カテゴリー「文学 №1(総合・研究) 」の566件の記事

2018年11月20日 (火)

結石と共に本日も過ごしました。化学者による錬金術の本。

結石は今日も尿管に滞在中。そんなに居心地よいのかしら。もう出口に近いところなんだろうけれど。「見る前に跳べ」というオーデンの詩の一節を石に向かっていってみたりします。

姿勢によって結石が動くのか、痛み方が変わるのです。拷問に思えるほど痛いときもあれば、ふと和らいでほとんど忘れていられるときもあります。

頑張っているのだから、御褒美に以下の本を買ってしまおうかと考えました。

錬金術 【新版】 (象徴哲学大系)
マンリー・P. ホール (著), Manly P. Hall (原著), 大沼 忠弘 (翻訳), 山田 耕士 (翻訳), 吉村 正和 (翻訳)
出版社: 人文書院; 新版 (2015/2/27)

竜王会の機関誌と共に届いた、C・G・ユング(老松克博訳)『ゾシモスのヴィジョン ――古代ギリシアの錬金術師による夢見の指南書』(竜王文庫:竜ブックス、平成30年10月)を読むには参考書が必要で(ユングは解釈が独創的すぎるから)、アマゾンで調べてみると、内容的に充実していそうなのは前掲書と以下の本だと思いました。

錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」 (bibliotheca hermetica叢書)
Lawrence M. Principe (原著), ローレンス・M. プリンチーペ (著), ヒロヒライ (翻訳)
出版社: 勁草書房 (2018/8/24)

錬金術の理論と実践には物質的アプローチと霊的なアプローチがあり、前者は化学の起源といわれています。

『錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」』をブログで章ごとにまとめて紹介してくださっている方があって、それを閲覧すると、主に物質面を中心とした解説書であるようです。

勁草書房のホームページ「けいそうビブリオフィル」で紹介されているヒロ・ヒライ「高貴なる技、錬金術、あるいはキミアの探究―解題にかえて」には、著者について次のように書かれています。「著者は、アメリカ東海岸ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学のシングルトン前近代ヨーロッパ研究所の所長で、科学史の教授であると同時に化学の教授でもある。その業績は、アメリカはいうにおよばず、世界各国のさまざまな学会から表彰され、現在もっとも成功している科学史家の一人といって良いだろう

面白そうなので、ぜひ読みたいと思いましたが(化学的な記述も多いようなので、わたしには難しいかもしれません。息子なら読めるかも。読まないでしょうけれど)、あいにく県立図書館にも市民図書館にもありませんでした。昔はこのような本はなかったので、貴重ですね。

その本と前掲本のどちらかをほしいと思いましたが、両方は無理なので、現在必要としているユングの本を読む参考書としてはマンリー・P. ホール『錬金術 【新版】 (象徴哲学大系)』のほうが適しているかと。

人文書院の象徴哲学体系シリーズは三冊持っているのですが、『錬金術』は未購入だったのです。

昔書店で立ち読みして、難しいと思いましたし、いつもほしい本が沢山あるわたしとしては、そのときにどうしても必要な本を選択せざるをえないので。

でも、このシリーズの中の『カバラと薔薇十字団』を独身のころ最初に購入して37年経っていますが、西洋神秘主義の分野をこのシリーズほど格調高く鳥瞰した本は出てきていません。一般人にも読める内容ですので、ありがたい本です。

著者はバラ十字とフリーメーソンに通じた学識者、神秘主義者で、このような人物はバラ十字とフリーメーソンの変化を憶測すれば、もう出てこないのではないでしょうか。

幸い新版がまだ購入できるようなので、注文しました。

午前中は『ゾシモスのヴィジョン ――古代ギリシアの錬金術師による夢見の指南書』を読み、午後は神秘主義エッセーブログにアップする予定の記事「89 祐徳稲荷神社参詣記 (9)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」を書いていました。当ブログの記事で書いたことのまとめになります。

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2018年11月18日 (日)

このところ石が頻繁に旅行(尿管結石)、読書三冊

このところ、切れ目なく小さな石がしきりに尿管縦断ツアーに出てくれるお陰で、こちらは痛いのなんのって。

最近、副甲状腺機能亢進症疑いで経過観察していただいている内分泌内科を受診し、5年ぶりにエコーをしていただきました(受診記録は別記事にしておかなくては)。大した変化はないようで、また半年後でいいとのことでした。

エコーを終えて採血と血圧測定を済ませて受診を待っていると、エコー室から「気になるところがあるからもう一度見たい」とのことで、呼び出されたので、わあ手術かなあ、困ったわ、お金が……と心配しましたが、副甲状腺とは別に気になる箇所があったようで、が再エコーの結果、心配ないとのことでした(どこが、どう? 田舎の病院って、患者の頭は悪いので、詳しい説明なんか要らないとおもっているのでは……と思うことがあります)。

そのときも結石で痛かったので、痛み止めでも出していたたけないかと思い、前回女医さんから交代した男性医師先生に結石らしいというと、泌尿器科に紹介状を書くので、連携して診ていきましょうといわれ、いえ診ていただくほどではありませんからとお断わりしました。

小さなやつだと、結局出るのを待つだけなんですよね。「ずっと潜血が続いているから、結石のせいかもしれませんね」と先生。尿検査で潜血の出なかったことって、いつからか記憶にないくらいです。

腫れた副甲状腺をとってこの症状と縁が切れるならそうして貰いたいくらいですが、いざそうなると、お金がかかるし(生命保険の更新はしなかったのです。年齢があがると掛け金が高くなり、心臓では出ないし……で。がん保険はアフラックがあります)、摘出して御仕舞とはいかないようで、結構面倒なようです。このまま「疑い」で無難に行ってくれればと思います。

翌日循環器クリニックで、先生に石のことをいうと、「前にエコーで診たら両方の腎臓に石があったね。尿管でも詰まると、水腎症になって大変だよ。専門を受診したほうがいい」といわれ、専門の病院名を並べられました。その中には前日行った日赤も。

その日赤に行っても小さいと、放置なんです。痛み止め、やはり出していただけませんでした。受診が終わって帰りかけたときに、「血液検査で中性脂肪高かったから、ちょっと気をつけてね」と先生。なぜか朝食抜き検査で600以上もあって、驚きました。

ずっと昔、一度だけ馬鹿高かったことがありましたが、そのときはまともな不整脈の治療を受けていず、そのせいで体が疲労しきって、膵炎疑いで薬など飲んでいたころです。

何かの間違いかもしれませんが、次回、血液検査だけお願いしたらと看護師さん。

読んでいるのは『森銑三著作集 第9巻』(中央公論社、1971)、伊集院葉子『古代の女性官僚: 女官の出世・結婚・引退 (歴史文化ライブラリー) 』(吉川弘文館、2014)、C・G・ユング(老松克博訳)『ゾシモスのヴィジョン ――古代ギリシアの錬金術師による夢見の指南書』(竜王文庫:竜ブックス、平成30年10月)。

どれも書いておきたいことがあります。

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2018年11月 3日 (土)

松薗斎『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』(臨川書店、2017)に解説があった叙目という仕事。(この記事はまだ書きかけです)

