フランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイ著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ』(上野直子訳、岩波書店)
生誕100年ということで、岩波書店から 、フランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイ著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ』(上野直子訳、2009年2月26日)が出た。
ヴェイユの秀才ぶり、哲学者アランとの邂逅と薫染、本来の美貌に意義を唱えるかのような服装、赤い乙女と異名をとった社会活動、キリスト教への接近と次第に濃厚となっていった神秘思想への傾斜、風評を呼んだ死にかた、残された諸作品に散りばめられた煌くような思想の断片……哲学には馴染めない一般人にも、人気の高いヴェイユといってよいが、新しく出たこの本は、これまで書かれた評伝類でもさりげなく触れられてはいたが、ヴェイユの摂食障害(拒食症の傾向)を積極的に解明しようとし、科学の光を当てている。
まだ全部を読んだわけではないが、ヴェイユの育った家庭が、それまでわたしが読んだ評伝類を通して想像していた以上のブルジョア家庭であったことを知った。ヴェイユの父親は内科医で、「何世紀にもわたってストラスブールに定住していたユダヤ人大商人の一族の出」であり、母親は「多くの国で輸出入業を展開していた裕福なユダヤ人実業家一族の出」なのだそうだ。相当にお金持ちの家系なのである。
また両親の過保護ぶりも詳しく知ることができる。過保護というには病的なほどで、お金がなければ、ここまで過保護になることはできないだろう。ヴェイユには、想像以上の抑圧でもあったのではないだろうか。
例えば、ノルマンディー海岸でのヴェイユの体験は印象的だが、その背景にも両親の保護が働いていたのだ。彼らは「娘の精神のバランスにこの種の激しい仕事が必要であることを感じとり、一足先にノルマンディーに出向いてシモーヌが漁師の仲間に加えてもらえるように骨折った」のだった。
これは深刻である。ヴェイユの行動が、両親の過度な介入のためにどこか戯画化されるほどだ。彼女の何事につけ極端な傾向は、両親との関わりのなかで丁寧に見ていく必要があると思える。
ヴェイユが晩年、キリスト教神秘主義に傾斜したその態度には、明晰さに忍び込むあまやかな霧のような、如何にもキリスト教的盲目性と信仰的ムードが感じられ、わたしが影響を受けてきたブラヴァツキーの神智学のような神秘主義的態度とは明らかに違う。
例えば、よく彼女の神秘体験として紹介される覚書にあるような体験は、一般的な観点からは特異であるのだろうが、わたしはさりげなく書き残されたその覚書の彼女独特の厳密さとロマンティシズムとが溶け合わさったような美しい表現にこそ注目するのであって、彼女の体験そのものを過度に重要視することには胡散臭さを覚える。その体験ゆえに、聖女といわんばかりの書きかたをしたヴェイユ関係の本は多いように思う。この本でも、切り札のような使われかたをしていて、それはどうかと思ってしまうのだ。
尤も、こうしたことにわたしが胡散臭さを覚えるのは、わたしがブラヴァツキーの神智学のような筋金入りの神秘主義に浸かっているからであるにすぎない(一般的観点からは、偏見に満ちた異議主張ともとれよう)。わたしが傾倒してきた神秘主義では、肉眼には見えない存在にも知性の光を当てることが重要になってくるため、ヴェイユが書き残したような現象をただありがたがったり、忌み嫌うだけといった態度はとれなくなってくるのだ。
実は、わたしにも、生涯に一度だけの体験ではなかったかと考えている、当時は天使とも女神とも想われた存在との接触があった。その存在を見たのはありふれた場所で、塾の教室だった。わたしはまざまざと見たのに、わたしのすぐ傍にいた助手仲間にも、塾のオーナーにも、見えなかったらしい。
わたしたちが仕事をしていたテーブルから、いくらか距離を置いたところに、さりげなくその人は立っていた。掃き溜めに――というとオーナーに失礼になるが、要するにありふれた場所といいたい――鶴、とはこのことかとわたしは思った。
