ひとりごと(父の問題 その九:調停第1回)
家庭裁判所で8年ぶりかで父に会い、そのときからわたしの心は幸福感と物哀しさで乱れていて、全て忘れないように書いておこうと思いながらも、父によって投げかけられたものが大きすぎるので、途方に暮れてしまう。
父がイカれて見えていても、根本部分では侵されていないことがわかったこと、若干のスキンシップができたことはわたしを有頂天にさせたが、その他の面では事態は一層深刻さを増した気がしている。
父が申立人として持ってきた文書類(土地家屋の権利書とか船員年金明細とか税金に関するものだとか古い数冊のパスポートだとか)の中に、母と妹が書いた手紙が混じっていて、これこそが父の疑惑の焦点だとわたしにはわかった。
父が偽造されたと主張する文書類のことを話す口ぶり、目つきは、とても正気の人とは思えないものだが、それらの手紙のことを話すときの父の目は落ち着きを取り戻し、明晰な光を宿していて、とてつもなく大事なことを訴えようとする人のまともな動揺が見てとれた。
父の頭を整理のつかないものにしている文書類も、2通の手紙も、全ては父のお宝なのに違いない。申立人である父はそうしたものを全部、男性書記官と男女の調停委員2名とわたしたち相手方5人が囲む円卓にぶちまけた。
お蔭で、わたしは父の経済生活に関し、具体的に知ることができた。船員年金はありがたいもので、父たち夫婦はかなり豊かな暮しが送れていることは間違いなかった。父が死んでしまい、奥さんだけになったら、船員年金は遺族年金と変わるが、それでもそれは彼女の暮しを支えるに充分なだけの金額となるだろう。
父夫婦は無分別な経済生活をしている風でもなく、生活面はしっかりしている様子が見てとれた。
わたしは父夫婦が経済不安からおかしくなったのではないかという危惧を抱いていたのだが、そうではなさそうだった。父たちをおかしくさせたのは物質的なことではなかったのだ。
船員としての海での生活、陸での家庭生活、そのどちらの過去も父にとっては大事なもので、誇りでもあり、円卓にぶたまけられたお宝は、そのあかしだった。
けれど、その中でとりわけ父にとって貴重と思われる今は亡き母の手紙が父を異様に明晰にさせすぎるために、結果的にそれは父をイカれさせる素となっていて、同時に現在の奥さんの惑乱を惹き起こしていた。
そして、父が訴えていることは、父自身は気づいていないけれど、法的な領域にあることではなく、文学とか哲学とかといったわたしがなじんできた分野の問題だと思えた。
結論からいえば、調停は不成立に終る可能性が高い――と男性の調停委員がいった。
なぜなら、父はあれこれ訴えるのだけれど、どの訴えにも内容がないからだという。内容がないというのは、損害の事実が伴っていないという意味だ。父は文書偽造でわたしたち5人を訴えたわけなのだが、調停委員2人と書記官の目には、それらの文書は何の異常もないものに映ったようだ。
いずれにしても、それら過去のやや黄ばんだ文書類は、父の権利をいささかも侵してなどいない。
とはいえ、イカれている父を納得させるのは難しいだろう。このような場合、裁判官に入って貰って決着をつけることもできるという。そうなれば、父とこの家庭裁判所との関係はなくなってしまうので、父のよりよき今後へとつなげるためには調停を続けたほうがよいということになった。
裁判所には医師も看護師もいるそうで、次回の2回目においてではなく、3回目の調停で医師を交え、父の様子を診て貰うことができそうだ。それには、医師が同席する理由付けが必要らしいが。そして、今後のことをいえば、結局はこれまで通り、福祉の力を借りながら父たちを見守っていくことになるだろう。裁判所はそうすすめてくれた。
説明が後先になるが、家庭裁判所は「裁判所」とだけ大きく表示された場所にあった。学校の校舎のように見える、長方形の建物の背後にある建物がそうだった。教室のように見える部屋がいくつも並んでいた。何階建だったかは確かめていない。
書記官室で受付を済ませると、待合室に案内された。そこには先に来ていた父の実家の人たち(父の兄、その息子。父の妹)がいた。再会を喜び合い、近況報告などして、わたしの持参したデジカメで記念撮影をした。フワリとあたたかな感触に包まれて、わたしは嬉しかった。
何のことはない、父が呼び出したのは、父が一番好きなはずの人たちだった。わたしたち姉妹がその中に入っているということは、父はわたしたちもとても好きなはずだった。が、このときはわからなかったが、父はその好きな人たち全員に裏切られたと思っているのだろう。