萬子媛の父、花山院定好は公卿であったが、その仕事がどんなものであったのか、今一つぴんとこなかった。それが、松薗斎『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』(臨川書店、2017)を読み、これは中世のこととはいえ、仕事としては引き継がれている部分が大きいと思われるので、参考になる。

小説の参考になることを別にしても、中世の日記から面白いものが紹介、解説されていて、読んでみたくなる本だ。

「花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』( 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)によると、花山院家の家業は、四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道であった。定好は主に、後水尾天皇(108代)から後西天皇(111代)の四代に仕えた。

慶長16年(1611)に元服し侍従に叙爵。以降順調に出世したようで、寛永8年(1631)権大納言に任じられ、寛永20年(1643)まで務めた。慶安2年(1649)には内大臣となったが、すぐに辞職し、承応2年(1653)から翌年にかけて右大臣。万治3年(1660)に従一位に上り、寛文元年(1661)から寛文3年(1663)にわたって左大臣を務めた。

公家は、官位(官職と位階)によってランク付けされた。五位以上の位階を与えられると――従五位下になると――貴族と呼ばれた。叙爵とは、貴族として下限の位階であった従五位下に叙位されることをいった。

参議以上および三位以上の者を公卿と呼んだ(位階は四位であっても参議に就任すると、公卿である)。

前掲書によれば、除目は公卿の筆頭である左大臣が務めたとあり、どのような仕事であったかが解説されているので興味深かった。萬子媛の父は左大臣職にある間、このような仕事をしていたのかと思った。いやー、ストレスが募りそうなお仕事ですよ。

図書館から借りた本で、返さなくてはならないので、抜き書きしておきたい。が、今はちょっと時間がないので、あとで。この記事は書きかけです。

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2018年10月31日 (水)

(再考、31日に加筆)萬子媛は再婚だったのか、初婚だったのか?

下方の31日加筆の部分は、その前に「ここから31日加筆」と記しています。

24日、第二稿、やっと、一行だけ書いた。

第一稿が2015年12月の脱稿だから、三年間のブランク。

第二稿が全く進まなかったのは、萬子媛についてわからないことが多く、伝承と史実が異なると思える部分もあって(一致している可能性もないではない)、調べ.るのに時間がかかり、調べてもわからなかったりもして、創作意欲が低下していたということがあった。

しかし、現地取材したり、取材に協力していただいた専門家の方々のお陰でわかったことも多い。藩日記を読んだ収穫も大きかった。

そのような中で、まだわからないことは、37歳で鍋島直朝に嫁いだ萬子媛は初婚だったのか、再婚だったのかということである。

専門家の方々も、第一稿を読んでくださった方々も、閲覧した複数のサイトでも、わたしの夫と息子も皆が、萬子媛の年齢から考えて再婚だった――という憶測をなさる。

小説というフィクションを書くのだから、どう書こうと自由なのだが、ここが決まらないために悶々としていたが、決めた。初婚だということに。娘だけが、わたしと同じ憶測をする。

わたしがなぜそう考えるかというと、大名職を引退した夫が存命であるにも拘わらず(恐らく仲も悪くなかった)、おなかを痛めた子のうちの次男までもが21歳で早逝したとき、萬子媛は剃髪なさった。

そのときに義理の息子・断橋和尚に吐露した率直な気持ちが、大名になった断橋の弟・直條の著と考えられる萬子媛の小伝に書かれている。

かくも自分の気持ちに正直で、思い切ったこともなさる萬子媛。情の深さ、細やかさと優れた教養で多くの人々を惹きつけた萬子媛。

いわば全力投球型の萬子媛が再婚だったとは、考えにくいのだ。

初婚で結婚した相手に不満があれば、積極的に打開策を考えて実行なさるだろうし(離婚という匙投げの手段ではなく)、夫と死別したのであれば、萬子媛の性格からして、その地で出家なさったのではないだろうか。

花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

もし再婚であったなら、萬子媛は初婚のときも授かったのか?

結婚するたびにお稲荷さんを持たされて送り出されるというのも、不自然な気がする。

なぜなら、そのお稲荷さんは、ただのお稲荷さんというわけではない。朝廷の勅願所であった伏見稲荷大神の分霊なのだ。

萬子媛は二歳で、母方の祖母・清子内親王(後陽成天皇の第三皇女)の養女となっている。清子内親王について、萬子媛との関係を中心にざっとまとめてみる。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説<https://kotobank.jp/dictionary/nihonjinmei/>(2018年10月25日アクセス)に、次のような解説がある。

清子内親王(後陽成天皇の第三皇女)
1593-1675* 
江戸時代前期,後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇女。

文禄(ぶんろく)2年10月23日生まれ。母は女御藤原前子(さきこ)(中和門院)。慶長6年内親王となり,9年鷹司信尚(たかつかさ-のぶひさ)にとつぐ。信尚没後,大鑑院と号した。延宝2年12月9日死去。82歳。

清子内親王は28歳で、夫・鷹司信尚と死別して大鑑院と号した。
大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とした。
37歳になる萬子媛を1662年に嫁に出したとき、大鑑院は69歳。
曾孫の文丸が生まれた1664年(萬子媛39歳)、大鑑院は71歳。
曾孫の朝清が生まれた1667年(萬子媛42歳)、大鑑院は74歳。
1673年に文丸が10歳で死去したとき、大鑑院は80歳。

未亡人であった清子内親王は、なぜ萬子媛を養女としたのだろうか。萬子媛には同じ母から生まれた兄弟姉妹がいる。サイト「公卿類別譜(公家の歴史)」より引用させていただく,。

忠弘
定教(母同。忠広嗣) 
円利(※家譜による。母同。入叢林為出家)
定誠(母同。定教嗣) 
堯円(母同。専修寺十六代。近衛尚嗣猶子) 
女子(母同。号貞寿院実全妙操〔高千穂家譜〕。   
 元禄10年9月18日(1697年11月1日)卒〔高千穂家譜〕。   
 ※家譜は豊前国英彦山座主亮有室とあるが、愛宕家譜・知譜拙記によれば、愛宕通福の実父は亮有の父有清〔岩倉具堯二男〕で、母は定好の娘とある)
女子(母同。鍋嶌和泉守室) 
女子(母同。惣〔*系図纂要作総〕持院尼。智山周旭)


花山院家(清華家)-公卿類別譜(公家の歴史)<http://www.geocities.jp/okugesan_com/kazanin.htm>(2018年10月25日アクセス)

鍋嶌和泉守室というのが萬子媛のことで、下に妹がいる。この妹といくつ違いなのかわからないが、母(没年不明)が出産後に亡くなり、そのときまだ二歳だった萬子媛を祖母が引き取ったということも考えられる。

祖母との暮らしは、抹香臭い(?)、宗教色の濃いものだったのではないだろうか。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収の萬子媛の小伝「祐徳開山瑞顔大師行業記」に、
大師、いまだ笄[こうがい](かんざしで髪を束ねる)せざるより、早くも三宝[さんぽう]の敬すべきを知り、香華を仏に供[そな]うるを以[もっ]て常の業と為[な]し、帰に泪[およ]ぶ」(2016,p.72)とあることから考えても。

萬子媛は成人以前に早くも仏教における「仏・法・僧」と呼ばれる三つの宝物を敬うべきことを知り、仏前に香と花を供えることを日課とし、仏教に帰依していた――とあるので、祖母と一緒に、清く正しく美しくお暮しになっていたことは間違いない。

