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2007年11月25日 (日)

ドラマの闇市の情景、ブログの世界、ミシュラン騒動

 一昨日だったか、NHKで、長谷川京子の出てくるドラマを見るともなく見ていて、闇市のシーンに、あっと思ったことがあった。

 ブログの世界は、闇市とかのみ市に似ていると思ったのだ。価値のありそうなものもなさそうなものも、何もかもごっちゃに存在するところが。

 ブログランキングに参加するようになって、特にそう感じるようになった。その世界では、プロのブログと一般人のブログが前後して並んでいたりすることが珍しくないからだ。

 そしてつくづく、本来プロというものは社会的に作られるものなのだなあ、と思った。それは、文学賞に応募していて、しみじみと思ったことでもあった。

 わたしが応募してきた文学賞のうちのある賞では、最終選考までいけば、作品は作品集に収められる。

 栄冠に輝いた作品も、そうでない作品も、同じ体裁のもとに作品集に顔を並べていて、それを読んだ限りでは、賞による格付けがあろうがなかろうが、少なくとも社会的な格付けの薫りはしない。

 ところが、この栄冠に輝いた作品が商業雑誌に掲載されたり、さらに運がよくて芥川賞という社会的認知と栄誉を授かったりしたならば、背後に円光が見えてくる。それは社会が作り出した輝きだ。

 実際、商品化される段階で、掘り立てのじゃがいも同然だった作品に、校正の手やデザインの手や宣伝の手などが四方から伸びてきて磨き立て、マイ・フェア・レディへと仕立てるわけなのだろう。

 そして、落選したひと群れの作品は、半ば土に埋もれたまま、どうともなれといった雰囲気で打ち捨てられる。そのじゃがいもの中の僻みっぽい1個は、「同じ穴のムジナだったはずじゃないか!」と悔しがったりもするだろう。

 現実には、最終選考までいければまだいいほうで、わたしのような応募者の場合、数撃ちゃ当るで、あちこちに応募したところで、果たして作品が先方に届いたのかどうかもわからないまま終ることも少なくない。

 そんな状態が長年続くと、心身ともおかしくなって当然だが、ただ、馬鹿ではない限り、これは当然の茨の道だという覚悟があるものだと思う。

 そして、本当にプロになりたい人間は、最初から茨の道なんぞ歩いたりしてはいない。大変な努力と苦労を重ねているかもしれないが、その道は、茨の道とは性質が違う。

 ゴッホがなぜ、生前世に出られなかったか。当ブログ内ランキング入りした、

10位:芥川賞候補、川上未映子の詩『私はゴッホにゆうたりたい』を読む

の中では、わかりきったことなので書かなかったが、それは彼が、当時の流行、傾向というものを作り出し、金銭の流れを作り出していた商業主義に乗らなかったからなのだ。プロになりたければ、何よりもその流れに乗りたいという意思表示を行う必要があるのだ。

 つまり、ゴッホは、その流れに乗るどころか、その流れを作り出している当時の社会、価値観というものに否を唱えた人間なのだ。優秀なブローカーであれば、その臭気はすぐに嗅ぎわけるだろう。

 ゴッホは、まぎれもない異端児、革命家だった。

 いつの時代にあっても、芸術家が孤高の存在とされるのは、その時代の価値観に警鐘を鳴らし、否といえる人間だからなのだ。埋もれたまま朽ちることを、物ともしないからなのだ。

 とはいえ、そこはゴッホも人間だ。悲しいことに、肉体もあれば義理も人情もあっただろうから、いろいろあって当然だったろう。赤ん坊の甥に捧げられた『花咲く巴旦杏の枝』の輝かしいまでの純真さ、伸びやかさを見れば、彼がどんなにヒューマンな人であったかがわかる。

 ところで、テレビで、わが国の料理店にも下されたというミシュランガイドの評価が話題になっていた。書店勤めの娘は、『ミシュランガイド東京2008』の注文が殺到して、「ああ~もう嫌だあ」といっていた。

 が、フランス本国では批判の声も多いようだ。そのご大層なフランス臭い箔を、わが国の料理店につけたりつけなかったりして、新たな金銭の流れを作り出そうというわけか?

 ミシュランから受けた評価を維持するには、とてもお金がかかるという。

 プロになるということも、アマにはわからない代償を払うということだろうし、本物の芸術家を目指す人間は、少なくともブローカー並みには嗅覚が発達しているはずだから、そもそもそれが面倒なヤカラといえるのかもしれない。

 わたしは幸か不幸か、才能の乏しさということがあって、どっちつかずの生きかたしかできないが、今の世に生まれて幸運だったと思っている。

 そもそも芸術が大衆的になった現代に生まれていなければ、物を書く真似などできなかっただろうし、とりわけこうしたインターネットの普及とブログの流行には恩恵を被っている。

 高いお金を出して自費出版しなくても、無料のブログサービスを利用し、作品を日記のように綴るだけで、気が向いた人々に読んで貰えるありがたさ。綺麗なテンプレートが沢山あって、まるで挿絵をつけて貰ったような素敵な体裁で、自分の作品を眺めることができる高揚感!

 そして、ふと見れば、隣に同じような顔つきでプロのブログがあったりする不思議さ。

 こうした不思議といえば不思議な現象といい、ミシュランが極東の日本に上陸した(都落ちした?)異様な出来事といい、これは資本主義が行き着くところまで行った狂い咲き現象と捉えるべきなのか。あるいは、既に資本主義世界は崩壊しかけていて、世界的な闇市状態が出現しかけているということなのか……。 

関連記事:ゴッホ①「ゴッホの絵、パンのオブジェ」
              ゴッホ②「ゴッホとゴーガンにおけるジヌー夫人」

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