カテゴリー「Notes:アントニオ・タブッキ」の8件の記事

2017年4月28日 (金)

創作状況(初の歴史小説、エッセー)

改稿の下準備段階の御遺物メモで止まっている初の歴史小説「祐徳院物語」(仮題)だが、義理の息子のうち、大名となった弟の直條公によって創作された漢詩を読んでいる。

肥前鹿島藩第四代藩主鍋島直條由来の詩箋巻を翻刻・注釈したもので、中尾友香梨、井上敏幸『文人大名鍋島直條の詩箋巻』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2014)。

わたしは図書館から借りているが、この作品はセンターのホームページからPDF形式で閲覧、ダウンロードすることもできる。

分けていただいた、井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2016)もそうだが、どちらも貴重な史料だと思う。

昨日から今日にかけて、タブッキの本を2冊再読している最中に、なぜか初の歴史小説のことが思い浮かび、直條公の視点で萬子媛を描いてみたらどうだろう、という発想が浮上した。

初稿では、最初に村人を出したのが失敗だったような気がしている。何年かかるかわからないが、時間をかけて仕上げることにしたので、とりあえずこの案で書いてみたいと考えている。

萬子媛の断食入定についてだが、明治時代に禁止されるまで、日本では断食入定は主に密教系の仏教で行われたようだ。ジャイナ教がどこかで影響しているということは考えられないだろうか。

仏教とほぼ同時期に成立したといわれるジェイナ教は、インド独立運動の指導者マハトマ・ガンジーの非暴力運動にも影響を与えたといわれている(インド独立運動といえば、ガンジーと親交があり、独立運動のために自治連盟を組織し、国民会議の議長になったりした神智学協会第二代会長アニー・ベザントを連想する)。

ジャイナ教については、上記した程度の乏しい知識しかなかった。それがたまたまH・P・ブラヴァツキーを守護、指導したモリヤ大師のモリヤという名が、この大師の化身であった古代インドのモリヤ王朝(マウリヤ王朝)の始祖チャンドラグプタ・モリヤから来ているという神智学協会のエピソードが気になり、ウィキペディアで「チャンドラグプタ (マウリヤ朝)」を閲覧した。

すると、次のようなことが書かれていた。

ウィキペディア:チャンドラグプタ (マウリヤ朝)

ジャイナ教系の記録によれば、チャンドラグプタは晩年ジャイナ教を厚く信仰し、退位して出家し、ジャイナ教の聖人バドラバーフの弟子となり、出家後の名はプラバーカンドラとした。バドラバーフの下で苦行に打ち込んだチャンドラグプタは、最後は絶食して餓死したとされている。
ウィキペディアの執筆者. “チャンドラグプタ (マウリヤ朝)”. ウィキペディア日本語版. 2016-11-07. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)&oldid=61839301, (参照 2016-11-07).

少し驚きながら、ジャイナ教についてもウィキペディアを閲覧してみた。次の記述が印象的で、ジャイナ教に関する本を図書館から2冊借りたところ。ちなみに、仏教を守護した大王として有名なアショーカ王はチャンドラグプタの孫に当たる。

ウィキペディア:ジャイナ教

ジャイナ教はあらゆるものに生命を見いだし、動物・植物はもちろんのこと、地・水・火・風・大気にまで霊魂(ジーヴァ)の存在を認めた。
ウィキペディアの執筆者. “ジャイナ教”. ウィキペディア日本語版. 2016-10-19. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99&oldid=61585475, (参照 2016-10-19).

これは神智学を連想しないわけにはいかない。

そして、ジャイナ教に関する本を読み始めてすぐに、何ともいえないなつかしさが胸に込み上げてきた。カタカナで書かれている言葉に自分でも驚くくらいに反応し、それが郷愁に変わる驚き。

これまでカタカナに邦訳されたサンスクリット語、パーリ語、チベット語などを見ると、苦手意識のほうが先に立ったのだが、ジャイナ教の解説の雰囲気の中で馴染みのないはずの、あるいは目にして苦手に感じたはずの言葉がなぜか心に沁みて、その言葉をつぶやきたくなるのである。

わたしは過去記事で、前世とあの世のわずかばかりの霊的記憶を持って生まれてきたとたびたび書いてきた。

そして、間抜けなことに、この世で果たすべき使命があるという思いを持ってこの世に下りてきながら、それが何であるかを完全に忘れ、覚えているのは前世は年老いた僧侶として死んだということ、太陽と大気に関するこの世とあの世におけるそれらの性質、感触、色彩の違いだけだった。ただ小学生のころまで、秘かに瞑想をする習慣を前世から持ってきていた。

自分がどんな宗教に属していたのか、それすらわからず、若いころからキリスト教、仏教など、あれこれ惹かれる宗教は多かったのだが、諸宗教を総合してそこから高純度のエッセンスを抽出する作業を行った近代神智学運動の母ブラヴァツキーの著書に強く惹かれたのを別にすれば、どれにももう一つ違和感があった。

しかし今、おそらく、わたしは前世の一つでジャイナ教の僧侶であったことがあったに違いないと考えている。子供のころに萬子媛の断食入定を知って、恐ろしいと思いながらも強い印象を受けて、ずっと忘れられなかったのも、前世の一つにおけるジャイナ教体験から来ているのかもしれない。

江戸時代の日本で禅宗の黄檗僧としての生きかたを貫かれた萬子媛だが、古代インドでジャイナ教に属していた前世もお持ちでは……と空想したくなる。勿論これは完全なわたしの空想にすぎない。

前掲のウィキペディア「ジャイナ教」には、断食入定について次のように解説されている。

ウィキペディア:ジャイナ教

アヒンサーを守るための最良の方法は「断食」であり、もっとも理想的な死はサッレーカナー(sallekhanā)、「断食を続行して死にいたる」ことである。マハーヴィーラも断食の末に死んだとされ、古来、段階的な修行を終えたジャイナ出家者・信者のみがこの「断食死」を許された。
ウィキペディアの執筆者. “ジャイナ教”. ウィキペディア日本語版. 2016-10-19. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99&oldid=61585475, (参照 2016-10-19).

まだざっと2冊の本に目を通した程度だが、自身の思い込みを除外しても、ジャイナ教にはとても魅力的なところがある。また、仏教とよく似ていることに驚かされる。

サイト「仏教へのいざない」の仏教入門「第3回 仏教とジャイナ教」によると、この二つの宗教は「双子の宗教」だとか「姉妹宗教」などと呼ばれているそうである。

  • 仏教へのいざない
    http://todaibussei.or.jp/izanai/izanai_index.htm

アントニオ・タブッキの本を2冊再読したのは、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に書きかけのタブッキに関するエッセーの続きを書くためだ。

再読したのは、アントニオ・タブッキ(鈴木昭裕訳)『レクイエム』(白水社、1999)、アントニオ・タブッキ(和田忠彦訳)『イザベルに ある曼荼羅』(河出書房新社、2015)。

タブッキに関するエッセーはまだまだ続くが、次のエッセーを書いたら、タブッキにはしばらく時間を置く。ロシアのフリーメーソンがイルミナティに侵食される過程を描いたトルストイの『戦争と平和』に関するエッセーも、当ブログから「神秘主義的エッセー」のほうへ移しておきたい。

それから、初の歴史小説へ。

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2015年3月29日 (日)

アントニオ・タブッキの新刊『イザベルに ある曼荼羅』(和田忠彦訳、河出書房新社、2015年) ※31日に加筆あり。

タブッキのファンで、わたしにタブッキのことを教えてくれた娘が炬燵テーブルのわたしの場所に、何気なくその本を置いていた。

Tabu8
イザベルに: ある曼荼羅

勿論、娘は自分のためにその本を買ったのだが、わたしと喜びを共にしたいのだ。

娘に教えられてタブッキを読むようになり、魅了されるまでに時間はかからなかった。

それだけではなく、タブッキの作風に、神智学徒として神智学の影響を感じないわけにはいかないので、その方面から研究したいと思うようになった(わたしの家族は神智学にも神智学協会にも関心がないが、わたしが毎年神智学協会の会費を払って――年会費が4,500円から5,000円に上がった――インドのアディヤールにある神智学協会国際本部の会員名簿に登録された自分の名前が抹消されないよう、更新していることは知っている)。

