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2018年8月12日 (日)

「試着室」(金平糖企画新作公演、作・演出 時枝霙)を観劇して

インターネットでの拡散はOKのようなので、下手なレビューを書きます。ネタバレありなので、これから観劇なさるかたはご注意ください。

金平糖企画主宰、時枝霙さんを採り上げた記事がネット検索で出てきたので、リンクしておきます。

クローズアップ 2018  輝きの女たち
いつも行く美容院や飲食店を舞台に公演
演劇、朗読、写真、文章など多彩に表現
時枝 霙さん
金平糖企画主宰

http://www.josei-oita.jp/2018_7h.html

「医師と表現者の二足のわらじ。演劇、朗読、文章、写真など活動は多彩」と前掲記事にあり、驚かされます。

以下は、「金平糖企画」のツイッターです。

金平糖企画 @confettiplannin
舞台作品をつくったり、ライブをします。9/23.24熊本DENGEKI参戦。諫早独楽劇場シアターバー10月。

https://twitter.com/confettiplannin

8月8日、「試着室」(金平糖企画新作公演、作・演出 時枝霙)を観に行きました。

貸店舗での舞台と客席の境界を設けない上演で、全体に実験的要素が感じられる劇でした。

舞台はアパレルショップ。舞台装置は極めてシンプルで、境目のない舞台からドアに向かう空間が舞台の延長として活用され、能楽でいう橋掛りの役目を持っていました。

音響はレトロ調、近距離からの照明は迫力がありました。

店主役によって吊り下げられていくハンガーには折鶴がぶら下がり、床には折り紙が巻き散らされます。それらは服に見立てられているようでした。

登場人物は、アパレルショップの店主、アルバイトの女子学生(長身のスリムな男性が演じていました)、女性客、沈黙したまま片隅に蹲っている首にギブスをつけた怪我人。

台詞はしばしば詩のようで、客と店主が会話を交わすとき、客が失恋を独白するときなどに、学生がバックミュージックのように髪、爪、血液などの人体に関する自然科学的な台詞を詩の朗読のようにいう場面があり、不思議な雰囲気を創り出していました。

客が学生と一緒に駆け回りながら、床にまき散らされた折り紙を掴んではまき散らす場面は圧巻で、絶望感に囚われた女性に合う服はどうしても見つかりません。

ストーリーらしいストーリー、結末らしい結末はなく、別の客がアパレルショップへやってきて(片隅に蹲っていた怪我人との二役。演じていたのは時枝さん)、店主と新しい客が、前の客と全く同じ会話を交わすところで、存在しない幕が下りました。

アパレルショップは、エンドレスに循環する宇宙的な営みをシンボライズしているようでもありました。

娘の友人の演技には磨きがかかっていました。アパレルショップへの訪問者(客)を過去のトラウマから自分探しの旅(?)へと誘う店主の役を、品よくこなしていました。

この品のよさこそが、劇中で日常と非日常を違和感なく一体化させていた重要な要素に思えました。

「試着室」からはよい意味でのアマチュアリズムというべきか、ひじょうにナイーヴな芸術性というべきか、純粋志向が感じられ、いささか古い用語を用いるならば、「不条理」なテーマへの純粋すぎるくらいのアプローチが印象的でした。

不条理という言葉は、今の若い人々には馴染みのない言葉かもしれませんが、アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)の哲学的エッセー「シーシュポスの神話」で有名になった実存主義の用語で、人間存在の根源的曖昧さ、無意味さ、非論理性に由来する絶望的状況を意味する言葉です。

ここからは蛇足になりますが、わたしの大学のころ――40年ほども昔の話になります――には、第二次大戦後にフランスからサルトルなどによって広まった実存主義はまだ流行っていました。否今でも哲学的主流はこのあたりに停滞していて、現代哲学は唯物論に依拠して局部的、細部的分析に終始しているように思えます。

ちなみに、カミュは自分では実存主義者ではないとしていますが、その思想傾向からすれば、実存主義者に分類されていいと思われます。

カミュに発見された女性哲学者シモーヌ・ヴェイユは晩年、キリスト教的神秘主義思想を独自に深めていきますが、しばしば実存主義哲学者に分類されます。

実存主義はマルクス主義の影響を受けた思想で、唯物論的であり、マルクス主義の流行とも相俟って一世を風靡したのでした。

しかし、一端、唯物論的袋小路へ入り込んでしまうと、自家中毒を起こし、下手をすれば阿片中毒者のような廃人になってしまう危険性さえあります。村上春樹のムーディ、曖昧模糊とした小説はこうした不条理哲学の子供、ただしカミュの作品が持つ聡明さ、誠実さを欠いた子供といえます。

戦後、日本人はGHQによる洗脳工作(WGIP)や公職追放(注)などもあって、唯物主義、物質主義が優勢となりました。こうしたことに起因する現代日本の問題点が演劇という形式で真摯に表現されているという点で――それが意図されたわけではなかったのかもしれませんが――、「試着室」は興味深い作品でした。

(注)
わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まりました。20万人以上もの公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれます。

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2018年7月25日 (水)

余華の対談(「三田文學」2018年冬季号)。拙児童小説『すみれ色の帽子』を読んだ従姉の感想。

従姉から電話があった数日後、わたしはアマゾンのサービスで電子書籍にしたKindle版の児童小説をプリントアウトして送りました(以下の過去記事参照)。

2018年7月 5日 (木)
悪質な自費出版系ビジネスと、餌食になりかけた従姉の児童書に対する失望感
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/07/post-9c6e.html

PDF形式でプリントアウトしたら、分厚くなりました。なぜ、そんなものを送ったかというと、従姉が失望してしまった児童書がどんなものであったのか詳細は聞いていませんが、想像がつきました。そうしたものと同類の作品を書いていると思われたくなかったからです。

そんなわたしの作品には賛否両論寄せられます。自分では同類とは思っていないのですが、従姉は同類と思うかもしれませんでした。

同類だとしたら、世間的にはわたしはプロ作家並みの児童小説を書いているということになるでしょう。従姉が誉めてくれるとすれば、わたしは世には出られない自身の境遇を納得することになるのです。

昔からわたしの作品に関心を示してくれる唯一の人が、この従姉でした。従姉はわたし宛の葉書に次のように書いてきました。

‟すみれ色の帽子”一気に読みました。瞳ちゃんとK…ちゃん(※瞳は主人公。K…ちゃんは従姉の孫娘)がオーバーラップして、Nちゃん(※わたしのこと)、K…ちゃんのことしっているのかなと思う位! 文章が綺麗で、読んだ後、心の中が澄み切ったようでした。他の本も楽しみです。

作品が従姉に嫌われなくてよかった、とホッとしました。出版の件は後日報告とあったので、従姉の息子さんと知人の女性で制作された絵本は出版の運びとなるのかもしれません。良心的な出版社から出してほしいものです。

出版する場合、数社に見積もりを出して貰い、比較して決めることを電話では従姉にすすめました。文学仲間はそうしています。

自費出版は髙い買い物になるので、最低5年くらいは試行錯誤を重ねてよいものへと作品を高めていき、それから出版しても遅くないような気がしますが、思い立ったが吉日ともいいますから、外野からあれこれ干渉すべきことではないと考えます。

