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2018年10月12日 (金)

落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-891c.html

……………

祐徳博物館で、改めて鎧を見ると、大きさが様々で、体形に合わせて作られていることがわかる。それからすると、萬子媛の夫である鍋島直朝と家督を継いだ直條(萬子媛の義理の息子)はいずれも小柄だったのではないだろうか。

萬子媛の肖像画の前に行った。微笑んでいられるように見えたことがあったけれど(その見えかたのほうがむしろ普通ではないだろう)、厳めしく見えた。

過去記事の繰り返しになるが、萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

寛文2年(1662)、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

寛文4年(1664)に文丸(あるいは文麿)を、寛文7年(1667)に藤五郎(式部朝清)を出産した。延宝元年(1673)、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

元服以前の10歳で亡くなった文丸(文麿)の死因は伝染病ではないか、とわたしは推測していた。というのも、郷土史家・迎氏からいただいたメールには、父・直朝と側室の間に文丸と同年に生まれた中将が同年、文丸に先立って亡くなっていると述べられていたからだ。

文麿と朝清の肖像画の前にも、改めて立った。そのとき、これまでは気づかなかった文麿に関する解説に目が留まった。

文麿公は痘瘡[とうそう]に罹り、長く病床にあったとあるではないか。これまでこの解説になぜ気づかなかったのだろう? ちなみに夫も気づかなかったといった。夫はわたしの整理不足の小説の第一稿を読み、気に入ってくれた一人で、それなりに興味を持って、見学していたのだった。

痘瘡とは天然痘のことだ。ウィキペディアより引用する。

<ここから引用>
天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。
(……)
大まかな症状と経過は次のとおりである。
・飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日の潜伏期間を経て発症する。
・40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
・発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
・7 - 9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
・2 - 3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
・治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。

<ここまで引用>
「天然痘」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年9月23日 23:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

長く病床にあったという文麿は幼い体で懸命に病魔と闘い、周囲に治癒の希望を抱かせた時期があったかもしれない。文麿は聡明な子供だったようだ。

文麿は花山院家から贈られた木の人形がとても好きで、朝夕手放さなかったという。病床でも、文麿はその人形を握り締めて苦痛に耐えていたのかもしれない。その人形は菅原道真の木像だったそうだ。

迎氏からいただいたメールには、文麿が亡くなる前年の寛文12年(1672)に船で上京し、花山公(文麿の祖父、萬子媛の父)に逢ったとある。帰りは参勤交代で帰国する父・直朝の船に同船した。

人形は、文麿が上京したときにおじいちゃんから贈られたものかもしれない。

花山院定好(文麿の祖父)の没年はウィキペディアに中将、文麿と同年の延宝元年(1673)とあるのだが、死因は書かれていない(「花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)。

文麿は、上京したときに天然痘に感染したのだろうか。それが中将にも感染した――と考えたくなるが、天然痘の潜伏期間は7~16日とされていて、花山院定好の亡くなったのが延宝元年7月4日(1673年8月15日)。潜伏期間の短さを考えると、文麿が前年上京したときにおじいちゃんから天然痘が感染した可能性はなさそうだ。

文麿の死が延宝元年の何月だったかはわからないが、もし花山院定好に先立って亡くなったのだとしたら、文麿の死の知らせがおじいちゃんの体にこたえたということはあったかもしれない。

いずれにせよ、一度に父と子供を亡くした萬子媛の気持ちは、如何ばかりであっただろう。

ところで、文麿に関する解説の下に、和歌の揮毫された色紙があり、年齢と名前が記されている。名前が萬子と読める気もしたがはっきりせず、また記された年齢が萬子媛の没年を超えていた。

祐徳博物館の女性職員のかたにお尋ねして、改めて二人で見た。やはり萬子媛の没年を職員のかたも指摘され、まぎらわしいが、萬子媛の揮毫ではないという結論に達した。

・‥…━━━☆

そのときに、以前からの疑問をお尋ねした。

萬子媛――という呼び名には、史料的な根拠があるのかどうかということだった。

というのも、郷土史家からいただいた資料にも、購入した本(『鹿島藩日記 第一巻』『鹿島藩日記 第二巻』『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』)にも、萬子という名は出てこないのだ。

わたしが見たものからは、俗性は藤氏、父は花山院前[さき]の左丞相(左大臣)定好公、母は鷹司前[さき]の関白信尚公の女[むすめ]、二歳にして前[さき]の准后清子[じゅんごうすがこ]内親王(後陽成天皇の第三女)の養女となって、結婚し、子供二人を亡くした後、尼となって祐徳院に住み、「瑞顔実麟大師」と号した女性が存在したことしか、わからなかった。

史料的な根拠はあるということで、一般公開されていないという史料の一つを博物館の職員のかたと見ていったが、そこには見つからなかった。もう閉館になってしまったのだが、鹿島市民図書館の学芸員がお詳しいということで、電話をかけてくださった。

前にも、萬子媛に関することでご教示くださったかたである。以下の過去記事を参照されたい。

2018年8月 4日 (土)
歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/36-d6f8.html

日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。

萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。

結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。

萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。

生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。

また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。

そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

明治以降、すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなって、氏(姓)と家名(苗字)の別、諱と通称の別が廃されたが、ざっと以下のようなものがある(沢山あって、全部は書ききれない、わからない)。

  • 同じ血統に属する一族を表す氏[うじ]。
  • 日本古代の諸氏(うじ)の家格を示す称号、姓[かばね]。
  • その家の名、名字(家名)。
  • 生存中は呼ぶことをはばかる、身分の高い人の実名、諱[いみな]。
  • 実名のほかにつける別名、字[あざな]。
  • 元服以前の名、幼名[ようめい]。
  • 出家後の諱、法諱[ほうき]。法名にほぼ同じ。
  • 受戒した僧に師が与える、あるいは僧が死者に与える名である法名・戒名・法号。
  • 人の死後にその人を尊んで贈る称号、諡[おくりな]。
  • 公的な身分や資格、地位などを表す称号、号[ごう]。学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名(雅号)も号[ごう]という。
  • 別につけた称号・呼び名、別号[べつごう]。

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2018年10月10日 (水)

シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書

10月5日に「アルベール・カミュのシモーヌ・ヴェイユに関する文章」というタイトルの記事をアップしましたが、ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録するに当たり、大幅に加筆を行いましたので、過去記事を削除し、前掲ブログにアップしたエッセー 86 「シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書」を転載します。

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シモーヌ・ヴェイユ(不詳)
出典:Wikimedia Commons

図書館から借りた『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に、アルベール・カミュがシモーヌ・ヴェイユに関して書いた短い文章が収録されていた。

アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)はフランス領アルジェリアの出身で、純文学小説『異邦人』、哲学的エッセー『シーシュポスの神話』で有名になったフランスの作家である。カミュは不条理という言葉を『シーシュポスの神話』で鮮烈に用い、その後、この言葉は実存主義の用語となった。不条理とは、人間存在の根源的曖昧さ、無意味さ、非論理性に由来する絶望的状況を意味する言葉とされる。

わたしの大学のころ――40年ほども昔の話になる――には、第二次大戦後にフランスからサルトルなどによって広まった実存主義はまだ流行っていた。

否、今でも哲学的主流はこのあたりに停滞していて、現代哲学は唯物論に依拠して局部的、細部的分析に終始しているのではないだろうか。

カミュは自分では実存主義者ではないとしているが、その思想傾向からすれば、実存主義者に分類されていいと思われる。

カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909 - 1943)はパリでユダヤ系の両親から生まれ、晩年、キリスト教的神秘主義思想を独自に深めていったが、しばしば実存主義哲学者に分類される。だが、そのシモーヌも、ジャン・ヴァールへの手紙で次のように書いて、実存主義に警戒心を抱いていたようである。シモーヌ・ペトルマン(田辺保訳)『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』(勁草書房、1978)より、引用する。

