カテゴリー「文学 №1(総合・研究) 」の529件の記事

2017年12月27日 (水)

ホラーさながらの文学コンクール

ある絵本コンクールの応募要項を怖いと思うのは、わたしだけだろうか?

「応募者は著作人格権を行使しないことを前提とします」だなんて。

一身専属の権利であり、譲渡できない権利であるために、「著作者人格権は行使しない」旨の条項を設けておくことが他の分野などでも流行っているようで、これだけでも充分に怖いのに、ホラーさながらなのはその対象が受賞者ではなく、応募者となっているところだ。

足を踏み入れたが最後、数名の受賞者以外は娑婆に戻ってこられる者(作品)はいない。あらかじめ人権(著作人格権)は剥ぎ取られているのだから、戻ってこられない者(作品)がそこで人間(作品)らしい扱いを受けられる望みはない。

純文学系新人賞の募集要項に「他の新人賞に応募したものは対象外とする」とあるのも立派なホラーだ。

「他の新人賞を受賞したものは」ということではない。

一度でもどこかにチャレンジして落ちたら、もうその作品はどこにも出せないのだから、裏では既に決まっていることも多い新人賞のどこかに出したが最後ということだ。

奴隷売買人に似た非情さを持ち、簡単に我が子を捨てる親に似た無責任さを持ち合わせなければ、現代日本ではもはや作家を志すことはできなくなったということである。

そうやって勤しむ行為は、芸術に属する文学活動などとは到底いえず、穴を掘っては埋める作業に等しい苦役にすぎない。

こうした規定に、純粋に文学を愛し精進している作家の卵潰し以外のどんな目的があるのか、わたしにはさっぱりわからない。

|

2017年12月16日 (土)

(書きかけ)歴史短編1のために #33 『断橋和尚年譜』に描かれた萬子媛②

師走の慌ただしさで、調べものをしていても気が急く。気が急くと、集中力が削がれ、現時点での本当に必要なこととそうでないことの区別が曖昧になり、余計なことをしてしまったりして、よけいに時間がかかることになる。

ここ数日、『断橋和尚年譜』の内容が気にかかり、気が急きながらもこれをノートしているため、とんでもない引用ミスや解釈ミスをしでかしてしまうかもしれない(このノートは素人の試行錯誤の創作のためのノートにすぎないので、参考にしないでください)。

ネットや漢和辞典での旧字体探しが半端ない~! 旧字体は文字化けしたりしそう。

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

の続きになる。

ごく簡単に復習すると、『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集=井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、発行=佐賀大学地域学歴史文化研究センター)所収『断橋和尚年譜』の執筆者は元徳大愚、執筆年は享保6年(1721)。

鍋島直朝の長男である断橋(直孝)は承応元年(1652)に生まれ、正徳5年(1715)に没している。

わたしがどうしても気にかかるのは、萬子媛(祐徳院)の死についてである。断食入定であったという確証がこれまでのところ黄檗禅寺の記録からは掴めていないからだ。

それを想わせる記述はあっても、短い、抽象的な書きかたで、神社の由緒記に明記されているようなはっきりとしたものではない。

『断橋和尚年譜』の記述に関しては、断橋が義母であった萬子媛を弔った詩を含めて、このあと見ていきたいが、前掲書所収『円福山普明禅寺創建事由略記』には、萬子媛の死が次のように記されている。書き下し文から引用する。

世寿八十歳、臨抹消頭[右宝永二乙酉年四月初十日]、平生の如くして帰寂(逝去)す。法骸は、院の乾(西北)丘巌阿に窆[ほうむ]り、扁して華蔵窟と曰う。故[ゆえ]を以て今、当院僧房と作[な]ると雖[いえど]も、永く大師を院の開基と尊崇する者なり[大師、曽臣家にに在る時、紅綃に製作されし官服乙具、并びに家系図等、院の宝庫に鎮蔵す]。 (『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』15頁)

萬子媛は平生の如くに逝去し、遺骸が葬られた窟には「華蔵窟」という横額が掲げられた。『断橋和尚年譜』には「不蔵顔」と掲げられたとある。

逝去後に遺骸が移されたように読めるが、凡庸な死にかたとは思えない表現である。

執筆年は延享五年(1748)、著作者は際祥聚海。

解説によると、『円福山普明禅寺創建事由略記』と『断橋和尚年譜』は昭和8年、21代鸞峰和尚によって合本された。「普明寺由緒、祐徳院関[と]じらるるに及び、記録・典章、寺院に殆ど絶ゆ。幸いに此のニ珍書有り、実[まこと]に是れ什宝[じゅうほう](宝物)なり」とあり、明治期の廃仏毀釈の爪痕を見る思いがする。

danger この記事は書きかけです。

|

2017年12月11日 (月)

下調べに終わった萬子媛をモデルとした歴史小説の第二稿、しかし収穫は大きい

萬子媛をモデルとした歴史小説の第二稿は、下調べで終わった今年でした。

しかし、収穫は大きかったように思います。

現代感覚で、当時の人々の信仰心というものを考えていたときは何も見えてきませんでしたが、取材や史料漁り、また自身の神秘主義的な感性を通して見た世界は、現代感覚で描かれた歴史小説の世界とは別世界といえました。

