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2009年2月18日 (水)

まずはハンドメードで裁判(自身の弁護)にチャレンジ(するしかない)。

 昨日の裁判疲れで、今日は寝たり起きたりですが、ブログに書いても構わないと思われる範囲内で、忘れないうちに記録しておきたいと思います。

以降の記録は、裁判には全くの無知、右も左もわからない一庶民の単なる覚書に過ぎないことをお断りしておきます。記憶違い、理解不足で、どんな間違ったことを書かないとも限りません。くれぐれも、信頼できる記述として参考になさったりはしませんように。

 地裁は家裁と同じ敷地内にあり、家裁が学校の古い校舎的趣だったとすれば、地裁は比較的新しい校舎という感じで、外観も内部も本当に学校そっくり。

 指示された法廷に入ると、ドアを入ってすぐに裁判官見習いの席があって、青年の裁判官見習いらしい男性が座っていました。そして、裁判官の席に裁判官、その真下に書記官の席があり、裁判官に向かって左側に原告席、右側に被告席。下方が傍聴席となっていました。

 傍聴席には自由に入れます(傍聴希望者が多くて入りきれない場合は整理券が発行されるのでしょう)。今回の損害賠償請求事件とは無関係の娘共々、わたしたち被告は指示されたように傍聴席に入りました。父夫婦は廊下に近い傍聴席に既に着席していました。わたしたち被告は窓際の席へ。

 現れたわたしたちの顔を見たときの父の嬉しそうな顔。それは、このように場には不向きな、身内に会えた喜びの表情でした。ふたりとも、一昨年の夏、家裁で会ったときとほとんど様子は変わっていず、元気そう。身なりもよく、おしゃれでした。確かに、そうした姿を見ていると普通に見えます。

 二つの別の事件に関する口頭弁論が先に行われました。最初の事件は離婚に関するものでしょうか。原告席、被告席に着席したのは、どちらも若手の弁護士という感じ。簡単な確認作業が裁判官との間でなされ、所要時間は10分ほど。次の事件は企業に絡んだものでしょうか。頭がもしゃくしゃなこれも弁護士と思われる中年男性が重そうな記録簿のようなものを抱えて原告席に座り、裁判官との間でごく簡単なやりとり。所要時間はせいぜい5分。

 父夫婦は事前に専門家のアドバイスに従って訴状と準備書面を作成したものと思われますが、本人たちで裁判を進めるようです。何がナンだかわからないまま、濡れ衣を着せられて被告席に引っ張り出されたわたしたち被告も弁護士を代理人とはしていませんでした。素人相手では裁判官もやりにくいのでしょうが、お役人的なエラそうな雰囲気を漂わせていて、態度、口調は冷淡な印象。

 まず、原告、被告席に着席した人間が本人かどうかの確認が行われ、欠席した被告の1人である伯父について理由が訊かれました。

 被告は6人です。欠席した伯父を含めて、5人は身内の人間ばかり。一昨年の調停で顔を合わせたメンバーです。他の1人は、明らかに濡れ衣を着せられた小児科医。

 伯父は高齢で、交通事故後に記憶が曖昧となり、健康状態も悪いために欠席したが、欠席については、事前に書記官から答弁書の提出があれば可能との言葉があったことを被告の1人である従兄が説明しました。

 次回からは、原則として欠席は認められないとのこと。病気などの正当な理由がある場合は、事前に診断書などを提出して許可をとるようにとのことでした。その場合も、延期になるだけなので、いずれにせよ、出席は不可欠です。そして、弁護士以外の代理人は認められないそうです。

 弁護士を雇えない人間は、張ってでも出席しなくてはならないのでしょうか?

