カテゴリー「Notes:卑弥呼」の8件の記事

2014年4月 4日 (金)

Kindle本『卑弥呼をめぐる私的考察(Collected Essays, Volume 3)』を販売中です

Kindle本『卑弥呼をめぐる私的考察(Collected Essays, Volume 3)』(ASIN:B00JFHMV38)を販売中です。206円です。サンプルをダウンロードできます。
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祐徳稲荷神社に出かけました。遅い初詣でした。

新しく撮った写真、私的な発見がありました。祐徳院様(萬子媛)が用いられたという水鏡を見学し、卑弥呼が用いたと思われる鏡、そして道教の鏡、老子の言葉など、『卑弥呼をめぐる私的考察』にある以下の記述を連想したりもしていましたが、参詣については記事を改めます。

鏡は、道教グッズ(?)なのである。物の本体を映し出すとされるからだが、鏡は「老子」の美しい第十章を思い出させる。

「おちつきをなくした魄(たましい)を迷わぬように維持して、統一をしっかり抱(たも)ち、それから離れないようにできるか。呼吸(いき)を凝集(こら)し、それをやわらかにして、嬰児(あかご)のようにすることができるか。神秘的な幻想(ヴィジョン)をぬぐい去って、くもりがないようにできるか。」

 この部分は、シックな老子がわたしたち俗人に珍しくも呆れるほど身を寄せて囁いてくれた、〈道〉――老子の形而上学における究極の存在、すべての根源(本体)――を自分のものとするための最高度の技法である。
 どこから検討してみてもこの技法は完璧で、したがって球体を想わせる。神秘主義の森に入り込んだ者は、それがどのような系統のものであれ、遅かれ早かれゆきあたる技法である。
 神秘主義的な諸テキストにあっては、文学的表現と科学的表現は目も綾に織りなされている。 鏡は技法を想起させる。そして、神秘主義が明かす、恐ろしいような秘密を鏡ほど見せてくれるものはない。鏡は象徴的な意味合いにおいて〈道〉を映し出すのだ。
 鏡を見るとき、そこに映し出されているものは、何だろう? 自分自身ではないだろうか。道はその自分自身のただなかにあるというのだ。だからこそ、神秘主義者は救いを他に……ではなく、自分自身に求めようとするのである。これほどの確実さ、最短距離、同時に険しい道というものは、どう探し尽くしても他にはない。
 鏡が〈道〉のシンボルとして、宝物の扱いを受けても不思議ではないとわたしには思える。だが、世俗に降下した時、鏡は象徴的なテキストではなく単なる護符となった。

中公文庫版『老子』第一章、注釈より引用した。

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2010年6月 3日 (木)

宇佐神宮まで、ドライブがてら

宇佐神宮にて

 ドライブがてら、宇佐神宮へ行ってきました。

 もっと早い時間に行って、お祓いして貰えばよかったな。

 宇佐へ入る前に、山々の重なりが本当に優美で美しく見えました。

 空が黄昏前の光を帯びて真珠色に輝き、それがまるで山々のオーラみたいに見えました。

 勿論、木にもオーラはあり、山は木々のオーラに満ちているわけですが、空の色があまりに山々に似合っていて、山々のオーラのように見えたのでした。

 お神籤を引いたら、娘もわたしも大吉!

「いつも、真ん中の御殿は閉まっているのですか?」とおふだ・おまもり売り場で尋ねましたら、「はい、あそこはいつも閉まっています」とのことでした。

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2010年1月 2日 (土)

東漢氏の首長の墓

 前の記事を書いたあと、炬燵で寝てしまい、ふと目が覚めたらテレビがついていました。娘は入浴中、夫は就寝していました。

 テレビを消そうとして画面を観ると、ヤマト王権だの百済だの……えっ、わたしが興味のある時代だわと思い、消さずに観ていると、小休止後に同じシリーズの中の『渡来人がもたらした飛鳥文化』というのが始まるのだそうで……。

 そのまま観ていました。その番組(NHK教育:新春特別アンコール『日本と朝鮮半島2000年』)では、仏教の導入をめぐる蘇我氏と物部氏の対立が描かれ、やがて蘇我氏の権力を支えていた渡来人の中でも代表格であった、東漢氏の首長の墓が現れました。