<ここから引用>
わたしは、《実存主義》的な思想の流れは、自分の知るかぎりにおいて、どうやらよくないものの側に属するように思えますことを、あなたに隠しておくことができません。それは、その名が何であれ、ノアが受け入れ、伝えてきた啓示とは異種の思想の側に、すなわち、力の側に属するように思われます。*1
<ここまで引用>

実存主義はマルクス主義の影響を受けた思想で、唯物論的であり、マルクス主義の流行とも相俟って一世を風靡した。しかし、一端、唯物論的袋小路へ入り込んでしまうと、自家中毒を起こし、下手をすれば阿片中毒者のような廃人になってしまう危険性さえある。

村上春樹のムーディ、曖昧模糊とした小説はこうした不条理哲学の子供――ただし、カミュの作品が持つ聡明さ、誠実さを欠いた子供といえる。戦後、日本はGHQによる洗脳工作(WGIP)や公職追放*2などもあって、唯物主義、物質主義が優勢となったのだった。

わたしが「カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ」と先に述べたのは、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『超自然的認識』(勁草書房、1976)の訳者あとがきで述べられている、次の文章を根拠としたものだった。

<ここから引用>
ガリマール社版のシモーヌ・ヴェイユの著作はほとんどすべて、本書と同じ「希望[エスポワール]」双書に収められているが、この双書はアルベール・カミュ(1913―60)によって創設された。第二次大戦下の英国において、34歳で死んだ、当時まったく無名だったといっていいシモーヌ・ヴェイユを、戦後のフランスの思想界に紹介した大きい功績は、当然第一にカミュに帰せられるべきであるが、本書の編集も(明記されてはいないが)、カミュであるとみなすことは充分に可能である。*3
<ここまで引用>

現在60歳のわたしが、『超自然的認識』によってシモーヌ・ヴェイユの思想に触れたのは大学時代だった。この本には「プロローグ」というタイトルで、シモーヌ・ヴェイユの有名な美しい断章が紹介されていた。『超自然的認識』の新装版がアマゾンに出ていたので、紹介しておく。

超自然的認識
シモーヌ・ヴェイユ (著), 田辺 保 (翻訳)
出版社: 勁草書房; 改装版 (2014/5/1)
ISBN-10: 4326154292
ISBN-13: 978-4326154296

『超自然的認識』を読んだときから、シモーヌの作品の邦訳版を読み漁り、またシモーヌとカミュとの接点を求めて、あれこれ読んだ。カミュがシモーヌを発見した人物であることを雄弁に物語っているような文章には、出合えなかった。

邦訳されていないだけだと思っていたのだが、『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に収録されたアルベール・カミュの文章、及び解説を読んで、シモーヌの母セルマの関与が浮かび上がってきた。

訳出されたカミュの文章は、竹内修一氏の解説によると、『NRF出版案内』1949年6月号に発表された「シモーヌ・ヴェイユ」と題された文章だという。

カミュがシモーヌの発見者であるにしては、その文章の内容からしてシモーヌを高く評価していることに間違いはないにせよ、短いというだけでなく、いささか精彩を欠くものであるようにわたしには思える。竹内氏は述べている。

<ここから引用>
1943年8月、ロンドン郊外のサナトリウムで死したとき一般の人々にはほとんど知られていなかったシモーヌ・ヴェイユが、戦後これほど有名になるためには、彼女が「生涯のあいだ頑なに拒否した「第一級の地位」を獲得するためには、みずからが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書から彼女の著作を次々に刊行したカミュの功績があったのである。*4
<ここまで引用>

ところが、この叢書が1946年3月に創刊されたとき、カミュはヴェイユのことをほとんど知らなかったばかりか、シモーヌの遺作の出版は全く予定されていなかったというのだ。

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シモーヌ・ヴェイユの歴史的・政治的著作の初版のカバー
出典:Wikimedia Commons

カミュの文章「シモーヌ・ヴェイユ」は本来なら〈希望〉叢書の9冊目の書物『根をもつこと』のための序文として書かれたものだった。それがヴェイユの遺産相続者――シモーヌの父母なのか、兄アンドレなのかは不明――の依頼によるものか、あるいは何らかのトラブルによって、この文章は別個に発表された。『根をもつこと』は序文も注釈もなしに出版されたのだそうだ。

1960年にカミュが自動車事故で死んだとき、〈希望〉叢書24作品のうちの7つの作品がシモーヌ・ヴェイユの著作だった。カミュの死後も2つのシモーヌの作品が出版された。

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シモーヌ・ヴェイユの署名
出典:Wikimedia Commons

竹内氏の解説中、ギー・バッセによれば、〈希望〉叢書から出版されるシモーヌの著作に無署名の「刊行者のノート」が付されたとすれば、それはカミュではなく、母セルマが作成したものだという。

シモーヌ・ヴェイユの兄アンドレ・ヴェイユの娘で、シモーヌの姪に当たるシルヴィ・ヴェイユ(1942 - )は自著(稲葉延子訳)『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』(春秋社、2011)の中で、シモーヌの死後、アンドレと両親との間にシモーヌの死や彼女の自筆原稿をめぐって亀裂が生じたと述べている。シモーヌの死後、ヴェイユ夫妻の残りの人生は娘の原稿を後世に残すための清書に費やされたそうだ。

シルヴィはその著書で、「父はこの分析が正しいのかどうかはわからないが、自分の母親がシモーヌの内に、母親がいなくてはならない状態をつくりあげ、それが原因でシモーヌは死んだと見做していた」*5と述べている。

また、エッセー 22 「グレイ著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ 』を読了後に」で採り上げたフランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイは、シモーヌの摂食障害――拒食症の傾向――に迫っている。

これはわたしの憶測にすぎないが、シモーヌ・ヴェイユの母セルマは、豊かな財力によってカミュが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書の9つの出版枠を買い取ったのではないだろうか。

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シモーヌ・ヴェイユの墓
出典:Wikimedia Commons

我が身に自ら拘束帯をつけたかのような、ストイックすぎる生きかたをしたシモーヌ・ヴェイユ。高純度の思想を書き残したシモーヌと母セルマを思うとき、一卵性親子と呼ばれた美空ひばり(加藤和枝)と母・加藤喜美枝を連想してしまう。

セルマには、シモーヌをプロデュースしたステージママのような一面があったように思う。シモーヌは哲学者となり、兄のアンドレは高名な数学者となった。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅰ・Ⅱ』『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ』『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』を読むと、セルマの並外れた母親ぶりに圧倒される。

わたしはエッセー 23 「ミクロス・ヴェトー(今村純子訳)『シモーヌ・ヴェイユの哲学―その形而上学的転回』から透けて見えるキリスト教ブランド」で、次のように書いた。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは、おそらく母親の偏愛――シモーヌ・ヴェイユが理想とする愛とはあまりにもかけ離れたものを含む現象――を感じ、その呪縛性を知りつつも、それをそっとしておき、恭順の意さえ示している。キリスト教に対する態度も同じだったように思える。

彼女はキリスト教というブランドを非難しつつも、それに屈し、媚びてさえいる。その恭順の姿勢ゆえに、シモーヌ・ヴェイユという優等生は西洋キリスト教社会では一種聖女扱いされてきたということがいえると思う。
<ここまで引用>

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-159)によると、セルマは演劇的な人物だった。シモーヌの死後は聖女の母という役を演じて能力を開花させ、修道女のような態でシモーヌの賞賛者である限られた数人の聖職者たちと亡き娘の部屋に籠っていたという。

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-176)はまた、17歳のセルマが母親ジェルトルード宛の手紙に「使用人と類する人たち」に対する嫌悪感を綴ったこと、その同じ人物が第一次大戦後ほどなくヴァカンスで過ごした豪奢なホテルのサロンにあるピアノで「革命家インターナショナル」を笑いながら自慢げに演奏し、組合主義者の教師となったシモーヌが右翼メディアに「赤い聖処女」と採り上げられたときには、その赤い聖処女の母という役回りに愉悦していたという事実が信じられないと語る。

