BS2で視聴したテミルカーノフのサンクトペテルブルク・フィル~スピヴァコフのロシア・ナショナル管弦楽団の記憶
スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団の演奏をNHK教育で視聴してからというもの、わたしはロシアのオーケストラの虜となってしまっている。
2001年6月1日に、初めて生のロシアのオーケストラの演奏に浸ることができたわけだったが、それは福岡シンフォニーホールで行われたウラディーミル・スピヴァコフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団による演奏会だった。
そのとき、初めの予定ではスヴェトラーノフが福岡シンフォニーホールでロシア・ナショナル管弦楽団を振るはずだった。
ところがスヴェトラーノフ急病のため、指揮者がロシア・ナショナル管弦楽団の首席指揮者であるスピヴァコフに変更になったのだった。スヴェトラーノフは、それから間もなく亡くなった。
スヴェトラーノフの指揮を生で見る機会を逸したことは実に残念だったが、スピヴァコフの指揮もよかった。ロシア・ナショナル管弦楽団は、さすがは民営オケの筆頭とされるだけのことはあった。
そのとき、日本人のマナーの悪さというべきか傲慢さというべきか、恥ずかしい出来事があったのだが、それに対する彼らの態度のすばらしさは忘れられない。
そのとき、開演時間が近づいているというのに、空席が目立った。それも、いい席ほど空いていたのだ。チケットを予約したときにはもっと詰まっていたので、指揮者変更ということで欠席する人が多かったとしか考えられない。
2階、3階がいっぱいだったというのが、皮肉だった。いい席に座るべき人々は2階、3階にいる、そんな気がした。
ロシア・ナショナル管弦楽団のメンバーたちが舞台に出てきたその瞬間にもう、彼らが一流の楽団員であることがわかった。そのような雰囲気があったのだ。スピヴァコフは若くて、生き生きとした、気品のある容姿を備えていた。
そして、オーケストラは堅牢であるばかりか、華やかさとシャープさを備えており、ヴァイオリンのソリストである少女といっていいような若い女性の初々しい演奏をよく支えていた。オーケストラ自身が若々しい雰囲気を漲らせていたので、少女の父母のように、というよりは兄姉のような支えかただった。
楽団員たちが、空席の目立つGS席に気づかぬはずはなかった。しかしながら、彼らは、少しも手抜きすることなく、終始緊迫した、シックな、艶のある姿勢を崩さなかった。芸術とは何かを思い知らされる気がした。西側が失った何かを彼らは保持していると思った。
実をいえば、そのつい1週間前にわたしは、サヴァリッシュ率いるフィラデルフィア管弦楽団の演奏会に行き、失望していた。
間を置かずクラシック・コンサートに出かけるなど、まずないことだったが、そのときは自分の食費を削ってでも行きたいと思い、出かけただけに、失望は大きかった。
格調高く、明るさ、まろやかさを備えたいいオーケストラであることに間違いはなかったけれど、名の通ったオケならではのきめの濃やかさ、整いかたが、一方慣れも感じさせ、興行という言葉を演奏の最中に連想させられたのだった。
ロシア・ナショナル管弦楽団は、それとは別格の芸術観を表現していた。わたしは彼らに関するエピソードを2つほど紹介したい。
以下は、拙作である60枚の短編小説『女であることの哀しみ』からの引用。この小説は第32回K…文学賞で地区優秀作に選ばれた。ちょっと危険なテーマに挑戦した小説だったが――。
小説では、思い出とコンサートの場面を交互に描く構成をとり、コンサートの場面については実際の取材に基づいている。だから、この記事もここまで書けるというわけだ。日記には簡単にしか記していないから、取材メモ・作品のほうが日記より詳しいというわけ。
〔略〕さきほどから気にかかっていたことなのだが、第2ヴァイオリンの中に、スリットが大胆に入ったドレスを着た女性がいて、綺麗な片脚が、前から6列目に座るわたしの位置からは、太股の辺りからまる見えなのだった。
曲の展開によって、注意を惹く楽器が彼女の周辺にある場合、つい、そちらを見てしまう。わたしと同様、視線のやり場に困った人々は大勢いたに違いない。
クラシックのコンサートに女性楽団員の黒いドレスは付き物だが、あれほどタイトなドレス、そのタイトなスカート部分の前身ごろを真っ二つに分けるスリットなどというのは、初めて見た。
クラシカルな場で、ストリップ劇場さながらに、脚の付け根まで露出されたのでは、アンバランスの妙もいいところで、妖気さえ帯びて見える。非常識な当の女性を改めて観察してみると、昔のハリウッド女優ローレン・バコールに似て、クールな、それでいて色気のある容貌をしている。
そして、そんな恰好で、平然として荘重な雰囲気を醸し続けるところなどは、ロシア女性ならではの芸術性、芸というべきなのだろうか。
