カテゴリー「Notes:不思議な接着剤」の130件の記事

2017年7月18日 (火)

息子の土産話。温まった旧交を冷やす、女友達との価値観の違い。

昨夜、フランス語圏の国に2週間出張していた息子から電話があり、長電話になった。興味深い話をいろいろと聞くことができた。

古い洋館が研修施設になっていたそうだが、近くに森があり、その森は日本の森や林といったイメージからは遠く、そう大きな森ではないのに、とても暗くて、ヨーロッパのお伽噺によく出てくる魔女でも出てきそうな感じだったとか。

魔女裁判があっていたころ、異端視された人々が森の中で秘密の集会を開く場面を本で読んだことがあったが、隠れるにはぴったりといった雰囲気だそう。

尤も、息子は森に入ったわけではなく、近くを通ったときに見た程度だったようだ。

小さな国の割には放牧地が広大で、牛の群れが無造作に点在していたとか。

森の近くの研修施設も、そこからは離れた研究団地のようなところにあるオフィスも国際色豊か、人々は友好的。

ただその国の礼儀作法で、親しい男女間、女性同士が頬を触れ合う挨拶があり(男性同志ではしない)、女性と頬をくっつけ合う挨拶では固まってしまい、それを察知した相手は次の日から握手に代えてくれたとか。

オフィスには世界中飛び回っているアフリカ出身のキャリアウーマンがいて、その人は大の日本贔屓だそうで、それは青年海外協力隊に親切にして貰ったからだという。

オフィスのある街の住人もとても親切で、フランス語しか通じないレストランで戸惑っていると、隣で食事していたお客さんが通訳を買って出てくれたそうだ。

研修の間もオフィスでも昼食はフランスパンにハム、チーズ、野菜などを挟んだサンドウィッチ。ハーブがきつくて、息子はそれが苦手だったそう。

息子がチョコレートを送ってくれるそうで、娘と楽しみにしている。

暗い森の話のところで、つい魔女裁判を連想してしまったのは、わたしが児童小説に魔女裁判にかけられる女性を登場させたいと思い、いろいろと調べてきたからだった。

そして、ヨーロッパの昔話に見られるような魔女の起源はキリスト教会に異端視されたカタリ派に求められるらしいこと、またカタリ派ではイエスとマグダラのマリアが結婚していたと教えていたらしいことを知った。

『異端カタリ派と転生』(原田武、人文書院、1991)によると、カタリ派は都市部における富裕層の知識人たちによって担われ、栄えたが、弾圧されるにつれて農村部に移り、次第に迷信化、妖術化していった。つまり、どんどん俗化を強めていき、遂には絶えたということである。

イエスとマグダラのマリアの結婚については、拙神秘主義ブログの以下の記事を参照されたい。

これも過去記事で書いたことだが、上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社〈講談社学術文庫〉、1998年)によると、魔女裁判が異端審問の延長上に生まれたことは確かであるようだ。

フランスのように教皇庁指揮下の裁判は異端審問、世俗裁判所では魔女裁判――という風に担当が明確であった所もあれば、ドイツのように教皇庁の力が弱くて双方が入り乱れていた所もあって、地域により時代によりまちまちだったようである。

異端者という語を生み、異端審問の開始のきっかけとなったのは、カタリ派だった。カタリ派は、それだけキリスト教会を脅かす存在だったのだ。

現代であれば精神病者に分類されるような人々が訴えられたり、逆に訴えたりするケースは多かったようだ。

一貫して魔女裁判の抑止力となったのは、神秘主義者たちだった。

前掲書『魔女とキリスト教』によると、魔女裁判の衰退に最も影響を与えたのは、ヴァイアーの医学的アプローチ、魔女懐疑論だった。

ヴァイアーはパラケルスス、アグリッパの思想系譜に属する神秘主義者で、彼の師アグリッパは魔女迫害推進派から邪悪な魔術の象徴として攻撃された。

アグリッパは異端視されながら『女性の高貴』など女性賛美の文章を書き(男性優位の社会背景があった。ちなみにカタリ派は男女平等論者だったという)、パリに秘密結社をつくり、メッツ市の法律顧問となって、魔女の嫌疑のかかった老婆の救援に立った。

勿論彼自身も魔女裁判の犠牲となる危険と隣り合わせだったが、個人的に教皇から好意をもたれていたことが幸いしたという。

ヴァイアーは、メランコリーという医学概念を魔女の判定に持ち込んで、魔女は責任能力を有しないことを立証しようとした。

こうした精神病理学の発達で、魔女裁判をリードしてきたフランスの法曹界がその影響を受けるようになったことから、魔女は火炙りにされるよりは拘禁され始め、山火事のようにヨーロッパに拡がった魔女現象は次第に鎮静化したという。

旧交を温めた友人のご主人が統合失調症と診断され、大変なようだ。別の医者は別の診断を下しているという。飲み薬漬け、アル中気味だったのが、療養所に入所したことで、少なくともアルコールとの縁は断っているそうだ。

律儀に夫を支え続けている彼女は立派だ。

が、残念ながら、彼女と前述したような話はできない。

戦後の日本が、共産主義者が大勢入り込んだ進駐軍による愚民政策によって唯物主義、現世主義に大きく傾いたように、彼女の物の考えかたにはその影響が色濃く、それが現代日本における主流なのだから、目下わたしに勝ち目はない。

物心ついたときから神秘主義者であったわたしなどは、現代日本の価値観からすれば、非科学的な時代錯誤の人間と映って当然だ。一方では、これをいってはまずいのかもしれないが、わたしにはむしろ彼女のような人々のほうが古めかしい人々に映る。

高校時代に親しかった彼女に、当時のわたしは自身のほのかな前世やあの世の記憶について、話したことはなかった。話せない雰囲気を感じていたからだろうが、かくも価値観の異なる青春時代における友人関係というものが、互いにとって有意義であったかどうかは微妙なところだろう。

ただ、何にせよ、神秘主義は科学に反する立場をとっているわけではない。オーラが肉体を包んでいるように、神秘主義は科学そのものを包含し、包含する観点から正誤を考察しようとするものなのだ。

近代神智学運動の母H・P・ブラヴァツキーの著書はそのようなもので、その著書には古代から当時知られた科学者に至るまで、多くの科学者、哲学者の説が沢山出てくる。

わたしは友人ににこうした考えを押し付けようとは思わない。彼女が思った以上に現世主義者で、価値観があまりにも異なることがわかったため、高校時代にそうであったように、今後こうした方面の話はしないだろう。

彼女も、彼女のご主人も一定の落ち着きを得たようだし、頼りになる妹さんもいるようだから、元のように距離を保つほうがいいかもしれない。

もっとも、神秘主義の研究を標榜しながら出鱈目な論文を書く学者や、スピリチュアルという名の下に誤った知識を商売道具にしている者など怪しげな人々が沢山いて、神秘主義が誤解されるのも無理はない。

それでも、精神病理学を発達させたのがヴァイアーのような神秘主義者であったことから考えると、神秘主義を排除して唯物的なアプローチを続けたところで、精神医学が停滞を続けるばかりであることは想像できる。

ユングのような神秘主義に関心を持った心理学者も出たが、そのアプローチの仕方はあまりに恣意的なのではないだろうか。

|

2017年5月 4日 (木)

Notes:不思議な接着剤#95 ナザレ人

H・P・ブラヴァツキー(アニー・ベサント編、加藤大典訳)『シークレット・ドクトリン 第三巻(上)――科学・宗教・哲学の統合――』(文芸社、2016)に注目すべきことが書かれている。この第三巻は、未完のまま終わった『シークレット・ドクトリン』をアニー・ベサントが再編し刊行したものだという。

ブラヴァツキーは次のように書いている。

『新約聖書』、『使徒行伝』そして『使徒書簡』集が――いかにイエスの歴史像の真実に迫るとしても――すべて象徴的、比喩的な発言であること、また「キリスト教の創設者はイエスではなくパウロであった」こと、しかしそれはいずれにしても、正式な教会キリスト教ではなかったこともまた真実である。「弟子たちがキリスト教徒と初めて呼ばれたのは、アンテオケにおいてであった」ことを『使徒行伝』は伝える。それまで彼らはそう呼ばれなかったし、その後も長い間、単にナザレ人と呼ばれた。(ブラヴァツキー,加藤訳,2016,p.262)

また、「ナザレ人はカルデアのテウルギストつまり秘儀参入者の階級」(ブラヴァツキー,加藤訳,2016,p.265)であって、パウロが「秘儀参入者」の階級に属していたと書き、その根拠を示している。パウロが目指した教義は次のようなものだったという。

