カテゴリー「Notes:江戸初期五景1(萬子ひめ)」の138件の記事

2019年10月 8日 (火)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その15。10月8日午後再開。河村市長の座り込み抗議、赤に白一点のフォーラム。田中保善『泣き虫軍医物語』。

物議を醸し続けている「あいちトリエンナーレ 2019」の企画展「表現の不自由展・その後」ですが、本日――10月8日午後、再開の予定だそうです。

これに異を唱えてきた名古屋市の河村たかし市長が、その再開に合わせて、抗議の座り込みをなさるそうです。また、河村市長は7日、18日が支払い期限の市が負担する開催費用の一部約3380万円について、支払い留保の考えを記者団に明らかにしました。

入場者には教育プログラムを受けさせるのだそうです。このやりかたは石平氏がおっしゃる通り、共産党の洗脳を連想させます。

 

「ひろしまトリエンナーレ2020」のプレイベントにあたる企画展が10月5日、広島県尾道市の離島、百島で始まったそうで、これも大同小異のひどいものであるようです。わたしも、西村氏のご意見に同感です。

あいちトリエンナーレのあり方検討委員会とあいちトリエンナーレ実行委員会が主催する国際フォーラム「『情の時代』における表現の自由と芸術」の第1日「表現の自由と芸術、社会」が2019年10月5日(土)13時から17時まで、愛知芸術文化センターで開かれました。

それを記録した動画の中で、「国家や一部の人々を傷つけたり驚かせたり混乱させるものも表現の自由として保証される」などという、司会者のとんでもない発言がありました。日本国憲法第12条に真っ向から挑戦する発言であり、これはもはや芸術とは無関係なテロリストの発想です。 

第一二条[自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任]この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

フォーラムの最後で良識的な発言がありました。それを司会者が潰した格好でフォーラムは終了し、芸術監督・津田大介氏がオマケの大あくびをしました。

日本人が大東亜戦争と呼び、終戦後、GHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、太平洋戦争などと呼ばれるようになった先の戦争を、左翼がプロパガンダに絶賛活用中です。

彼らの脳内では、その戦争において、大日本帝国軍人は天皇陛下の命により、植民地戦争を繰り広げて残虐行為を行ったということになっています。そして、これら軍人の性の相手を朝鮮人の従軍慰安婦がさせられ、ひどい扱いを受けたということにもなっています。

「表現の不自由展・その後」の展示作品も、この二点に依拠したものです。この二点が覆ってもなお芸術作品として何か優れたものが残る作品が一点でもあるのでしょうか。

そもそも、どなたの御写真であろうが、それを焼いたり踏みつけたりする行為、また死者を冒涜する行為は、日本人の感性には到底馴染まないものです。日本人は古来、礼節を尊ぶ国民性です。

祐徳稲荷神社の創健社、花山院萬子媛に祈って何度となく命を救われたとお書きになっている田中保善氏の御著書『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、昭和55年)が届きました。

戦争末期の昭和19年7月、町の開業医だった著者が軍医として応召、戦地ボルネオを中心とした体験記録です。

愛媛の古書店からの発送で、310円。経年劣化で中身は黄ばんでいるものの、美品といってよい商品でした。中表紙に付された青年軍医のきりっとした童顔の御写真を見たとき、思い出しました。

小学校だったか中学校だったかは忘れましたが、集団予防接種のとき、見かけたお顔です。上品な、優しそうなお顔。昔のことで、記憶は確かではありませんが……

プロフィールから引用します。

明治42年鹿島市に生まれる。鹿島中学旧制佐賀高を経て昭和10年九州帝大医学部卒、同12年鹿島市で開業。同19年7月応招。同21年4月復員…

まだ読んでいる途中なので、記事を改めてレビューを書きたいと思っています。

ちょっとだけ書いておくと、従軍慰安婦は出てきませんが、慰安婦(公娼)は結構出てきます。日本の娘だけでなく、「朝鮮や台湾の娘もおり、時にはジャワ島から来たジャワ娘もいた」(73頁)とあります。連れてこられたではなく、「来た」とありますよ。

信憑性の薄い河野談話が発表されたのは平成5年(1993)、田中氏の御著書が上梓されたのはそれを遡ること13年、昭和55年(1980)です。率直でユーモラスな筆致が特徴的なこの体験記には、様々なことが赤裸々に書かれています。

慰安婦達との恋愛遊戯のようなこともよくあったようで、田中氏は千代龍という美女に一目惚れ。こんなことを書いて、奥様に叱られなかったでしょうか。千代龍というのは源氏名でしょう。

日本軍がクダット地区を撤退するとき、酋長は部下幹部と共に涙を流して悲しみ、次のように言ったと書かれています。

クダットを撤退するのは思いとどまって下さい。他の新鋭部隊でなく今のあなた達でよい。日本軍がいなくなって、またもし白人が来たら、我々はまた人間扱いはされない。日本軍は私達を同等に扱ってくれた。我々と同じ物を食べ、一緒に同席してくれた。また赤十字をつけた兵隊さんからは我々の仲間が病気を治療してもらって沢山助けられている。どうか日本軍の皆さん、クダットに残っては下さらないでしょうか。日本軍の代わりに白人が来たら、我々はまた奴隷にされてしまいます。(131~132頁)

田中氏のこの御著書だけでも、左翼がしがみついている前掲二点を覆すことができます。「勝てば官軍、負ければ賊軍」といいますけれど、勝った側って、本当に嘘つきですね。

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2019年10月 5日 (土)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その14。再開の動きのある中で浮上した、補助金詐欺疑惑。

愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止となった企画展「表現の不自由展・その後」ですが、以下の愛知県議会議議員のツイートが示す、不透明な状況下で、再開の動きが出ています。

再開する時期は10月6~8日の方向だということですが、ここへきて、補助金詐欺疑惑が出てきました。

明日は6日ですが、本当に再開されるのでしょうか。メディアはおそらく補助金詐欺疑惑に関してはおおむねスルーでしょう。出版界の現状を伝える以下の貴重なツイート。

あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」では、慰安婦像はじめ、昭和天皇、特攻隊を貶める作品が展示されていました。それを再び日本人の目に晒すつもりなのでしょうか。

ここまでするのであれば、日本人が大東亜戦争と呼び、戦後、GHQによって戦時用語として使用が禁止され、太平洋戦争などと呼ぶようになった戦争について、公平に検証すべきです。

否、既に検証は充分なされたといっていい段階にきているのですから、メディアがそれを海外にまで拡散してくれればいいだけの話なのです。反日に染まりきっていて、彼らはそれをしようとはしません。

「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」、という理念と構想を元に始まった大東亜戦争が、アジアの植民地の宗主国を中心に構成された連合国側にとっては都合が悪かったため、終戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、「太平洋戦争」などの語がかわって用いられた。
「大東亜戦争」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年8月16日 04:16 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

