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2007年7月21日 (土)

村上春樹とオルハン・パムクについて若干

 昨日一日考えていたのだが、同人雑誌に提出する予定だったエッセーは先送りすることにし、俳句を提出することにした。

 村上春樹とオルハン・パムクに関するエッセーに取り組んでいたのだが、パムクの『雪』『イスタンブール』を読了してから書きたいという思いが強くなってきたということと、ある用事で来月時間をとられるため、来月いっぱいで仕上げる予定だった短編小説を今月うちからスタートさせたいということから、俳句を出すことにしたのだった。

エッセーについていえば、下準備として、村上春樹『ノルウェイの森』を再読、『海辺のカフカ』を読み、パムクのノーベル賞受賞講演を収めた『父のトランク』を読んだところだった。

 パムクの『父のトランク』は、彼の人間的な真っ当さや温かみが感じられる講演内容だと思った。

 作風が観念的という点で、バムクと村上春樹はよく似ていると思う。

 違いといえば、パムクがよくも悪くも芸術家としての姿勢を強く打ち出そうとしているのに比べて、村上春樹の場合は趣味的といおうか、自分の好み以外のものに対する徹底した無関心と想像力の欠如とが目立つ。

 パムクの姿勢が、過去の文豪たち――例えば……思いつくままだが、バルザック、トルストイ、ドストエフスキー、トーマス・マン、モーリヤックなどと比べると、格段に落ちるなと思われるのは、彼が未だ芸術家としての模倣の段階にあるのか、充分に肉化しているとはいいがたい観念の空回りを感じさせる点だ。

 逆のいいかたをすれば、観念の空回りが感じられるために、彼が作家として優秀であることに異論はないとしても、なお芸術家して模倣の段階にあるのではないかと感じさせられるわけなのだ。

 パムクが影響を受けたという谷崎潤一郎もまた、作りすぎるところのあった作家であった。『細雪』の中の台風のあるシーンなどはその一例で、台風の恐ろしさを体験したわたしには笑わずには読めない滑稽さだ。

 レゴを組み立てている子供がそのまま大きくなったような無邪気さが谷崎の文学作品には感じられ、パムクも同じ傾向を持っている。

 パムクの『わたしの名は紅』には、その谷崎の『春琴抄』の影響を受けて書かれたのではないかとわたしが想像する目潰しのシーンが出てくる。

 『春琴抄』ではそれが自然なふくらみをもって描かれ、成功しているのに対し、『紅』ではむしろ、彼ら細密画師たち各様の個性が台無しになる結果をもたらしていると思う。

 というより、各様の個性がもうひとつ肉化されていないために、作者はそんな行動をとらせることができたのだろうと思われた。

 こうした不満については、左サイドバーにあるカテゴリーの中に「オルハン・パムク」があるので、そこをクリックしていただき、過去記事の読書ノートを参照していただきたい。

 パムクの『父のトランク』には対談も収めてあるが、その対談で、谷崎の影響について追究してほしかった。

 今回わたしがエッセーを見送ったのは、何より『雪』や『イスタンブール』でも、彼が芸術家として模倣の段階に依然とどまっているのかどうかが知りたくなったからだ。

 村上春樹の『ノルウェイの森』で、直子が自殺したあとの彼女の両親が描かれるが、両親については、如何に彼らが世間体ばかり気にしていたかという情報だけが、読者にもたらされる。

 以下はその部分の引用である。

「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。「すごくひっそりとして、人も少なくて。家の人は僕が直子が死んだことをどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。きっとまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。本当はお葬式なんて行くべきじゃなかったんですよ。僕はそれですごくひどい気分になっちゃて、すぐ旅行に出ちゃったんです」

  ―村上春樹『ノルウェイの森(下)』(講談社文庫、2004年)―

 ひどい気分に誘われるのは、こちらのほうである。何と幼い主人公であることか。娘が自殺して、両親が世間体を気にするのは自然なことだ。この両親は何の因果か、直子の姉からもかつて自殺されているのだ。