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シモーヌ・ヴェイユと生徒(ル・ピュイ)
出典:Wikimedia Commons

完全主義者で所有欲が強く、演劇的で矛盾に満ち、絶え間なくシモーヌを見守った――ある意味で操ったとさえいえる――セルマは、どこか世俗キリスト教と重なる。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』の著者シモーヌ・ペトルマンは、ヴェイユの最も親密な友人の一人であったそうだが、「日本語版によせて」の最後に、次のように書いている。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは宗教問題に深い関心を寄せていましたが、それはキリスト教の限界を越えるものだったことを、もう一度思い出しておきたいと思います。特に彼女は、禅仏教に強い興味を示していました。フランスにおいて、禅なんてほとんどまったく知られずにいた時代のことでした。
*6
<ここまで引用>

その禅とは、鈴木大拙の著書を通したものだったと考えてよい。シモーヌ・ヴェイユは、ペトルマン宛の手紙で次のように書いている。

<ここから引用>
英語で書かれた、禅仏教に関する、哲学者鈴木テイタロー[大拙、仏教哲学者]の著書をおすすめします。とてもおもしろいわよ。*7
<ここまで引用>

エッセー 24 「ルネ・ゲノンからシモーヌ・ヴェイユがどんな影響を受けたかを調べる必要あり」で書いたように、鈴木大拙は神智学協会の会員だったから、シモーヌ・ヴェイユは大拙の著作を通して近代神智学思想に触れたといえるかもしれない。

しかし、その同じシモーヌ・ヴェイユがルネ・ゲノンという、極めて混乱した宗教観と貧弱な哲学しか持ち合わせないばかりか、近代神智学の母と謳われるブラヴァツキーの代表的著作すらろくに読んだ形跡がないにも拘わらず、神智学批判を行った――これは誹謗中傷というべきだろう――人物の著作の愛読者だったそうだから、わたしはあれほどまでに輝かしい知性の持主のシモーヌがなぜ……と、違和感を覚えずにはいられない。

それは、シルヴィが祖母セルマに感じたのと同じような、信じられない思いである。

…………………………

*1:ペトルマン,田辺訳,1978,p.370

*2:わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まった。20万人以上もの公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれる。

*3:ヴェイユ,田辺訳,1976,訳者あとがきpp.409-410

*4:『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行・鈴木宏、水声社、2017、p.49)

*5:シルヴィ、稲葉訳、2011、p.152

*6:ペトルマン,田辺訳,1978,日本語版によせてp.433

*7:ペトルマン,田辺訳,1978,p.323

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2018年10月 4日 (木)

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇

昨日、祐徳稲荷神社に出かけました。

そのときにまた貴重な取材ができ、二つの疑問がほぼ解けました。祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館の学芸員のかたには今回もお世話になりました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

萬子媛の死後、祐徳院がどうなったのかなど知りたいことは沢山残っているのですが、わたしが書こうとしている歴史小説にはもうこれ以上のリサーチは必要ないと思うので、とりあえずお試し期間(?)としてひと月、創作に集中する予定です。第二稿を書けるかどうかのお試し期間です。

写真は娘がスマホで撮りました。縮小以外の修正は加えずにアップします。

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祐徳博物館横の駐車場に車を止め、橋を渡りました。午後の2時を回ったくらいの時間でした。せせらぎに心が和みました。参拝客はそれなりにいましたが、娘はいないところをうまく撮ってくれています。

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なぜか、金色の鯉が夫に懐いて(?)、しきりに寄ってきました。夫が熱帯魚を飼っているからでしょうか。

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階段を上り、萬子媛のお社「石壁社」にも参拝しました。

ああでも、今回はどこもかしこも空っぽでした!  御神楽殿での御祈願の間も、そうでした。石壁社へ参拝した後はすっかり意気消沈して、泣きたいぐらいでした。

あのかたがたの気韻に溢れる気配を感じることができないと、こんなに空っぽに感じるんですね。勿論、これはわたしの感じかたにすぎません。

昨年参拝したときは、博物館を優先したために、萬子媛ご一行が一日のお勤めを終えて御帰りになるところが――もう雲の辺り――地上から何となくわかり、そのときに萬子媛の放たれた霊的な光が辺りを一変させて、わたしは天国にいるような高揚感を覚えました。そのときのことは、以下のエッセーに控えめに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材) : マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710
<ここから引用>
博物館の近くの駐車場に夫が車を止め、降りて本殿や石壁社のあるあたりに目を向けたとき、傾きかけた日が燦然と射して、あまりの美しさにしばらく見とれてしまった。
日を受けた樹々の緑の輝きがあまりに美しいので、「まるで天国みたいに綺麗ね、こんなに綺麗に見えるのは初めてよ」と娘にいうと、娘は怪訝な顔をした。
何て綺麗なんだろう、ずっとここにいたいと思ったほどだった。後で、もっと傾いた日を受けて、それでもまだ輝いている樹々の緑を見たときの平凡な印象とは、落差があった。あの美しさは、お帰りになる萬子媛のオーラの輝きが日の輝きに混じっていたからだとしか思えない。

<ここまで引用>

お勤めを放棄なさるはずはないので、まだ「夕焼け小焼け」が響き渡る時間以前に何も感じられないということは、わたしが感じられないというだけのことだったと想像するしかありません(尤も、感じられないという人が大多数でしょうけれど)。

なぜ? 母親を求める乳児のように、わたしは萬子媛の霊的存在を求めましたが、何も感じられませんでした。

家で早朝、娘に起こされてそちらを見ると(萬子媛についてまだわからないことを、明け方近くまでかかってまとめていて寝坊しました)、娘とわたしの間の空間に、金色に輝く大きな楕円形の光が見えました。2014年に見た短冊状の光とは形状が違いましたが、共通点が感じられたので、萬子媛のメッセージかしらと思いました。以下は2014年のときのことを書いたエッセーからの引用です。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年: マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/10/210502
<ここから引用>
しばらく熱中してふと顔を挙げると、目の前の空間に金色の短冊状のものが棚引くのが見えた。
これは肉眼には見えないもので、神智学でいう透視力が目覚めてきてからこうした類のものが次第に見えるようになった。いつからその透視力が目覚めてきたかといえば、大学時代から「枕許からのレポート」(エッセー34「枕許からのレポート」参照)を書いた頃にかけてだったように思う。
文通をしてくださった神智学の先生――先生は多くの人々と文通をなさっていた――がお亡くなりにあと、先生はあの世に行かれる前に透明になったお体で挨拶に来てくださったのだが、その後しばらくしてから空間に星のようにきらめく色つきの光の点を見るようになった。
空間はわたしには見えない世界からのメッセージボードのようなもので、それまでにもいろいろと見えることはあったが、ある種の規則性を持ったものが見えるようになったのはそれ以降だった。
それが何なのかはわからないが、先生からの、あるいは見えない世界からの助言ではないかと想像している。
金色の短冊はそれとは異なった。それを目にすると同時に「急いで」と優しくいわれたような気がした。萬子媛のお使いかな、と思った。

楕円形の光の意味はわかりませんでしたが(急いで、と今回もおっしゃったのでしょうか)、萬子媛は今回の御祈願のときも2016年のときのように臨在を感じさせてくださるに違いないと、自ずから期待が高まりました。

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日: マダムNの神秘主義的エッセー 
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355
<ここから引用>
御祈願していただいている間中ずっと、わたしは背後に、萬子媛を中心にして、生きているときは女性であったと思える方々が端然と立っていられるのをほのかに感じていた。すぐ後ろにいらっしゃるのが萬子媛だとなぜかわかった。
<ここまで引用>

夫の運転する車で佐賀へ向かっているとき、高速道路の両脇に植えられた木々が、葉の間から光がこぼれているだけの現象とはとても思えない、沢山の大粒のダイヤモンドのような実をつけているかのようにキラキラと輝いている非現実的な光景を助手席からうっとりと眺めていましたが、帰りの車の中で夫と娘に尋ねたところ、気づかなかったといいました。

