カテゴリー「文学 №1(総合・研究) 」の581件の記事

2019年5月26日 (日)

『帰ってきたメアリー・ポピンズ』で、自分がどこから来たかをムクドリに語る赤ん坊 (4) 

森によると(2006,p.18)、トラヴァースとジョージ・ラッセル(AE)の出会いは1925年。ラッセルは57歳、トラヴァースは25歳だった。

森によると(2006,p.18)、ラッセルはトラヴァースを「『娘、助手、徒弟あるいはその三つを合わせたもの』と考え目をかけてくれた」また、「精神世界について、妖精物語や神話の意味、東洋の宗教などについて教えを受けた。AEが重要視していたのは、アイルランドの国家ではなく、そこに広がって存在する精神的な結び付き、霊的な一族であった」。

交友関係はラッセルが1934年に亡くなるまで10年近くに及んだ。森によると(2006,p.29)、ラッセルはトラヴァースの「師でもあり恋人でもあった」。

メアリー・ポピンズ初期の作品にロマンティックなムードが漂っているのも、納得できる。

ウィキペディア英語版、日本語版の「ジョージ・ウィリアム・ラッセル」には、神智学協会やヘルメス協会は出てきても、グルジェフ関連の記述は見当たらない。ラッセルはグルジェフとは接触がなかったようである。

ウィキペディア日本語版には、ラッセルが神智学団体のまとめ役や相談役も担ったとあり、次のような記述もある。

1880年頃から神智学に興味を持ち始めた。1885年に学友ウィリアム・バトラー・イェイツがダブリンにヘルメス協会を設立した際にはすぐ加入しなかったが、この組織が神智学協会へと改組されると参加し、さらに1898年にはこの組織を抜けて自らヘルメス協会を復興させた。
「ジョージ・ウィリアム・ラッセル」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年7月24日 15:57 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)

ウィキペディアのヘルメス協会というのは、The Hermetic Order of the Golden Dawn のことではないかと思う。

「黄金の夜明け団」と邦訳される、英国フリーメーソン系英国薔薇十字協会の3人のメンバーによって創設された神秘主義的結社である。

亡き母に捧げられた「風にのってきたメアリー・ポピンズ」は1934年に出版されたが、「ポピンズ」シリーズの基となった詩や短編が1923年から見られるという。

1935年7月にラッセルが亡くなった3か月後の10月に書き上げられ、同年出版された「帰ってきたメアリー・ぺピンズ」には、最後までこの2巻のことを心配していたラッセルの助言が生きているそうだ。

「ポピンズ」シリーズ初期の1、2巻にラッセルの影響が濃く、アイルランドの妖精物語や神話などに交じって神智学の影響が見られるのもなるほどと思わせられる。

トラヴァースがラッセルを通じてオイレジと知り合ったのは1933年である。1907年に神智学協会との関係を打ち切っているオイレジはこのころ、グルジェフ色に染まっていたと考えられるが、出会いの翌年にオイレジもまた亡くなった。

「帰ってきたメアリー・ポピンズ」に話を戻そう。

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以下は未整理のオイレジに関するノート。

英語版ウィキペディア「Alfred Richard Orage」(https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Alfred_Richard_Orage&oldid=897156548)を参照したところでは、アルフレッド・リチャード・オイレジAlfred Richard Orage(1873 - 1934)は、小学校の教師時代に独立労働党(Independent Labour Party。かつてイギリスに存在した社会主義政党)に関わり、その後プラトンを7年間、ニーチェを7年間、マハーバーラタを7年間学んだ。

1890年代後半、従来の社会主義に幻滅したオイレジは神智学に転向。その神智学に対する合理的な批判を著作で行い、それが社説的な反論を呼び起こしたことで、1907年に神智学協会との関係を打ち切った。

オイレジは1907年に週刊誌「ニュー・エイジ(The New Age)」を買い取って、編集者としての腕を振るった。

「ニュー・エイジ」の寄稿者はフェビアン協会のメンバーが多かった。

ウィキペディア「フェビアン協会」(https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%8D%94%E4%BC%9A&oldid=71731569)によると、フェビアン協会(Fabian Society)は1884年にロンドンで設立された。漸進的な社会変革によって教条主義的マルクス主義に対抗し、暴力革命を抑止する思想や運動をフェビアン主義(フェビアニズム)と呼ぶ。

独立労働党(Independent Labour Party。かつてイギリスに存在した社会主義政党)、神智学協会1907年に彼はTheosophical Societyとの関係を打ち切った

ファビアン協会のメンバーにはジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw,1856 – 1950)、イーディス・ネズビット、ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells,1866 – 1946)など作家もいて、アニー・ベサント(Annie Besant,1847 – 1933 1907から1933年にかけて神智学協会の第2代会長)も初期のメンバーの一人だった。

オイレジはその雑誌の傾向を変化させていく。キャサリン・マンスフィールドも寄稿したようである。

オイレジとグルジェフとの関係には紆余曲折あったようだ。

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2019年5月24日 (金)

『帰ってきたメアリー・ポピンズ』で、自分がどこから来たかをムクドリに語る赤ん坊 (3) 

ここでちょっと書いておくと、わたしはグルジェフに関する著作を読んだことはなかったが、オカルト情報誌『ムー』でたびたび目にしていた。

また短編小説の名手キャサリン・マンスフィールドが結核末期にグルジェフの施設に駆け込み、そこで亡くなったことをマンスフィールドの年表や伝記を通して知っていた。書店でグルジェフに関する著作を手にとってみたことは何度もあったが、読みたいという衝動が起きなかった。

マンスフィールドについて少し書いておくと、彼女の作品は一幅の絵のように印象的である。登場人物が息を呑むほど精緻に描写され、人生の深みに誘い込まれる。

一例を挙げよう。キャサリン・マンスフィールド(安藤一郎)『マンスフィールド短編集』(新潮社⦅新潮文庫⦆、1979改版)所収「パーカーおばあさんの人生」の次の断章。

