カテゴリー「Notes:江戸初期五景1(萬子ひめ)」の103件の記事

2017年10月16日 (月)

萬子媛の扇面和歌からわかったこと(書きかけ)

何度も同じことを書くようだが、初めて当ブログにお見えになるかたもいらっしゃるので、萬子媛をご存じない方にためにざっと書いておくと、

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萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。

祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、62歳。1705年閏4月10日、80歳で没。断食入定による死であった。

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神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女の歌が揮毫されている。

実家である花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。元禄9(1696)年――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。

梅の花飽かぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

癖のない、流れるような自然な字体で、萬子媛がこれを記されたときの磨かれた鏡のような心境が察せられる。

で、今日、歌の作者である皇太后宮大夫俊成女という人物を調べていたところ、興味深いことがわかった。

すみません、ちょっと他にしなければならないことが出てきたので、続きはそのあとで書きます。

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2017年9月17日 (日)

歴史短編1のために #30 神仏習合(加筆あり)

神秘主義エッセーブログに入れようと思って過去ノートに加筆したものですが、先にこちらにアップしておきます。

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数年前から、祐徳稲荷神社を創建した花山院萬子媛をモデルとした歴史小説に取り組んでいる。第一稿で粗描を試み、第二稿に入ったところだ。

萬子媛が入られた黄檗禅系祐徳院は、取材の結果、庵のような小規模の建物ではなく、もっと大きな建物だったと推測されるので、小説の冒頭部分は書き直さなければならない。

祐徳院は法泉寺と同じく普明寺の子院だったから、法泉寺くらいはあったのではないかと思う。普明寺は法泉寺の1.5倍くらいの大きさに見えた。

祐徳院の門には、普明寺の門のところにあったのと同じ「不許葷酒入山門(葷酒の山門に入るを許さず)」と記された碑があったであろう。

不許葷酒入山門とは、肉や生臭い野菜を食べたり酒を飲んだりした者は、修行の場に相応しくないので立ち入りを禁ずるという意味である。(→ウィキペディア「禁葷食」

萬子媛の義理の息子で、大名であった直條の執筆とされる『祐徳開山瑞顔大師行業記』(祐徳稲荷神社蔵)を読むと、祐徳院に所属する尼僧の外出、俗客の往来を許さず、その他の規則は大変厳しかった(森厳という言葉が使われている)とあるのが、碑文にぴったりくる。

そして、神事のほうも、滞りなく行われていたに違いない。江戸時代までの神仏習合は現代日本の神仏習合とは様相が違っていたのではないだろうかと考えて、それをどのように描けばいいのかわからず、わたしは何ヶ月も悶々としていた。

例えば、出家後の萬子媛は神事にどのように参加されていたのだろうか……と考えたとき、思い出したのは前に図書館から借りて読んだ『英彦山修験道絵巻』だった。

村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する著作である。絵巻が作られたのは有誉が座主のときであった。

有誉の母は花山院定好の娘――つまり、萬子媛の姉だったと思われる。萬子媛の兄弟姉妹については拙「マダムNの神秘主義的エッセー」 72 に書いている。

萬子媛の兄弟姉妹は、花山院家を継いだ定誠以外は、円利は禅寺へ、堯円は浄土真宗へ入って大僧正に。姉は英彦山座主に嫁ぎ、妹は臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。定誠、武家に嫁いだ萬子媛も結局は出家している。

絵巻に描かれた神事の情景の中に、神職の格好をした人や一般の参列者の他に僧侶姿の参列者の描かれていた記憶がある。

萬子媛と一緒に京都から下ってきたと想像される、萬子媛に仕えていたという尼僧が技芸神として祀られている(拙「マダムNの神秘主義的エッセー」 72  参照)ことから考えると、神事の際に行われる神楽舞の振り付けなどはその人が指導したのではないかとわたしは考えている。

神事のとき、萬子媛はどのような位置で、どのような行動をなさっていたのだろうか。

厄除け祈願をお願いしたときのことが参考になるだろうか?

これはあくまでわたしの神秘主義的感性が捉えた――内的鏡にほのかに映った――萬子媛をはじめとする、この世にあったときは尼僧であったと思われる方々の御祈願時の様子なのであるが、わたしはそうしたこの世ならざる方々が御神楽殿での御祈願時にそこへお見えになるとは想像もしていなかった。

そのときまで萬子媛のことしか念頭になく、御祈願のときにもし萬子媛をわたしの内的鏡が捉えることがあるとしたら前方に捉えるのではないかと想像していた。というのは、そのときに萬子媛の臨在があるとすれば、神主さんに寄り添うような形をとられるのではないかと漠然と想像していたからだった。

事実は違った。萬子媛をはじめとする尼僧の方々――生前は尼僧であったとわたしが推測する方々――は、御祈願を受けるわたしたち家族のすぐ背後に整然と並ばれたのであった。拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」収録の以下のエッセーを参照されたい。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年
71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日
72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日

端然とした雰囲気の中にも、日ごろの馴染んだ行為であることが窺えるような、物柔らかな自然な感じがあり、整然と並ばれたといっても、軍隊式を連想させるような硬さは全くなかった。

わたしの内的鏡にほのかに映った美しい情景からは、江戸時代初期から中期かけて、神事というものがごく自然に仏事や日々の生活に溶け込んでいた様子が窺えた。神事も仏事もどちらもこよなく敬虔に、当たり前のこととして行われていたに違いない。

わたしがここでいう内的鏡とは、物質の鏡とは異なり、対象が生者であろうがこの世ならざる者であろうが、対象としたものの内面性や雰囲気を精緻に捉える鏡なのだ。姿は、ほの昏い湖面に映るかのような、ほのかに映る程度である。

オーラが時には肉眼で見えるどんな色彩よりも鮮明に生き生きとして見えるのとは、違う。オーラを見るときは肉眼で見るように見る。内的鏡で見るときは自らの心が鏡のようにも目のようにもなって、内的鏡を内的視力で見るという感じなのだ。

どちらも神秘主義的能力だと思うが、使い勝手(?)が異なる。神秘主義の文献によく鏡という表現が出てくるのを、なるほどと思うようになった。この内的鏡をいつごろからか、心が清澄であるときにごく自然に使っている自分に気づくことがある。

話が逸れたが、『梁塵秘抄』は平安時代末期に後白河院(1127生 - 1192没)によって編まれた歌謡集であるが、ここでは神事と仏事の習合が見られ、そこからは純粋というだけでなく、格調高いといえるような信仰心が汲みとれる。