パウロにとって、キリストは個人でなく、具体化された理念である。『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者であり』この人は、秘儀参入者のように、生まれ変わったのだ。なぜなら主は霊――人間の霊――だからである。パウロは、イエスに会ったことはなかったけれども、イエスの教えの底に横たわる秘密の理念を理解していた唯一の使徒であった」「しかしパウロ自身は無謬ではなく完全でもなかった」「新しく広やかな改革、人類全体を包むことのできる改革をスタートすることに心を傾けていた彼は、自身の教義を本心から、時代の知恵のはるか上位、古代の密儀や最終的な『エポプタイ』(秘儀の伝授)より上に本心で設定した」(ブラヴァツキー,加藤訳,2016,pp.264-265)

ペテロは秘儀参入者ではなく、ユダヤのカバリストであった。

このような方向で、ギリシアの秘儀とカバラという確かなガイドを目の前にして探索をすすめるならば、パウロがペテロ、ヨハネおよびヤコブによりあのように迫害され憎悪される秘められた理由を発見するのは容易であろう。『黙示録』の著者は、生粋のユダヤ人カバリストであり、異教の秘儀に対する先祖伝来の憎悪を全身に漲らせていた(註『ヨハネによる福音書』がヨハネによって書かれたものでなく、プラトン主義者、あるいは新プラトン学派に属するグノーシス主義者の一人によって書かれたことは言うまでもない。イエスの存命中における彼の嫉妬はペテロにまで広がった。(ブラヴァツキー,加藤訳,2016,pp.266-268)

この第三巻(上)は、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010)、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 下』(竜王文庫、2015)と重なる部分も多く、『ベールをとったイシス』に補足した巻ということもできそうだ。

原始キリスト教を研究するには、『ベールをとったイシス』同様に欠かせない著作であると思う。

「『ヨハネによる福音書』がヨハネによって書かれたものでなく、プラトン主義者、あるいは新プラトン学派に属するグノーシス主義者の一人によって書かれたことは言うまでもない」と前掲書の註に書かれていた文章から、カタリ派がヨハネ福音書を偏愛していた事実を思い出した。

ナザレ人はカルデアのテウルギストつまり秘儀参入者の階級だった、とブラヴァツキーは書いている。

新バビロニア(カルデア人が築いた王国で、カルデア王国ともいう。紀元前625 - 紀元前539)の王ネブカドネザル2世により紀元前597年に滅ぼされたユダ王国のユダヤ人たちは、バビロンに捕囚された(ダビデ王によって統一された統一イスラエル王国は、ソロモン王の死後、紀元前930年頃に分裂し、北のイスラエル王国は紀元前722年、アッシリア帝国に滅ばされている)。

その地で、ユダヤ人は圧倒的なバビロニア文化(カルデア人は天文学・占星術に優れていた)の影響を受ける一方では、それに抗して律法を重視する(エルサレムの町も神殿も失っていたため)ユダヤ教を確立した。

ブラヴァツキーはこうも書いている。ノート92から引用する。

アリストテレスの時代には物質主義が優勢な思潮となって、霊性と信仰は頽廃した。秘儀そのものが甚だしく変質し、熟達者[アデプト]と秘儀参入者[イニシエート]は侵略者の武力で散り散りになり、その後継者と子孫は少数だった(ジルコフ編,老松訳,2010,pp.18-19)とブラヴァツキーはいう。

エジプトの「聖なる書記や秘儀祭司は,地上をさすらう者となった。彼らは聖なる秘儀の冒涜を恐れて,ヘルメス学的な宗団――後にエッセネ派Eseenesとして知られるようになる――のなかに隠れ家を探さざるをえず,その秘儀知識はかつてなかったほどに深く埋もれた」(ブラヴァツキー,ジルコフ編,老松訳,2010,p.19)

エッセネ派はノート91で書いたように、ユダヤ人の一派であって、グノーシス派、ピタゴラス派、ヘルメス学的集団、あるいは初期キリスト教徒であったとブラヴァツキーは述べているのだ。
(……)

ウィキペディアからナグ・ハマディ文書について引用すると、写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。(……)調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルスの内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる(ウィキペディアの執筆者. “ナグ・ハマディ写本”. ウィキペディア日本語版. 2016-02-23. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC&oldid=58723955, (参照 2016-02-29).)とあることからもわかるように、エッセネ派に関するブラヴァツキーの記述はまるでナグ・ハマディ文書の内容を述べたかのようである。

当ブログにおける関連記事:

| | トラックバック (0)

2016年8月18日 (木)

Notes:不思議な接着剤#94 ユダヤ人の発祥地

過去のノートでエッセネ派については考察を重ねてきた。重要な引用を確認しておきたい。

H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010)にはエッセネ派についての詳しい記述がある。

エッセネ派ESSENESとは「癒やし手」を意味するAsaiに由来する。「プリニウスPlinyによればユダヤ人の一派で,彼らは死海の近くに何千年にもわたって暮らしていた」「たくさんの仏教的観念と修行があった」「初期教会で用いられた『兄弟[同胞]』なる呼称は,エッセネ派的なものだった。彼らは一つの友愛団体であり,かの初期改宗者たちに似たコイノビオンKoinobion,すなわち共同体だったのである」(ブラヴァツキー,ジルコフ編,老松訳、2010,ベールの前でXXXViii-XXXViX)

死海の近くに何千年にもわたって暮らしていたエッセネ派という記述が、わたしには信じられなかった。そんなに古くからだなんて、ありえるだろうか。

また、エッセネ派はユダヤ人の一派であって、グノーシス派、ピタゴラス派、ヘルメス学的集団、あるいは初期キリスト教徒であったとブラヴァツキーは述べている。

アリストテレスの時代には物質主義が優勢な思潮となって、霊性と信仰は頽廃した。秘儀そのものが甚だしく変質し、熟達者[アデプト]と秘儀参入者[イニシエート]は侵略者の武力で散り散りになり、その後継者と子孫は少数だったとブラヴァツキー(ジルコフ編,老松訳,2010,pp.18-19)はいう。

エジプトの「聖なる書記や秘儀祭司は,地上をさすらう者となった。彼らは聖なる秘儀の冒涜を恐れて,ヘルメス学的な宗団――後にエッセネ派Eseenesとして知られるようになる――のなかに隠れ家を探さざるをえず,その秘儀知識はかつてなかったほどに深く埋もれた。(ブラヴァツキー,ジルコフ編,老松訳,2010,p.19)

そして、イエスは、偽のメシア、古代の宗教の破壊者で、仏教の信奉者という不当な非難をバルデサネス派によって浴びせられた宗派の一つに属しており、そのうちのどれであったかの特定は不可能に近いが、イエスが釈迦牟尼仏の哲学を説いたことは自ずと明らかであるとブラヴァツキーは書く。

ここまではっきり断言するとなると、ブラヴァツキーがキリスト教から叩かれるのも当然だ。仏教の教えを説くイエス……。今でこそ、ブラヴァツキーのいったようなことがいわれ出したのだが。

しかし、もしこれが本当なら、正統キリスト教を主張したカタリ派が「西欧の仏教」といわれ、グノーシス福音文書中の白眉『マリアによる福音書』でマリアがイエスから教わったといって話し始めるその内容が驚くほど仏教的であったことの謎も解ける。

箱崎総一『カバラ ユダヤ神秘思想の系譜』青土社、1988)には次のように書かれている。

フィロンがアレクサンドリアで活躍していた頃、パレスチナ地方死海のほとりに禁欲的な瞑想的生活を続けている一群のユダヤ人たちがいた。〔略〕現代の研究者は彼らを“クムラン宗団”または“死海宗団”と命名している。
 『死海の書』に関する研究が進むにつれて新たに脚光を浴びてきた事実があった。死海宗団はユダヤ神秘思想とくにカバラ思想の原型とも見なすことのできる神的霊知に関するかなり発達した秘儀体系をもっていたことが判明した。〔略〕
 こうした秘儀宗団が共通して抱いていたユダヤ神秘思想の背景には、さらに古代ギリシャで発達した神秘思想との関連も認められる。とくにネオ・ピタゴラス学派からの影響が濃厚であるこの学派は、今日では数学者として知られているピタゴラスに端を発する神秘主義教団であった。
(箱崎,1988,pp.70-72)

#57のノートで、カバラの起源がエッセネびとに遡る可能性について書いたが、箱崎総一『カバラ  ユダヤ神秘思想の系譜  *改訂新版 』(青土社、1988)のp.180以降、盲人イサクの章を読むと、カバラと瞑想が密接な関係にあることがわかる。フィロンによると、エッセネびとは瞑想を実行していた。

盲人イサクのカバラ思想の手稿断片にはしばしば神秘的な光と色彩についての叙述が認められる。(箱崎,1988,p.185)

これはオーラに関する記述だ。

死海文書がエッセネ派によって書かれたものであるかどうかは議論の余地を残しているようだが、死海文書とエッセネ派を結びつける研究者は多い。

ナグ・ハマディ文書は1945年、死海文書の発見は1947年以降のことであり、ブラヴァツキーは1891年に亡くなっているから、彼女がこれらの情報に接することはなかった。

以下の引用は、ウィキペディアのナグ・ハマディ文書に関するものである。

写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。(……)調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルスの内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。

ウィキペディアの執筆者. “ナグ・ハマディ写本”. ウィキペディア日本語版. 2016-02-23. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC&oldid=58723955, (参照 2016-02-29).

