻の心へと入っていく。
ここで購入したばかりの『国境』の最後の辺りを確かめてみると、ハジメを責める妻の言葉は案外生々しい。妻であれば、いいそうな言葉だ。
ただ、ルービン氏はハジメが妻の心に入っていくと解説しているが、ハジメが妻の心に本当に入っていったようには、わたしには読めない。『ノルウェイの森』のワタナベくんがそうであったように、相変わらずハジメは相手をわかろうとする代わりに、欠落だのたどり着かないだのと自分のことばかり。
傷ついた妻の言葉の生々しさから判断すると、島本さんのような女性と実際にハジメは浮気をしたのではないだろうか。それにも拘らず、彼はそのことを幻想化して自分をも妻をも欺こうとしたかに思える。わたしにはそうしか読めない。
ところで、学生運動世代の村上春樹はどんな大学生活を送ったのだろうか? 以下は、ルービン氏の著作からの引用である。
翌年、早稲の学生ストライキは、五か月にわたり授業をすべてつぶした。だがバリケードが築かれたあとも、村上は集団行動に惹かれることはなかった。彼はセクトの一員としてではなく、つねに自分自身として行動した。「学園紛争に個人的に興味があったから、出入りがあると石を投げたり、殴り合っていた。ただ、バリケードとかデモとか、組織で何かやるようなことは不純だと考えていたから、参加しなかったなあ」。(デモで)「手を繋ぐことを考えただけでぞっとした」と述べている。やがてライバルの過激派グループ同士が衝突するようになり、村上の心はいっそう離れていった。彼はのちに『ノルウェイの森』でキャンパスの過激派たちを風刺する。そのなかに、二人の活動家が授業を乗っ取る場面がある。
何とまあ、驚くべきことが書かれているではないか。村上春樹は作家としての自覚以前に大人としての自覚を欠いていると感じていたが、ここでは、子供の意識のままで大人になりかけている彼の青年期の姿が浮き彫りになっている。
わたしが学生だった頃は学生運動の残照があったというくらいだったが、それでも学生運動に関わり――極左翼だったのだろうと思うが――、成田へ出かけ(三里塚闘争)、火炎瓶を投げて逮捕された人を知っている。長く続いた裁判が相当に応えていたようで、憔悴している姿を見たことがあった。その後は逮捕されないような社会の枠内で、活動を続けていると彼の奥さんから聞いたことがある。「彼の活動にあまり賛成はできないけれど、思想を貫いているところは立派だと感心せざるをえないわね」と奥さんはいっていた。
村上春樹もどう言い訳しようが、学生運動に関わっていたわけである。逮捕されなかったのは、運がよかっただけの話だ。その自覚がない。当時がそうだったというのであればともかく、 今尚そのような自覚のなさなのだろう。
ルービン氏は次のようなリポートもしている。
芦屋市で過ごした中学時代については、教師に殴られた記憶しかないと書いている。村上は教師たちを嫌い、彼らは勉強しない村上を嫌った。神戸高校に進んでからも勉強はしなかった。ほとんど毎日のように(大好きだが下手な)麻雀をして、女の子と遊び、ジャズ喫茶や映画館に入り浸り、煙草を喫み、学校をさぼり、授業中に小説を読んでいたが、落ちこぼれたことはなかった。
若いころのこうした経験を見るかぎり、彼は大勢のなかで目立たないままでいてもおかしくなかった。格別ストレスをもたらさない、静かな郊外に暮すいい子だった。
いえいえルービンさん、あなたの認識は間違っています。村上春樹は当時の日本の基準からいえば、立派な不良です。
これは重要なことだと思うが、村上春樹には、物事を単純化してレッテルを貼りつける癖がある。オウム事件の暴力も第二次大戦における日本軍の暴力も、あるいはこれは想像の域を出ないが、教師から殴られたという暴力も、春樹の頭の中では一緒くたとなって溶解し合い、同じレッテルが貼られているのではないだろうか。
暴力沙汰のみならず、何事も、見かけほど単純ではない。原因が複雑に絡んでいることが多く、一緒くたにはできないのだ。文学は本来、単純に見える物事の舞台裏――その複雑な事情――に理智の光を当てるものではなかったか。
その辺りのことを考えながら、ルービン氏の著作を追って、今度は『ねじまき鳥クロニクル』を見てみたい。〔続〕
※関連記事:評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』
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