村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅰ)
当小論をもとにした評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』
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村上春樹の「ノルウェイの森」が発売され、ブームを巻き起こしたとき、わたしの妹もそれを買い、読んで感動したと語った。上下2巻、赤と緑で装丁されたその本を自分で買って読んだのか、妹に借りて読んだのかがどうしても思い出せない。いつの間にか、本はなくなっていた。その後、研究したい気持ちに駆られて既に文庫になっていた「ノルウェイの森」を買った。
村上春樹の本は、1988年10月に講談社から書き下ろしとして出版された「ダンス・ダンス・ダンス」くらいまでは読んでいる。少女漫画のように読みやすいということ、食べ物・音楽・ファッションなど衣食住に関する描写が心地よく感じられること、それからさらに何か得体の知れない薄気味の悪さがあるという点で、次々に読みたくなったのだった。
居心地がいいけれど、厨房の奥に底知れない闇があるような、そんな喫茶店を行きつけとしていた時期があったといったら、いいだろうか。あくまで気晴らし、怖いもの見たさといった気分から出かけていたのだ。わたしには帰る家はちゃんとあったのだから。バルザック・パパのいる家が。その喫茶店は、グリムの「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるお菓子の家のようでもあり、人さらいのいるサーカス小屋のようでもあり、着飾った女性たちのいる遊郭のようでもあった。
こんなわたしの読み方、感じ方は特異すぎるだろうか?
そんな遊びごころも、「ダンス・ダンス・ダンス」を読んだときにさめた。これはとって食われると、本当に恐ろしくなったのだった。とって食うものの正体を見究めるには、きちんと研究する必要があるだろう。
研究するには全部を読まなければならない。時間がもったいないだけでなく、村上春樹の本を読むと、セックスをしたあとのような倦怠感に囚われるのが嫌だ。カフカ賞を受賞したという彼が、本当にノーベル賞をとることにでもなれば、嫌でも全部を読み、研究しなければならないとの危機感を覚えるだろうが……。そうならないことをミューズに祈り、ここではとりあえず「ノルウェイの森」にのみ焦点をあて、感じたことを書いてみたい。
★
文庫本の帯に「限りない喪失と再生を描く究極の恋愛小説」(上)「激しくて、物静かで哀しい、100パーセントの恋愛小説!」と謳われている「ノルウェイの森」。新聞広告でも、「ノルウェイの森」の読者から賛辞が沢山寄せられ、その多くがそのような読み方をしているだろうことを物語っていた。
だが果たして、この小説は本当に恋愛小説といえるのだろうか? 本当に恋愛小説として読まれているのだろうか? 精神病者の観察記録やポルノグラフィーとして読まれている可能性はないのだろうか? もし本当に恋愛小説として読まれているとするなら、ハーレークインロマンスのようにだろうか、純文学作品のようにだろうか?
「ノルウェイの森」は、乳の匂いのする独特の雰囲気を持つ小説だ。それというのも、作者が、物語の語り手であり主人公でもある《ワタナベ君》を終始、良識的な第一級の人物として扱っていて、万感を籠めた信頼を寄せているからだ。この関係は、息子を溺愛しすぎて、自分の物の見方も息子の物の見方も共に見失った母親のようだ。
ワタナベ君にわからないことは作者にもわからないし、作者が作品全体を通して読者に語りかけるという純文学作品ならではの読書の妙味や芳醇な味わいなどはこの作品では体験できない。そうしたものは期待するだけ間違っている。そこに読んだままのことしか存在しないのだ。だが、期待させるだけの変に飾った雰囲気をこの作品はまとっている。
作者と語り手の距離感のなさは、「ノルウェイの森」が日常的な思考域での思いつきを綴り合せたにすぎないことを示している。純文学作品において不可欠な、哲学的構築ということが考慮されていないのだ。ここのところが実は、娯楽作品と芸術作品を分ける分岐点なのだが……。
村上春樹がカフカ賞を受賞し、さらにノーベル賞受賞の可能性を取り沙汰されるに及んでわたしが驚いたのは、これが理由だった。勿論、ノーベル賞が娯楽小説に与えられる賞に変ったというのであれば、話は別だ。
ところで、ワタナベ君であるが、彼が誰かに似ているとずっとわたしは思っていて、思い出せなかった。ところがつい最近になって、思い出した。ワタナベ君は「源氏物語」に登場する人物中、最も魅力に欠ける男――続編「宇治十帖」に登場する――薫に似ているのだ。
いや、優柔不断で、恋する女性が最も精神的なつながりを求めているとき、その女性にフェラチオをさせて平然としている男、そして、その場面を美しく謳いあげることすらするような男が魅力的だと大方の人は思うのかもしれない。(さすがに「宇治十帖」では露骨な描写はないが、薫は優柔不断で甚だ頼りないにも拘らず、がめつくとるものはとる、つまりセックスだけはしてしまうような男だ)。
恋愛小説にセックスの気配が漂うのは当たり前の話だ。それはときに宝物のように扱われ、ときには瘴気を漂わせるに任される。それは微妙なもので、一応恋愛関係にある男女の場合であっても、ふたりの意識に乖離がありすぎる場合のセックスは、悲哀や失望をもたらし、程度が甚だしい場合には強姦に似たものとすらなるだろう。
どう描かれようと大抵恋愛小説にはなるのだが、「ノルウェイの森」の場合には、そこのところさえ危ぶまれるのだ。なぜなら、作者の意図と作中の女性の意識が甚だずれているように感じられるからだ。
登場人物である男女ふたりの意識がいくらずれていようと一向に構わないのであるが、ここでも作者とワタナベ君のみ息が合っていて、女性ばかりが蚊帳の外という感じなのだ。恋愛小説で、作中人物が如何に鈍感であろうとも、作者が鈍感であることは許されない。そのような滑稽さ、苛立たしさを感じるのはわたしだけだろうか。
もう少し丁寧に作品を見ていこう。〔続〕
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