「おばあちゃん! おばあちゃん!」小さな孫息子は、ボタンどめの深靴のまま、彼女の膝の上に立った。外の遊びから帰ったばかりだった。
「これ、おばあちゃんのスカートが台なしになっちゃうじゃないか――いけない子だね!」
 だが、孫は彼女の首に手を巻きつけて、頬を彼女の頬にすりつけた。
「おばあちゃん、一ペニーちょうだい!」とねだった。
「あっちへいきなさい、おばあちゃん、お金なんかもってないよ」
「うそ、もってるよ」
「いえ、もってません」
「うそ、もってるよ、一ペニーちょうだい!」
 もうそのとき、彼女は古い、ぐにゃぐにゃになった、古い皮財布をまさぐっていた。
「それなら、お前はおばあちゃんに何をくれる?」
 孫は、ちょっと恥ずかしそうな笑い声をたて、いっそう近くくっついてきた。その瞼がふるえながら、彼女の頬にあたるのを感じた。「なんにも、もってないもの」と彼は小さな声で言った。(マンスフィールド,安藤訳,1979,pp37-38)

言葉を尽くして博愛やかよわい生命のいじらしさを説くよりも、この断章一つ示すほうが効果的なのではあるまいか。

実は、この孫は既に死んでいるのである。これは、パーカーおばあさんの回想なのだ。

この孫が死なずに成長したらどうなっていただろう(とんだ祖母不幸な男に育った可能性だってある)と思ったりするが、マンスフィールドの作品の登場人物には誰にも彼にも未来が閉ざされているようなはかなさが付き纏っている。そこのところがわたしには不自然な気がするというか、物足りないところだった。

マンスフィールドの描写力を羨望したヴァージニア・ウルフのような知的処理がなされないだけに救いがなく、真実の半分が欠落しているような気がしてしまう。

キャサリン・マンスフィールド(崎山正毅&伊沢達雄訳)『幸福・園遊会 他十七篇』(岩波書店《岩波文庫32-356-1》、1969)の巻末「年譜」(マンスフィールド,崎山&伊沢訳,1969,「年譜」p.409)に、彼女が1922年10月、「奇跡を求めてフォンテンヌブローのグルディエフ・インスティテュート(一種の精神療法を唱えるロシア人グルディエフの創立になる)にはいる」とある。翌年の1月9日、34歳で亡くなっている。

グルジェフの著作の邦訳版は次の3冊が出ているようだ。

ベルゼバブの孫への話―人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判
G.I.グルジェフ (著), 浅井 雅志 (翻訳)
出版社: 平河出版社 (1990/08)

注目すべき人々との出会い 
G.I.グルジェフ (著), 星川 淳 (翻訳)
出版社: めるくまーる (1981/12/1)

生は「私が存在し」て初めて真実となる
G.I. グルジェフ (著), Georgei Ivanovitch Gurdjieff (原著), 浅井 雅志 (翻訳)
出版社: 平河出版社 (1993/08)

残念ながらわたしが利用している図書館にはない。次の4冊がある。

グルジェフ・ワーク―生涯と思想 (mind books)
K.R.スピース (著), 武邑 光裕 (翻訳)
出版社: 平河出版社 (1982/08)

覚醒の舞踏―グルジェフ・ムーヴメンツ 創造と進化の図絵
郷 尚文 (著)
出版社: 市民出版社 (2001/6/1)

回想のグルジェフ―ある弟子の手記
C.S. ノット (著), Charles Stanley Nott (原著), 古川 順弘 (翻訳)
出版社: コスモスライブラリー

グルジェフ伝―神話の解剖
ジェイムズ ムア (著), James Moore (原著), 浅井 雅志 (翻訳)
出版社: 平河出版社 (2002/3/1)

ネット検索で、グルジェフに関するサイトを発見した。リンク禁止とは書かれていないようなので、紹介しておく。

グルジェフの著作・音楽・舞踏|創造と進化の図絵|電子版全集
http://gurdjieff.la.coocan.jp/index.html

サイトの「生涯に関する叙述」中「1885?~ たどり着きがたい場所への旅/人間をめぐる謎の究明」の次の記述を読む限り、グルジェフが神智学の影響を受けたとは到底思えない。

二分化された意識構造から生じる異常性の例として、グルジェフは、「いちおうは目が覚めた状態」にある人々がもっぱら顕在意識の支配下で見せる行動や思考の異常性にも目を留めた。戦争と動乱の絶えない時代にあって、グルジェフはしばしばその現場を目撃したが、もっとありふれた状況のなかでこれについて徹底的に解明するための研究対象としてグルジェフが目を留めたのは、ちょうどそのころロシアやヨーロッパで大流行していた神智学運動やオカルティズムを背景にして、いわゆる「精神世界」に夢中になる人たちが呈する思考と行動における異常性だった。(HC)

グルジェフは、みずからその分野での「専門家」になりすまし、神智学運動やオカルティズムを追求する組織や団体と接触し、この「哀れむべき病気」のさまさまな症例を研究する(HC)。これは「まやかしの研究と実習」として、のちにグルジェフが設立した学院のカリキュラムにも組み込まれた。
Home > Introduction > 生涯に関する叙述 4/14 1885?~ たどり着きがたい場所への旅/人間をめぐる謎の究明
http://gurdjieff.la.coocan.jp/life/life_04.htm

が、接触があったことは間違いないのだろう。

トラヴァースはグルジェフを通してではなく、直接ブラヴァツキーの著作に触れたのではないだろうか。その後、グルジェフに傾倒していったのを物語るように、メアリー・ポピンズの初期の作品にしかブラヴァツキーの神智学を連想させられるような文章は見い出せない。

だが、グルジェフの死後、トラヴァースは、神智学と関係の深かったクリシュナムルティをグルジェフの再来として崇拝したようだから、メアリー・ポピンズの物語が全体として神智学の香気に包まれていても不思議ではない。

前掲サイトから、キャサリン・マンスフィールドの最期から埋葬後までの情報を得ることもでき、貴重である。

キャサリン・マンスフィールドの思い出 (チェスラヴ・チェコヴィッチ回想録より)
http://gurdjieff.la.coocan.jp/life/PDF/quote_0801.pdf

