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2006年4月16日 (日)

創作の神秘(Ⅰ)

 35年間もアマチュアで書いてきて、年齢も48歳ともなると、世に出られる可能性はほぼゼロに等しいだろうと推測せざるをえない。この年齢は、母が亡くなった年齢だ。

 母はわたしが中学1年生のときに慢性腎炎を患い、それが終生の宿痾となった。その年、わたしは月経が始まり、神経症がスタートし、創作が芽ぐむという波乱に満ちた年だった。なぜ神経症が始まったかといえば、小学生のときに親しい若い男性2人に性的な悪戯を受けたことが、重い意味合いを持って迫ってきたからだった。神経症といっても、内容は大したものではなく、頻尿になったというだけのことだ。

 だからこそ、やりきれなく、苦痛だったともいえる。現在、わたしは不整脈、狭心症、喘息、メニエール病、子宮内膜症と病気を沢山抱えているが、他愛ない頻尿を惹き起こすにすぎない強迫神経症ほどつらく感じられる病気は、まだ経験がない。それは別に肉体的な痛みをもたらすものではないのだが、何か人間の尊厳に関わる部分を剥奪されるかのような実感を伴う厭らしい病気なのだった。

 とりわけ母にいてほしかったその年、母は1年間の入院生活を強いられた。父は外国航路の船員で留守だったが、家政婦さんがきてくれていたので家事に困ることはなかった。わたしはそのうち母の留守をいいことに、したいことをするようになった。つまり、読みに読み、書きに書いた。そうやって、神経症を叩きのめそうとしていたともいえた。文学の世界は、光と香りでいっぱいだった。

 今でもそれは変らず、たとえアマチュアの物書きで終わろうとも、この世界から受け取っためくるめくばかりの悦びだけで、わたしは人生から過分の好意をもって遇されたといえよう。つい最近も、特筆すべきことがあった。

 尾籠な話題で申し訳ないが、わたしはここ5年ほど、お尻がお猿さんのように湿疹で赤くなっていた。ステロイドのつけすぎで患部は悪化し、日に5回は掻き毟らなくては気が治まらなかった。左耳の中もよくない。ステロイドはもうつけたくなかったが、つけなければどうしようもない窮地に立たされていた。

 なぜか、ふと、中断している児童文学作品のことが頭に浮かんだ。作品の中で、主人公の幼い弟が中世の西欧に通じる異次元の巨大な鍾乳洞の中で喘息の発作を起こす。それを錬金術師の娘が持っていた薬草で癒される場面がある……のだが、わたしの筆は進まなかった。薬草で、薬草なんかで、喘息が癒されるのだろうか? そういう疑問がわたしの中にあったためだった。

 デパートに新しく入ったハーブ専門店が連想され、わたしは衝動的にそのお店へと向かい、湿疹に効能のあるというカモマイル精油を勧められるままに買った。遮光性の青い壜に入っていた。化粧水としても使える、濃度の低いものだという話だった。

 その夜つまらないことで夫と喧嘩し、湿疹は痒い、おなかの具合は悪い、喉はゼロゼロするで、不快感もピークに達した感があった。でも、せっかくだからカモマイルを試してみようと思い、耳に塗り、肛門部にはナプキンに染み込ませて当てた。そして、本を読みながら炬燵でうたた寝してしまった。

 夜中に、高貴な清々しい雰囲気に包まれてはっとして目が覚め、女神様が「あなたを身も心もさわやかにしてさしあげますよ」とおっしゃったのを聴いた気がした(声を聴いたわけではない)。同じようなことが、もう一度あった。

 朝、目が覚めて不思議な夢を見たと思ったが、夢で女神様が約束してくださったように、爽快な気分だった。朝はいつも大量の痰を吐くことから始まるのだが、この朝はその必要がなかった。湿疹で傷んだ患部も、ほとんど痛みがない。心臓も重くなく、気分も爽快で、創作に関する焦りさえ消えていた。

 夢に現われた女神様を薬師如来と呼ぶべきかアロマテラピーの女神様(ハーブの女神様)と呼ぶべきか、ただ女神様と呼ぶべきかはわからないが、このところ長い間忘れていた高貴な存在のことを思い出した。創作の動機となってきたそうしたものへの信頼が、このところ薄らいでいたことをしみじみと反省した。それが1月の話で、これには続編がある。()

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