戦争をするに当たっての日本のこうした理念と構想は、開戦の詔勅に簡潔に書かれています。開戦の詔勅、終戦の詔勅の内容を日本人は学校で教わることがありません。

前の記事で書いたように、萬子媛のイメージ像をモデルとした新作能を書いている途中ですが、戦時中、萬子媛に度重なる危機を助けられたとお書きになっている田中保善氏が軍医として行かれたというボルネオについて調べていました。

コタブルトのアバラ屋と書かれている箇所を読むと、ジャングルの中なのだろうかと思い、これは凄惨なボルネオの戦いというイメージにぴったりくるものでした。ですが、クダット県知事公舎、大きな医務室などと書かれていると、整備された地域もあるのだろうと思いました。それは、植民政策を行っていたオランダかイギリスが整備したものを日本軍が占領したのだろうかと思い……当時の状況が全くわからなくなりました。

連合軍の攻撃で悲惨になる前のボルネオの状況を知りたいと思いました。今でもジャングルで有名なボルネオは、ボルネオの戦いで悲惨になる前から悲惨なところだったのでしょうか。

今のボルネオは親日だそうで、特にブルネイがそうだと知り、ウィキペディアを閲覧しました。

第二次世界大戦が始まり、この地を支配していたイギリスを日本軍が排除した結果、1942年より日本の戦時統治が始まり、ブルネイ県が設置される。
木村強がブルネイ県知事として着任した。
木村強は約1年間ブルネイ県知事を勤めて最初に軍部の反対を抑えて、多くのインフラ設備と公共設備投資をして、後のブルネイの経済発展をさせた。後に首狩り族とブルネイで恐れられ、日本軍に抵抗し戦い、その日本軍の兵士も捕まえて首を切ったとされているイバン族を必死に説得して協力させ、ブルネイの発展に作業させた。ブルネイ国王のアマド・タジュディンはイバン族を全滅させようとしたが、木村強は何とかしてイバン族の命を救った。そして1年のブルネイ県知事を終えた。
「ブルネイの歴史」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年8月29日 01:28 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

石油がほしいというだけでは、首狩り族を保護するようなことまではしないでしょう。以下のブログには、詳しいことが書かれています。植民地として利用されるだけで貧しかったボルネイを日本は人道的なやりかたで、豊かなところに変えていきました。日本人がブルネイの人々と一緒に平和な、豊かな場所に変えていったところへ、連合軍が攻撃をしかけてそれを滅茶苦茶にしたというわけです。

「【親日感動秘話】ブルネイを救った伝説の日本人」『にゃんころりんのらくがき』。2016年06月06日 13:47 UTC、URL: https://ameblo.jp/ba7-777/entry-12167914277.html

そういえば最近、ペリリューの戦いで知られるパラオについても調べて、感動したばかりでした。

2019年9月16日 (月)
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その13。「開戦の詔勅」から「表現の不自由展・その後」まで、ツイートを時系列に。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/09/post-dcf82f.html

太平洋戦争について調べるとき、こうした「発見」は沢山出てきます。そうした国々が今も親日であることが、何よりの証拠です。日本人にとって、太平洋戦争はまぎれもなく大東亜戦争だったのです。

戦時中の日本人の美しい行為は、江戸初期生まれの萬子媛が神社という神域から今なお続けておられる行為に重なるものがあります。日本人にはこうした一筋の美しい流れがあり、それを絶やしてはいけないと思います。これほどのものを作り上げた文化は尊重され、継承されるべきものであって、貶められるべきものではありません。

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2019年10月 3日 (木)

萬媛の三番目物ノート ①大まかなあらすじ

わたしは田中保善氏のご著書『鹿島市史 真実の記録』(1990)の中の萬子媛に関する伝記的記述を読み、子供のころから何となく心惹かれていた萬子媛に一層興味を持つようになりました。

わたしなりの萬子媛のイメージ像をシテ(主人公)として新作能を書いてみたいという大それた望みは先月の25日に生まれたばかりです。アマチュア物書きのわたしがそれを書いたところで何になる、などとは不思議にも全く思いません。書けるかどうかは別として、書いてみたいという強い思いが湧き起こっています。

ワキ(シテの相手役)は、前掲の田中氏がモデルです。

『鹿島市史 真実の記録』には、先の大戦中、軍医として出征した出来事が綴られています。田中氏は出征前、祐徳稲荷神社に参詣したそうです。

倉稲魂大神(田中氏の研究ではインドの夜叉・荼枳尼天だそうです)にお願いすると同時に、「荼枳尼天と同等に神通力を有しておられる萬子姫の霊たる祐徳院殿瑞顔大師に御助け下さいと御願いした。母親に甘えるだだっ子のように罪深き卑怯者の私をどうか御助け下さい。私には母も妻も子供もおります。今度の戦争は敗戦[まけいくさ]で戦死するのが当たり前ですが、何卒御助け下さいと御願いした」(157頁)そうです。

危機一髪で奇跡的に助かったエピソードが五つ紹介されていますが、そのようなことがまだ何回もあったそうです。インディージョーンズより凄い! 例えば次のエピソード。

敵地巡回診察中、敵戦斗機三機に狙われ機銃掃射を受け終に私の腰部に命中したが、私の軍刀の鞘にあたり、鞘はえぐり取られたけれど私の腰は無事で助かった。(158頁)

戦争を知らないわたしが戦争を書くことになるとは想像もしませんでした。

ですが、一応平和とされている現代においても、また田中氏が体験された戦争においても、おそらくは萬子媛はお亡くなりになった江戸時代からずっと今日まで、日本に生きる人間たちを毎日欠かさず見守ってこられたのだと思うと胸が熱くなり、田中氏の劇的な体験を参考にさせていただいて萬子媛を描いてみたいと思うに至りました。

田中氏の他のご著書『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)は未読でした。幸いアマゾンに中古で出ていたので、注文したところです。このご著書も参考にさせていただくことになるだろうと思います。

新作能の曲名は未定です。2007年10月に上梓された絵本『萬媛[まんひめ]』(文:梶田聡実、絵:寺田亜衣・杉本国子・中島健一・古賀沙織、監修:荒木博申、企画:吉岡満雄・佐藤三郎、編集・印刷:サガプリンティング)とかぶるとよくないでしょうから、かぶることにはならないようにしたいと考えています。

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おおまかなあらすじ

開戦の詔勅から時間が経過し、日本軍の敗色が濃くなったころ、○○(ワキ ※ワキの名は未定)に招集礼状が来る。○○は軍医として出征するに際して、神社に参詣し、稲荷大神と萬媛(註1)に加護を祈念する。

○○はかねてより神社の研究をしており、信心は篤かった。○○には守るべき母、妻、子があった。

マニラ丸でボルネオへ向かう途中、船は敵の砲弾を受ける。海中に放り出された○○の目に、天より舞ひ降りて来し白銀の一団(シテ、シテツレ、トモ)が映った。中心のひときわ輝かしい姿が目に入る。

従者のように見える天人の一人(シテツレ)がいう。

自分達は仏果を得た者であるが、(神社に伝えられる)天明8年に京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移ったとき、鎮火に現れた白衣の一団とは実は自分達であったのだ――と。