以下は、ウィキペディア「ゲオルギイ・グルジエフ」の解説より引用。

ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ(ロシア語: Гео́ргий Ива́нович Гурджи́ев, George Ivanovich Gurdjieff、 1866年1月13日? - 1949年10月29日)はアルメニアに生まれ、一般に「ワーク」として知られる精神的/実存的な取り組みの主導者として、および著述家・舞踏作家・作曲家として知られる。ロシア、フランス、アメリカなどで活動した。
ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。欧米の文学者と芸術家への影響、心理学の特定の分野への影響、いわゆる精神世界や心身統合的セラピーの領域への影響など、後代への間接的な影響は多岐にわたるが、それらとの関係でグルジエフが直接的に語られることは比較的に少ない。人間の個としての成長との関係での「ワーク」という言葉はグルジエフが最初に使ったものである。近年ではもっぱら性格分析に使われている「エニアグラム」は、史実として確認できるかぎりにおいて、グルジエフがこれを世に知らしめた最初の人物である。精神的な師としての一般的な概念にはあてはまらないところが多く、弟子が精神的な依存をするのを許容せず、揺さぶり続ける人物であった。
「ゲオルギイ・グルジエフ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2018年11月17日 06:22 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

前掲サイト「グルジェフの著作・音楽・舞踏|創造と進化の図絵|電子版全集」を閲覧した限りでは、グルジェフはロシア革命や大戦の激動期を求道的に生き抜く中で独自の思想を展開し、宗教的修行の場を形成したように読める。

「音楽に合わせてのリズム体操、ダルヴィッシュの舞踏、各種のメンタルエクササイズ、呼吸のいろいろな様式の研究」といった記述からわたしに連想されるのは、ブラヴァツキーよりも年齢的に近いシュタイナーなのだが、シュタイナーの名は出てこない。

グルジェフは治療も行ったようだ。記述からすると、これはおそらく磁気治療だろう。

これ以上グルジェフに踏み込む衝動が起きないので、ブラヴァツキーの神智学の影響をメアリー・ポピンズの物語から拾うに留めたい。

ただ、グルジェフの思想は芸術、心理学、ニューエイジ・ムーブメントなどへの影響も大きいようだから、いずれ、もう少し調べることになるかもしれない。何にせよ、ブラヴァツキーがニューエイジの元祖のように祭り上げられながら、なぜ誹謗中傷されるのか、前掲サイト「グルジェフの著作・音楽・舞踏|創造と進化の図絵|電子版全集」の記述(生涯に関する叙述 4/14 1885?~ たどり着きがたい場所への旅/人間をめぐる謎の究明)からもその原因の一端が窺える気がした。

『帰ってきたメアリー・ポピンズ』に話を戻そう。

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2019年5月23日 (木)

『帰ってきたメアリー・ポピンズ』で、自分がどこから来たかをムクドリに語る赤ん坊 (2) 

『帰ってきたメアリー・ポピンズ』で、自分がどこから来たかをムクドリに語る赤ん坊 (1) 
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/04/post-f68a49.html

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パメラ・リンドン・トラヴァース(Pamela Lindon Trvers,1899-1996)の評伝、森恵子『P.L.トラヴァース』(KTC中央出版、2006、p.43)によると、「グルジェフの死後1952年に出版されたトラヴァースのメアリー・ポピンスの物語の第4巻『公園のメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins in the Park、53歳)にはグルジェフの考え方が織り込まれているという。

また、晩年に出版された第9巻『さくら通りのメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins in Cherry Tree Lane、1982年、83歳)、第10巻『メアリー・ポピンズとおとなりさん』(Mary Poppins and the House Next Door、1988、89歳)では、森によると(2006,p53)、ますます「グルジェフの神知学」の影響が大きくなるそうだ。

当記事は神智学の影響を受けたというトラヴァースの代表作であるメアリー・ポピンズの物語にどの程度、ブラヴァツキーの神智学の影響が窺えるかを調べるのが目的であるから、神智学の流れを汲むというグルジェフに踏み込むのは別の機会にしたいと思う。

ブラヴァツキーの神智学の観点から読むと、確かに、いわゆる神智学の影響が色濃く感じられるのは初期のメアリー・ポピンズの物語中第1巻『風にのってきたメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins、1934年、35歳) 、第2巻『帰ってきたメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins Comes Back、1935年、36歳) である。

53歳で出版された『公園のメアリー・ポピンズ』は洗練された作品となっており、トラヴァースの児童文学作家としての成熟が感じられる。神秘主義的な作風であるが、格別に神智学を感じさせられる箇所は見つけられなかった。グルジェフの思想のオリジナルな部分からの影響がそれだけ強いということだろうか。

『さくら通りのメアリー・ポピンズ』と『メアリー・ポピンズとおとなりさん』には、いくらか筆の衰えを感じさせられるものがあった。

しかしながら、この2作品には幻想的というより夢幻的といったほうがいいような趣があり、現実と異世界の境界が曖昧で、このころ既にトラヴァースは異世界の住人となっていたようですらあって、夢見心地で書かれたような何か朧げな、恬淡とした味わいがある。

以上のことから、当記事で採り上げるべき作品は初期の前掲2作品ということになる。ロマンティックなところのある『風にのってきたメアリー・ポピンズ』は過去記事で採り上げたから、ここでは『帰ってきたメアリー・ポピンズ』を採り上げたい。

P.L.トラヴァース(林容吉訳)『帰ってきたメアリー・ポピンズ』(岩波書店⦅岩波少年文庫 053⦆、2001新版)では、アナベルという女の子が4人の下に生まれ、バンクス夫妻は5人の子持ちになるわけだが、そのアナベルがゆりかごの中で、ムクドリの問いかけに答えて、自らの起源を語る。

私見によると、この場面でアナベルが語る3箇所に、神智学色が濃厚に表れているのである。引用する。ここに2箇所ある。

「話しておやり、アナベル!」と、親どりが、しゃがれ声でいいました。
 アナベルは、毛布の下で、手を動かしました。
「わたしは、土と空と火と水なの。」と、しずかにいいました。「わたしは闇[やみ]のなかからきたの。なんでも、はじまりはそこなの。」(トラヴァース,林訳,2001,p175)

