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2006年6月 2日 (金)

整形外科受診 - 左の肩関節周囲炎(五十肩)

 昨日6月1日は、大変な一日となった。というとオーバーになるが、軽い気持ちで日赤に出かけたわたしにとっては、宿題を出された子供にも似た一日となった。痛い一日ともなった。

 結論からいえば、左肩の不調は夫が推測したように「五十肩」だった。正式には「肩関節周囲炎」というらしい。自然に治ることもあるようだが、わたしの場合は治療が必要なようだ。

 ところで、整形外科の待合室で順番が来るのを待っていると、後ろに座った女性2人が深刻な会話をしていた。

「もう死にちぇーわ。もう死んだがええ思うとる」これは大分弁なのだろうか?  わたしはまだよく大分弁がわからない。死にたいと言ったのは見るからに高齢の、弱った女性だ。頭髪は部分的な黒色を残して、真っ白だ。鳥の羽にありそうな白色の髪。

 死にたいという言葉は重く鋭く響き、淀んだ待合室の空気を震わせた。すると、付き添いの貫禄のある中年女性はそれに対してゆったりと応じた。「人間は死にたいときに死ねるというわけじゃねーわ。まだ生きてーのに死ぬ人もあるわな」

 その言葉は生真面目で、やはり重く響いた。天の戒めのようにも、世間話のようにも聴こえた。それに対しては、高齢の女性はしばらく黙っていた。そして、「あのな、夕飯の買い物……」と、流れるように日常的な会話に入った。

 2人の女性はおそらく、日常的にこのような会話を繰り返してきたのだろうとわたしは思った。深刻であると同時にのどかさを感じさせられる、不思議な会話だった。深い信頼関係があるのでなければ、このような会話は交わせるものではない。この調子で2人の女性は長い風雪に耐えてきたのだろう。

 このあと「五十肩」といわれてみると、わたしは自分がもうどう考えても若さを失いつつあることを意識せざるをえず、2人の女性の会話がこれからの自分の後半生のプロローグであるような気さえしてくる。耐久レースのような後半生の予感。考えただけで尻込みしたくなるのだが、人生に燻し銀のような味わいをもたらすのは、このような耐久レースの体験だけだろうと想わされもする。

 「五十肩」を侮ってはいけないようだ。わたしの左肩はかたまりつつあり、放置しておけばそのままかたまって、服の脱ぎ着さえ自分ではできなくなるだろうとのこと。一口に「五十肩」といっても原因は様々で、病態も多彩であるようだ。

 リハビリのメニューが示され、家でトイレに行くごとにそれを行うよう言われた。検査だけでも痛くて涙が出たのに、リハビリの練習も痛かった。いつのまにここまで左腕が動かせなくなっていたのかと、愕然とした。

 まだ痛みが強いので、このメニューを6週間家で繰り返し、そして診察を受け、それで回復の兆しが見えれば本格的なリハビリを行うことになるそうだ。うまくいけば2ケ月半で機能が回復するという。が、長引くことも多いらしく、場合によっては手術をすることもあるようだ。

 問題は、痛みと炎症を抑える薬の服用だ。喘息によくないらしく、軽いもので試すことになった。本当は1日に3回飲んだほうがいいそうだが、喘息が出た場合を考え、担当の医師が病院にいる時間帯に合わせて2回飲むことになった。変ったことがあればすぐに連絡するようにとのこと。

 慰めは、レントゲン写真やリハビリ指導も含めた診察費が1,420円と安かったことだ。消化器科にかかったことがあり(忘れていたがこれも一応経過観察中だった)、再診だったとはいえ、安い。痛みや炎症を抑える薬と胃薬7日分、湿布薬48枚で1,050円と薬代も安かった。治療が長引く可能性を考えると、診察費も薬代も馬鹿にならない。湿布薬が無臭なのも嬉しい。

 病院で酷使(?)した左肩が疼き、気も重くて、家に帰りついたとたん、どっと寝込んでしまった。でも、今日から、真剣にリハビリに取り組もうと思っている。左腕がこのまま動かせなくなったりしたら大変だから。パソコンを打つのにいい角度も教えて貰ったので、パソコン台に合わせて椅子の高さを調節したら、ぐんと楽になった。本日のメインの記事の更新も大丈夫なはず……。

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