 「前もって診断書の提出が必要とおっしゃいますが、わたしは心臓疾患を抱えており、前日までは出席可能な状態であったとしても、当日の朝、発作が起きて出かけられないという場合もありそうなのです。その場合は、欠席が認められますか?」と、裁判官に尋ねてみました。

 その場合は電話でその旨、担当の書記官に連絡し、後で診断書を提出すれば、認められるだろうという回答でした。口頭弁論の日が延びるだけですが。

 法廷では、特定のスタイルに従って事務的な確認作業が流れ作業的に行われるだけ……というわたしの印象です。

 その特定のスタイルを呑み込めている専門家同士で事を進めたいという思いが裁判官、書記官には見え見えで、若い女性の書記官から再三、「被告は人数が多いのですから、弁護士費用を頭数で割れば1人分の負担額は軽くなりますよ」と、暗に、次回からは被告全員で1人の弁護士を代理人とすることを勧められました。

 わたしは嫌ですね。いける限りは、ハンドメードでGO!です。だって、手付金だけで50万円だとの書記官の言葉です。その金額がこの先、どれくらい膨れ上がるものか、想像もできません。裁判というものは金持ちに有利という以上の強圧的な何かがあると感じさせます。 

 仮に身の潔白を証明できたとしても、父に被った被害の損害賠償を求めようと思えば、こちらが訴訟を起こさなければなりません(父夫婦が起こした訴訟と同時進行で進めることはできるそうです)。

 月一度のペースで進められることになるらしいこの裁判が終わるまでに、どれくらいの日数を要するか、従兄が裁判官に尋ねました。このような損害賠償請求事件では通常は半年、内容が複雑であれば1年以上と、はっきりしたことはいえないようです。

 裁判官は、被告全員の答弁書が全て身に覚えがないとなっており、これでは取っ掛かりが掴めず、片方はやったといい、他方はやらないという水掛論となるばかりで、裁判が進められないと困っていました。

 それなら、いくら、訴状や準備書面(口頭弁論は書面で準備されることが必要で、これを準備書面といいます)のスタイルを踏んでいるからといって、内容的にはろくに読めもしないような訴えをなぜ通すのか、という疑問がわきます。反論しようにも訴状が読めないのですから、反論しようがないのです。

 おそらく被告全員にわいたこのような疑問を従兄が代弁して、裁判官に質問しました。裁判官の回答は、スタイルを踏んでいれば、裁判所は中立の立場から、訴えを通さざるをえないというものでした。

 変な中立もあったものです。弁護士と裁判所が儲けるのに都合のよい中立ですね。 

 スタイルさえ踏んでいれば、例え、「被告は、*年*月*日に、魔法で化石から恐竜を甦らせて原告の車を踏みつけさせた、被告は原告に対し1億円支払え」というような荒唐無稽な訴えでも通るというわけです(父夫婦の訴えは、内容的にはこれと大した違いはありません)。

 そして、訴えられた側は、応戦するか、認めて1億円払うかの道しか選べないというわけです。訴えられ損では済ませるわけにはいかない理不尽さが、現行の裁判制度には存在すると感じられてなりません。

 わたしは裁判官にいいました。「一昨年、原告は同じような内容の訴えを家裁に申し立てました。それは不成立に終わりました」

「あなたは原告とはどんな関係にあたるのですか?」と、面倒臭そうに裁判官。「原告は父にあたります」とわたし。「調停とは違い、裁判では、裁判官は何らかの結論を下さなければなりません。不成立ということにはできないのです」と裁判官。

 呑み込みの悪いわたしにも、ようやくわかってきたことがありました。要するに、裁判官は白紙の状態なのです。父夫婦が提出した訴状と準備書面のスタイルを書記官にチェックさせただけで、何の予備知識もないわけです。

 わたしは、裁判官が訴状、準備書面の内容を把握してくれているものと勘違いし、また彼がこの内容では裁判が進められないとして、中断を宣言することを期待していました。

 でも、現実には、裁判官に人間的な対応を期待するわけにはいかないということがわかりました。裁判官は人間というより、コンピュータですね。原告の訴えはインプットされているが、被告の訴えがインプットされていないため、コンピュータは作動しないのです。

 わたしが自分のパソコンにいくら話しかけたところで通じないのと同じで、コンピュータを作動させるためには、入力作業(準備書面の提出)を行わなければなりません。

 次回の口頭弁論までの課題として、被告には、準備書面を事前に提出して原告との身分関係や仲が悪くなった経緯などを書くようにとのこと、また原告には、証拠となる文書なり何なりを提出するようにという指示が裁判官から下されました。

