イングマール・ベルイマン監督作品を観る そのⅡ~『叫びとささやき』
〔イングマール・ベルイマン監督作品を観る そのⅠ~『処女の泉』へ〕
イングマール・ベイルマン監督作品『叫びとささやき』を観た。
深紅に染まってしまったかのような画面、登場人物の動き及び回想シーンが織り成す緊迫感、音の効果が相まって心を奪われ、最初から最後まで目が話せなかった。
が、就寝して目覚めると、あれほど強烈だった印象は薄れて、病、愛憎、性、死といった重いテーマを仰々しく持ち出しているわりには、それらへの肉薄度の薄い、案外薄っぺらな作品に想えてきたのだから不思議だった。
その前に観た『処女の泉』に好感を抱かなかったせいだろうか、とも考えてみたが、そんな先入観は観ているうちに消えていたのだ。
何しろ登場人物――3姉妹の長女カーリン、次女アングネス、三女マリーアを演じたイングリット・チューリン、ハリエット・アンデション、リブ・ウルマンの熱演ぶりが圧倒的だったから。
それにも拘らず、前回と似た感想に落ち着いてしまった。時間が経って、作品全体を俯瞰してみたとき、女優たちの秀逸な演技もポーズばかりが際立つという印象を受ける。テーマとは別のところで、彼女たちの熱演は空回りをせざるをえなかったかのようだ。
内容に欠陥があるのだ。
例えば、外交官の夫を持つ長女カーリンが、夫婦愛の欠如に苦悩し、体ばかりを求めてくる苛立ちから、食事中にうっかり壊してしまったワイングラスの欠片で陰部を傷つける衝撃的な場面。
血だらけになった股間を彼女は夫に曝け出すのだが、彼女がそこまでする相手である夫は、一面的な描かれかたで、戯画的というか、あまりにもステレオタイプなのだ。豚に真珠も度を超すと、無意味なだけでなく、滑稽になってしまう。
また、次女アングネスが死後に、早くも遺体が腐りかけているという状況下で、愛情の欠乏感から成仏――いや昇天できず、三女にすがりついてくるホラーさながらの場面。幻想シーンと見るには、生々しい描きかただ。
では、なぜ、そこまでアングネスは愛情に飢えているのかというと、一応は、子供の頃に母親の愛情を充分受けられなかったこと、3姉妹のなかで1人だけ独身を通し実家に残っていることなどで理由づけがなされている。
自分の子供を亡くしている忠実な召使いアンナが、病んだアングネスの母親代わりとなっていて、苦しむアングネスの頬に豊満な乳房をあてがう場面などあり、このアングネスは子宮回帰願望があるのかと想わせるが、考えてみれば、彼女は立派な中年なのだ。
アングネスには子供時代と現在しか存在しないような描かれかたで、彼女の人生はまるで書き割りであるかのよう。大邸宅の女主人として中年まで生きるとすれば、それらしい交際や仕事がいやでも出てくるはずで、お人形のようにはしていられないはずだ。
女主人としての矜持や上流階級人らしい生活の複雑な襞が微塵も感じられないのは不自然だし、第一、あれほどの大邸宅なのに、アングネスの死後、使用人の今後として遺族の話題に上ったのはアンナだけ。
アンナひとりで、大邸宅の家事から病人の介護までこなしていたというのか? アングネスの母親代わりまで務める余裕はないだろう。
話が前後するが、ここでストーリーをざっとご紹介しておくと、上流階級に生きる3姉妹のうち、次女のアングネスだけが独り身で、実家である大邸宅で暮らしている。
長女も三女も、結婚生活はうまくいっていない。三女マリーアはかかりつけ医でアングネスの主治医でもある通いの医師と不倫関係を続けている(この設定も不自然ではないだろうか)。夫はそれに気づいていて、自殺未遂した過去があるにも拘らず――である。
アングネスの病が篤くなり、姉カーリンと妹マリーアは実家を訪れる。3姉妹の仲は装われたもので、特に姉カーリンと三女マリーアのあいだには確執がある。カーリンは偽善的なマリーアが嫌いなようだ。
アングネスは、ほとんど悶死という格好で亡くなる。たが、安置された遺体からすすり泣きが聴こえ、愛情を乞う声がする。姉カーリンはそれを拒絶し、三女マリーアは一旦死者に寄り添おうとするが、腕を巻きつけられて絶叫し、逃げ出す。
