ゴッホ②「ゴッホとゴーガンにおけるジヌー夫人」
タンシェン・ジャパンから出た「ゴッホ全油彩画」が自分のものになってすぐに確かめたのは、東京上野の「国立西洋美術館」で観た「ばら」でした。その「ばら」が、捜せど捜せどないのです。全油彩画とあるのに、収録されていないということがあるのでしょうか。
何と数日経って、ようやく見つかりました。絵はちゃんと収録されていました。実際よりも赤茶けた感じだったこと、題名が「花咲く薔薇の茂み」となっていたことで、見過ごしてしまったのでした。この画集の明度は、全体にいくらか差し引いて観るべきかもしれません。
画集の薔薇の絵は明るく軽やかですが、実際の絵はもっと沈んだ、沈鬱といってもいいくらいに緑味の勝った暗色――深みのあるシックな感じで、何ともいえない品のよさがありました。
あたかも魂が息づいているかのような緑色の深みから、祈りのように、星のように、うっすらとピンクがかった白い薔薇の花々が点々と咲き出ているのです。
ゴッホ特有の絵の具を厚く塗りつけた描き方なのですが、それだけ塗りこめないことには、あの深々とした沈鬱な感じは出せないようにも思われます。
あのようにこってりとした絵を描くために、ずいぶんな量の絵の具が消費されたことでしょうね。ゴッホの苦闘もさることながら、そんな彼を絵画面、生活面で支え続けた弟テオの苦労も如何ばかりだったことかと気の毒に思えないでもありません。
「ゴッホ全油彩画」を鑑賞し、痛感したことは、ゴッホの多感さ、濃やかさ、勤勉さでした。気を抜いて、いい加減に描かれたような絵がたったの一枚も見つからないのです。たったの一枚もですよ……。そして、どの絵にも、どこかしら縛りを感じさせるものがあります。
この世に、あの肉体に幽閉されてしまっていた純真な魂といった印象に打たれずにはいられません。
まだ子供たちが小さかった頃、充分に操れない言葉を遣って懸命にこちらに何かを訴えようとした姿を思い出させるような、何ともいじらしい、母性愛をそそるようなところがゴッホの絵にはあるのです。
そんなゴッホと切り離すことができないのが、ゴーガンという男の存在でしょう。ゴッホを惑乱させ、やがて南太平洋の島タヒチに行ってしまった男。片耳を斬り、精神病院に入ってしまったゴッホの方の痛手は想像がつくとして、ゴーガンの方は、どうだったのでしょう?
今すぐにはそこまで分け入るゆとりがありませんが、調べていきたいと考えています。一応、参考文献として、ゴーガンをモデルにしたというモームの「月と六ペンス」なども再読する必要がありそうです。
ところで、ゴーガンの行動は、若年にして天才詩人と呼ばれたフランス人ランボーを連想させます。ランボーは独特の夢を育んで放浪し、やがて南アラビアのアデンで武器商人などして残る人生をむざむざ費やし、骨肉腫の悪化でマルセイユに戻り、右足切断、妹のイザベルに看取られて亡くなりました。そして、楽園を夢見て渡ったはずの南太平洋の島で、貧困と病苦のうちに暮らし、画家として果てたゴーガン。
男性には、いや女性にだってないわけではありませんが、縛りを可能な限り逃れたい、何処かへ行ってしまいたいという欲求が強烈に存在するのでしょうか。わたしの父もそんな想いからだったかどうかは知りませんが、外国航路の船乗りになり、世界中、ことに中東へよく出かけていました。
母に死なれて船乗りをやめてからは、本当に陸(おか)へあがった河童です。母が亡くなったのはもう20年以上も昔の話になりますが、危篤を報せたとき父は太平洋の只中にいて、下船できませんでした。
わたしと妹が周囲の人々に助けられながら葬儀も何もかも済ませた後、だいぶ経って父は帰宅しましたけれど、以来父は被害妄想気味です。それでも結婚相手を見つけるまでは、懸命にそれを抑えていたようですが、再婚を境にそれが噴出したのです。
自分が帰ってこられなかった癖に、わたしたちが母を死なせたように思い込んでいるのですから、たまったものではありません。どんなにわたしたち姉妹が大変だったか、知ろうともしないで。再婚してそうなるというのは、母が忘れられないのでしょうか。
元々意志の疎通の難しい父子で、説明する機会をつくることができません。いや、つくれたところでおよそ通じない。外国人みたいに言葉が通じないのです。その癖、感性は鋭い人ですから、甚だ扱いにくいのです。
とにかく父は自分がしたいようにしか行動しない野生児のような男――かといって社会意識は過剰に強く、変に律義にその務めだけはこなします。適性のなさを自覚していて、神経症気味なのかもしれません。
現在父は、青森からリンゴよろしく西へ西へと流れてきたという、これもまた大変に律儀でかつ意志の疎通が難しい、が清楚な若い女性と二人、ロミオとジュリエットのような意識で暮らしています。わたしと妹を含むあらゆる親戚づきあい、かつての知人づきあいも断って……。わたしにとっての父は、今も太平洋の只中を漂っている存在です。
今は父のことが、困惑を通り越して嫌になってしまいましたが、煙草と粋なオーデコロンの香りが似合い、休暇のたびに海の香りや外国の珍しい品々を土産に意気揚々と帰宅した、宴会好きだった頃の父を時々思い出します。