 ひぇー新年早々、居ながらにしてご先祖様の墓墓参りができる(墓参りをさせられる)とは……とびびりましたわ。

 ご先祖様だなんて、傍系も傍系のわたしにいえることではありませんが、昨年、困ったちゃんの父が引き起こした件〔カテゴリー『父の問題』参照〕からわたしの母方の祖母の旧姓がわかり(そんなことも知らなかったわたし)、祖母は実家が大庄屋でお姫様と呼ばれて育ったと誰からか聴かされた過去の記憶(ビンボーな庶民の寝言とわたしは解釈していて興味もありませんでした)が蘇り、どんな家系かがにわかに気になり始めました。

 珍しい姓で、ネットで調べると、祖母が出た辺りにある賃貸物件及び不動産屋、そして大蔵氏の家系図などがヒットしました。

 大蔵氏は東漢氏という帰化人(渡来人、帰化人の呼び方で議論あり)につながる家系で、東漢氏は日本の氏族の中では珍しく家系図がしっかりしているほうであるようです。

 従姉に電話して祖母についてリサーチしたりした結果、祖母の実家が大蔵氏の支流であることに間違いないだろうなと思われましたが、家系図を入手したわけでも何でもありませんから、間違っているかもしれません。

 それはわたしにとっては、本来何の興味もなかった日本史に興味と意欲を掻き立てる刺激物にすぎませんから、どうでもいいことでもあり、ただ、わたしは子供の頃から日本人でありながら日本人に違和感があって、よく他人からも毛色が違うだの、変わっているだのといわれてきた原因がわかった(のかもしれない)興奮を覚えさせられたということはありました。ほのかにでも自分の血に、帰化人として生きなければならなかった祖先の血が反映しているのだと思うと、何だか慰められるのです。

 またこのことは、同じく何の興味もなかった卑弥呼〔カテゴリー『エッセー「卑弥呼をめぐる私的考察」 』参照〕についてリサーチさせられてきた(と感じています)ことと同じ要素を含む地続きのテーマである気がしているのです。

 これは単なる空想ですが、東漢氏から出た一官吏がいて、日本書紀編纂の裏事情に通じていたとします。彼は邪馬台国の歴史が抹殺されることに疑問を感じています。中国の歴史書を知る帰化人としての洗練された文化的、科学的な感覚からして許されない事態が進行していくことに強い疑問と罪悪感を覚えているのです。彼のその無念な思いは、私心なく文学に取り組んでいるほのかな子孫のわたしに活路を見出したというわけです(本気にしないでちょうだい)。

 話は戻りますが、飛鳥の檜隈が蘇我氏を支える渡来人たちの住まいでした。

 東漢氏の首長の墓に関しては、最初に番組が放送された、その前年の発掘調査でわかったのだとか。直径40メートルに及ぶ円墳だそうです。

 墓の内部は、大小の天然の岩をそのまませり上げるように組み合わせてドーム型の天井を形作った、見かけは素朴そのものでありながら、技術面を考えると高度で凝った代物でした。

 天井岩の中でも、最大のものは30トンもあるそう……。

 番組では、仏教伝来のときを日本が文明の敷居を跨いだときと位置づけて、東漢氏などの渡来人がそれにどんな役割を果たしたのかを追及していました。

 百済と倭国は同盟関係にあり、仏教を通じて百済は倭国を取り込もうとしていました。6世紀に勃興して渡来人たちを支配下に置いた蘇我氏は百済系ではないか、と番組では語られていました。

 中国で隋が興ると、朝鮮半島全体が震撼させられるようになります。

 聖徳太子は百済一辺倒の外交から脱皮しようとしたばかりか、随との直接の、しかも対等の外交を望むのです。

 向こう見ずとも僭越ともとれる政策の裏には、聖徳太子の政治上の読みの深さがあったことは間違いのないところでしょうが、それにしても……と番組を見終わったのちも太子の政策の真の動機をわたしははかりかね、考え続けていました。

 そして、午前中に閃いたのです。

 太子が、いわゆるバウッダ(仏教の信奉者)であったことが核心にあったのではないかと閃いたのでした。

 仏をまつるといった倭国化された仏教の信仰者ではなく、バウッダであるという自覚があったのではないでしょうか。一人一人が一家をなす、仏法の信奉者、遵守者、修行者であるという自覚です。輪廻を経ながら一ブッダとして完成されるまで、自分の面倒はとことん自分で見なければならないというのが仏教本来の教えです。