わたしもそろそろ紙の本を出したいけれど、一生出すことはないままに終わるでしょうね。幸い只で出せる電子書籍サービスがありますし、何より神秘主義者ですので、世に知られることがないままに終わったとしても、創作を通して、きよらかな、澄んだ思いを発散させることだけでも、意義のあることだと知っています。

神秘主義者としてもう一つわかっていることは、文学、つまり芸術は、宗教的修行と同じ求道の道だということです。

その道を歩きながら神秘主義的ないくらかの霊的能力はわたしに目覚めてきたものであって、それは決して霊媒的な低級能力、先祖返りの能力ではないと感じています。その道をしっかり歩いている限りにおいては、安全性の高い道であると確信します。

ただ、霊媒的な低級能力、いわゆる左手の道へと逸れてしまう危険性は宗教的修行の場合と同じく芸術活動にもあって――否、普通に生きているつもりの人々にもその危険性は人間である限りつき纏うものでしょうが――、その危険性をわたしが現実のものとして感じたのは賞狙いに没頭していたときでした。

それについては、統合失調症を患う天才型詩人を友人の目で描いた拙日記体小説『詩人の死』(Kindle版)に書きました。

 神秘主義ではよく知られていることだが、霊的に敏感になると、他の生きものの内面的な声(思い)をキャッチしてしまうことがある。人間や動物に限定されたものではない。時には、妖精、妖怪、眷族などという名で呼ばれてきたような、肉眼では見えない生きものの思いも。精神状態が澄明であれば、その発信元の正体が正しくわかるし、自我をコントロールする能力が備わっていれば、不必要なものは感じずに済む。
 普段は、自然にコントロールできているわたしでも、文学賞の応募作品のことで頭がいっぱいになっていたときに、恐ろしいというか、愚かしい体験をしたことがあった。賞に対する期待で狂わんばかりになったわたしは雑念でいっぱいになり、自分で自分の雑念をキャッチするようになってしまったのだった。
 普段であれば、自分の内面の声(思い)と、外部からやってくる声(思い)を混同することはない。例えば、わたしの作品を読んで何か感じてくれている人がいる場合、その思いが強ければ(あるいはわたしと波長が合いやすければ)、どれほど距離を隔てていようが、その声は映像に似た雰囲気を伴って瞬時にわたしの元に届く。わたしはハッとするが、参考程度に留めておく。ところが、雑念でいっぱいになると、わたしは雑念でできた繭に籠もったような状態になり、その繭が外部の声をキャッチするのを妨げる。それどころか、自身の内面の声を、外部からやってきた声と勘違いするようになるのだ。
 賞というものは、世に出る可能性への期待を高めてくれる魅力的な存在である。それだけに、心構えが甘ければ、それは擬似ギャンブルとなり、人を気違いに似た存在にしてしまう危険性を秘めていると思う。
 酔っぱらうことや恋愛も、同様の高度な雑念状態を作り出すという点で、いささか危険なシロモノだと思われる。恋愛は高尚な性質を伴うこともあるから、だめとはいえないものだろうけれど。アルコールは、大方の神秘主義文献では禁じられている。
 わたしは専門家ではないから、統合失調症について、詳しいことはわからない。が、神秘主義的観点から推測できることもある。
 賞への期待で狂わんばかりになったときのわたしと、妄想でいっぱいになり、現実と妄想の区別がつかなくなったときの詔子さんは、構造的に似ている。そんなときの彼女は妄想という繭に籠もっている状態にあり、外部からの働きかけが届かなくなっている。彼女は自らの妄想を通して全てを見る。そうなると、妄想は雪だるま式に膨れ上がって、混乱が混乱を呼び、悪循環を作り上げてしまうのだ。
*

*直塚万季『詩人の死』Kindle版、2013年、ASIN: B00C9F6KZI

ところで、わたしは今年還暦という年齢になりましたが、二十代で竜王文庫の書物を通してブラヴァツキーの近代神智学を知りました。

創作を通してハートの力を育み、不勉強な一会員ですけれど、竜王会、神智学協会ニッポンロッジから出ている機関誌や書物を読むことによって総合力、分析力を培おうと自分なりに努力を続けてきました。

そうした道の歩みの中で、いわば霊的な次元で何かを察知することは珍しくありませんが、江戸初期に生まれ、江戸中期にさしかかるころに黄檗宗の僧侶として亡くなった――祐徳院と生前から慕われ続けてきた――萬子媛のようなかたに巡り合うことができたのは、めったにない貴重な体験であると思っています。

萬子媛について知ろうとすることは日本の宗教史を深く覗き見ることでもありました。萬子媛は日本の宗教史に咲いた一輪の香り高い花であるとわたしは見ています。

萬子媛をモデルとした小説の第二稿に入りましたが、計画が思うように進まず、おのれの非力を感じざるをえません。それでも、時間はかかってもこれは自分がやり遂げるしかない仕事だと思い、今後、集中度を高めていきたいと考えています。

萬子媛が帰依した黄檗宗(禅宗の一派)は、日本に招請された明朝の禅僧、隠元隆琦によって開かれました。隠元は明朝の文化、文物を伝え、煎茶道の開祖ともされています。

古来、この例からもわかるように、わが国には中国から優れた文化、文物が伝えられてきました。しかし、現在の中国をメディアを通して見るとき、これはどうしたことだろうとわたしは絶望的な気持ちに囚われます。

でも、動画で法輪功の舞台を視聴したとき、中国本来の――といういいかたは語弊があるかもしれませんが――歴史が甦るような感動を覚えました。

2015年6月11日 (木)
失われたと思っていた中国五千年の芳香 ①弾圧される人々
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/06/post-c356.html

また、現代の中国人作家、余華の対談を「三田文學(第97巻 第132号 冬季号)」(関根謙編集、2018年2月)で読み、日本の純文学が衰退しているこのときに、中国に生まれて育った中国人作家、それでいながら中共色に染まっていない余華という人物が作家らしさを好ましく発散していることに驚きを覚えました。中国における文学状況がどのように推移したかもわかる、貴重な対談となっています。

恥ずかしながら、中共のいわゆる御用作家ではない余華のような中国の現代作家をわたしは知りませんでした。対談の中で印象的だった余華の言葉を引用します。

<ここから引用>
かつて日本の記者に、川端康成が私の一人目の先生だと言ったら、彼らは大いに驚きました。私の小説と川端康成のそれとの違いが大き過ぎると言うのです。確かにそうですよね。そのとき彼らに比喩の話をしました。一人の作家が別の作家に影響を与えるのは、日光が樹木に影響を与えるようなものです。樹木は日光の影響を受けて成長するとき、樹木のスタイルで成長します。日光のスタイルで成長するわけではありません。(306頁)
<ここまで引用>

図書館から余華のエッセー集と小説、そして台湾の現代作家である甘耀明の小説を借りました。読まなければならない本が沢山あるので、読む時間がとれるかどうかはわかりませんが、読んだら感想を書きたいと思っています。