文学関係では他に待っていることが山ほどあるので、とりあえず当ブログにノートだけでもと思い、カテゴリー「Notes:アントニオ・タブッキ」を設置したのだった。

そして、図書館からこれまでに邦訳・上梓されたタブッキの本は全部借りて、だいたいの傾向は掴んだものの、ノートのほうはあまり進んでいない。

最近では夏目漱石の作品にふと疑問を覚え、深入りする気のないままに調べているうち、漱石との関連で出てきた鈴木大拙が神智学協会の会員だったことを知り、『神秘主義』『日本的霊性』を読んだら、これまたカテゴリー「Notes:夏目漱石」を設置せざるをえなくなった。

漱石や彼と対照的な生きかたをした鈴木大拙の作品を読み、調べるのも、まだまだこれからだが、大拙の『神秘主義』『日本的霊性』を読む限り、それらには神智学徒ならではの視野の広さや偏見を排した厳密さがあって、神智学協会の目的(以下に引用)を連想させられるところがある。

神智学協会の目的
1)人種、信条、性別、階級、皮膚の色の相違にとらわれることなく、人類愛の中核となること。
2)比較宗教、比較哲学、比較科学の研究を促進すること。
3)未だ解明されない自然の法則と人間に潜在する能力を調査研究すること。

アントニオ・タブッキの新刊『イザベルに ある曼荼羅』の原題は Per Isabel: Un mandala と解説にあり、邦題は原題そのままであることがわかる。

うっとりするくらい、綺麗な本……

Tabu6

目次からして魅力的だ。「第一円 モニカ リスボン 想起」と始まって、これが第九円まである。目次の最後は「『レクイエム』から『イザベルに』へ 夢うつつのはざまで」だが、これは訳者による解説となっている。

この作品は『レクイエム』に重なるところがあるらしいので、図書館から再度借りた。傾向を見るために借りただけで、読了していなかったから。

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ウィキペディアに「イタリアは1985年までカトリックが国教だったが、廃止によって信者が激減している」とあるが、『インド夜想曲』は1984年に発表されているから、その時点ではイタリアはまだカトリックを国教としていたということだ。

『レクイエム Requiem』の発表は1992年。そして、この『イザベルに ある曼荼羅』という本の誕生に関して註に、以下のような興味深いエピソードが紹介されている。

 この書物についてアントニオ・タブッキの〈出版許可〉は存在しない。それゆえ作家の作品としては歿後に出版される未刊の遺作第一号ということになる。(……)作品全体は一九九六年、ヴェッキアーノで口述された。(……)ほかの作品の執筆に取り掛かっているうちに、方向もいろいろ変わっていった。旅を重ね、国境を越えていくなかで、この作品をある親友の女性に預けることにしたのだ。ようやく預けた作品を、読み直したいから返してほしいと言ったときには、おそらく出版する意志が固まっていたのだろう。だが、それは二〇一一年のことだった。そしてその秋には病を得ていた。(pp.177-178)

曼荼羅を知らない日本人は少ないと思うが、1996年当時、イタリアで曼荼羅はポピュラーなものだったのだろうか?

過去記事で書いたが、フィレンツェの書店主さんとメール交換している娘によると、書店主さんは邦訳版の源氏物語をお読みになるくらいの読書家なのだが、タブッキはお読みになったことがない。

自国の作家ではルイージ・ピランデッロ、ディーノ・ブッツァーティ、イタロ・カルヴィーノがお好きだそうだ。最近、娘は書店主さんの文学や演劇の話についていけなくなり、中断中。短期間だけ、やはり娘のメル友だったイタリアの地震学者はタブッキがお好きとのことだった。

娘は目下、イタリア語講座の家族的雰囲気に満足していて、そこでイタリアへのあこがれがかなり満たされている様子。年輩の人が多いが、とっても楽しそう(わたしも娘につき合って体験学習した)。それで、メール交換のほうがなおざりになっているようだ。

話が横道に逸れてしまった。

『レクイエム』(鈴木昭裕訳、白水社、1996年)を何気なく開いた頁に、スピノザが出てきた。

実は漱石ノートに追記を書くつもりだったが、それがアリストテレスとスピノザのことだった。

娘がカルヴィーノのタロット・カードをテーマにした作品を話題に出したので(河出文庫版『宿命の交わる城』)、本棚を漁っていたら、なくなったと思っていたアリストテレスの本『形而上学』と、「世界の名著」シリーズに入っていた1冊しか持っていないと思い込んでいたスピノザの文庫版が何冊も出てきた。

それらを読み返して書き留めたくなったことが出てきたため、今日はそれについて書くはずが、なぜか今、タブッキについて書いている。鈴木大拙にしても、タブッキにしても、作品に触れると、「この神智学徒め!」と歓喜の声をあげたくなる。

わたしの好きな本、関心を持った本がよく出てくるし、何しろ内容に共鳴できて、心地よいからだ。

以下の緑字部分は31日に加筆。

神智学徒という呼びかたは不用意にすぎるかもしれない。タブッキに関しては、神智学協会と関わりがあったかどうかは知らない。「神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ④で書いたように、その作風から神智学の徒といったにすぎない。

タブッキに覚えたのと同じ親しみを期待して、ペソアの本を繙いたのだった。ところが、ペソアの本は見知らぬ思索者の本として存在していた。

流派の違いをはっきりと感じ、改めてアントニオ・タブッキが神智学という思想、思考法と如何に関係の深い人であるかがわかった気がした。タブッキが神智学協会の会員であったかどうかは知らないが、彼の諸作品は神智学の芳香を放っている。

『白水Uブックス 99 インド夜想曲』(須賀敦子訳、白水社、1993年)に次のようなくだりがある。

「おねがいだから」僕は言った。「思い出してよ。協会っていったいなんの協会なの」
「わかりません。学問の集まりじゃないかしら。たぶん。でも、わかりません」(……)なにか思い出したようだった。「神智学協会です」そう言って、彼女は初めてにっこりした。
(p.22)

「彼が神智学協会の会員だったかどうか、僕は知りたいのですが」僕は言った。
会長はじっと僕を見つめ、「メンバーではありませんでした」と小さく否定した。
「でも、あなたと文通をしていたでしょう?」僕は言った。
「そうでしたかな」彼は言った。「たとえそうだとしても、個人的な文通でしたら、内容を申しあげるわけにはいきません
(pp.70-71)

「でも、どうしてゴアに行ったんだろう。もし、なにかごぞんじでしたら、おっしゃってください」
 彼はひざのうえで手を組みあわせ、おだやかに言った。「存じません。あなたのお友だちが具体的にどんな生活をしておられたか、私は知らないのです。お手伝いはできません。残念ですが。いろいろな偶然がうまく噛み合わなかったか、それともご自分の選択でそうされたのか。他人の仮の姿にあまり干渉するのはよくありません」(
pp.79)

インドで失踪した友人を探して神智学協会を訪ねた主人公に、協会の会長は主人公をじらすような、意味深な態度をとるが、確かに協会には誰が会員であるとかないとかといったことを穿鑿したり、アピールしたりする習慣がない。

よく宗教団体にあるような、有名人を広告塔にする習慣でもあれば、神智学の影響を受けた作家について調べ始めたわたしのような人間には好都合なのだが――。

このようなことをプライベートなこととして干渉しないのは、最初の引用で女性がいうように、神智学協会が宗教の集まりではなく、学問の集まりだからだろう。

ところで、『レクイエム』の訳者あとがきで、主人公が会おうとする相手は「詩人」「食事相手」としか呼ばせていないが、ペソアであると名前を明かしてある。

タブッキがペソアに強く惹きつけられたのも、心情的によくわかる。ペソアは神秘主義者ではない。形而上学徒だと思う。

神智学徒には神秘主義者が多いと思うが、神秘主義者は形而上学徒に惹かれる傾向があるのかもしれない。

偶然にも、わたしには「詩人」と呼んだ女友達がかつていて、追悼短編小説まで書いたのだが、彼女は形而上学徒だった(当人にその自覚はなかっただろう)。

詩人の死

ウィキペディアによると、曼荼羅はサンスクリット語の言葉を漢字によって音訳したもので、マンダラには丸いという意味があり、円には完全・円満などの意味があることから、これが語源だろうという。