そして、それは幼いころからのものであったために、萬子媛にとってはごく自然な、快いものでさえあったのではないだろうか。

…ここから31日加筆……

父の花山院定好はもとより祖母も、萬子媛の良縁を心底願っていたに違いない。わたしに憶測できる、萬子媛が晩婚になった理由はこのことしかない。格式の高さと貧乏である。

江戸時代、公家は様々な制約の中で、貧乏生活を余儀なくされていた。

萬子媛の実家である花山院家は750石。養女に行った鷹司家は五摂家※の一つで、最高貴族といえる家柄だが、鷹司家は1500石と小大名より少ない(10万石以上を大大名、5万石以上を中大名、それ以下の大名を小大名といった)。

※藤原北家から出た近衛家、九条家、鷹司家、一条家、二条家の五家のことをいい、鎌倉時代半ばより代々摂政・関白を務めた。

萬子媛が後妻となった、その小大名の一つである肥前鹿島藩は2万石である。

下種ないいかたになるが、格式の高い家の生まれの明眸、才知ともに備わった萬子媛が年増となり、当時の基準での嫁としての商品価値が下がって初めて、小大名が近寄れるくらいの雰囲気が醸成されたのではないだろうか。

適齢期に大大名、中大名にやるには、貧乏が邪魔をした。

萬子媛が父から授かった伏見稲荷大神の分霊こそ、花山院家屈指のお宝といってよいものだったかもしれない。

前掲引用の系図にあるが、以下の過去記事から引用すると、村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995年)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する著作で、それによれば、絵巻が作られたのは有誉が座主だったときだった。

2016年1月23日 (土)
江戸初期五景2 #2 英彦山。鍋島光茂の人間関係。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/01/2800-e9da.html

この著作には有誉の父が亮有、母は花山院定好の娘だと書かれている(亮有の父・有清の室という説もある)。いずれにしても、ここで出てくる花山院定好の娘というのは、萬子媛の姉だろう。交際があったらしく、英彦山からのお使いは時々、鹿島藩日記に出てくる。

有清の三男で亮有の弟の通福は中院通純の猶子となっており、中院通純の娘・甘媛は鍋島光茂の継室(後妻)となっている。

このころ、英彦山は「英彦山三千 八百坊」(3,000人の衆徒と坊舎が800を数えた)と謳われるほど栄えていたというが、何しろ険しい山の中である。京都住まいの貴族である花山院定好が、本心から嫁にやりたいと思うようなところだったのだろうか。

萬子媛の妹は、臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。以下の過去記事、参照。

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

定好の娘達の落ち着き先をみていくと、下種の勘繰りかもしれないが、花山院定好のつらい胸のうちが読めるような気がしてくる。

渾身の力を振り絞り、万感胸に迫りつつ娘を送り出した父の思いが萬子媛に伝わらないはずはない。こんなことを二度も三度も繰り返すだけの財力も気力も父にはないことを、聡明な萬子媛はわかりすぎるほどわかっていたに違いない。

こうしたことを総合して考えてみると、萬子媛は初婚だったと思えてしまうのだ。

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2018年10月28日 (日)

黄檗文化(煎茶道、普茶料理)に鍋島焼が使用されていたことを裏付けるニュース

萬子媛が娘時代を過ごされた江戸時代前期の公家町について、わかっていることがあれば知りたいと思った。図書館検索で、こうした情報に接することができそうな資料を検索したが、思うように出て来なかった。

24日の深夜、「公家町 江戸初期」でネット検索すると、2018年2月21日に発信された、次のような思いがけないニュースがヒットした。

京都市文化財保護審議会(井上満郎会長)は21日、京都迎賓館(上京区)の建設に伴う公家町遺跡出土品2件555点を含む10件を市文化財に指定・登録するよう、市に答申した。[略]杉之坊の281点は、当時最先端の文化だった煎茶の道具や茶碗をはじめ、高級な肥前磁気の色絵ふた付き鉢、輸入陶磁器など。[略]市文化財保護課は「いずれも江戸前期に門跡・公家が所持した高級磁器の実態や、公家と町衆の生活を比較する上で重要な資料」としている。

京都新聞(2018年02月21日 22時38分)「公家町遺跡出土品など指定・登録へ 京都文化財保護審」<https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180221000159>(2018年10月28日アクセス)

このニュースは、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で書いた、次のような記述の裏付けとなるものではないだろうか。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

隠元隆琦の渡来は1654年のことで、隠元は63歳であった。1625年生まれの萬子媛は、このとき29歳である。黄檗宗がもたらした文化は「黄檗文化」と呼ばれる。
ウィキペディアによると、「隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した」
*1という。

隠元隆琦は普茶料理という中国式の精進料理を伝え、日本における煎茶道の開祖となった。

有田を中心として焼かれる磁器は有田焼と呼ばれるが、伊万里港から積み出されていたため、伊万里焼とも呼ばれる。これとは別に、大川内山にあった鍋島藩直営の窯で焼かれた献上用の高級磁器は鍋島焼と呼ばれた。

萬子媛が生きていた江戸初期から中期にかけて、黄檗宗が流行り、人々は普茶料理に親しんだ。そして、これはまだわたしの憶測にすぎないが、佐賀藩の有田で焼かれた磁器及び献上用の鍋島焼は、普茶料理に使用されたのではないだろうか。

21歳で早世した萬子媛の次男・式部朝清は佐賀藩2代藩主・鍋島光茂(1632生 - 1700没)に仕え、佐賀に住み、光茂の信頼厚く「親類同格」の扱いを受けていた。

光茂は三家格式を定めることで、蓮池藩・小城藩・鹿島藩の三支藩を完全な統制下に置いた。古今伝授を受けるほどに和歌を好み、彼は『葉隠』の語り手となる山本常朝の主君であった。また、寛文2年(1662)、幕府に先んじて殉死を禁止している。

明敏な頭脳を持ち、政治的、文化的に先取的動きを見せる光茂が黄檗宗、煎茶道と関係が浅かったとは考えられないし、彼は鍋島焼とも関係が深い。鍋島焼との関係の深さは、元禄6年(1693)に光茂が有田皿山代官に与えた手頭(指示書)からも明らかである。

黄檗宗は幕府の鎖国政策の下で流行した。鍋島藩で焼かれた磁器は、江戸時代に花開いた黄檗文化の形成に関係していたとわたしは考えている。もしこの憶測が正しければ、鍋島藩は黄檗文化の流布に一役買っていたことになる。

*1:「隠元隆き」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年11月27日 (日) 07:35 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

写真を見ると、様々な食器がある。

前掲ニュースと関連した催し物(平成30年7月14日~平成30年11月25日)の記事も出てきた。

 平成29年度の京都市有形文化財に「公家町遺跡(安禅寺杉之坊)出土品」と「公家町遺跡(櫛笥家)出土品」が指定されました。そこでこのたび、京都市考古資料館では、文化財指定を記念して平成30年度前期特別展示「お公家さんのうつわ − 京都御苑出土の古伊万里を中心に − 」を開催する運びとなりました。
 指定品は、京都御苑内における京都迎賓館の建設工事に先立って1997~2002年に実施された発掘調査で出土した遺物の一部です。