あのような輝かしい木々を見て気づかないはずはないと思うので、あれは萬子媛が贈ってくださった光景だったのでしょう。でも、お会いできなかった……あえて、そうなさったのでしょうね。

御祈願のときに心の中で、わたしはまずは一年間見守っていただいたお礼を述べたあとで、わたしが萬子媛の小説を書くことはあまりにつつしみのないことではないかということを第一にお尋ねしたかったし、そのあとも沢山の質問を思い浮かべる予定でした。それに答えてくださるはずはありませんが、気配で伝わって来るものがあるだろうと計算していました。

神様にお目にかかるというのに、何て打算的だったのでしょう。実はその自覚はあったので、お目にかかれないかもしれないという虞れも一方ではありました。それが的中したのでした。

これまでのことがわたしの妄想でないことだけは、はっきりしました。あのような高貴な気配やオーラを、わたしが自分でつくり出す――想像する――など、とてもできない芸当だからです。尤も、それを他人に証明できないという点では同じですけれど。

もう萬子媛をモデルとした歴史小説は書けない気がしていました。祐徳博物館に行くのが何だかつらい気さえしました。でも、遠くてめったに来られないので、萬子媛の肖像画にお目にかかってから帰ろうと思いました。(2)へ

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2018年9月20日 (木)

勝本華蓮『尼さんはつらいよ』(新潮新書、2012)を読んで

図書館から『尼さんはつらいよ』という本を借りた。

尼さんはつらいよ (新潮新書)
勝本 華蓮 (著)
出版社: 新潮社 (2012/01)
ISBN-10: 4106104539
ISBN-13: 978-4106104534

尼僧の環境がどのようなものであるかを中心に、現代日本における仏教社会の裏事情が活写された、興味深くも脱力感に襲われるような内容だった。

著者は、在家出身で、広告関係の仕事で成功していたが、ある仏教者との出会いがきっかけとなって仏教にのめり込む。会社を畳んで比叡山に転居し、佛教大学と叡山学院に学んだ。三年後に、京都の天台宗青蓮院門跡で得度。佛教大学卒業後、尼寺に入り、そこで現実をつぶさに見、幻滅して尼寺を出た。その後、仏教研究者(専攻はパーリ仏教)の道を歩んで現在に至るようである。年齢はわたしと近く、著者(1995年大阪府生まれ)は三つ上になる。

パーリ仏教は上座仏教(上座部仏教)、南伝仏教ともいわれるようだが、昔は小乗仏教といった気がしてウィキペディア「上座部仏教」を閲覧すると、小乗仏教という呼称はパーリ仏教側の自称でないため、不適切であるということになったらしい。

本には、上座仏教圏のスリランカ、タイ、大乗仏教のチベット仏教の話や、尼僧の活動が目立つという台湾、香港の話も出てきた。そういえば、YouTubeで梵唄を検索したとき、台湾か香港からのアップと思われる仏教音楽の動画が沢山出てきて、驚かされたことがあった。

本の核心に触れると、日本の尼寺は絶滅の危機に瀕しているらしい。

尼寺における、あまりに俗っぽいエピソードの数々が紹介されている。全ての尼寺がそんな風ではないのだろうが、著者自身の体験が報告されているのだから、その一端が描かれていることは間違いない。

尼寺が絶滅の危機に瀕している原因を、著者は「なぜ尼寺に弟子が来ないか、来ても続かないか、その理由は、日本が豊かになったからである。生活や教育目的で寺を頼る必要がないのである。そういった福祉は、国家や公共団体が面倒をみてくれる」(42頁)といった表層的社会事情に帰している。

しかし、いくら物質的に豊かになったとしても(今の日本はもはやそうではなくなっているといえる)、人間が老病死を完全に克服しない限りは宗教は需要があるはずである。

歴史的原因を探れば、明治期の廃仏毀釈、第二次大戦後のGHQによる占領政策、フランクフルト学派によるマルクス主義の隠れた強い影響を見過ごすことはできない。これらによって、日本の仏教が壊滅的ダメージを被ったことは間違いないのだ。

本には、著者の神秘主義的能力の萌芽と思われる体験や、心霊現象といったほうがよいようなエピソードがいくつか挟み込まれていたが、こうしたことに関する知識は著者が身を置いた世界では全然得られないのだと思われて、この点でも何だか脱力感を覚えた。

江戸中期に亡くなった萬子媛のような筋金入りの尼僧は、今の日本では望むべくもないということか。

以下の過去記事で紹介した本では、まだ萬子媛の頃の名残が感じられたのだが……

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

あやめ艸日記―御寺御所大聖寺門跡花山院慈薫尼公
花山院 慈薫 (著), バーバラ ルーシュ (編集), 桂 美千代 (編集), ジャニーン バイチマン (翻訳), ベス ケーリ (翻訳)
出版社: 淡交社 (2009/1/30)
ISBN-10: 4473035697
ISBN-13: 978-4473035691

前掲記事で引用した編者バーバラ・ルーシュの文章を再度、引用してみたい。

<ここから引用>
このような経験を積み重ねてゆくにつれ、尼門跡寺院という制度があることがわかってきました。この制度は、日本の真なる文化財の一つともいえますが、十九世紀の廃仏毀釈令によってほとんど破壊されてしまいました。尼門跡寺院というのは、何かを抑えつけるところではなく、逆に解き放つところといえる存在であり、もしこのような場が存在しなかったら、日本のきわめて高い文化的教養をもった女性たちが幾世紀にもわたって活躍できなかっただろうと思われます。皇室由来の寺院におられた尼僧様たちが、和歌の古典的な形態をみがき上げ、『源氏物語』に関する文化、さらに茶道、華道、香道、年中行事などの保存にお勤めになられたのでございます。
<ここまで引用>

尼門跡とは皇女や貴族の息女が住職となる寺院で、随筆集『あやめ艸日記』の執筆者、花山院慈薫(臨済宗大聖寺二十七代門跡 1910 - 2006)は31代・花山院家正(1834 - 1840年)の娘。萬子媛は、21代・花山院定好の娘だった。

和歌には、拙神秘主義エッセーブログ「78 祐徳稲荷神社参詣記 ⑤扇面和歌から明らかになる宗教観」でみたように、日本人の宗教観が薫り高く織り込まれてきたのだ。

その貴い伝統を、左翼歌人の俵万智が壊した。

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2018年9月11日 (火)

鹿島藩日記第二巻ノート (7)祐徳院における尼僧達 その2

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

その1の続き。

「蘭契」という名が出てくるのは、宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記(『鹿島藩日記第二巻』416頁)である。

素人解読なので間違っているかもしれないが(※あまり参考にしないでくださいね。原文に当ってください)、大体次のようなことが書かれているのではないかと思う。

佐賀の御親類方より勝屋伊右衛門まで、祐徳院様の御中陰は何日より何日まで御執行でしょうかとの問い合わせがあり、こちらに言ってよこされた。それについて、外記より蘭契まで伺ったところ、御中陰というのはなく、御葬礼が行われたことで、儀式は済みました。(……)尼達と相談して申し上げますが、殊に山中ということもありますので、御名代などを送って寄越すには及びません、伊右衛門よりそのようにお口添え下さるのがよいでしょう、とのこと。

わたしの憶測でしかないが、蘭契という尼僧が萬子媛亡き後、代表者的、長的な役割を果たしたのではないだろうか。その代表者に、外記が問い合わせたと考えるのが自然だと思う。

その蘭契という人物が、祐徳博物館で伺った、萬子媛に仕えて岩本社に祀られたという尼僧かどうかはわからない。(以下のリンク先参照のこと)

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

萬子媛の葬礼は簡素だったようだが、五月十五日(1705年7月5日)の日記に書かれた三十五日についても、格峯(鍋島直孝、断橋)が恵達(慧達)、石柱を同行して祐徳院に一泊し、御霊供膳と皆に振る舞う料理を用意させているが、目立った儀式はなかった模様だ。