中心の輝かしい御姿(シテ)が、萬媛は自分だと告げる。

後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘として生まれた萬媛のこの世に在りし日々が語られる。

※在りし日々で採り上げるエピソードに関しては未定

萬媛の入寂と昇天の舞が重なる中、神々しい萬媛の舞に見とれているうちに○○は意識を回復する。そこは、ボルネオのコタブルト(註2)のアバラ屋に日本軍が設けた医務室だった。その後もいくつかの危機を奇跡的に脱し、終戦の詔勅からほどなく復員を果たした○○は、神社に参詣する。

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註1 鹿島市民図書館学芸員T氏によると、剃髪前の萬子媛は「萬媛」と呼ばれていた可能性が高い。

歴史短編1のために #47 落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-55cb.html
日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。
萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。
萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。
生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。
そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

註2 コタブルトはコタッ・ブルッのこと。コタ・ブルッ(Kota Belud)は東マレーシア・ボルネオ島北端のサバ州にある町。「コタ・ブルッ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年10月16日 11:04 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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参考資料メモ1

  • 開戦の詔勅、終戦の詔勅
  • 田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)、『鹿島市史 真実の記録』(1990)
  • 郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察
  • 祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員T氏、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話
  • 三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)
  • 新古今和歌集
  • 大和物語
  • 拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」(カテゴリー「祐徳稲荷神社参詣記」)

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拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」より

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)

神社という聖域には、実際に萬子媛のような高級霊が地上界を見守っていらっしゃるケースがあるということを、わたしは神秘主義的見地から確認してきた。

萬子媛のようなタイプの修行者をもたなければ、このようなタイプの守護者を日本は持つことがなかったわけである。

わたしはたまたま児童小説『不思議な接着剤』を書くためにマグダラのマリアについて調べていた。すると、時も場所も異なるが、萬子媛と同じように後半生を修行に明け暮れて亡くなり、守護聖人として祀られているマグダラのマリア伝説があるのを知った。

宗教的装いは違っても、古今東西、人間はどこでも似たようなことをやっているわけである。生前に徳のあった人物を慕い、加護を祈念する。そして、驚いたことに、現にそれに応えている萬子媛のようなかたが存在することをわたしは知ったのだった。

この純正ボランティア精神が生じた背景を知りたい。このかたはどんな人生を送られたのか。その環境はどんなものであったのか。思想的影響は? 萬子媛を繙くことは、これまでわたしが知らなかった日本について知ることでもあるのだ……

萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られているが、祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院である。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子・断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を率いる尼寺であった。

ざっと、萬子媛について復習しておこう。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となる。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。

1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。

朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

萬子媛の兄弟姉妹は、花山院家を継いだ定誠以外は、円利は禅寺へ、堯円は浄土真宗へ入って大僧正に。姉は英彦山座主に嫁ぎ、妹は臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。定誠、武家に嫁いだ萬子媛も結局は出家している……

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78 祐徳稲荷神社参詣記 (5)扇面和歌から明らかになる宗教観

神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(藤原俊成女)の歌が揮毫されている。

萬子媛は花山院家の出で、花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9年(1696)――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、藤原俊成女の次の歌である。

梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

藤原俊成女は鎌倉時代前期の歌人で、皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍した。藤原俊成女は藤原定家の姪だった。

田渕句美子『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今和歌集(角川選書536)』(KADOKAWA、2014)によると、平安末期から鴨倉初期に歌壇を先導した歌人が藤原俊成(1114 - 1204)で、定家はその子、藤原俊成女は孫娘に当たる。

藤原俊成女は父の政治的不運により、祖父母に引きとられ、俊成夫妻の膝下[しっか]で定家らと共に育てられたという。しかし、定家と藤原俊成女の間には確執が生じたようだ。

平安末期から鎌倉初期にかけて在位(1183 - 1198)した第82代後鳥羽天皇(1180生 - 1239崩御)は、院政時代に後鳥羽院歌壇を形成した。
その後鳥羽院の招きに応じ、活躍した女性歌人が、式子内親王[しきしないしんのう]、宮内卿[くないきょう]、藤原俊成女だった。

それぞれに際立った個性があり、わたしは三人共好きだ。(略)

幽玄美を提唱して『新古今和歌集』の歌人を育てた藤原俊成、『新古今和歌集』の撰者の一人であった定家、藤原俊成女らは藤原北家の人々で、花山院家は藤原北家だから、萬子媛にとっては『新古今和歌集』という存在そのものが望郷の念を誘うものだったのかもしれない。

そういえば、『源氏物語』を著した紫式部も藤原北家の人だった。藤原北家は右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系で藤原四家の一つである。

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。

修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述からすると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったと考えられる。
その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

萬子媛遺愛の品々の中には、二十一代巻頭和歌の色紙もあった。萬子媛が愛読愛蔵されたものだと解説されていた。

二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。

二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかるはずである。

二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。

昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。

平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(エッセー 74 を参照されたい)。

こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が読みとれる。

こうした複合的、統一感のある宗教観こそが歌謡集から勅撰和歌集まで、そこに集められた歌に凛とした気品と陰翳と知的洗練をもたらしたのだと考えられる。

江戸初期から中期にかかるころに生きた萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたということは、二十一代集に通底する宗教観を萬子媛も共有していたということではないかと思う。

ちょっと注目したいのは、次の歌である。作者は前述した皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)。

   皇太后宮大夫俊成『新古今和歌集』巻第十九神祇歌
春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ
(この春日野の、公卿の家筋を暗示するおどろの路の、埋もれ水のごとく世に沈んでいる自分である。今はとにかく、せめて子孫なりとも、わが祈りの験[しるし]をもって、世に現わし栄達させ給え。「春日野」は春日神社を示し、自身も藤原氏でその神の末であることとを余情とした詞。「おどろ」は、草むらの甚だしいもので、「路」の状態とするとともに、公卿の位地を示す語。)*10

子孫の出世を願う、切実ながらいささか世俗臭のする歌だと考えられるが、俊成は藤原北家の人で、萬子媛も藤原北家の花山院家の出であるから、神のしるしどころか、文字通り祐徳稲荷神社の神々の中の一柱となられた萬子媛は、子孫の栄達を祈った俊成の願いを最高に叶えた子孫といえるのではあるまいか。

*10:窪田訳,1990,p.443

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あらすじ、できました。新作能を読んだ感想。

昨日、萬子媛のイメージ像をシテ(主人公)とした新作能(三番目物)のおおまかなあらすじができた。そのノートは、次の記事にアップする。

何しろ、能を観たのは3回だけで、あとはテレビでの鑑賞、謡曲集の読書くらい。それで、新作能を書こうというのだから、無知とは怖ろしいものだ。あらすじができたあとで、せっせと勉強することなる。その勉強によって、あらすじ自体が変わる可能性はある。

