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2007年10月31日 (水)

最愛の子にブッダと呼ばれたガブリエラ・ミストラル―その豊潤な詩また神智学との関りについて②

このところ、わたしは婦人科的なトラブルと思われるものを抱えて、検査を受けていた。そんな中で、脳裏をよぎったのは、円地文子の小説であったり、ガブリエラ・ミストラルの詩であったりした。

彼女たちが、女性ならではの苦悩を深く考察し、それを作品化した人々だったからだろう。彼女たちが、共にスケールの大きな歴史観の持ち主であることは、偶然ではないと思う。

そして今日、ミストラルの詩集「母たちのうた」に収められた『母たちのうた』から1編と『いちばん悲しい母のうた』を当ブログで紹介しようとして、これがいつ書かれたのかを確かめようと、「ガブリエラ・ミストラル詩集 双書・20世紀の詩人 8(田村さと子訳、小沢書店、1993年)巻末の年譜を見た。

そのとき偶然、わたしの目がとまったのは、1912年 23歳 神智学の会〈デステージョス〉に入会する。(略)」の一文だった。

稲妻に打たれたような衝撃と、次いで、感動が走った。何て、馬鹿だったのだろう! この貴重な一文を見落としていただなんて。ああ恥ずかしい! やはり、ガブリエラ・ミストラルは神智学の影響を受けていたのだと思った。

実は、何という神さまの悪戯か、その神智学という印字が薄くなっていて、文字が拾いにくかった。

それに、わたしはたぶん、この詩集を開くときは詩を読むことを中心とし、彼女の生涯を知るにはもっぱら『ガブリエラ・ミストラル――風は大地を渡る――』(芳田悠三、JICC出版局、1989年)に頼っていたため、詩集の年譜は大雑把にしか見ていなかったのだろう。

チリのノーベル文学賞詩人ガブリエラ・ミストラルは、間違いない、近代神智学というブラヴァツキーによって確立された思想の影響を受けていた! わたしの直観は正しかった! ――とわたしは興奮してしまった。

前掲の伝記『ガブリエラ・ミストラル――風は大地を渡る――』では、ミストラルと見神論との関わりが7頁に渡って書かれている。

その文章からすると、どう読んでもこれはブラヴァツキーの神智学だなと思ったが、見神論という訳語にしても、神智学という訳語にしても、ドイツの神秘主義者ヤーコブ・ベーメ(1575-1624)の思想を意味する言葉でもあるのだ。

つまり、神智学と訳されていても、ベーメの思想を意味することもあるから、情況は同じともいえるが、特に見神論と訳された場合は、ヤーコブ・ベーメの教義を意味することが多いため、確信を得ることができなかったのだった。

だが、もう間違いないだろうと思う。ミストラルは神智学の影響を受けているに違いない。何より、彼女の詩からそれは薫ってくるものだ。

次の記事で、『ガブリエラ・ミストラル――風は大地を渡る―― 』で描かれた神智学とミストラルの関わりかたを採り上げたいと思うが、ここではひとまず、『母たちのうた』から〈よろこび〉と『いちばん悲しい母のうた』をご紹介しておきたい。

独身で通したミストラルは、37歳の頃、異母弟の子とも実子ともいわれるファン・ミゲル・ゴドイ・メンドーサを引きとり、ファン・ミゲルが17歳で自殺するまで共に暮らした。

ミストラルはファン・ミゲルをジンジンと呼んで可愛がり、ファン・ミゲルはミストラルをブッダと呼んで慕ったという。ジンジンに自殺されてしまったミストラルだったが、彼女は20歳のときにかつての恋人ロメリオ・ウレタにも自殺されている。苦悩は如何ばかりだったろう。

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   母たちのうた

〈よろこび〉

 
ねむりについた吾子を抱いて わたしの歩みはしめやかだ。神秘を抱いてから わたしの心は敬虔だ。

 愛の音を低くして、わたしの声はひそかになる、おまえを起こすまいとして。

 いま この両眼(め) いくつもの顔の中から心底の痛みを探しだす、なぜこんなに青ざめた瞼をしているかを わかってもらいたくて。

 鶉(うずら)たちが巣をかけている草の中を 親鳥の思いを気づかいながらゆく。音をたてずにゆっくりと野を歩く、木々やものものには眠っている赤ん坊がいるから、身をかがませて気づかっているものの傍に。

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   いちばん悲しい母たちのうた

〈家を追われて〉
 父は わたしを追い出すといい、 今夜すぐにわたしをほうり出してしまうように と母にどなった。

 夜はなまあたたかい。星あかりをたよりに、わたしは隣の村まで歩いてゆかれるだろうけど、もし、こんな時間に生まれたら どうしよう? わたしの嗚咽が、呼び起こしてしまったのだろう たぶん、たぶん わたしの顔が見たくなって出てくるのだろう。そして むごい風のもとで震えるだろう、わたしがぼうやを包みこんだとしても。

〈どうして 生まれてきたの?〉
 
どうして生まれてきたの? おまえはこんなにかわいいのに だれもおまえを愛してくれはしないのに。ほかの赤ん坊たちのように、わたしのいちばんちいさな弟のように おまえが愛嬌たっぷりに笑ったとしても おまえにくちづけしてくれるのはわたしひとりだけなの。おもちゃがほしくてそのちっちゃな両掌をゆりうごかしても おまえの慰めはこの乳房と わたしのつきない涙だけなの。

 どうして 生まれてきたの、おまえを選んできたあの人は この腹部におまえを感じとるとおまえをうとんじたのに?

 そうじゃないのよね。わたしのために生まれてきてくれたのね。あの人の両腕(かいな)で抱きしめられていたときでさえ、ひとりぼっちだったわたしのために、ねえ、ぼうや!

『ガブリエラ・ミストラル詩集―双書・20世紀の詩人8』(田村さと子編訳、小沢書店、1993年) 

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