 世俗的的、政治的力関係から見れば太子の感覚は常識を欠いて見えますが、バウッダとしての感覚からすれば生きとし生けるものは対等な関係にあるわけですから、その感覚を貫いたまでではないかとも想像できるのです。

 少なくとも、太子には仏教に対して、それくらいの思い入れと改革意識があったのではないでしょうか。

 中村元責任編集『日本の名著2 聖徳太子』(中央公論社、昭和54年)を図書館から借りていますが、まだ読んでいないので、読んだらわたしの上の考えは変わる可能性もあります。

この記事は見直しをしないままです。この文章が消えるまでは、書きかけと思ってください。〕

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2009年12月 7日 (月)

やまとのあやⅡ

 東漢氏は阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする帰化氏族であるが、記紀では応神天皇の在位中のこととされている。

 東漢氏は、おそらく後漢―呉―百済、宗教的には仏教と親和性があり、魏、宗教的には道教と親和性のある卑弥呼とは、明らかに別の系譜に属する。彼らの行動……。

 尤も、東漢氏の先祖が帯方郡から来た後漢の亡命貴族であったという伝説、坂上刈田麻呂(征夷大将軍として有名な田村麻呂の父)が桓武天皇に対する上表文で、彼らの氏祖である阿智使主が後漢・霊帝の子孫であったと述べたという内容を真実と見るか、また渡来した応神天皇20年を西暦に直した289年と考えるか、古事記に従い4世紀半と考えるかで話が違ってくる。

 要するに、応神時代の話に、ありえないことだが、両時代の話が混在しているのだ。

 応神天皇の在位は日本書記に従えば、270年2月8日―310年3月31日で、在位中の時代は弥生時代になるという。古事記に従えば、4世紀半になるそうだ。

 日本書記を読むと、おかしなことにぶつかる。百済は346年―660年に存在した国だが、この国が出てくるかと思うと、呉は222―280年に存在した国だが、これも出てきて、この2つの国のうちのどちらかがまるでタイムスリップでもしたかのように、同時期に存在したとしか思えない書かれかたなのだ。

 ちなみに、 卑弥呼が初めて難升米らを中国の魏に派遣したのは、魏の大尉・司馬懿によって公孫氏が撃たれた翌年の239年のことだった。何というタイミングのよさだろう!

 帯方郡は、204年、後漢の遼東太守・公孫氏によって創設された。呉と通じた公孫淵が撃たれたのちは魏の直轄地となり、その運営は313年まで続いた。 

 もし、東漢氏の先祖が帯方郡にいたとすると、その先祖が公孫氏政権や卑弥呼とどこかで絡んでいた可能性だってあるのだから、大きな問題なのだが――

 漢王朝の亡命貴族が朝鮮半島の帯方郡に、あるいは、さらにそこから百済に逃れたという話には信憑性があるようだが、東漢氏がそれに当たる人々であるのかどうかとなると、どうとでも考えられるわけだ。流浪の民ではなく、朝鮮半島土着の人々だったことだって考えられる。

 ただ彼らがどこから来ようと、先進技術を身につけた優秀な人々だったことは確かで、例えば、今、わたしたち一家が、親類と共にどこか未開な国へ移住したとしても、そこに現代日本の文明を根付かせることができるかどうかというと、たぶん無理だろう。少なくとも、東漢氏が、ポートピープルになって当時の日本に来た朝鮮半島土着の庶民だったわけではあるまい。

 いずれにしても、その後、東漢氏は本拠地を飛鳥とし、蘇我氏に協力した。東漢駒(やまとのあやのこま)は、蘇我馬子の命令で崇峻天皇を暗殺した(その後、東漢駒は別件で処刑されている)。

  聖徳太子の活躍と死。

 天武天皇の発意により、舎人親王らの撰で、奈良時代の養老4年(720年)に完成した日本書紀はわが国最古の歴史書とされているが、それ以前に、聖徳太子にらよって編纂された『国記』、『天皇記』があった。それは大部分、蘇我蝦夷と共に炎上したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。

