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2006年11月13日 (月)

『返り咲いた薔薇』は足踏み状態、パムク氏は202頁

 小説を同人雑誌の締め切りに間に合わせたいのは勿論だが、締め切りより大事なのは、小説を完成させることだ。

 書きたい気分は最高潮なのに、臆病さが先を続けることを躊躇させる。あの狭心症の発作が起きたとき、これを書く時期がきたと思った。

 寿命が尽きるまでにはまだたっぷりと間があるのかもしれないけれど、このテーマに取り組むには今がベストだという気がしている。

 わたしには、少なくとも死んで1週間のあいだの人間がどんな状態に置かれるかをこちら側から描き尽くすことのできるだけの体験と表現能力があると思う。こんなことが、誰にでもできる仕事ではないことも知っている。

 そしてその1週間のあいだに男の死者と女の生者のあいだに起きた出来事を書きたいのだが、それはロマンスで、こんなテーマはありきたりともいえるが、これまで描かれたことのないわたし流の描きかたで書きたい。

 死んだ人は、死んだばかりのときは、死んだということに対して初々しい。新鮮さに満ちている。感受性が一新されるからだろう。ただし死んだことをひどく後悔している人以外は。

 後悔している人は、死んだあとであっても、まだ生者のような重ったるい感じを引き摺っていて、行き所のない雷雲のようになってしまい、自身の中で雷を発生させている。順当に死んだ人の軽やかさに欠けるこうした死者の印象は、わたしの死の恐怖に結びつく。

 こんな雷雲のような死者も描いてはみたいけれど、何よりわたしは初々しい死者と、初々しい死者によってみずみずしくなった生者とのロマンスを、返り咲いた薔薇を書きたい。情念がどんな燃え立ちかたをし、どんな風に一服の絵画に収まりうるかを書きたい。 

 パムク氏の『わたしの名は紅』は202頁まで読み終えた。「24 わたしの名は死」まで。その小説の中の細密画師が死を描こうとして失敗したさまを、コーヒーハウスの咄し家が絵の中の死になりきって嘲笑するところまで。

 パムク氏の小説の中の細密画師と同じテーマに挑んでいるわたしとしては、他人事とは思えない。

 アラーの神が見るように描くという細密画の伝統的な技法でではなく、イタリアの画家のように独自の描きかたをするというタブーを犯しただけではなく、そうやって描いたものがイタリアの画家の描いた完璧さに至らなかったという惨めさ。

 この細密画師のような宗教的なタブーとは異なるが、死を描くということについては、このわたしにも、目に見えないタブーを犯す恐ろしさがある。自分が体験したと思っていることが、全くの妄想だったとしたら……?

 それを、現在科学的に立証できないとしても将来において立証できる本物であるかどうかを最も懼れるあたりは、わたしも現代人らしい科学の子であるのだろう。尤も、神秘主義は古代からそうだったに違いないけれど。

 『わたしの名は紅』(和久井路子訳、藤原書店)ではこれまで屍や人の語り――証言――以外に、犬、一本の木、金貨、死の語りを読んできたが、これらは全て、非合法のコーヒーハウスの舞台で咄し家がそこにやってくる芸術家や知識人相手に面白可笑しく語ったものらしい。

 どれもウイットに富んでいて面白いが、金貨の語りなんかは笑わせる。金貨に口があればさもありなん、と思わされる語りなのだ。しかもこの金貨は、自分は贋物だという。

 この七年間の間に五百六十回譲渡されました。イスタンブルで行ったことのない家、店、市場、モスク、教会、ユダヤ人のシナゴークはありません。歩き回ると、贋金について思ったよりずっと多く噂話が出ているのを、商人たちがわたしの名のもとに嘘っぱちを言っているのを見ました。

お前以外のものは価値がないとか、ひどい奴とか、盲目だとか、お前も金が好きなのだとか、遺憾ながらこの世は金の上に築かれているとか、金で買えない物はないとか、正義漢ではないとか、卑劣漢だとか、絶えず面と向かっていわれました。

ましてわたしが贋物だとわかった者はますます怒ってもっとひどいことをわたしに言ったのです。実際の価値が下がれば下がるほど、目に見えない価値は上がるのです。

このこころない喩えや思慮のない讒言にもかかわらず、大部分の人はわたしを熱愛しています。この愛のない時代にこれほどまでに愛されることは、われわれ全ての喜びだと考えます。

 実際に、16世紀のイスラム社会にこんなコーヒーハウスや咄し家が存在したのだろうか。

 ここまで書いた今、左手が痺れる。また狭心症の前触れだろうか。ここ数日は調子がよかったのに。我が物顔に出現するこいつには、全く嫌になる。と、この段階ではまだ思っているが、いよいよ痛みが起きると、助けてください、と神さまにというよりは、狭心症さまに「今度もどうかお見逃しください」と拝むことになるのだ。

 早々とゴミ捨てを済ませ、ゴミ用のバケツを洗ってベランダに干し、用心しよう。ますます痺れてきた。テープを貼っておいたほうがいいかもしれない。

  ※パムク氏の記事は多くて、右サイドバーのカテゴリーに「オルハン・パムク」の項目があります。クリックなさって、ご参照ください。

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