萬子媛は文化形成に携わる専門家の家系――公家――の出ですが、当時の公家が経済的に困窮し、活躍の場のなさといった問題点を抱えていたとしても(以下の過去記事参照)、その役割の重要さや意識の高さには見るべきものがあると思います。

初の歴史小説 (39)後陽成天皇の憂鬱 ②猪熊事件の背景にある公家の境遇    
http://elder.tea-nifty.com/blog/2014/09/39-ea87.html

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、ノートからエッセーにまとめたものを公開しています(無造作なまとめかたではありますが)。

祐徳稲荷神社の創建者、鹿島藩主鍋島直朝公夫人萬子媛に興味のあるかたは、のぞいてみてください。

神秘主義的な捉え方を基調としたエッセーですが、わたしは宗教とは本来このようなものだと思っています。萬子媛について調べる過程で、その確信が強まりました。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/10/210502

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355

72 祐徳稲荷神社参詣記(複数の取材) ③2017年6月8日
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

74 祐徳稲荷参詣記 ④神仏習合
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/09/18/194428

|

2017年11月29日 (水)

歴史短編1のために #32 『断橋和尚年譜』に描かれた萬子媛①

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集=井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、発行=佐賀大学地域学歴史文化研究センター)には21の著作が収められている。鍋島直條の著作とされている――署名には別人の名があるので、代筆によるものと思われる――『祐徳開山瑞顔大師行業記』もそのうちの一つだ。

その中に、『断橋和尚年譜』というのがあって、昨日これを読み、発見があった。

『断橋和尚年譜』の執筆者は元徳大愚、執筆年は享保6年(1721)。

原文は漢文で、書き下し文が添えられているのだが、わたしにはその書き下し文すら難しく感じられるため、そのうち『断橋和尚年譜』もちゃんと読まなければと思いつつ、放置してしまっていたのだった。

それが昨夜『断橋和尚年譜』を読み、なぜもっと早く読まなかったのだろうと思った。

断橋は、萬子の夫・直朝の長男で、後継として大名になった直條の兄に当たる。病弱だったために大名とならず、出家した。

『断橋和尚年譜』はこの断橋の小伝といってよい作品で、断橋の生き方自体に神秘主義者のわたしとしては興味深いものがある。

というのも、度々霊夢を見たと書かれていて、その内容に圧倒されるのである。何とも荘厳なのだ。わたしはまるで、神智学の文献を読んでいるような気がした。

断橋の夢には神仏習合のきらびやかさがあって、中にはお告げと思われるものもある。

しかし、断橋和尚は知的な人であったようで(黄檗禅がそうしたものでもあったのだろう)、夢には妄想の変形にすぎないものと神的なものとがあると解釈し、夢がどちらの性質のものであるかということを熟考して、見た夢について他人に語らなかったことも多かったようだ。

『断橋和尚年譜』中、萬子媛に関する記述は4箇所ある。瑞顔大師とあるのは萬子媛のことである。萬子媛の小伝『祐徳開山瑞顔大師行業記』に「大師、諱[いみな]は実麟[じつりん]、号は瑞顔[ずいがん]、洛陽(京都)の人なり」(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』72頁)とある。

注目したのは、1689年と1705年に萬子媛の誕生祝を行ったと記されている箇所だった。

1705年の場合は、「猛春十八日」に「耋齢(80歳)の誕を祝する」と書かれている。

旧暦では1月から3月までを春(猛春・仲春・季春)、4月から6月までを夏(孟夏・仲夏・季夏)、7月から9月までを秋(孟秋・仲秋・季秋)、10月から12月までを冬(猛冬・仲冬・季冬)とし、1月を睦月、正月、猛春、早緑月、太郎月、初空月などと称する。

旧暦1月18日に萬子媛の80歳を祝うパーティーが行われたのだろう。

そしてまた、「この歳の夏、大師、偶[たま]たま痾[やまい]染[うつ]りて起[た]たず。四月初十日を以て、畢[つい]に本院に帰寂す。全身を送り、石壁停傍の岩窟中に葬る」(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』92頁)と書かれているではないか。

この記述からすると、萬子媛は4月にたまたま伝染病に罹り、それが原因で亡くなって、亡骸を石壁停傍の岩窟中に葬ったように思わせられる。

しかし、祐徳稲荷神社の公式ウェブサイトの「石壁社[せきへきしゃ]・水鏡[みずかがみ]」の「ご祭神|萬子媛(祐徳院殿)」には、「齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました」<https://www.yutokusan.jp/sanpai/sekiheki.php>(2017年11月29日アクセス)とあり、他の史料や伝説の存在からも、萬子媛の断食入定はまず間違いのないところだろう。

黄檗宗の大本山・萬福寺(宝物館)への電話取材からも、断食入定が修行法の一つとして存在していたことが確認できている。(拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」中、「72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日(収穫ある複数の取材)」を参照されたい →ここ