召使いのアンナが、遺体に寄り添い、辛うじて死者の迷いを鎮めるのに成功したようでもある。
弔いが済み、召使いアンナは解雇されることになる。間もなく去らなければならない大邸宅にひとり残された彼女は、女主人であったアングネスを偲びながら日記帳を開く。
そこにはありし日のアングネスの字で、気分がよかった日に姉と妹が見舞いに訪れてくれ、白い日傘をさし、白い優美な衣装で庭に出た、至福のひとときのことが綴られていた。
そしてこの映画は、「こうして、ささやきも叫びも沈黙に帰した」というエンディングの言葉で終る。
ベルイマンはおどろおどろしい赤色の世界から姉妹を回想の美しい自然の中に配置して、感動的に映画を終りたかったのかもしれないが、どうしてどうして、それは無理というものだろう。
妄執と化したアングネスの霊がこれで昇天できたとは、とても思えない。
ベルイマンはこの映画で、病、愛憎、性、死といったどれも一筋縄ではいかない、互いに関連し合った重いテーマに真摯に取り組んだのではなく、飾りとして散りばめたのだ。
だから、登場人物にしても、設定にしても、適当なものでよかったのだ。彼は細部に懲りたかったのだろう。
ただ、ベルイマンの真情らしいものが籠められているとしたら、それは『野いちご』でも感じられたことなのだが、幸福は過去の回想の中にしか存在しないという結論なのではあるまいか。
だが、過去にしか存在しないような幸福とは、感覚的なものか幻想かであって、そこへの回帰願望とはデモーニッシュなものなのだ。
なぜなら、それは新約聖書にあるイエスの御言葉――心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし……というような生きかたに反するからだ。
なるほど、大邸宅の壁、カーテン、絨毯など、ふんだんに使われていた赤色は、不安をそそる如何にもデモーニッシュな色合いだった。マリーアが不倫相手を挑発したとき、彼女は赤いものを身につけていた。カーリンの血の赤。
過去を美化し神聖視するには、現在はデモーニッシュな、忌まわしいものでなければならない。
アングネスの今わの際が必要以上に怖ろしげに描かれ、死後ですら安らぎを与えられなかったのも、カーリンとマリーアが事情のはっきりしない結婚生活の泥沼で苦悩し続けなければならないのも、そのためなのだ。
ごく若い頃にこの映画を観たとしたら、映像美に酔い、内容を深読みできたかもしれない。
でも、わたしは幸か不幸かオバサンで、現実には――人の死は、大自然と不可分なものであり、愛憎も相手あっての複雑な事情が絡んだものだと知っている。
人が今わの際に発することのある叫び声も、下顎呼吸の音も、確かに怖ろしいが、それは決して、ベルイマンが描くような悪戯に騒々しいだけのホラー的なものではなく、大自然との結びつきを想わせるだけの何かが籠もっているものだ。
何度か経験した人の死のあとの遺体の傍で、わたしはいつもバルザックの『谷間の百合』に描かれた場面を思い出した。その描写は美化されたものではなく、事実に忠実だと思わせ、人の死はバルザックの時代も今も同じなのだなあ、と感動してしまうのだ。
あれほど苦しんだ同じ場所で、今や彼女は安らかな眠りについています。それは私にとって、死と親しくまじわるはじめての経験でした。
私は、すべての嵐がしずまったことを示す彼女の清らかな表情と、その肌の白さに目を奪われて、いまなお私の目にはあまたの感情を宿すかに見えながら、もはや私の愛にこたえようとはせぬアンリエットの顔を、一晩中ただじっと見つめてすごしました。
そこにはどれほどの考えが示されていたことでしょう。その絶対の休息には何という美しさが、その不動の姿にはなんという人を威圧する力がこもっていたことでしょう。
そこではまだすべての過去があとをとどめながら、すでに未来がはじまっているのです。
◇バルザック『谷間の百合』(石井晴一訳、新潮文庫、昭和46年)◇
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