何という眉目の繊細さ、まなざしの美しさであったろう。その人は、これまで見たこともなかったような素材でできたごく軽やかにフワフワとして見える、薔薇色を帯びたドレスのようなものを纏っていた。ただならぬ美しさ、煌きに満ちたその人は、状況から考えると、おそらく生徒の母親で、パーティーを抜け出してきたとしか想われなかったが、あまりにも場違いな現象に、わたしはどう解釈してよいのかわからなかった。
我を忘れるほどだったが、かろうじてお辞儀をすると、その人もお辞儀をした。それは、その人がまるでわたしの侍女でもあるかのように遜った、それでいて気高い感じを受ける、この世のものならぬ優雅なお辞儀の仕方だった。
わたしは、鈍感な助手仲間に注意を促した。彼女は仕事の手を休めて、わたしの見るほうを見、しばらくその方向を注視したあとで不審そうにわたしを見ると、苦笑しただけだった。次いで、塾のオーナーに注意を促したところ、目で叱られた。『何をしているの、早く、仕事をしなさい!』
その直後に、生徒に注意をとられたということもあって、その人から目を反らした少しの間に、その人はいなくなっていた。後日、喫茶店でそのときのことを助手仲間に問い質したところ、わたしが彼女に注意を促したときのことは覚えていて、そのとき彼女には、わたしが目で示した場所には何も見えず、わたしの行動を変に思ったとのことだった。
今にして思えば、そのとき、わたしは思想の転換期にいた。大学時代からキリスト教と、それに対峙される形でヨガやいわゆる秘教といわれてきた(門戸が一般に開かれている現在では秘教ではなくなっているのだろうが)神秘主義に惹かれてきて、どちらに行こうかと迷っていた。両者の思想にはダブるところもあるだけに、迷いは深まった。
あるとき、神父さんたちの宿舎のある黙想の家を訪ねようとしたときのことだった。そこへ出かけるのは、何回目だっただろうか。わたしは庭の像を見ながら歩き、洗礼を受けるかどうか考えていた。そのとき、ある男性的な響きがわたしの内部で響き渡り、驚いて足を止めた。「そこでは、お前の満足は到底得られない!」と声は忠告したのだった。
人にいえば気違いと思われるので、文章にする以外は人には話さないが、わたしにはあの世の空気と前世に関する微かな記憶があり、子供の頃から見守りを感じてきた。そのひとグループの存在から来る忠告は、小さな頃はわたしには叱責と感じられることが多かったが、次第に干渉が少なくなり、最近ではその存在をほとんど忘れている。見放されたのかと思うこともあるほどだ。
それで、そのときの忠告もわたしには自然に感じられたのだが、臍曲がりなわたしは、その声をあからさまに無視して、黙想の家のほうへ断固として足を向けた。
わたしの迷いはその後も深まるばかりだった。そして、卒業間際に母が倒れ、『枕許のレポート』に書いた内的な体験があった。天使か女神かと思うほどに美しい人を見たのは、そのしばらくあとのことだったから、今思えば、神智学ではいわゆる『見えざる助力者』(一般的な言葉では守護霊というべきか)といわれる存在が思想的な節目に現れて、神秘主義への門出を祝福してくれたのだろう。
わたしはもうお亡くなりになった神智学の先生に、自分の様々なフシギ体験を話した。すると、それは不思議でも何でもないそうで、便宜上神秘主義には神秘とついているが、神智学の辞書に神秘を意味する言葉はなく、人間に解明はされてなくても、全てに科学的な原因があるという。
尤もなことだとは思ったが、何となくつまらない気がして、相変わらずわたしは自身のフシギ体験をもとに、自分は狂人か特別な人間かという観点で揺れた。幸い先生は長生きされたので、自分を特別視したり蔑視したりする習慣は、先生の手紙で叱責されたり、意見されたり、励まされたりすることで、ほぼなくなった。
人は凡庸なわたしを見て、ヴェイユの体験とおまえの体験は所詮違うというかもしれない。だが、わたしが見た存在とヴェイユが接した存在に、神と幽霊ほどの甚だしい隔たりはあるまいと考えている。
こうしたことを書いたのは、ヴェイユの思想のすばらしさはすばらしさとして、一方に苦しさというか、ある限界を感じるところがあるからである。
このところ、あまり自分の時間がとれないため、今、中途半端にヴェイユのある限界を論じるわけにはいかない。したがって、ここでは、上に書いたものをヒントとして置いておくにとどめたい。
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