ローザンヌ歌劇場オペラ『カルメン』を観て
10月22日に、ローザンヌ歌劇場オペラ『カルメン』を観に出かけてから、今日まで、記事にしておきたいと思いながら、できなかった。違和感が大きすぎたためだった。
闘牛場の前で展開するはずのシーンが演出家ベルナールのアレンジにより、赤い、けばけばしい寝室に置き換えられていて、ベッドシーンが長々と繰り広げられた。さすがに衣装は身につけたままなのだが、ベッドを転々としての絡みのシーンが長かった。
闘牛場での死闘を愛欲シーンに重ねるのは、いくらなんでも無理があるだろう。
何しろ演じるのは俳優ではなくて、オペラ歌手たち。ホセ役の男性は太め。カルメン役の女性は太めというわけではなかったけれど、脚は結構がっしりしていた。目の遣り場に困っただけでなく、見苦しかった……。このシーンだけではなく、いろいろと違和感のある演出だった。あれでは原作者メリメと作曲者ビゼーに気の毒だと思った。
メリメの作品を読めばわかるが、カルメンもホセも鋭い知性を隠し持っている。どこにでもいそうなねえちゃん、あんちゃんではないわけだ。それは、ホセがカルメンを刺す前の二人のやりとりからもわかる。長くなるが、メリメ作『カルメン』(杉捷夫訳、岩波文庫、昭和4年)から以下に引用しておきたい。
――カルメン、おれと一緒に来てくれるか? 私は女にこう言いました。
女は立ち上がり、器を投げ出しました。それから、いつでも出かけますという風に、ショールを頭にかぶりました。宿の者が馬をひいて来ました。女は鞍のうしろに乗りました。そうして二人はそこを遠ざかりました。――じゃ、私のカルメン、お前はほんとに俺と一緒に来てくれるのだね? 少し行ったところで、私はこうききました。
――わたしは死ぬところまでお前さんについて行きますよ。それはよござんす。しかしもうお前と一緒には生きていないから。
さびしい谷あいにさしかかりました。私は馬をとめました。――ここかい? こう女が言いました。そうして、ひらりと身をひるがえしたと思うと、馬からおりていました。ショールをぬいで、足下に投げつけました。腰の上へ、握ったこぶしをあてがい、私の顔を、穴のあくほど見つめながら、じっと立っています。
――私を殺そうというんだろ。ちゃんと知っているよ。書いてあるから。だがね、お前さんの心には従いませんよ。女はこう言いました。
――この通りたのむのだ。冷静になってくれ。おれの言うことをきいてくれ! なあ、過ぎたことは全部水に流すのだ。だが、これだけはお前も知っているだろう。おれの一生を台なしにしたのはお前だぞ。おれがどうぼうになったり、人殺しになったりしたのは、お前のためだぞ。カルメン! おれのカルメン! おれにお前を救わせてくれ。お前と一緒におれを救わせてくれ。
――ホセ、お前さんはできない相談を持ちかけているんだよ。私はもうお前さんにほれてはいないのだよ。お前さんはまだ私にほれているのさ。お前さんが私を殺そうというのは、そのためだ。私はまだお前さんにうそをつこうと思えば、いくらでもできるけれど、そんな手数をかけるのがいやになったのさ。二人の間のことは、すっかりおしまいになったのだよ。お前さんは私のロムだから、お前さんのロミを殺す権利はあるよ。だけど、カルメンはどこまでも自由なカルメンだからね。カリに生まれてカリで死にますからね。これが女の答でした。
――じゃ、お前はルーカスにほれているのか? 私はこうききました。
――そうさ、私はあの男にほれましたよ。お前さんにほれたように、一時はね。たぶんお前さんほどには真剣にほれなかったろうよ。今では、私は何も愛しているものなんかありはしない。そうして、私は、お前さんにほれたことで、自分をにくらしく思っているんだよ。
カルメンは、自身及び他者を的確に把握し、その行く末を見通して自らの運命に意思決定を下すだけの感性と知性を備えた、聡明な女性として描かれているだけではなく、彼女の出自であるジプシー民族の性(さが)……そのアウトローとしての生き方、野性味、したたさか、奔放さ、情熱、情深さ、迷信深さ、滲み出る生活苦、哀感、天性の踊り子、といった特性をも絢爛豪華にまとった極上の女性として描かれているのだ。
よく観察すれば、一見、自由奔放に見えるカルメンは、実は、ジプシーという運命共同体にがんじがらめに縛られていて、死ぬ自由しか持ち合わせていないことがわかる。複数の男たちを操る魔性の手管でさえ、商売道具として身につけざるをえなかった技能ともいえるのだ。
それがベルナールの演出で見ると、ただの頭もお尻も軽い、気晴らしのためには何でもする類の男女の、退屈なやりとりでしかない。時代設定からして、1820年のスペインを舞台としてこそ、ジプシー民族の置かれた当時の環境から、カルメンの前掲の特性が自然に出るのであって、それを1930年代に置き換えることには無理があったのではあるまいか。
出演者たちも演奏も、こぢんまり感はあったが、決して悪くはなかっただけに、残念だった。まあ、フランスのオペラらしい洒落た趣向をそれなりに凝らしてあったのが救いではあった。
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