ほんとうの中国の話をしよう
余 華 (著), 飯塚 容 (翻訳)
出版社: 河出書房新社 (2012/10/13)
言語: 日本語
ISBN-10: 4309206077
ISBN-13: 978-4309206073

中国では書けない中国の話
余華 (著), 飯塚容 (翻訳)
出版社: 河出書房新社 (2017/8/22)
ISBN-10: 4309207324
ISBN-13: 978-4309207322

活きる
余 華 (著, 原著), 飯塚 容 (翻訳)
出版社: 角川書店 (2002/03)
ISBN-10: 4047914118
ISBN-13: 978-4047914117

神秘列車 (エクス・リブリス)
甘耀明 (著), 白水 紀子 (翻訳)
出版社: 白水社 (2015/6/24)
ISBN-10: 4560090408
ISBN-13: 978-4560090404

鬼殺し(上) (エクス・リブリス)
甘耀明 (著), 白水 紀子 (翻訳)
出版社: 白水社 (2016/12/28)
ISBN-10: 4560090483
ISBN-13: 978-4560090480

鬼殺し(下) (エクス・リブリス)
甘耀明 (著), 白水 紀子 (翻訳)
出版社: 白水社 (2016/12/28)
ISBN-10: 4560090491
ISBN-13: 978-4560090497

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2018年7月11日 (水)

椿山滋「今夜は鍋にしましょうよ」(民主文学 2018年8月号)を読んで

一昨日の記事で書いたことですが、椿山滋さんが『民主文学 2018年8月号』(日本民主主義文学会、2018年8月)を送ってくださいました。

本格的なプロレタリア系文芸同人誌で、神秘主義者のわたしが不用意に読んでいいのだろうかと思ってしまいましたが、文学作品はどこに発表されていようと、文学作品として読み、感想があれば書く、というスタンスですので、拝読しました。

前掲誌「支部誌・同人誌評」の冒頭で評者が「『民主文学』本誌に掲載されるのは民主文学的作品(この定義自体が曖昧なのだが)に限定されるという誤解があるが、掲載されるかどうかはジャンルではなく、社会と人間の真実にせまる、その作品の芸術的評価による」(136頁)という第25回全国研究集会での話を伝えておられ、このスタンスには共鳴するところです。

椿山さんの作品は「今夜は鍋にしましょうよ」です。以下に、掲載小説四篇の感想を掲載順に記します。連載小説については、のぞかせていただきました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

今後千寿子「柿」

小説では、アル中問題、農業の衰退、過疎、老人問題などが複合的に重なっている。それぞれの問題は関連し合っているようでもあり、そうでないようでもある。

例えば、農業の衰退によって過疎化が進み、老人問題を深刻化させることはあっても、アル中問題はまた別のところにある気がする。

これは私事になるが、政府の減反政策で米作りが振るわなくなり、家業を農業から肥育農家に転じた親戚があった。

儲かったそうだが、肥育農家が家風に合わなかったようで、伯父は牛供養に力を入れ、伯母は牛を市場に送り出すたびに泣いていた。牛市場の競争が激化する中、息子は公務員に、伯父夫婦は高齢となり、肥育農家を廃業した。

牛市場の競争の激化は、1991年(平成3年)4月の牛肉・オレンジの輸入自由化によるものだった。牛肉・オレンジの輸入自由化はアメリカの要求によるものであり、その原因を遡れば日本の敗戦にまで行き着いてしまう。

「柿」はリアリズムの手法で描かれていながら、歴史的な背景が欠落しており、読んでいて物足りなさを感じる。

青木資二「スタンダード」

安倍政権になってから道徳の教科書、授業に偏りが出てきたことを憂う、元小学校教員――退職して7年経過――が主人公。小学一年生になる孫が夢遊病(?)となり、そのことと学校教育が関係あるような、ないようなストーリー展開となっている。

35頁に「戦争法」と出てくる。ウィキペディア「戦時国際法」に「戦時国際法(せんじこくさいほう、英:Law of War)は、戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき義務を明文化した国際法であり、狭義には交戦法規を指す。戦争法、戦時法とも言う」(ウィキペディアの執筆者. “戦時国際法”. ウィキペディア日本語版. 2018-04-14. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%88%A6%E6%99%82%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B3%95&oldid=68198605, (参照 2018-04-14).)とあるが、「平和安全法制」に批判的な人々は、それを戦争法と呼ぶようだから、小説の安倍政権に批判的な内容からすると、後者の意味だろう。

ただ、平和安全法制に肯定的な人々は同じ法律を戦争防止法と解釈しているわけで、小説は論文ではないが、もう少し中立的な視点も必要ではないかという気がする。尤も、授業参観後の懇談会を描き、様々な意見を紹介することで、バランスがとられているのかもしれない。

教育勅語も出てくる。教育勅語の内容を、わたしは安倍総理に絡んでそれが話題となるまで、全く知らなかった。知らない人のほうが多いのではないかと思う。

「教育勅語」「大東亜戦争 開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」「玉音放送」を歴史資料集にでも載せるべきではないか。

日本人として子どもたちには――当然大人にも――大日本帝国の教育方針がどのようなものであったのか、また大日本帝国が日本となるに至る決定的な瞬間に著された二つの文書の内容を知る権利があるのではないかと思う。

これらを知った上で、大日本帝国に暮らしていたわたしたちの祖先の生き方をどう思うかは、思想統制されていないはずの今の日本に生きる人間として自由であるはずだ。

戦前の教育への回帰を危機感と捉える人物を主人公とするのであれば、そうは捉えない人々にも説得力を持つだけのストーリー展開と描写力が要求されるだろう。子どもの夢遊病と担任教師の道徳教育に対する逡巡だけでは、弱い気がする。

ところで、小説では子ども――主人公の孫――の夜中の異常行動が夢遊病(睡眠時遊行症)とは書かれていない。

わたしが夢遊病ではないかと思ったのは、自身の体験からそう思っただけのことである。小説の中の子どものように、それが起きたと聞かされたのは小学校一年生のときで、2回だったか3回だったか忘れてしまったが、それくらいの回数で治まった。

わたしは極度に過敏な子どもだった。その原因としては、両親の都合で子守さんの手を転々としたり、親戚に預けられたりして、常に興奮状態にあったためではないかと思う。

子守さんが不要となり、一人きりの静かな時間が持てるようになって、児童文学全集を次々に読むようになってからは精神的に安定した。文学様様なのだ。文学こそがわたしの真の母といえるくらいである。

「明治神宮」のオフィシャルサイトより、教育勅語の口語文訳を転写しておく。
http://meijijingu.or.jp/about/3-4.html
<ここから引用>
【教育勅語の口語文訳】
 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

~国民道徳協会訳文による~
<ここまで引用>

サイト「日本に生まれた若い人たちへ」で、「大東亜戦争 開戦の詔勅  (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」「玉音放送」が紹介されている。わたしはこのようなものであったのかとの感慨を覚えた。受ける印象は人それぞれだろう。