[略]
 今回、有形文化財に認定された資料は、公家町遺跡出土遺物群のうちの安禅寺杉之坊の穴蔵と櫛笥家の土坑から出土したものです。いずれも、京都市内では類例の少ない古伊万里(肥前磁器)が多数含まれており、江戸時代前期の公家屋敷で用いられた焼き物の実態を伝えています。

京都考古学資料館「平成30年度前期特別展示『お公家さんのうつわ』開催について 」<https://www.kyoto-arc.or.jp/blog/jp-mus-exhibition/2935.html?cat=11>(2018年10月28日アクセス)

このような出土品がなかったために、矢部良明『世界をときめかした伊万里焼』(角川書店、2000)の中の次のような記述が生まれざるをえなかった。

鹿島藩初代藩主を務めた鍋島勝茂(1580-1657)か二代藩主光茂(1632-1700)の時代であったか、鍋島藩が支配する伊万里焼の製品をもって、徳川政権の長である将軍から諸大名、そして貴紳たちに進上することが考えられた。
 後世の記録であるから伝承の範囲のこととはなるが、その鍋島焼の創業は、寛永五年(1628)のことという。もしこの伝承が正しければ、鍋島焼開窯は鍋島勝茂の采配によると考えなくてはならないが、残念なことに当時の史料では証明されていない。
(矢部,2000,p.108)

図書館に返してしまったので、再度借りて確認しなくてはならないが、『伊万里市史 第二巻 陶磁器編 古唐津・鍋島』に、その時代の進上にまつわるエピソードが紹介されていた。

メモしようと思いながら忘れてしまったのは、鍋島焼が黄檗文化に関係していたというには、その進上にまつわるエピソードと、前掲書にもある鍋島光茂が元禄六年(1693)に有田皿山の代官に出した「指令文書」(矢部,2000,p.114)の存在だけでは証拠として弱いと思ったからだった。

黄檗文化と鍋島焼の結びつきを専門家にお尋ねしたときに、その結びつきを否定なさったことを考え合わせて、確かに史料、出土品共に乏しすぎる――と思い、何とはなしの失意の中で、本を返してしまった。

それ以上の追究を諦め、所詮は素人芸の小説なのだから、フィクションでどう書こうが問題ない……と半ば投げやりな気持ちでいたときに、このニュースに出くわしたのである。

鍋島焼についてはもう少し詳しく書いておきたいが、とりあえず、このノートはここまで。

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2018年10月12日 (金)

落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-891c.html

……………

祐徳博物館で、改めて鎧を見ると、大きさが様々で、体形に合わせて作られていることがわかる。それからすると、萬子媛の夫である鍋島直朝と家督を継いだ直條(萬子媛の義理の息子)はいずれも小柄だったのではないだろうか。

萬子媛の肖像画の前に行った。微笑んでいられるように見えたことがあったけれど(その見えかたのほうがむしろ普通ではないだろう)、厳めしく見えた。

過去記事の繰り返しになるが、萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

寛文2年(1662)、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

寛文4年(1664)に文丸(あるいは文麿)を、寛文7年(1667)に藤五郎(式部朝清)を出産した。延宝元年(1673)、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

元服以前の10歳で亡くなった文丸(文麿)の死因は伝染病ではないか、とわたしは推測していた。というのも、郷土史家・迎氏からいただいたメールには、父・直朝と側室の間に文丸と同年に生まれた中将が同年、文丸に先立って亡くなっていると述べられていたからだ。

文麿と朝清の肖像画の前にも、改めて立った。そのとき、これまでは気づかなかった文麿に関する解説に目が留まった。

文麿公は痘瘡[とうそう]に罹り、長く病床にあったとあるではないか。これまでこの解説になぜ気づかなかったのだろう? ちなみに夫も気づかなかったといった。夫はわたしの整理不足の小説の第一稿を読み、気に入ってくれた一人で、それなりに興味を持って、見学していたのだった。

痘瘡とは天然痘のことだ。ウィキペディアより引用する。

<ここから引用>
天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。
(……)
大まかな症状と経過は次のとおりである。
・飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日の潜伏期間を経て発症する。
・40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
・発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
・7 - 9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
・2 - 3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
・治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。

<ここまで引用>
「天然痘」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年9月23日 23:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

長く病床にあったという文麿は幼い体で懸命に病魔と闘い、周囲に治癒の希望を抱かせた時期があったかもしれない。文麿は聡明な子供だったようだ。

文麿は花山院家から贈られた木の人形がとても好きで、朝夕手放さなかったという。病床でも、文麿はその人形を握り締めて苦痛に耐えていたのかもしれない。その人形は菅原道真の木像だったそうだ。

迎氏からいただいたメールには、文麿が亡くなる前年の寛文12年(1672)に船で上京し、花山公(文麿の祖父、萬子媛の父)に逢ったとある。帰りは参勤交代で帰国する父・直朝の船に同船した。

人形は、文麿が上京したときにおじいちゃんから贈られたものかもしれない。

花山院定好(文麿の祖父)の没年はウィキペディアに中将、文麿と同年の延宝元年(1673)とあるのだが、死因は書かれていない(「花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)。

文麿は、上京したときに天然痘に感染したのだろうか。それが中将にも感染した――と考えたくなるが、天然痘の潜伏期間は7~16日とされていて、花山院定好の亡くなったのが延宝元年7月4日(1673年8月15日)。潜伏期間の短さを考えると、文麿が前年上京したときにおじいちゃんから天然痘が感染した可能性はなさそうだ。

文麿の死が延宝元年の何月だったかはわからないが、もし花山院定好に先立って亡くなったのだとしたら、文麿の死の知らせがおじいちゃんの体にこたえたということはあったかもしれない。

いずれにせよ、一度に父と子供を亡くした萬子媛の気持ちは、如何ばかりであっただろう。

ところで、文麿に関する解説の下に、和歌の揮毫された色紙があり、年齢と名前が記されている。名前が萬子と読める気もしたがはっきりせず、また記された年齢が萬子媛の没年を超えていた。

祐徳博物館の女性職員のかたにお尋ねして、改めて二人で見た。やはり萬子媛の没年を職員のかたも指摘され、まぎらわしいが、萬子媛の揮毫ではないという結論に達した。

・‥…━━━☆

そのときに、以前からの疑問をお尋ねした。

萬子媛――という呼び名には、史料的な根拠があるのかどうかということだった。

というのも、郷土史家からいただいた資料にも、購入した本(『鹿島藩日記 第一巻』『鹿島藩日記 第二巻』『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』)にも、萬子という名は出てこないのだ。

わたしが見たものからは、俗性は藤氏、父は花山院前[さき]の左丞相(左大臣)定好公、母は鷹司前[さき]の関白信尚公の女[むすめ]、二歳にして前[さき]の准后清子[じゅんごうすがこ]内親王(後陽成天皇の第三女)の養女となって、結婚し、子供二人を亡くした後、尼となって祐徳院に住み、「瑞顔実麟大師」と号した女性が存在したことしか、わからなかった。

史料的な根拠はあるということで、一般公開されていないという史料の一つを博物館の職員のかたと見ていったが、そこには見つからなかった。もう閉館になってしまったのだが、鹿島市民図書館の学芸員がお詳しいということで、電話をかけてくださった。