旧約聖書の創世記にも「闇」が出てくるが、アナベルが語る「闇」とは重要度が異なる印象である。聖書から見てみよう。

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2019年5月 1日 (水)

令和元年5月1日水曜日

于時 初春氣淑風梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香

初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(きよ)く風和らぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす

ずっと貸出中だった『萬葉集②〈全四冊〉  新編 日本古典文学全集 7』(校注・訳者  小島憲之  木下正俊  東野治之、小学館、1995)を、昨日ようやく借りることができた。

元号「令和(れいわ)」の典拠となった『萬葉集』梅の花の歌三十二首の序文全文を前掲書の訳で読んでおきたい。『萬葉集②〈全四冊〉  新編 日本古典文学全集 7』(校注・訳者  小島憲之  木下正俊  東野治之、小学館、1995)の40~41頁より以下に引用。変換できない漢字は◆とさせていただく。

  梅花の歌三十二首 と序

天平[てんぴょう]二年正月十三日、太宰帥旅人卿[だざいのそちたびときょう]の邸宅に集って、宴会を開く。

折しも、初春の正月の佳[よ]い月で、気は良く風は穏やかである。梅は鏡の前の白粉[おしろい]のように白く咲き、欄[らん]は匂[にお]い袋のように香[かお]っている。そればかりではない、夜明けの峰には雲がさしかかり、松はその雲の羅[ベール]をまとって蓋[きぬがさ]をさしかけたように見え、夕方の山の頂[いただき]には霧がかかって、鳥はその霧の◆[うすぎぬ]に封じ込められて林の中に迷っている。庭には今年生まれた蝶[ちょう]が舞っており、空には去年の雁[かり]が帰って行く。

そこで、天を屋根にし地を席[むしろ]にし、互いに膝[ひざ]を近づけ酒杯[さかずき]をまわす。一堂の内では言うことばも忘れるほど楽しくなごやかであり、外の大気に向かっては心をくつろがせる。

さっぱりとして各自気楽に振舞い、愉快になって、各自満ち足りた思いでいる。

もし文筆によらないでは、どうしてこの心の中を述べ尽すことができようか。諸君よ落梅[らくばい]の詩歌を所望したいが昔も今も風流を愛することには変りがないのだ。ここに庭の梅を題として、まずは短歌を作りたまえ。

 

 

 

以下は占星術の話題ですので、あとで別の記事にします。

昨日、平成と令和のホロスコープとサビアンシンボルについて、少しだけ触れた。国家を占うときにはマンデン占星術という手法が使われる。

ちなみに、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1995改版)の用語解説「星学(Astrology)によると、「マンデーン星学」は気象学、地震学、農業応用に関するものであって、「国家、国王、統治者の未来に関わる国や政治の問題」とは別の分野のものとなっている。ブラヴァツキーの星学に関する長い解説は貴重。 

わたしには占星術は難しすぎるが、引き続き平成と令和について調べる中でまたまた面白い発見があった。ブログの気楽さで断片的な記述ばかりの記事になって申し訳ないが、これについても、のちほど。

初等教育、メディア、娯楽文学(純文学は9室で見るべきだ。メディアと結びつくような村上春樹の文学はメディアと同質であることがわかる)、近隣諸国は3室で見る。ここが荒れていると、これらは皆質を落とす。平成時代はここに気持ち悪いくらい星が集中した。

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2019年4月20日 (土)

『帰ってきたメアリー・ポピンズ』で、自分がどこから来たかをムクドリに語る赤ん坊 (1) 

パメラ・リンドン・トラヴァース(Pamela Lindon Trvers,1899-1996)の評伝、森恵子『P.L.トラヴァース』(KTC中央出版、2006)で彼女が受けた思想的影響をざっと見ていくと、AE(George William Russell  ジョージ・ラッセル,1867-1935)を通じて「マダム・ブラバツキの神知学協会」を知ったトラヴァースは「はじめは疑問をいだいていた」が、『ニュー・イングリッシュ・ウィクリー』の編集者アルフレッド・リチャード・オイレジ(Alfred Richard Orage,1873-1934)の話を聞き、「積極的な信奉者に変わった」。

1933年、AEを通じてオイレジと知り合ったトラヴァースは、1年の交流の間にオイレジの編集する前掲誌の劇評家となり、またオイレジを通じてジョージ・イワノヴィチ・グルジェフ(George Ivanovitch Gurdjieff,1866-1949)に出会ったのだった。オイレジはグルジェフの布教活動をしていたのである。

「マダム・ヘレナ・ブラヴァツキ(Helena P.Blavatsky,1831-1891)の神知学の流れをくむ」グルジェフは、彼の提唱する「仕事」を通じ、「知性と感情と肉体の三つをつなぎバランスをとること」で「本来的自己(霊性)」に目覚め、「それが神性と同じであることを認識し救済に至る」という思想を説いていた。

※グルジェフについては無知で、現時点では未知の人物であるため、評伝をそのまま引用する。ブラヴァツキーの神智学に関する著者の解説は割愛させていただいたが、わたしには違和感があった。

トラヴァースはグルジェフの教えに共鳴した。グルジェフの死後出版された『公園のメアリー・ポピンズ』には、グルジェフの考えが盛り込まれているという。

1963年に京都を訪れたトラヴァースは「アメリカ人で日本人と結婚し、禅の修行を積んだ」ルース・ササキという女性から教えを受けた。また「グルジェフ派のグループの会合にはリーダー格として参加し、インド人の導師クリシュナムルチ(Krishnamurti)をグルジェフの再来として崇拝した」。

1963年、トラヴァースはディズニーによるミュージカル映画『メアリー・ポピンズ』の制作に顧問として参加する。映画は1964年に封切られたが、それはトラヴァースの期待を裏切るものだった。

「エドワード朝の平凡な主婦」のバンクス夫人が「婦人参政権論者」に仕立てられ、「行儀をわきまえているはずの」メアリーのスカートが舞い上がって下着が見え、「アニメ化されたペンギンがファンタジーを損なう」などであった。バートと絵のなかに入る「外出日」が目玉扱いされているのも不満だった。

