レニングラード国立バレエ
中年女性の間で、バレエが流行っているようだ。知り合いにも1人、バレエを始めた人がいる。子供の頃にバレエを習っていたという人が多いようだ。中年期というのは、気軽に稽古事を始めたり再開したりしやすいのかもしれない。それ以前の年齢域では、それを職業にしたいという欲望につき纏われやすいだけに、挫折という苦い体験にも遭遇しやすい。
わたしもこの年になって、何か楽器を習いたいような気がしている。三味線か小鼓を。子供の頃ほんの少し齧った程度にしては、ピアノでは散々嫌な目に遭った。劣等感に苛まれたのは勿論のこと、練習曲に多いモーツァルトにはトラウマがあり、彼の曲が流れると、戦慄せずにはいられないし、何かしら不吉な予感にさえ駆られてしまうほどだ。
バレエには縁がなかった。それでも、ほのかな憧れがあり、山岸凉子の少女漫画「アラベスク」、新作で連載中の「テレプシコーラ」のファンであるし、黒木瞳の主演ドラマ「プリマダム」も観ている。
アンデルセンの童話「赤い靴」も記憶に残っている。狂ったように踊り続ける赤い靴。あの物語に出てくる天使は、悪魔さながらだ。赤い靴に魅せられたカーレンに骸骨になるまで踊るよう、命じるのだから。アンデルセンはなぜ、無慈悲ともいえるようなあんな凄惨な物語を書いたのだろうか?
再読してみると、カーレンに罰が下ったのは、彼女が成人儀礼とも見なされる堅信礼を受け、大人になったあとだということに気づかされる。彼女はそのとき、通常であれば分別を手に入れ、成熟するはずの年齢に達していたのだ。それに気づいてまた読み返すと、カーレンは赤い靴に魅せられたにとどまらず、憑かれ、ついには囚われの人となってしまった中毒患者のようにも見えてくる。
こんな女に、天使は、骸骨になるまで踊れと命じ、そう命じられたカーレンは首斬り役人に足を斬り落としてくれるように頼む。新約聖書の中でイエズスが「もしあなたの手または足があなたに罪を犯させるならば、それを切り取って投げ捨てなさい」(フランシスコ会聖書研究所訳)といわれたように。
しかし、それでも罰は下り続ける。彼女は、斬り落とされてなおも踊り続ける赤い靴を目にしなければならなかった。こんな彼女に再び天使が現れるのは、彼女があらゆる虚飾も欲望も剥ぎ取られ、まる裸となり、魂まであらわになったかに見えたときだった。それは彼女が、自身の内なる声に耳を傾けた瞬間でもあったろう。
救いは天使という外的なイメージをもって描かれるが、物語を辿っていくと、救いはカーレン自身の内面からやってきたことがわかる。無慈悲な天使も救いの天使も、彼女自らが想い描いたものだったといえるだろう。このアンデルセンの童話を取り入れた映画「赤い靴」も悲劇だった。こうした諸々の記憶が紗のように重なり合い、バレエは、はかなく手が届かない、美の象徴ともいえるようなイメージを伴う。
オペラやバレエのチケットは高い。なかなか公演に行く機会をつくれなかったが、娘がチケットをプレゼントしてくれたり、半額出してくれたりするようになったおかげと、この街に引っ越してきてから公演会場が歩いて行ける距離にあるという幸運も手伝って、昨年の秋から今年の冬にかけて、プラハ国立歌劇場「アイーダ」、次いでレニングラード国立バレエ「ドン・キホーテ」を観る機会を得た。
レニングラードというと、少女漫画「アラベスク」のヒロイン、ノンナが所属したバレエ団ではないか。自ずと胸が高鳴ったけれど、その前に行った「アイーダ」の豪華さがわざわいしたのか、演目のせいか、中だるみが印象に残り、全体として単調に感じられた。バレエを観たのは初めてだったから、わたしの方に楽しく観るだけの知識が不足していたということもあったのかもしれない。
オーケストラの方は、前に聴きに行ったことがあり、首席指揮者アニハーノフのもじゃもじゃ頭には見覚えがあった。オーケストラだけとってみると、演奏の粗さが幾分気になるが、盛り上げるコツは充分に心得ているという印象だ。
ヒロインのキトリ役は、東洋的な容貌を持つ大柄なオリガ・ステパノワというプリマだった。つま先で立った片足を軸にして他方の足を振るい、ぐるぐると旋回するグランフェッテアントールナンなどは軽業師のように楽しげに仕上げて見事だったが、むしろわたしは、第2幕第2場のドン・キホーテが夢見る場面で『森の女王』を踊ったオクサーナ・シェスタコワの方に華があったと思う。
それには肌色が大きいように思えた。ほのかに薔薇色を帯びた輝かしい白色の肌が「白鳥の湖」を連想させる白い衣装に映え、何とも美しかったのだ。絵画のようだった。対照的に、ステパノワは褐色の肌色だ。
ただシェスタコワの踊りにはどこか作為的というかわざとらしい、媚びているように見えるところがあって、それがなければもっとよかっただろう。彼女は「ラ・シルフィード」、「白鳥の湖」のオデット(オディール)、「眠りの森の美女」のオーロラ姫といった見所を踊り慣れたプリマのようだから、実力的にも主役を食ってしまったのは当然だったのかもしれない。
生のバレエを観ると、生身の人間が苦労して踊っているということがリアルに伝わってくる。いつもは公演に出かける際にオペラグラスしか携帯しないのだが、この日は夫の双眼鏡を借りて行った。それで、衣装の模様や風合いから、ダンサーたちのちょっとした動きや表情の変化まで、見えすぎるくらいに見えたのだった。トウで立つのが、大変そうだ。尤も、要所で瞬間的に立つ程度で、やたらとトウで立つわけではないようだ。
双眼鏡でドン・キホーテが夢見る場面を観ていたら、少し汗ばんで上気した白人女性たちの豊麗かつ彫刻的な白色の肌と肌が重なり合っては離れ、また重なり合うのが視界いっぱいに拡がり、美しさと生々しさと迫力との三重奏に圧倒され、何か純白の皿にてんこ盛りにされた生肉を見るような膨満感をすら覚えた。
次期主役を狙ってでもいるのか、勝気そうな表情で、必死に目を動かしてステパノワの動きを追っている若いダンサー、背後に退いたときに無責任にも私語しているダンサー、終幕を控える前の幕際に疲労困憊から無表情になっているダンサーたち……そうした姿の一つ一つを双眼鏡はしっかりと捉えた。
主役の魅力や構成について、考えさせられた。あれだけの見せ場を用意できるのであれば、もう少しストーリーと構成を何とかできないものかと思った。観客を喜ばせるために彼らはどうあろうとしたか、どうあらねばならなかったのかを考え、自分がこれから読者を喜ばせるためにどう書かねばならないかについて、多くのヒントを与えてくれた初のバレエ鑑賞だった。
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