もし、萬子媛の葬礼のときの布施の記録に名のあった僧侶達の中で、蘭契からが祐徳院に属した尼僧達だとすれば、17 名(蘭契、満堂、蔵山、亮澤、大拙、瑞山、眠山、石林、観渓、英仲、梅点、旭山、仙倫、全貞、禅国、智覚、𫀈要)。萬子媛がいらっしゃったときは総勢 18 名だったことになる。

萬子媛が亡くなる前年までのことが書かれた、萬子媛の略伝といってよい『祐徳開山瑞顔大師行業記』には、萬子媛が尼十数輩を率いたとあるので、人数的には合う。

求道者らしいストイックな暮らしをなさっていたと想像できる祐徳院所属の尼僧達。五月十五日に料理を振る舞うことで、格峯は尼僧達をねぎらったのだろうか。

彼女達がその後どうなられたかが気になるところだ。

ところが、わたしは神秘主義者として知っている。江戸時代に亡くなった彼女達は、あの世で、萬子媛を長とするボランティア集団を形成し、中心的役割を果たしておられるのだ。

カルマに障らないような、高度なボランティアを手がけておられることが窺える。

萬子媛は太陽さながら、豊麗なオーラを放射されるのだが、その光が如何にすばらしいものであったとしても、そのやりかたはわたしが神秘主義者として竜王会、神智学協会ニッポン・ロッジで理論的に学び、また前世での男性僧侶としての修行や今生での独習から会得した技法と同じだと思う。

それは、この世でもあの世でも通じるやりかたなのだとわかった。誰もができるやりかたのはずだ。この世の出来事に囚われ、その技法を磨くことを怠ってきたけれど、このことが確信できただけでも、わたしにとっては大きな進歩だ。

萬子媛をモデルにした小説を完成できるかどうはわからないが、頑張ってみたい。

日記には元禄14年3月14日 (1701年4月21日)に起きた赤穂事件について記されているので、次のノートで採り上げたい。わたしの興味を惹いたのは、日記の解説にあった次の箇所である。

<ここから引用>
元禄十一年の『御在府日記』によると、鹿島藩江戸藩邸では、吉良上野介の希望によって、二三度にわたって有田焼の水差しや香爐などを送っている。(鹿島藩日記 第二巻』祐徳稲荷神社、昭和54年、「解説」2頁)
<ここまで引用>

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2018年9月 9日 (日)

盗用疑惑が持ち上がった芥川賞候補作「美しい顔」。東日本大震災のニュースで観た犬のその後。

芥川賞受賞作「送り火」の感想の続きが途中ですが、リンチシーンを再読したくなくて、まだ書いていません。萬子媛ノートの続きがあるのに。

芥川賞候補作となった北条裕子「美しい顔」には、選考前から盗用疑惑が持ち上がっていたと知り、呆れました。

別に新人賞を受賞した作品でないと、芥川賞候補になれないというわけではないのだから、もう一、二作書かせてみて、優れた作品が仕上がれば、芥川賞候補に選べばいいだけの話です。

芥川賞をとらせたくてたまらなかった事情があったとしか思えません、わたしには。

東日本大震災をモチーフとした作品のようですが、前の記事に書いた拙児童小説『すみれ色の帽子』に、東日本大震災のニュースで観た犬に登場して貰ったことを思い出しました。

『すみれ色の帽子』は日記体児童小説で、「(11)ポセイドンの気まぐれ」にその犬が登場します。

テレビのニュースで視聴したものであり、作品にもテレビで見たと書いているので、発信元を書く必要はないと思い、書いていません。ただ、その中にギリシア神話事典からの引用があるので、引用元を明記し、そのまま引用しています。

犬の話題に入る前に、一家でギリシア神話に出てくるポセイドンを話題にする場面があります。Kindle版だと頁を明記できないのが不便ですね。児童小説なのでルビを振っていますが、省略します。

<ここから引用>
 わたしは、地震と大津波が起きたときの様子を、テレビで見ました。
 波がまるで生き物のように、道路をかけのぼっていました。行く手をはばむいっさいを、なぎたおし、のみこみながら。
 画面がかわって、めちゃくちゃになった沿岸部がうつりました。がらくたのようになった家や塀や車にまじって、船がありました。船は海にいるのが自然なので、それは異様な光景でした。
 また画面がかわり、今度は、闇のなかに、まっ赤なほのおが見えました。このほのおも、あの波の仲間に思え、飢えた怪物のように見えました。何もかものみこもうとしているかのようで、ぞっとしました。
 火災は石油のコンビナートで起きたものだと、アナウンサーが説明しました。


 地震が発生したときのジグザグにゆれる地面が、何度も、何度も、うつります。
「ポセイドンだわ!」
 わたしがさけぶと、ママは、
「えっ?」
 といって、わたしを見ました。
 でも、パパはいいました。
「そうだ、ポセイドンだ。」
 そして、ずり落ちたメガネを指で押し上げると、だまってテレビを見つめていました。
 ママは、いいました。
「ポセイドンですって? あれはギリシア神話に出てくる神さまでしょう? ギリシアの神さまが日本に祟って、あんなことになったなんて、いわないでちょうだいね。」


 わたしはママの言葉にいらいらして、頭をふりました。すると、ポニーテールにした髪のたばが自分の頭をぶったわ。

 ママは、ギリシア神話をよくは知らないのでしょうね。よく知っていれば、ポセイドンが大震災におおいに関係があると、わかるはずです。
 いいえ、ママのように疑いぶかい人には、こういってやらなくてはならないわ。大震災におおいに関係のある何かを、古代のギリシア人はポセイドンとよんだのだ――と。
 昨年の一年間、わたしは壁新聞の係でした。その壁新聞で、ギリシア神話の神々を紹介したので、あのかたたちのことなら、よく知っているというわけなの。


 先生が、バーナード・エヴスリンという人の書いた『ギリシア神話小事典』②(※脚注)という本をかしてくださったので、わたしはその本のなかから、毎月、壁新聞を作るたびに、これは、と思った神さまをとりあげました。
 この日本という国は、海にかこまれていて、ポセイドンは海の神さまだもの、紹介しないわけにはいかないじゃない?
 本に書いてあったポセイドンのことが、テレビで震災のようすを見たときに、頭に浮かびました。

<ここまで引用>

その次の文章が引用になるのですが、Kindle版では引用とわかるように工夫し、脚注で「バーナード・エヴスリン著(ちょ)『現代教養文庫(げんだいきょうようぶんこ) 1000 ギリシア神話(しんわ)小(しょう)事典(じてん)』(小林稔(こばやしみのる)訳(やく)、社会思想社(しゃかいしそうしゃ)、1979年)」という風に引用元を明記しています。ルビを加えたので(ルビ引用者)と断っています。

物書きが、引用していながら、そう書くのを忘れることがあるのかなあと不思議に思います。引用であれば、カギカッコで括るなり、行を下げるなり、するはずです。

自分がギリシア神話を研究したり、翻訳したりしたわけではないのですから、自分がそうしたように装い、自分のものとして書くなんて、怖ろしいことはできません。

『ギリシア神話小事典』を参考にして自分の言葉で書いたのであれば、参考文献として挙げることになります。この二つを混同しますか? 

わたしがここであえて引用という方法を選んだのは前掲書に「ポセイドンはたいへん気まぐれな神で、かんしゃくと愛情、残酷と親切が同居していた」(『ギリシア神話小事典』248頁)という説明があったからで、ここに日記の書き手である少女・瞳なら強い印象を受けると思い、そのまま引用しようと考えたのでした。

東日本大震災のニュースで視聴した犬のことは、次の箇所で出てきます。

<ここから引用>
 ね、あれは、ポセイドンのしわざだったのだと思わざるをえないじゃない?