 なぜ蝦夷は『国記』『天皇記』を道連れに自殺しようとしたのか不思議だ。『国記』『天皇記』が失われたのは、惜しいことだと思う。それは、どんなものだったのだろうか? 記紀とはカラーが違ったはずだ。

 ところで、東漢氏は蘇我氏の没落と共に衰微したが、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側について返り咲く。

 その後、平安時代に東漢氏出の坂上田村麻呂が、征夷大将軍として活躍することになるが、その父、前出の坂上苅田麻呂は、奈良時代、宇佐神宮の神託で有名な弓削道鏡事件で、道鏡の動きを封じ込めることに力を尽くしたりした。

 ここで改めて、宇佐神宮の由緒記を見てみると、主祭神は三柱の神々で、一之御殿が誉田別尊(応神天皇)、二之御殿が比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多記理姫命の三女神)、三之御殿が神功皇后(息長帯姫命)となっている。

 前述したように、東漢氏は、記紀で、応神天皇の在位中に渡来したとされるが、弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)を氏祖とする秦氏も、同じ応神天皇の在位中に渡来したとされる。しかし秦氏は、秦―新羅と親和性がありそうだ。

 秦氏の氏寺である広隆寺の弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)は、新羅色が強いとされる。余談だが、わたしは広隆寺を訪れたとき、弥勒菩薩半跏像のえもいわれぬ美しさに恍惚となって、しばらく動けなかった。少し体が宙に浮いたような錯覚にとらわれたほどだった。その一室の空間に金色の光の帯が絶えず織り成されていくかに見えた。他の仏像が何だかその辺のおばさんをモデルにしたかのように見劣りして見えた。

 確かにこの弥勒菩薩半跏像は、写真で見る百済系の仏像とは感じが違う。新羅系に思える。秦氏は、過去記事『帰化人について、押えておく必要性』でも引用した平野邦雄氏の言葉にあるように、わが国の神祗信仰とは切っても切れない帰化氏族で、宇佐神宮とも関係が深い。

 ところで、宇佐神宮における二之御殿の祭神は宗像三女神ともいわれているが、宗像というと、日本書紀にある阿智使主が呉に遣わされた話を連想してしまう。 

 応神天皇の在位中、縫工女を求めて呉に遣わされた阿智使主らは高麗経由で呉に行き、王から4人の縫女を与えられた。応神天皇崩御の月に阿智使主一行は呉から筑紫に着いたが、そのとき、宗像大神が工女らをほしいといわれ、縫女のうちの兄媛を奉った。あとの3人は天皇崩御のため、その第4子である大鷦鷯尊(仁徳天皇)に奉った……という話。阿智使主らは呉に行って戻るまでに、4年もかかっている。

続きを読む "やまとのあやⅡ"

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2009年11月12日 (木)

帰化人について、押えておく必要性

 書きかけていた『やまとのあやⅡ』だが、古代史を研究するにあたり、帰化人について押えておく必要性を、今更ながら強く感じ出した。

 以下の本は、その参考書として秀逸。

 平野邦雄著『帰化人と古代国家』(吉川弘司文館、2007年)

 その中で、東漢氏と呼ばれる帰化人に関しては、個人的な事情から最近になって興味がわくようになったが、秦氏については卑弥呼の研究を始めた比較的早い時期から注目していた。それは、前掲の著書に述べてあるようなことからだった。

このように、秦氏は帰化氏族としては不可解なほど、神祗信仰と密着している。宇佐にはじまる八幡信仰も、豊前に分布する秦氏とふかいかかわりがある。

 また、前掲の著書に、秦氏と漢氏の特徴を次のように端的に表した一文があるので、メモをとっておきたい。

 秦氏の氏族構成が、山城の宗族を中心に、全国に分布する、ピラミッド型の土豪としての典型を示すのに対し、漢氏・文氏は、官人貴族として、大和・河内に集中し、同族同氏の併立型を示し、前者は、在地的、後者は都市的と言いかえることも可能であることはすでに述べた。

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2009年10月26日 (月)

宇佐神宮にて

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☆以下は、2007年1月30日(火)公開の記事を訂正したものです。