神秘主義は丸く、形而上学は直線だから、違いは一目瞭然なのだ。

違いがわかっていても(わかっているからこそというべきか)、何しろこちらは丸いので、包容せずにいられないというわけである。

W・Q・ジャッジ『オカルティズム対話集』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成8年)に以下のような問答がある。

学徒 オカルティズムとは何ですか?
師匠 卵の形で宇宙を現そうとする知識の分野です。(pp.44-45)

たぶん『レクイエム』『イザベルに ある曼荼羅』は近いうちに読了すると思うが、タブッキノートを更新できるかどうかはわからない。

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2014年3月27日 (木)

神秘主義者としての課題と最近の出来事

 出しておきたい本は何冊もあるのだけれど、電子本にするにはかなりの時間を食うので、それだけ新しい作品を書いたり、これまでに書いたものをまとめたりする時間が減ってしまうことになる。

 素人稼業の限界というものを感じ出した。本になるという望みを後世に託して、ひたすら執筆に取り組むだけの世に対する信頼感がわたしにはない。

 自分がしない限りは、誰もしてくれないのだ。

 だから、優先順位を決めることが重要になってくる。その優先順位は、今後わたしにどれだけの時間が残され、その時間をどの程度自分で使うことができるかで、違ってくる。

 世の中には様々な作品が溢れている。わたしは女として、それもとりわけ子育てをした専業主婦として生きてきて――ずっと執筆を続けてきたわけだから、お金をほとんど稼げない兼業主婦というほうが実態に即しているだろうが――、その観点から書きたいことが沢山ある。

『台風』、そのうちキンドル本にする予定の『侵入者』、『地味な人』、『白薔薇と鳩』はそうした傾向の強い作品で、まだまだ書き足りないのだが、それより今は神秘主義者として生きてきた観点から書きたい思いが強い。

 これまでに出したキンドル本のうち、その傾向の強い作品は『枕許からのレポート』(パブー版は無料)、『昼下がりのカタルシス』、『詩人の死』である。

『詩人の死』では、詩人と呼んだ女友達がモデルとして登場する。彼女とは、神秘的な次元での交流やその類の意見の交換などは皆無だった。が、統合失調症に苦しむ彼女を見ていて、神秘主義的な観点から考えさせられた様々な事柄があった。

 たとえば、以下のような事柄である。直塚万季『詩人の死』(ノワ出版局、キンドル版、2013年)より抜粋。

 ところで、これは神秘主義ではよく知られていることだが、霊的に敏感になると、他の生きものの内面的な声(思い)をキャッチしてしまうことがある。
 人間や動物に限定されたものではない。時には、妖精、妖怪、眷族などという名で呼ばれてきたような、肉眼では見えない生きものの思いも。精神状態が澄明であれば、その発信元の正体が正しくわかるし、自我をコントロールする能力が備わっていれば、不必要なものは感じずに済む。
 普段は、自然にコントロールできているわたしでも、文学賞の応募作品のことで頭がいっぱいになっていたときに、恐ろしいというか、愚かしい体験をしたことがあった。賞に対する期待で狂わんばかりになったわたしは雑念でいっぱいになり、自分で自分の雑念をキャッチするようになってしまったのだった。
 普段であれば、自分の内面の声(思い)と、外部からやってくる声(思い)を混同することはない。例えば、わたしの作品を読んで何か感じてくれている人がいる場合、その思いが強ければ(あるいはわたしと波長が合いやすければ)、どれほど距離を隔てていようが、その声は映像に似た雰囲気を伴って瞬時にわたしの元に届く。わたしはハッとするが、参考程度に留めておく。ところが、雑念でいっぱいになると、わたしは雑念でできた繭に籠もったような状態になり、その繭が外部の声をキャッチするのを妨げる。それどころか、自身の内面の声を、外部からやってきた声と勘違いするようになるのだ。
 賞というものは、世に出る可能性への期待を高めてくれる魅力的な存在である。それだけに、心構えが甘ければ、それは擬似ギャンブルとなり、人を気違いに似た存在にしてしまう危険性を秘めていると思う。
 酔っぱらうことや恋愛も、同様の高度な雑念状態を作り出すという点で、いささか危険なシロモノだと思われる。恋愛は高尚な性質を伴うこともあるから、全くだめとはいえないものだろうけれど。アルコールは、大方の神秘主義文献では禁じられている。
 わたしは専門家ではないから、統合失調症について、詳しいことはわからない。が、神秘主義的観点から推測できることもある。
 賞への期待で狂わんばかりになったときのわたしと、妄想でいっぱいになり、現実と妄想の区別がつかなくなったときの詔子さんは、構造的に似ている。そんなときの彼女は妄想という繭に籠もっている状態にあり、外部からの働きかけが届かなくなっている。彼女は自らの妄想を通して全てを見る。そうなると、妄想は雪だるま式に膨れ上がって、混乱が混乱を呼び、悪循環を作り上げてしまうのだ。
 こんなときにナルシシズムと性欲を以て直子に接した、『ノルウェイの森』のワタナベくんのような人物は、危険である。妄想の繭から出るには、直子が自身で澄明な精神状態になるしかないところへ、彼はそれを手助けするどころか、逆のことをやってしまうからだ。『ノルウェイの森』はわたしにはどうしても危険と感じられる作品なのだが、神秘主義的観点からみれば、村上春樹の作品にはもっと危険なものもあると思う。

 神秘主義者は敏感であるだけに様々な刺激に晒されがちであり、この年齢まで生きてくることがわたしには結構大変だった。反面、喜びも大きかった。

 一般の人々は、日々の糧のための労働と現状の満足を得ることで頭の中がいっぱいだ。それが当然だとも思う。一日の終わりには、快い酔いをもたらしてくれるお酒のような作品が求められる。商業主義は、そこにのっかる。刺激する。

 大衆の求めに応じる作品作りに多くの作家、賞の応募者は追われている。

 わたしは別のことがしたいと思った。わたしの本が売れないのは当然なのだ。それでも、前掲のような神秘主義者の実感と発見をこめた作品に、★一つの烙印を押されるとがっかりする(幸い、すぐに高評価をいただいて、そのかたがわたしにはミューズの使者に想えたほどだった)。

 わたしの本になど目をくれる人はほとんどいないところへ、★一つのような判定が煙幕のような役目を果たしてしまい、酔うことではなく、神秘的なもの、繊細なもの、深いもの、死後の世界にまでもっていけるものを求めている人々にわたしの作品がますます届かなくなることを畏れる。

 世間にはこの類の作品が溢れているようだが、神秘主義に関する平均以上の知識と真摯な姿勢がありながら、ごくありふれた一般人としても生きているわたしのような人間の作品といえば、本当に少ないのだ。

 ほとんどが体験を経ていない借り物にすぎないか、読むことが危険であるようなものか、逆にとても高尚なものであるかのいずれかであることが多いのだ。

 酔うことではなく、神秘的なもの、繊細なもの、深いもの、死後の世界にまでもっていけるものを求めている人々は本当にわずかで、そのうちの電子本を読む人となると、どれだけ少ないだろうと思う。でも、確実にそういった人々はいる。

 呪わしい商業主義、と思うが、その商業主義のお陰でわたしは本を出せるのだから、勿論他方では感謝している。

 神秘という言葉は、現代では雑多なものを含みすぎている。

 わたしの理解している神秘主義は厳密な学問そのものであり、面白いというより、難しいもの、実験を伴うものだ。前掲の抜粋で書いたような、一種のテレパシー現象というべきものをわたしはずっと研究している。