最もトラヴァースを失望させたのは、「メアリー・ポピンズがただの使用人になってしまい、作品の特徴である神秘性が感じられない」ところであった。

以上、森恵子『P.L.トラヴァース』(KTC中央出版、2006)16~46頁を参考・引用させていただいた。

トラヴァースはケルトの文芸復興運動とも関わりが深そうなので、その方面からも見る必要があるだろうが、ここではただ、神智学の影響を色濃く感じさせる部分を拾うに留めたい。過去記事では『風にのってきたメアリー・ポピンズ』を見ていった。

メアリーが子どもたちの世話役として勤務するバンクス家には、4人の子どもがいた。ジェイン、マイケル、双子のジョンとバーバラである。

P.L.トラヴァース(林容吉訳)『帰ってきたメアリー・ポピンズ』(岩波書店⦅岩波少年文庫 053⦆、2001新版)では、アナベルという女の子が4人の下に生まれ、バンクス夫妻は5人の子持ちになる。

 

❗上でトラヴァースが受けた思想的影響をざっと見たので、このあと『帰ってきた』で、神智学の影響を色濃く感じさせる箇所を引用する予定です。パソコンをつかえないため、iPadで書いており、時間がかかるため、途中ですが、アップしておきます。

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2019年4月16日 (火)

これはショック、ノートルダム大聖堂が……。大聖堂復興に貢献したユーゴ―の文学作品。

<ここから引用>
パリのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris、ノートルダム寺院とも) はゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂1。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。 (……)
ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。
全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成した。全体の色合いから、白い貴婦人とも称されている。 (……)
1789年のフランス革命以降、自由思想を信奉し宗教を批判する市民により、大聖堂は「理性の神殿」とみなされ、破壊活動、略奪が繰り返されていた。1793年には西正面の3つの扉口および、王のギャラリーにあった彫刻の頭部が地上に落とされた。ノートルダムの歴史を語る装飾が削り取られ、大聖堂は廃墟と化した。
その後、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の出版が、国民全体に大聖堂復興運動の意義を訴えることに成功し、1843年、ついに政府が大聖堂の全体的補修を決定した。(……)
2019年4月15日の夕方に大規模火災が発生し、屋根の尖塔が崩落した。フランスのメディアでは、現地で実施されていた改修工事による火災の可能性があると報じられている。 建物内の美術品や聖遺物は、全て搬出された。
<ここまで引用>
「ノートルダム大聖堂 (パリ)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年4月15日 23:00 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

ノートルダム大聖堂の歴史は知らなかった。ノートルダムが聖母マリアを指すことは知っていたが、キリスト者ではないわたしには真っ先にユーゴ―の有名な文学作品『ノートルダムのせむし男』(ノートルダム・ド・パリ)が連想された。

しかし、その作品が大聖堂復興運動や修復に大きく関わっていたとは知らなかった。

そもそも革命以降、ノートルダム大聖堂が廃墟と化していた時期があったことなど、知らない人も多いのではないだろうか。今、ふと思い出したが、ユーゴ―は確かフリーメイソンではなかったか。

<ここから引用>
ヴィクトル・ユーゴー(1802年生) - 作家。著書は『レ・ミゼラブル』など。政治活動家(中年期以降)。ユーゴーはメイソンのDr. Henry Hopkinsに対して自分がフリーメイソンリーに所属していることを認めた。ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』は、メイソンの象徴で満ちている。同小説の「Ceci tuera cela(これがあれを滅ぼすだろう)」の章は、疑う余地なくメイソンリーが反映されている。『レ・ミゼラブル』における秘密結社「ABC(ア・ベ・セー)の友」は、実在の政治的秘密結社「人権協会」がモデルであるが、メイソンリーに類似する。ユーゴーは1871年にルクセンブルク大公国のロッジ「Enfans de la Concorde fortifiée」のメイソンたちと接触した。ユーゴーがメイソンでないという文献もある。
<ここまで引用>
「フリーメイソン」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年4月9日 02:13 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

フリーメイソンは本来は神秘主義的な性格を持つ博愛的な団体で、各結社により個性があった。

ところが、1777年に反神秘主義者であったアダム・ヴァイスハウプトがフリーメーソンとなり、彼のラディカルな思想(ヴァイスハウプトはこれに先立つ1776年にイルミナティ教団を立ち上げている)によってフリーメーソン結社を侵食し始めた。

81 トルストイ『戦争と平和』… ②ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ: マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/04/05/151342

フランス革命には、イルミナティ系フリーメーソンが関わっていたといわれる。

本来のフリーメーソンであれば、暴力革命に賛成するはずがない。ユーゴ―はフリーメーソンだったと思われるが、作品から見る限り、反イルミナティだったとしか思えない。改めて、ユーゴ―について調べる必要を覚える。

いずれにせよ、ユーゴ―は「聖母マリア」を救った。明治期の廃仏毀釈によって破壊され尽くされようとしていた仏教美術を救った一人、フェノロサは近代神智学の影響を受けていた。神秘主義者たちによって貴重な文化遺産が救われてきたことは、あまり知られていない。

キリスト者にとっては聖母マリアの象徴であり、文学を愛する人間にとっては文学の象徴でもあったノートルダム大聖堂があんなことになり、ノーベル文学賞が滅茶苦茶になって……哀惜の念に堪えない。

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2019年4月15日 (月)

山上億良の子供を思う歌、万葉集を愛でた杉田久女

思いついたことをメモするのに、ツイッターは使えそう。自分本位の使い方になりそうです。

億良は瓜や栗を食べながら子供たちのことを思い、また、その子供たちはどこから来たのだろうか、どんな縁で自分のところへやって来たのだろうか――と、考えている。安眠できないほど、子供たちの面影がちらついているようだ。