  およそ10年ぶりに出かけた宇佐神宮でした。

 阿吽の狛犬に出迎えられて、鳥居をくぐりました。狛犬の体に毛のようなものが見え、芸が細かいなあと思い、近づいてよく見ますと、筋状に生えた暗緑色の苔でした。

 本殿までこんなに距離があったかしら、と思ったくらいに境内は広く感じられました。宇佐神宮はイチイガシの森に抱擁されています。前に来たときにいた白馬はいませんでした。

 ここで、杉田久女の句をご紹介しましょう。

    宇佐神宮 五句

うらゝかや斎(いつ)き祀れる瓊(たま)の帯
藤挿頭(かざ)す宇佐の女(によ)禰宜は今在さず
丹の欄にさへづる鳥も惜春譜
雉鳴くや宇佐の盤境(いはさか)禰宜ひとり
春惜しむ納蘇利の面ンは青丹さび

 杉田久女は『息長帯姫命の瓊のみ帯について』という題の随筆の中で、「神殿の朱の御扉中に奉安してある」という「(聖武天皇奉献による)神功皇后の御物と申し奉る古い唐錦の御帯」について書いています。

 久女が、古実にくわしい禰宜から聞いたのだということです。

 神功皇后といえば、現代人のわれわれからすれば架空の存在としか想えないスーパーウーマンですが、日本書記の神功皇后の巻には、魏志倭人伝の記述が不自然なかたちで挿入されていたりして、中国の正史に残っているために抹消しようがない卑弥呼という存在の大きさ、格の高さ、業績を天皇家に取り込もうとあがいた作為の跡が透けて見えますね~。

 逆の見方からすれば、魏に朝貢した邪馬壹国の女王卑弥呼と壹与は、その時代に倭国で大いに勢力のあったはずの大和朝廷とは別の王国に属していた人々ということになるわけです。そして、魏志倭人伝によると、その女王国に敵対していたのが男王卑弥弓呼の君臨する狗奴国。

 それにしても、まぎらわしい名だわねえ。。。卑弥呼に卑弥弓呼だなんて。

 いずれにしても、大和朝廷の作為が見え見えの神功皇后ではありますが、この架空の人物には実在の人物であった卑弥呼、あるいは卑弥呼の後継者であった壹与が、屈折したかたちで、断片的に、投影されていると考えて間違いはなさそうです。

 で、その神功皇后のものだという帯は「こげ茶の地に、草花模様があり、それに五色の小い瓊を所々にぬひつけた誠に高貴なみ帯」だということです。また久女は、同じ随筆の中で次のようなことも書いています。

宇佐の女禰宜は昔は大変な勢力があつたけれども、鎌倉時代に廃絶したものゝ如く、今も女禰宜の奥屋敷跡などいひつたえるものが宇佐の古い築地町の中などにはさまつてゐます。

 鎌倉時代に廃絶されるまで、宇佐の女神官には大変な勢力があった……? うーん、様々な連想を誘う一文です。  

P1040007   上宮本殿。下宮もそうですが、3棟からなります。向かって左から、一之御殿、二之御殿、三之御殿。

 本殿の建築について、「神社紀行特装版 宇佐神宮」(薗田稔監修、学習研究社)には下記のように書かれています。

現在の本殿は江戸時代末期の再建であるが、古い神社建築のひとつとされる八幡造りの祖型を伝えるものといわれ、国宝に指定されている。

3つの本殿とも、前方の外院と後方の内院をもつ。外院には椅子が置かれ、昼間、神が腰掛けられるところ。夜は内院で休まれる。

P1040008_3 P1040006_3  祭神は、一之御殿が八幡大神、二之御殿が比売大神(ひめおおかみ)、三之御殿が神功皇后。

 八幡大神は応神天皇のことで、神功皇后は応神天皇の母神です。  

 主祭神は八幡大神なのですが、どうしたって、注目せざるをえない二之御殿。

 この二之御殿の祭神、比売大神については、宗像三神のこととされていますけれど、諸説あるようでして、歴史を遡れば、「八幡さまのあらわれる以前の古い神様、地主神とされている」ということになるようです。

 この二之御殿だけが、今回参拝したときも、前に何度か参拝したときも締まっていました。 それだけでなく、かたく閉ざされた扉の両側には、厳しい監視人の姿(お人形)が。。。