元禄17年(1704)に直條によって著されたとされる『祐徳開山瑞顔大師行業記』には、萬子媛の断食入定に関連した次のような記述がある(書き下し文から引用する)。

大師、今[こん]歳[さい]、春秋[しゅんじゅう](年令)七十有九、自[みずか]ら残生の久しく存すべからざるを念(おも)う。乃[すなわ]ち(そこで)、院後の石壁亭の側に就[お]いて、自らの寿蔵(生前につくる墓)を造り、以[もっ]て百年の後に備う。この日、工竣[おわ]り、余にこれを視んことを請う。(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』73頁)

79歳になった萬子媛は自分が長くないことを悟り、断食入定の準備として、石壁と称されるあずまやの側に生前墓を築かせ、直條に視察を要請したのだ。

そして、翌年80歳の祝いを終えた後の閏4月に、断食入定を実行した。萬子媛は、最後の気力・体力を振り絞って大事業に挑まれたのだろう。

次のような経緯を経て、萬子媛の死は訪れたと思われる(前掲拙ブログ収録のエッセー 72 から引用する)。

萬子媛は寿蔵に入ったあと、水はお飲みになった可能性が高い。

毎日お経を唱え、水を飲んで、入寂のときまで……。

郷土史家・迎昭典氏が提供してくださった資料の中に『鹿島藩日記』からの抜粋があり、それには入寂を伝える様子が生々しく記されている。

鹿島藩日記抜粋  宝永二年(1705年)以下()内はすべて注書き
 閏四月十日

一 今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之由、外記(岡村)へ、番助(田中)・石丸作左衛門より申来。

迎氏の解説によれば、祐徳院様(萬子媛)の入寂は、宝永2年(1705)閏4月10日(太陽暦にすれば宝永2年6月1日)のことだった。この年は4月が2回あり、閏4月の前に4月があったという。

『断橋和尚年譜』からわかったことは、義理の息子・断橋も萬子媛同様に、神秘主義的体験を持つ僧侶であったということである。

|

2017年10月30日 (月)

ブラヴァツキー(アニー・ベザント編、加藤大典訳)『シークレット・ドクトリン 第三巻(上)』を読んで

当記事は、アマゾンの拙レビューに加筆したものです。

レビューを書いた時点では品切れでした(新古品、中古品は表示されていました)。

H・P・ブラヴァツキー(アニー・ベザント編、加藤大典訳)『シークレット・ドクトリン 第三巻(上)――科学・宗教・哲学の統合――』
文芸社 (2016/8/1)
ISBN-10: 4286172430
ISBN-13: 978-4286172439

ブラヴァツキーの二大大著は『シークレット・ドクトリン』と、その前に書かれた『Isis Unveild』です。

ブラヴァツキーが生まれたのは1831年、すなわち日本では江戸時代の天保年間で、亡くなったのは1891年、明治24年です。どちらもそんな昔に書かれたとはとても思えない内容です。

『シークレット・ドクトリン』の原典第一巻の前半に当たる部分が宇宙パブリッシングから『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》』というタイトルで出ています。
第二巻が人類発生論。
第三巻の前半部分が、この加藤大典氏の翻訳による『シークレット・ドクトリン 第三巻(上) ――科学、宗教、哲学の統合―― 』で、未完に終わっていたものがアニー・ベサントの編集で世に出た貴重なものですね。アニー・ベサントは神智学協会第二代会長を務めました。

ただ、『シークレット・ドクトリン』の最新版であるジルコフ版から訳出されたH・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1989)の凡例には「原典『シークレット・ドクトリン』(英文)は四巻になる予定であったが、“第三巻”と“第三巻”は結局出版されなかった」と明記されているのです。このあたりの複雑な事情については冒頭に掲げられたジルコフによる「『シークレット・ドクトリン』の沿革」(松田佳子訳)に詳しく書かれています。
そして、ジルコフは「数年もの間多くの論議をかもした」第三巻、第四巻に関しては、「以上、我々は様々な意見を引用してきたが、第三巻、第四巻の原稿存在に関しはっきりとした是非は下せない」と結論づけています。

『Isis Unveild』の前半に当たる部分の邦訳版が『ベールをとったイシス〈第1巻〉科学〉』上下巻で竜王文庫から出ていますが、わたしはこのアニー・ベサントの編集による『シークレット・ドクトリン 第三巻(上) 』を読みながら、『ベールをとったイシス』の続きを読んでいるような気がしました。

アカデミックの世界ではグノーシス主義の定義すら曖昧でしたが、死海文書やナグ・ハマディ文書の発見により、グノーシス主義の輪郭や初期キリスト教に関することが次第に明らかになってきています。
『シークレット・ドクトリン』より前に書かれた『ベールをとったイシス』には、それらに関する多くの記述があります。またアリストテレスはプラトンの教えをどう間違って伝えかを的確に指摘していますし、プラトン哲学の核となったピタゴラス哲学に内在するインド的(バラモン教的)概念の抽出を行っています。古代イスラエル人は何者だったのか。国家集団の中で最古のものだったインドとエジプトはなぜ似ているのか。アトランティスに関する記述も、そうした考察と関連する中で出てきます。

