パムク氏『わたしの名は紅』を読了、『雪』は21頁
犯人については、作者が彼と決めたのだから彼なのだろう、という印象。
推理小説に足るだけの予備知識が読者に伏せられ、あるいはいい加減さのうちに放置されたまま、犯人が挙がってしまったという感じなのだ。
蝶、コウノトリ、オリーヴ、誰が犯人であったとしても、読者としては推理が的中したという満足感を覚えるわけにはいかないだろう。誰であってもいい感じだ。作者はそんな書きかたしかしていない。
作品全体においても、そうしたご都合主義、一貫性のなさが何とはなしに感じられ、竜頭蛇尾の感が否めないが、これは厳しい見方をした場合であって、現代書かれた文学作品の中では間違いなく手ごたえのある作品、ノーベル文学賞に選ばれた作家にふさわしい作品といえるだろう。
どこまでが資料に添ったもので、どこまでが作者の想像力の産物であるのか、わたしには想像もつかないが、16世紀末におけるオスマン・トルコ帝国の首都イスタンブルを舞台に選んで、よくあれだけ重厚、精緻に細密画師の世界が描けたものだと感心する。
当時のイスタンブルに生きる細密画師たちがペルシアを、イタリアを、インドを、さらには中国をどのように意識していたのかが生々しく描かれている。
単純ではない人間の複雑な内面がよく描かれていて、どの登場人物をとっても、そのような描かれかたをしている。『わたしの名は紅』において、ステレオタイプの人間は登場しなかった。
ただ、ミステリー仕立てということを作者が意識しなければ、複雑さを備えたままで、その人間固有の匂い、その人間固有の内的色合いをもっと強く打ち出せたのではないだろうか。
工房の頭で、細密画師たちの父親役をも務めていたといっていい名人オスマンは、工房内部で自らが育んできたものが瓦解するのを目の当たりにし、ついに両目の瞳に針を刺す。
殺人犯は、カラ、2人の細密画師たちによって、両目の瞳を刺される。この場面でわたしは、作者が影響を受けたという谷崎潤一郎のことを思い出し、『春琴抄』を連想してしまった。
この目潰しという点だけとれば、パムクの小説の場合はちょっとわざとらしい。
細密画とはアラーの神がどうご覧になるかを絵の中で探し求めることである。そしてその無比なる光景は、厳しい研鑽生活の末に、細密画師が精根尽きて到達する盲目の後に思い出される、盲目の細密画師の記憶によってわかるのだ。年老いた細密画師は、この幻想がわが身におこった時、つまり記憶と盲目の暗闇の中で眼前にアラーの光景が現れた時、傑作を手が自ら紙の上に描くことができるようにと、全生涯を手を慣らすことに費やす。
と、オリーヴが伝える細密画師の名人セイット・ミラキの言葉から考えても、盲目というのは細密画師にとっては最高の勲章ともなりうる事態なのだ。
絶望感から、自然が与えてくれる盲目の機会を自ら放棄したオスマン。そして、怒りと恐怖から、かつては仲間であった犯人に、逆しまな価値を付加した盲目を制裁としてもたらしたカラたち。
彼らの盲目へのこの過剰な拘りが、細密画師たちのそれまでの高度な芸術観や、それらのせめぎあいと相容れず、リアルな彼らの世界を戯画化してしまったようにわたしには感じられるのだ。
非合法コーヒーハウスの噺し家の造形は、秀逸だった。それにしても、哀れなあの殺されかた! 彼に語りのネタを提供していたのは細密画師たちだったのだ。
『わたしの名は紅』の中で、これは作りすぎでは、と思えた部分は少なくないが、そのうちの一つと感じられながらも、わたしが登場人物の中で一番好きだったシェキュレの下の男の子、可愛いオルハンがこの作品を書いたことがわかる結末部は、作者から贈られたプレゼントのようにも想えた。
あの可愛らしかったオルハンが、このように絢爛豪華で、さらにはエログロも多少はある複雑な物語を書いたのだと思うと、こちらの気持ちも複雑にはなるけれど。。。
『わたしの名は紅』は間を置きながらの読書となったので、読み直したい気がするが、かなりの厚さなのでしんどい……『雪』へ進むことにした。
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