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2006年8月28日 (月)

心の痛み

 今日は夫は休日だけれど朝のうち会社に出かけ、今はくつろいでいるところ。娘は勤め先の書店へ。帰省中の息子は昼寝中。

 息子の帰省初日は無理をして早めに帰宅した夫も、昨日はいつも以上に遅く、娘は帰宅後にうたたね、わたしは夕飯を家族揃ってから食べ始めるべきか、息子に先に食べさせるか、わたしと息子ふたりで食べるかを決めかねていました。

 家族が揃って暮らしていた頃、息子とわたしはそんな曖昧な時間をよく過ごしたものです。そして、そんなとき、息子はいつも寂しそうな顔をしました。わたしの深読みかもしれないけれど、そのように見えたのです。

 昨日もそうでした。他県のアパートでの一人暮らしに慣れ、大学院の受験も終わり、屈託なく、いくらか大人びたいかつい顔つきで帰省した息子が、どんどん昔の子供時代の表情を取り戻していくような印象です。

 娘は仕事が大変だったのか、前日遅くまで弟とはしゃいだ疲れが出たのか起きないので、息子を促して食事を始めました。といっても、わたしはちょこちょこすることが出てきて席を立ち、ほぼ息子ひとりの食事。昔よくあったわが家の一齣です。

 息子が食事を終えた頃、夫が帰宅し、風呂を済ませ、食事となりました。わたしは大皿を梨で満たし、まだ起きそうにない娘のぶんをとり分けておきました。夫と息子は美味しい、美味しいといって梨を食べ始めました。

 そして、わたしがまた席を立ったあいだに梨はひとつを残すだけとなっていました。「あら、これ誰も食べないの」とわたしがいったとたん、息子がすばやく梨に手を伸ばし、夫に見せつけるかのように梨に爪楊枝を深々と刺したのです。

 夫は、あっ、という表情をしました。というのも、そんなとき、さりげなく父親に梨をゆずるのが常の息子の態度だったからです。

 夫から梨を掠めとった息子の表情はどこか悪戯っ子のような、清々したような、あっけらかんとしたものでした。帰宅が遅い、というより、また昔のどこか子供に無関心な父親ぶりを匂わせ始めた夫に対する、それはささやかな抗議の声のようでもありました。

 娘は、夫の帰宅が早かろうが遅かろうが、昔から大して気にしません。それが当たり前のように、むしろ、のびのびとしています。ですが、息子の場合は違うのです。

 息子にとって、帰省はなつかしく、楽しい出来事である反面、古傷の痛む、忘れていた家族の中でこそ味わうような類の孤独を思い出させる出来事でもあるのではないでしょうか。

 わたしにとっても、こんなタイプの出来事は馴染みのないものではありません。わたしにとっても、殊に娘時代は、実家に帰省するとは楽しみと痛みを伴うことでした。

 白状すれば、息子が眠ったり読書したりしているあいだを縫ってのこの記事のアップとはいえ、息子が一番寂しさを感じるのは、母親が彼に背を向けて創作に没頭していた姿を思い出させるこの姿にこそなのかもしれません。

 わたしは専業主婦でいつも家にいたにも拘らず、創作のために、まるで仕事に出かけている母親のようでした。昔も今も、仕事を訊かれ、専業主婦だというと、「何かお仕事なさっているのかと思っていました。専業主婦には見えませんよ」と驚かれます。

 息子に寂しい思いをさせた罪は夫よりも、わたしのほうが深いのかもしれません。こんな罪悪感に駆られながらも、大人びた顔に幼いときの面影を浮かびあがらせる息子に、ほっとさせられるようなところもあるのです。それは、彼がくつろいでいる証拠でもあるような気がするからです。

 さて、息子が寝ている間に、ズボンの裾が傷んだところをかがりましょう。31日の朝には家を出るというので、息子が帰省するまであとわずか。ああ、たまらない。このサイトの存在、息子にはひた隠しにしています。 

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