 世間体を気にすることと、惑乱、哀しみ、絶望が同居できないとでも、主人公は思っているのだろうか。

 この主人公のような立場だと、直子の両親から責めを受けそうで怖ろしく、針の筵に座らされる思いで葬式に出席するのが普通ではないだろうか。主人公はどうも、気軽に出かけ、一緒にさめざめと泣くことを期待していたようである。

 そして、直子の両親が世間体ばかり気にしていたことに傷ついて、主人公は旅に出た。1ヶ月間の放浪の旅。主人公は、砂浜で出会った若い漁師に母親が死んで泣いていると嘘をつき、同情される。

 漁師も自分の母親を亡くした話を始めるが、主人公は、そのことに怒りを覚える。その理由がまたふるっている。

それがいったいなんだっていうんだと僕は思った。そして突然この男の首を締めてしまいたいような激しい怒りに駆られた。お前の母親がなんだっていうんだ? 俺は直子を失ったんだ! あれほど美しい肉体がこの世界から消え去ってしまったんだぞ!それなのにどうしてお前はそんな母親の話なんてしているんだ?

―村上春樹『ノルウェイの森(下)』(講談社文庫、2004年)―

 あたかも、自分の悲しみは高級で、漁師の悲しみは下等だといわんばかり。いや、自分と直子は上等の生き物で、漁師とその母親は下等だといわんばかりではないか。

 このような主人公からは、自分と関係のある人間以外はどうなってもいいという作者本人の無関心、冷淡な態度が透けて見える。 

 村上春樹は、人間の基本的な感情の描きかたに欠陥がある。意識してそうしているとは受けとれないだけに、異常な気さえする。お洒落な見かけに騙されてはいけない。

 わたしは、直子よりも、一見正常で良識的に描かれている主人公のほうがむしろおかしいように思える。壊れた主人公をテーマにしている風でもないだけに、村上春樹の小説は、読めば読むほど読者に不安定感をもたらすはずだ。

 この基本的なところがすこやかなオルハン・バムクは、読者に安定感と明るさをもたらしてくれる。それは文豪には共通した、不可欠の要素である。だからこそ、作家がどんなに異常なことを書こうが、福音となるのだ。

 夏休みが近づいた頃から、当ブログの村上春樹に関する記事が、一段とアクセス数を増やし出した。読書感想文を書かせる高校、大学の教師が多いのだろうか。

 村上春樹はまだ商業主義のさなかにある作家だ。文豪と呼ばれる過去の西洋の作家の優れた文学作品は数多いのだから、読書慣れしていない生徒たちに危険な読書をさせないでほしい。

 途上にある、ごく近い未来の文豪オルハン・パムクは、前出の『父のトランク』に収められた「カルスで、そしてフランクフルトで」の中で、――小説という芸術は、ヨーロッパが発展させた最大の芸術上の発見――といい、また次のように語っている。

  小説という芸術は、それを巧みに操る人の手にかかれば、自分の物語を他人の物語のように語ることができるものなのです。

しかしながらそれは、四百年の間、全力を挙げて読者に影響を与え、わたしたち作家を興奮させ、夢中にさせてきた、この偉大な芸術の単なる一面に過ぎません。

わたしをフランクフルト、あるいはカルスの通りにつれてきたのは、そのもう一つの面です。つまり、他人の物語をあたかも自分の物語のように書くことができる可能性なのです。〔略〕

 わたしたちにまったく似ていないそのものは、わたしたちの中にある最も原始的な自衛、攻撃、嫌悪、恐怖の本能に訴えます。

わたしたちは、これらの感情がわたしたちの想像力を燃え上がらせ、執筆に駆り立てるのをよく知っています。

手元にあるこの芸術の規則を活用する必要上、「小説家」は、この「他者」と自分とを同一視することが、自分にいい結果ももたらすと感じたのでした。

また、誰もが考えたり、信じていたりすることの反対を考えようと努力することも、自分自身を解放するであろうことを小説家は知っています。

小説という芸術の歴史は、人間の解放の歴史です。つまり、自分を他者の立場に置き、想像力によって自分というものを変え、解き放つ歴史として書くこともできます。

―オルハン・パムク『父のトランク』(和久井路子訳、藤原書店、2007年)― 

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