母がお謡を習っていたのに、無関心で、からかっていただけだったことが悔やまれる。母が生きていたら、教わることも多かっただろうにと思う。

当市には能楽堂があり、3回観た舞台のうち1回はこの能楽堂で観たものだ。

舞台を観なくてはと思う。ホームページを観たが、今年中にはそれらしいものがない。何にせよ、ここの能楽堂と福岡の大濠公園能楽堂の催事情報はこまめにチェックする必要がある。能鑑賞貯金もしなくては。その貯金箱の一つを、一昨日夫がうっかり割ってしまったわ (T^T) 

石牟礼道子『石牟礼道子全集 不知火 第16巻』(藤原書店、2013)の中のエッセイで、石牟礼氏の「台本を書くまでにお能といえば二度しか見たことがありませんでした」(75頁)という記述に救われる思いがした。

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  • 瀬戸内寂聴の新作能 虵 夢浮橋
  • 石牟礼道子全集・不知火 第16巻 〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))
  • 多田富雄新作能全集

以上の本のうち、読んだ作品の感想を書いておこう。

瀬戸内寂聴「虵」

鎌倉時代前期の仏教説話集、鴨長明編『発心集』の中の説話「母、女[むすめ]を妬[ねた]み、手の指虵[くちなは]に成る事」を基にした新作能である。

「発心集」の説話を紹介すると、娘のある女が年下の男と結婚し、老いの不安から娘と男を強いて夫婦にしたまではよかったが、女は一室でのどかに隠居するどころか、嫉妬のあまり両手の親指がくちなわになってしまうという話。

惑乱した娘は尼に、男は法師に、女も尼になる。それでようやく女の指は元の指になり、後には京で乞食になったという。

両手の親指がくちなわになるというグロテスクさ。娘も男も女のいいなりで、狂言回しに使われているだけだ。

女が後に乞食になったとあるのは、どういうことだろう? 

女が尼になったのは怪奇現象を起こした指を元に戻すことだけが目的で、純粋な信仰心などはなく、目的達成後に尼をやめたということなのか。

尼であれば托鉢であって、乞食とはいうまい。それとも、この「乞食」とは仏教用語「こつじき」、すなわち托鉢のことなのだろうか。こつじきが転じて物乞いする行為「乞食」となった。

尼としての矜持を感じさせる暮らしであれば、いずれにせよ、その部分だけが強調されることはないだろう。

俗人が俗欲に終始した、実も花もないお話。

瀬戸内氏は、男を仏師にすることで、作品の俗っぽさを一層強めている。能の形式上、男と女は成仏した格好だが、成仏はしていまい。

それが小説「虵」になると、表現がリアルであるだけにいよいよ救いがたい結末となっている。尼となった女が老い、見世物小屋でくちなわの指を見世物にしていたというエピソードが語られるのだ。

能舞台となれば美しいのかもしれないが、作品として読むと、あまりにも救いがなさすぎる。登場人物の魅力が微塵も感じられない。

石牟礼道子「不知火」

石牟礼道子氏の新作能「不知火」は流麗な文章で、情緒に満ちて美しいというだけでなく、偏頗な文明に対する作者の危機意識が伝わってくる。入魂の作品という印象を受けた。この曲が水俣で演じられることは意義深いことだろう。

たが、わたしにはこのストーリーがうまく理解できない。

竜神の娘・不知火[しらぬひ]には、海霊[うみだま]の宮の斎女として久遠の命が与えられているにも拘わらず、生類の定命衰滅に向かえば、不知火の命もこれに殉ずるという。

竜神の息子・常若は父に命じられて生類の世を遍歴し終えた。

姉と弟は海と陸からこの世の水脈を豊かにすることに携わってきたが、この世の初めからあった真水が霊性を徐々に喪い、生類を養う力が衰えて、姉弟共に身毒が極まり、余命わずかとなった。

慕い逢う二人は、息絶え絶えとなりながら、恋路が浜に辿り着く。そして姉のほうは死んだ(弟も?)。

こうした一切を見ているのは、隠亡[おんぼう]の尉[じょう](じつは末世に顕れる菩薩)。

わたしには二人の勤めの内容がよくわからない。人間の罪業が重なったために毒変した海を浚えて浄化するとあるから、いわば濾過装置のような役割を果たしてきたということだろうか? 竜神の子たちの勤めかたにしては、人間の労働臭い。苦役そのものである。

そして、亡き妻を含む竜神一家は、末世の菩薩の秘命の下に働いてきたというのである。

その菩薩の助力もあって不知火は生き返り、二人の結婚を祝うために中国から楽祖(じつは木石の怪にして魍魎の祖)が招かれる。

楽祖が磯の石を手にとって打ち鳴らせば、浜で惨死した猫たち、百獣が神猫となり、胡蝶となり、舞う、橘香る夜となる……海も陸も再生したのだろう。

水俣病問題は産業における人為的ミスに社会的要因が絡んで被害が拡大し、社会問題となった。

その問題を石牟礼氏は現世と来世が重なり合う宇宙空間、悠久の時間の流れの中に直に置こうとしたため、一つの作品として見るとき、整合性のとれない部分が出てきたように思う。

多田富雄新作能全集

脳死(「無明の弁」)、朝鮮人の強制連行(「望恨歌」※最近の検証により、朝鮮人の強制連行はなかったことが判明した―ブログ管理人N)、原爆投下(「原爆忌」「長崎の聖母」)、相対性原理を題材とした能(「一石仙人」)、沖縄戦(「沖縄残月記」)、横浜に因んだ能(「横浜三時空」)、白州正子さんを題材とした能(「花供養」)、(「生死の川――高瀬舟考」)、子供能チャレンジのための能(「蜘蛛族の逆襲――子供能の試み」)。

時事的な題材が多い。構成も文章も端正だが、これらの能は地上界から一歩も出ていないような感じがする。異世界に触れることによる浄化現象は期待できない。

まだざっと読んだだけなので、読み込めばまた違った感想が生まれるのかもしれない。そのときは別の記事にしたい。

ただ、能に関して右も左もわからないわたしのような人間には、参考になる。能舞台を観たあとで購入したのかどうかは覚えていないが、多田富雄 監修『あらすじで読む 名作能50』(世界文化社、2005)を再読している。わかりやすい。

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2019年9月29日 (日)

借りてきた新作能の本、三冊 

最近の過去記事で、わたしは萬子媛をモデルとした作品について、次のようなことを書いた。

歴史小説にするには、何か、そぐわないものがあるのです。
わたしは神秘主義者として萬子媛を通して感じることのできた高雅な現象を書きたいのであって、よくわかりもしない萬子媛の生前のあれやこれやではないのです。
いや、あれやこれやにも興味があるから研究ノートを当ブログにアップし、そのまとめをエッセーとして「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録してきたわけですが、そのノートは、萬子媛の高雅な現象を表現できてこそ存在価値があるのです(エッセーは「萬子媛研究」といったような形にまとめたいと考えます)。
その表現にふさわしい形式は、新作能以外にありえない気がしてきました。

ノートは萬子媛をモデルとした作品が完成するまで、取り続ける予定。前述したように、いずれ「萬子媛研究」のような形にまとめたいと思っている。

ノートには、郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察、また祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員T氏、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話など、慎重に扱わなければならない情報があるので、まとめる作業には日数がかかると思う。