 そのあと、もう一度、ポセイドンを思い出させるニュースを見ました。
 漂流する住宅の屋根の上に犬がいるのを、海上保安庁のヘリコプターが見つけ、犬はぶじに助け出されたというのです。
 犬は、三週間も、こわれた住宅の屋根にのっかって、海の上をただよっていたことになるわね。
 犬は海をただよいながら、どんな空をながめていたのかしら? 夜は寒かったでしょうね。おなかもすいたことでしょう。もし、犬に文字が書けたとしたら、きっとロビンソンのように、漂流記を書くと思うわ。
 たぶん、ポセイドンの気まぐれだったのでしょうが、海の上をただよっている犬には、彼はやさしかったのでしょうね。


 犬は、三日後に、飼い主に再会することができました。
 飼い主の女の人は、大きな犬をあかんぼうをだくようにだいて、もう二度とはなれないというように、犬と一つとなっていました。
 そのようすを、おおぜいの人間がニュースをとおして見ていたわけですが、それは、だれしも見とれてしまうような、おかしがたい、うつくしい情景でした。

<ここまで引用>

もし、ニュース記事をまる写ししたのであれば、引用元を明記したでしょうけれど、ここでは必要ないでしょう。

「美しい顔」を全文読んだわけではありませんが(講談社が全文公開していたようですが、もう消えてしまっています)、感想を書いている人は沢山いて、引用もされているので、どのような作品であるかはだいたいわかりました。

それから推測すると、引用部分がごく一部書き変えられただけで、引用元の明記もなく、作品に挿入されているようです。何箇所も。

尤も、引用であれば、書き変えてはいけません。引用といわれないように、ごく一部を書き変えたのでしょうか。

過去記事で、拙小説『台風』から引用しましたが、あれがそのままどなたかの文章に挿入され、その作品が新人賞をとったり、芥川賞候補になったりしたとすれば、心穏やかではいられないでしょうね。泥棒、と叫びます。

書いている本人には、引用、参考、創作の区別が明確についているはずです。その区別もつかないような物書きの作品に、文学賞が授与されるなんて、あんまりですから。

でも、盗用が意図的な行為であれば悪質で、尚更、文学賞に値しないと考えるのが常識だと思うのですが、選考委員達は盗用など気にする必要がないかのように、引用と参考の区別を曖昧にし、作品を褒めちぎります。芥川賞は授与されなかったものの……腐敗しきった文学界。

一つ前の記事で書いたように、盗用は、「芸術の一分野としての純文学的動機からというのは考えられません。自分ならではの発見と独自の表現こそ、物書きが求めるものであることを思えば。目的は別のところにあるのでしょう」としか、同じ物書きとして想像できません。

ところで、わたしは東日本大震災のニュースで視聴した犬のこと、そして飼い主との美しい再会の場面を忘れたくなかったので作品に書いたのですが、今回改めて調べてみたら、あのとき助かった犬はその後、事故で死んでいたことがわかりました。ショックでした。

2015年11月2日のJ-CASTニュースの記事で知りました。⇒https://www.j-cast.com/2015/11/02249623.html?p=all

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2018年9月 7日 (金)

高橋弘希「送り火」の感想が中断しています。「虎ノ門ニュース」に安部総理が出演(9月3日収録)。

自然災害が続きますね。関西への台風に次いで、北海道での地震。

外国からの旅行者も多い中、そうした人々が空港で途方に暮れている様子がニュースで流れました。

安倍政権は成長戦略の一つに「観光立国」政策を掲げているのですから、こうした非常時に対応できる、外国人旅行者専用の窓口をすぐに立ち上げることができるような体制づくりが望まれます。

そういえば、ネットのDHCテレビの番組「虎ノ門ニュース」に安部総理が出演なさっていますね。9月3日の収録。⇒https://youtu.be/zE5_Xm6RN0w

印象操作なしの安倍総理の素顔を観ることができます。北方領土、拉致問題、アベノミクス、(懸念する人も多い)外国人労働者の受け入れ政策などについて、語っておられます。

安倍総理は政治家の家に生まれて、子供の頃から将来の職業として当然ながら政治家を意識していたそうですが、映画監督になりたいという思いもあったとか。

ゴルフで、トランプ大統領に勝つこともあるそうですよ。トランプ大統領はプロ並みの腕といいますから、安倍総理も見かけによらず(?)、ゴルフは相当にお上手だということですね。

トランプ大統領が各国首脳とゴルフをしまくっているという話は聞かないので、トランプ大統領にしてみれば、よいゴルフ仲間を見つけてラッキーという感じでしょうか。勿論、仕事の話を内密にできる機会づくりとしてのゴルフなのでしょうけれど。

ところで、第159回芥川賞(平成30年上半期)を受賞した高橋弘希「送り火」(『文藝春秋』(平成30年9月号))の感想の続きを書くつもりで、今日も書いていません。もう少し分析しておきたいので、再読しなければならないのですが、リンチのシーンを再読するのが億劫です。

日本人は生活が上向かない中で、自然災害も増えて、気持ちの沈むことも多いというのに、こうした作品が求められているとは思えません。リンチの起きる背景を純文学的手法で追究した作品であればまだわかるのですが、リンチという自覚も持てない作者が執拗に描写するリンチ――作者にいわせれば、遊び――の場面。

他に、第159回芥川賞の候補になった北条裕子「美しい顔」にパクリ疑惑があるということで、調べていました。講談社が全文公開していたようですが、もう消えてしまっています。

感想を書いている人は沢山いて、引用もされているので、どのような作品であるかはだいたいわかりました。

パクリが流行っているようですね。無意識的に、というのでなければ、芸術の一分野としての純文学的動機からというのは考えられません。自分ならではの発見と独自の表現こそ、物書きが求めるものであることを思えば。目的は別のところにあるのでしょう。

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2018年9月 3日 (月)

リンチを遊びとすり替える芥川賞受賞作家。それは犯罪者心理だ(作品「送り火」を文章から考察する)。

本日、赤字部分を加筆しました。2018年8月1日2時22分にアップした記事でした。次の記事でもう少し、作品を分析したいと考えています。

第159回芥川賞(平成30年上半期)を受賞した高橋弘希「送り火」(『文藝春秋』(平成30年9月号))の感想の続きです。

関連記事:
8月28日: 神事、そして文学に対する冒涜でしかない高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)
8月29日: 芥川賞受賞作「送り火」のちゃんとした感想を、次の記事で(青字部分、加筆)

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

選考委員によれば、作者は描写力があるそうだが、文章を見てみよう。冒頭。

<ここから引用>
欄干の向こうに、川沿いの電柱から電柱へと吊るされた提灯が見え、晃が語っていた習わしを思い出し、足を止めた。河へ火を流すというのは、例えば灯篭流しのようなものだろうか――、(322頁 ※「習わし」のルビの位置に「、、、」。引用者)
<ここまで引用>

文章が頭に入ってこない。冒頭がこれではわかりにくい。

わたしは提灯に火が入っているのだと思ってしまった。しかし、続く文章から、時間的に、提灯にはまだ火が入っていないと思われる。

冒頭の作者の文章が「河へ火を流すというのは」と続いているので、提灯には火が入っており、その提灯を舟に積んで河へ流すのだと勘違いしたのだった。

後のほうを読むと、そうではないようだ。その習わしというのは、急流の中を、集落の若衆が帆柱に火を灯した三艘の葦船を引いていくというものらしい。まぎらわしい書きかたである。

また、後のほうに、市街地の祭りとは別に河へ火を流す習わしがあり、提灯はその習わしの準備だと書かれている。提灯の色は茜色とある。

欄干の向こうに、提灯が見えた。茜色の提灯が、川沿いの電柱から電柱へと吊るされているのだ。晃が語っていた習わしを思い出した。河へ火を流すという習わしなのだが、それは灯篭流しのようなものだろうか。

ここで、提灯の茜色を出しておいてもいいのではないか。もし提灯に火が入っているとすると、提灯自体の色よりも明かりの色が目に映るものなので、提灯が茜色と書けば、昼間で、提灯には火が入っていないとわかる。