20070118151159 20070118151209  これらの写真はわたしの撮影で、ぼけていますが、格子の向こう側にいらっしゃるのがその監視人です。

 あの人たちって、ここから誰かが侵入しようとするのを防ごうとしているというより、中からの脱出劇を阻止しようとしているような顔してるわ~。あたかも、この奥に一柱の女神様が囚われの身となっていらっしゃるような感じさえ受けるのですね。

P1040004  左の写真にあるように、下宮にある二之御殿は閉ざされていませんでした。

 宇佐神宮は神仏習合の宮として有名ですが、それ以前に道教との深い関わりを感じさせる宮でもあります。

 大陸渡来の道教を継承しつつ、仏教との融合に力を尽くした8世紀の宇佐の僧法蓮を、前出の「神社紀行特装版 宇佐神宮」から紹介させていただきたいと思います。 

 日本書記には、豊国の奇巫(あやしきかんなぎ)と豊国法師なる人物が、天皇の病を治すため豊国から宮中に招かれたと記す。ふたりは大陸渡来の道教的な巫術、医術を行うシャーマンであったと思われる。

 その流れを継ぎ、8世紀の宇佐にあらわれたのが宇佐国造家出身と思われる僧法蓮であった。『続日本紀』によれば、法蓮は優れた医術・巫術により朝廷から土地や宇佐君の姓を賜っている。

法蓮は宇佐の古代仏教の指導者であり、720年(養老4)、八幡神の守護による隼人の反乱鎮圧と、それを契機に開始された日本で最初の神仏習合的な放生会にも重要な役割を演じ、朝廷と宇佐神宮を結んだ人物と考えられる。

  ここで、宇佐神宮の由来と歴史をウィキペディアから、紹介させていただきます。

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由来と歴史

社伝等によれば、欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があった(扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄)と言われている。

そして遅くとも社殿を新たに建て替えたと考えられている和銅元年(708年)頃までには大神比義と関係がある大神一族が大和朝廷より宇佐の地にやってきて、あるいは大和朝廷と手を結んで、神仏習合、八幡神創出を行ったと考えられている。

また、宇佐神宮は三つの巨石を比売大神の顕現として祀る御許山山頂の奥宮・大元(おおもと)(=御許:おもと)神社の麓に位置し、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうと言われている。

そこに、当初は香春岳山麓に住み、その後、現在の中津市大貞薦神社で神官もしくは巫女を務めていたと思われる、渡来系のスサノオの子、五十猛命(いそたける)が始祖と言われている辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み、後に宇佐辛嶋郷に住んで、辛嶋郷周辺に稲積六(いなずみろく)神社(単に稲積神社とも表記。宇佐市中561)、乙咩(おとめ)神社(宇佐市下乙女宮本1343)、さらに酒井泉神社(宇佐市辛島泉1)、郡瀬(ごうぜ)神社(昔の表記は瀬社(せしゃ)。宇佐市樋田字瀬社187-1)と社殿を建築した。

崇峻天皇(588 - 592年)の御代に鷹居社(たかいしゃ)(宇佐市上田字1435)が建てられ、和銅5年(712年)には官幣社となり、辛嶋勝乙目が祝(はふり)、意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄える[1]。宇佐にある葛原古墳は辛島勝氏の墓である、という説がある。

社殿は、宇佐亀山に神亀2年(725年)、一之殿を建立、天平元年(729年)には二之殿、弘仁14年(823年)には三之殿が造立され、現在の形式の本殿が完成したと言い伝えられている。

東大寺造営の際に宮司等が託宣を携えて都にのぼり、造営を支援したことから中央との結びつきを強め、宇佐神宮は伊勢神宮に次ぐ皇室第二の宗廟として崇拝の対象となり繁栄した。

宇佐神宮の神職を束ねる大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義の子孫(中央から派遣された氏族ともされる)の大神氏が務めた。後に菟沙津彦らの子孫・宇佐氏と大神氏の祝が大宮司職を継承し宮成氏と三氏で祭祀を行ってきた。現在では祝氏、宇佐氏、宮成氏は祭祀を離れ、終戦直後には宇佐氏の流れと云われる阿蘇神社宮司の到津(いとうづ)氏が継承し、祭祀を行っていたが、平成16年(2004年)ごろより到津宮司に代わって代務者が置かれるようになった。

