「あけぼの―邪馬台国物語―」連載第87回
翌238年、公孫氏は終に魏の司馬(しば)氏率いる大軍に討たれました。
その時、宮殿では御前会議の席が既に用意され、女王が自らの考えを繰りひろげておいでになりました。
「僕は会議の行方以上にね、女王様が夜ご就寝になるまでの体力の残量があとどれくらいかと、気が気ではありませんでした」と、タルがわたしに打ち明けました。
乳人とわたしは庭で小さな姫君のよちよち歩きを見守りながら、「いくらもしないうちに、ご誕生からまる1年におなりですね」などと言い交わしていたところでした。
滴るばかりであった草木の緑が和らいで、御子の玉のような手足に水のように優し味のある光がふんだんに注いでいました。御子のオーラがきらきらと輝く透明なケープのように見え、両手を突き出してよちよちなさるその御姿が天翔ける天の童のようで、微笑をそそられます。
木陰でタルからわたしが会議の話を聞くともなく聞いている時(注意が姫君に奪われてしまっていましたので)、イサエガはひそかに、公孫氏政権の高官が日本列島に亡命する手引きをしていたのでした――。
(イサエガ! イサエガがこの局(つぼね)にいる!)
御子の寝所であり、乳人とわたしが寝起きしているきよらかな局に、どうしてイサエガが忍び込むことができたのか、わかりませんでした。
ぐっすりと寝入っていたわたしは、いつの間にか、夜の庭に連れ出されようとしていました。イサエガは、声をあげようとしたわたしの口を掌で覆いました。苔に伏した桃色の花びらのようにお休みになっていらっしゃった御子も、乳人も、幸いなことに、恐ろしい深夜の出来事には関わらずに済むようです。
木陰にイサエガは、わたしを打ち捨てました。そして、呆然としているわたしに、彼は気色ばんで詰め寄るのです。
「何ゆえ、御子にばかりかかずらう? 聖なる御巫(みかんこ)だから、とは言わせぬ。まだ得られていない、人としてのごく普通の恵みを必要としているみどりごは、あまた、いる。そなたに、聞いているのだ。何ゆえ、あのみどりごにばかり、かかずらうのか、と」
問い詰められて、わたしの心は大空に縋りました。どうしてこの男は、非常識なやり方でわたしの内部に入り込むだけでなく、わたしの心の琴線を、掻き切らんとするばかりに掻き鳴らすことができるのでしょう……?
磨かれたように冷え冷えと光る夜半の月です。〔続〕
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