前にも、萬子媛に関することでご教示くださったかたである。以下の過去記事を参照されたい。

2018年8月 4日 (土)
歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/36-d6f8.html

日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。

萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。

結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。

萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。

生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。

また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。

そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

明治以降、すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなって、氏(姓)と家名(苗字)の別、諱と通称の別が廃されたが、ざっと以下のようなものがある(沢山あって、全部は書ききれない、わからない)。

  • 同じ血統に属する一族を表す氏[うじ]。
  • 日本古代の諸氏(うじ)の家格を示す称号、姓[かばね]。
  • その家の名、名字(家名)。
  • 生存中は呼ぶことをはばかる、身分の高い人の実名、諱[いみな]。
  • 実名のほかにつける別名、字[あざな]。
  • 元服以前の名、幼名[ようめい]。
  • 出家後の諱、法諱[ほうき]。法名にほぼ同じ。
  • 受戒した僧に師が与える、あるいは僧が死者に与える名である法名・戒名・法号。
  • 人の死後にその人を尊んで贈る称号、諡[おくりな]。
  • 公的な身分や資格、地位などを表す称号、号[ごう]。学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名(雅号)も号[ごう]という。
  • 別につけた称号・呼び名、別号[べつごう]。

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2018年10月10日 (水)

シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書

10月5日に「アルベール・カミュのシモーヌ・ヴェイユに関する文章」というタイトルの記事をアップしましたが、ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録するに当たり、大幅に加筆を行いましたので、過去記事を削除し、前掲ブログにアップしたエッセー 86 「シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書」を転載します。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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シモーヌ・ヴェイユ(不詳)
出典:Wikimedia Commons

図書館から借りた『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に、アルベール・カミュがシモーヌ・ヴェイユに関して書いた短い文章が収録されていた。

アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)はフランス領アルジェリアの出身で、純文学小説『異邦人』、哲学的エッセー『シーシュポスの神話』で有名になったフランスの作家である。カミュは不条理という言葉を『シーシュポスの神話』で鮮烈に用い、その後、この言葉は実存主義の用語となった。不条理とは、人間存在の根源的曖昧さ、無意味さ、非論理性に由来する絶望的状況を意味する言葉とされる。

わたしの大学のころ――40年ほども昔の話になる――には、第二次大戦後にフランスからサルトルなどによって広まった実存主義はまだ流行っていた。

否、今でも哲学的主流はこのあたりに停滞していて、現代哲学は唯物論に依拠して局部的、細部的分析に終始しているのではないだろうか。

カミュは自分では実存主義者ではないとしているが、その思想傾向からすれば、実存主義者に分類されていいと思われる。

カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909 - 1943)はパリでユダヤ系の両親から生まれ、晩年、キリスト教的神秘主義思想を独自に深めていったが、しばしば実存主義哲学者に分類される。だが、そのシモーヌも、ジャン・ヴァールへの手紙で次のように書いて、実存主義に警戒心を抱いていたようである。シモーヌ・ペトルマン(田辺保訳)『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』(勁草書房、1978)より、引用する。

<ここから引用>
わたしは、《実存主義》的な思想の流れは、自分の知るかぎりにおいて、どうやらよくないものの側に属するように思えますことを、あなたに隠しておくことができません。それは、その名が何であれ、ノアが受け入れ、伝えてきた啓示とは異種の思想の側に、すなわち、力の側に属するように思われます。*1
<ここまで引用>

実存主義はマルクス主義の影響を受けた思想で、唯物論的であり、マルクス主義の流行とも相俟って一世を風靡した。しかし、一端、唯物論的袋小路へ入り込んでしまうと、自家中毒を起こし、下手をすれば阿片中毒者のような廃人になってしまう危険性さえある。

村上春樹のムーディ、曖昧模糊とした小説はこうした不条理哲学の子供――ただし、カミュの作品が持つ聡明さ、誠実さを欠いた子供といえる。戦後、日本はGHQによる洗脳工作(WGIP)や公職追放*2などもあって、唯物主義、物質主義が優勢となったのだった。

わたしが「カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ」と先に述べたのは、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『超自然的認識』(勁草書房、1976)の訳者あとがきで述べられている、次の文章を根拠としたものだった。

<ここから引用>
ガリマール社版のシモーヌ・ヴェイユの著作はほとんどすべて、本書と同じ「希望[エスポワール]」双書に収められているが、この双書はアルベール・カミュ(1913―60)によって創設された。第二次大戦下の英国において、34歳で死んだ、当時まったく無名だったといっていいシモーヌ・ヴェイユを、戦後のフランスの思想界に紹介した大きい功績は、当然第一にカミュに帰せられるべきであるが、本書の編集も(明記されてはいないが)、カミュであるとみなすことは充分に可能である。*3
<ここまで引用>

現在60歳のわたしが、『超自然的認識』によってシモーヌ・ヴェイユの思想に触れたのは大学時代だった。この本には「プロローグ」というタイトルで、シモーヌ・ヴェイユの有名な美しい断章が紹介されていた。『超自然的認識』の新装版がアマゾンに出ていたので、紹介しておく。

超自然的認識
シモーヌ・ヴェイユ (著), 田辺 保 (翻訳)
出版社: 勁草書房; 改装版 (2014/5/1)

『超自然的認識』を読んだときから、シモーヌの作品の邦訳版を読み漁り、またシモーヌとカミュとの接点を求めて、あれこれ読んだ。カミュがシモーヌを発見した人物であることを雄弁に物語っているような文章には、出合えなかった。

邦訳されていないだけだと思っていたのだが、『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に収録されたアルベール・カミュの文章、及び解説を読んで、シモーヌの母セルマの関与が浮かび上がってきた。

訳出されたカミュの文章は、竹内修一氏の解説によると、『NRF出版案内』1949年6月号に発表された「シモーヌ・ヴェイユ」と題された文章だという。

カミュがシモーヌの発見者であるにしては、その文章の内容からしてシモーヌを高く評価していることに間違いはないにせよ、短いというだけでなく、いささか精彩を欠くものであるようにわたしには思える。竹内氏は述べている。

<ここから引用>
1943年8月、ロンドン郊外のサナトリウムで死したとき一般の人々にはほとんど知られていなかったシモーヌ・ヴェイユが、戦後これほど有名になるためには、彼女が「生涯のあいだ頑なに拒否した「第一級の地位」を獲得するためには、みずからが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書から彼女の著作を次々に刊行したカミュの功績があったのである。*4
<ここまで引用>

ところが、この叢書が1946年3月に創刊されたとき、カミュはヴェイユのことをほとんど知らなかったばかりか、シモーヌの遺作の出版は全く予定されていなかったというのだ。

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シモーヌ・ヴェイユの歴史的・政治的著作の初版のカバー
出典:Wikimedia Commons

カミュの文章「シモーヌ・ヴェイユ」は本来なら〈希望〉叢書の9冊目の書物『根をもつこと』のための序文として書かれたものだった。それがヴェイユの遺産相続者――シモーヌの父母なのか、兄アンドレなのかは不明――の依頼によるものか、あるいは何らかのトラブルによって、この文章は別個に発表された。『根をもつこと』は序文も注釈もなしに出版されたのだそうだ。

1960年にカミュが自動車事故で死んだとき、〈希望〉叢書24作品のうちの7つの作品がシモーヌ・ヴェイユの著作だった。カミュの死後も2つのシモーヌの作品が出版された。