江戸時代もおそらくそうで、明治時代に神仏分離令が出されるまで、そうしたところは変わらなかったのではないだろうか。

臼田勘五郎&新間進一 校注・訳『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集 日本古典文学大系』(小学館、1976初版、1989第14版)によると、『梁塵秘抄』は『梁塵秘抄二十巻後白河院勅撰』といい、20巻であったらしい。

20巻のうち、10巻が音律の秘伝や芸歴などを記した口伝集、残りの10巻が歌詞集であったそうだが、大半が失われてしまった。現存するのは巻第一断簡の長歌[ながうた]・小柳[こやなぎ]・今様と、巻第二の法文歌[ほうもんうた]・四句神歌[しくのかみうた]・二句神歌[にくのうみうた]である。

ただ、法文歌と四句神歌とで合計400首を超えるというから、それだけでも結構なボリュームだ。

ここで、前掲書『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集 日本古典文学大系』の『梁塵秘抄』から歌と訳を引用しておこう。

法文歌のうち最も有名なのは、格調高い響きを持つ次の歌だろう。

仏は常にいませども 現[うつつ]ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁[あかつき]に ほのかに夢に見えたまふ
 仏はお亡くなりになることなく常にいらっしゃるのだが、お姿を拝することができない。それが尊く思われる。しかし、人の物音のしない静かな暁には、かすかに夢の中にお姿を現わされる。臼田&新間 校注・訳,1989,pp.204-205

次の法文歌と神歌には同趣意の主張が含まれている。神仏と人の違いに萎縮するようなところは微塵もない。いずれは神仏に成る我が身、ならねばならない我が身との自覚があってこその矜持だろう。

仏は昔は人なりき われらも終[つひ]には仏なり 三身仏性[さんしんぶつしやう][ぐ]せる身と 知らざりけるこそあはれなれ
 仏も遠い昔にはわれらと同じ人であった。われらも最後には成仏することができるのだ。三身仏性を本来備えている身であると知らないで、仏道をなおざりにしているのが、悲しいことに思われる。臼田&新間 校注・訳,1989,pp.257-258

ちはやぶる神 神にましますものならば あはれと思[おぼ]しめせ 神も昔は人ぞかし
 (ちはやぶる)神よ、ほんとうに神でいらっしゃるならば、私の訴えをかわいそうだとお思いになってください。神も昔は人であられたのですよ。臼田&新間 校注・訳,1989,p.317

権現に直訴するかのような、迫力と切実さを感じさせる神歌もある。

花の都を振り捨てて くれくれ参るは朧[おぼろ]げか かつは権現[ごんげん]御覧[ごらん]ぜよ 青蓮[しやうれん]の眼[まなこ]をあざやかに
 花の都を振り捨てて、暗い気持で参詣するのは、なみたいていの志だろうか。権現[ごんげん]よ、一方では私の志をもよくよくごらんください。その青蓮[しようれん]の眼[まなこ]をかっと見開いて。臼田&新間 校注・訳,1989,p.266

次の神歌について「日吉山王[ひえさんのう]を舞台に、神仏習合思想の要約を巧みに歌謡化した感じ」と解説されているが、正にそんな趣の歌だ。

仏法弘[ひろ]むとて 天台麓[てんだいふもと]に迹[あと]を垂れおはします 光を和[やは]らげて塵[ちり]となし 東の宮とぞ斎[いは]はれおはします
 わが国に仏の教えをひろめようというので、この比叡山の麓に、釈迦如来[しやかによらい]以下の仏や菩薩[ぼさつ]たちが、二十一社の神々となり化現されて、鎮座しておられる。威光を隠して俗世に交わり、東方の尊い神社として、祀[まつ]られていらっしゃる。臼田&新間 校注・訳,1989,p.261

四句神歌のうち雑[ぞう](主として世俗的な民謡風の歌を集めたもの)に分類された次の歌は、最初に挙げた法文歌と並んで『梁塵秘抄』を代表する歌であり、解釈は様々あるようだが、清冽な信仰心が通奏低音となっているがゆえに、えもいわれぬ歌となっているのではないだろうか。

遊びをせんとや生[う]まれけむ 戯[たはぶれ]れせんとや生[む]まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺[ゆ]るがるれ
 遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのであろうか。それとも戯れをしようとして生まれてきたのであろうか。無心に遊んでいる子どもたちの声を聞いていると、自分の体までが自然と動き出すように思われる。臼田&新間 校注・訳,1989,p.293

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2017年8月22日 (火)

コイコイ音楽ホールをゲット! 創作は昨日から第二稿入りするも、頭を掻きむしるばかり。

インターポット

ほしかったコイコイ音楽ホールがゲットでき、嬉しい気持ちでいっぱいです。楽譜を手にパタパタお庭を散歩していたアバ嬢は、なぜかニャンコみたいにホールの屋根を歩いていました。

さて、大幅に遅れた「高校生の読書感想文におすすめの本 2017年夏・秋」をやっとアップし、昨日から花山院萬子媛をモデルとした初の歴史小説の第二稿に着手しました。

が、どう書くかで悩み、頭を掻きむしるばかりです。

祐徳博物館、黄檗宗の大本山、普明寺に取材して新しくわかったことがあるので、内容的に変えなければならない部分が出てきました。

頭掻きむしりすぎて、禿げるかも。

話が戻りますが、前掲記事で、バルザック、ゴーゴリ、ゾラ、モームといった文豪たちによる画家を主人公とした小説をおすすめするにあたり、ざっと再読したのですが、改めて思ったことは芸術は宗教の一つだということです。

ムーサイ(ミューズ)の神殿が造られていたくらいですから。

モスタファ・エル=アバディ(松本慎二訳)『古代アレクサンドリア図書館(中公新書 1007)』(中央公論社、1991年初版、1997年3版)によると、紀元前3世紀、エジプトの国際都市アレクサンドリアには研究施設ムーゼイオンと図書館があり、お互いが補い合う存在でした。

ムーゼイオンの計画はアテナイの二つの有名な哲学教育機関、プラトンのアカデメイアとアリストテレスのリセウムをモデルとしていました。

アカデメイアにはミューズの神殿があり、リセウムにもミューズの神殿があって学院は法的には宗教団体とみなされていたそうです。

ストラボンが、アレクサンドリアに設立されたムーゼイオンの責任者は国王によって任命される神官だと指摘しているとか。「主宰者たる聖職者の存在はこの組織の宗教性をよく表している」(アバディ,1997,p.72)

また前掲書にはこのように……えーと、途中でナンですが、この続きの芸術と宗教の関係を考察した記事は「神秘主義エッセーブログ」にアップすることにします。

ついでに宣伝を。ミューズがちらっと出てくる拙児童小説をKindleストアに並べています。表紙は下手なわたしの絵。もう二度と書きません!

