「文學界」11月号の『黒い鏡』、新年号の『カンディンスキーの膝』
文藝春秋の文芸雑誌「文學界」を年間購読しているものの、パラパラとめくるだけで終ることが多い。
が、たまには面白く読む作品もあって、それが11月号の『特集 世界の文学賞はどうなっているか』、村上香住子『黒い鏡』、新年号の荻野アンナ『カンディンスキーの膝』だった。
『特集 世界の文学賞はどうなっているか』では、ノーベル賞、アメリカ、フランス、ドイツ語圏、イギリス、イタリア、スペイン語圏、ロシアの場合が採りあげられていて、興味深い。こんな風な特集をどんどん試みて、風通しをよくしてほしいと願う。
何やかやいったところで、「文學界」に期待するところは大きいのだ。何しろ、わたしは大学時代からの、つまり30年前からの愛読者なのだから。変遷だって、それなりに見てきている。
よくも悪くも「文學界」らしさが保たれているところはさすがだが、小ぢんまりと粗野になったのを、先鋭化したなどと読み違えるほど、わたしはウブではない。本当に心配している。
村上香住子『黒い鏡』を読んで驚いた。これは、ヤン・アンドレア著『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』(河出書房新社、2001年)を翻訳した人の創作物で、ヤン(ヤン・Aとされている)が実名で出てくるし、マルグリット・デュラスもそのまま出てくるのだから。
実名と書いてしまったが、ヤン・アンドレアという名はデュラスが愛人(アマン)に授けた名である。若いホモセクシュアルの大学院生だったヤンは晩年のデュラスと生活を共にし、ほとんど彼女に取り込まれたような生活を続けた末に、デュラスの死によって放り出された。
そうした生活を回想したヤンの作品が、前掲の『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』なのである。エンドレステープのように続く独白……。読み通すのに骨が折れるが、ここには生のデュラスがいると想わされるものがある。
したたかさ、孤高としかいいようのない創作姿勢、ある種の弱さ(アルコール中毒、そして今回村上氏の作品『黒い鏡』で明らかになった驚くべき一面)、可愛らしいところ……そんなデュラスの魅力がどの頁にも色あざやかな黴のように染みついている。作者ヤンの不思議な誠実さを印象づける作品である。
『黒い鏡』には、村上氏の翻訳者としての、いや、そこから微妙に逸脱しての(微妙に思わせぶりな語り口の)、ヤンとの交流の模様が描かれている。小説として読むべきか、エッセーとして読むべきか、迷うような作品だ。
交流の内容自体には特に興味を惹かれるところはなかったけれど(そうした意味では、作品に物語性といえるようなものはない。だから小説として読んでいいものかどうか、わたしは戸惑ったのだろう)、作中で明かされた一つの情報には注意を釘づけにされた……。
死に近いデュラスは、「私と一緒にきなさいよ、ヤン。彼女は何度も僕にそういった。勿論自分と一緒に、僕にも死んで欲しかったんだ。きなさいよ、彼女は僕の手をとろうとした」というのだ。
『デュラス、あなたは……』の中にも、それを暗示させるような箇所はあるとはいえ、本当にデュラスがそれを望んでいたとは、わたしには衝撃的だった。ヤンの作品のタイトルの意味もこれですっかり明らかとなったわけだ。
ヤンは秘書として、家事手伝いとして、看護人として16年間、デュラスに仕えた。その労働の見返りとして、彼はデュラスの生前にごく小さなアパルトマンを買って貰っただけで、遺言により彼女の全財産は息子ジャンのものになったという。
そうだとすれば、デュラスという女性は、どういっていいかわからないくらいのエゴイストであると思う。ヤンを死の道連れにさえしようとしたとは……。村上氏は、デュラスが愛する男を道連れにしようとしたというよりは、次のようであったろうと書く。
というよりおそらく彼女は、ふたりのドラマの結末を、そこで終わりにしたかったのだ。自分がいなくなってからも、自分が創り出したフィクション上の人物が、まだ生き続けるというのは、どう考えてもロジックではない。それ以上に許し難いことにみえたのかもしれない。
デュラスのエッセーを読むと、アルコール中毒との格闘が描かれていて、彼女の生活にあったものは創作とアルコールとであって、この二つはもはや不可分なものとなっているかのようでもあった。彼女は自分が創りあげた物語の世界に取り込まれそうになっていて、その必死のもがきの中にヤンが現われたのだった。
ヤンがあまりにもデュラスの作品の中の人物を想わせることは、デュラスの病勢を削ぐというより、募らせるほうに働いたのかもしれない。
そう考えれば、ヤンはデュラスの病気の、エゴイズムの、あるいは夢といったほうがいいかもしれないが、そうしたものの被害者であると同時にデュラスに対する加害者であるようにも想われてくる。
デュラスについては、今後も考えていくことになりそうだ。
荻野アンナ『カンディンスキーの膝』も、面白いエッセーだった。筆者は、カレシの癌死を看取り、年老いた両親の看護に明け暮れて、心身共に疲れ気味の様子で、窓から飛び降りようとしたり、階段から転げ落ちたりしていて、その階段から落ちたときの痣が階段の見取り図のようになっていてカンディンスキーの抽象画を想わせるというのである。
心配になってくるような状況の描写を面白いなどというのは不謹慎だけれど、どこか醒めて自身を突き放したような、ユーモラスな筆致が興味深いのだ。坂口安吾の物の見方に通ずるところがあるが、ただ安吾の場合はもっと醒めていて透徹したものがある気がする。
荻野氏の場合はもっと自然な自愛、他者への愛を感じさせるが、それがふくよかさとなっていて、ホッとさせられるところがある。カレシの癌摘出手術に立ちあったときの荻野氏のレポートを、『文藝春秋』で読んだ記憶がある。とすれば、そのときの手術後どれくらいかして、カレシは亡くなったのだろう。
この10年で2、3年を病院で過ごしたとあるから、彼女の看病によって生かされている命のあることをしみじみと想わされる。看病は、どこか育児に似たところがあるとわたしは思う。看病も育児も、過酷な一面を持っている。
『カンディンスキーの膝』と題されているくらいだから、カンディンスキーについても、筆者なりに触れてほしかった気がする。そうすれば、エッセーがもっと奥行きを持ったのではないだろうか。
カンディンスキーは神智学と関係の深い画家だった。わたしはカンディンスキーその人よりも、彼の影響を受けた女性画家ジョージア・オキーフのほうに惹かれるのだが、オキーフの許にも晩年、デュラスにヤンが現われたように年若いハミルトンという男性が現われて、オキーフと生活を共にし、その死を看取った。
何とも不思議な話である。
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