反歌は次のような歌。

銀も金も玉も何せむにまされる寶子に如[し]かめやも

億良にとって、子供に勝る宝はないのだ。子煩悩な親心が迸り出ている。

「令和」の出典が万葉集ということで、万葉集を読む年になりそう。読んでいると、学校で習ったものが結構あって、なつかしい。

拙FC2ブログで紹介してきた俳人の一人、杉田久女は万葉集に心酔した時期があったようで、その影響を感じさせられる秀句がある。

防人[さきもり]の妻恋ふ歌や磯菜摘む
元寇の石塁[とりで]はいづこ磯菜摘む
寇まもる石畳はいづこ磯菜摘む
磯菜摘む行手いそがんいざ子ども
(杉田久女『杉田久女全集第一巻』89頁、1989、立風書房)

そういえば、久女も子煩悩な人だったようだ。

俳句界のドンであった高浜虚子との確執などあり、一冊の句集も出さずに亡くなった母の思いを、長女の石昌子さんが叶えた。昭和27年10月20日、角川書店より『杉田久女句集』が刊行されている。

図書館から借りた本の返却が迫ってきた。パソコン、インターネット関係に気をとられて、ほとんど読めなかった。メアリー・ポピンズの三冊目から、神智学の影響を感じさせられる箇所を抜き書きしておきたいのだが。 

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2019年4月 1日 (月)

薫り高い新元号「令和」

本日――2019年4月1日13時15分、元号を「令和[れいわ]」に改める政令が官報に掲載され、公布されました。

新元号「令和」は万葉集の梅の花の歌、32首の序文にある次の文章から引用されたとか。典拠が漢籍ではなく、国書――それも日本最古の和歌集――というのは意外でした。

初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す

「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込め、『令和』に決定した」との安倍首相の言葉です。

「令和」が始まる日となる政令の施行日は、皇太子さまが天皇に即位する5月1日。

古い時代の和歌では、花というと、梅を指すことが多いですね。冬の寒さに耐えていた花の中で、梅は一番に莟をふくらませ、開花します。百花の魁[さきがけ]といわれ、「春告草」の別名がある、大変おめでたい花です。

ウィキペディア「万葉集」には、次のような解説があります。

『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人々が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので(うち作者不詳の歌が2100首以上ある)、759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、体裁が整った成立は759年以後の、780年頃にかけてとみられている。
和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており、日本文学における第一級の史料であることは勿論であるが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。
また、日本史上初めてその出典を漢籍に求めなかった元号「令和」は、この万葉集に収められた一文が元である。(略)
編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。
「万葉集」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2019年4月1日 07:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

ウィキペディア「万葉仮名」によると、万葉仮名の最も古い資料と言えるのは、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣で、漢字の音を借りて固有語を表記する方法は5世紀には確立していたそうです。平安時代には万葉仮名から平仮名・片仮名へと変化していきました。

江戸時代の和学者・春登上人は『万葉用字格』(1818年)の中で、万葉仮名を五十音順に整理し〈正音・略音・正訓・義訓・略訓・約訓・借訓・戯書〉に分類した。万葉仮名の字体をその字源によって分類すると記紀・万葉を通じてその数は973に達する。
「万葉仮名」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年11月23日 14:59 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

古い時代から長い時間をかけて整えられてきた文字を、わたしたちは今、日本語として使っているわけです。

令という字でわたしなどが思い浮かべるのは命じるという意味ですが、同時に「令室」「令嬢」という敬称としての使い方も思い浮かびます。他に、「よい」「立派な」という意味もあるのですね。

令月はよい月という意味のようです。

梅を愛でる日本人の感性は、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集『新古今和歌集』などにも脈々と受け継がれ、江戸時代に生きた萬子媛が愛した『新古今和歌集』の中の藤原俊成女の歌にも梅が出てきます。梅は俳句でも盛んに詠まれてきました。

平成にはよいことも沢山ありましたが、物書きのわたしからすれば、わが国の文化――その中でも文化と深い結びつきのある文学――が貶められた時代だったとの印象が強いのです。

文化が損なわれるということは、日本の国柄が損なわれるということです。香気が薄れるということです。

新元号に、日本文化の回復と深化を期待し、外国から日本に訪れたり、滞在したり、帰化している方々にもそのような思いが伝わればいいなと思います。

ところで、3年前に「令和」を予知した人がいるようで、話題になっています。何気なく書かれているだけに、驚きです。未来人の予言は全滅ですね。

https://twitter.com/syaaaan_/status/753177564164653056

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2019年3月19日 (火)

末吉暁子『星に帰った少女』(偕成社、2003改訂版)を読んで ※20日に加筆あり、緑字

児童小説、末吉暁子『星に帰った少女』(偕成社、2003改訂版)を読みました。

ネタバレあり、ご注意ください。

佐藤さとる氏の解説によると、イギリスの女流作家フィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』が日本に紹介されたときの影響力は大きく、同じ手法を追う試みがいくつかなされたそうだ。『星に帰った少女』も、直接か間接か影響を受けているかもしれないという。

主人公マミ子がママから貰った古いオーバーのポケットに入っていたバスの回数券を使ってタイムトラベルするというストーリーだから、解説を読む前の作品を読んでいる途中で、わたしもピアスの作品を連想した。

12歳の誕生日の晩、母子家庭でママの帰宅を待つマミ子。マミ子の気持ちにあまり寄り添わない、キャリア志向のママ。古びたオーバーを貰って困惑するマミ子の気持ちも、率直な物言いをするママの気持ちもよく書けている。オーバーはママが大層大事にしていたものだった。

東京からタイムトラベルした、敗戦後間もない昭和24年の海辺の町。富士山が間近に見える。進駐軍が何気なく出てくる。町の様子は丹念に、叙情味ゆたかに描かれ、「昭和」の薫りが郷愁を誘う。

マミ子はその町で、同じ12歳のママ、杏子と出会った……これはもしかしたらピアスにも勝る第一級の児童小説ではないだろうか、とわたしは興奮した。

だが、後半部、その感激は徐々に冷めていき、竜頭蛇尾の印象に終わったことを残念に思う。

ママが再婚を匂わせるようになり、その相手の男性トシさんをマミ子は受け入れていたはずだった。ところが、トシさんといるときのママに違和感を覚え、反発した態度をとってしまう。