サンプルをダウンロードできます。

     ↓

田中さんちにやってきたペガサス

以前無料キャンペーンを行ったときにダウンロードしてくださって、レビューを書いてくださったかたがありました。まるく堂様です。引用させていただきます。

2013-04-21
恐れながらのレビュー:まるく堂の電子書籍やろうぜ!
http://marukudo.hatenablog.com/entry/2013/04/21/014042

主な登場人物は田中さんちの家族です…

息子の友暁(ともあき)は、犬のペット「ロロ」を

亡くしたばかり、

お父さんは勤めていた会社がつぶれ

現在は失業中…

お母さんは病気がち…

と、この田中さんちの家族はそれぞれに

悩みを抱えているのです…

そんな中、田中さんちにやってきたのが

ペガサスの子供だったのです!

家族はペガサスを「エニフ」と呼んで、

飼うことにします。

この出会いによって、3人の人生に

少しずつ変化が現れて…というものです。

基本的な文章は、童話を思わせるような柔らかい文体です。

「子どものための純文学コレクション」ということで

読みやすいと思います。

またギリシア神話への造詣も深く、

いろいろと文中のうんちくも楽しめました。

読後もどこか心あたたまる感じを受けました。

作者様はいろいろな人生経験をされてきた方で

私がレビューするなど本当におこがましいのですが、

そういう事前知識は一切なしに読ませていただきました。

なので感想も交え、気になったと言うか要望と言うか、そういった点も少々書かせて頂きます。

一つはペガサスの「エニフ」に乗れる唯一の少年「友暁(ともあき)」のこと。

彼をもう少し活躍させて欲しかったなあと思いました。

「子どものための文学」ということなので、同じ年代で共感を持てる

彼にこそスポットライトが当たった方がいいと思いました。

また、この「ペガサスに乗れる」という要素をもう少し掘り下げても良かったかなあ、と。

どちらかというとこの作品では「お父さん」の方が主人公です。

作者様もそのつもりで書かれてると思います。

実は音楽の道へ進みたいが、

家族のため、安定のために別な道を選んだお父さんの苦悩により焦点が集まっているのです。

ただ、そうなると「ペガサスに乗れる」という

友暁の魅力的な要素が相殺しあって、

「え?主人公どっち?」とどっちつかず感も正直感じました…

あと、エニフの可愛らしい描写もあるとなおグッドだと

トラ男とヒョウ女というキャラクターが出てくるのですが、

彼らはすごくイイ!

彼らが出たときは、物語に一挙に弾みが出たように思います。なのでこの面白いキャラクターももう少し活躍して欲しかったかな、と。

と、こうだったらなあ、と言う要望を書き連ねてしまいましたが、全体的な雰囲気も良かったし読んで損はしないと思います。むしろ無料でこのクオリティーが出せるのはすばらしいですね。
(現在は無料キャンペーンが終わり、有料となっております)
私に書けと言われても死んでも無理です。

下手くそなレビューですみませんが

これにてレビュー終了です。

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2017年8月 1日 (火)

鹿島おどりのおどり曲に出てくる祐徳稲荷神社

「72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日」を書くために当ブログの過去記事を読み返したところ、そこで紹介していた鹿島おどりの動画があったので、改めて歌詞を確認しました。

以下のブログで、鹿島おどりのおどり曲である鹿島一声浮立、鹿島小唄、鹿島節の歌詞が紹介されています(ライン以下の続きに転載させていただきました)。

  • 鹿島おどり Blog
    http://kashimaodori.blog72.fc2.com/

どのおどり曲にも祐徳稲荷神社が出てきます。「鹿島小唄」では二番に出てきます。

二.
響く鈴の音 燃え立つつつじ
朱塗まぶしい 祐徳さまの
登る石段 はずかしうれし
願いかのうて 二人づれ
肥前鹿島は縁どころ

どこか哀愁を帯びた鹿島小唄がわたしは好きですが、この二番の歌詞には祐徳稲荷神社が「祐徳さま」という畏敬と親しみを帯びた呼び名で登場します。

願掛けて恋が叶ったらしい初々しい男女の姿が、祐徳稲荷神社を背景にして映像的に表現されています。

「鹿島節」の作詞を手がけたのは、童謡作詞家として有名な野口雨情だったのですね。「鹿島節」では四番に祐徳稲荷神社が出てきます。

四.
運と福とを さづける神は ヤントコセ
アレヨ祐徳 イッチョ イッチョサ
アレヨ祐徳 サンサエ 稲荷さま ヨササノホーイ
ソコヤットン サラリコセー

鹿島おどりで最も盛り上がりを見せる「鹿島一声浮立」では、二番に祐徳稲荷神社が出てきます。

二.
福は授かる 祐徳稲荷
海は有明 海苔かおる

踊れや さあ踊れ
ハ ヤッサヤッサ ハ ヤッサヤッサヤッサヤッサ
一声浮立は よい踊りソレ よい踊りよい踊り
ハ ヤッサヤッサ ハ ヤッサヤッサヤッサ

祐徳稲荷神社が地元で如何に親しまれてきたかが、こうした歌詞からも窺えます。

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続きを読む "鹿島おどりのおどり曲に出てくる祐徳稲荷神社"

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2017年6月13日 (火)

萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺(法泉寺)に電話取材しました

8日、祐徳稲荷神社に参詣し、翌日、以下の記事を書きました。

動揺したことがあったために、すぐにはまとまった文章が書けなかったのですが、気持ちの整理もついたので、まとめにかかろうとしました。

が、まだわからないことがあり、電話で取材するのは失礼かもしれないと思いつつ、決行。萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺・法泉寺に電話取材しました。

その結果、さらなる驚き、という以上の衝撃に見舞われました。今回の一連の取材を通して、廃仏毀釈の爪痕をまざまざと見たように感じたのでした。

黄檗宗で断食入定が行われていたのかどうかが知りたいと思い、いっそ大本山にお尋ねしてみようと思い、電話したのでした。ご回答いただいたのは、宝物館の和尚様でした。

電話するまでは、密教の影響で、萬子媛が断食入定を実行されたのではないかと考えていたのです。尤も、黄檗宗は密教の影響も受けているようですけれど、萬子媛の断食入定は特異な例ではないかと憶測していました。