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シモーヌ・ヴェイユの署名
出典:Wikimedia Commons

竹内氏の解説中、ギー・バッセによれば、〈希望〉叢書から出版されるシモーヌの著作に無署名の「刊行者のノート」が付されたとすれば、それはカミュではなく、母セルマが作成したものだという。

シモーヌ・ヴェイユの兄アンドレ・ヴェイユの娘で、シモーヌの姪に当たるシルヴィ・ヴェイユ(1942 - )は自著(稲葉延子訳)『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』(春秋社、2011)の中で、シモーヌの死後、アンドレと両親との間にシモーヌの死や彼女の自筆原稿をめぐって亀裂が生じたと述べている。シモーヌの死後、ヴェイユ夫妻の残りの人生は娘の原稿を後世に残すための清書に費やされたそうだ。

シルヴィはその著書で、「父はこの分析が正しいのかどうかはわからないが、自分の母親がシモーヌの内に、母親がいなくてはならない状態をつくりあげ、それが原因でシモーヌは死んだと見做していた」*5と述べている。

また、エッセー 22 「グレイ著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ 』を読了後に」で採り上げたフランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイは、シモーヌの摂食障害――拒食症の傾向――に迫っている。

これはわたしの憶測にすぎないが、シモーヌ・ヴェイユの母セルマは、豊かな財力によってカミュが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書の9つの出版枠を買い取ったのではないだろうか。

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シモーヌ・ヴェイユの墓
出典:Wikimedia Commons

我が身に自ら拘束帯をつけたかのような、ストイックすぎる生きかたをしたシモーヌ・ヴェイユ。高純度の思想を書き残したシモーヌと母セルマを思うとき、一卵性親子と呼ばれた美空ひばり(加藤和枝)と母・加藤喜美枝を連想してしまう。

セルマには、シモーヌをプロデュースしたステージママのような一面があったように思う。シモーヌは哲学者となり、兄のアンドレは高名な数学者となった。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅰ・Ⅱ』『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ』『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』を読むと、セルマの並外れた母親ぶりに圧倒される。

わたしはエッセー 23 「ミクロス・ヴェトー(今村純子訳)『シモーヌ・ヴェイユの哲学―その形而上学的転回』から透けて見えるキリスト教ブランド」で、次のように書いた。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは、おそらく母親の偏愛――シモーヌ・ヴェイユが理想とする愛とはあまりにもかけ離れたものを含む現象――を感じ、その呪縛性を知りつつも、それをそっとしておき、恭順の意さえ示している。キリスト教に対する態度も同じだったように思える。

彼女はキリスト教というブランドを非難しつつも、それに屈し、媚びてさえいる。その恭順の姿勢ゆえに、シモーヌ・ヴェイユという優等生は西洋キリスト教社会では一種聖女扱いされてきたということがいえると思う。
<ここまで引用>

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-159)によると、セルマは演劇的な人物だった。シモーヌの死後は聖女の母という役を演じて能力を開花させ、修道女のような態でシモーヌの賞賛者である限られた数人の聖職者たちと亡き娘の部屋に籠っていたという。

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-176)はまた、17歳のセルマが母親ジェルトルード宛の手紙に「使用人と類する人たち」に対する嫌悪感を綴ったこと、その同じ人物が第一次大戦後ほどなくヴァカンスで過ごした豪奢なホテルのサロンにあるピアノで「革命家インターナショナル」を笑いながら自慢げに演奏し、組合主義者の教師となったシモーヌが右翼メディアに「赤い聖処女」と採り上げられたときには、その赤い聖処女の母という役回りに愉悦していたという事実が信じられないと語る。

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シモーヌ・ヴェイユと生徒(ル・ピュイ)
出典:Wikimedia Commons

完全主義者で所有欲が強く、演劇的で矛盾に満ち、絶え間なくシモーヌを見守った――ある意味で操ったとさえいえる――セルマは、どこか世俗キリスト教と重なる。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』の著者シモーヌ・ペトルマンは、ヴェイユの最も親密な友人の一人であったそうだが、「日本語版によせて」の最後に、次のように書いている。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは宗教問題に深い関心を寄せていましたが、それはキリスト教の限界を越えるものだったことを、もう一度思い出しておきたいと思います。特に彼女は、禅仏教に強い興味を示していました。フランスにおいて、禅なんてほとんどまったく知られずにいた時代のことでした。
*6
<ここまで引用>

その禅とは、鈴木大拙の著書を通したものだったと考えてよい。シモーヌ・ヴェイユは、ペトルマン宛の手紙で次のように書いている。

<ここから引用>
英語で書かれた、禅仏教に関する、哲学者鈴木テイタロー[大拙、仏教哲学者]の著書をおすすめします。とてもおもしろいわよ。*7
<ここまで引用>

エッセー 24 「ルネ・ゲノンからシモーヌ・ヴェイユがどんな影響を受けたかを調べる必要あり」で書いたように、鈴木大拙は神智学協会の会員だったから、シモーヌ・ヴェイユは大拙の著作を通して近代神智学思想に触れたといえるかもしれない。

しかし、その同じシモーヌ・ヴェイユがルネ・ゲノンという、極めて混乱した宗教観と貧弱な哲学しか持ち合わせないばかりか、近代神智学の母と謳われるブラヴァツキーの代表的著作すらろくに読んだ形跡がないにも拘わらず、神智学批判を行った――これは誹謗中傷というべきだろう――人物の著作の愛読者だったそうだから、わたしはあれほどまでに輝かしい知性の持主のシモーヌがなぜ……と、違和感を覚えずにはいられない。

それは、シルヴィが祖母セルマに感じたのと同じような、信じられない思いである。

…………………………

*1:ペトルマン,田辺訳,1978,p.370

*2:わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まった。20万人以上もの公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれる。

*3:ヴェイユ,田辺訳,1976,訳者あとがきpp.409-410

*4:『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行・鈴木宏、水声社、2017、p.49)

*5:シルヴィ、稲葉訳、2011、p.152

*6:ペトルマン,田辺訳,1978,日本語版によせてp.433

*7:ペトルマン,田辺訳,1978,p.323

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2018年10月 4日 (木)

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇

昨日、祐徳稲荷神社に出かけました。

そのときにまた貴重な取材ができ、二つの疑問がほぼ解けました。祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館の学芸員のかたには今回もお世話になりました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

萬子媛の死後、祐徳院がどうなったのかなど知りたいことは沢山残っているのですが、わたしが書こうとしている歴史小説にはもうこれ以上のリサーチは必要ないと思うので、とりあえずお試し期間(?)としてひと月、創作に集中する予定です。第二稿を書けるかどうかのお試し期間です。

写真は娘がスマホで撮りました。縮小以外の修正は加えずにアップします。

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祐徳博物館横の駐車場に車を止め、橋を渡りました。午後の2時を回ったくらいの時間でした。せせらぎに心が和みました。参拝客はそれなりにいましたが、娘はいないところをうまく撮ってくれています。

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なぜか、金色の鯉が夫に懐いて(?)、しきりに寄ってきました。夫が熱帯魚を飼っているからでしょうか。