 次回の出頭は1ヶ月後です。

 書記官は弁護士を雇う気がないわたしたちのために、準備書面の書きかたをコピーして被告全員に配ってくれました。

 原告の精神鑑定の請求ができるかどうかを尋ねると、認められれば可能となるが、準備書面には、今後、精神鑑定依頼も検討しているくらいに書いたほうがよいでしょうという書記官のアドバイスでした。

 仮に父夫婦に精神鑑定の必要が認められたとして、そのための費用は当然、こちらが持つことになるのでしょうね。いくらくらいかかるのでしょう。何を書くにも慎重にならなくてはなりません。

 妹から、裁判の前に、父夫婦が某銀行に何度も出向いて、訴状にあるようなあらぬことをいい、業務妨害を行ったと聞いていました。銀行は、訴えることまでは考えていないとか。その銀行には妹の友人が勤めていて、父は彼女と顔見知りでした。わたしと同学年の男性もいるようで、彼はわたしを知っているといっていたそうです。故郷では、どれだけ噂が拡がっていることやら。

 被告の1人である小児科医は高齢であるため、女性が付き添っていました。この女性はたぶん小児科医の後妻です。「訴状は読めたものではありませんでした。わたしはお母さんを知っていましたが、こんな財産をめぐる骨肉の争いに巻き込まれて、本当に迷惑です。今日は病院を休診にしてきたんですよ」と彼女。

「父と争ったことはありません。ご主人と同じ立場です」と、わたしはいいました。この国の法律では、人格は個別のはずです。わたしが彼女に文句をいわれる筋合いはありません。父とわたしが結託でもしているというなら、話は別ですが。

 子が親の犠牲になるのは、過去の時代のことだとわたしは思っています。ホームページに収録中の『救われなかった男の物語』は、それをテーマにした小説です。

 小児科医の先妻は、亡くなった母の友人でした。慎ましやかな、優しい女性でした。ひどい離婚のされかたをしたと聞き、ご主人はひどい人だと思っていましたが、医師は寡黙な男性で、後妻は露骨な女性。女性が主導権を握ってのことかしら。まあどうでもいいことです。

 ただ先妻の女性であれば、まともだった頃の父をご存知のはずで、力になって貰えたかもしれないと思います。力になってくれそうな人は、父が仲違いするか亡くなってしまいました。

 書記官によれば、調停のときの書類は証拠品として提出できるそうです。調停のときの書記官を参考人として招くことができたら、いいのですが。

 訴状のなかに、わたしが原告である父の奥さんを精神分裂病と侮辱したとあり、その件も損害賠償請求の対象となっています。他の記述は読めたものではないので、ここを取っ掛かりにしたいと考えています。

 わたしは父が再婚した早い時期から、奥さんには精神疾患が隠れているのではないかという漠然とした不安がありました。そして、その後、それに間違いないだろうとほぼ確信し、父にお医者に見せたほうがいいのではないか、とこっそりといいました。あくまで、身内としての心配からでした。

 わたしが奥さんの精神疾患を疑ったことが正しいのか間違っているのかはわかりませんが、その動機となった証拠品があります。それはペリカン便で届けられた小包に貼られていた宛名ラベルです。

 それには自筆で、実家の住所のところに奇妙なことが付け加えられていたのです。「ポリス前九電(?)」と。実家の近くには警察関係の建物も九電もありません。電信柱は家を出てすぐの道に立っていますが。本当に奇妙な書き込みに思えました。

 いつか裁判沙汰になることまでは予感しませんでしたが、それまでにもおかしなことがあったため、その記録をとっておこうと思い、わたしはノートを作りました。

 そのノートの書き出しのページに、わたしはその宛名ラベルを貼りつけています。ラベルにある日付は、平成10年12月13日となっていました。

 そのラベルの横にわたしの自筆で、「亡き母の遺留品(その中には父母が結婚したときの記念品の木でできた刀なども入っていた)や、わたしが家に置いてきた本などが送られてくる。小包の件で電話を入れたところ、義母が出、彼女がいうには、亡き母が夜中に出てきて、果物ナイフで、まな板をトントンやっていたとのこと。母の持物やわたしの本が家にあると気持ちが悪いから送ったという」