父の留守中、最愛の妻が死んでしまったのはわたしたちのせいだと――。父が持ってきた古い母の手紙を読み、母も罪なことをして死んでくれたものだと正直いってわたしは思った。
母の手紙は美しすぎた。
父が母の生前から母にべた惚れで、しかし、その愛情には独りよがりなところがあると子供のわたしは感じていた。父は、新しい奥さんとの閉鎖的な暮しの中で、死んでしまった妻を理想化し、恋しさを募らせていったのに違いない。
そのことが現在の奥さんを追いつめた。
母は可愛らしくて、賢い人だった。だが父は、亡き妻がどれだけ頑固で行動的な人間だったかを忘れているに違いない。その妻に自分や、わたしたち子供がどれだけ振り回されたかを、父は忘れているようだ。
待合室のわたしたちは別室に呼ばれ、そこで、父の申立について心当たりがあるか、訊かれた。そして、申立に内容がないこと、認知症のような病気を疑ってもいるが、まずは父の申立通り、調停に入りたいということだった。
調停室に入ったとき、父の後姿が見えた。久しぶりに見る父は小さく見えた。父を囲んで、わたしたちは円卓についた。わたしは父の左隣に座った。
容貌は、如何にも老人という感じになってしまっていた。禿げた頭には洒落た帽子をかぶっているが、帽子の下から出ている乏しい頭髪は、白いというより黄色く見えた。父は硬い表情をしていて、「誰にもだまされないぞ。俺と家内の権利を守り抜いてみせる」とでもいいたげだ。
純白のシャツには、オレンジ色に近い赤のカフスボタン。ネクタイの代わりに、ボウタイを七宝焼きでとめていて、ボタン穴に小さな船の形の木製のブローチをつけていた。普通の人がこんな恰好をしていると滑稽だろうが、父の場合、船員で海外の生活が長かったからか、お洒落をすると、ちょっと白人のように見えるところがあり、案外、似合っていたりもするのだ。
が、やはり、いくらか滑稽ではあった。若い頃は端正だった容貌の面影もないせいだろうか。帽子のせいもあるのか、卵型だった顔が上と下から押しつぶしたように短く見えた。何より目つきが無機的な感じで、知性の働きが阻害されているための容貌の変化ともとれた。
でも、わたしは父がお洒落をしているのが嬉しかった。思わず、「久しぶりね、お父さん。わぁ、そのブローチすてき。自分で作ったの?」といってしまった。すると、父はかつてのような反応を示したのだ……!
わたしは父が一瞬、戸惑いと恥じらいと喜びの混じった雰囲気を漂わせたのを見逃さなかった。そして、「そうさ、俺が作ったさ」と、父はわたしは見るような見ないようなシャイな素振りをし、自慢げにいった。船のブローチには波の代わりにガラスの粒を散りばめてあって、売り物になりそうなくらい、よくできていた。趣味も衰えてはいないようだ。
ところが、文書偽造の訴えとなると、明らかに常軌を逸した人にしか見えない。調停委員たちは、法的な見地から辛抱強く相手をし、もつれた父の認識を正そうとしてくれる。向かい側に座った叔母(父の妹)が、わたしのほうを見て小声で、「兄さん、変ったね。面影もないわね」としきりにいう。
父はあちこちの弁護士や司法書士に相談に行ったようだ。どこへ行っても、相手にされなかったのだろう。女性の調停委員は、父が、どこそこの町の弁護士などと口にしただけで、「ああ、それは○○さんのところね」と、隣の男性調停委員に囁いていた。
調停委員は、原則として40歳以上70歳未満の人で、社会の各層から選ばれるようだが、女性の調停委員は法曹界のネットワークに通じている法律の専門家――おそらく弁護士――と思われた。調停委員にもピンからキリまでいるようだが、わたしたちは調停委員に恵まれたのではないだろうか。予定時間をオーバーしてまで、相手をしてくれた。午後2時から6時近くまでも……。
あらぬ父の訴えを聞いているうち、わたしは情けなくなり、父の腕に触れていった。「しっかりしてよ、お父さん」すると、またしても父は、わたしの触れたところを、まるで宝物でも見るように、眩しそうに見、明らかに嬉しくてたまらなさそうな雰囲気を漂わせたのだ。
それで力を得たわたしはついに、いいたいことをいってしまった。「お父さんは奥さんとふたりだけでスイートホームを作るために、わたしたちを遠ざけたのでしょう? 結婚生活、破綻してるんじゃないの? だからって、わたしたちのせいにしちゃあ、だめよ」
冗談めかした口調でいったせいか、皆はどっと笑った。いわれた父はといえば、まるで少年のように頬を赤らめたのだ!