平成18年(2006年)には代々宮司家に替わって、中津市薦神社宮司である池永公比古氏が79代宇佐神宮宮司に就任した。これは異例のことであり、到津克子(いとうづよしこ)禰宜への橋渡しととらえるむきもあった。ところが、池永宮司が平成20年に急死したため、平成21年に神社本庁は大分県神社庁長の穴井伸久氏を80代宮司に選出した[2]が、これに反対して、宇佐神宮の責任役員会と氏子総代会は到津克子氏の80代宮司就任を決め、神社本庁からの離脱届を出す騒ぎになった[3]。

宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(豊前綾幡郷矢幡八幡宮。現在の金富神社。矢幡氏が社家として代々宮司を務める。)であるとする説がある。 また、宇佐神宮にある由緒書き「八幡宇佐宮御託宣集」には筑前国穂波郡の大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、箱崎宮の元宮であると明記されている。

「宇佐神宮」(2009年5月27日 (水) 10:42 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE

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  ところで、口伝をもとに書かれた『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(宇佐公康、1990年、木耳社)には、驚くべきことが書かれていて、神功皇后の皇子誉田天皇は応神天皇ではないというのです。

 誉田天皇は皇后と武内宿禰の不義密通によってできた子供で、のちに神功皇后は誉田天皇とともに、豊前国田川郡香春岳の麓、勾金(今の香春町勾金)に幽閉されてこの地で亡くなり、誉田天皇もまた4歳にして亡くなったということです。

 そして、その勾金の地に葬られ、大神比儀によって弔われた……とのこと。わたしが初めて邪馬壹国に興味を持った頃に住んでいたのは、香春岳が見えるアパートでした。

 では、記紀に描かれた応神天皇は誰かというと、神武天皇が東遷の途上で滞在した菟狭国の菟狭津彦命の妻、菟狭津媛命を娶って生まれた宇佐都臣命が常世織姫命に娶って生まれた宇佐押人ということになるそうです。

 つまり、誉田天皇≠応神天皇、宇佐押人=応神天皇だという主張です。

 神武天皇が応神天皇のグランパだとすると、あいだがずいぶん飛ぶわねえ、と思いますが、宇佐家の伝承によると、神武天皇の後は景行天皇になるようです。そして卑弥呼は、神武天皇と菟狭津媛命のあいだに生まれた御諸別命の子か孫にあたり、その卑弥呼の国は、今の広島県安芸郡にある多家神社を中心とした地域であろうとのことです。

 神功皇后が架空の人物であったとしても、そこに卑弥呼、もしくは壹与に関する何らかの情報が隠されている可能性を想像すれば、当初香春岳山麓に住み、のちに比売大神信仰を宇佐神宮に持ち込んだとされる辛嶋氏の行動には考えさせられるものがあります。

 信仰を持ち込んだといいますが、それを純粋に観念的なものと考えていいものかどうかは疑問で、古代、新しい信仰を他郷に持ち込むには何らかの物証といいますか、何か高貴な存在の遺品とか遺骨とか、ご利益や威光をもたらしそうな、信仰につながる品物があったのではないかと想像するのですね。

 たとえば、国を滅ぼされて幽閉されたまま亡くなった女王についての言い伝えと、その滅ぼされた国の宗教のあかしとなるような、たとえば貴い鏡などを一緒に持ち込んだとか、ね。

  高齢で自然死したと思われる卑弥呼の後継者壹与の時代に何かがあり、女王国が徹底的に壊滅させられたとすれば、その国の中心はわたしが考えていた今の宇佐市ではなかったのかもしれない、と考えたりもします。

 大野佑司氏が『卑弥呼と邪馬壹国は消されていた』(小学館スクウェア、2004年)の中で書かれているように、邪馬壹国は大分市にあったのかもしれませんね。わたしがいるこの街に……。

 その著書によりますと、大分市では、弥生時代の後期に、九州の他の地方では見られない銅鏡の破壊やムラの消滅があったということです。

 確かに、大分市からはあまりにも何も発見されないことが、わたしの意識にはずっと引っかかっていました。そして、現在の宮崎県と思われる日向の地を出発した神武天皇の最初の上陸地点が、大分市を飛び越えた国東半島の宇佐であることに疑問があったのですね。