この『シークレット・ドクトリン 第三巻(上) 』では、プラトンの著作、新旧両聖書、エノク書、ヘルメス文書、カバラ文書などが採り上げられており、ブラヴァツキーは様々な推論や学説を紹介しながら、世界の諸聖典の中にある秘教的寓意と象徴に隠された意味を明らかにしていきます。

ちなみにブラヴァツキーがインドという場合には太古の時代のそれを指すそうで、上インド、下インド、西インドがあって、ブラヴァツキーが『ベールをとったイシス』を執筆した当時にペルシア - イラン、チベット、モンゴル、大タルタリーと呼ばれていた国々も含まれるそうです。

ウィキペディア「タタール」に、「モンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた」とあります。

また、『シークレット・ドクトリン』の宇宙発生論では、「一太陽プララヤ後の地球惑星体系とそのまわりの目に見えるものの(宇宙)発生論だけが扱われている」(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)とありますので、『第三巻(上)』を読む場合にも、このことに留意しておくべきでしょう。

『シークレット・ドクトリン 第三巻(下) 』の上梓も心待ちにしています。

これ以前に、加藤氏の翻訳によるブラヴァツキーの『インド幻想紀行』を読みました。とても面白い本でした。『シークレット・ドクトリン』は副題に科学・宗教・哲学の統合とあるように、学術的で、難解なところのある論文ですから、読み進めるには当然ながらその方面の教養が要求されますが、『インド幻想紀行』は一般の人にも読みやすい本ではないかと思いました。

|

2017年10月22日 (日)

「歴史短編1のために #31」に追加(メモ)。インターポット・アバター。

ノート31に加筆すべきだが、選挙に行き、そのまま家族で出かけるため、今日は時間がとれそうにない。追加したいことをざっとメモしておこう。

息子が送ってきてくれたお菓子の写真もアップしたい(ドイツのベルリンに出張だったのだが、お菓子はフィンランド空港で買ったとのこと。フィンランド航空を利用したため、フィンランドで乗り継ぎがあったとか)

今日はインターポットのキラポチできないかも。間に合わせたいのだけれど……何だかキラポチが家事の一つみたいになってしまった。小説をアップしておられるかたがあったり(リンクからブログにお邪魔して拝読している)、面白いつぶやきに出合ったりもし、勿論日々変化する庭や部屋を鑑賞することも結構楽しいのだ。

以下、メモ。

井上敏幸・中尾友香梨『文人大名鍋島直條の詩箋巻』(佐賀大学地域歴史文化センター、2014)によると、梅嶺、鳳岡、竹洞は直條にとって、黄檗禅、漢文学、漢詩文の師であったらしい。また次のように書かれている。

「直條の十五歳という年は、鹿島藩第四代藩主となることが決定し、人生の方向が定められた年であったと同時に、和歌・漢詩文・禅の道に邁進する文人大名の出発点であったことが確認できるのである。」

この引用はオンライン論文からだが、前に本を図書館から借りた。再度借りて熟読したい。

前掲書によると、兄格峰も、弟直條も度々大病にかかったという。弟以上に病弱だった兄は直朝の後継者(鹿島藩主)とはならず弟に譲り、自身は黄檗禅にあこがれ、仏道へ身を投ずることとなった。

直朝の息子たちは和歌・漢詩文・禅を好んだが、そこには萬子媛の大きな影響があったのではないかと思われる。そのこころざしは如何にも純粋であり、そのような清浄、自由な学術的雰囲気が萬子媛によって醸成されていたものと見ることができよう。

萬子媛がおなかを痛めた2人の子供はいずれも病死。義理の子供たちも病弱だったとあって、萬子媛は大変だっただろう。

高齢出産や長命だったことからして、萬子媛のほうは生涯を通じて強壮な人だったのかと思っていたのだが、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の記述によると、萬子媛自身も出家するまでは病弱だったようだ。特に子供たちを亡くしたあとの病気。『祐徳開山瑞顔大師行業記』から引用しておきたい。

後鳥羽院歌壇で活躍した3人の女性歌人――式子内親王、宮内卿、俊成卿女についてもう少し本から引用し、加筆しておきたい。

夭折歌人・宮内卿の透明感のある明晰な歌を読んでいると、わたしが詩人と呼んでいた亡くなった女友達の詩を連想する。

健保元年二月七日、四十三歳の俊成卿女は、出家して天王寺に参籠[さんろう]した(『明月記』)。けれどもこれは遁世の出家ではなく、夫通具への別れと独立の宣言であった(森本元子)。中世においては、夫存命中の妻の自由出家は婚姻の解消を意味し、出家によって世俗女性を縛る制約から放たれ、自由な立場を手に入れた。俊成卿女の出家はまさにこれにあたるものであろう。(田渕,2014,p202)

この文章の引用のあと、「萬子媛の場合も、夫存命中の出家であった。息子の急死がきっかけだったのだろうが、俊成卿女の出家のような意味合いも含まれていたのかもしれない」とわたしは書いたが、萬子媛の入った祐徳院が鹿島藩主・直條の経済的援助に頼っていたことは間違いない。