椿山滋「今夜は鍋にしましょうよ」

若年性アルツハイマー型認知症と診断された女性が主人公。病気に怯える主人公の日常生活が主人公の意識に沿って描かれ、「恋待ち商店街」の人々との温かみのある親交がホームドラマのような趣で描かれる。

完成された文体と工夫されたストーリー展開に手練れと感じさせられるが、何作も読むと、パターン化されているようで、ちょっと飽きがくる。登場人物は、あえてそう造形されているのか、個性がない。特に、一緒に暮らしている夫や電話をかけてくる娘は平板な描き方で、遠景のようだ。

主人公の症状にしても、若年性アルツハイマー型認知症とはこのようなものだろうという、一通りの情報をもとに描かれているように感じられてしまうのだ(実際にはどうであれ)。医者の言葉なり、医学書の解説なりを使った、専門的な知識が読者にもたらされれば、主人公の症状が説得力を帯びてくるかもしれない。

小説の終わりの方で、「生きているかぎり、人間に賞味期限などあってはならないのだ」という主人公の胸のうちの言葉が出てくる。施設に入れられることを恐れる主人公にとって、賞味期限の切れた人間の送られるところが施設というイメージなのだろうか。

より突っ込んだ読み方をすれば、商店街でのぬるま湯のような親交、雑事の積み重ねであるにすぎない日常生活は賽の河原での石積みのようであり、人間は運命に翻弄されるだけの存在と印象づけられる。

椿山さんの小説には救いがない。登場人物がありきたりで魅力に乏しいことが、その救いのなさを助長する。その救いのなさこそがおそらくは作者の思想で、危険性を孕む微温的な日常生活を描き続ける椿山さんの作品には、哲学的ペシミズムが通奏低音として流れている。

増田竹雄「二年目の春」

印象的な作品だった。プロレタリア文学というジャンルを思い出させてくれる小説で、1965年ごろの国鉄を時代背景として、そこを職場とする一プロレタリアの生き方(活動)を克明に描こうとする一途さが感じられる。

冒頭の投身事故が衝撃的である。後始末をする主人公の様子が淡々と描かれる。

主人公の野原進は国労内の反主流派で、統一戦線を掲げ政党支持自由を方針にしている1947年発足の「革同会議」の有志グループに所属していた。しかし、野原は職場の同期だった共産党員――斎藤の頼みを受け入れ、1964年四・一七スト中止のビラを撒く。その目的は、親米的な組合幹部がアメリカ帝国主義の企む挑発ストに乗るのを阻止することだった。

国労本部の方針に反した野原の行動は問題となるが、彼の教宣活動を好意的に捉える組合員が増え始めており、彼ら120人が所属する大分会の組合員が野原を統制処分から守ってくれる。

こうした事件がきっかけとなり、斎藤の勧めもあって、野原は共産党に入党し、三人でつくる「細胞」の一人として活動を始める。1965年の春闘四・三〇ストの成功がクライマックスだろう。

ストが進行するなかで、管理の隙をかい潜るように、動力車労働組合に巣食う革マル派集団がバケツに白ペンキと刷毛を手にして旅客車両に「国鉄解体・国鉄粉砕・動労革マル」と殴り書きする姿が読者の目にも異様に映る。管理者は彼らの動向を野放しで泳がせているようだ。

国鉄ストがどのように行われていたかが克明に描かれており、歴史的、史料的価値のある作品といえるのではないだろうか。

野原の活動は、輸送の安全と労働者の生活の改善だけを純粋に目的としたものではなく、マルクス理論の実践という側面を持つ。

マルクス主義は絶対的なものという前提がこの小説にはあるようだが、一般読者の一人として、そこに疑問を持つのである。マルクス主義が絶対的なものとして語られるには、小説として、マルクス主義がどのようなものであるかの丁寧な説明が必要だ。

小説が背景とする時代から時が流れた現代では、最も帝国主義的な国家はアメリカより中国であるようにわたしなどの感覚では思われるのだが、小説の主人公野原は現在どのような活動をしているのだろう。続編を書いてほしいものである。

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2018年7月 9日 (月)

まだ御礼のメールもしていないのですが。読みたい本だらけ。

まだ御礼のメールもしていないのですが、椿山滋さんが『民主文学 2018年8月号』(日本民主主義文学会、2018年8月)を送ってくださいました。

本格的なブロレタリア系文芸同人誌ですね。神秘主義者のわたしが不用意に読んでいいのだろうかと思ってしまいますが、文学作品はどこに発表されていようと、文学作品として読み、感想があれば書く、というスタンスですので、今拝読しているところです。

前掲誌「支部誌・同人誌評」の冒頭で評者が「『民主文学』本誌に掲載されるのは民主文学的作品(この定義自体が曖昧なのだが)に限定されるという誤解があるが、掲載されるかどうかはジャンルではなく、社会と人間の真実にせまる、その作品の芸術的評価による」(136頁)という第25回全国研究集会での話を伝えておられ、このスタンスには共鳴するところです。

椿山さんの作品は『今夜は鍋にしましょうよ』。

『二年目の春』という正統的なプロレタリア文学作品を興味深く拝読したので(これほど正統的なプロレタリア文学作品の書き手は激減しているのではないでしょうか)、知識不足もあって簡単な感想になると思いますが、椿山さんの作品も記事を改めて感想を書きたいと思っています。

娘が購入したタブッキの本も読みたいし、図書館から借りた10冊の本も読みたい。この中の本についてもちょっと書いておきたいことがあります。三田文學に掲載されていた対談で興味を持った中国人作家の本についてです。この中国人作家はプロレタリア系の人ではなく、自由主義的な思想の人のようです。

トルストイ『戦争と平和』のエッセーの続きを書き、萬子媛に関する鹿島市民図書館の学芸員に取材したメモをまとめ、萬子媛の小説第二稿のプロット作りに本格的に取り組まなければならないのですが、できるでしょうか。

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2018年7月 5日 (木)

悪質な自費出版系ビジネスと、餌食になりかけた従姉の児童書に対する失望感

東京在住の従姉から、相談の電話がかかってきました。従姉といっても、年が離れていて、彼女はしっかり高齢の域です。

従姉の四十代の息子さん――わたしからすれば従甥――が絵心のある知人の女性と組んで、絵本を作り、それを新聞の広告で見た賞に応募したというのです。従姉の声は明るく、弾んでいました。

息子さんが趣味でイラストを描いているという話を聞いたことはありましたが、童話を書くと聞いたことはなかったので、ビギナーズラックだろうかと多才さに呆れる思いで、「わあ、すごいじゃない。入賞したのね」というと、「ううん、そういうわけではないんだけれど、それがねNちゃん……」と従姉が話し出したので、悪い予感がしたところ、案の定でした。

悪質な自費出版ビジネスのまさに餌食となる寸前のところで、運よく、彼女はわたしに電話をかけてきたのでした。

以前、2人――1人は大学時代の女友達、もう1人は別の大学時代の女友達の兄君――がわたしの周辺で、餌食になっていました。それを知ったのは、餌食になった後でした。

息子さんは絵本、女友達も絵本、兄君は美術評論です。

息子さんは、落選した作品の感想を聞きたいと思って、賞を開催した出版社に電話をかけたとか。

このことだけでも、一般的な賞ではありえない展開です。「応募要項、選考過程に関する問い合わせには応じない」と明記されているのが普通だからです。

従姉もその息子さんも、上品な人たちです。主催者側から何の働きかけもないのに、自分のほうから積極的に――あるいは厚かましく――電話して落選理由を聞くなど、ちょっと考えられません。