 でも、どういうわけか、わたしは、ここが邪馬壹国であったかもしれないなどとは思いつきもしませんでした。大分市については、これから、わたしも自分なりに調べてみたいと考えています。

  卑弥呼や宇佐神宮について書き出せばきりがありませんので、とりあえず、今日はここまでにしておきます。

P1040005  手を触れれば長寿が授かるという木に、わたしも触れてきました。

関連記事(カテゴリーにあります)
●Notes:卑弥呼⇒http://elder.tea-nifty.com/blog/notes_1/index.html

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2009年5月25日 (月)

黄色の旗指物

 初めて『魏志倭人伝』を読んだときに、その短いリポートの中で強い印象を受けた箇所は何箇所もあるが、その一つが、正始6年(245年)、魏帝より、詔書と黄幢(黄色の旗指物)が倭国にもたらされようとして帯方郡までは届いていたのに、帯方郡に起きた戦闘のために倭国までは届かず、正始8年になって、倭国と狗奴国との間の戦闘が激したさなか、ようやく、それが倭国にもたらされたという記述だった。その際には両国が和解するようにという檄文も下されている。

 わたしは、戦いの中で風に翻る鮮やかな黄色い旗指物を想像した。

 その後、宇佐八幡宮に興味を持ち出したときに、八幡という言葉が引っかかった。何かしら、思い出せないものがある感じだったが、それが何だったかわからなかった。

 それが今頃になって思い出せたのだ。そう、宇佐八幡宮の八幡はあの黄色の旗指物を連想させるのだった。

 以下は、以前宇佐神宮からもらってきた『宇佐神宮由緒記』からの引用である。

     ◎八幡大神の神威
 また、八幡(やはた)とは天降った八つの幡(はた)を祭つたという。これは、のぼり、旗(はた)、また幣帛、織物をもいうので、武神とか工芸神の神徳もあらわれたのである。〔略〕

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2009年3月26日 (木)

やまとのあやⅠ

以下の記事は、前記事『第2回口頭弁論雑感と瓢箪(原告側の書証)から駒』から、歴史関連の部分のみ、独立した記事にしたものです。
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 ひょんなことから、大庄屋だったというわたしの母方の祖母の旧姓がN・・・とわかりました。わたしはそんなことも知らなかったのです。伯母がわたしの名をつけてくれたのですが、祖母の名からとったと聞いていました。ああ祖母の旧姓から一字をとったのだと感動しました。

 珍しい姓で、わたしは初めて目にしました。

 母方の祖母の実家が大庄屋だったとすると、少なくとも農地改革までは、古代史によく出てくるあの辺りの土地も所有していたのではないかと思っていたのですが、ネット検索してみると、あの辺りにN…の名を入れたマンションの物件を紹介しているN…という不動産屋が出てきました。そのN…不動産はやはりあの辺りにありました。
 また、劉邦系の支族にN…があるとネットに出ていましたが、話が雄大すぎてとても本当とは思えず、引っ越しを明日にして忙しいだろうとは思いつつも、歴史に詳しい息子にそのことをメールしてみました。
 すると、以下のようなメールが帰ってきました。
私も〔その名字は〕はじめて聞いたな。ネットで調べると、大蔵氏の庶流に名が出る(大蔵氏で検索すると「日本の名字七千傑」にあたる)。このこと自体は私は確証がとれないけれど、大蔵氏は知っている。大蔵氏と言えば、いわゆる東漢(やまとのあや)で、渡来系であるのは確か。同じ大蔵姓では私が知る限り、秋月氏と原田氏が有名で、どちらも筑前の有力氏族。時代的には室町以降まで勢力があり(近代まで生き残る可能性が高い)、しかも地理的に近い。N…氏自体あまりない名字なので、この曾祖母の家が大蔵姓庶流N…氏であることにまず間違いないと思う。確かだと思う。
そういえば、日田氏も豊後大蔵氏と言うね。
 またこれで、何かしら点と点が……いやいや、急ぐのはやめましょう。でも、歴史に興味のあるわたしには、興味深い駒であったことに間違いありません。
2009年3月26日(木)

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