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階段を上り、萬子媛のお社「石壁社」にも参拝しました。

ああでも、今回はどこもかしこも空っぽでした!  御神楽殿での御祈願の間も、そうでした。石壁社へ参拝した後はすっかり意気消沈して、泣きたいぐらいでした。

あのかたがたの気韻に溢れる気配を感じることができないと、こんなに空っぽに感じるんですね。勿論、これはわたしの感じかたにすぎません。

昨年参拝したときは、博物館を優先したために、萬子媛ご一行が一日のお勤めを終えて御帰りになるところが――もう雲の辺り――地上から何となくわかり、そのときに萬子媛の放たれた霊的な光が辺りを一変させて、わたしは天国にいるような高揚感を覚えました。そのときのことは、以下のエッセーに控えめに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材) : マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710
<ここから引用>
博物館の近くの駐車場に夫が車を止め、降りて本殿や石壁社のあるあたりに目を向けたとき、傾きかけた日が燦然と射して、あまりの美しさにしばらく見とれてしまった。
日を受けた樹々の緑の輝きがあまりに美しいので、「まるで天国みたいに綺麗ね、こんなに綺麗に見えるのは初めてよ」と娘にいうと、娘は怪訝な顔をした。
何て綺麗なんだろう、ずっとここにいたいと思ったほどだった。後で、もっと傾いた日を受けて、それでもまだ輝いている樹々の緑を見たときの平凡な印象とは、落差があった。あの美しさは、お帰りになる萬子媛のオーラの輝きが日の輝きに混じっていたからだとしか思えない。

<ここまで引用>

お勤めを放棄なさるはずはないので、まだ「夕焼け小焼け」が響き渡る時間以前に何も感じられないということは、わたしが感じられないというだけのことだったと想像するしかありません(尤も、感じられないという人が大多数でしょうけれど)。

なぜ? 母親を求める乳児のように、わたしは萬子媛の霊的存在を求めましたが、何も感じられませんでした。

家で早朝、娘に起こされてそちらを見ると(萬子媛についてまだわからないことを、明け方近くまでかかってまとめていて寝坊しました)、娘とわたしの間の空間に、金色に輝く大きな楕円形の光が見えました。2014年に見た短冊状の光とは形状が違いましたが、共通点が感じられたので、萬子媛のメッセージかしらと思いました。以下は2014年のときのことを書いたエッセーからの引用です。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年: マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/10/210502
<ここから引用>
しばらく熱中してふと顔を挙げると、目の前の空間に金色の短冊状のものが棚引くのが見えた。
これは肉眼には見えないもので、神智学でいう透視力が目覚めてきてからこうした類のものが次第に見えるようになった。いつからその透視力が目覚めてきたかといえば、大学時代から「枕許からのレポート」(エッセー34「枕許からのレポート」参照)を書いた頃にかけてだったように思う。
文通をしてくださった神智学の先生――先生は多くの人々と文通をなさっていた――がお亡くなりにあと、先生はあの世に行かれる前に透明になったお体で挨拶に来てくださったのだが、その後しばらくしてから空間に星のようにきらめく色つきの光の点を見るようになった。
空間はわたしには見えない世界からのメッセージボードのようなもので、それまでにもいろいろと見えることはあったが、ある種の規則性を持ったものが見えるようになったのはそれ以降だった。
それが何なのかはわからないが、先生からの、あるいは見えない世界からの助言ではないかと想像している。
金色の短冊はそれとは異なった。それを目にすると同時に「急いで」と優しくいわれたような気がした。萬子媛のお使いかな、と思った。

楕円形の光の意味はわかりませんでしたが(急いで、と今回もおっしゃったのでしょうか)、萬子媛は今回の御祈願のときも2016年のときのように臨在を感じさせてくださるに違いないと、自ずから期待が高まりました。

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日: マダムNの神秘主義的エッセー 
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355
<ここから引用>
御祈願していただいている間中ずっと、わたしは背後に、萬子媛を中心にして、生きているときは女性であったと思える方々が端然と立っていられるのをほのかに感じていた。すぐ後ろにいらっしゃるのが萬子媛だとなぜかわかった。
<ここまで引用>

夫の運転する車で佐賀へ向かっているとき、高速道路の両脇に植えられた木々が、葉の間から光がこぼれているだけの現象とはとても思えない、沢山の大粒のダイヤモンドのような実をつけているかのようにキラキラと輝いている非現実的な光景を助手席からうっとりと眺めていましたが、帰りの車の中で夫と娘に尋ねたところ、気づかなかったといいました。

あのような輝かしい木々を見て気づかないはずはないと思うので、あれは萬子媛が贈ってくださった光景だったのでしょう。でも、お会いできなかった……あえて、そうなさったのでしょうね。

御祈願のときに心の中で、わたしはまずは一年間見守っていただいたお礼を述べたあとで、わたしが萬子媛の小説を書くことはあまりにつつしみのないことではないかということを第一にお尋ねしたかったし、そのあとも沢山の質問を思い浮かべる予定でした。それに答えてくださるはずはありませんが、気配で伝わって来るものがあるだろうと計算していました。

神様にお目にかかるというのに、何て打算的だったのでしょう。実はその自覚はあったので、お目にかかれないかもしれないという虞れも一方ではありました。それが的中したのでした。

これまでのことがわたしの妄想でないことだけは、はっきりしました。あのような高貴な気配やオーラを、わたしが自分でつくり出す――想像する――など、とてもできない芸当だからです。尤も、それを他人に証明できないという点では同じですけれど。

もう萬子媛をモデルとした歴史小説は書けない気がしていました。祐徳博物館に行くのが何だかつらい気さえしました。でも、遠くてめったに来られないので、萬子媛の肖像画にお目にかかってから帰ろうと思いました。(2)へ

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2018年9月20日 (木)

勝本華蓮『尼さんはつらいよ』(新潮新書、2012)を読んで

図書館から『尼さんはつらいよ』という本を借りた。

尼さんはつらいよ (新潮新書)
勝本 華蓮 (著)
出版社: 新潮社 (2012/01)

尼僧の環境がどのようなものであるかを中心に、現代日本における仏教社会の裏事情が活写された、興味深くも脱力感に襲われるような内容だった。

著者は、在家出身で、広告関係の仕事で成功していたが、ある仏教者との出会いがきっかけとなって仏教にのめり込む。会社を畳んで比叡山に転居し、佛教大学と叡山学院に学んだ。三年後に、京都の天台宗青蓮院門跡で得度。佛教大学卒業後、尼寺に入り、そこで現実をつぶさに見、幻滅して尼寺を出た。その後、仏教研究者(専攻はパーリ仏教)の道を歩んで現在に至るようである。年齢はわたしと近く、著者(1995年大阪府生まれ)は三つ上になる。

パーリ仏教は上座仏教(上座部仏教)、南伝仏教ともいわれるようだが、昔は小乗仏教といった気がしてウィキペディア「上座部仏教」を閲覧すると、小乗仏教という呼称はパーリ仏教側の自称でないため、不適切であるということになったらしい。

本には、上座仏教圏のスリランカ、タイ、大乗仏教のチベット仏教の話や、尼僧の活動が目立つという台湾、香港の話も出てきた。そういえば、YouTubeで梵唄を検索したとき、台湾か香港からのアップと思われる仏教音楽の動画が沢山出てきて、驚かされたことがあった。