 わたしの作品は、砕けた表現で行う、その発表の場でもあるのだ。

 一種のテレパシー現象というべきもの――といえば、最近こんなことがあった。

 出したばかりのキンドル本『気まぐれに……』が出たか出ないかの頃(体調が悪かったため横になっていたので、確認していなかった)、比較的若い男性がおそらくはわたしの本を見て、愉快でたまらないといった風に笑っている雰囲気が伝わってきた。

 嫌な笑いではなく、軽い楽しげな印象で、わたしの本に何か滑稽なところでもあるのだろうか――と感じさせた。わたしの気のせいか、妄想かもしれないと思ったが、気になり、確認してみることにした。

 そして、前の記事に書いたように、『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む ①2007~2012』が出ていて、それはいいけれど、アマゾンの商品ページの本のタイトルを見ると、丸囲み数字の1が見事に文字化けして、2007年が12007年という壮大な未来の年に変貌してしまっていた!(訂正済み)

 ああ、このことを笑っていたんだなと思った。

 人間のハートは自分の思いをも含めた様々な思いを受信する優れた装置であるが、自らの雑念が相当な乱れを惹き起こすこともあって、受信技術に長けるにはハートを清浄に保てるようになる以外になく、神秘主義者は敏感であるだけに、下手をすれば、2ちゃんねる用語にある電波系のような人間になってしまうだろう。

 インテリの雰囲気のある男性が、わたしの本に関心を向けているのも感じられた。そのあと、新しい本が1冊だけ売れたのを確認したが、買ってくれたのはその人かもしれない。まあわたしの妄想かもしれない。

 こうした一種のテレパシー能力は、科学が進めば裏付けることのできる現象だと神秘主義文献には書かれている。この能力は万人にどころか、動物にも植物にも、肉眼には見えない存在にも備わっているはずだ。

 ブログを書いたり、本を出したりしていると多くの人の思いをキャッチしてしまうことになるので、訪問者も購読者も少ないのが幸いしている状況ともいえる。

 しばらくは初の歴史小説にかかりきりになるだろう。その前のちょっしたお楽しみに、タブッキとシモーヌ・ヴェイユの本を借りてきた。タブッキは研究を進めたいが、今は時間がとれない。

 過日、神智学協会ニッポン・ロッジからインド国際本部の会長の選挙用紙が送られてきたので返送したが、アンケート用紙もあり、自由な書き込みのできる欄があったので、「神智学の影響を受けたと思われる作家がわかるようでしたら、教えていただくか、会報誌で特集していただけたら嬉しいのですが」と書いてみた。

 わたしの確認したところでは、作品にはっきり「神智学」と出している作家はタブッキ、カロッサ、ハクスリー。また、ノーベル文学賞を受賞したチリの女性詩人ガブリエラ・ミストラルの略歴には、神智学のチリにおける会に入会したような記述がある。

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2014年3月15日 (土)

神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ④フェルナンド・ペソアの青い哲学的果実

 ③を書いたあと、フェルナンド・ペソア読んでおかなくてはと思い、図書館からフェルナンド・ペソア『新編 不穏の書、断章』(澤田直訳、平凡ライブラリー780、2013年)を借りた。タブッキ『黒い天使』、『イタリア広場』。『フェルナンド・ペソア最後の三日間』を再度。『ビクトリアス・ポターの生涯』。他は初の歴史小説のための資料として借りた本。

 フェルナンド・ペソア『新編 不穏の書、断章』は神秘主義者の瞑想的断章という趣ではなく、形而上学的思索の断章で編まれた本という印象で、わたしには難しいところがある。しばしば著者の思考を追っていけず、取り残される。わたしの読解力のなさが原因の一つではあろうが、これがペソアの試行錯誤の書でもあるからだと思う。

 タブッキに覚えたのと同じ親しみを期待して、ペソアの本を繙いたのだった。ところが、ペソアの本は見知らぬ思索者の本として存在していた。

 流派の違いをはっきりと感じ、改めてアントニオ・タブッキが神智学という思想、思考法と如何に関係の深い人であるかがわかった気がした。タブッキが神智学協会の会員であったかどうかは知らないが、彼の諸作品は神智学の芳香を放っている。

「神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界」ももう④になってしまった今頃になってだが、神智学をご存知ないかたのために、ライン以下に「はてなキーワード:神智学」から引用しておく。

 タブッキは「インド夜想曲」で、「僕」に、ペソアはグノーシス神秘主義者と公言していた薔薇十字だったといわせている。「インド夜想曲」は小説だが、著者タブッキはペソア研究の第一人者だったそうだから、「僕」の言葉はタブッキのペソア研究から出たものなのだろう。

 解説には、それらしいことは何も書かれていない。わたしは薔薇十字をのぞき見したことがあるだけなので、ペソアの作品が薔薇十字的かどうかはわからない。そこに漂う薫りは少なくとも神智学の薫りではない。「汎神論、アレゴリー的解釈法、折衷主義、直接の体験によって真理を知ろうとする神秘主義」といった神智学の特徴が見出せない。

 ペソアはひじょうに真摯な、形而上学的思索者というほうがぴったりくる気がする。

 グノーシスの定義は難しいようだが、グノーシス主義の特徴は二元論だといわれる。ペソアは二元論的である。が、神秘主義者といわれても、わたしにはどこがそうなのかがわからない。

 ウマル・ハイヤームの詩が引用されているせいで、連想が働くのかも知れないが、イスラム思想の影響がある気がする。わたしは大学時代、ハイヤームにも惹かれた時期があったが、ペルシャの神秘主義的詩人ルーミーの『ルーミー語録』を読み、イスラム神秘主義[スーフィズム]の高級感ある世界に驚嘆した。

20140312190649

 しかしペソアは、ルーミーの洗練の極みのような陶酔の境地からも、ハイヤームの虚無的完成度からも遠く、近代的な、そして過渡的な青臭さがあって、陶酔しかけては用心して覚め、虚無に徹するには躊躇があるといった風ではないだろうか。

 タブッキが描いたようなペソア像――ペソアの創作した群像というべきか――は、わたしはちょっと違うという気がある。タブッキのペソア像は、すこやかに神秘主義を呼吸していたタブッキ自身の投影、ヴァリエーションとしか思えない。

『新編 不穏の書、断章』には印象的な断章が多く存在する。わたし好みの――引っかかる部分も含まれるのだが――独特の禁欲的な美しさを帯びた断章を以下に抜き書きしておきたい。

P249
 私たちひとりひとりが小さな社会なのだ。少なくともこの地区の生活を優雅で卓越したものにしなければならないし、われらの感覚の祝祭を抑制し、われらの思考の祝祭を簡素で礼儀正しいものとしなければならない。周囲では、別の魂たちが、貧しく汚い地区を建設することもあるだろう。どこからがわれらの地区なのか、その境界をはっきりと標し、われらが高い建物の外壁から、遠慮深い秘密の部屋まで、すべてが高貴で、静謐であり、簡素に彫刻をほどこされ、すべてが物静かで、目立たないようにしよう。こうして、愛は、愛の夢の影となり、青白く、月に照らされた二つのさざ波の、波頭のIあいだのさざめきのようになる。欲望は無用で攻撃性のない、魂が自分とだけ交わす優しい笑顔のようにしよう。そして、魂はけっして実現を夢見ることも、自分に言って聞かせることもないようにする。捕らえた蛇のように憎悪を眠らせ、恐怖には、視線の奥底、われらの魂のなかの視線の苦悩以外の表現を控えるようにさせること。これこそ唯一、美学に反さない態度だ。