エッセネ派に関するブラヴァツキーの記述は、まるでウィキペディアに書かれたナグ・ハマディ文書の内容を述べたかのようである。

ここで、前述した疑問に戻る。

死海の近くに何千年にもわたって暮らしていたエッセネ派という記述が、わたしには信じられなかった。そんなに古くからだなんて、ありえるだろうか。

エッセネ派はユダヤ人の一派であるようだ。以下はウィキペディア「ユダヤの神話」からイスラエル民族の起源を述べた部分である。

イスラエル民族の起源
紀元前1207年の出来事を記したエジプトの石碑には「イスラエル人」についての言及が認められ、これがイスラエルという部族集団の実在を確認できる最古の文献である。


ウィキペディアの執筆者. “ユダヤの神話”. ウィキペディア日本語版. 2013-06-07. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1&oldid=48086736, (参照 2016-08-14).

紀元前1207年というと、モーセの活躍が紀元前13世紀ごろとされるから、そのころのことで、「何千年」という長大な時間がどこから出てくるのか、わたしには謎だった。

ところが、その根拠となりそうな記述を(ジェフ・クラーク訳)『エレナ・レーリッヒの手紙(抜粋訳)』(アグニ・ヨガ協会編、竜王文庫(コピー本)、2012校正版)の中に見つけた。

ブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン』にある記述ということだが、邦訳版が出ている部分にその記述があるのか、出ていない部分にあるのか、わたしはまだ確認できていない。レーリッヒ夫人の手紙には次のようにある。

『シークレット・ドクトリン』にはユダヤ人の発祥地はインドであると示される。タミール人の低級の部族はインドを去り、放浪しながら出会ったセム族と結婚して交じり合ったという。(クラーク訳,2012,p.23)

何だか、頭がクラクラしてしまった。ユダヤ人もジプシーもヒトラーに虐殺されたせいか、彼らのイメージが重なることがあったのだが、ジプシーもインドが発祥地とされてはいなかったか?

ウィキペディア「ジプシー」には、欧州における「ジプシー」の最大勢力であるロマは、北インド・パキスタンに起源に起源を持つインド・アーリア人系の移動型民族とあった。

|

2016年4月 6日 (水)

Notes:不思議な接着剤#93 カタリ派が『ヨハネ福音書』を偏愛した理由

ノート91で、わたしは次のように書いた。

  • 2016年2月28日 (日)
    Notes:不思議な接着剤#91 釈迦牟尼仏の哲学を説いたイエス
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/02/t-1a90.html

    『ヨハネ福音書』がグノーシス的とは一般にもいわれているところで、カタリ派がグノーシス的であったことから考えると、カタリ派が『ヨハネ福音書』を愛した理由もわかる気がするのだが、偏愛したほどの理由が結局のところわたしにはわからない。

ところが、エレ―ヌ・ペイゲルス&カレン・L・キング『『ユダ福音書』の謎を解く』(山形孝夫・新免貢訳、河出書房新社、2013年) を読む中で、共観福音書とヨハネ福音書の違いが浮き彫りになり、なるほど……と思わせられた。

共観福音書というのは、比較のための共観表が作成されたマルコ福音書、マタイ福福音書、ルカ福音書のことで、この三つの福音書は共通点が多い。

エレ―ヌ・ペイゲルス、カレン・L・キングはイエス亡きあと、集団の指導者争いが起きた可能性が高いことに注意を促し、マルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書がペトロを指導者として描いているのに対して、ヨハネ福音書だけが違った見方を示していると書く。

『ヨハネ福音書』の著者も、ペトロが弟子集団のなかで重きをなしていること認めている。しかし、著者は一貫して、弟子集団のなかで最も高位にある者と彼が見なす者――それは「イエスの愛しておられた者」(『ヨハネによる福音書』13章23節)と彼が単純に呼ぶ者――を除けばの話であると限定づきである。 (ペイゲルス&キング,山形・新免訳,2013,p.66)

『ヨハネ福音書』では、「イエスの愛しておられた者」は明らかにペトロより高位に置かれている。

「イエスの愛しておられた者」はヨハネ福音書にはたびたび登場し、共観福音書には登場しない。

このイエスに愛された弟子が誰であったかについて、古来憶測を呼んだようであるが、わたしはこの人物の特異な描かれ方について、昨日になるまで全く気づかなかった。

レオナルド・ダヴィンチ「最後の晩餐」からダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』に至るまでイエスの影のように存在する人物像のモチーフとなり、果てはバチカンに付きまとう男色傾向の原因となってきたものが何であるかをわたしはこれまでわかっていなかったことになる。

だが、それもそのはず、翻訳の問題があったのである。主に新改訳聖書刊行会訳で新約聖書を読んできたわたしが気づかなかったのも仕方がない。

「イエスの愛しておられた者」を女性と考えるか男性と考えるかで、ヨハネ福音書の世界は180度変わってくる。

その部分を、わたしが大学時代、集中的に丹念に読んだ新改訳聖書刊行会訳と後年参考のためにカトリック教会付属の書店で買ったフランシスコ会聖書研究所訳とで比較してみよう。

弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。(ヨハネ13.23,新改訳聖書刊行会訳,1970,p.190)

弟子の一人が、イエズスの胸に寄り添って食事の席に着いていた。その弟子をイエズスは愛しておられた。(11)(ヨハネ13.23,フランシスコ会聖書研究所訳,1984,p.360)

フランシスコ会聖書研究所訳では異様な光景に思えるが、この箇所には次のような注がつけられている。

「食事の席に着いていた」は直訳では「横になっていた」。宴会では、身を横たえながら左肘をついて食事をするのが当時の習慣であった。「弟子の一人」はイエズスの右側に横になり、顔をイエズスの胸に近づけていたのであろう。 ((11),フランシスコ会聖書研究所訳,1984,p.361)

イエスたちはローマ式のマナーで食事をしていて、最後の晩餐でもそうであったというだけの話であるが、そうした予備知識なしに読むと、官能的なムードの最後の晩餐に思えてギョッとする。

何にしても、最後の晩餐で皆が身を横たえて飲み食いしていたと考えると、イメージが狂う。

自身の磔刑死を予感していたイエスが最後の晩餐の席で最愛の者を最も身近に置きたいと思ったとしても、何の不思議があろうか。

イエスがしばしばラビと呼ばれ、ラビは結婚していたことが普通であったことから考えると、その最愛の者が最高位の弟子であり、また最愛の者であったと外典が語るマグダラのマリアであってはなぜいけないのか。

正典から除外された、いわゆる「外典」に分類されるグノーシス主義的福音書『マリア福音書』ではマグダラのマリアとペトロが口論し、『フィリポ福音書』ではイエスがマグダラのマリアを全ての弟子たちよりも愛してしばしば口づけしたと書かれ、『トマス福音書』では女性蔑視とマグダラのマリアに対する敵意を露わにするペトロをイエスがたしなめる。

こうした外典を知ってしまうと、イエスに愛された弟子はマグダラのマリア以外に考えられず、その事実をぼかし、曖昧にするために架空の「イエスに愛された弟子」が追加されたとしか考えられなくなる。

つまり、「イエスに愛された弟子」もまたマグダラのマリアであり、マグダラのマリアは表現上の工夫から二人に分けられた。ヨハネ福音書ではマリアをペトロより高位に位置づけながら、そのことをぼかすために架空の弟子が配置させられたのだ。

グノーシス主義的な福音書が正典として生き残ってこられたのは、こうした工夫があったからこそだろう。もっとも、「イエスの愛しておられた者」が実在した他の人物であったことを否定する根拠には乏しい。

ヨハネ福音書をごく素直に読めば、「イエスに愛された弟子」は使徒ヨハネだと考えるのが自然であろうから、そうだとすれば、そこにはプラトン描く美少年愛好癖のソクラテスかと見まごう光景が最後の晩餐では繰り広げられていたことになり、バチカンが男色にお墨付きをもらったような気分に誘われるのも道理な話ではある。

ただ実際にはソクラテスの美少年愛好癖はひじょうにプラトニックな、情操を高めるためのアイテムといってよい性質のもので、こうした傾向にしても、「秘すれば花」的男色を語る『葉隠』にしても、ここまでプラトニックになると、もはや男色とは呼べない種類のひじょうに高級な情操であろう。