本の核心に触れると、日本の尼寺は絶滅の危機に瀕しているらしい。

尼寺における、あまりに俗っぽいエピソードの数々が紹介されている。全ての尼寺がそんな風ではないのだろうが、著者自身の体験が報告されているのだから、その一端が描かれていることは間違いない。

尼寺が絶滅の危機に瀕している原因を、著者は「なぜ尼寺に弟子が来ないか、来ても続かないか、その理由は、日本が豊かになったからである。生活や教育目的で寺を頼る必要がないのである。そういった福祉は、国家や公共団体が面倒をみてくれる」(42頁)といった表層的社会事情に帰している。

しかし、いくら物質的に豊かになったとしても(今の日本はもはやそうではなくなっているといえる)、人間が老病死を完全に克服しない限りは宗教は需要があるはずである。

歴史的原因を探れば、明治期の廃仏毀釈、第二次大戦後のGHQによる占領政策、フランクフルト学派によるマルクス主義の隠れた強い影響を見過ごすことはできない。これらによって、日本の仏教が壊滅的ダメージを被ったことは間違いないのだ。

本には、著者の神秘主義的能力の萌芽と思われる体験や、心霊現象といったほうがよいようなエピソードがいくつか挟み込まれていたが、こうしたことに関する知識は著者が身を置いた世界では全然得られないのだと思われて、この点でも何だか脱力感を覚えた。

江戸中期に亡くなった萬子媛のような筋金入りの尼僧は、今の日本では望むべくもないということか。

以下の過去記事で紹介した本では、まだ萬子媛の頃の名残が感じられたのだが……

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

あやめ艸日記―御寺御所大聖寺門跡花山院慈薫尼公
花山院 慈薫 (著), バーバラ ルーシュ (編集), 桂 美千代 (編集), ジャニーン バイチマン (翻訳), ベス ケーリ (翻訳)
出版社: 淡交社 (2009/1/30)

前掲記事で引用した編者バーバラ・ルーシュの文章を再度、引用してみたい。

<ここから引用>
このような経験を積み重ねてゆくにつれ、尼門跡寺院という制度があることがわかってきました。この制度は、日本の真なる文化財の一つともいえますが、十九世紀の廃仏毀釈令によってほとんど破壊されてしまいました。尼門跡寺院というのは、何かを抑えつけるところではなく、逆に解き放つところといえる存在であり、もしこのような場が存在しなかったら、日本のきわめて高い文化的教養をもった女性たちが幾世紀にもわたって活躍できなかっただろうと思われます。皇室由来の寺院におられた尼僧様たちが、和歌の古典的な形態をみがき上げ、『源氏物語』に関する文化、さらに茶道、華道、香道、年中行事などの保存にお勤めになられたのでございます。
<ここまで引用>

尼門跡とは皇女や貴族の息女が住職となる寺院で、随筆集『あやめ艸日記』の執筆者、花山院慈薫(臨済宗大聖寺二十七代門跡 1910 - 2006)は31代・花山院家正(1834 - 1840年)の娘。萬子媛は、21代・花山院定好の娘だった。

和歌には、拙神秘主義エッセーブログ「78 祐徳稲荷神社参詣記 ⑤扇面和歌から明らかになる宗教観」でみたように、日本人の宗教観が薫り高く織り込まれてきたのだ。

その貴い伝統を、左翼歌人の俵万智が壊した。

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2018年9月11日 (火)

鹿島藩日記第二巻ノート (7)祐徳院における尼僧達 その2

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

その1の続き。

「蘭契」という名が出てくるのは、宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記(『鹿島藩日記第二巻』416頁)である。

素人解読なので間違っているかもしれないが(※あまり参考にしないでくださいね。原文に当ってください)、大体次のようなことが書かれているのではないかと思う。

佐賀の御親類方より勝屋伊右衛門まで、祐徳院様の御中陰は何日より何日まで御執行でしょうかとの問い合わせがあり、こちらに言ってよこされた。それについて、外記より蘭契まで伺ったところ、御中陰というのはなく、御葬礼が行われたことで、儀式は済みました。(……)尼達と相談して申し上げますが、殊に山中ということもありますので、御名代などを送って寄越すには及びません、伊右衛門よりそのようにお口添え下さるのがよいでしょう、とのこと。

わたしの憶測でしかないが、蘭契という尼僧が萬子媛亡き後、代表者的、長的な役割を果たしたのではないだろうか。その代表者に、外記が問い合わせたと考えるのが自然だと思う。

その蘭契という人物が、祐徳博物館で伺った、萬子媛に仕えて岩本社に祀られたという尼僧かどうかはわからない。(以下のリンク先参照のこと)

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

萬子媛の葬礼は簡素だったようだが、五月十五日(1705年7月5日)の日記に書かれた三十五日についても、格峯(鍋島直孝、断橋)が恵達(慧達)、石柱を帯同して祐徳院に一泊し、御霊供膳と皆に振る舞う料理を用意させているが、目立った儀式はなかった模様だ。

もし、萬子媛の葬礼のときの布施の記録に名のあった僧侶達の中で、蘭契からが祐徳院に属した尼僧達だとすれば、17 名(蘭契、満堂、蔵山、亮澤、大拙、瑞山、眠山、石林、観渓、英仲、梅点、旭山、仙倫、全貞、禅国、智覚、𫀈要)。萬子媛がいらっしゃったときは総勢 18 名だったことになる。

萬子媛が亡くなる前年までのことが書かれた、萬子媛の略伝といってよい『祐徳開山瑞顔大師行業記』には、萬子媛が尼十数輩を率いたとあるので、人数的には合う。

求道者らしいストイックな暮らしをなさっていたと想像できる祐徳院所属の尼僧達。五月十五日に料理を振る舞うことで、格峯は尼僧達をねぎらったのだろうか。

彼女達がその後どうなられたかが気になるところだ。

ところが、わたしは神秘主義者として知っている。江戸時代に亡くなった彼女達は、あの世で、萬子媛を長とするボランティア集団を形成し、中心的役割を果たしておられるのだ。

カルマに障らないような、高度なボランティアを手がけておられることが窺える。

萬子媛は太陽さながら、豊麗なオーラを放射されるのだが、その光が如何にすばらしいものであったとしても、そのやりかたはわたしが神秘主義者として竜王会、神智学協会ニッポン・ロッジで理論的に学び、また前世での男性僧侶としての修行や今生での独習から会得した技法と同じだと思う。

それは、この世でもあの世でも通じるやりかたなのだとわかった。誰もができるやりかたのはずだ。この世の出来事に囚われ、その技法を磨くことを怠ってきたけれど、このことが確信できただけでも、わたしにとっては大きな進歩だ。

萬子媛をモデルにした小説を完成できるかどうはわからないが、頑張ってみたい。

日記には元禄14年3月14日 (1701年4月21日)に起きた赤穂事件について記されているので、次のノートで採り上げたい。わたしの興味を惹いたのは、日記の解説にあった次の箇所である。

<ここから引用>
元禄十一年の『御在府日記』によると、鹿島藩江戸藩邸では、吉良上野介の希望によって、二三度にわたって有田焼の水差しや香爐などを送っている。(鹿島藩日記 第二巻』祐徳稲荷神社、昭和54年、「解説」2頁)
<ここまで引用>

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