黄檗宗でも行われていたようです。いつごろまで何人断食入定をしたのか(現代では法律上不可能です)、記録が残っているのかどうかを知りたかったのですが、はっきりと記録されているわけではないのかもしれません。何度か同じ質問をしたのですが、はぐらかされてしまいました。

黄檗宗は中国の明朝の仏教が日本に伝えられたものです。その明朝で、また日本でも行われていた過酷な修行法を伺いました。

例えば、手に包帯をぐるぐる巻きにしてそれに油をさし、火をつけ、それを燈明代わりに、お経を読むのだそうです。

ひ、とわたしは心の中で悲鳴を上げ、「火傷では済まない場合もあるのではありませんか?」というと、「そういえば、どこそこに指を燈明代わりにした坊さんがおったな……」と事もなげに萬福寺の和尚様。いつの時代のお話なのでしょうか、恐ろしくて聞けませんでした。

明朝では(日本でも?)、自らの血で仏画を描いたり、写経をしたりということも流行ったとか。

そして、断食入定はそうした過酷な修行法の一つと位置づけられていたようです。

穀類を断ち、水だけを飲んで、骨皮筋衛門になる――と和尚様はおっしゃいました――修行を木食[もくじき]入道というそうです。

そして山の斜面みたいなところに入って、「つまり生き埋めになるわけですわ。息だけはできるようにしてな」と和尚様。

「水は飲めるのでしょうか? 生き埋めになったあと」とわたし。飲めるそうです。毎日お経を読み、水を飲んで、入寂のときまで……。

と、ここまで萬福寺の和尚様から伺ったことをメモしました。

まだまとめる段階にはないので(写真を挿入しながらきちんとまとめたいと思っています)、忘れないうちに、とりあえずメモしておきます。

鹿島の祐徳稲荷神社に舞台を戻すと、博物館のかたに教わって見学した岩本社には、萬子媛に仕えた尼さんがお祀りしてあるというお話でした。技芸の神様だそうです。

ところで、わたしは過去記事で次のようなことを書きました。

2016年8月18日 (木)
歴史短編1のために #27 萬子媛遺愛の品々 ②入定について。印象的な御袈裟。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/08/27-1e00.html

萬子媛があの世でボランティア集団を組織なさっているとわたしが想像するのは、参拝するたびに、萬子媛を囲むように一緒にいるあの世の大勢の方々を感じるからだ。
その大勢の方々というのは、萬子媛が禅院を主宰なさっていたときにそこに所属していた尼僧たちを中心とする方々ではないだろうか。
わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛にはどこか深窓の麗人のような趣があり、無垢で高雅で率直な高級霊の雰囲気が伝わってくる。
それに対して、萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性達の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性たちは生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧たちではないかとどうしても思えてくるのだ。
萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来たときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ。
何にしても、萬子媛の一番近くにいる女性は身辺の護衛でも司っていそうな、シャープな雰囲気のある女性なのだ。わたしの内的鏡にほのかに映った気がする程度のものなのだが、萬子媛の圧倒的な雰囲気とはまた別種の矜持と気品とがまぎれもなく感じられて、興味深い。

過去記事で出てくる萬子媛の近くに控える矜持を感じさせる女性的な存在が、岩本社に祀られている尼僧ではないかと想像したくなります。

時代も下って、鍋島藩の家臣の家に育ったと聞く母方の祖母ですら、鹿島にお嫁に来るとき――有名な軍人さんが仲人だったというから、それくらいの時代――には、3人の側に仕えていた人々と一緒にお嫁に来たと従姉がいっていたことから考えれば、萬子媛には当然そうした方々がいらっしゃって、一緒に京都から鹿島に下られたことは確かでしょう。

その尼僧が技芸の神様として祀られているということは、生前、その方面の指導で優れていたからではないでしょうか。こうしたことからも、京都から萬子媛と一緒に下ってきた人ではないかと思えます。

37歳で京都の花山院から肥前鹿島にお嫁に来られた萬子媛。萬子媛は1625年生まれですから、このとき1662年(寛文2年)。今は2017年。2017年−1662年=355年。

何と、355年も萬子媛に仕えていらっしゃるというわけです。

355年後つまり出家後も、さらには死んでからも、同じように萬子媛に仕えているのだとすれば、それは萬子媛が黄檗禅の、また霊的な分野における師匠あるいはリーダーとして理想的な存在であり続けているからでしょう。

この世でグループを形成した人々は、あの世でも同じグループに属することがあるようです。その逆もいえるでしょう。

尼僧に神格が与えられ、技芸の神様とされていることから考えると、神社での祭事を連想させられます。明治の廃仏毀釈までは、仏事と神事がどちらも怠りなく行われていたということではないでしょうか。

岩本社を見学した後、普明寺を見学しました。案内図も撮ってきたので、まとめには挿入します。

普明寺は鍋島直朝公の長男である断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳明幢禅師が開山となり創建されたお寺です。

寺域全体を竜に見立てて建物や施設が配置されているとか。相当に奥行きのある敷地には草木が生い茂っていて、竹林などもあり、石仏が沢山あって、建物も立派でした。

ただ全体が自然に抱かれすぎているというか、率直にいえば、苔むして荒れていました。鹿島市は田舎ですが、祐徳稲荷神社のすぐ近くにあれほどの自然が手つかずで存在しているとは想像もしませんでした。

普明寺も、同じ敷地内の手前のほうにある普明寺の子院である法泉寺も、廃寺のように見えました。

でも、電話で萬福寺の和尚様はおっしゃいました。「普明寺に、去年の夏にお経をあげに行ったがよ」

(あの物凄いところへ?)と、失礼ながら思ってしまいました。江戸時代にはさぞ威容を誇ったであろう普明寺の背後が墓地になっているようですが、藪蚊が凄くて、そこへは行きませんでした。

でも、あそこにいた間、もう日が落ちかけて、爽やかな風が強く吹いていたので、すばらしい散策ともなりました。風が静まると、藪蚊がとまりに来るので、とまっているところを何匹か退治したり退治し損なったりしました。