その場面の描写は秀逸である。長くなるが、勉強のためにも引用しておこう。

 とつぜん、ふたりのわらい声がきこえた。ふりかえると、ママはその場に立ちどまり、おなかに手をあて、身をよじってわらっている。いっぱいに、ひらかれた赤いくちびる……切れめなしに、あふれでてくるわらい声。
「ママったら、道のまんなかでみっともない……」
 トシさんも、そんなママをたのしそうにみている。両手をポケットにつっこみ、じょうだんでママをわらわせた、とくいの表情をして……。
 ママのあんなわらい声を、一度もみたことがない……。
「そう、あたしは、これまで一度もわらわなかった。だからいままでのぶんも、いっぺんにとりもどしているのよ。」
 かん高いわらい声は、そういっていた。
 マミ子は、きびすをかえして歩きだした。駐車場にはいかず、駅にむかって、どんどん歩いた。
 ふりかえると、絵の具箱をぶちまけたような色彩のなかを、みしらぬ顔、顔がうごめいているだけだった。
(末吉,2003,pp.193-194)

無防備に女としての自分をさらけ出しているママに対するマミ子の生理的な嫌悪感、トシさんに対する敗北感、孤独感といった一連の心の動きが実に巧みに表現されている。

それなのに、そこからの展開は、マミ子の心情を切り捨てた、ママ側に立ったご都合主義の要素が強まるのである。

古びたオーバーは、海で溺死したマミ子の祖母がママにくれたものだった。海での事故は、小学6年生だったときのママ、杏子が母の再婚をうまく受け入れることができなかったことに起因する不幸な事故だった。

つまり、杏子とマミ子は同じ年齢のときに、母親の再婚を受け入れることができないという同じ問題を抱えていたわけである。

海が荒れてきていたのに、杏子は母と再婚相手に無茶をいって、大きな鳥のように見える舟で海に出て行かせた。舟は転覆し、一人しか助けられない再婚相手に娘を助けてくれるように頼み、杏子の母は海に沈んでいった。

作者は、同じ体験をさせることで、それを通過儀礼のように用いて、杏子ができなかった受容をマミ子に果たさせようとする。

祖母を呑み込んだ海にやってきたマミ子は、砂浜で一人、鳥のように見える舟に乗り込む。舟はなぜか海へと動き出し、やがて転覆して、マミ子は海に放り出される。

ここで読者は、オカルティックな忌まわしい現象か、亡き祖母による神秘的な救いかのいずれかを期待するのではないだろうか。

作者は他の救いを用意していた。事前にビーバーみたいな歯をした少年との出会いがあり、その少年に救出されるのである。

海に投げ出されたとき、マミ子の手さげかばんも一緒に海に投げ出された。かばんには12歳のときのママが綴った日記も入っていた(日記にはマミ子との出会いと事故のトラウマが綴られていた)。

日記が海に消え去ったことが、厄落としにでもなったかのようなことをママはいう。あれほどマミ子が貰ったオーバーが大事にされていたわりには、祖母の出番は全くない。

次のようなことをマミ子にいうとき、ママには母性の欠片も見あたらず、子供のように直截的である。

マミ子がいてくれるのが、生きていく支えだったんだけど……でもね、マミ子、いま、ママは、もっと必要な人がいるのよ。ママの足りない部分をおぎなってくれるおとなの人が……
(末吉,2003,p.259)

「マミ子はママにとってかけがえのない娘だけど、トシさんもママにはかけがえのない人なの。」といえば、マミ子の心証も違っただろう。尤も、あなたは不要といわれたも同然のマミ子は、溺れかけた体験が通過儀礼となったらしく、大人びた理解者にバージョンアップ(?)していて、さほど傷つくこともない。作者の思惑通りに、ママの再婚を祝福するのである。おまけのように、そこにはビーバーのような歯をした少年もいる。

めでたし、めでたしで、納得できないのは読者であるわたし一人だけだ。

比べようのないものを、無理に比べる必要があるのだろうか。母性愛と異性愛のどちらが重いか、量ることができるのだろうか。ハッピーエンドがそんなに貴重だろうか。

杏子はかつて母親を失ったように、今度は娘を犠牲にしようとしているように思えてならない。当座の「必要」、そのときの自分の都合だけで物事を判断する、身勝手な人間に思えてならない。

子供をネグレクトしたり、不倫したりする人間は、杏子型の単純な思考回路の持主ではないかとわたしは穿った見方さえしてしまう。

割り切れないものを割り切れないままに、通常の見方とは異なる視点から描くのが純文学だとわたしは考えているので、割り切れないものを切り捨てて茶番劇のような終わり方をしたこの作品が『トムは真夜中の庭で』のような純文学作品だとはわたしには思えない。エンター系かといわれると、そうなのかどうか、わたしにはわからない。

タイムトラベルという技法の用いられかたは、両作品によって、はっきりと異なる。

『トムは真夜中の庭で』では、同じ場所を別の視点から見ることが目的である。そうすることによって、今は失われた庭園が息づき、そこに展開していた――今につながる――人間関係が浮かび上がってくる。タイムトラベルは、歴史を紐解くという本来の役どころに納まっている。

『星に帰った少女』では、タイムトラベルはマミ子の「教育」に用いられている。ママの12歳のときの体験を娘に追体験させ、ママの理解者に育てるための「教育」である。

小学6年生には無理な成熟を促がそうというわけだが、人の成熟は社会を含めた大自然が促すもので、タイムトラベルには土台無理なお役目なのである。

トムはタイムトラベルしたことで、内面的な成長を遂げたようでもあるが、神経過敏になった。タイムトラベルすることによって歴史の思わぬ闇を体験し、精神的損傷を受ける可能性もあったのだ。タイムトラベルは、トムにとってスリリングな冒険だった。

マミ子には、「成熟」という課題が与えられており、タイムトラベルがもたらす過去の歴史はそのために整えられた教育環境にすぎないから、マミ子はタイムトラベルがもたらすかもしれない弊害からはあらかじめ作者によって保護されているのである。

マミ子のタイムトラベルはトムの場合に比べれば小手先の教育対策にすぎず、冒険というよりは修学旅行だろう。

平家物語をモチーフとした末吉暁子『波のそこにも』(偕成社、2015)は、着想の卓抜さ、「水底[みなそこ]の国」のファンタスティックな描写の美しさに心惹かれたが、神秘性がもう一つ感じられず、次第に単調に思われ出した。

わたしの好みから出た感想にすぎないが、美点を考えれば、この作品も『星に帰った少女』同様、残念な作品に思われた。わたしのようなヨチヨチ歩きの物書きからすれば、こんなに長く綺麗な文章で書き通すことができるということだけでも、凄いことだと思うけれど。

割り切れないものを強引に割り、余りは切り捨ててしまってハッピーエンドに納まるパターンは、今のわが国の児童文学にはよく見かけるものだ。それが教科書とされているからだろう。

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2019年3月13日 (水)

歴史短編1のために #51 直朝公の愛

今は京都御苑となっている、かつては200もの公家屋敷が立ち並んでいた町で、萬子媛はどのような暮らしを送られていたのだろう? 