しかし、出家によって、どうやら重荷だったらしい親戚づき合い(『祐徳開山…』から引用)からは解放されただろうし、精神的な自由を手に入れて、自分の望む生きかたができたことには大きな意義があっただろう。

とはいえ、死後も大衆に仕えるという千手観音さまのような、わたしのような凡人にはとても考えられない険しい道を選択なさったわけだ……

|

2017年10月21日 (土)

歴史短編1のために #31 扇面和歌を通して考察したこと①

何度も同じことを書くようだが、初めて当ブログにお見えになるかたもいらっしゃるので、萬子媛をご存じない方にためにざっと書いておくと……

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。

祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。断食入定による死であった。

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(俊成卿女[しゅんぜいきょうじょ])の歌が揮毫されている。

実家である花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9(1696)年――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、俊成卿女の次の歌である。

梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

俊成卿女は藤原定家の姪だった。

田渕句美子『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今和歌集(角川選書536)』(KADOKAWA、2014)によると、平安末期から鴨倉初期に歌壇を先導した歌人が藤原俊成で、定家はその子、俊成卿女は孫娘に当たる。

俊成卿女は父の政治的不運により、祖父母に引きとられ、俊成夫妻の膝下[しっか]で定家らと共に育てられたという。しかし、定家と俊成卿女の間には確執が生じたようだ。前掲書に詳しく書かれている。

平安末期から鎌倉初期にかけて在位(1183 - 1198)した第82代後鳥羽天皇(1180生 - 1239崩御)は、院政時代に後鳥羽院歌壇を形成した。

その後鳥羽院の招きに応じ、活躍した女性歌人が、式子内親王[しきしないしんのう]、宮内卿[くないきょう]、俊成卿女だった。

それぞれに際立った個性があり、わたしは三人共好きだ。特に進取の気性に富んだ式子内親王の生きかたや歌には心惹かれる。

『異端の皇女と女房歌人』によると、式子には、禁忌を気にせず、加持祈祷を信じない一面があったらしい。式子は晩年三度も呪詛や託宣の事件に巻き込まれたというから、周辺のそうした傾向にうんざりしていたのかもしれない。

『新古今集』の歌は技巧的だというふうに、国語の授業でだか古文の授業でだか習った覚えがあった。だが、その意味をわたしはあまりわかっていなかったようだ。授業では、そこまで詳しくは習わなかった気もする。

前掲書『異端の皇女と女房歌人』によれば、作者自身の体験や感情を核とした平安時代までの和歌とは異なり、院政期からは宮廷和歌において、題詠歌が主流をなしたのだそうだ。

題詠とは、あらかじめ設定された題によって和歌を詠むことであり、題がそれぞれもっている本意(詠むべき主題)をふまえて、本意によって表現史的に様式化された美的観念を、虚構を土台に詠歌することである。(略)歌の作者は、いわばその詠歌主体の人物になりかわって、歌を詠む。物語の作者が、物語中の人物になりかわって歌を詠むことと、ある意味で似ている。(田渕,2014,pp.59-60)

それにしても、授業でも習った『新古今集』の中の式子の「玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする」という情熱的な歌が、「男歌=男性が詠歌主体の歌」だと論証されていると知って、驚いた。いわば、男装して詠まれた歌だという。

式子の恋歌には男歌が多いらしい。勿論、女歌もあるから、鑑賞する場合は二重、三重に注意が必要になる。

『異端の皇女と女房歌人』に、俊成卿女について興味深いことが書かれていた。

健保元年二月七日、四十三歳の俊成卿女は、出家して天王寺に参籠[さんろう]した(『明月記』)。けれどもこれは遁世の出家ではなく、夫通具への別れと独立の宣言であった(森本元子)。中世においては、夫存命中の妻の自由出家は婚姻の解消を意味し、出家によって世俗女性を縛る制約から放たれ、自由な立場を手に入れた。俊成卿女の出家はまさにこれにあたるものであろう。(田渕,2014,p202)

萬子媛の場合も、夫存命中の出家であった。息子の急死がきっかけだったのだろうが、俊成卿女の出家のような意味合いも含まれていたのかもしれない。いずれにせよ、萬子媛は俊成卿女の歌を愛したようだ。

また、俊成卿女は『源氏物語』の注釈・研究を行ったという。断片的に残っているその内容からすると、それは「非常に学術的・考証的な内容」であり、女房歌人というよりも古典学者のような相貌[そうぼう]を見せている」(田渕,2014,p216)

萬子媛も才媛であり、鍋島藩において、その影響には大きなものがあった。

俊成卿女は80余歳で没したとされる。萬子媛は80歳で、国の安泰を祈願して断食入定した。

定家も俊成卿女も藤原北家の人で、花山院家は藤原北家だから、萬子媛にとっては『新古今集』という存在そのものが望郷の念を誘うものだったのかもしれない。

そういえば、『源氏物語』を著した紫式部も藤原北家の人だった。

ウィキペディア「藤原北家」
右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。

ウィキペディアの執筆者. “藤原北家”. ウィキペディア日本語版. 2017-09-15. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6&oldid=65515383, (参照 2017-09-15).