P308-309
 私は、肘をついてぼんやりと座っていた机から立ち上がる。私はこれらの不揃いな印象を自分に語って楽しんだ。私は身を起こし、窓のところへ行く。窓からは屋根が見え、沈黙がゆっくりと始まるなかで、眠りにつく街が見える。月は大きくて、ほんとうに真っ白で、家並みの微妙な違いに悲しく光を当てている。そして、月の光は、その氷のような白さで、世界の神秘全体を照らしているかのようだ。それはすべてを示しているように見える。だが、すべては偽の光と、まやかしの間隔(インターヴァル)と、不合理な高低差と、目に見えるものの不整合性からなる影にすぎない。風ひとつなく、神秘が増したように思われる。私は抽象的な思考に嘔吐感を覚える。私自身の啓示であり、なにかの啓示であるような文を、私はけっして書くことはないだろう。薄い雲が月の上を、隠れ家のように、ぼんやりと漂っている。私は、これらの屋根と同様、なにも知らない。私は、自然全体と同じように、座礁してしまったのだ

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続きを読む "神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ④フェルナンド・ペソアの青い哲学的果実"

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2014年3月12日 (水)

神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ③「フェルナンド・ペソア最後の三日間」

 アントニオ・タブッキ『フェルナンド・ペソア最後の三日間』(和田忠彦訳、青土社、1997年)を読んでいた。

 タブッキは、実在した詩人ペソアの最後の三日間をモチーフに描いている。ペソアの作品要素を巧みに採り入れたペソア解釈ともなっているようだ。とすると、『夢のなかの夢』と似た構成になっている。

 しかし、わたしが読みながら驚いたのは、この本が純良100%の神智学の本だということである。ごく普通の幻想小説としても読めるところが――一般人ならそのような読み方だろうし、勿論それで構わないのだろう――この作品の優れたところだ。

 本をちょっと開いてみただけでも目につく、というより全部だ。神秘主義は単なる知識ではなく、思想を呼吸することだから、当然とはいえ……月並みな表現だが、すばらしいの一言に尽きる。

 今は解説をするゆとりがないが、いずれタブッキについてはまとまった長さの――150枚くらいは――評論を書きたいと思っている。娘につき合って観ているイタリア語講座は、いずれ書くそのときのためにも……。

 以下はタブッキをご存知ない方のために、ウィキペディア「アントニオ・タブッキ」ページへのリンク。

アントニオ・タブッキ:Wikipedia

 しかし、この解説にはタブッキの作品に特徴的な神智学に関する情報が欠けている。邦訳書の解説全てもそう。

 タブッキの心酔したペソアが薔薇十字だったという情報もない。邦訳書の解説全てもまたそう。

 前にも書いたことだが、よくここまで無視できるものだと呆れるほかない。

 神秘主義を長い間、否定、蔑視、無視、抹殺、抑圧してきたリベラル(中道左派)系人々が意識的に行っていることなのか、無意識的に、あるものもないことにしてしまうのかはわからない。

 リベラルといえば恰好よく聴こえるが、要するに本質は幼稚な唯物論ということだ。幼稚というのは、神秘主義もまたその本質は唯物論であることからなされた、神秘主義側からの区別である(参照)。

 以下の引用は、神智学協会を設立したブラヴァツキーの思想の正統な継承者と目されてきたレーリッヒ夫妻のうち妻エレナ・レーリッヒの著書『新時代の共同体』(日本アグニ・ヨガ協会、平成5年)の用語解説より。

唯物論 近代の唯物論は精神的な現象を二次的なものと見なし肉体感覚の対象以外の存在をすべて否定する傾向があるが、それに対して、古代思想につながる「霊的な意味での唯物論」(本書123)は、宇宙の根本物質には様々な等級があることを認め、肉体感覚で認識できない精妙な物質の法則と現象を研究する。近代の唯物論は、紛れもない物質現象を偏見のために否定無視するので、「幼稚な唯物論」(121)と呼ばれる。「物質」の項参照。

物質 質料、プラクリティ、宇宙の素材。「宇宙の母即ちあらゆる存在の大物質がなければ、生命もなく、霊の表現もあり得ない。霊と物質を正反対のものと見なすことにより、物質は劣等なものという狂信的な考えが無知な者たちの意識に根づいてきた。だが本当は、霊と物質は一体である。物質のない霊は存在しないし、物質は霊の結晶化にすぎない。顕現宇宙は目に見えるものも、最高のものから最低のものまで、輝かしい物質の無限の面を私たちに示してくれる。物質がなければ、生命もない」。(『手紙Ⅰ』373頁)

 バランス感覚から出たと思えるタブッキの政治的行動と日本のリベラル――進歩的文化人というべきか。今や退歩的文化人といったほうがいいかもしれないが――との違い。

 豊かな内面性を保持したまま行動するタブッキと、群れる以外は大して有益な政治活動を行うわけでもないのに、イデオロギーに染まって内面性の干からびた人々。

 尤も、日本人が昔からこうだったわけではない。大正から昭和にかけて活躍した文化人が書き残したものを読むと、戦後の文化人の知的、精神的な衰退ぶりがよくわかる。

 反日勢力と見分けがつかなかったり、既得権益に群がっているようにしか見えなかったりする。大正から昭和にかけて活躍した文化人は独自の哲学を持ち、精神的に屹立していた。誇らしげな日本人であって、何かにコントロールされている風ではなかった。

 美しい訳でタブッキの作品が読めることは本当にありがたい。

 それでも、作品を専門的に見ていくとなると、タブッキ、ペソアを神秘主義との関係性の中で読み解く必要があることは、タブッキの「インド夜想曲」からも明らかだ。

 以下は、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(須賀敦子訳、白水社、2013年)からの引用。彼、というのは作品の中ではマドラス(現チェンナイ)にある神智学協会の会長という設定。

P76
 彼は目をあけ、悪意、でなければ皮肉をこめて、僕を見た。「あなたの好奇心はどの辺りまでですか」

「スウェーデンボルク」僕は言った。「シェリング、アニー・ベザント。すべて少々かじっただけです」彼が興味を示したのをみて、僕はつづけた。「でも、間接的に知った人もあります。たとえば、アニー・ベザントがそうです。フェルナンド・ペソアが彼女の書いたものを訳したからです。ペソアはポルトガルの大詩人で、一九三五年に、無名のまま死にました」
「ペソア」彼が言った。「そうね」
「ご存じですか」僕はたずねた。
「ちょっとだけ」会長は言った。「あなたがかじったとおっしゃったぐらいです」
「ペソアは自分がグノーシス神秘主義者だと公言していました」僕は言った。「薔薇十字だったんです。Passos da Cruz[十字架の道]という秘教的な詩集の著者です」

 小説の中の「僕」は、フェルナンド・ペソアの訳したアニー・ベザント(神智学協会第二代会長)の著書を通してベザントを知った。ペソアはグノーシス神秘主義者と公言していた薔薇十字だった。

 近代以降の西洋における神秘主義御三家は、薔薇十字、フリーメイソン、神智学で、これらは姉妹関係にあるといってもよく、共有している知識は多いだろうから、薔薇十字であるペソアが神智学の著書を訳したとしても、何の不思議もない。

 わたしは薔薇十字であったらしいバルザックの著書を読んでいると、作品に散りばめられた神秘主義的な言葉やムードのため、なつかしい気持ちでいっぱいになる。

 それにしても、小説に登場する神智学協会の会長は何とも思わせぶりでありながら、そっけない。

「インド夜想曲」をまだ充分に読んでいないせいか、この会長はいささか癇に障る、妙な人物としてわたしの記憶に留まっている。「インド夜想曲」はあとで改めて採り上げたい。

 神智学色の濃い、目についた文章を以下にメモしておこう。

 図書館から借りているというのが少々辛い。手に入れたくても、中古しかない。文庫版がどこからか出ないかしら。

P60-61
アントニオ・モーラは狂人、少なくとも公には狂人です。しかし頭脳明晰な狂人で、異教とキリスト教について多くの考察をしました。
〔……〕
わたしに多くのことを語りました。まず初めに、神々が戻ってくるだろうということ、なぜなら唯一の魂、唯一の神といういうこの物語は歴史の周期の中で終わりかけているかりそめのものだから、と話しました。そして神々が戻ってくるとき、われわれは魂のこの唯一性を失い、われわれの魂は自然の望むままに再び複数になるだろうと。