イエスと母マリアが列席している印象的なカナの婚宴が出てくるのもヨハネ福音書である。イエス自身の婚宴との説もある(結婚相手はマグダラのマリア)。他人の婚宴で母マリアが葡萄酒の心配をして息子イエスに相談するのは妙だが、それが息子の婚宴だったとすると不自然な話ではない。

いずれにしても、ペトロよりもマグダラのマリアと「イエスに愛された弟子」が存在感を持つグノーシス主義的ヨハネ福音書を異端とされたカタリ派は偏愛したということである。

ブラヴァツキーの著作にマグダラのマリアに言及した箇所をわたしは見つけていないが、ブラヴァツキーはグノーシス派を高く評価している。

仏陀とピタゴラスではじまり、新プラトン派とグノーシス派に終わるこの時代は、頑迷と狂信の黒雲によって曇らされることなく、過ぎ去った幾時代もの昔から流れ出た輝かしい光線が最後に集まって現れた、歴史の中に残された唯一の焦点である。 

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』神智学協会ニッポン・ロッジ,1989,序論p.181

|

2016年3月12日 (土)

ロシア語版ウィキペディアに見るブラヴァツキー。オック語版ウィキペディア。ピッピの挿絵で有名なニイマン。

日本語版ウィキペディアのブラヴァツキー、神智学、神智学協会に関するページの記述があまりに低俗、お粗末であることから疑問に思い、外国語版ウィキペディアを参照してみようと思ったことから外国語版ウィキペディアをよく利用するようになった(拙サイト「マダムNの神秘主義的エッセー」の以下の記事を参照されたい)。

グーグル先生や辞書に頼って解読を試みるが、ページの雰囲気がわかるだけでもメリットがある。ところで、以下の記事で次のように書いた。

  • 2016年3月 8日 (火)
    エッセーブログ「The Essays of Maki Notsuka」を更新。
    http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/03/the-essays-of-1.html
    わたしにはエンリコ・マッツァンティが描いたピノッキオは大人に見えますが、百歩譲って子供だとして、小学校高学年の年齢に見えます。もっと幼いイメージがありました。
    これとは逆に、数年前に初めて見た『長くつしたのピッピ』の初版本の挿絵があまりに幼い印象で、驚いたことも。

スウェーデン語版、デンマーク語版、ノルウェー語版は協力し合っているそうだが、ピッピの挿絵を最初に担当したイングリッド・ヴァン・ニイマンについて何も知らなかったことに気づき、スウェーデン語版でニイマンについて閲覧して衝撃を受け、次いでデンマーク語版でも閲覧。

イングリッド・ヴァン・ニイマン(Ingrid Vang Nyman)、1916年8月21日生まれのデンマークのイラストレーター。経済、健康問題から1959年12月13日に自殺とあった。

ニイマンの挿絵で出ているリンドグレーンの邦訳版絵本の紹介もしたいので、ニイマンについてはまた書きたい。

ブラヴァツキーのことをロシア語版ウィキペディアで調べたことはこれまでになかった。何となく、ロシアのサイトに行くのは怖い気がする。

が、ふと今日、ブラヴァツキーの母国ではどう書かれているのだろうかという興味を抑えられなくなり、出てこないかもしれないと思いつつБлаватская, Елена Петровна(ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー)でググってみた。

何という充実! 意外だ。

ブラヴァツキーの文学的才能に言及されているのが嬉しい。何せ、文豪クラスの名だたる作家が目白押しのロシア文学史なのだ。

ブラヴァツキーは思想書だけではなく、紀行、小説も書いたのである。小説に関しては母親と妹が小説家だったらしいから、血筋なのかもしれない。ブラヴァツキーの小説からわたしはゴーゴリを連想した。

ピアノの腕も相当に本格的であったようだ。家族についても詳細に記述されている(重厚さが漂う)。

それに比べると、Теософское общество(神智学協会)のページはシンプル。革命前にロシアには9つの神智学協会の活動拠点があり、サンクトペテルブルクに4つ、ワルシャワに2つ、スモレンスク・キエフ・カルーガに1つずつあったとか。ワルシャワは当時ロシア皇帝に支配されていたのだろう。

革命からペレストロイカまではメンバーは苦難の日々だったようだが(フランス語版によると、ナチス政権下でもメンバーは苦難の日々だったようで)、現在では状況が改善されている様子。

1975年、インドで神智学協会の創立100周年に捧げた記念切手が発行されたそうで、その画像が紹介されている。

ブラヴァツキーと神智学協会はSPR(The Society for Psychical Research 心霊現象研究協会)が公表したホジソン・レポ-トによって社会的信用を失墜させた。

しかしフランス語版ウィキペディアが明確に述べているように、「ホジソンレポートは、1977年にSPRの別のメンバー、ヴァーノン・ハリソンによって有利な方向に修正された」のである。

Le rapport Hodgson sera corrigé dans un sens favorable par un autre membre de la SPR, Vernon Harrison, en 1977.

Helena Blavatsky. (2016, janvier 6). Wikipédia, l'encyclopédie libre. Page consultée le 20:42, mars 10, 2016 à partir de
http://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Helena_Blavatsky&oldid=121985274.

そのハリソンの著作。

H.P. Blavatsky and the Spr: An Examination of the Hodgson Report of 1885
Vernon Harrison  (著)
出版社: Theosophical Univ Pr (1997/06)

日本のアマゾンでは現在取り扱いなしだが、アメリカのアマゾンでは購入できるようだ。

ロシア語版ウィキペディアはニコラス・レーリヒ、ヘレナ・レーリヒのページもそれぞれ充実している。パブリックドメインとなっているニコラス・レーリヒの絵の中から、一枚。

N_roerich__and_we_are_trying_from_2
Никола́й Константи́нович Ре́рих
«И мы трудимся». Серия «Sancta». 1922
Материал из Википедии — свободной энциклопедии

オック語版ウィキペディアにも行ってみた。カタリ派が話していたのはオック語である。カタリ派が栄えたラングドックという地名は、原田武『異端カタリ派と転生』(人文書院、1991)によると、文字通り「オックの言語(langued'Oc)」という意味らしい。

カルカッソンヌ生まれのカタリ派研究の第一人者といわれるルネ・ネッリのページ。

フランス語ではカタリ派はCatharisme、オック語ではCatarismeで、綴りからしてやはり違う。

話は変わるが、娘のパソコンがいつの間にか(?)Windows10にアップデートしたという。今のところ使用感に問題ないようだが、もう少し使ってみないと、わからないのかもしれない。わたしも期限までにはアップデートしようと思っているけれど。

|

2016年3月 2日 (水)

Notes:不思議な接着剤#92 古い文書を所有していたエッセネ派

わたしはノート90、91でブラヴァツキーの言葉を引用して次のように書いた。

H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010)にはそのエッセネ派についての詳しい記述がある。

エッセネ派ESSENESとは「癒やし手」を意味するAsaiに由来する。「プリニウスPlinyによればユダヤ人の一派で,彼らは死海の近くに何千年にもわたって暮らしていた」「たくさんの仏教的観念と修行があった」「初期教会で用いられた『兄弟[同胞]』なる呼称は,エッセネ派的なものだった。彼らは一つの友愛団体であり,かの初期改宗者たちに似たコイノビオンKoinobion,すなわち共同体だったのである」(ブラヴァツキー,ジルコフ編,老松訳、2010,ベールの前でXXXViii-XXXViX)

書きながら実は信じられなかったのである。死海の近くに何千年にもわたって暮らしていたエッセネ派という記述が。そんなに古くからだなんて、ありえるだろうか。だが、プリニウス、ヨセフス、ブラヴァツキーという大著述家が揃いも揃っていい加減なことを書くだろうか。

とはいえ、プリニウスの『博物誌』にはとても本当とは思えないことが沢山書かれている。

何しろ大部の著作である。前掲のプリニウスの記述はまだ確認ができていない。行きつけの図書館から借りられるのは八坂書房版『プリニウス博物誌植物篇』『プリニウス博物誌植物薬剤篇』で、これらには載っていないだろうと思ったが、借りてみて、世の中にこんなに面白い本があるのだろうかと思った。

雄山閣「プリニウスの博物誌〈縮刷版〉」シリーズ

プリニウスの博物誌〈縮刷版〉1- 第1巻~第6巻 -
編著者 :中野 定雄 中野 美代 中野 里美 プリニウス
雄山閣(2012/05/25)
6,696 円

プリニウスの博物誌〈縮刷版〉2 - 第7巻~第11巻 -
編著者 :中野 定雄 中野 美代 中野 里美 プリニウス
雄山閣(2012/05/25)
6,696 円

プリニウスの博物誌〈縮刷版〉3 - 第12巻‐第18巻 -
編著者 :中野 定雄 中野 美代 中野 里美 プリニウス
雄山閣(2012/06/25)
6,696 円