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。

修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、萬子媛の亡くなりかたや『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述から考えると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったはずだ。

その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

|

2017年10月18日 (水)

カズオ・イシグロ『日の名残り』を、とりあえずざっと

カズオ・イシグロ(土屋政雄訳)『日の名残り』(早川書房、2001)を、とりあえずざっと読んだ。

イギリス政界の大物ダーリントン卿に仕える執事スティーブンのモノローグを通して、第一次・第二次大戦の反省(?)がなされる

執事の前の主人ダーリントン卿は、イギリスの戦争対策の失敗を象徴する存在として描かれている。

卿は紳士的であったがゆえに宥和政策を推進する立場で動いた。その見通しに甘さがあったために、性善説に基づいたような行動がナチスに利用され、ヒトラーのドイツ帝国勃興を招いたという見方だ。

執事はダーリントン卿を支持し続け、卿の失脚ののちも慕い続けるが、ここには作者のいささか単純で皮肉な見方が潜んでいるはずである。

でなければ、このような一面的な書き方にはならないはずだ。勧善懲悪の世界観から一歩も出ていない。

その見方を骨格にして、あれこれ工夫を凝らし、お手軽な大英帝国凋落の物語に仕上げているという印象を受けた。

このような、今の時代であればこそ通りやすい歴史的解釈の安易な利用を純文学であれば決してしない。むしろ、あの時代について、独自の調査・取材をし、そこに新たな発見があったときに初めて創作に着手しようとするのだ。

イギリスが大英帝国時代を持つしたたかな国であることを知らない人間は、まずいないだろう。

皮肉としてであれ、本当の思いからであれ、第二次大戦前から激動の時代を主人と共に生きた執事の品格を自ずと浮かび上がらせるには、描くべき歴史的背景をあまりに端折りすぎだ。

イギリスという国が紙切れみたいに薄っぺらに感じられてしまうではないか。イギリスという国の重厚でしたたかな側面が何も感じられない。

「高貴な本能」を利用されてしまうダーリントン卿は、イギリス紳士というより、お人好しな日本人みたいだ。イシグロ氏の身近にいたのが日本人だったから、イギリス紳士が日本人になってしまうのだろうか。

この作品は、ハーレクインロマンスを連想させられる文章で書かれた、執事のマナー読本みたいだ。ただ、そこにも手抜きが感じられ、執事の仕事内容がもう一つはっきりしない。

そして、ハーレクインロマンスでは盛り上がる箇所で、この本ではわざとらしく欠落をこしらえている。

技巧なのか、歴史的背景の説明同様、面倒なことは飛ばすことにしているのか。

人物も場面も描きかたが薄っぺらすぎて、登場人物に会話させるためのアイテムでしかなく、執事は仕える相手がイギリス紳士からアメリカ人の富豪に変更になったとはいえ、現役の執事とも思えない、執事のモノローグというよりボケかけた人の寝言みたいだ。

前回のボブ・ディランのときから、ノーベル文学賞が純文学作品からエンターテイメント系の作品に授与されるものへと変節した。

それならそれで、賞の対象になりそうな面白い作品がごまんとある中で、イシグロ氏の作品というのがわたしには納得できない。

ところで、『日の名残り』ではデュポンが意味ありげに出てくるが、あのデュポンだろうか?

もしあのデュポンだとすると、説明がないため、デュポンが戦争で果たした役割について知らない人は、なぜここでデュポンが出てきたのかがわからないのではあるまいか。黒シャツ隊についても同様。いくら執事のモノローグという設定だとしても、説明を省略しすぎる。

ウィキペディア「デュポン」より引用しておく。

エルテールの祖父はユグノーの時計職人で、父は経済学者で政府の官僚にもなったピエール・サムエル・デュポン・ド・ヌムール(Pierre Samuel du Pont de Nemours)であった。フランス革命を避けて、1799年に一家でアメリカに移住したエルテールは、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事し化学知識があり、黒色火薬工場としてデュポン社を設立した。当時アメリカで生産されていた黒色火薬はきわめて粗悪であったため、ビジネスは成功した。徹底的な品質管理と安全対策、そして高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取り、南北戦争で巨利をあげた。やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するようになった。第一次世界大戦・第二次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マンハッタン計画に参加しワシントン州ハンフォード・サイト、テネシー州のオークリッジ国立研究所でウラニウムの分離・精製やプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

ウィキペディアの執筆者. “デュポン”. ウィキペディア日本語版. 2017-09-04. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%9D%E3%83%B3&oldid=65371259, (参照 2017-09-04).

萬子媛関連の資料となりそうな本を図書館から借り、早く読みたいがために『日の名残り』をまだざっとしか読んでいない状況。読み込んで考えが変わる可能性もまだある。

『日の名残り』をちゃんと読んだら、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の以下のエッセーに加筆するつもりだ。

|

2017年10月15日 (日)

「ガラスの靴すべり台」ゲット! ノーベル文学賞作家に関する考察は続く。

インターポット

ほしかった「ガラスの靴すべり台」をゲットできました。庭に設置してみると、デカッ!

