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2006年8月17日 (木)

自作詩「月とたましい」&児童文学作品を通して見る母親の幸不幸

        月とたましい

――完全なる相違のたましいと
     わたしは寝ている。

わたしの、発作のように狂気のように、母に甘えたくなった末の話で、窪みのない平板な夜に、わたしの胸の蟇蛙(ひきがえる)達もさざめかない静けさのなかで、ひときわ濃く淡く、
母のかおり、それがわたしにもたらす絶望の、何というあかるさであろう。
わたしに加担するような絶望の類(たぐい)も赤い荷車で、おとなしやかに去っていく。
母は一個のたましいではない、母は月なのだ。
母のかおりの、驟雨のような母に濡れながら地獄はあかるいところなのだろう、
と思う。

               

『月とたましい』について。及び、児童文学作品を通して見る母親の幸不幸。

 『月とたましい』は、大学時代につくった詩です。母とのあいだに葛藤があったことを忘れていたわけではありませんが、これほどだったのか、と他人事のように驚かされます。

  宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のなかに、「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸(さいわい)になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸(さいわい)なんだろう」という言葉が出てきますが、子供というものは両親が――ことに母親が――幸福でないと、ひじょうに苦しむものです。

 当時、わたしは何度となく、この言葉を読み返した覚えがあります。児童文学作品には、よく病気で……そればかりではない他の要因で不幸なおかあさんとけなげな子供が出てきて、胸が突かれるような物語を繰り広げてくれます。

 エーリヒ・ケストナーの『点子ちゃんとアントン』『わたしが子供だったころ』がそうですし、アンデルセンの『あの女はろくでなし』もそうです。

 一見奇怪なわが子虐めの物語の体裁をとる『にんじん』も、わたしには同類の物語であるように思えます。ここに出てくる母親は、明らかに心を病んでいて、その原因なのか結果なのか、父親との関係が奇妙です。

 にんじんは屈折した思いから残酷なことをしでかしたりもしますが、賢い子で、両親の関係がどんなものかを見抜いているのです。「お母さんには、こうなったからいうけど、ぼくをひっぱたく以外に、楽しいことがないんだ」と彼は父親にいいます。

 そして、物語の終結部で、こんな息も詰まるような、にんじんと父親の会話が出てきます。「ぼくには母親が1人いる。その母親は、ぼくを愛してくれないし、ぼくのほうも、彼女を愛していない」とにんじんがいったのに対し、父親はこう返すのです。「それじゃ、わしが、そいつを愛していると思っているのか?」

 にんじんは、自分以外にも母親を愛せない人間がいたことを知り、歓喜します。まことに屈折した歓喜です。母親が自分を愛してくれず、その結果として母親を愛せなくなったにんじんが生き延びるためには、母親を否定するしかなかったのでしょう。

 にんじんと父親とのあいだにはこのような葛藤がなく、この息子と父親とのあいだには、他人同士であるかのような距離感があります。にんじんは父親に関しては、諦念を抱いているようなところがあって、にんじんの父親観は彼のつぎの言葉から汲みとれます。

「お父さんはいばり散らし、だれからも恐れられている。お母さんだって恐れているぜ。お母さんは、お父さんの幸福に対しては、なに一つ手の下しようがないのさ」

 にんじんは両親の結婚生活が父親の独りよがりなものであるにすぎず、母親は妻として容れられていないことを洞察しており、母親の女としての悲哀を子供ながらに感じ、心を痛めてきたのでしょう。

 にんじんはこの異常な家族から自立して去ろうとしていますが、母親が望みさえすれば、父親を規範とした家庭生活の地獄から手に手をとって一緒に抜け出そうとしたに違いありません。

 ルナールの母親は、井戸に落ちて亡くなっていますが、自殺の疑いがあるということです。ケストナーは、母親の不倫によって誕生した子供だともいわれています。

 青春期にあったわたしが母親に感じた不幸にも、彼女が病気だったということ以上に、結婚生活の不調和という要因があったと思っています。船員だった父が定年になって陸にあがってくることをひどく恐れ、嫌がっていましたから。父はこのことを知らなかったかもしれません。

 熟年離婚ということが流行っている世相からすれば、こんなことはありふれたことだともいえましょう。

 そして、今度は自分が母親という立場になり、自分の母親と同じように病気になり、夫とのあいだにも紆余曲折経て見ると、感性の鋭すぎる子供の存在が、母親の不幸を一層際立たせて見せ、惨めにすることもあるのではないかという考えが芽生えてきました。

 子供の感じやすさが母親のデリカシーを強め、幸福への欲求度を吊り上げることもあるのではないでしょうか。わたしのような感性の鋭い子供を持ったことこそが、実は母の最たる不幸だったのかもしれないと、そんなことを考えるこのごろです。 

  ジュール・ルナール『にんじん』からの抜粋、引用は、角川文庫版・窪田般彌訳によります。

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