それなのに、車に戻って体を調べてみると、一箇所も蚊に刺されていませんでした。夫も娘もそうでした。この時期の藪蚊は血を吸わないのでしょうか。

もしかしたら、萬子媛のお墓が神社の石壁社とは別に普明寺にあるのかもしれないと思いつつ、帰途についたのでした。

萬福寺の和尚様は、わたしが調査しているようなことに詳しいかたを何人か教えてくださいました。そのうちのお一人のご著書は読んだことがありました。

しかし、「総合的に知っている人はいない。佐賀も殿さんが沢山、黄檗の寺院を作った。祐徳稲荷もそうじゃが」と和尚様。

「普明寺は、相当に苔むしているように見えました。綺麗になれば、一般人も行きやすくなると思いますけれど」と磊落な和尚様の雰囲気に甘えて、ついいってしまうと、「あんたが、あんたが人のため、世のため。自分がやるか、やらないかをいうことに価値がある」と和尚様。

「わたしは黄檗宗の僧侶として断食入定を遂げられた祐徳院様に魅せられ、黄檗宗について知りたいと思いました。いろいろと教えていただいて、ありがとうございました」といいました。

法泉寺に電話したのは、田中保善『鹿島市史 真実の記録』(田中保善、1990)に、次のような記述があったからでした。

祐徳院と稲荷社は世間の信仰を集め、御霊験あらたかで有名になり参詣人も多く興盛になったが、明治を迎えて神仏混淆のお寺は明治政府の『神仏判然令』により神仏を分離して廃仏毀釈が実施されるようになった。ここでは仏像や仏具一切を普明寺に移して神社のみとした。普明寺では仏像仏具類は完備しており、普明寺の末寺の法泉寺に祐徳院の寺の物を全部移して現在大切に保管している。(田中,1990,pp.151-152)

祐徳博物館の職員は「祐徳院にあった物は普明寺に移されたということのようですよ」とおっしゃいました。前述したように普明寺も法泉寺も同じ敷地内にあり、法泉寺は普明寺の子院なのです。

しかし、法泉寺に電話でお尋ねしたところでは、禅寺だった祐徳院の物は何一つないというお話でした。萬子媛のお墓もないそうです。

「ここは藩主の菩提寺で、藩主と正室のかたしかお墓はありません。祐徳院様は後室なので、ここにはないのです」とのことでした。以下のオンライン論文にも、そのようなことが書かれています。

高橋研一(鹿島市民図書館 学芸員)「鍋島直彬の先祖史蹟顕彰事業 ~先祖の史蹟を訪ねた直彬」<http://kcc.lolipop.jp/_src/sc1250/82d382e982b382c692t96k8du8989985e81i8dc58fi81j.pdf>(2017/6/13アクセス)

他の大名家のお墓をきちんと調べていかなければなりませんが、夫婦が対になった墓所の配置は鍋島家の特徴的な墓の作り方といえるかもしれません」とも書かれています。

同じ正室であっても、先に嫁いだ正室だけが藩主と同じ墓地に眠る権利があったということのようですね。

そして、前掲論文の次のような記述に胸を打たれました。

普明寺の場合、菩提寺だったので非常に多くの子院が建てられています。当時の景観で言うと、ここから祐徳稲荷神社まで山伝いに子院がつながっていました。祐徳稲荷神社の前身も元々は祐徳院といって、普明寺の子院でした。

どんなに壮観だったことでしょう!

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2017年6月 9日 (金)

祐徳稲荷神社と普明寺に行き、博物館で取材しました

昨日、家族で祐徳稲荷神社に出かけました。また出るのが遅くなり、途中でお昼近くになったので、ドライブインに寄りました。

わたしは萬子媛にお目にかかる緊張感から、何も飲食しませんでした。以前は何も考えずに気軽に行けたのが不思議です。

遅くなり、御祈願の受付時間には間に合いそうでしたが、祐徳博物館には行けても、16時半には閉まってしまうので、慌ただしい見学になりそうでした。

博物館の近くの駐車場に夫が車を止め、降りて本殿や石壁社のあるあたりに目を向けたとき、傾きかけた日が燦然と射して、あまりの美しさにしばらく見とれてしまいました。

日を受けた樹々の緑の輝きがあまりに美しいので、「まるで天国みたいに綺麗ね、こんなに綺麗に見えるのは初めてよ」と娘にいうと、娘は怪訝な顔をしました。

何て綺麗なんだろう、ずっとここにいたいと思ったほどでした。あとで、もっと傾いた日を受けて、それでもまだ輝いている樹々の緑を見たときとの平凡な印象とは、落差がありました。

今思えば、御帰りになる萬子媛のオーラの輝きが日の輝きに混じっていたからだとしか思えません。

御祈願をお願いしようと思って、厄年の記された表を見ると、そこにわたしの生まれた年はありませんでした。来年、還暦の御祈願をお願いすることになりそうですけれど。

神社によって、違うのですね。先日、帰省した息子、夫と宇佐神宮に参拝した折に厄年の表を見ると、前厄に当たっていたので、祐徳稲荷神社で御祈願をお願いしようと思ったのでした。

それなら博物館に先に行こうかな、と思いました。「そちらに長居してしまうと、萬子媛がお帰りになってしまうよ。いいの?」と娘がいいました。娘はわたしのいうことを信じている風ではありませんが、合わせてはくれるのです。

そうかもしれないと思いました。それでも、博物館で前回見落としがあって(結局は今回も見落としが出ました)、どうしても確認のために行きたかったのですね。

そして、やっぱり長居してしまい、出ようとして博物館の受付のところを見ると、職員のお顔が見えたので、どうしても知りたかったことをお尋ねしてみたくなりました。このことがわからないと、小説が進まないのです。

閉館の時間になっていたにも拘わらず、快く質問に答えてくださいました。

「江戸時代のお話になりますが、祐徳稲荷神社のお寺としての前身の、黄檗宗の僧侶となられた萬子媛が創建された祐徳院の建物はどこにあったのですか?」とわたし。

これまで調べたことを総合して考えると、祐徳院は庵のような小規模の建物で、山腹にあるとしか想像することはできませんでした。

でも、萬子媛の義理の息子で大名になった直條公が執筆したとされる『祐徳開山瑞顔大師行業記』には、尼僧となった萬子媛がもう一人の義理の息子断橋和尚(直條の兄に当たる)から譲られた祐徳院で、尼十数輩をひきいたと書かれているのです。

祐徳院を庵のような小規模の建物と考えるのは不自然でした。

すると、職員はおっしゃいました。「それは、ここです」

「ここって……山腹にあったのではないのですか?」とわたし。
「実は、はっきりとしたことはわかっていないのです。廃仏毀釈をご存知でしょう? それによって、祐徳院にあった物は普明寺に移されたということのようですよ」と職員。

はっきりしたことは不明とおっしゃっているにも拘わらず、再度お尋ねしてしまいました。「では、祐徳院は本殿とか石壁社のあるあたりの山腹にあったわけではないのですね?」とわたし。

職員は困ったような表情で、「萬子媛に仕えていた尼さんの石碑が岩本社のあるあたりにあったと聞いています。それで、岩本社が建てられたようです」とおっしゃいました。

祐徳稲荷神社で行われた『かしま伝承芸能フェスティバル』の模様を収めた動画がアップされていました。

「一声浮立」が披露されています。鹿島小唄、鹿島節と共に、盆踊りでお馴染みの曲です。知っている顔があるような……やっぱりそうでは。なつかしいので、自分のためにも貼りつけさせていただきます。この歌詞の中に「福は授かる祐徳稲荷」とあります。

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2017年6月 6日 (火)

祐徳稲荷神社の動画で……あれ?