相変わらず、趣味の絵や船工芸だけは続けているのでしょうか。絵が好きだという二人目の妻の絵ごころを知ろうとはせずに、彼女を助手としてこき使いながら。彼女の絵への想いをわかってあげなくては、あの人は本当におかしくなってしまうかもしれないのに。
こんな船乗り特有の野趣に富んだ父を持つわたしには、ゴーガンにもランボーにも、縛りを嫌い、その揚句に異様に縛られてしまうといった一面が透けて見える気がして、苛立ちを覚えるところがあるのです。
ゴーガンは航海士として船に乗っていたことがあるようですし、ランボーには海や船をうたった詩があります。「見つかったぞ。何がだ!――永遠。太陽と手をとりあって行った海」(粟津則雄訳)というフレーズなどは、忘れ難い味わいがあります。
ああ何て、馬鹿な男たち……! 彼らはわかりやすいようで、わかりにくい。ゴーガンについては、本当のところ今の時点では何ともいえません。彼らに比べてゴッホは、わかりにくいようで、わかりやすい。はっきり言って彼は……可愛い。
弟テオに子供が生れたとき、すぐに絵筆をとり、誕生を祝うにふさわしい「花咲く巴旦杏の枝」を描き贈ったゴッホは、憎めません。両耳揃っていようが揃っていまいが、そんなこと構いはしません。
背景は、シックな青です。そこに溶け込むようにも浮き出ているようにも見える絶妙な筆致で緑の枝が伸びやかに描かれ、白い小花がにぎやかに咲き出ています。アーモンドの枝と花々は、両親の腕に抱かれて笑いを弾かせる赤ん坊を連想させます。
初々しく力強く、それでいて透明感のある、どこか古典的端麗さをも持ち合わせたこの絵が、ゴッホの数多い絵の中でも、わたしが最も好きな絵です。
ここで、ゴッホとゴーガンの話題に戻りましょう。画集には、同じジヌー夫人という高齢域に近い中年女性を描いた両者の絵が収録されていました。これが同じ女性だろうか、と思うくらいの違いがそこにはあります。
ゴーガンが描いたジヌー夫人の絵からは、彼がタヒチへ行ってしまった謎が読み取れるような気がします。絵の向かって右前方にカフェの女主人ジヌー夫人が、どこか皮肉っぽさを湛えた艶っぽい笑みを口の端に浮かべ、左頬杖をついて座っています。背景には玉突き台、その後ろに顔はよくわからないながらキツネのように目の端が吊り上がった客たち、奥に平板に塗りこまれた赤い壁。
ジヌー夫人はしたたかそうで、腹黒そうで、気に入りの客には情け深そうでもある、如何にもカフェの女主人という感じの女性に描かれています。それ以上の人間でもそれ以下の人間でもないという、大雑把に値踏みしたような描き方です。
ただ見ようによってはジヌー夫人は地母神のようにも見えます。なかなかどうして、動かそうとしても動かしえない安定感が彼女には備わっているのです。タヒチへ行って、この安定感をゴーガンは発展させたかったのかもしれませんし、あるいは逆に、ねっとりと濃厚な、底意地の悪そうにも見えるこの女性は、彼の嫌悪する社会そのものの象徴である可能性もあります。
事実、ゴーガンは、これを描いたアルルという土地を嫌い、去ったのですから。いずれにしても、ゴーガンを知ろうとするうえで、興味深い絵ではあります。
他方、ゴッホのジヌー夫人。この絵に関しては、あまり説明を要しない気がします。ゴッホのジヌー夫人は、精神性の勝った、思慮深げな女性に見えます。とことん精神的な描き方です。理想をこめた描き方といってもいいかもしれません。
というのも、ゴッホのジヌー夫人はカフェの女主人には見えないからです。婦人会の会長か何かに見えます。翌年もゴッホはジヌー夫人を描いていますが、こちらはさらに彼の理解度だか理想度だかはわかりませんが、それが増した観のある、善良そのもののジヌー夫人です。
精神的な美点を際立たせるような描き方で、彼女は純朴な、それでいながら理智的でもある綺麗な笑みをほのかに見せて、こちらを見ています。柔和さの頂点に達した修道女といった雰囲気さえ備えているのです。
ゴッホは他人との交わりに、芯から精神的なものを求めた人に違いありません。まことに、いじらしい。社会人として生き抜くには、それが甘さ、弱点となった可能性も否定できないでしょう。
ゴッホ、ゴーガン、両者が描くジヌー夫人の違いは、彼らが求めたものの違いでもあるのでしょう。あたかも、ゴーガンのジヌー夫人が肉体を、ゴッホのジヌー夫人が精神をシンボライズしているかのような、劇的なまでの相違がそこにはありました。彼らの衝突には、肉体と精神の相克を見るようなシンボリックなものがある気がします。
縛りの中に息づきながら何かを求め続けるゴッホを、無能な安住者とばかりに足蹴にして、が、その縛りに徹底抗戦を挑むというより、逃走を企てたマッチョだったのか弱かったのかよくわからない男ゴーガン。
最晩年には、タヒチよりもっと辺鄙なマルキーズ諸島に暮らし、地域の政治論争に加わったりしたことが、ネットのフリー百科事典「ウィキペディア」に書かれていましたけれど……。何か奇異な感じを受けます。
ゴーガンは実際には、どんな人間だったのでしょう? そして本当のところ彼は何を求めたのか、別のエッセーで、彼の軌跡も追ってみたいと考えています。
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