正面からだとごちゃごちゃしていてわかりづらいので、向かって左側面に当たる方から撮影してみました。

ガラスの靴のそばにいるのは、やはり最近ゲットした「おばけほうき 水色リボン」です。庭中隈なく掃除してくれるので、助かっています。こんな箒、リアルでほしいわ~。

アバ嬢が滑るところも目撃できました。ガラスの靴すべり台にのったところを撮影。

最近他にゲットできたのは、「空飛ぶ家」「丸太の柵 花飾」「ハロウィンブッシュA コウモリ」「おばけポット 紫」です。

アバ嬢が初めて散歩から金の箱を持ち帰ってくれて、中から「二階建てのお菓子の家 クッキー」が出てきたときは感激しましたよ。

あとほしいのは、「3つ屋根のおばけマンション」「ワインとパンのバスケット」「コイコイ白猫シルエット」「魔女の帽子ライド」です。

ずっとほしいと思い続けている「コイコイどこかの森」、あと二つ。

三つで完成するアイテムですが、一つしかゲットできていないので、完成させたいのです。

が、ビンゴゲームの途中でいねむりしてしまうほど開かないか、いきなりの死神の出現で即死、またはダラダラと延命させられた挙句の放置……で、ゲットできない日々でした。あと2日しかありませんが、これはもう諦めています。

第二稿に入った歴史小説のヒロインのモデルである萬子媛が愛された和歌について、今夜メモしておきたいと思っていましたが、娘に頼んだカズオ・イシグロ氏の本『日の名残り』を持ち帰ってくるそうなので、そちらを読むのが先になるかもしれません。

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップした以下の記事で、ノーベル文学賞に対する不審感をあらわにしてしまいましたが、イシグロ氏の代表作を読んでいなかったので、何か新発見があればまた書きます。

図書館から借りるつもりでしたが、いつになると順番が回って来るのかわからないと思ったので、購入しました。こうやって資料集めにお金がかかり、本当に買いたい本がなかなか買えない状況には泣きたい思い。

そうやってまで評論書いて、得るものがあるのかどうかはさっぱりわかりませんが(体力と時間とお金が消えて行くだけのような気もします。そのまま行き着く先は死でしょうね、ハハハ…)、プロの評論家がまともな仕事をしてくれないでしょう。草の根レベルであっても、ノーベル文学賞の変節について検証されるべきだと思うのです。

ノーベル文学賞といえば、メーテルリンクの『青い鳥』。

戯曲として書かれた原作を堀口大學氏の訳で読み、子供向きに書き直されたものではわからなかった驚くべき発見がいろいろとあり、あの原作から離れて、少なくとも日本では――世界の状況は知りません――青い鳥という一種の甘美で切ない共同幻想(?)が形成されてきたのではないかと思いました。

翻訳家として名高い堀口氏の解説の効果も、大きかったのかもしれません。原作を知らない人も多いのではないでしょうか。夫は知らなかったといいました。

|

2017年10月12日 (木)

メーテルリンク『青い鳥』の罪な象徴性について

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、ノーベル文学賞作家モーリス・メーテルリンクについて書いた。

ブラヴァツキーの神智学を批判したメーテルリンクの文章を考察することで、メーテルリンクの思想の一端が明らかとなったように思う。

わたしが前掲エッセーで採り上げたのは復刻版『マーテルリンク全集――第二巻』(鷲尾浩訳、本の友社、1989)の中の「死後の生活」で、1913年にこの作品が刊行された翌年の1914年、メーテルリンクの全著作がカトリック禁書目録に指定された(禁書目録は1966年に廃止されている)。

「死後の生活」を読んだ限りでは、メーテルリンクが神智学的思考法や哲学体系に精通していたようにはとても思えなかった。

上手く理解できないまま、恣意的に拾い読みして自己流の解釈や意味づけを行ったにすぎないような印象を受けた。一方、SPR(心霊現象研究協会)の説には共鳴していた節が窺えた。

『青い鳥』は、1908年に発表されたメーテルリンクの戯曲である。メーテルリンクは1911年にノーベル文学賞を受賞した。

わたしは子供向けに書き直されたものしか読んだことがなかったので、改めてメーテルリンク(堀口大學訳)『青い鳥』(新潮社、1960年初版、2006年改版)を読んだ。

『青い鳥』は、貧しい木こりの家に生まれた兄チルチルと妹ミチルが、妖女ベリリウンヌに頼まれた青い鳥を、お供を連れて探す旅に出るという夢物語である。

妖女の娘が病気で、その娘のために青い鳥が必要なのだという。

兄妹は、思い出の国、夜の御殿、森、墓地、幸福の花園、未来の王国を訪れる。見つけた青い鳥はどれも、すぐに死んでしまったり、変色したりする。

一年もの長旅のあと、兄妹が家に戻ったところで、二人は目覚める。

妖女にそっくりなお隣のおばあさんベルランゴーが、病気の娘がほしがるチルチルの鳥を求めてやってくる。

あの鳥いらないんでしょう。もう見向きもしないじゃないの。ところがあのお子さんはずっと前からあれをしきりに欲しがっていらっしゃるんだよ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)と母親にいわれてチルチルが鳥籠を見ると、キジバトは青くなりかけていて(まだ完全には青くない)、青い鳥はここにいたんだなと思う。