問題の出版社のオフィシャルサイトへ行き、賞の募集要項を見ると、前掲の記述があるではありませんか。

しかし、その次の箇所に、応募者には有料出版の提案をさせていただく場合があると明記されています。

もう一度従姉に尋ねなければ詳細はわかりませんが、落選通知に応募者側から電話をかけたくなるような何かが書かれていたのではないかと憶測したくなります。

息子さんは出版社へ出かけて行き(おそらく交通費は自費でしょうね)、2時間話したということです。

出版社側は息子さんの才能を称賛し、将来的な成功を匂わせたようです。

そして、出版社からの提案は1,000部の自費出版、それにかかる費用は出血大サービス(?)で170万円とのことです。

全く、人を馬鹿にした話ではありませんか。それほど見どころのある優れた作品であれば、なぜ受賞対象とならなかったのでしょうか。そんなお宝の持主の許へ、なぜ編集者は自ら馳せ参じないのでしょうか。

大金を奪われることになるかもしれない危ない話にうぶな一般人がつい釣られてしまいそうになるのは、結婚詐欺と似た手口で、よい気持ちにさせられるからでしょうし、またマルチ商法と似た手口で、投資的な利益を予想――実際には妄想――させられるからでしょう。

文学の世界で――一向に勝ち目のない――現実的な戦いを強いられてきたわたしたち作家の卵は、そんなうまい話が転がっているはずがないことを熟知しています。幸か不幸か、文学界の裏側まで、かなり見透せるだけの神通力を身につけるに至っています。

こんな詐欺まがいの商売がいつまでも、いつまでも通用するのは法的不備に原因があるのでしょうか、文学界の衰退にこそ、その原因を求めるべきでしょうか。

息子さんは障害者や引きこもりのいるクラスを受け持つ高校教師として、寝る時間をも削って18年間奮闘してきたとか。障害を持つ生徒さんを武蔵野美大、多摩美大に合格させ、そのときだけは報われた思いを味わったのだとか。

ところが、学校の考えかたが変わり、息子さんはその方針転換に疑問を覚え、心身の疲労が溜まって、遂に退職、入院してしまいました。

そして療養を経て再就職の準備をしているのだそうですが、その合間に可愛い姪のために童話を書いたのだそうです。おそらく、本当に純粋な気持ちで初創作したのでしょう。

従姉がいうには、その孫――息子さんにとっては姪、わたしにとっては従姪孫――のために書店に本を探しに行くのだけれど、そこに置かれている沢山の児童書に全く感心できないのだそうです。

「もう、本当になぜ、こんな……」と従姉はいいながら絶句するのです。従姉も絵心のある人ですから、書店が安っぽい挿絵のついた三文児童小説に溢れかえって見えたのでしょう。

「まだ、うちの息子の作品のほうがましに思えたのよ」と従姉。従姉が息子さんに応募を勧めたのかもしれません。

息子さんは出版など考えたこともなかったとのことですが、出版社の提案が高額な自費出版であったにも拘わらず、迷いが生じ、わたしに訊いてみてくれないかと従姉にいったのだとか。

出版対象が絵本ですから、よいものであれば、この金額でも高いとはいえないのかもしれません。問題は、息子さんが自分では出版を考えてもいなかったのに、その気にさせられたというこの一点に尽きます。

従姉と息子さんが出版とはこんなものかもしれないと勘違いしている証拠には、この時点では従姉の声には翳りがなく、澄んだ雰囲気を湛えていました。

「チャンスの神は前髪しかない」という諺があります。息子さんは、チャンスの神の前髪を掴むべきかどうかで、迷っていたと思われます。

「そこは悪名高い自費出版系出版社だから、そこから出すのはやめておいたほうがいいと思う。自費出版するとしたら、何社かに見積もりを出して貰って、比較したほうがいいわね」というと、従姉の雰囲気の翳るのが伝わってきました。

弱り目に祟り目というべき出来事ですが、わたしが知り得た問題の出版社の情報を伝えなければ、従姉も息子さんも、挿絵を描いてくれた女性も、現実的な被害を被る可能性があります。

「ネットで検索してみて。作品は、今は大事にとっておいたほうがいいんじゃないかな。再就職が決まって気持ちにゆとりができてから、出版のことは考えても遅いということはないと思うのよ」とわたし。

そういいながら、動悸がしてきました。わたしには心臓弁膜症、不整脈、冠攣縮性狭心症の持病がありますが、案外感情の起伏が不整脈や冠攣縮性狭心症の発作を招くことは少ないのです。

気温の差や疲労が最も影響します。ですが、このところ、暑くなって心臓のポンプ機能が低下気味なのか、足やおなかが腫れぼったく、尿が出にくいという症状があったところへ、大腸がんのステージ3で症状は安定しているという幼馴染みに電話して、相変わらずのホスピス志向と自分勝手な解釈――亡くなった母親が寂しがって呼んでいるという思い込み――を聞かされているときに、ふいに動悸がしてきました。

そのあと胸が苦しくなったのでニトロを舌下し、従姉たちのことを考えてまた動悸がしてきたので、従姉はまだ何か話したそうでしたが、時間がない風を装ってこちらから電話を切りました。

ここ数日でニトロペンの使用量が5錠。ちょっと使いすぎですね。でも、ニトロで心臓が元気になることは確かです。

電話を切る前に、息子さんの作品を読みたいとわたしは従姉におねだりしました。そして、わたしも自作の児童小説を送ることにしました。昔から、わたしを応援してくれる唯一の人がこの従姉なのです。

今日、PDF形式でプリントアウトしたのは、電子書籍にしている作品――すみれ色の帽子、田中さんちにやってきたペガサス、マドレーヌとわたし、ぬけ出した木馬、ぼくが病院で見た夢、卵の正体――です。分厚くなってしまい、レターパックには入りきりません。

『田中さんちにやってきたペガサス』は作曲家志望の父親とその息子を中心にした児童小説ですが、従姉の娘さん――息子さんの妹です――は国立[くにたち]音大(作曲)を出て、音楽教室に勤めています。もし、娘さんが読むと、音楽に無知な、お馬鹿なことを書いているかもしれません。

従姉に送る拙児童小説には、おすすめの児童書についての手紙も添えようと思います。

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2018年6月25日 (月)

H.P.ブラヴァツキー(忠源訳)『シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論』(竜王文庫、2018)を読んで

アマゾンに書き込んだ拙レビューを転載します。

 シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論 (神智学叢書)
 H.P.ブラヴァツキー (著), 忠 源 (翻訳)
 出版社: 竜王文庫 (2018/1/1)
 ISBN-10: 4897416205
 ISBN-13: 978-4897416205

シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論 (神智学叢書)