新作能を書きたいなどと大それたことを思い、三冊借りて読んでいるところだが、いや、本当に何だか書けそうな気がしてきた。テーマや雰囲気からすれば、過去に書いた「牡丹」という短編は、新作能にすることができるのではないかと思う。

萬子媛をモデルに、そのイメージ像をシテとする新作能を書きたい思いはあるが、まずは戯曲を、と思っている。逸る気持ちを抑えて、まずは新作能の研究からだ。

借りてきた三冊は以下。

  • 瀬戸内寂聴の新作能 虵 夢浮橋
  • 石牟礼道子全集・不知火 第16巻 〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))
  • 多田富雄新作能全集

瀬戸内寂聴氏を知らない人は少ないだろう。石牟礼道子氏は、2018年にお亡くなりになったが、水俣病を扱った代表作「苦海浄土」でとても有名なかたである。多田富雄氏は免疫学者、文筆家として活躍された。

多田氏の新作能をざっと見ると、脳死、原爆、朝鮮人の強制連行(※最近の検証では強制連行はなかったとされているーブログ管理人N)を扱ったものなど多作なかたである。

力作揃いなのだろうが、わたしが馴染んできた古典の曲とはテーマ自体が違う気がした。

瀬戸内氏の「虵」からまず読んだ。感想は別の記事にします。

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2019年9月25日 (水)

エッセーブログ「The Essays of Maki Naotsuka」を更新、43。萬子媛の小説に関すること。

エッセーブログ「The Essays of Maki Naotsuka」を更新しました。

目次

  1. 「講談社新社長」「青い鳥文庫」に関する新聞記事
  2. 拙読書体験
  3. ベルテ・ブラット(石丸静雄訳)『アンネは美しく』(偕成社、1970)

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エッセーブログを更新し、続けて「44」として以下の記事を収録するために、その過去記事を再読。2007年の古い記事で、何を書いたかすっかり忘れていただけに、自分の文章に驚かされました。「ああ、いつか新作能の脚本を書いてみたいなあ」なんて、大それたことを書いているのです。

2007年10月17日 (水)
能『船弁慶』を観て
http://elder.tea-nifty.com/blog/2007/10/post_6c22.html

能に詳しいわけでもないのに恥ずかしいことを書いて……と思いながら、記事に加筆するために小学館と岩波の『謡曲集』2冊を開きました。すると、熱心にそれらの本を読んでいたころの記憶が甦りました。

確かに、能を含む古典にはまっていたこのころであれば、新作能の脚本を書けそうな気がしたのもわかるような気がしました。そして、今回連想したのは、第二稿に一向に入れない、祐徳稲荷神社を創建した花山院萬子媛をモデルとした歴史小説のことです。

歴史小説にするには、何か、そぐわないものがあるのです。

わたしは神秘主義者として萬子媛を通して感じることのできた高雅な現象を書きたいのであって、よくわかりもしない萬子媛の生前のあれやこれやではないのです。

いや、あれやこれやにも興味があるから研究ノートを当ブログにアップし、そのまとめをエッセーとして「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録してきたわけですが、そのノートは、萬子媛の高雅な現象を表現できてこそ存在価値があるのです(エッセーは「萬子媛研究」といったような形にまとめたいと考えます)。

その表現にふさわしい形式は、新作能以外にありえない気がしてきました。

古典にはまっていない現在、新作能を書けそうな気がしません。勉強すれば、書けるでしょうか。とりあえず、戯曲にしてみてはどうでしょう。戯曲なら書いたことがあるので、書けるはずです。新作能ならなおいいでしょうが、それはハードルが高いかもしれません。

とりあえず戯曲にしてみようかと思った瞬間、脳裏に百花繚乱の景色が匂うばかりに広がりました。新作能の本を数冊、図書館から借りて読んでみたいと思います。

「The Essays of Maki Naotsuka」に収録しようと思っていた前掲記事は、加筆して「マダムNの神秘主義的エッセー」のほうに収録する予定です。

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ところで、最近、わたしのパソコンにもWindows 10 の新大型アップデート「May 2019 Update (バージョン1903)」が提供されたのですが、それ以降、Microsoft Edgeでサイトを閲覧していると、よくEdgeがフリーズするようになりました。Chrome、Firefoxでは正常に動作するのですよ。

タスクマネージャーでEdgeを閉じても、立ち上げるとまたフリーズしたままの元の画面が出てきます。再起動しても、シャットダウンしても、Edgeを立ち上げると、同じ元のフリーズしたままの画面。

困ったと思い、ググったら、Edgeの設定をリセットしたらいいことがわかりました。

「スタート」メニューの歯車(設定)」をクリック→「Windowsの設定」画面で「アプリ」をクリック→「アプリと機能」画面で「Microsoft Edge」をクリック→「詳細オプション」をクリック→「Microsoft Edge」画面で「リセット」をクリック。

そうすると、閲覧の履歴などのデータが削除されます。わたしの場合は今回、この方法で改善しました。

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2019年5月17日 (金)

ノートパソコンの異音が消えたことについて。光明皇后、元寇に関する本のことなど。

深夜、長い記事を書いていたが、眠くなったので、閉じて寝たのはいいが、保存し忘れたらしい。虚脱感。

まず、パソコンのことから書いたはず。

異音がしたパソコンは、バッテリパックの交換で静かになった。

富士通パソコンの2010年から2016年に販売開始されたノートパソコンはバッテリ充電制御機能を提供されていて、それはバッテリの消耗に合わせて充電電圧を制御し、発火事故を未然に防ぐものだ。

なぜそのようなものが提供されているかというと、富士通製ノートパソコンに搭載されたパナソニック製の一部のバッテリパックにおいて、充電中や電源オン/オフいずれの場合でも、発火し火災に至る恐れがあることがわかったからだという。

わたしのパソコンのバッテリパックはリコール対象ではなかったものの、「既に交換・回収を実施している上記のバッテリパック以外にも、発生率は非常に低いものの発火事故が発生しております。これらの発火事故に対する未然防止策として、現在までの調査から、バッテリの内圧が上昇する現象を抑制することが効果的」なのだそうだ。

リコール対象ではないということで、安心し、よく読まなかったのか、「既に交換・回収を実施している上記のバッテリパック以外にも、発生率は非常に低いものの発火事故が発生」という箇所を読み過ごし、この記事を書くために文章を再読して気づいた。

発生率は低くても火災事故が発生しているのなら、バッテリ充電制御機能を提供されているノートパソコンは全てリコールの対象でないとおかしい。

わたしのパソコンは「バッテリ充電制御ユーティリティ」の適用で、消耗したバッテリを使っていたから、実際のバッテリ駆動時間(充電量)は約65%になっていた。

パソコンがかなり熱くなり、ファンの音が高くなりがちだったのが、異音までしたので、これはまずいと思い、バッテリパックを交換したのだった。もっと早く交換すべきだったと思う。

