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2006年8月12日 (土)

死者の行動について、ちょっとだけ

 お盆ということで、帰省しているかたも多いのではないだろうか。お盆は、死者たちを話題にするにはふさわしい。とはいえ、お盆に、死者たちはどうするのか、どんな行動をとるのかを、わたしは知らない。

 わたしが知っているのは、死んだあと初七日までのあいだに、どんな行動をとった死者がいたかということだけだ。

 それが死者の一般的な行動の特徴にあたるのか、死者全てにおけるものなのか、そうではなくて特異なものだったのかは、わたしにはわからない。参考となりそうな事例は全部で5例ほどあるが、サンプルにできるだけの、死者のオーラを目撃したことから自分なりに確証をつかんだといえる例といえば、たったの2例に限られるのだ。

 神秘主義は明らかにこのことについて熟知している癖に、紗をかけたような物言いをするので、どうにも曖昧なのだ。生きている人間には、そんな知識はあまりもたらさないほうがいいだけの何らかの理由があってのことに違いないけれど……。

 だから、わたしがどんなことをいおうが、他人は妄言として片付けることができるのだし、誤診を犯しやすいわたしにしてみれば、むしろそのほうが都合がよい。

 ブログの右サイドバーで予告したエッセー「わが家を訪れた2人の死者たち」を書き上げるだけの踏ん切りがまだつかないのだが、せっかくのお盆。死者についてちょっとだけ語ってみたい。

 リルケの『或る女友達のために』(※『鎮魂歌』所収)という詩は神秘的な作品で、彼はその中で死者(産褥熱で死んだ女友達)の訪れに対する彼自身の戸惑いをあらわに表現している。

私はあなたがもっと進んでいると思っていたどんなほかの女のひとよりももっと多くのものを変容したそのあなたが迷って帰ってきたのにわたしはとまどいを感じる(『新潮世界文学32』より抜粋、引用。富士川英郎訳)

 リルケが、それと感じただけなのか、幽霊を見たのか、あるいはオーラを見たのかはわからないが、女友達が死んだあとで彼の家を訪問したのを彼は知り、その女友達が、日本流にいえば、成仏できずにさ迷っているのだと思い、ショックを受けたのだろう。

 わたしはサンプルのうちの初めの事例のとき、死者が迷って帰ってきたのだとは思わなかったけれど、葬式に出席したあと(厳密にはお寺に急いでいたときから)、ときどき死者の存在を感じ、死者の思いが伝わってくる感じを味わうたび、ブラヴァツキーの『神智学の鍵』を思い出した。

 そこには、死んだ人の霊が生きている人と交流できる例外的な場合は死後、2、3日の間とあった。したがって、その間を過ぎてもまだ死者の存在を感じたりするのは妄想だと考えた。

 死者が身近にいるように感じられるのは、妄想なのだ。そもそも、いっさいが妄想だったのだ。そう考えて気を抜き、わたしは人様には見せられないだらしない日々を過ごしていた(悲しみのあまり、食っちゃ寝を繰り返していた)。

 そうしたところ、ある瞬間、死者の呆れた感じが伝わってき、次いで苛立ちが伝わってきた。それと相反する母性的な感じも伝わってきた。そうこうした感じを、わたしは蝿でも追い払うように打ち消そうとした。

 ところが、ついに死者の、生前と変わらぬ美麗なオーラまで目撃するに及んで、これは自分の妄想で片付けられることではないと実感したのだった。ちょくちょく感じてきた死者の気配を感じなくなったのは、死後1週間近くも経過してからだった。

 その年の暮れ、ブラヴァツキーの著書にたびたび出てくる、ピュタゴラス派の思想が流れ込んでいるとされるカバラにいくらかでも近づきになりたくて、箱崎惣一著『カバラとユダヤ神秘思想の系譜』(青土社)を読んでいた。

 そのなかで『ゾハル』の説話が紹介されていて、こんな一文があった

(死後)7日間のあいだ霊魂は彼の家と墓地の間を行き来している。〔略〕7日をすぎて死体が腐敗し始めると、霊魂は(指定された)場所へ赴くという。 

 これを読んだ時点では、カバラの説をとるべきか、ブラヴァツキーの説をとるべきか、どちらもとるべきではないのか、わからなかったが、上記のサンプルとなった事例を体験した結果、この点に関してはわたしはカバラの説をとることにしたのだった。

 ブラヴァツキーのいうことが信用できないということでは、決してない。ただ彼女は、一般公開するには早いと思われる事柄については、アレンジを加えたり、ぼかしたりした形跡があるので、信仰書的に一言一句を信じるということはわたしはしていない(たとえば、人間の7本質に関することがそうだ。オーリック・エッグについては、神智学協会内部に形成された秘教部門にだけ伝えられた事柄だった。現在では一般公開されている)。

 いずれにせよ、初七日の供養というのは、死者にとっても生者にとっても意味のあることに違いないとわたしは思う。

 もし、わたしたちが死んだとして、あの世に赴くまでのある限られた時間を、透明人間として過ごすのだとしたら、どうだろうか。楽しいような気もするが、生きている人々のあらわな姿を目撃して失望したり、彼らに働きかけようとしてできずに落胆するかもしれない。

 煩悩を断て、という仏教の教えは、死の裏舞台を知る人々の老婆心から出たものであるようにさえ思えてくる。

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