萬子媛は二歳で、祖母である清子内親王の養女となり(萬子媛の母が亡くなったためではないかとわたしは想像している)、鷹司家でお暮しになっていたと思われる。清子内親王は鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号していた。

以下の写真付きブログ記事を閲覧させていただいて、わたしは貧弱な想像力を掻き立てようとしている。鷹司邸跡の標示……

京都御苑の公家跡: 京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1
https://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/41415018.html

<ここから引用>
江戸時代まで、今の京都御苑には、200もの公家屋敷が立ち並んでいたそうです。(……)
江戸時代末の慶応年間の公家屋敷図によれば、京都御苑には、大きな屋敷としては、北に近衛家と桂宮家、西北に一條(一条)家、中央に有栖川宮家、西南に嘉陽宮家と閑院宮家、南に九條(九条)家と鷹司家があったことがわかります。
<ここまで引用>

以下のブログ記事では、京都御苑内にある「花山院邸跡」と刻まれた石碑と、花山院家の邸宅で祀られていた邸内神「花山稲荷大明神」を閲覧させていただいた。

花山院家邸内にあった花山稲荷大明神: 京都観光旅行のあれこれ
https://kyotohotelsearch.com/blog/2018/06/07/kazaninaridaimyojin/

<ここから引用>
また、日本三大稲荷のひとつとされる佐賀県の祐徳稲荷神社は、花山院家の姫が鍋島家へ嫁いだ際に祀った分霊であり、「祐徳」はその姫の謚(おくりな)だそうです。
花山稲荷大明神は、京都を中心に庶民から公家・宮中さらには徳川将軍家をはじめ諸大名の江戸屋敷にも分霊や御札が祀られていました。
今は、宗像神社に小さな社殿が残るだけですが、信仰は全国に広がり、今もなお各地の分霊が祀られている神社に多くの人が参拝しています。
商売繁栄、産業興隆、書道・技芸上達の信仰も篤いそうですよ。

<ここまで引用>

養子に行ったといっても、同じ公家町内のこと。萬子媛は花山院家にちょくちょく行かれていたのではないだろうか。

鹿島鍋島家に嫁いでからも、花山院家との親密な関係が続いていたことは鹿島藩日記からも窺える。

ところで、井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収「直朝公」(普明寺蔵『鹿島家正系譜』収載)を読むと、直朝公が元禄四年(1691)辛未春正月二十一日、70歳のよろこびの礼を行い、申楽[さるがく](能楽)を花頂山に奏したとあり、「毎歳今日(この日)に必ず申楽[さるがく]有るは侯の誕辰(誕生日)を以[もっ]ての故[ゆえ]なり」(井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92)と記されている。

ならば、同じ『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』所収「断橋和尚年譜」に、断橋和尚が54歳の宝永二年乙酉(1705)に記されている、次の箇所はどうだろう?

<ここから引用>
猛春十八日、祐徳院殿瑞顔大師の耋齢(八十歳)の誕を祝するの序略に云う、
<ここまで引用>
(井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92)

萬子媛80歳のお祝いが誕生日当日に行われたとは限らないが、直朝公は自分の誕生日に拘りがあったようだから、その直朝公が妻の80歳の誕生日に贈り物をしたことが三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)に記されているとなると、妻の誕生日にも拘ったのではないか……と思いたくなるではないか。

つまり、その猛春十八日が萬子媛のお誕生日ではないかと。猛春には、春の初め、旧暦1月という意味があるが、『鹿島藩日記 第二巻』宝永二年乙酉正月十八日の日記に次のように記されている。

<ここから引用>
一、今日、祐徳院様八十之御祝誕ニ付而、従 殿様為御祝儀、御野菜被進候、左ニ書載、
   一、午房       一、山芋
   一、昆布       一、椎茸
   一、田鴈       一、蓮根
      
 右一折二〆
   一、蜜柑一折
 右、御使者木庭彦兵衛相勤、介副池田新内、

<ここまで引用>
(井上・伊香賀・高橋編,2016,pp.343-344)

何というささやかな、心づくしだろう! 修行に勤しむ妻に合わせた贈り物なのだ。直朝公から贈られた食材は調理され、萬子媛の80歳を祝う食卓を飾ったに違いない。

過去記事に書いたように、この年の閏四月十日、萬子媛は危篤となり、その日、直朝公から付き添う人々におこわと煮しめが届けられている。

2018年8月15日 (水)
歴史短編1のために #39 鹿島藩日記第二巻ノート (1)萬子媛の病気
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/post-caf5.html

閏四月十日(6月1日)の日記には様々なことが書かれている。[略]
同日、萬子媛の病床に付き添っている人々に、殿様からこわ飯(おこわ)・煮しめ物重二組が差し入れられた。萬子媛はこの日の「今夜五ツ時」――夜8時に亡くなった。

直朝公は家を出て修行三昧だった妻を全身全霊で愛し、気遣っていられたのではないだろうか。いやはや、ここまで思われちゃ、断食入定なんてできないだろうなあ。

で、萬子媛の仮ホロスコープを作成してみた。フィクションである小説の中の萬子媛のイメージを膨らませるために。これは、わたしの勝手な憶測です。寛永二年一月十八日は、西暦に変換すると、1625年2月24日。

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