「足を止めた」は余計だと思う。「晃が語っていた習わし」と「足を止めた」の二方向に、読者の注意が分散されてしまうからだ。ここで重要なのは、前者のほうではないかと思うので、それのみを生かすほうがいいのではないだろうか。そうすれば、強調の「、、、」は必要ない。

もう一つ、先のほうに取り出しやすい文章があるので、見てみよう。

<ここから引用>
その簡素な祠には、赤い前掛けをした地蔵菩薩が祀られていた。夏蜜柑が二つ供えてある。五穀豊穣を願ったものだろうか――。(323頁)
<ここまで引用>

ここも説明的で、映像的に入ってこない。夏蜜柑がここでは鍵となる。

その簡素な祠には、地蔵菩薩が祀られていた。赤い前掛けをしている。お供えの夏蜜柑が二つ。

地蔵菩薩というと、わたしには子供の守り仏というイメージなのだが、五穀豊穣の願いが感じられるというのであれば、夏蜜柑を瑞々しく描けば、効果的だと思う。野菜を豊かに盛った籠を置いたなら、より「五穀豊穣」を願う場としての雰囲気が出る。

夏蜜柑といっても、どこにでもある夏蜜柑というものは本来ないのだ。どの夏蜜柑も、他の夏蜜柑とは違う。

地蔵菩薩の前に置かれた夏蜜柑が萎びていたなら、どこか哀しい。

実際には、地蔵菩薩の赤い前掛けが鮮やかだったり、色あせていたり、お顔もくっきりとしていたり、目鼻が消えかかっていたりで、一様ではない。容貌も様々だ。作者の描きかたでは一般的な地蔵菩薩の域を出ず、小説に出せる状態ではない。

地蔵菩薩が置かれているということだけを印象づけたければ、「その簡素な祠には、地蔵菩薩が祀られていた」だけでいいと思う。

作者の文章はわたしにはわかりにくく、描写力があるとは思えない。

弱者がリンチを受ける場面は生々しく、一見、描写力があると思わせられるが、即物的で、どこかで読んだような文章である。ここにしかない蜜柑を、作者はどこにでもある蜜柑のように描くが、それと同じ印象を受ける。

大衆週刊誌の事件簿、エンター系バイオレンス小説を連想させられる。否、実際のバイオレンス小説の描写はこれほどくどくない。案外あっさりしているので、夫の本棚にあっても気にならない。

「送り火」は、これでもかこれでもかといわんばかりである。リンチを受け続ける稔は、医学的に見れば、もう何回か死んでいるのではないだろうか。

明らかにリンチ殺人事件として報道されるような暴力沙汰であるのに、発表誌『文藝春秋』(平成30年9月号)の受賞インタビューで、高橋氏は次のように話している。

<ここから引用>
物語の最後に、‟サーカス”という遊びを描きました。‟サーカス”が乱暴な色合いの濃い遊びなので、彼は日常的にもう少しマイルドな遊びをやってただろうなと思って、四種類くらいの遊びを考えた。(略)ただ自分としては、殊更に子どもたちの凄惨さを書こうと考えたわけではないです。この年頃の男子ってけっこうバイオレンス好きだと思うんで、だから、物語の中の彼らも、普段から度胸試しというか、チキンレースのような遊びを日常的に行っているだろうと思って。(前掲誌320頁)
<ここまで引用>

「すると、稔は卒倒し、地べたに蹲った。白目を剥いて泡を噴き痙攣すると、低い鼾をかき始めた。ズボンの股当りが濡れて染みになっている。観客から次々に野次が飛ぶ。立ち上がらねぇぞ、演技ばしてら。汚ぇ、小便もらしてら。バケツだ、バケツの水ばかけろじゃ」(前掲誌376頁)

これがサーカスという遊びで遊ぶ「子どもの情景」というのだ。おぞましい血みどろの場面が長々と続く。

最終的に、稔は「バケモン」になる。「確かにその姿は人間には見えなかった。稔の肉の形をした人外にしか見えない」(掲誌376頁)

これを遊びと表現する高橋氏は、頭がどうかしているとしか思えない。作品がどうの、という以前の深刻な問題があるように思える。

作者は明らかに、暴力シーンを見せ場としている。誇示している。暴力を、リンチを賛美しているのだ。だから、作者にとってはどこにでもある田舎の神事を適当に持ってきて、場面を盛り上げることも厭わない。これが純文学小説であるはずがない。

リンチを遊びとすり替えるな。それは犯罪者の心理だ。

作者がリンチ――作者にいわせれば、遊び――という状況下に、主人公を執拗に追い込んでいることが小説をよく読めば、わかる。

ノンフィクション的に、そのような状況下に至った経緯を描いているのではない。作者が神――鬼神――となって、そのような宿命を主人公に押し付けているのだ。これが芸術の一分野である純文学の創作とは別物の、趣味、それも悪質な趣味でしかないとわたしが考えるのは、それが理由である。

祭りも、そうした主人公の運命操作に使われている。祭りをそのように使うとは、作者は地域の祭りに参加したことがないのだろうか。帰国子女か? 

高橋氏の前作は戦争文学だそうだが、その内容は「送り火」から推して知るべし。

芥川賞は、壊れた日本語で書かれた小説や、異常な人物の出てくる不快な小説を量産して、日本文学を、日本文化を破壊するつもりか? 

danger まとめるには、時間がかかりそうなので、後回しにするかもしれません。候文は難解ですが、『鹿島藩日記』が美しく見えます。そこに戻りたい。

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2018年8月29日 (水)

芥川賞受賞作「送り火」のちゃんとした感想を、次の記事で(青字部分、加筆)

前の記事で、第159回芥川賞(平成30年上半期)を受賞した「送り火」の感想を書いたが、乱暴な感想になってしまったので、次の記事か拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で、もう少し丁寧なものを書こうと思う。

なぜ、「送り火」を神事、文学に対する冒涜と考えたのかの説明もろくに行っていないし、神秘主義的考察が唐突に出てくる。

小説では、神事で使用される道具や用語がアイテムとして出てきてリンチが行われ、神秘主義的な知識なしでは考察できない領域に作者が無知な状態で安易に踏み込んでいたため、不快感と懸念から、つい説明もなしに書いてしまった。

1人の弱者が、6人からなる中学生男子集団(弱者と主人公を含む)とその上部組織とでもいっていいような何人かのヤクザな男達からなる集団から凄惨なリンチを受け、最終的にはその弱者が復讐鬼と化し、主人公にムカついていたといって襲いかかる。

「バケモンだ」「あだま狂ったじゃ」「神降ろしばしでしまっだ、彼岸様ァ、此岸さおいでになられた!」と、ヤクザな男達が恐怖に駆られて叫ぶ。

主人公は都会的で、幾分偽善的なところはあるが、それは誰にでもある長所、短所の域を出ない程度のものにすぎない。弱者へのリンチが加害者の身勝手な理由でなされたのと同様の身勝手さから、被害者であった弱者は加害者へと豹変して主人公を攻撃する。

彼らは餌食を探しているだけであって、相手がどうであろうと、どうでもいいのだ。草食動物を餌食にする肉食動物は、草食動物の個性に立腹して襲うわけではない。仕留めやすそうな草食動物を狙うだけだ。それは自然の営みの一環なのであるが、リンチする者達はこの自然、この地上の営みに属しない忌まわしい性格を帯びている。

「送り火」の文章を借りるなら、彼らはこのとき、神秘主義的にいえば、彼らが「バケモン」とも「彼岸様」とも呼ぶ、普通の人間の肉眼には見えない低級な別世界に属する者達に憑依されているのだ。

小説ではそれが、人間的知性と危機感を帯びて表現されているわけではない。作者の意識はむしろ忌まわしいあちら側にあって、むしろ楽しんでいる。

そのことが、良心的な読者に嫌悪感を惹き起こすのだ。選考委員の中では唯一、高樹のぶ子氏だけがそうだった。他の選考委員はリンチをゆとりをもって傍観している、あちら側に属する者達にわたしには見える。