P87
わたしたちが人生と名付けているイメージのこの舞台を後にする時間です。わたしが心の眼鏡を通して見たことをあなたに分かってもらえたなら。
〔……〕
そして、わたしは男、女、老人、少女でした、西洋のいくつもの首都の大通りの群衆であり、わたしたちがその落ち着きと思慮深さをうらやむ東洋の平静なブッダでした。わたしは自分自身であり、また他人、わたしがなり得たすべての他人でした。

P88
わたしの人生を生きるということは、千もの人生を生きることでした。わたしは疲れています。わたしのろうそくは尽き果てました。お願いします、わたしの眼鏡をとってください。

「わたしの眼鏡をとってください」から作品は終曲に入るのだが、この終曲がまた圧巻。古代アレクサンドリアの神智学派(フィラレーテイアン派)の香気さえ漂う――。

P88-89
 アントニオ・モーラはチュニックを正した。かれの中ではプロメテウスが急き立てていた。ああ、と叫んだ。神なる天空よ、軽快な疾風よ、河川の源よ、海の波頭の数知れぬ微笑みよ、大地よ、宇宙の母よ、あなたがたをわれは呼び出そう、そしてすべてを見ている太陽球よ、われが耐えているものをご覧あれ。
 ペソアはため息をついた。アントニオ・モーラはナイトテーブルから眼鏡をとってかれの顔にのせてやった。ペソアは目を見開き、その手はシーツの上で動きを止めた。ちょうど二十時三十分だった。

 キリスト教作家とはよくいわれるが、神智学作家とはわたしが初めて使うのではないだろうか。タブッキはまぎれもない神智学作家だが、そのような分類は一笑に付されるだろうか。しかし、タブッキを深く理解したい、研究したいと思えば、必要なことではないかと思う。

 神秘主義の世界に布教されて入ることなどまずありえず、思い出すようにして、なつかしさから入ってしまうほかないが、その神秘主義世界の原理原則、言葉、イメージを、タブッキは万華鏡のように作品に散りばめている。

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2014年2月27日 (木)

神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ②「インド夜想曲」その1

 新カテゴリー「Notes:アントニオ・タブッキ」を設置しました。

 昨夜、娘が帰宅してすぐに差し出してくれた「ユリイカ 6月号 第44巻第6号(通巻611号)『アントニオ・タブッキ』」(青土社、2012年6月)とアントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(須賀敦子訳、2013年、白水社)。本を、書店員の娘に頼んでいたのだった。

 先に「ユリイカ」を読み、わたしはほとんど窒息しそうになった。

 なぜ窒息しそうになったかというと、タブッキを期待して読み始めたというのに、雑誌の中にはタブッキが髪の毛1本分しか存在しなかったから。

 その代わりに、本は、そこに書いた人々の自己顕示欲、通り一遍の解釈、自分たちの仲間と認められない部分は徹底して排除(漂白といったほうがよいだろうか)してしまおうという貪欲な意志でいっぱいで、タブッキを求めていたわたしも同じ目に遭うことを感じずにはいられなかったからだった。

 アントニオ・タブッキが自分たちと政治思想的にリンクした時期があったからといって、マルキストたちは彼を自分の側に力尽くで引き寄せようとしているかのように思える(自分がマルキストであるという自覚さえない者もあるかもしれない)。

 また、「インド夜想曲」を訳した須賀敦子の思想が何なのかは知らないが、彼女の情緒的、思わせぶりにぼかしたようなエッセーを読むと、わたしは苛々してくる。

 登場人物や彼女の正体を知りたくてずいぶん読んだが、読めば読むほど空虚な気持ちが強まり、もう彼女について知ることなどどうでもよくなり、遂には読むのをやめた過去があった。

 夢も死も過剰なほどのタブッキの作品群と比較すると、須賀敦子の作品群はそれとは如何にも対照的で、夢にも死にも乏しい。死ぬ人はよく出てくるが、その死は決して豊かではなく、干からびている。

 最愛のペッピーノでさえ、作品の中で生きていようが死んでいようが、終始、希薄な亡霊のようである。その亡霊が彼女の情緒まみれになっていて、わたしにはそれが苦手だった。

 彼女がキリスト者だったのかマルキストだったのか、わたしは知らないが、作品の傾向から見て、マルキシズム寄りを彷徨っていたのだろうと想像する他はない。死んだらそれで終わりという唯物論の匂いがするからだ。

 神智学者――神秘主義者――は何者になることも可能なので、場合によってはマルキストになったり、キリスト者になったりするだろうが、何色になろうと本質はカメレオンという生物――神秘主義者なのだ。作品が包み隠さず、そのことを物語っている。

 わたしはタブッキが神智学協会の会員であったかどうかは知らないし、そんなことは重要なことではない。その思想の影響が作品から読み取れるかどうかが問題なのだ。

 訳者がどんな思想の持ち主であろうと、解説さえきちんとなされていれば、わたしも別に訳者の思想を詮索するようなことはないのだが(訳者の思想にまで興味を持つほど暇ではない)、作品が神智学でいっぱいなのに、解説に神智学のシの字も出てこないとは何だろうと不審感を覚えてしまったのだった。

 いずれきちんとした評論に仕上げたいと思っているが、タブッキの世界は神智学の世界以外の何ものでもないのだ。

 ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアはタブッキにとっては大事な人物だったようだが、そのペソアのことが「インド夜想曲」の中でちらりと出てくる。そのペソアはアニー・ベザントの著作を訳したのだという。

 アニー・ベザントは神智学協会第二代会長である。

 この記述からすると、ペソアを通して主人公は神智学を知ったことになるが、そのペソアは薔薇十字だったそうだ。

 ちなみに、過去記事にも書いたことだが、バルザックが薔薇十字だったことは確かだと思う。バルザックの父親はフリーメイソンだった。西洋では珍しいことではない。

 薔薇十字、フリーメイソン、神智学は、神秘主義の系譜である。キリスト教や、第二次大戦後はマルキシズムに抑圧されてきた。

 日本で『オカルト』、『アウトサイダー』などが大ヒットしたが、その著者である無知無教養なコリン・ウィルソンなんかに騙されて、神秘主義を馬鹿にしたり、無視したりしていると、日本における西洋文学の研究はいつまでも停滞したままでいる他はない。

 と、コリン・ウィルソンについて放言してしまったが、今本棚にウィルソンの本が見当たらない。コリン・ウィルソン――の弊害――についてもいずれ書きたいと考えている。

「ユリイカ」では、タブッキと須賀敦子が如何に親しかったかについて、もったいぶって紹介され、タブッキの作品について――神智学を避けて――周辺的なことや自身に引き寄せた解釈、また手法について色々と書かれているが、タブッキの核心に触れようとすれば、作品全体を浸しているといってもよい哲学、思想に切り込むしかなく、その哲学とはどう作品を読んでもやはり神智学であり、神秘主義哲学であるとわたしは思う。

「ユリイカ」201頁に、かろうじて神智学協会に触れた箇所があった。この特集の一部を割いて調査、報告されてよいことであるにも拘わらず、そこだけ(見逃しがあるかもしれないが)。以下に抜粋しておく。

『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』(1987)のなかに「以下の文章は偽りである。以上の文章は真である。」という書簡体の短編が収録されていて、これが『インド夜想曲』中のマドラスの神智学協会員(のモデル?)と〈タブッキ〉との二往復四通の往復書簡なのだ。
〔略〕
 タブッキの「以下の文章は偽りである。以上の文章は真である。」で〈タブッキ〉と手紙をやりとりする神智学協会員は、ここでつぎのように書き始める。

 マドラスの神智学協会でお会いした日から三年が過ぎました。〔……〕あなたがある人物を探していること、それと小さなインド日記を書いていることをあたなは私に打ち明けました〔古賀弘人訳〕。

 あまりにささやかな記述ではないだろうか。それで、あなた方研究者は神智学協会について簡単な説明もしないままで済ませるの?と不思議な気持ちになる。

 ペソアについても、研究報告のような章はない。タブッキの特集を組んだ意味があったのだろうか。

 もしタブッキが神智学や薔薇十字の影響を受けた本物の神秘主義者であるとするなら、彼はあたかも思い出すかのように影響を受けたはずである。

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2014年1月21日 (火)

