フランスの女性哲学者シモーヌ・ヴェイユのメモ~ノートにはさまれていた不思議なメモを田辺保訳でご紹介
かれはわたしの部屋へはいってきて、こういった。「なにも理解せず、なにも知らぬあわれな者よ。わたしといっしょに来なさい。おまえが思ってもみないことを教えてあげよう。」わたしはかれのあとについて行った。
かれは、わたしをとある教会へ連れてきた。新しいが、あまり美しくない教会だった。かれは、わたしを祭壇の前までみちびいてくるとこういった。「ひざまずきなさい。」わたしはこたえた。「まだ洗礼を受けておりません」。かれはいった。「真理が存在する場所の前に出たときと同じように、愛をこめてこの場所でひざまずきなさい」と。わたしは、いいつけられたとおりにした。
かれは、外に出なさいといい、こんどは屋根裏の一室へ上らせた。そこからは、開いた窓ごしに、町の全体が、材木を組んだいくつかの足場が、荷おろしをしている船が何隻かもやってある川が見えた。かれは、すわりなさいといった。
わたしたちふたりのほかに、誰もいなかった。かれは話した。ときどき、誰かが入ってきて、会話に加わったが、すぐまた、出ていった。
もう冬とはいえない頃だった。といってまだ春にはなっていなかった。木々の枝は、まだ蕾をつけず、裸のまま、冷たい空気の中で、日ざしを浴びていた。
光がさしのぼってきて、輝きを放ち、そして薄らいで行った。そのあと、星と月とが窓から入りこんできた。それからまた新しく、明けの光がのぼってきた。
ときどき、かれは黙りこんで、戸棚からパンをとり出してきて、わたしたちは分けあって食べた。そのパンは、まさしくパンの味がした。その味にはもう二度と再び出あうことがなかった。
かれは、わたしにぶどう酒をついでくれ、また自分にもついだ。太陽の匂い、その町が建っている大地の匂いがするぶどう酒だった。
ときどき、わたしたちは、その屋根裏部屋の床の上に横になった。甘い眠りがわたしの上にくだってくるのだった。そして、目がさめると、わたしは太陽の光を吸いこんだ。
かれは、教えをさずけようと約束していたのに、なにも教えてくれなかった。わたしたちは、古い友だちどおしのように、とりとめもなく、種々雑多なことを話しあった。
ある日、かれはいった。「さあ、もう行きなさい」と。わたしはひざまづいて、かれの足に接吻をし、どうかわたしを行かせないでくださいと切に願った。だが、かれはわたしを階段の方へと抛り出した。わたしは、何もわからず、心は千々に砕かれて、階段を下りて行った。いくつもの通りを通りすぎた。そして、あの家がどこにあったのかを、自分が全然知らずにいることに気づいた。
もう一度あの家を見つけ出してみようとは、決してしなかった。かれがわたしを連れにきてくれたのはあやまりだったのだと、さとっていた。わたしのいる場所は、この屋根裏部屋ではない。それはどこだっていい。刑務所の独房でも、つまらぬ装飾品やビロードで飾りたてたブルジョアの客間の一室でも、駅の待合室でもいい。どこだっていいのだ。だが、この屋根裏部屋ではない。
ときとして、わたしは、おそれと後悔の気持をおさえかねながら、かれがわたしにいったことを少しばかり、自分で自分にもう一度いいきかせてみずにいられないことがある。わたしがきちんと正確におぼえていると、どうしてわかるだろう。そうわたしにいってくれる、かれはもういないのだ。
かれがわたしを愛していないことは、よくわかっている。どうして、かれがわたしを愛してくれるはずがあるだろうか。それにもかかわらず、なおかつ、おそらくかれはわたしを愛してくれているらしいと、わたしの中の奥深くの何ものかが、わたしの中の一点が、おそろしさにふるえながら、そう考えずにいられないのだ。
☆―シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』(田辺保訳、勁草書房、1976年)
《プロローグ》より―☆
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