 父はこの頃は正常で、奥さんと仲よくしながらも、よく叱ったり、宥めたりしていました。わたしたち姉妹との交際もありました。

 この頃、奥さんが、妹にはわたしの、わたしには妹の悪口ととれるようなことをよくいっていました。後に確かめたところでは、奥さんの虚言とわかりましたが、当時はわからず、そのことで、わたしたちは疑心暗鬼となり、姉妹の仲が悪くなったほどでした。

 ノートの次のページには、2件の記述があり、
「H12.5/8 父の友人のMさんに、祖母の葬儀に出席いただいたお礼のハガキを書いたことに対し、父より怒りの電話あり。よけいなことをするなとのこと。Mさんは平服で出席されていた。そのことで父は怒りをぶつけてくる。」

「H12.8/11 妹から電話。実家に電話をかけたら、『もしもし』と言ったとたんに電話を切られたとのこと。(後日)再び実家にかけたら父が出て、Mさんをわたしと妹が共謀して葬儀に連れてきたといって怒ったらしい。お盆に行こうと思い、家にいる日を訊いたが『わからん』という怒った返事が返ってきただけとのこと。」

 この頃、父はひどく怒りっぽくなっていて、交際のあった親しかった人々を次々と切っていっていました。Mさんは、穏やかな紳士で、わたしたち姉妹とも話したことがありました。本当に優しいかたでした。

 わたしが父の友人に葉書を書いたのは、この1回きりです。だんだん変化していく父に不安を覚え、せめてMさんには父の傍にいてほしいという思いが、そんな行動をとらせたのだと思います。

 Mさんは持ち前の優しさから、勿論自発的に、車で1時間以上かかる葬儀にいらしてくださったのでしょう。Mさんが平服で出席なさっていたというのは父の言葉であって、それが事実だったかどうかはわかりません(礼儀正しい日頃のMさんから考えて、平服でというのは不思議な気がします)。

 このあと、こんなことを綴ることが虚しくなり、ノートを中断してしまいましたが、続けていればよかったと思います。

 証拠品になるかどうかはわかりませんが、このノートは提出するつもりです。

 日記にはあれこれ書いていると思うので、以前の記憶を確認するためにも、読み返さねばなりません。

 奥さんは新婚の頃、わたしに、「育ての親は伯母だけど、仲が悪くなって、好きな伯父の遺骨を持って青森の家を飛び出したの。東京に長くいたけど、寒いから大阪に引っ越して、震災で怖くなったから九州に来たのよ」といいました。父と結婚する直前に離婚していているようです。

 彼女は、地区の人の紹介で父と知り合ったときはスーパーでレジを打っていました。乙女座の几帳面そうな女性で、わたしは彼女に病的なものを感じてはいても、決して嫌いではありませんでした。

 夫と同じ年齢で、お母さんというより、お姉さんができたような感覚でした。それで誕生日にプレゼントしたり、正月と盆には実家に帰りましたが、しつこすぎても嫌われると思い、それ以外には、父から何かいってきたときくらいしか連絡しないようにしていました。

 ノートに書いた頃まではそのような交際がありましたが、その後、連絡をとるのが怖くなり、こちらからは連絡しなくなりました。でも、季節の変わり目になると、実家から何かしら怖ろしいことで電話がかかってきました。

 ノートに宛名ラベルを貼りつけたときから、10年が経過しました。その間、わたしたち姉妹には平安というものがありませんでした。

 青森には、奥さんの伯母さんがいるはずですが、夫の遺骨と共に失踪した姪を、気も狂わんばかりに心配しているのではないかという想像がわたしには繰り返し起こって仕方がないのです。

 どうしてこんなことになったのか、昔の奥さんはどんな印象の人だったのか、青森の伯母さんを訪ねてみたいくらいですが、住所も何もわかりません。あの当時でさえ、訊こうとしたら、詮索している、結婚に反対しているととられかねませんでしたから。

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