発表誌『文藝春秋』(平成30年9月号)に掲載されている受賞者インタビューが、それを裏付けている。

インタビュアーは表現を和らげて「リンチにもつながりかねない危険な遊戯」といい、作者がそうしたものを「沢山創作なさっています」といっている。

リンチにもつながりかねない危険な遊戯どころか、警察に通報しなければならないような犯罪性のある、まぎれもないリンチであるのに、作者がそれを「遊び」というので、インタビュアーはそれに合わせているのだ。

書店勤務の娘に、作者がリンチを描いて楽しんでいるようにしか思えない、それによる社会的影響を考えているようには全く思えないと嘆くと、「そういうの、エンター系ではいっぱい出てるよ。例えば、山田悠介とか」といった。

「純文学なんて、ない」といって純文学排斥運動の行われた結果が、これだ。芥川賞は純文学作品ともエンター系作品ともいえない、バケモンを産出するようになってしまった。

娘のいう山田悠介は、登場人物の生命を賭け金代わりにする「死のゲーム」というジャンル(そんなジャンルが存在するとは!)の作家であるようだ。現実にも、死のゲームのような忌まわしい事件が起きている。以前、海外のニュースで見た記憶がある。

そう、あれは、ロシア発「青いクジラ」(2017年頃の発祥だという)という名のSNSを利用した、参加者を自殺に導く死のゲームだった。世界のあちこちで多くの犠牲者を出し、社会問題化した。

作家がそうした風潮を安易に作品づくりに利用しているのかもしれないが、ならばそれは純文学作品であろうと、エンター系作品であろうと、死の灰だ。

「送り火」で見られる単純なリンチといわゆる「死のゲーム」とでは性質の違いがあるが、生命を軽視しているというところに共通点がある。いずれにせよ、本物の純文学作家であれば、そうした風潮の解明にこそ、腕を揮うはずであるのに。

芥川賞は過去の業績から国内では権威ある文学賞であり、そのブランド性が信頼されて、読書感想文の課題に選ばれたり、翻訳されて海外に紹介されたりする。

まさか、日本の神事が「送り火」にあるようなものだとは海外の読者も思わないだろうが――そう信じたい。もはや芥川賞は弊害でしかない。

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2018年8月28日 (火)

神事、そして文学に対する冒涜でしかない高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)

ノーベル文学賞は終わった感があるが、『文藝春秋』(平成30年9月号)に発表された高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)を読んで、芥川賞もとうとうここまで冒涜的、おぞましいシロモノを日本社会に送り出すようになったか、と脱力感を覚える中で思った。

書きかけだった「鹿島藩日記第二巻ノート (6)祐徳院における尼僧達」の続きがまだだし、トルストイ『戦争と平和』に関するエッセーも「マダムNの神秘主義的エッセー」に連載中で時間がないのに、今日はこれを読まされた(絶賛されていたのだから、「読まされた」だ)。

高橋氏の文章は描写力があって素晴らしいそうだが、誉めすぎだ。描写力というほどの印象的な描写はなく、くどくどしく説明が重ねられているだけで、どちらかというと平板な文章である。

ただ、過去記事で書いたように、わたしは文学界に新星が現れたと確信したので、日本文学が終わったとは思っていない。この希望の光がなければ、不快感、絶望感で今日は何もできなかったかもしれない。

2018年5月12日 (土)
「三田文學」(第24回三田文学新人賞)から新星あらわる
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/05/24-98ca.html

選評の中では、高橋のぶ子「青春と暴力」だけがまともで、他の選考委員の選評は批評能力以前に常識を疑う。

高樹氏の選評のタイトルに青春とあるが、複数の中学生、そして後半は複数の大人が主体となるリンチ事件(殺人になったかどうかがストーリー上は不明)を長々と描いたものが、青春文学などであるはずがない。

しかも、このリンチ事件には神事を――ミサの倒錯であるかのような黒ミサに匹敵するおぞましさで――絡めてあるのだ。虚構なら、何を書いてもいいというわけではないだろう。

実際にも報道されることのある、凄惨なリンチ事件を神秘主義的に見れば、凶悪な低級霊の憑依事例といえそうであるが、話が文学から離れるので、これ以上は追究しない。

ただ、果たして「送り火」が文学といえるだけの資格を備えているかどうかといえば、微妙である。

高樹氏の選評に同感の部分を以下に引用したい(前掲誌309~310頁)。高樹氏が選考委員の中にいてくれたことは芥川賞にとって、わずかな救いだった。そうでなければ、芥川賞の名を辱めただけで終わっただろう。

<ここから引用>
けれど受賞作「送り火」の十五歳の少年は、ひたすら理不尽な暴力の被害者でしかない。この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によって、どんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせなくて、私は受賞に反対した。〔略〕文学が読者を不快にしても構わない。その必要が在るかないかだ。読み終わり、目をそむけながら、それで何? と呟いた。それで何? の答えが無ければ、この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる。
<ここまで引用>

懸念されるのは、あれだけの冒涜、暴力を描きながら(そこでは平板な文章が活気づいている)、受賞者インタビューに「暴力性と言われますけど、自分としては男の子たちが皆でお祭りでワイワイしている様子を描こうと思ったのが最初です」という自覚のなさだったことである。

村上春樹の創作姿勢にも、わたしは同様の疑問を覚えた。過去記事「村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅲ)」から以下に引用する。

<ここから引用>
 ネットで、『海辺のカフカ』について新潮社が作者の村上春樹にインタビューした記事を見つけた。そこで「この小説はいくつかの話がばらばらに始まって、それぞれに進んで、絡み合っていくわけですが、設計図みたいなものは最初からあったのですか?」という問いに答えて、彼は次のように答えている。
いや、そういうものは何もないんです。ただいくつかの話を同時的に書き始めて、それがそれぞれ勝手に進んでいくだけ。なんにも考えていない。最後がどうなるとか、いくつかの話がどう結びつくかということは、自分でもぜんぜんわかりません。物語的に言えば、先のことなんて予測もつかない。
 『ノルウェイの森』が『海辺のカフカ』と同じような書き方をされたかどうかはわからないが、わたしには同じご都合主義の臭いがする。『海辺のカフカ』を読みながら、本当にわたしが憔悴してしまうのは、死屍累々の光景が拡大され、即物的な描写が目を覆うばかりにリアルなものになっているからだ。以下は、そのごく一部分だ。
ジョニー・ウォーカーは目を細めて、猫の頭をしばらくのあいだ優しく撫でていた。そして人指し指の先を、猫のやわらかい腹の上で上下させた。それからメスを持ち、何の予告もなく、ためらいもなく、若い雄猫の腹を一直線に裂いた。それは一瞬の出来事だった。腹がぱっくりと縦に割れ、中から赤い色をした内臓がこぼれるように出てきた。猫は口を開けて悲鳴を上げようとしたが、声はほとんど出てこなかった。舌が痺れているのだろう。口もうまく開かないようだった。しかしその目は疑いの余地なく、激しい苦痛に歪んでいた。
このような息も詰まる残酷な場面が、何の設計図もなしに書かれ、無造作に出てくるというのだから驚く。作品が全体として現実とも幻覚ともつかない雰囲気に包まれており、主人公がまだ15歳の少年ということを考えると、作者の筆遣いの無軌道さには不審の念すら湧いてくる。

<ここまで引用>

神秘主義的に考えれば、作家が質〔たち〕の悪い低級霊に憑依され、そのような低級霊の影響下で書かれた作品が流行病のように広がることだって、ある。売れているからといって、有名な賞を受賞しているからといって、油断してはならない。娯楽や慰めのために読む本の影響を、わたしたちは学問的な読書のとき以上に受けると思うべきだ。

勿論、村上氏や高橋氏を霊媒作家というのではない。作家の姿勢次第で、読者は思わぬところへ導かれることがあるということを警告したいだけだ。

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