霊(モナド)・魂(知性)・肉の三つの面から総合的に捉えられた人類発生論
★★★★★

まだ読み込んだとはいえませんが、この著作が貴重な、またこの上なく面白いものであることには間違いないと思われますので、おすすめです。

ブラヴァツキーの著作を読むと、人類の知的遺産の薫りがして、作品の中に破壊されたアレクサンドリア図書館までもがまるごと存在しているかのような感動を覚えずにはいられません。

肉体的、物質的な面に限定された観点からではない、霊(モナド)・魂(知性)・肉――七本質――の三つの面から総合的に捉えられた人類発生論ですから、宇宙発生論同様、この『第2巻 第1部人類発生論』の内容も深遠です。

『シークレット・ドクトリン』がブラヴァツキーの渾身の執筆作業を通じて、大師がたの監修のもとに人類に贈られた科学、宗教、哲学を統合する一大著作であるとすれば、それは現人類にとって、自分を知るための最高の教科書であるはずで、その記述が深遠、難解であるのも当然のことでしょう。

宇宙発生論を復習すると、目に見える惑星には自分を含めて七つの仲間球があり、一つの惑星チェーンを構成します(四番目のものが最も濃密、目に見える実体のある球体です)。惑星上の生命の源モナドはその七つの球体をまわり――一環(ラウンド)といいます――、七回まわります(七環あります)。

わたしたちは第四環の第四球体である物質地球(D球)上に存在しており、第5〈根本〉人種期にあります。第6、第7と続きます。

「人間は――動物の姿をした神だが――〈物質的自然界〉の進化だけによる結果であり得るのか?」(106頁)というテーマが壮大な宇宙と地球的ドラマを見せながら展開される中でも、月と地球の関係など、本当に神秘的な記述でありながら、なるほどと納得させられるだけの根拠が感じられます。

月から来たモナドである月ピトリ達(月の主方)のアストラル的な影(チャーヤー)であり、自生であった第1人種。滲出生であった第2人種。卵生、二重性(雌雄同体)であった第3人種。その終わりに、性の分離が起きます。

人間の性の分離後における半神的な人間の最初の子孫がアトランティス人で、このアトランティスの巨人達が第4人種でした。

レムリア、アトランティスに関する記述は圧巻です。古代の宗教・哲学、神話、寓話、伝説、伝承がかくもダイナミックに甦るとは。

わたしは昔、学研から出ていたオカルト情報誌「ムー」でアトランティス伝説を知り、その後アトランティスについて書かれたプラトンの未完の作品『クリティアス』を読みました。この度、美しい、わかりやすい日本語で、ブラヴァツキーの筆が醸し出す精緻、荘重な雰囲気を味わいながらアトランティスに関することを読める幸福感はまた一入でした。

プラトンは、アトランティスに関することをファンタジーとして書いたわけではありませんでした。新プラトン学派とも呼ばれた古代神智学徒の流れを汲む近代神智学徒ブラヴァツキーにアトランティスに関する記述があったとしても、不思議なことではありません。

初めてこの本を開いたのは、2017年のクリスマスでした。クリスマスに、旧約聖書に登場するノアがアトランティス人として語られるくだりを読むのは、格別の面白さに感じられたものです。

「訳者 あとがき」で『シークレット・ドクトリンの第1巻 宇宙発生論』を平成元年に上梓された第二代竜王文庫社長で綜合ヨガ竜王会第二代会長、神智学協会ニッポン・ロッジ初代会長でもあった田中恵美子先生による訳者はしがきが紹介されており、その中で『シークレット・ドクトリン』の構成について、次のような説明がなされています。

<ここから引用>
『シークレット・ドクトリン』の原典の第一巻は第1部「宇宙発生論」スタンザとその註釈、第2部「シンボリズム」、第3部「補遺」となっています。又、二巻は第1部「人類発生論」スタンザと註釈、第2部「世界の宗教とシンボリズム」、第3部「補遺」となっています。
<ここまで引用>

第1部「宇宙発生論」スタンザとその註釈に関しては、以下の邦訳版をアマゾンで購入できます。

    シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》
    H・P・ブラヴァツキー (著),‎ 田中恵美子 (翻訳),‎ ジェフ・クラーク (翻訳)
    出版社: 宇宙パブリッシング; 第1版 (2013/4/15)
    ISBN-10: 4907255004
    ISBN-13: 978-4907255008

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2018年6月24日 (日)

泰智寺にある萬子媛のお墓

鹿島市民図書館の学芸員に電話取材したときに、その学芸員のかたは「萬子媛のお墓が泰智寺にあるのではないか、確かあったと思います」とおっしゃっていました。

2018年6月 5日 (火)
地元の底力を実感(萬子媛の取材に関して)
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/06/post-9667.html

今年になってからまだ祐徳稲荷神社に参拝できていませんが、今度――いつ?――参拝で出かけたときに泰智寺を見学できたらと思いました。

それで、萬子媛のお墓が実際にあるのかどうか、また見学できるかどうかを確認しておきたいと思い、今日、電話しました。

鹿島市浜町にある泰智寺は曹洞宗(禅宗)のお寺で、開基は初代鹿島藩主・鍋島忠茂です。

2代藩主・政茂が鹿島藩後継問題で佐賀藩と揉めて鹿島藩を追われ、鹿島藩は一旦断絶してしまいます。

佐賀藩から直朝(萬子媛の夫)が鹿島藩に入り、直朝の長男・断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳明幢禅師が開山となり創建された黄檗宗のお寺が普明寺です。

普明寺を見学したときのことは、拙「マダムNの神秘主義的エッセー」で公開中のエッセー に書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

泰智寺も普明寺も、鹿島鍋島家の菩提寺なのです。

忠茂の遺骨は泰智寺に納められていますが、3代藩主直朝から歴代藩主の遺骨は普明寺に、遺髪は泰智寺に納めることになったそうです。

昨年の6月8日、普明寺とその子院である法泉寺に電話取材したときに、「ここは藩主の菩提寺で、藩主と正室のかたしかお墓はありません。祐徳院様は後室なので、ここにはないのです」と伺いました。

それ以上のことはわからず、萬子媛のお墓はどこにあるのだろうと思っていたのでした。鹿島市民図書館の学芸員に教わらなければ、知らないままだったでしょう。

泰智寺の御住職にお尋ねしたところ、萬子媛のお墓は「あります」とおっしゃいました。

「萬子媛のお墓に納められているのは御遺髪でしょうか」とお尋すると、わからないということでした。考えてみれば、萬子媛は出家して剃髪されていたわけだから……出家以前の御遺髪があったのかどうかはわかりませんが。

萬子媛の断食入定に関して伝わっていることが何かないかお尋ねしたところ、「それは、祐徳院さんのほうで入定されていると思いますので……」ということで、伝わっていることは何もないとのことでした。

『断橋和尚年譜』の記述からからすれば、断食入定はなかったともとれ、しかしながら、そこに挿入された断橋和尚の死者を弔う神秘的な漢詩を読めば、あったようにもとれ……うーん。

そのあたりのことも含めて、鹿島市民図書館の学芸員にお尋ねしたときのことをノートにする予定です。何にしても、萬子媛は今日もお元気に(?)、ボランティア集団のリーダーとして、あの世からこの世に通勤なさったことでしょう。いやホント。