ファンの音が高い以外はよく働いてくれていたから、こんなものかと思ってしまっていた。バッテリパックの交換で、こうも違うとは。

深夜書いた記事では他に、図書館から借りてきた本のことで、再度借りたメアリー・ポピンズ物語の中の『帰ってきたメアリー・ポピンズ』のどこが神智学的かを要点だけ書いたように思う。それをここで再度書くより、ちゃんとした記事にしたい。

また、マインドフルネス瞑想の危険について調べる中で再読した三浦関造の著作に光明皇后の記述があり、光明皇后に関する本を借りて読んでいることを書き、光明皇后が藤原氏出身だということに気づいたことなど書いた。

光明皇后は仏教事業と人道支援で有名だが(ウィキペディアの言葉を借りれば、政治面では、皇族以外から立后する先例を開いたことでも有名)、人道支援の側面に着目したとき、同じ藤原氏出身であった萬子媛との共通点が浮かび上がった。

別の方面のことに熱中していても、萬子媛のほうへ優しく揺り戻される気のすることがあることは前にも書いたが、今回もそのような感触を覚えた。

蒙古来襲、すなわち元寇について書かれた本も借りた。防衛戦にはおそらくわたしの母方の祖母のご先祖が関わっていたと思われるので、以前から興味があった。

といっても、祖母はお嫁に来た人で本家からは離れているため、家系図などの確認はないが、親戚の話などから確認できたことを総合すると、祖母の家が大蔵氏系江上氏の分家であったことはまず間違いない。

6代氏種の時、元冦の役の軍功により肥前国神埼荘地頭職を賜り移住。元弘3年(1333年)、8代近種が護良親王の命で行動していたことが確認される。
永享6年(1434年)、12代常種は少弐氏の九州探題渋川満直の征討に協力。勢福寺城の城主となり、以後は少弐方として行動するようになった。13代興種は大内氏(大内義興)と通じたため少弐氏により勢福寺城を追われたが、14代元種は大内氏と対立を深める少弐氏(少弐資元)を援け再び勢福寺城に入った。天文2年(1533年)元種は東肥前に侵攻してきた大内氏の軍勢を蹴散らしたが、天文3年(1534年)再び侵攻した大内氏に少弐方は劣勢に立たされた。元種は少弐資元・冬尚親子を勢福寺城に受け入れ立てこもったが、最後は水ヶ江龍造寺氏の龍造寺家兼の進言により大内氏と和議を結び勢福寺城を明け渡した。
「江上氏」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年10月26日 12:17 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

祖母の家は分家で苗字は違うが、「日本の苗字七千傑」や少弐氏家臣団の中の大蔵党の中にその苗字がある。「武将系譜辞典」に記された大蔵党は原田氏、波多江氏、小金丸氏、秋月氏、江上氏、直塚氏、枝吉氏、成富氏、執行氏、高橋氏、三原氏、田尻氏、内田氏、赤尾氏。http://www.geocities.jp/kawabemasatake/hizen.html(※ジオシティーズはサービス提供が終了してしまったため、移転、工事中であるようだ。移転先はhttps://kawabemasatake.jimdofree.com/)

借りてきた元寇についての本は学術的な内容で、読みごたえがある(難解ともいえる)。この本に、捕虜となった少弐氏のことが極めて印象的に描かれているのだ。

「神風」が吹いた。果たして、それは真実か。『蒙古襲来絵詞』には、暴風は描かれていない」と本の商品説明にある。全身全霊を賭けて戦った人々がいたことが本を読めばわかる。

このあと用事があるので、今日はこの件では時間切れ。借りてきた本をメモしておこう。

パウリ=ユング往復書簡集
ヴォルフガング・パウリ (著), C・グスタフ・ユング (著), 湯浅 泰雄 (監修), 黒木 幹夫 (監修, 翻訳), 渡辺 学 (監修, 翻訳), 越智 秀一 (翻訳), 定方 昭夫 (翻訳), 高橋 豊 (翻訳), 太田 恵 (翻訳)
出版社: ビイング・ネット・プレス (2018/8/1)

ニュートンの錬金術
B.J.T. ドブズ (著), Betty Jo Teeter Dobbs (原著), 寺島 悦恩 (翻訳)
出版社: 平凡社 (1995/11/1)

英国のプラトン・ルネサンス―ケンブリッジ学派の思想潮流
エルンスト カッシーラー (著), 花田圭介 (監修, 監修), 三井 礼子 (翻訳)
出版社: 工作舎 (1993/9/20)

光明皇后 (人物叢書)
林 陸朗 (著)
出版社: 吉川弘文館; 〔新装版〕版 (1986/04)

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実(中公新書)
小川 剛生 (著)
出版社: 中央公論新社 (2017/11/18)

蒙古襲来
服部 英雄 (著)
出版社: 山川出版社 (2014/12/1)

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2019年5月 8日 (水)

亡き母の友人とおしゃべり(彼女の御先祖様は萬子媛を看取ったに違いない御殿医)

亡き母の友人からで、今年85歳におなりになるキクヨさんからお電話があった。

開口一番、「歴史小説はどうなった?」と訊いてくださった。

以下の過去記事で書いたように、キクヨさんの御先祖様は、代々鹿島鍋島家の御殿医だった。

2018年2月 5日 (月)
歴史短編1のために #34 鹿島鍋島家の御殿医
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/02/post-e6ec.html

そろそろ電話をかけてみようかなと思っていたところ、先月の27日にキクヨさんの夢を見た。それが普通の楽しい夢だったので、そのうちあちらからお電話があるだろうと思っていたら、今日かかってきた。

こちらからお電話してもいいのだが、博多の老人ホームにお住まいで、午前中は掃除があったり、食事の時間も大体決まっていて、通院だけでも週に2回、ついでの買い物などしたら帰宅は午後6時を回り、どこか調子の悪いときもちょくちょくらしく、訪問客もあって……となると、いつお電話したらいいのか、わからなくなる。

キクヨさんがわたしとおしゃべりしたい気分のときにかけてくださるのを待とう、と思うのだ。

おしゃべりしていると、射手座のお生まれらしい溌剌とした雰囲気なので、高齢とわかっていながらも、わたしは全く心配していなかった。が、彼女には食が細いという弱点がおありだ。

少食であるところへ、料理上手であることが裏目に出て、ホームの食事がしばしば喉を通らない。決して我儘でも、医学的に無知でもないのに(医師の家系らしく、むしろ相当に詳しい)、昨年末、栄養失調になり、体重が落ちすぎて、医師から「今年いっぱいかも……」といわれたそうだ。

これはわたしもわかる。ずいぶん前の話だが、検査入院したときに(3週間くらいのものだった)、自分でも意外だったことに、病院の食事を受け付けなかったのだ。単なる検査入院で、まあ頭蓋骨は窪んだが、大部屋での入院生活は結構楽しく、食欲が落ちる理由もなかった。

単純に味が合わなかっただけだった。大学時代の女子寮生活では、食事が駄目で出て行く人も多い中、最後まで粘った若かりし頃を思うと、病院の食事を受け付けないのが不思議なくらいだった。