〔略〕終局に向かっていたマーラーの『巨人』が終わる。どのコンサートでも聴けるような拍手が起こるが、一斉に起こったその拍手には、空席分の拍手は当然含まれていず、来場客がロシア・ナショナル管弦楽団に捧げる感謝の気持ちには、某かの欠けたものがある。
が、その欠落を補ってあまりある懸命な拍手が、2階から、3階から、楽団員に向かって捧げられていた。
わたしの席からは、懸命の拍手が続く上のほうへと顔を上げた楽団員たちの顎の線が光を帯びてきらめき、白人特有の白い顔が見る見る紅潮して、少年少女のような薔薇色に染まるのが見える。
隣合った楽団員同士でぺちゃくちゃとおしゃべりを始めるのがあちらこちらに見受けられたけれども、それらの頬も等しく紅潮し、瞳には潤いのある輝きがあって、彼らが、はにかみを隠すために不器用にも唐突な私語を始めたにすぎないことがわかる。
ローレン・バコールに似た容貌の、妖艶かつ荘重な姿を披露した女性楽団員もそのおしゃべり族の中に含まれていて、魔法が解けたような凡庸さを晒しているのがむしろほほえましい。
〔略〕花束を受け取った指揮者が、アンコールに応えて再び指揮台に立ち、後ろ姿を見せる。
バッハのコラール『主よ、人の望みの喜びよ』が搾り出されるように、鷹揚に、空間に流れ出した。力強く、敬虔で、宗教音楽というものは本来こうしたものなのだ、と思わせられる。
ソ連時代が終わりを告げたあと、ロシアでは、草が芽吹くように教会が蘇ったと聞く。ロシア正教は、キリスト教の原始的な香をとどめたギリシア正教を表現する教会だ。ドイツ・プロティスタンデイズムの賛美歌であるコラールが、荘重な、艶のあるロシアン・ロマンティシズム的音色で、ホールいっぱいに響きわたる。
〔略〕コンサートが終って外に出ると、空気はなまぬるく、薄手のジャケットを羽織った下のブラウスが滲み出た汗で肌に張りつき、不快だった。なまじ脱ぐと寒いような気がし、着たまま、やや急いで遊歩道を歩いていく。
オープン式のカフェはまだ開いていた。来る時、若い人々で占められていたテラス席には今、さまざまな年齢層の顔が見える。コンサートから流れてきた人々が座っているのかもしれない。
カフェの明かりに、街灯の明かりと公園から届く明かりとが混じり合い、擬似昼下がりのような、物憂げな空間をつくり出している。〔略〕店の人に濃いですよ、と注意されながらエスプレッソ・マキアトを選んだ。
〔略〕デミタスカップに、茶色の液体が、泡立ったミルクを浮かべて少量入っている。しかしながら、その味わいは、お酒みたいに強烈で、濃厚で、澄んでいる。一度飲んだら、忘れられそうにもないコーヒーの味わいだ。
エスプレッソ・マキアトの味わいは、今宵のロシア・ナショナル管弦楽団の演奏を想わせる。〔略〕
長い引用になってしまったが、ロシア・ナショナル管弦楽団はかくも忘れがたいオケだったのだ。
テミルカーノフ指揮、サンクトペテルブルグ・フィルのCDは1枚持っている。なめらかな演奏だと思ったが、どうも印象が今ひとつはっきりしなかった。
どこか心惹かれるところがあり、繰り返し聴くのだが、なめらかだ――という思いが、興奮やのめり込みにつながらず、聴けば聴くほどに情感を殺されていくような感じを覚えた。なめらかなのに、何か平板な印象なのだった。
奇怪とまではいかないが、正体のわからないオケだという印象があった。が、深夜BS2で聴いた演奏はよかった。やはり演奏は際立ってなめらかで、ロシアのオケらしいどこか小気味のいいところがあった。
テミルカーノフは手や指を使って巧みな指揮をした。込み入った指揮、といっていいかもしれない。指揮をしている彼がいきなり開いた上着の中に左手を突っ込んだので、これも何かのサインだろうか、と思ったが、汗を拭くためにハンカチを取り出したのだった。
それにしても、彼は優雅だ。優雅でありながら、どこか策士的というか不気味な気もする。
朴訥なまでに率直、真っ当だった亡きスヴェトラーノフの指揮とは、性質が違う。若々しいスピヴァコフの指揮とも、違いははっきりしている。やや荒削りで劇的な指揮をする、もしゃもしゃ頭の指揮者アニハーノフなどとは対照的といっていいくらいだ。
だが、なぜだろう。わたしが知っているロシアの指揮者4者にどこかしら共通したものが感じられるのは。全身全霊で打ち込む姿勢だろうか、そこから来る艶だろうか。
いずれにしても、テミルカーノフのサンクトペテルブルク・フィルはよかった。CDから受けた訳のわからない感じはある意味で当っていた気がしたが、もう少しよさが感じられてよさそうだったのに、と不思議に思い、ネット検索をしてみた。
それによると、テミルカーノフの指揮するサンクトペテルブルク・フィルのCDはどうも、録音状態のよくないものが多いらしい。
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