神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ①「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」

 オーラが見え始めたのは大学生の頃からだった。

 わたしのいうオーラとは、H・P・ブラヴァツキー『神智学の鍵』(神智学ニッポン・ロッジ、竜王文庫、平成7年改版)の「用語解説」にある、「人間、動物、その他の体から発散される精妙で目に見えないエッセンスまたは流体」を意味する。「人間、動物、その他の体を取り巻く磁場」と説明されることもある。

 人間が不死の部分と死すべき部分からできているということを知らなければ、オーラが何であるのかを理解することはできないと思う。このことをもっと詳しく、人間が七つの構成要素からなるということをわたしはH・P・ブラヴァツキーの神智学の論文を通して教わった。

 すなわち、人間が不死の三つ組みと死すべき四つ組からなることを。七つの構成要素のそれぞれについて学ぶことはわたしには悦びだったが、一般の方々を相手にした当ブログでこれ以上のことを書くのは控えたい。

 わたしにとって、オーラの美しさに匹敵するものはこの世になく――否、汚れた、不穏で、不快な色彩に見えるオーラも見ないわけではないが――、オーラの美しさを連想させるものといえばオーロラくらいなので、ときどきしかオーラが見えないのはつまらないことに思っていた。

 最近までずっとそう思っていたので、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えた20年も前のことを毎日のように回想し、あのように美しい光にいつも浴していられればどんなに幸福なことだろうと思っていた。

 しかし最近になって、オーラはたまに見えるくらいが丁度よいと思えるようになった。

 尤も、強く意識し目を懲らせば、オーラというものは低い層のものなら容易く見ることができる。

 物体の輪郭――例えば開いた手の輪郭に目を懲らしていると、指の輪郭を強調する、ぼんやりとした弱い光が、夕日の残照のように射して見える色彩やきらめきなどが見えてくる。さらに目を懲らしていると、光はいよいよ豊富に見え出す。

 だが、そんな風に意図的にオーラを見ようとする試みは疲労を誘うし、その水準のオーラを見ても、つまらないのである。自然に任せているのに、オーラが断片的に見えることはちょくちょくあるが、そのオーラがありありと見えることはわたしの場合はまれなのだ。

オーリックエッグと呼ばれるオーラの卵の状態は、その個人の高級我が自ら開示してくれる場合にのみ、その許された範囲内において、観察可能なのではないかとわたしは考えている。

 ただ、創作中は自身から放射される白い光に自ら心地よく浴していることが普通の状態で、創作が生き甲斐となっているのもそれが理由なのかもしれない。

 生者のオーラに関していえば、それが見えるとき、肉体から放射される光のように見えていて、肉体はその光が作り出す影のような見え方だ。観察する側の認知的感受性が高まれば高まるほど、その影は意識されなくなっていき、遂には光だけが意識されるようになる。

 わたしはいつもオーラを見ているわけではなく、その見え方もそのときによるので、死者が訪れ、近くに死者がいたときも[過去記事参照]、輪郭をなぞる点描のようなものとして見えた以外は、ほとんど何も見えなかった。いわゆる幽霊が見えたことは一度もないのだ。

 それなのに、存在は感じられた。そして、たまたま死者の訪問時に死者のオーラが見えたこともあったが、そのとき、おそらくわたしは生者のオーラを見るときと同じように死者のオーラを見ていたのだと思う。

 死者の肉体が存在しないせいか、光だけが見えた。

 たぶん、わたしの認知的感受性がこの方向へ日常的に高まれば、物体は圧倒的な光の中に縮んだ、おぼろな影のようにしか見えなくなるだろう。オーラは人間にも動物にも植物にも物にすらあるので、留まっている光や行き交っている光のみ意識するようになるに違いない。世界は光の遊技場のように映ずることと思う。

 そのとき、わたしはこの世にいながら、もうあの世の視点でこの世を見ることしかできなくなっているわけで、それはある意味で盲目に等しく、この世で生きて行くには不便極まりないに違いない。

 以下の断章は過去記事で紹介したもので、前掲の神智学徒だった高齢の女性のオーラを描写したものだ。

頭を、いくらか暗い趣のあるブルーが円形に包み込んでいた。その色合いはわたしには意外で、先生の苦悩ないしは欠点を連想させた。全身から、美麗な白色の光が力強く楕円形に放射されていて、その白い楕円の周りをなぞるように、金色のリボンが、まるで舞踏のステップを踏むように軽やかにとり巻いていた。金色の優美さ、シックさ、朗らかさ。あのような美しい白色も、生き生きとした金色も、肉眼で見える世界には決してない。

 そのときわたしはあの世の視点で他者のオーラを見ていたわけで、そのときのオーラは物質よりも遙かに存在感が勝っており、こういういい方は奇妙だが、光の方が物質よりも物質的に思えるほど重厚感があった。反面、女性の肉体は存在感のない影だった。

 圧倒的な白色を、まるで保護するように取り巻いていた金色のリボンは何かの役割を帯びた組織なのだろうが、その組織の性質が作り出す形状は装飾的といってもよいぐらいだった。

 ここで、わたしはフィレンツェの画僧フラ・アンジェリコの描く、あまりにも物質的な形状の天使の翼や後光を連想するのである。

 フラ・アンジェリコは天使のような修道僧という意味だという。本名グイード・ディ・ピエトロは15世紀前半のフィレンツェを代表する画家で、ベアト・アンジェリコ(福者アンジェリコ)、同時代人からはフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレとも呼ばれた。

 以下の画像は画集から無造作に携帯で撮った雑なもので、どんな形状のものであるかをざっと示すためだけにアップロードする。

「聖母戴冠」の一部。

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「最後の審判」の一部。

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「聖母戴冠」の天使たち。「最後の審判」の絵の中で、手をつないでいる天使たちと聖者たち。後光や天使の翼の装飾的なことといったら、笑止千万なほどだ。

 後光に注目すると、天使を前から見ても後ろから見ても後ろに張り付いている可笑しさ。頭を載せる黄金の皿のようだ。金色のシャンプーハットをつけているようにも見える。

 ムリーリョ「アランフエスの無原罪のお宿り」のマリアの頭部から放射されている光は後光としては自然な描き方で、オーラの見え始めには頭部から出ている光がこのように見え出す。

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 ただ、神智学徒だった高齢の女性のオーラがありありと見えたとき、体の周囲に卵形に拡がるオーラを縁取った金色のリボンが高級な工芸品のようにすら見えたことを思い出せば、わたしの視点が完全にあの世的な視点となったら、一種の逆転現象が起きて、光の世界こそ、物質的な様相を呈するかもしれない――などと思ったりもする。

 多くの宗教画家は天上的光を地上世界に投げかけるが、フラ・アンジェリコの工芸的な徹底ぶりは、彼が完全に天上の側に入り込んでしまっていることを意味しているのかもしれない。

 草花の描き方なども印象的で、存在感が際立っている。幻想性を帯びて見えるほどだ。装飾写本画家からスタートしたフラ・アンジェリコならではの描き方といえるのかもしれない。

『NHKフィレンツェ・ルネサンス 3 百花繚乱の画家たち』(佐々木英也監修、日本放送出版協会、1991年)によると、フラ・アンジェリコの真筆とされている僧坊壁画は「メリメ・タンゲレ(我に触れるな)」(第一僧坊)、「死せるキリストへの哀悼」(第二僧坊)「受胎告知」(第三僧坊)、「キリストの変容」(第六僧坊)、「嘲弄されるキリスト」(第七僧坊)、「聖母戴冠」(第九僧坊)、「キリストの神殿奉献」(第九僧坊)など6~7点で、他は彼の下絵に基づく助手や協力者の作品と見なされているという。