泰智寺の見学は、自由にできるということです。本堂にパンフレットが置かれているとか。案内が必要であれば、事前にお電話したほうがいいようです。

ところで、ここ数日、ブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論 (神智学叢書)』に夢中でした。

そろそろどなたかレビューをお書きになっているだろうと思い、アマゾンへ行ったところ、まだレビューはありませんでした。

これほどのお宝はめったになく、わたしなんかよりずっとずっと神智学に詳しくて、教養、語学共に優れたかたが沢山おられるのだから、どなたか書いてくださればいいのにと思います。

今月中に書いておきたいと思い、ざっと読んでいました。深く読んで理解しようと思えば、何年もかかりそうなのです。あまりの面白さ、深遠さ、難解さに思わず引き込まれて、抜け出すのに努力がいります。とても読みやすい邦訳版だと思います。(追記: 25日にレビュー書きました。当ブログに転載しました。ここ

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2018年6月 4日 (月)

歴史短編1のために #36 神社に参拝する僧侶たち(「神と仏のゴチャマゼ千年…」 - NHK「歴史秘話ヒストリア」2018.5.30

5月30日のNHK「歴史秘話ヒストリア」は「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」というタイトルだった。

神仏習合の長い歴史を振り返り、その後の明治期に起きた廃仏毀釈と、その中で生き残った神仏習合の事例や復活した風習などを紹介していた。

その中に、興福寺の僧侶たちがその装束のまま春日大社に参拝する一場面があった。「そうよ、こんな風なのよ」とわたしは口走った。

というのも、祐徳稲荷神社で御祈願をお願いしたときに、わたしは同じような情景を内的鏡で見ていたからである。そのときのことを拙「マダムNの神秘主義的エッセー」の 74 で次のように書いている。

神事のとき、萬子媛はどのような位置で、どのような行動をなさっていたのだろうか。厄除け祈願をお願いしたときのことが参考になるだろうか?

これはあくまでわたしの神秘主義的感性が捉えた――内的鏡にほのかに映った――萬子媛をはじめとする、この世にあったときは尼僧であったと思われる方々の御祈願時の様子なのであるが、わたしはそうしたこの世ならざる方々が御神楽殿での御祈願時にそこへお見えになるとは想像もしていなかった。

そのときまで萬子媛のことしか念頭になく、御祈願のときにもし萬子媛をわたしの内的鏡が捉えることがあるとしたら前方に捉えるのではないかと想像していた。というのは、そのときに萬子媛の臨在があるとすれば、神主さんに寄り添うような形をとられるのではないかと漠然と想像していたからだった。

事実は違った。萬子媛をはじめとする尼僧の方々――生前は尼僧であったとわたしが推測する方々――は、御祈願を受けるわたしたち家族のすぐ背後に整然と並ばれたのであった。

端然とした雰囲気の中にも、日ごろの馴染んだ行為であることが窺えるような、物柔らかな自然な感じがあり、整然と並ばれたといっても、軍隊式を連想させるような硬さは全くなかった。

わたしの内的鏡にほのかに映った美しい情景からは、江戸時代初期から中期かけて、神事というものがごく自然に仏事や日々の生活に溶け込んでいた様子が窺えた。神事も仏事もどちらもこよなく敬虔に、当たり前のこととして行われていたに違いない。

同じ記事に、村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995)で見た、江戸期の神事に参列している僧侶たちのことを書いたが、どれも同じ神仏習合の風習を伝えるものだ。

番組では、1941年に滋賀県の日吉神社の社殿の床下の土中から発見された懸仏[かけぼとけ]なども紹介していた。

懸仏とは、銅などの円板に浮彫の仏像を付けたもので、柱や壁にかけて礼拝するものだそうだが、それら懸仏が「廃仏毀釈」からの生き残りとして紹介された。

娘と視聴していて思わず「わぁ可愛らしい」と同時に声を上げたほど、おぼろげに浮かび上がった仏様が如何にも尊く、可憐な御姿に見えた。これを彫り、拝んだ人々の思いがそのようなものであったからだろう。イコンを連想させた。

番組の参考文献として挙げられた著作

  • 『神道とは何か 神と仏の日本史』(伊藤 聡 中公新書)
  • 『古代仏教をよみなおす』(吉田一彦 吉川弘文館)
  • 『神仏習合』(義江彰夫 岩波新書)
  • 『神道・儒教・仏教 ―江戸思想史のなかの三教』(森 和也) 

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2018年5月12日 (土)

「三田文學」(第24回三田文学新人賞)から新星あらわる

関根謙 編集人、吉増剛造 発行人「三田文學」(第97巻 第133号 春季号、2018.5)誌上で、第24回三田文學新人賞が発表になり、受賞作と選評が掲載されている。

三田文學を定期購読してきたのだが、ここ数年は積読になっていた。この号も積読の中に入れるつもりで、新人賞の応募要項だけ確認しようとして開くと、第24回三田文學新人賞とある頁が目に入った。

受賞作は、佐藤述人「ツキヒツジの夜になる」。村上春樹の影響を受けた小説だろうと思い、雑誌を閉じようとしたところ、ふとその頁が光を宿しているかのように美しく見えた。

それが気のせいかどうかを確認するために、読み始めた。

以前から、商業誌、同人誌いずれにしても、目につく純文学小説は大抵、プロレタリア系私小説の流れにあるものか、同じ左派系土壌から生まれた妄想ファンタジー系主観小説の流れにあるものかのどちらかだった。

前者は日本語の使いかたは概ね正しく、安心して読めるという利点はあるが、辛気臭くて退屈なこと、この上ない。どこからともなく黴臭がしてくるほど。後者はしばらくは楽しませて貰えても、所詮は表面的な遊戯にすぎないと感じられて退屈になる。どちらを読んでも、モチベーションが低下する原因の一つになるだけなのだ。

この小説は後者だろうか、無駄な読書をする時間はないけれど……と思いつつ、読んでいった。

以下、ネタバレありです。ご注意ください。

主人公武一のいる室内の描写が丹念に続けられる中で、彼に生き物の声が聞こえてくる。

わたしは「露わになったTシャツ一枚の背」という表現に引っかかった。露わとはむき出しのことで、一枚とはいえ着ているものがあるのだから、余計だ。「耳に血液を集中させる」という表現も妙ではないだろうか。注意を集中させることはできても、血液を意図的に集中させるのは難しい気がする。注意を集中した結果、生理学的にそのような現象が起きるにせよ。

正体のわからない生き物の声に誘われて主人公が外へ出ると、斜め向かいの女性住人が先に生き物の声に誘われて出てきていた。倉庫の下に生き物はいて、これまでは挨拶を交わす程度だった女性がそれはツキヒツジだと教えてくれる。

それだけのことで家に戻った武一は、両親のことや図書館から借りっぱなしの本のことを考えているうちに眠る。早朝に目覚めたあと、午前9時まで旧約聖書のルツ記を読む。それだけのことで、場面は移る。