祐徳稲荷神社に娘が行きたいというので、近いうちに家族で出かける予定です。行きたいと思いながら、1年経過してしまいました。

車で往復6時間というのが、ネック。運転してくれる夫に無理がないようにするには、連休をとって貰う必要があります。

わたしは、体調がよい日であっても、着いたときは頭がボーっとなって、小説の取材もろくにできない有様です。

祐徳博物館にはまた行きたいし、できれば鹿島藩鍋島家の菩提寺「普明寺」にも行きたいと考えています。祐徳博物館に長居をしてしまうと無理かも。

普明寺は、鍋島直朝公の長男・断橋の開基により、師僧・桂厳性幢に開山となって貰い、創建された寺です。断橋は鍋島直孝の僧名です。

普明寺の見学動画が出て来ないか検索していたら、祐徳稲荷神社の動画が沢山出てきました。前に検索したときはもっと少なかった気がします。

そうした動画の一つに、読経(般若心経?)する白装束の人々が映し出されていました。2012年の12月に公開された動画です。以下は動画のアドレスです。

4:28 ごろから萬子媛(御神名萬媛命)をお祀した石壁社が出てきます。読経する人々が登場するのは 5:13 ごろからです。

神社で般若心経が唱えられることがあるとは知っていましたが、実際にそうしている人々を見たのは初めてだったので、驚きました。これは明治政府によって禁止された神仏習合の名残りと考えていいのでしょうか? 

以下の動画「佐賀のパワースポット、祐徳稲荷神社」では、1:22 ごろから石壁社、1:56 ごろから水鏡が捉えられています。


以下にリンクさせていただいたドローン空撮のサンプル動画はとても神秘的な映像です。

  • Power Spot yutoku Inari Shrine パワースポット祐徳稲荷神社 秋季大祭(おひたき) ドローン空撮   
    https://youtu.be/MIqD4n_aFIw

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2017年4月28日 (金)

創作状況(初の歴史小説、エッセー)

改稿の下準備段階の御遺物メモで止まっている初の歴史小説「祐徳院物語」(仮題)だが、義理の息子のうち、大名となった弟の直條公によって創作された漢詩を読んでいる。

肥前鹿島藩第四代藩主鍋島直條由来の詩箋巻を翻刻・注釈したもので、中尾友香梨、井上敏幸『文人大名鍋島直條の詩箋巻』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2014)。

わたしは図書館から借りているが、この作品はセンターのホームページからPDF形式で閲覧、ダウンロードすることもできる。

分けていただいた、井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2016)もそうだが、どちらも貴重な史料だと思う。

昨日から今日にかけて、タブッキの本を2冊再読している最中に、なぜか初の歴史小説のことが思い浮かび、直條公の視点で萬子媛を描いてみたらどうだろう、という発想が浮上した。

初稿では、最初に村人を出したのが失敗だったような気がしている。何年かかるかわからないが、時間をかけて仕上げることにしたので、とりあえずこの案で書いてみたいと考えている。

萬子媛の断食入定についてだが、明治時代に禁止されるまで、日本では断食入定は主に密教系の仏教で行われたようだ。ジャイナ教がどこかで影響しているということは考えられないだろうか。

仏教とほぼ同時期に成立したといわれるジェイナ教は、インド独立運動の指導者マハトマ・ガンジーの非暴力運動にも影響を与えたといわれている(インド独立運動といえば、ガンジーと親交があり、独立運動のために自治連盟を組織し、国民会議の議長になったりした神智学協会第二代会長アニー・ベザントを連想する)。

ジャイナ教については、上記した程度の乏しい知識しかなかった。それがたまたまH・P・ブラヴァツキーを守護、指導したモリヤ大師のモリヤという名が、この大師の化身であった古代インドのモリヤ王朝(マウリヤ王朝)の始祖チャンドラグプタ・モリヤから来ているという神智学協会のエピソードが気になり、ウィキペディアで「チャンドラグプタ (マウリヤ朝)」を閲覧した。

すると、次のようなことが書かれていた。

ウィキペディア:チャンドラグプタ (マウリヤ朝)

ジャイナ教系の記録によれば、チャンドラグプタは晩年ジャイナ教を厚く信仰し、退位して出家し、ジャイナ教の聖人バドラバーフの弟子となり、出家後の名はプラバーカンドラとした。バドラバーフの下で苦行に打ち込んだチャンドラグプタは、最後は絶食して餓死したとされている。
ウィキペディアの執筆者. “チャンドラグプタ (マウリヤ朝)”. ウィキペディア日本語版. 2016-11-07. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)&oldid=61839301, (参照 2016-11-07).

少し驚きながら、ジャイナ教についてもウィキペディアを閲覧してみた。次の記述が印象的で、ジャイナ教に関する本を図書館から2冊借りたところ。ちなみに、仏教を守護した大王として有名なアショーカ王はチャンドラグプタの孫に当たる。

ウィキペディア:ジャイナ教

ジャイナ教はあらゆるものに生命を見いだし、動物・植物はもちろんのこと、地・水・火・風・大気にまで霊魂(ジーヴァ)の存在を認めた。
ウィキペディアの執筆者. “ジャイナ教”. ウィキペディア日本語版. 2016-10-19. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99&oldid=61585475, (参照 2016-10-19).