 前掲書の森田義之「天使の翼」というエッセーから、以下に一部引用させていただく。

キリスト教の教義では、天使は、三つの階級と九つの種類――(上級)熾天使、智天使、座天使、(中級)主天使、力天使、能天使、(下級)権天使、大天使、一般的な天使――に分けられるが、フラ・アンジェリコの絵画に登場するのは、「受胎告知」の主役の大天使ガブリエルか、一般的な天使たちがほとんどである。
[略]
 フラ・アンジェリコの美しい天使たちのイメージ・ソースはどこにあったのだろうか。
 ひとつは、イタリアの現実の子供たちの文字通り天使的な美しさである。

[略]
 もうひとつは、当時の宗教劇の華麗なコスチュームである。

[略]
 フラ・アンジェリコの天使たち――それは現実のフィレンツェの子供たちと、宗教劇の舞台的華麗さと、芸術的想像力が幸福に結びあって生み出された、永遠の美のイメージなのである。 

 船員時代に北欧に行った父は昔、一昨年オランダに出張した息子も、ヨーロッパの子供たちの天使のような美しさについては言葉を尽くして絶賛していた。

 以下のブログ記事で、フラ・アンジェリコの6枚の受胎告知を鑑賞させていただいた。

 ところで、図書館からアントニオ・タブッキの本を2冊、『供述によるとペレイラは……』(須賀敦子訳、白水社、1993年)と『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』(古賀弘人訳、 青土社、1996年)を借りたのだが、ずいぶん以前のこととはいえ、『インド夜想曲』を読んだことがありながら、タブッキが神智学と関係があるということを忘れてしまっていた。

 タブッキと神智学協会の関係については何も知らないのだが、例えば「以下の文章は偽りである。以上の文章は真である。」という作品で「マドラスの神智学協会でお会いした日から三年が過ぎました」などと出てくるところからも、作風からも、関係がないはずはないので、そのことにも少し触れたいのだが、準備不足である。

 神智学とガブリエラ・ミストラルやカロッサとの関係についても書こうと思いながら、少し書いただけで放置している。

 放置状態にせよ、メモだけでも残しておけば、神智学と関係のあった人々がわかるから、そのうちまとめて何か書けるかもしれない。

『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』の表題作で、タブッキはベアト・アンジェリコ、すなわちフラ・アンジェリコを登場させている。

 ここでの主題は、天使のような――と形容されるフラ・アンジェリコがどのような霊感をどのように受けて天使を描いたかということであろう。

 その結論が、サン・マルコ修道院の野菜畑に墜ちてきた三羽の翼あるものということになるのだろう。

 この作品は自然美とフラ・アンジェリコの純朴さを描いた逸品であろうが、どうだろう、キリスト教的主題として読むと、ひどく違和感を覚えるのはわたしだけだろうか?

 少なくとも、キリスト教的とはいえないのではあるまいか。ここに描かれたフラ・アンジェリコの世界は異教的であるに留まらず、解釈次第では冒涜的とすら感じさせる甚だ挑戦的な側面もあるということになるのかもしれない。

 ここで、わたしは過去記事で紹介し、当記事の上の方で触れた人間の七つの構成要素について改めて紹介しておかないと、話が進まなくなってしまった。

 H・P・ブラブゥツキー著『実践的オカルティズム』(田中恵美子、ジェフ・クラーク訳、竜王文庫、1995年)の用語解説より、その七本質を紹介しておく。

神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ

 アストラル体はサンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

 ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

 人間は、高級マナスを通してはじめて認識に達するといわれている。

 神智学では、真の霊感は完全に清められた心を通して高級自我からやってくるのである。画僧フラ・アンジェリコが受けた宗教的、芸術的霊感にせよ、「受胎告知」という形式をとったマリアが受けた霊感にせよ、それが本当の意味の霊感であれば、同じ過程をとるはずである。以下の過去記事を参照されたい(ライン以下に転載)。

 また、神智学徒は妖精好きで知られることがあるが、それは神智学徒には万物が内に秘めている生命は同じ根源から来たすばらしいものだという認識があるためで、動物も植物も鉱物も、そして神智学徒には知られているエレメンタル(地・水・火・風という四つの自然界または四大元素の中で進化したもの)のうちのいわゆる妖精のような存在も皆、兄弟姉妹と感じられるからなのだ。

 神智学徒は「神は鉱物にて眠り、植物にて夢見、動物にて目覚め、人間にておのが姿を現さんとす」という昔の諺を愛する。

 タブッキの『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』に出てくる三羽の翼あるものはどう読んでも天使ではなく、妖精で、画僧フラ・アンジェリコはその三羽の妖精たちから着想を得て絵画制作したという、キリスト教小説からはほど遠いファンタジーになっている。

 三羽の妖精たちはいずれも弱く、可憐で、フラ・アンジェリコの思いを映し出したりもする。妖精の一羽がネリーナという画僧の思い出にある女の子の顔立ちをしているのは、そのためだ。

 この小説はキリスト教的世界観によってではなく、神智学的(神秘主義的)世界観によって描かれているようにわたしには思われる。

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2013年10月15日 (火)

アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』(和田忠彦訳、岩波文庫、2013年9月)を読んで

 初の歴史小説を書く計画のため、頭の中が江戸色に染まっているが、娘が面白そうな本を買って読んでいたので、読まずにいられなかった。

 アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』。

 作品の中でタブッキは20人の芸術家に眠りを与え、彼らの代わりに夢を描いてやっている。シュールな夢の特徴をよく捉えている彼は、夢の研究家でもあるに違いない。

 最初に例外的にギリシア神話に出てくるダイダロスを置き、最後に、芸術家で構成された作品にしてはちょっと異色なフロイトの置かれているところが、それを物語っているように思える。

 フロイトに与えた夢は痛烈な内容で、悪夢といってよい。しかも、それを死ぬ前日の最後の夜と決定づけているのだから、タブッキのフロイト批判が嫌でも伝わってくる。

 否、批判というには適さないさりげなさがある。フロイトの心理学の内容を夢に変え、それをそっくり本人に贈っただけというような……。

 作品には、詩人、画家、作家、音楽家が出てくるが、タブッキの凄さは、彼らの諸作品を徹底して読み込んでいるだけでなく、伝記類も丹念に調べ尽くしていることだ。

 だから、夢を読んでいるうちに、こちらもよく知っている芸術家の場合は、写真や絵として残されたその顔が、自然に浮かんでくる。

 わたしも好きな芸術家のことを調べ尽くすほうだから、ここに登場する何人かについて、よくここまで彼らの人生と作品と味わいを余すところなく織り込み、散りばめたものだと感心してしまった。

 芸術家が、美に堪能し、天に憧れ、思索し、深刻に悩み、罪を犯したりしたことごとくを統べる神の代理人のようなタブッキ。

 どんな状況、状態で芸術家が夢から覚めるのか、覚めないままなのか、珠玉のような掌編の最後まで目が離せない。

 そう、目が離せないと書いてしまうほどに、この作品は映像的なのだ。夢がそうであるように。そして、どの一編も夢の軽やかさ、心地よさを持っている。

 作品に登場する芸術家は以下の人々。

 ダイダロス、オウィディウス、アプレイウス、チェッコ・アンジョリエーリ、ヴィヨン、ラブレー、カラヴァッジョ、ゴヤ、コウルリッジ、ジャコモ・レオパルディ、コッローディ、スティーヴンソン、ランボー、チェーホフ、ドビュッシー、ロートレック、フェルナンド・ペソア、マヤコフスキー、ロルカ、フロイト。

 ノーベル文学賞が発表になった夜、娘が訊いた。「ノーベル文学賞って、死んだら貰えないの?」

 貰えないというと、娘はタブッキがノーベル文学賞を貰わずに亡くなったことを悔しがった。わたしも残念だと思った。

ちなみに、タブッキと神智学協会は切れない仲であるようだ。神智学協会本部の登場する『インド夜想曲』を引くまでもなく、その作風からは神智学の薫りがする。日本の文学界は左傾化してしまっており、そうした面は黙殺されてきた。今後、わたしが研究していきたい(他にする人が見当たらないので)。

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