プリニウスの博物誌〈縮刷版〉4 - 第19巻‐第25巻 -
編著者 :中野 定雄 中野 美代 中野 里美 プリニウス
雄山閣(2012/09/10)
6,696 円

プリニウスの博物誌〈縮刷版〉5- 第26巻~第33巻 -
編著者 :中野 定雄 中野 美代 中野 里美 プリニウス
雄山閣(2012/09/10)
6,696 円

プリニウスの博物誌〈縮刷版〉6- 第34巻~第37巻 -
編著者 :中野 定雄 中野 美代 中野 里美 プリニウス 
雄山閣(2012/09/10)
7,344 円

プリニウスの博物誌〈縮刷版〉別巻Ⅰ 古代へのいざない
編著者 :中野 里美 H.N.ウェザーレッド 
雄山閣(2013/09/25)
5,670 円

プリニウスの博物誌〈縮刷版〉別巻Ⅱ プリニウスのローマ-自然と人への賛歌ー
編著者 :中野 里美
雄山閣(2013/12/25)
5,400 円

図書館にあるのは同じ雄山閣から3巻で出ているものだが、禁帯出であるため、図書館で前掲の箇所を探す作業をしたいと思いながら、まだやっていない。

話を戻すと、ブラヴァツキーは別の箇所ではナザレ派(意見の相違によりエッセネ派から分かれた分派)が紀元前150年ごろには存在していて、プリニウスとヨセフスによれば、ヨルダン川沿岸と死海の西岸に暮らしていたと書き、しかし――として、キング『グノーシス派』の中にヨセフスによる別の言葉が引用され、それによると、エッセネ派はプリニウスの時代の前にすでに何千年もの間死海のほとりで形成されていたと書いている。

ブラヴァツキーが読んだ『グノーシス派』を著したキングとは、英語版ウィキペディアでCharles William King (5 September 1818 – 25 March 1888) was a British Victorian writer and collector of gems.と書かれたチャールズ・ウィリアム・キングのことなのだろうか。

1818年に生まれ、1888年に歿したヴィクトリア朝の作家、宝石コレクターで、The Gnostics and their Remains.(グノーシス派とその遺跡)という著作があるらしいので、おそらくそうだろう。

フラウィウス・ヨセフス(秦剛平訳)『ユダヤ古代誌6』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2000)には、エッセネ人[びと]について次のように書かれた箇所がある。

まことにこの人たちの立派さは、自ら高徳を誇るいかなる人と対比してもいささかの遜色もない、真の賞賛に値するものであった。そして、そうした賞賛は、ギリシア人やその他のギリシア人の中には全く見出せないものであり、かつそれは、昨日今日のことではなく、遠い昔から絶えることなく、つねにその献身の生活を実行してきたのだから脅威である。 (ヨセフス,秦,2000,p.019)

「遠い昔から」という言葉は見つけたが「何千年もの間」という言葉をわたしは見つけられないでいる。

Josephus

18世紀に描かれたヨセフス像
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

フラウィウス・ヨセフス(秦剛平訳)『ユダヤ古代誌5』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2000)に、エッセネ派のマナエモスという名の有徳の人物は、少年だったヘロデが王になることを予知したとある。ヘロデ王は紀元前73年ごろの生まれだから、このエピソードはヨセフスの時代からすればそう「遠い昔」のものではない。

しかし、エッセネびとは太陽に向かって父祖伝来の祈りを捧げたとヨセフスは書いており、父祖伝来という言葉が伝統的なものを感じさせ、エッセネ派の歴史が浅くはないことを物語っているようでもある。

エッセネ派は完全に組織化され、入会・除名の会則を持ち、共有財産制の共同体を形成し、ユダヤのどの町にもエッセネ派グループは存在した。入会には3年間の見習い期間が必要だった。厳格な規則の下で、敬虔な祈り、労働、冷水での沐浴、食事が行われ、住居は静寂に包まれていた。

霊魂の不滅を信じ、フラウィウス・ヨセフス(秦剛平訳)『ユダヤ戦記 Ⅰ』』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2002)によると、「古い文書に異常な関心を示し、とくに精神と肉体に裨益する文書を選んで読んだりする。そこから彼らは病の癒しに向かい、薬草の根や薬石の成分を調べたりする」(ヨセフス,秦,2002,p.279-280)とある。

古い文書とは、どんな文書なのだろうか。そうした古い貴重な文書をエッセネ派は所有し、研究していたのだ。

結婚に関して別の見解を持つエッセネびとの宗団が他にあると書かれ、エッセネ派は複数存在していたようである。

死海文書がエッセネ派によって書かれたものであるかどうかは議論の余地を残しているようだが、死海文書とエッセネ派を結びつける研究者は多い。

ナグ・ハマディ文書は1945年、死海文書の発見は1947年以降のことであり、ブラヴァツキーは1891年に亡くなっているから、彼女がこれらの情報に接することはなかった。

512pxqumran_4

文書が発見されたクムラン第四洞窟
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

331pxview_of_the_dead_sea_from_a__2

クムラン洞窟より望む死海
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

アリストテレスの時代には物質主義が優勢な思潮となって、霊性と信仰は頽廃した。秘儀そのものが甚だしく変質し、熟達者[アデプト]と秘儀参入者[イニシエート]は侵略者の武力で散り散りになり、その後継者と子孫は少数だったとブラヴァツキー(ジルコフ編,老松訳,2010,pp.18-19)はいう。

エジプトの「聖なる書記や秘儀祭司は,地上をさすらう者となった。彼らは聖なる秘儀の冒涜を恐れて,ヘルメス学的な宗団――後にエッセネ派Eseenesとして知られるようになる――のなかに隠れ家を探さざるをえず,その秘儀知識はかつてなかったほどに深く埋もれた」(ブラヴァツキー,ジルコフ編,老松訳,2010,p.19)

エッセネ派はノート91で書いたように、ユダヤ人の一派であって、グノーシス派、ピタゴラス派、ヘルメス学的集団、あるいは初期キリスト教徒であったとブラヴァツキーは述べているのだ。

死海の近くに「何千年にもわたって」暮らしていた、という記述はわたしには時間的に長大すぎて信じられない。それほどの長さであったかどうかはともかく、彼らが長いことそこに暮らしていたことは間違いないと思われるし、だからこそ、様々な思想の受け皿ともなりえたのではあるまいか。

ウィキペディアからナグ・ハマディ文書について引用すると、「写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。(……)調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルスの内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる」(ウィキペディアの執筆者. “ナグ・ハマディ写本”. ウィキペディア日本語版. 2016-02-23. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC&oldid=58723955, (参照 2016-02-29).)とあることからもわかるように、エッセネ派に関するブラヴァツキーの記述はまるでナグ・ハマディ文書の内容を述べたかのようである。

|

2016年2月29日 (月)

エッセネ派に対する疑問

わたしはノート90、91でブラヴァツキーの言葉を引用して次のように書いた。

H・P・ブラヴァツキー『イシス 科学上』にはそのエッセネ派についての詳しい解説がある。『イシス 科学上』ベールの前でXXXViii-XXXViX頁。

エッセネ派ESSENESとは「癒やし手」を意味するAsaiに由来する。「プリニウスPlinyによればユダヤ人の一派で,彼らは死海の近くに何千年にもわたって暮らしていた」「たくさんの仏教的観念と修行があった」「初期教会で用いられた『兄弟[同胞]』なる呼称は,エッセネ派的なものだった。彼らは一つの友愛団体であり,かの初期改宗者たちに似たコイノビオンKoinobion,すなわち共同体だったのである

書きながら実は信じられなかったのである。死海の近くに何千年にもわたって暮らしていたエッセネ派という記述が。そんなに古くからだなんて、ありえるだろうか。だが、プリニウス、ヨセフス、ブラヴァツキーという大物著述家が揃いも揃っていい加減なことを書くだろうか。

それについて調べていて、一日潰れた。次のノートでエッセネ派についてもっと書きたい。

|

2016年2月28日 (日)

Notes:不思議な接着剤#91 釈迦牟尼仏の哲学を説いたイエス

昨日「カタリ派がヨハネ福音書を偏愛する理由がブラヴァツキーの著作から解けた!」という派手なタイトルをつけた記事を公開したが、勘違いがあったので、非公開とした。

が、別の重大な発見(見落としというべきか)があり、記事にしておきたい。

新約聖書関係で、ヨハネは3人いる。バプテスマのヨハネ、使徒のヨハネ、福音記者のヨハネである。

バプテスマのヨハネと福音記者のヨハネを混同して読んでいたために、タイトルのような結論を出して舞い上がっていた。

ただ、ちゃんとした記事を書くためにじっくり読んでいくと、自分の勘違いにも気づいたが、重大なことがイエスに関して書かれた箇所に目が留まった。

話を戻せば、福音記者ヨハネと使徒ヨハネを同一人物とする説があるのだが、ブラヴァツキーはH・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010)の中で、「『ヨハネによる福音者』The Gospel according to Johnを書いた匿名のグノーシス主義者Gnostic」(ブラヴァツキー,老松,2010)という風に書いている。