その若い頃との違いは、主婦業として料理するようになり、子供が大きくなるまでは質より量といった感じの料理だったのだが、この市に引っ越し、書店勤めだった娘が服部幸應先生の料理雑誌「週刊  しあわせクッキング」をせっせと買ってきてくれたお陰で、料理の腕が上がってしまったのだ。

まずい料理を食べると、なぜそうなったかが分析できるようになり、食材が生かされていない、非常に痛ましい状況に思え、食材の不幸に共感してしまって、食べたくなくなる。幸か不幸か、食事をどの程度食べたかの看護師さんによるチェックは自己申告で済んだので、申し訳ないと思いながらも沢山残していた。海苔の佃煮でご飯を食べた。

最近はストウブ頼みで、服部先生のレシピに熱中していたころに比べると、大雑把になったので、今だと食べられるだろうか。ストウブ料理の美味しさを思えば、一層食べられなくなっている可能性もある。

キクヨさんは、わたしの病院でのあの状態が何年も続いているわけだ。

「しっかり召し上がって、長生きしてくださらないと、困ります。萬子媛の小説を読んでいただくまでは、生きていてくださらないと……」と、わたしは鼻息荒くいった。

すると、「そんなら、あんた、急ぎんしゃい」と、キクヨさんは鹿島弁になって、おっしゃった。

わたしは形式で 迷っているといった。小説かエッセーか評伝的なものか。

キクヨさんは「うーん」といって、しばらく黙していらした。そして、「それは、Nちゃんが 考えて決めることよ。ゆっくり決めればいいじゃない、急がないで」とおっしゃった。そのぶん、長生きしてくださいね。

2時間ほどもおしゃべりした。最初と最後はわたしの小説を話題にしてくださり、真ん中辺りで子供達の結婚がまだだというと、キクヨさんの知り合いにも、自分の子が結婚しないと訴える母親が多いという。既婚者は男性の場合、10人中3人だそうだ。

また、博多では中国人、韓国人が目に見えて増えたという。言葉でわかるそうだ。

外国人が増えるのはわたしの考えでは一向に構わないが(不法入国は論外)、日本の国柄や文化に理解のある人に来てほしい。理解がなければ、努力して理解力を身につけてほしい。

萬子媛をモデルとした作品によって、日本の国柄を薫り高く伝えることができればと考えている。

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2019年3月13日 (水)

歴史短編1のために #51 直朝公の愛

今は京都御苑となっている、かつては200もの公家屋敷が立ち並んでいた町で、萬子媛はどのような暮らしを送られていたのだろう? 

萬子媛は二歳で、祖母である清子内親王の養女となり(萬子媛の母が亡くなったためではないかとわたしは想像している)、鷹司家でお暮しになっていたと思われる。清子内親王は鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号していた。

以下の写真付きブログ記事を閲覧させていただいて、わたしは貧弱な想像力を掻き立てようとしている。鷹司邸跡の標示……

京都御苑の公家跡: 京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1
https://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/41415018.html

<ここから引用>
江戸時代まで、今の京都御苑には、200もの公家屋敷が立ち並んでいたそうです。(……)
江戸時代末の慶応年間の公家屋敷図によれば、京都御苑には、大きな屋敷としては、北に近衛家と桂宮家、西北に一條(一条)家、中央に有栖川宮家、西南に嘉陽宮家と閑院宮家、南に九條(九条)家と鷹司家があったことがわかります。
<ここまで引用>

以下のブログ記事では、京都御苑内にある「花山院邸跡」と刻まれた石碑と、花山院家の邸宅で祀られていた邸内神「花山稲荷大明神」を閲覧させていただいた。

花山院家邸内にあった花山稲荷大明神: 京都観光旅行のあれこれ
https://kyotohotelsearch.com/blog/2018/06/07/kazaninaridaimyojin/

<ここから引用>
また、日本三大稲荷のひとつとされる佐賀県の祐徳稲荷神社は、花山院家の姫が鍋島家へ嫁いだ際に祀った分霊であり、「祐徳」はその姫の謚(おくりな)だそうです。
花山稲荷大明神は、京都を中心に庶民から公家・宮中さらには徳川将軍家をはじめ諸大名の江戸屋敷にも分霊や御札が祀られていました。
今は、宗像神社に小さな社殿が残るだけですが、信仰は全国に広がり、今もなお各地の分霊が祀られている神社に多くの人が参拝しています。
商売繁栄、産業興隆、書道・技芸上達の信仰も篤いそうですよ。

<ここまで引用>

養子に行ったといっても、同じ公家町内のこと。萬子媛は花山院家にちょくちょく行かれていたのではないだろうか。

鹿島鍋島家に嫁いでからも、花山院家との親密な関係が続いていたことは鹿島藩日記からも窺える。

ところで、井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収「直朝公」(普明寺蔵『鹿島家正系譜』収載)を読むと、直朝公が元禄四年(1691)辛未春正月二十一日、70歳のよろこびの礼を行い、申楽[さるがく](能楽)を花頂山に奏したとあり、「毎歳今日(この日)に必ず申楽[さるがく]有るは侯の誕辰(誕生日)を以[もっ]ての故[ゆえ]なり」(井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92)と記されている。

ならば、同じ『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』所収「断橋和尚年譜」に、断橋和尚が54歳の宝永二年乙酉(1705)に記されている、次の箇所はどうだろう?

<ここから引用>
猛春十八日、祐徳院殿瑞顔大師の耋齢(八十歳)の誕を祝するの序略に云う、
<ここまで引用>
(井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92)

萬子媛80歳のお祝いが誕生日当日に行われたとは限らないが、直朝公は自分の誕生日に拘りがあったようだから、その直朝公が妻の80歳の誕生日に贈り物をしたことが三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)に記されているとなると、妻の誕生日にも拘ったのではないか……と思いたくなるではないか。

つまり、その猛春十八日が萬子媛のお誕生日ではないかと。猛春には、春の初め、旧暦1月という意味があるが、『鹿島藩日記 第二巻』宝永二年乙酉正月十八日の日記に次のように記されている。

<ここから引用>
一、今日、祐徳院様八十之御祝誕ニ付而、従 殿様為御祝儀、御野菜被進候、左ニ書載、
   一、午房       一、山芋
   一、昆布       一、椎茸
   一、田鴈       一、蓮根
      
 右一折二〆
   一、蜜柑一折
 右、御使者木庭彦兵衛相勤、介副池田新内、

<ここまで引用>
(井上・伊香賀・高橋編,2016,pp.343-344)

何というささやかな、心づくしだろう! 修行に勤しむ妻に合わせた贈り物なのだ。直朝公から贈られた食材は調理され、萬子媛の80歳を祝う食卓を飾ったに違いない。

過去記事に書いたように、この年の閏四月十日、萬子媛は危篤となり、その日、直朝公から付き添う人々におこわと煮しめが届けられている。

2018年8月15日 (水)
歴史短編1のために #39 鹿島藩日記第二巻ノート (1)萬子媛の病気
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/post-caf5.html