一応全員揃っての話し合いは終わり、廊下をうろうろしていた奥さんが入ってきた。硬い表情だが、彼女もお洒落をしている。カナリア色のスーツは、以前の彼女であれば着なかった類の服だろう。父の影響だろうか。
わたしには彼女が何を仕出かすかと思う怖ろしさがあるのだが、なぜか憎めない。彼女なりの懸命さが伝わってくるからだろう。わたしは「お久しぶりです。お元気ですか?絵は、描いています?」といった。
彼女は手を振りながら、「うるさい、うるさい、あっちへ行って!」という。わたしはショックを受けたが、彼女の存在を確かめたい気持ちに駆られ、「あら、つれないのね。せめて、握手しましょうよ」といって手に触ったら、「汚らわしい!」と振り払われてしまった。調停委員たちから、刺激しないようにと注意された。
彼女の敵意は本物だ。父とは反応があまりにも対照的だった。8年前は、感情をあからさまに表現する人ではなかった。
裁判所の人たちは父たちと伯父たちを帰したあとで、再びわたしと妹を呼んだ。書記官、調停委員たちと話した。そのとき、途中から看護師が加わり、話を聞いてくれた。
父と奥さんに被害妄想があることは明らかで、こうした妄想を「物とられ妄想」というらしい。父の被害妄想が認知症から起きているものかどうかは医師が診察してみなければ、何ともいえないらしい。ただ、調停委員たちは父の話し方におかしさは感じないそうで、看護師によれば被害妄想だけの病気――パラノイアである可能性があるという。
治療を受ければ治るのかと訊くと、難しいケースも多いとのこと。2人一緒におかしくなることがあるのかどうかがわたしの一番の疑問としてあったのだが、「わりとあります」と看護師さん。一方のおかしさが他方に影響を与えて2人ながら、というケースは案外あるのだそうだ。
いずれにしても、行政が介入して強制的に診察を受けさせるのは、他人からの被害届が出たときなどの最終手段ということらしい。
女性調停委員が「遠くから出ていらして大変でしたね」とねぎらってくれ、わたしは「いいえ。これまで妹とふたり、父のことでは悶々として悩んできました。それが、こうして専門家の方々の助けを得ることができ、本当にありがたいと思っています」といった。
父の希望、そしてわたしの希望もあって、次回の調停では奥さんも加わることになりそうだ。何とか彼女を安心させ、楽しい暮しに導く手立てはないものか。こうなった責任はわたしは父にあると思っているが、その父からして助けを必要としている。
父がこだわる母と妹の手紙については今はお話しできないが、父が最もこだわりを見せる問題については、また別の機会に書きたいと思っている。次回の調停で、こちらからそれを採りあげて貰うよう働きかけるべきかどうかは迷っているところだ。
父は母に生き返ってほしいとすら思っているのかもしれないが、ではその母が生きていた頃の父が幸福そうだったかというと、それほどでもなかった気がする。酔い痴れて、自分だけの孤独感に浸り、その孤独を母やわたしたち姉妹に押し付けていたではないか。
その父の悪酔いをやめさせる役柄は、いつもわたしに回ってくる。
父は、もっと若い頃に文学書を読むべきだった。そうすれば、孤独は人間全ての宿命であることがわかるだろうに。自分だけが孤独と思っている人間が、この世の中には多すぎる。(父の問題 その十へ)
※「父の問題」は、サイドバーのカテゴリーにあります。
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