匿名のグノーシス主義者。

『ヨハネによる福音書』は共観福音書と呼ばれる他の三福音書とは内容が異なり、それについてもブラヴァツキーは書いている。

『ヨハネ福音書』がグノーシス的とは一般にもいわれているところで、カタリ派がグノーシス的であったことから考えると、カタリ派が『ヨハネ福音書』を愛した理由もわかる気がするのだが、偏愛したほどの理由が結局のところわたしにはわからない。

初期キリスト教が存在した時代、あのあたり――ガリラヤ――は人種の坩堝で、人々は偶像崇拝に夢中だった。『Isis Unveild』にはその様子が目に見えるように書かれ、猥雑な儀式を行うバッカス崇拝がどんなものだったかなど、よく分析されている。

様々な資料から引用された複雑な記述の中から1本の流れを辿るのは骨が折れることだが、遠いあの時代に直に触れるような不思議な感覚をもたらされる歓びがある。

ナザレ派の改革者イエス――とブラヴァツキーは呼び、イエスがエッセネ派に属していたことは間違いないが、厳密にはエッセネ派とはいえないと書く。

エッセネ派は油を汚れとみなし、清らかな水しか使わなかったが、イエスは油を使ったことからも「厳密」にはそういえないことがわかるという。ヨセフス『ユダヤ戦記』2巻8章3節……とここまで細かく典拠が示されているにも拘わらず、典拠も示さずに荒唐無稽な文章を書く人々は荒唐無稽だとブラヴァツキーを非難する。

イエスは油を使ったことからも、イエスが「厳密」にはエッセネ派とはいえないことがわかると彼女はいうのである。

ここで引用が正しいかどうか調べてみた。幸い『ユダヤ戦記』は持っている。ヨセフス『ユダヤ戦記』2巻8章3節は、わたしが持っている邦訳版ではフラティウス・ヨセフス(秦剛平訳)『ユダヤ戦記 Ⅰ』(筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2002)に収録されている。

あった。確かに、2巻8章3節。「彼らは油を汚染させるものと見なし、もし人がうっかりしてかけられた場合、それを体から拭き落とさねばならない。というのも、彼らは肌を乾いた状態にさせており、そのためつねに白い衣をまとっているからである」(ヨセフス,秦,2002,p.277)

イエスが属したとされるエッセネ派について、ブラヴァツキーは驚くほど様々なことを書いており、エッセネ派が死海のほとりに何千年にもわたって暮らしていたユダヤ人の一派で、グノーシス派であり、ピタゴラス派、ヘルメス学的集団、あるいは初期キリスト教徒であっという。彼らは仏教の伝道師たちの影響を受けたが、思想体系はむしろ崩れていった……

エッセネ派という集団は様々な思想的影響を受けながら、何千年もの歴史を生き抜いていたわけである。

パブテスマのヨハネの弟子たちは、意見の相違によりエッセネ派から分かれた分派だった。

当時のことに可能な限り言及され、分析は各派の起源へと遡り、そうするとエジプト、カルデア、インドが登場してくることになる。

今ほどあのころの古文書が発掘されていず、ネットもない時代に書かれたとはとても思えないほど、存在した資料をぎりぎりまで使えるだけ使って解説され、まるで最新の研究を読むかのようだ。

イエスの実像をブラヴァツキーはグノーシス派のバルデサネス派の不当な(と彼女は書く)非難の中に見出している。偽のメシア、古代の宗教の破壊者で、仏教の信奉者であるという非難の中に。

グノーシス派に関するブラヴァツキーの記述は夥しい。グノーシス派といっても、ノート90で書いたように複雑である。

バルデサネス派に偽のメシア、古代の宗教の破壊者で、仏教の信奉者であるという不当な非難を浴びせられた宗派の一つにイエスは属しており、そのうちのどれであったかの特定は不可能に近いが、イエスが釈迦牟尼仏の哲学を説いたことは自ずと明らかであるとブラヴァツキーは書く。

ここまではっきり断言するとなると、ブラヴァツキーがキリスト教から叩かれるのも当然だ。仏教の教えを説くイエス……。今でこそ、ブラヴァツキーのいったようなことがいわれ出したのだが。

しかし、もしこれが本当なら、正統キリスト教を主張したカタリ派が「西欧の仏教」といわれ、グノーシス福音文書中の白眉『マリアによる福音書』でマリアがイエスから教わったといって話し始めるその内容が驚くほど仏教的であったことの謎も解ける。

前述したパブテスマについても詳細な分析があり、そこからパウロの使徒行伝が重要な部分で改竄された可能性に触れている。

わたしはパウロが苦手だったが、改竄されているとなると、別のパウロ像が現れる可能性が高く、興味が湧く。

以下の本はおすすめだが、Amazonでは中古しかないようだ。図書館には置いてあるところも多いのではないだろうか。

マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒
カレン・L・キング(著), 山形 孝夫(翻訳), 新免 貢(翻訳)
出版社: 河出書房新社 (2006/12/16)

ナグ・ハマディ写本―初期キリスト教の正統と異端
エレーヌ ペイゲルス(著), 荒井 献(翻訳), 湯本 和子(翻訳)
出版社: 白水社; 新装版 (1996/06)

以下のサイトで『マグダラのマリアの福音書』がオリジナルな邦訳で紹介されている。

|

2016年2月23日 (火)

クレーのパブリック・ドメイン作品と表紙変更。様々なマグダラのマリア。

パウル・クリーのパブリック・ドメイン作品を――畏れ多いことだが――電子書籍の表紙絵にお借りした。

クレーを知らない人は少ないと思うが、その作品は高い芸術性を秘めながらも親しみやすく、ググってみると、小物、文房具、アクセサリー、Tシャツのプリントなどにもよく使われているようだ。

わたしは大学時代からクレーが好きで、その頃に購入した画集を今も時々眺めている。ウィキペディアからクレーについて引用してみる。

パウル・クレー(Paul Klee、1879年12月18日 - 1940年6月29日)は20世紀のスイスの画家、美術理論家。
ワシリー・カンディンスキーらとともに青騎士グループを結成し、バウハウスでも教鞭をとった。その作風は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特のものである。

ウィキペディアの執筆者. “パウル・クレー”. ウィキペディア日本語版. 2015-09-06. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC&oldid=56757860, (参照 2016-02-23).

短編児童小説『卵の正体』にお借りしたクレーの「mehr Vogel (als Engel)」と名づけられたドローイング。

一見、子供の落書きのようにも見えるが、この雰囲気はクレーにしか出せないものだろう。

『卵の正体』は掌編というべき短編児童小説だが、もっと長い続編の計画がある。

純文学の短編小説『昼下がりのカタルシス』にお借りしたクレーの「Magdalena Before The Conversion」。回心前のマグダラのマリア。これは何ともいえない表情のマグダラのマリアだ。

他に、マグダラのマリアをモチーフにしたパブリック・ドメイン作品を拾ってみた。

聖書の人物によって衣服の色がおおむね定まっており、聖母が青や紺色の衣やマントを着るのに対し、マグダラのマリアは緑色の下衣、朱色のマントを身につける事が多い。
ウィキペディアの執筆者. “マグダラのマリア”. ウィキペディア日本語版. 2016-02-10. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2&oldid=58566782, (参照 2016-02-23).

Maria_magdalene_crucifixion_detail

16世紀に描かれたマグダラのマリア。円光がまるで麦藁帽子のように見える(?)。

256pxjos_de_ribera_066

『マグダラのマリアの浄化』(ホセ・デ・リベーラ)、1636。バレンシア出身のバロック画家リペーラ。

1678年頃に制作されたバルトロメ・エステバン・ムリーリョ「無原罪のお宿り」は似た構図。リベーラの影響を受けたのだろう。マグダラのマリアと聖母マリアというテーマの違いがあるけれど。

Murillo_immaculate_conception

次の1660~65頃に制作された「無原罪のお宿り(エスコリアルの無原罪のお宿り)」は清浄そのものといってよいのか、清純そのものといってよいのかわからないが、比類ない美しさを湛えている。クリックするとdown大きくなります。

512pxbartolom_esteban_perez_murillo

ムリーリョは沢山の無原罪のお宿りを制作しているが、マグダラのマリアも複数制作している。

Mary_magdalene_by_bartolom_esteban_

ムリーリョの聖マグダラのマリア。1650~55頃の制作。一般女性の渾身の祈りという感じ。

256pxel_greco__the_penitent_magdale

エル・グレコの悔悛するマグダラのマリア。1576~1577頃の制作。衣類の色に注目。清浄なブルー、白、紺といった色合い。画家の筆は悔悛直後のマグダラのマリアを捉えたのだろうか。

髑髏が聖書(?)に置かれている。よくマグダラのマリアと一緒に描かれる髑髏だが、イエスはゴルゴダの丘で磔刑死した。

ゴルゴダとはアラム語Golgothaで、頭蓋骨を意味するという。

頭蓋骨の形をした丘でイエスは磔刑に処されたのだ。イエスの死を見届けたマグダラのマリアが頭蓋骨(髑髏)と共に描かれるのは、そうした意味からなのか?