閏四月十日(6月1日)の日記には様々なことが書かれている。[略]
同日、萬子媛の病床に付き添っている人々に、殿様からこわ飯(おこわ)・煮しめ物重二組が差し入れられた。萬子媛はこの日の「今夜五ツ時」――夜8時に亡くなった。

直朝公は家を出て修行三昧だった妻を全身全霊で愛し、気遣っていられたのではないだろうか。いやはや、ここまで思われちゃ、断食入定なんてできないだろうなあ。

で、萬子媛の仮ホロスコープを作成してみた。フィクションである小説の中の萬子媛のイメージを膨らませるために。これは、わたしの勝手な憶測です。寛永二年一月十八日は、西暦に変換すると、1625年2月24日。

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2019年1月13日 (日)

在野の歴史学者・森銑三の身が引き締まるような論考。歴史小説執筆の参考になる河津武俊著『肥後細川藩幕末秘聞』。

図書館から以下の本を借りた。

歴史小説執筆の参考にするため
辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記

辻 邦生 (著)
出版社: 新潮社 (2004/08)


堀田善衛全集10  美しきもの見し人は・方丈記私記・定家明月記私抄
堀田 善衛 (著)
出版社: 筑摩書房 (1994/02)


肥後細川藩幕末秘聞
河津 武俊 (著)
出版社: 講談社 (1993/12)


出星前夜
飯嶋 和一 (著)
出版社: 小学館 (2008/8/1)


資料として
伊万里市史 陶磁器編古唐津・鍋島
伊万里市史編さん委員会 (編集)
出版社: 伊万里市 (2006.3)


森銑三著作集 第9巻
森 銑三 (著)
出版社: 中央公論社 (1971/5)


興味から
シモーヌ・ヴェーユ著作集 3 重力と恩寵,救われたヴェネチア
シモーヌ・ヴェーユ (著), 渡辺 一民 (翻訳), 渡辺 義愛 (翻訳)
出版社: 春秋社; 新装版 (1998/10)

文芸同人誌「日田文學」でお世話になった河津さんが確か歴史小説もお書きになっていたはずだと思い、検索すると果たしてあった。講談社から1993年に上梓された『肥後細川藩幕末秘聞』という本だ。

この本は弦書房から2017年に新装改訂版が文庫本で出ているので、宣伝しておこう。

河津さんとお話しして、互いの作風が似ていることを確認したことがある。河津さんの文章の美しさ、取材力、情報の集約力には遠く及ばないながら、長所も欠点もよく似ているのである。

書き慣れない歴史小説の執筆に悶々とする中でふと、河津さんはどうお書きになったのだろう、河津さんと同じ手法でならわたしにも書けるかもしれないと思ったのだった。どの世界でも、持つべきものはよき先輩である。

『肥後細川藩幕末秘聞』は、第一部で歴史の闇をルポルタージュ形式で追い、第二部がそれをもとにした歴史小説となっている。黒船が来航した年の嘉永6年(1853)、阿蘇の山ぶところに抱かれた平和な村が忽然とこの世から消えたという。

取材の過程を報告しつつ小説を紡いでいく形式が自分には合っている気がして、門玲子『わが真葛物語―江戸の女流思索者探訪』(藤原書店、2006)、『江馬細香 化政期の女流詩人』(藤原書店、2010)を研究したりしていたのだが、河津さんの歴史ルポ&歴史小説を読み、大いに参考になった。

『肥後細川藩幕末秘聞』は、ミステリータッチで描かれていて、面白く読み進めることができるが、伝承の解明には至らないまま終わっているため、それをもとにした第二部が盛り上がりに欠けるのが惜しい。

幕末から明治初期にかけて起きた最後のキリシタン大迫害「浦上四番崩れ」は有名だが、この肥後小国臼内切での事件が小説通りに起きたとすれば、あまりに暴発的で手続きに欠けているため、なかったことにするしかなかったということだろうか。

歴史物ではないが、同じ手法を用いたものとしては、殺人事件を追った河津さんの小説『森厳』のほうが成功しているとわたしは思う。過去記事で感想を書いている。

2013年10月 5日 (土)
男のロマンゆえに形式を踏み外した(?)2編――河津武俊 (著) 『森厳』、谷山稜『最後の夏山』
http://elder.tea-nifty.com/blog/2013/10/2-77d2.html

辻邦生の『天草の雅歌』は、高校時代の恩師が年賀状の中で歴史小説執筆の参考として挙げてくださった著作。

森銑三『森銑三著作集 第9巻』 (中央公論社、1971)は、了然尼に関する情報を求めて辿り着いた著作だったが、すばらしい内容だったので、アマゾンとブクログにレビューを書いた。

読みながら身が引き締まるほどの本格的な論考

美貌のあまり入門を断られたため、自らの顔を焼いて入門の許可を得たということで有名な黄檗宗の尼僧、了然尼(1646-1711)に関する情報を求めて森銑三の論考に辿り着いた。
精密な調査に驚き、著者銑三に対する興味も湧いた。ここまで本格的な歴史上の人物に関する論考は、これまでに読んだことがなかった気がする。読みながら、身が引き締まる思いがしたほどだ。
ウィキペディアによると、森銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、昭和期日本の在野の歴史学者、書誌学者で、著作は『著作集』(全13巻)『著作集 続編』(全17巻)にまとめられ、その著述は、江戸・明治期の風俗研究、人物研究を行う上での基点となっているそうだ。
本巻には、「宮本武蔵の生涯」を冒頭に、前掲論考を含む14の論考が収められている。

論考自体が旧字混じりである上に、一次資料からの引用が豊富であるため、漢文、候文ありとなると、わたしのようなド素人が読むには覚悟がいる。

ウィキペディア(「森銑三」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年10月2日 07:53 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org)には、次のようなことも書かれている。

高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝や典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。

在野の研究家であっても、これほどの業績が残せるのだ! 凄い、本当に凄い。これ以上言葉が出ない。

シモーヌ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ著作集 3 重力と恩寵,救われたヴェネチア』のレビューもアマゾンとブクログに書いた。

哲学者ヴェーユの戯曲が収められていて、貴重

重力と恩寵は、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵 シモーヌ・ヴェイユ「ノート」抄』(講談社文庫 - 講談社、1974)で40年ほど前に初めて読み、稀にしか出合えない高純度の思索に触れた思いがした。それ以来、何度も読み返している。ヴェーユの著作は、一生の宝物となるような性質のものなのだ。
本書には渡辺義愛訳「重力と恩寵」が収められているが、それ以外にヴェーユの珍しい戯曲が収められていて貴重である。この戯曲は未定稿で、完成されていない部分がひじょうに多いという。本書にはヴェーユのメモが頭を下げて各ページの下の部分に印刷されており、読むと新鮮な印象を受ける。
ヴェーユには、母親に溺愛されたヴェーユ、哲学者ヴェーユ、教師ヴェーユ、政治活動家ヴェーユ、神秘主義者ヴェーユとはまた別の顔――作家ヴェーユの顔――もあったのだ。

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