これは春樹とは違うぞ、とわたしは考え出した。春樹であれば、女性をそのまま帰すわけはないし(センスのよい女性であることを印象づける、何らかの記述のあることが多い)、旧約聖書など出すなら、それを利用した気の利いたセリフを吐くはずだ。

武一は牛丼屋と古本屋にいったあと帰宅し、またベッドに座って21歳のときに再会し、去年死んだ同級生寛史のことを回想する。武一はそのとき、芸術哲学を学ぶ美大の学生だった。同級生は国立大の学生。

友人というほどの関係はなかったが、自己主張の強い武一とは対照的に、思慮深そうな寛史の顔つきは記憶に刻まれていた。

待ち合わせて再会したときの寛史に関する描写は簡潔で美しい。

彼の横顔は変わっていなかった。短かった髪を今は伸ばしており、前髪は二方向に分かれ、細いフレームの眼鏡をかけ、顔の無駄な肉がなくなっていた。だから正面の印象は随分違っていた。けれども、横顔はあのままだった。…(24頁)

大学4年生で起業した寛史は世間で有名になるが、去年の夏、自殺した。

寛史を知っている同級生4人が彼を偲ぶために集まる。そこでヒツジニンゲンの話が出る。再会したとき、寛史がヒツジニンゲンの話をしたことを武一は思い出す。小さい頃に見たと寛史は言った。

寛史のために集まった同級生の男女の中で、退職して実家にいる武一は浮いた存在となる。

彼らはきっと寛史の横顔を覚えていない。有名な学生企業家の知りあいだったことや友人を失った痛みを経験したことを自分のステータスに刻みたいだけだ。でも、武一は彼らにみじめな微笑みを向けることしかできない。彼らが仕事帰りだということを考える今の武一が何を言っても中学生のころの選挙権がないのに選挙を語るおさない言葉と変わらない。できることが少なすぎる。社会の端でなんとか生かされている。そしてこれからも生かされていくのだろう。これからもずっとみじめな微笑みしかできないのだろう。…(30頁)

わたしは読みながら、段々と自分がこの小説を書いたような気がしてきていた。そこまで共感していたのだ。冷静に自己を見つめる武一。

両親は、仕事をやめた武一に休養の期間もたまには必要だからしばらく実家にいなさいと言ってくれた。そのことに感謝しながらも武一は、両親はどうやって武一を追い出そうかと会議しているに違いないなどと考える。「会議」の言葉が、みじめさの中にもユーモラスな雰囲気を演出している。

慰めや勇気づけを音楽に求める人間はわたしを含めて多いと思うが、作者が次に書くようなことを意識化できる者がどれだけいるだろうか。既にわたしは作者の観察眼と分析力に非凡なものを感じていたが、この箇所で確信した。新星あらわると。

音楽を耳に流し込む。音楽はいつも体の周りを温めて、しかしやっぱりどこか深くへは来てくれない。音楽は魔法ではないのだ。そんなことはわかっているだろう。わかっているだろう? 寒い。夜の音はもう聞こえない。代わりに音楽が流れているのだ。イヤホンの外にある夜の音は感じることができない。もしかしたらそれが奥まで来てくれるはずのものなのかもしれない。…(33頁)

作者の言葉は何て静かに、リリカルに、そしてまた力強く訴えかけてくることだろう。これこそ、文学だ。文学の力である。

武一の観察と分析は研ぎ澄まされて、身の回りにあるもの全てが、夜でさえもが、誰かが作ったものだと思えてくる。聖書に手を伸ばそうとして、あれ? と武一は思う。

なぜページがあるのだろう。聖書もだれかが製本したのだ。なるほど、と声に出している。大量の聖書が製本されていく工場を想像している。だとすれば、武一にはこの本を開く権利もない。言葉にふれる権利はあるだろう。あると信じている。…(34頁)

このくだりは、もはや思想である。哲学だ。箴言のような、詩のような文章。静かな、毅然とした言葉。まるで耳に響いてくるようだ。わたしは涙していた。すばらしい書き手があらわれた。ついに、あらわれた。

すべてが参加に裏付けされている中で、自分にはそれに参加する――それを享受する――資格がないと武一は思う。それを確認するときの畳みかけるような言葉の連続が美しい。

演劇を見ることで参加する側の一員になろうとして、富山の劇場に出かけた武一は、そこでも参加できない自分を発見し、テーマを深めることになるが、どうやら答えは出ない。

小説が終わりに向かう中、武一は塀に蔦のように這ったコードに額の毛の白い金色の小さな生き物の死体がぶら下がっているのを見る。彼は、その死んだ生き物――おそらくはツキヒツジ――を入れたと思われる紙袋を穴に入れ、燃やす儀式を行う。

その行動をとる前に、斜め向かいの女性住人と会話を交わす場面が出てくる。その女性がわたしにはなぜか、統合失調症と闘い続けて亡くなった「詩人」と呼んだ女友達に思えて仕方がなかった。

女性住人は、計算されていなければ出て来ない雰囲気を持っている。だが、わたしにはツキヒツジの意味も、その女性が登場した意味もわからなかった。

出ない答えを出そうとする作者の焦りが、ツキヒツジという存在の曖昧さに出ているとも思える。この案が充分に練れているとは思えないが、ファンタスティックな生き物と飄々とした女性はこの作品に合う。

儀式のあと、図書館の本が入ったもう一つの紙袋を持ち上げて、武一が公園から出ていくところで作品は終わっている。

武一が参加にこだわるのは、その時期が来ているにも拘わらず、社会参加ができていないからである。参加するには違和感のある社会なのだ。人間は社会的な生き物であると、改めて思わずにはいられない。

もう還暦を迎えたというのに、ここ数年この主人公のような意識をわたしは強めてきたので、共感も一入だった。そして、読んだ後で、武一を作ったのは誰なのかと考えさせられた。神秘主義的深みのある、哲学的な小説に出合えた喜び。

創作に入るには、最低限、借り物でない作者自身の発見がなければならず、芸術の一分野としての文学行為であるためには真善美への焦がれるような憧れがなければならないとわたしは考えてきた。

この小説はこれらを満たしているように思われた。めったにないことである。技法的な問題は、創作を重ねることで解決していくだろう。

本物の才能が現れましたよ、三枝先生。日本文学は大丈夫です。この才能には土壌があるはずで、それを誕生させた優れた人々が周りにはいるはずです。作品がそう明かしているではありませんか――わたしは亡き三枝和子先生に語りかけていた。

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2018年5月 4日 (金)

ノーベル文学賞が選考機関の性犯罪疑惑で発表見送り、ですと。

何のこっちゃ?

詳しくは、時事ドットコム(2018/05/04-19:12)の記事へ⇒ここ

いい加減にしてほしいものです、ノーベル文学賞。

関連記事:

2017年10月 6日 (金)
カズオ・イシグロ氏の受賞ではっきりした、ノーベル文学賞の変節
http://elder.tea-nifty.com/blog/2017/10/post-a6a2.html

2017年10月18日 (水)
カズオ・イシグロ『日の名残り』を、とりあえずざっと
http://elder.tea-nifty.com/blog/2017/10/post-fcc1.html

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