Georges_de_la_tour_009

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの悔悛するマグダラのマリア。1593~1652頃の制作。独特の雰囲気。膝の上に髑髏あり。髑髏の代わりに猫でもいいような気がする。

Maria_magdalene_praying_2

現代女性風だと思ったら、やはり時代が下った19世紀、アリ・シェフェールによるマグダラのマリアだった。

他にも様々なマグダラのマリアが描かれてきたが、次に紹介する正教会のマグダラのマリアのイコン(14~17世紀)を観たとき、決定版はこれだと思った。

Maria_magdalene_icon

一般人でない感じが出ているのは、これが一番ではないだろうか。マグダラのマリアがイエスに最後まで付き従った志操堅固な弟子だったことからすると(他の弟子たちは怖じ気づいて逃げてしまった)……場所柄からも……

萬子媛の肖像画を連想してしまった。

正教会でマグダラのマリアはどのように語り伝えられているのか、ウィキペディアから引用しておく。

正教会での伝承の概略

マグダラのマリアについて、福音書に記載の無い伝承は以下の通りである。
主の升天後、生神女(聖母マリア)や使徒達とともに常に祈り、広くエルサレム中に主の復活を伝え、第一の証人となった。
神の道を伝えるために、方々を旅した。
ローマへ行き、皇帝ティベリウスに会って紅い鶏卵を献上し、ハリストス(キリスト)の復活を伝え、主の十字架の死を物語り、ピラトによるイイスス・ハリストスの死刑は不法であったと皇帝に訴えた。ユダヤ人には、貧しい者が祝賀・敬意の気持ちを示す際に鶏卵を贈る習慣があり、この習慣に則ってマグダラのマリアが皇帝に紅卵を献上してから、復活の記憶(復活大祭)に鶏卵を贈る習慣が始まった。

ウィキペディアの執筆者. “マグダラのマリア”. ウィキペディア日本語版. 2016-02-10. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2&oldid=58566782, (参照 2016-02-27).

Juan_en_la_ltima_cena_de_leonardo_d

レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐より、部分。 イエスの向かってすぐ左隣に位置する女性的な風貌の人物は使徒ヨハネとされているが、一説ではマグダラのマリアともいわれている。

当ブログにおける関連カテゴリー:

|

2016年2月10日 (水)

Notes:不思議な接着剤#90 キリスト教成立以前に東西に広く拡散していた仏教 

ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ (講談社学術文庫)
荒井 献 (著)
出版社: 講談社 (2015/11/11)

図書館から借りた『ユダとは誰か』をユダ像が正典とされる四福音書において、どのように変遷したかを読んだ。

荒井氏によると(112-113頁)、

  • マルコ福音書では、ユダがイエスに「引き渡す」代償として「銀貨を与えることを約束した」といわれているだけ。
  • マタイ福音書になると、ユダは「引き渡す」ための代償を祭司長たちに要求し、彼らはユダに「銀貨三十枚」を支払った。
  • ルカ福音書では、ユダは祭司長だけでなく、神殿守護長官たちとイエスを「引き渡す」方法を協議。彼らはユダに「銀貨を与えることで一致し」、ユダは「同意」した。
  • ルカ福音書とヨハネ福音書では、ユダがイエスを「裏切った」原因として、「サタンがユダに入った」。ヨハネではユダが直接「悪魔」と名指されている。
    ヨハネ福音書ではユダが金銭欲のゆえイエスを裏切ったことがマタイ福音書、ルカ福音書で「ユダの裏切り場面」で示唆されているが、ヨハネ福音書になると、ユダは「盗人」であり、イエス集団の金庫番でありながら、その中身を「くすねていた」。

こうした正典におけるユダ像がどのように変遷していくのか、荒井氏は「使徒教父文書」「新約聖書外典」を手がかりに見出していこうとしている。

わたしの読書は「使徒教父文書」「新約聖書外典」の定義を読んだところで止まった。夕飯作りのため中断した。

荒井氏によると(114-115頁)、「正典」から除外された諸文書にも、それを読むことを必ずしも禁じられていない文書と禁じられている文書とがあり、前者にはとりわけ「外典行法」、後者には正統的教会から「異端」として排除された「グノーシス」出自の諸文書が入る。

荒井氏はまた(91頁)、ヨハネ福音書は2世紀以降、初期カトリシズムが成立する過程で、正統的教会よりもむしろグノーシス派などの「異端」的分派の中で広く読まれたと前述している。

グノーシスは定義しづらいらしく、様々な研究書で定義にばらつきがあって、ひじょうにわかりにくいが、ウィキペディアの解説は参考になる。

グノーシス主義(グノーシスしゅぎ、独: Gnostizismus、英: Gnosticism)またはグノーシス(古希: Γνῶσις、ラテン文字転写:Gnosis)は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである。物質と霊の二元論に特徴がある。普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。

またグノーシス主義は、地中海世界を中心とするもの以外にイランやメソポタミアに本拠を置くものがあり、ヘレニズムによる東西文化の異教#シンクレティズムのなかから生まれてきたものとも云える。代表的なグノーシス主義宗教はマニ教であるが、マニ教の場合は紀元15世紀まで中国で存続したことが確認されている。
ウィキペディアの執筆者. “グノーシス主義”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-02. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9&oldid=58096269, (参照 2016-02-09).

ブラヴァツキーの著作にはグノーシスに関する事柄が豊富に出てくるので(詳しい複雑な解説の中で逆にまとまりがつかなくなったりもするが)、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、昭和62年初版、平成7年改版)、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、平成22年)、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 下』(竜王文庫、平成27年)、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(神智学協会ニッポン・ロッジ、平成元年)を読んでいた。

H・P・ブラヴァツキー『神智学の鍵』の用語解説には次のように書かれている。

グノーシス(Gnosis,希)
 文字道りには「知識」。西暦1世紀及びそれ以前の宗教哲学派によって用いられた専門用語で、その探究の対象を表した。霊的で神聖な知識をヒンズー教徒はグプタ・ヴィディヤーというが、これは霊的秘儀のイニシエーションを受けた時のみ得られるものである。儀式的秘儀は霊的秘儀の一種である。グノーシスを体系化し、教えたグノーシス派の哲学者達は1~3世紀に栄えたが、そのうちヴァレンティヌス、パシリデス、マルキオン、魔術師シモンなどが著名である。

H・P・ブラヴァツキー『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』に「グノーシス派,あるいは初期キリスト教徒が,新しい名称に変わった古いエッセネ派の信徒にほかならなかったことを考えに入れれば」とあるところからすると、初期キリスト教徒はエッセネ派から出た人々で、エッセネ派はグノーシス派に属した(そのころは当然ながらまだ「正典とされる」四福音書はなかった)。

このことは過去記事でも書いたが、確かにフラウィウス・ヨセフスが記述するエッセネ派の習慣はキリスト教徒の習慣にそっくりである。H・P・ブラヴァツキー『イシス 科学上』にはそのエッセネ派についての詳しい解説がある。『イシス 科学上』ベールの前でXXXViii-XXXViX頁。

エッセネ派ESSENESとは「癒やし手」を意味するAsaiに由来する。「プリニウスPlinyによればユダヤ人の一派で,彼らは死海の近くに何千年にもわたって暮らしていた」「たくさんの仏教的観念と修行があった」「初期教会で用いられた『兄弟[同胞]』なる呼称は,エッセネ派的なものだった。彼らは一つの友愛団体であり,かの初期改宗者たちに似たコイノビオンKoinobion,すなわち共同体だったのである

確かエッセネ派はピタゴラス派だったはずである。つまり仏教の影響を受けたピタゴラス派がエッセネ派の正体(?)で、初期キリスト教徒はそうした人々であった。

となると、グノーシスはキリスト教の前に存在し、キリスト教形成期にも、そして東方的にはグノーシス主義宗教であるマニ教が紀元15世紀まで存在したのである。

11世紀から13世紀にかけて南フランスで栄えたカタリ派は「西欧の仏教」と呼ばれ、彼らはヨハネ福音書を尊重した。カタリ派は明らかにグノーシス的である。

わたしはこのカタリ派こそ、初期キリスト教の流れを汲む一派だったと考えている。

カタリ派について、渡邉昌美『異端者の群れ―カタリ派とアルビジョア十字軍』(八坂書房、2008年)には次のように書かれている(124頁)。

 カタリ派を外来の宗教と見たり、少なくとも思想的に西欧に異質な存在だと見る。だからこそ最終的に正統信仰に取って代わることができなかったのだと解釈する見解は今日でもけっして少なくはない。しかし、カタリ派異端者自身が「始祖マニ」の記憶をまったくもっていないどころか、使徒の時代、原始教会への回帰の熱烈な意志をもっていたことは他の異端者とまったく同じだし、他に対して信仰の正統性を主張するときにはやはり使徒からの相伝をよりどころとしていたのである。