これは神智学を連想しないわけにはいかない。

そして、ジャイナ教に関する本を読み始めてすぐに、何ともいえないなつかしさが胸に込み上げてきた。カタカナで書かれている言葉に自分でも驚くくらいに反応し、それが郷愁に変わる驚き。

これまでカタカナに邦訳されたサンスクリット語、パーリ語、チベット語などを見ると、苦手意識のほうが先に立ったのだが、ジャイナ教の解説の雰囲気の中で馴染みのないはずの、あるいは目にして苦手に感じたはずの言葉がなぜか心に沁みて、その言葉をつぶやきたくなるのである。

わたしは過去記事で、前世とあの世のわずかばかりの霊的記憶を持って生まれてきたとたびたび書いてきた。

そして、間抜けなことに、この世で果たすべき使命があるという思いを持ってこの世に下りてきながら、それが何であるかを完全に忘れ、覚えているのは前世は年老いた僧侶として死んだということ、太陽と大気に関するこの世とあの世におけるそれらの性質、感触、色彩の違いだけだった。ただ小学生のころまで、秘かに瞑想をする習慣を前世から持ってきていた。

自分がどんな宗教に属していたのか、それすらわからず、若いころからキリスト教、仏教など、あれこれ惹かれる宗教は多かったのだが、諸宗教を総合してそこから高純度のエッセンスを抽出する作業を行った近代神智学運動の母ブラヴァツキーの著書に強く惹かれたのを別にすれば、どれにももう一つ違和感があった。

しかし今、おそらく、わたしは前世の一つでジャイナ教の僧侶であったことがあったに違いないと考えている。子供のころに萬子媛の断食入定を知って、恐ろしいと思いながらも強い印象を受けて、ずっと忘れられなかったのも、前世の一つにおけるジャイナ教体験から来ているのかもしれない。

江戸時代の日本で禅宗の黄檗僧としての生きかたを貫かれた萬子媛だが、古代インドでジャイナ教に属していた前世もお持ちでは……と空想したくなる。勿論これは完全なわたしの空想にすぎない。

前掲のウィキペディア「ジャイナ教」には、断食入定について次のように解説されている。

ウィキペディア:ジャイナ教

アヒンサーを守るための最良の方法は「断食」であり、もっとも理想的な死はサッレーカナー(sallekhanā)、「断食を続行して死にいたる」ことである。マハーヴィーラも断食の末に死んだとされ、古来、段階的な修行を終えたジャイナ出家者・信者のみがこの「断食死」を許された。
ウィキペディアの執筆者. “ジャイナ教”. ウィキペディア日本語版. 2016-10-19. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99&oldid=61585475, (参照 2016-10-19).

まだざっと2冊の本に目を通した程度だが、自身の思い込みを除外しても、ジャイナ教にはとても魅力的なところがある。また、仏教とよく似ていることに驚かされる。

サイト「仏教へのいざない」の仏教入門「第3回 仏教とジャイナ教」によると、この二つの宗教は「双子の宗教」だとか「姉妹宗教」などと呼ばれているそうである。

  • 仏教へのいざない
    http://todaibussei.or.jp/izanai/izanai_index.htm

アントニオ・タブッキの本を2冊再読したのは、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に書きかけのタブッキに関するエッセーの続きを書くためだ。

再読したのは、アントニオ・タブッキ(鈴木昭裕訳)『レクイエム』(白水社、1999)、アントニオ・タブッキ(和田忠彦訳)『イザベルに ある曼荼羅』(河出書房新社、2015)。

タブッキに関するエッセーはまだまだ続くが、次のエッセーを書いたら、タブッキにはしばらく時間を置く。ロシアのフリーメーソンがイルミナティに侵食される過程を描いたトルストイの『戦争と平和』に関するエッセーも、当ブログから「神秘主義的エッセー」のほうへ移しておきたい。

それから、初の歴史小説へ。

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2016年10月25日 (火)

物質主義社会のなれの果てか、ママカースト

過去記事でお知らせしたように、はてなブログ「マダムNの連載小説」で平成12年(2000)5月に脱稿した「地味な人」の連載を開始した。

100枚程度の短編小説なので、3枚強ずつ毎日更新したら、ひと月で完結する。

この小説をブログで公開するか、電子出版したいと思いながら、気が進まず、清書しかけては中断、を繰り返してきた。

要するに、ダークなテーマであるため、自分の小説であるのに、扱うのが嫌になってしまっていたのだ。

しかし、感熱紙の印字がいよいよ薄くなってしまった今、このまま主人公を失っていいのか、といううろたえる思いが自分の中で湧いた。

16年も前に書いた小説であるにも拘わらず、挑んだテーマは現代日本で流行語になっているママカーストと同じものである。尤も、当時は、そのような言葉はなかった。ママ友という言葉もなかった。

小説を連載しながら改めて、ママカーストの実態をリサーチしたいと考えている。物質主義社会のなれの果てといってよい現象なのか、反日勢力の工作が絡んだ現象なのか……

わたしのママ友関係には、幸いママカーストに当たるような出来事は起きなかった。

同じアパートで、夫が流通業に勤務する似た経済状態にある女性たちが子供を介して交際していた。個人的に合う合わないといった自然な感情は当然存在したが、それだけのことだった。遠く離れても、当時がなつかしく、葉書のやりとりがある。

そうした意味では幸福な子育てだった。ところが、落とし穴はあるもので、別の場所でママカースト現象に当たるような体験をした。だから、小説が書けたのである。

江戸時代に生まれた萬子媛は、彼女の小伝を書いた義理の息子が「大師ハ華冑ニ生ルルモ、富貴ノ籠絡スル所トナラズ、志ヲ斯ノ道ニ鉄ス」と書いたように、高貴な生まれでありながら(後陽成天皇の曾孫女で、左大臣・花山院定好の娘)、そのことに絡めとられることなく、求道者としての道を貫き、衆生救済のために断食入定した。

日本は、過去にこのような人物を生んだ国でありながら、何て情けない国になってしまったことか。

ママカーストなんてやっている人間は、畜生以下だろう。日本人なら、恥を知るがいい。自らの行いはすべて自分に返ってくる――仏教を通して古来、日本人にはそうした認識があった。

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2016年10月13日 (木)

歴史短編1のために #29 萬子媛遺愛の品々 ④御化粧袋、貝合わせ、鉄鉢

祐徳博物館での個人的なメモです。

御遺物メモの続き。

漆に蒔絵[まきえ]が施されたシックな調度は婚礼調度だろう。鎌倉時代くらいを起点とした婚礼調度は、江戸時代初期には道具類が体系化され、豪華なものになっていたという。