『ピスティス・ソフィア』はグノーシス派の文書であるが、H・P・ブラヴァツキー『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』スタンザⅴ367頁の註41には大事なことが書かれている。

グノーシス派では“キリストス”はイエスという意味ではなく、非個人的原理即ち宇宙のアートマン及び各人の魂の中のアートマンという意味をもつものである。だが英国博物館にある古いコプト語の原稿では、ほとんどの場合、“キリストス”は“イエス”に取りかえられてしまっている。

プラトンはピタゴラスの熱烈な弟子だったとブラヴァツキーはいう(『イシス 科学上』の「イシスのベール」10頁)。ピタゴラスはエジプトの秘儀司祭たちから宇宙論的な数の理論を教わった(『イシス 科学上』の「イシスのベール」8頁)。ピタゴラスはインドで、あるいはインドに行ったことのある人たちから知識を得ていた(『イシス 科学上』の「イシスのベール」11頁)。

古代インドの難解な諸体系の最良の要約になっている,かのプラトン哲学」「前キリスト教時代のこの最も偉大な哲学者は,著作のなかに,自身の何千年も前に生きていたヴェーダ哲学者たちの唯心論とその形而上学的な表現を忠実に映し出していた」「プラトンと古代インドの聖人たちには同一の知恵が同じように啓示されていた,と安んじて言える。つまり,この知恵は,時の衝撃のなかを生き延びてきたのだから,神的かつ永遠なるものにほかなるまい』(H・P・ブラヴァツキー『イシス 科学上』ベールの前でXiV頁)

アレクサンドロス大王(紀元前356年7月20日- 紀元前323年6月10日、在位:紀元前336年 - 紀元前323年)の東方遠征やアショーカ王(インドの最初の統一王朝であるマウリヤ朝第3代の王。在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)が仏教布教のためにヘレニズム諸国や東南アジア、中央アジアに僧侶の使節団を送ったことから考えても、仏教はキリスト教成立以前に東西に広く拡散していたのである。

追記:

荒井献『ユダとは誰か』を読了。2世紀ごろ存在していた『ユダの福音書』はグノーシス派出自の福音書の形式と内容を備えているようである。ここではユダは預言が成就するように、イエスを祭司長たちに引き渡す。

グノーシス派に好まれたヨハネ福音書ではユダは直接「悪魔」と名指されているほどで、人間的にも卑しい描かれかたである。『ユダの福音書』のユダとは違う。グノーシス文書にもいろいろあったようだから、こんな対照的なユダ像が出てくるのかとも思うが、この著作を読んだだけではわからない。

以下の過去記事でプロティノスのグノーシス批判を採り上げ、わたしは書いている。

2011年4月 3日 (日)
ヒュパティアが属した新プラトン派
http://elder.tea-nifty.com/blog/2011/04/post-583e.html

プロティノスのグノーシス批判『グノーシス派に対して』[『世界創造者は悪者であり、世界は悪であると主張する人々に対して』]を読みました。
読後感からすると、プロティノスが相手にしたグノーシスの一派はかなり低俗な迷信・霊媒集団だったという印象です。
神秘主義にピンからキリまであるように、グノーシスにもピンからキリまであることがよくわかりました。確かにグノーシスを連想させられる断片は含まれていますが、ここからは『マリアによる福音書』や「ナグ・ハマディ文書」に見られるような格調の高さも、また異端カタリ派に見られる合理精神や知的で清浄さを印象づけられるエピソードに通ずるものも何も感じられません。
ただし、これはプロティノス側から見たものでしかありません。
プロティノスのこの作品は有名なので、後世、これをもってしてグノーシス全般を断ずる向きがあったのかもしれないと思いました。それはグノーシスにとってはあんまりな処遇でしょう。
イエスには奇蹟的なエピソード(いわゆるテウルギーと呼ばれた神わざに属するものでしょう)や病人癒しのエピソードなどがありますが、当時――古代――はそうした技術は神秘家たちによってよく用いられていたようです。そうした技術にもピンからキリまであったようです。神聖なものから有害なものまで。

『ユダの福音書』を通して読んでみないと、何ともいえない。内容的にもさっぱり納得がいかない。

|

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Livly | Notes:アストリッド・リンドグレーン | Notes:アントニオ・タブッキ | Notes:グノーシス・原始キリスト教・異端カタリ派 | Notes:不思議な接着剤 | Notes:卑弥呼 | Notes:国会中継 | Notes:夏目漱石 | Notes:江戸初期五景1(萬子ひめ) | Notes:江戸初期五景2(天海・崇伝) | Notes:源氏物語 | Notes:百年文庫(ポプラ社) | Theosophy(神智学) | top page | ◆マダムNの電子書籍一覧 | ◇高校生の読書感想文におすすめの本 | ★シネマ・インデックス | ★マダムNの文芸作品一覧 | ★当サイトで紹介した作家、思想家一覧 | ☆☆紹介記事 | ☆マダムNのサイト総合案内 | ☆メールフォーム | おすすめKindle本 | おすすめYouTube | おすすめサイト | お出かけ | お知らせ | ぬいぐるみ・人形 | やきもの | よみさんの3D作品 | アクセス解析 | アニメ・コミック | アバター | イベント・行事 | イングリット・フジコ・ヘミング | ウェブログ・ココログ関連 | ウォーキング | エッセー「バルザックと神秘主義と現代」 | エッセー「卑弥呼をめぐる私的考察」 | エッセー「宇佐神宮にて」 | エッセー「文学賞落選、夢の中のプードル」 | エッセー「映画『ヒトラー最期の12日間』を観て」 | エッセー「村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ」 | エッセー「百年前の子供たち」 | エッセー「精神安定剤」の思い出」 | エッセー「自己流の危険な断食の思い出」 | オペラ・バレエ・コンサート | オルハン・パムク | カリール・ジブラン(カーリル・ギブラン) | ガブリエラ・ミストラル | クッキング | グルメ | コラム「新聞記事『少女漫画の過激な性表現は問題?』について」 | シネマ | シモーヌ・ヴェイユ | ショッピング | テレビ | ニュース | ハウツー「読書のコツを少しだけ伝授します」 | バルザック | パソコン・インターネット | マダムNのYouTube | マダムNの他サイト情報 | マリア・テレジア | メモ帳Ⅰ | メモ帳Ⅱ | ライナー・マリア・リルケ | 俳句 | 健康 №1(治療中の疾患と服用中の薬) | 健康 №2(体調)  | 健康 №3(受診) | 健康 №4(入院) | 健康 №5(お役立ち情報etc) | 健康 №6(ダイエット) | 健康 №7(ジェネリック問題) | 健康 №8(日記から拾った過去の健康に関する記録) | 健康№8(携帯型心電計) | 児童文学 | 児童文学作品「すみれ色の帽子」 | 写真集「秋芳洞」 | 創作関連(賞応募、同人誌etc) | 占星術・タロット | 友人の詩/行織沢子小詩集 | 地域 | | 夫の定年 | 季節 | 家庭での出来事 | 山岸凉子 | 思想 | 恩田陸の怪しい手法オマージュ | 息子の就活 | 息子関連 | 手記「枕許からのレポート」 | 文化・芸術 | 文学 №1(総合・研究)  | 文学 №2(自作関連) | 日記・コラム・つぶやき | 時事・世相 | 書籍・雑誌 | 未来予知・予測(未来人2062氏、JJ氏…) | 村上春樹 | 村上春樹現象の深層 | 東京旅行2012年 | 植物あるいは動物 | 検索ワードに反応してみました | 歴史 | 瀕死の児童文学界 | 父の問題 | 珈琲 | 神戸旅行2015 | 神秘主義 | 福島第一原発関連 | 科学 | 経済・政治・国際 | 美術 | 能楽 | 自作小説「あけぼの―邪馬台国物語―」 | 自作短編童話「風の女王」 | 自作童話「不思議な接着剤」 | 芥川賞・直木賞 | 萬子媛 - 祐徳稲荷神社 | 薔薇に寄せて☆リルケの詩篇『薔薇』のご紹介 | 評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』 | 評論・文学論 | | 連載小説「地味な人」 | 電子書籍 | 音楽