印籠
室町時代に明から輸入された長方形の小型の容器には当初は印を入れたらしいが、江戸時代には薬入れやアクセサリーとして流行ったとか。

御化粧袋
お化粧袋は赤地に牡丹模様、それに市松模様のバンドがついていて、現代感覚の目で見ても洒落ている。

以下のノートは、谷田有史・村田孝子『江戸時代の流行と美意識 装いの文化史』(三樹書房、2015)を読みながらとったものだが、引用する。本の監修者である谷田氏はたばこと塩の博物館学芸員、村田氏はポーラ文化研究所シニア研究員。

2015年10月31日 (土)
歴史短編1のために #18 江戸時代のおしゃれを作り上げたもの
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/10/18-8d71.html
江戸時代には多くの育児書が書かれていたと書いたが、美容読本なども書かれ、読まれていた。
房州砂に竜脳や丁子、白檀などの香料で香りづけした歯磨き粉、石鹸の代わりの糠や粗い粉。糠を銭湯で売っている様子が浮世絵に描かれているらしい。糠はタンパク質や脂肪を含んでいて、天然のクリームとなった。糠袋は母が時々使っていたが、江戸時代からあったのか……。
萬子媛は江戸時代初期から中期にかかるくらいの人なので(1625年 - 1705年)、初期に注目して本から拾えば、洗顔のあとには化粧水。花露屋から発売されていた「花の露」が有名だった。これは天和2年(1682)に書かれた井原西鶴『好色一代男』(巻二)に出てくるらしい。
この花露屋は寛永の末に江戸の医師がつくった、江戸初期から明治時代まで続いた化粧品店だったという。萬子媛が二十歳のころには創業していたというわけか。おしゃれなネーミングだなあ。萬子媛も使ったのかしら、花の露。
お歯黒は『源氏物語』『堤中納言物語』にも書かれた日本で一番古い化粧とされているという。お歯黒は歯槽膿漏、虫歯予防に役立っていたそうだ。

井原西鶴『好色一代男』(巻二)に確かに、花の露屋の五郎吉という香具売の少年が登場する。

つゞきて桐[きり]の鋏箱[はさみばこ]の上に小帳[こちょう]・十露盤[そろばん]をかさね、利口[りこう]さう成男[をとこの]行は、人の目に立ぬやうにこしらえて、みるほどうつくしき風情[ぜい]也。「是なん香具賣[かうぐうり]」と申。こゝろうつりてよび返し、沈香[ぢんかう]など入[いる]のよし申て、調[とゝのえ]て、とやかく隙[ひま]の入こそ笑[をか]し。「御用[ごよう]もあらば重而」と立かへる程[ほど]に、宿[やど]もとをきけば、「芝神明[しばしんめい]の前[まへ]、花の露屋[つゆや]の五郎吉、親かた十左衛門」とぞ申。(麻生磯次・冨士昭雄『対訳西鶴全集 一  好色一代男』明治書院、昭和58新版、64頁)

人目に立たないこしらえながら美しい風情の少年は、香具だけを売っていたのではないようだ。

貝合わせ
貝櫃(貝合わせを入れる箱)

上流社会の嫁入り道具中必需品であった」と説明があった。
平安時代を連想させる美しい貝合わせ。実物が見られて、感激した。貝殻の内側に金箔が貼られ、絵が描かれていて、美しい。

ウィキペディア「貝合わせ」
貝合わせ(かいあわせ)は、平安時代から伝わる日本の遊び。本来の貝合わせは、合わせものの一つとして貝殻の色合いや形の美しさ、珍しさを競ったり、その貝を題材にした歌を詠んでその優劣を競い合ったりする貴族たちの遊びであった。

江戸時代の貝合わせ
江戸時代の貝合わせは、内側を蒔絵や金箔で装飾されたハマグリの貝殻を使用する。ハマグリなどの二枚貝は、対となる貝殻としか組み合わせることができないので、裏返した貝殻のペアを選ぶようにして遊んだ。
また、対になる貝を違えないところから夫婦和合の象徴として、公家や大名家の嫁入り道具の美しい貝桶や貝が作られた。貝の内側に描かれるのは自然の風物や土佐一門風の公家の男女が多く、対になる貝には同じく対になる絵が描かれた。美しく装飾された合貝を納めた貝桶は八角形の形をしており二個一対であった。大名家の姫の婚礼調度の中で最も重要な意味を持ち、婚礼行列の際には先頭で運ばれた。婚礼行列が婚家に到着すると、まず初めに貝桶を新婦側から婚家側に引き渡す「貝桶渡し」の儀式が行われた。貝桶渡しは家老などの重臣が担当し、大名家の婚礼に置いて重要な儀式であった。
金箔が使われている。

ウィキペディアの執筆者. “貝合わせ”. ウィキペディア日本語版. 2016-08-06. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%B2%9D%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B&oldid=60679944, (参照 2016-08-06).

雁[かり]が音の琴
万媛遺愛の名琴で、黄金を以て雁一双、家紋並に唐詩和歌を象眼[ぞうがん]した鹿島鍋島家の家宝で累[るい]代公夫人に伝わり(略)」と説明があった。

小説を書いているときに、気品の高い女性が筝を弾いている姿が目に浮かび、その場面を取り入れたのだが、萬子媛は本当に箏を弾かれていたようである。ちなみに琴と普段呼ばれている楽器は音楽専門サイトによると筝(琴には柱がない)、小説にはどちらの表現を使うかで迷う。

ウィキペディア「筝」
一般的に、「箏(こと)」と呼ばれ、「琴(きん)」の字を当てることもあるが、「箏」と「琴」は別の楽器である。最大の違いは、箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節するのに対し、琴は柱が無く弦を押さえる場所で音程を決める。ただし、箏の柱(箏の駒)は「琴柱」とするのが一般的で(商品名も琴柱)、箏の台は琴台(きんだい)と必ず琴の字を使う。
ウィキペディアの執筆者. “箏”. ウィキペディア日本語版. 2016-04-15. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AE%8F&oldid=59361089, (参照 2016-04-15).

藩主 御火鉢 参勤交代用湯沸[わかし]
参勤交代時に用いられたという湯沸が興味深かった。

御茶道具
紺地に龍が描かれているものがあった。

鉄鉢
鉄鉢は「てっぱつ」と読むようだ。

托鉢(タクハツ)僧が信者から米などを受ける。鉄製のはち。(『新明解国語辞典 第五版(特装版)』三省堂、1999)

出家前と後の遺愛品が混じって展示されていたので、僧侶時代の遺愛品であることに気づくとハッとしたが(御袈裟)、鉄鉢は辞書を引かなければ、僧侶時代のものであることに気づかなかっただろう。

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