チルチルには、家の中も森も以前とは違って綺麗に見える。そこへ元気になった娘が青い鳥を抱いてやってきて、チルチルと二人で餌をやろうとまごまごしているうちに、青い鳥は逃げてしまった……

ファンタスティックな趣向を凝らしてあるが、作品に描かれた世界は、神秘主義的な世界観とはほとんど接点がない。

登場する妖精たちは作者独自の描きかたである。

これまで人間から被害を被ってきた木と動物たちが登場し、兄妹の飼いネコは人間の横暴に立ち向かう革命家として描かれている。ネコは狡い性格の持ち主である。

それに対立する立場として飼いイヌが描かれており、「おれは神に対して、一番すぐれた、一番偉大なものに対して忠誠を誓うんだ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)という。イヌにはいくらか間の抜けたところがある。

木と動物たちがチルチル・ミチル兄妹の殺害を企む場面は、子供向けに上演されることも珍しくない作品にしては異様なまでに長く、具体的で、生々しい。

木と動物たちの話し合いには、革命の計画というよりは、単なる集団リンチの企みといったほうがよいような陰湿な雰囲気がある。

チルチルはナイフを振り回しながら妹をかばう。そして、頭と手を負傷し、イヌは前足と歯を2本折られる。

新約聖書に出てくる人物で、裏切り者を象徴する言葉となっているユダという言葉が、ネコ革命派(「ひきょうもの。間抜け、裏切り者。謀叛人。あほう。ユダ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)からも、イヌ(「この裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.114)とチルチル(「裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.123)の口からも発せられる。

危ないところで光が登場し、帽子のダイヤモンドを回すようにとチルチルを促がす。チルチルがそうすると、森は元の静寂に返る。

人間は、この世ではたったひとりで万物に立ち向かってるんだということが、よくわかったでしょう」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.127)という光の言葉は、如何にも西洋的な感じがする。

『青い鳥』の世界をキリスト教的世界と仮定すると、『青い鳥』の世界を出現させた妖女ベリリウンヌは神、妖女から次のような任務を与えられる光は定めし天使かイエス・キリスト、あるいは法王といったところだろうか。

さあ、出かける時刻だよ。「光」を引率者に決めたからね。みんなわたしだと思って「光」のいうことをきかなければならないよ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.53)

ただ、『青い鳥』の世界は第一にチルチルとミチルが見た夢の世界として描かれているということもあって、そこまで厳密な象徴性や構成を持ってはいない。

そこには作者が意図した部分と、作者の哲学による世界観の混乱とが混じっているようにわたしには思われた。その混乱については、前掲のエッセー 63 で触れた。

結末にも希望がない。

自分の家に生まれてくることになる未来の弟に、チルチルとミチルは「未来の王国」で会う。その子は「猩紅熱と百日咳とはしか」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.196)という三つもの病気を持ってくることになっている。そして死んでしまうのだという。

既に両親は、男の子3人と女の子4人を亡くしている。母親はチルチルとミチルの夢の話に異常なものを感じ、それが子供たちの死の前兆ではないかと怯える場面がこのあと出てくるというのに、またしてもだ。

新たに生まれてくる男の子は、病気のみを手土産に生まれてきて死ぬ運命にあるのだ。

このことから推測すると、最後のチルチルの台詞「どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ほくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.236)は意味深長だ。

今は必要のない青い鳥だが、やがて生まれてくる弟の病気を治すためにそれを必要とするようになるかもしれないという暗示ではないだろうか。

結局、青い鳥が何を象徴しているのかがわたしには不明であるし、それほどの象徴性が籠められているようには思えない青い鳥に執着し依存するチルチルの精神状態が心配になる。

ちなみに、青い鳥を必要とした、お隣のおばあさんの娘の病気は、神経のやまいであった。

医者は神経のやまいだっていうんですが、それにしても、わたしはあの子の病気がどうしたらなおるかよく知っているんですよ。けさもまたあれを欲しがりましてねえ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)

娘の病気はそれで治るのだから、鳥と接する気分転換によって神経の病が治ったともとれるし、青い鳥が一種の万能薬であったようにもとれる。

訳者である堀口大學氏は「万人のあこがれる幸福は、遠いところにさがしても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです」とお書きになっている。一般的に、そのような解釈がなされてきたように思う。

しかし、観客に呼びかけるチルチルの最後の台詞からすると、その日常生活の中にある幸福が如何に不安定なものであるかが印象づけられるし、森の中には人間を憎悪している木と動物たちがいることをチルチルは知っている。家の中にさえ、彼らに通じるネコがいるのだ。

そもそも、もし青い鳥が日常生活の中にある幸福を象徴する存在であるのなら、その幸福に気づいたチルチルの元を青い鳥が去るのは理屈からいえばおかしい。

いずれにせよ、わたしは青い鳥に、何か崇高にして神聖な象徴性があるかの如くに深読みすることはできなかった。戯曲は部分的に粗かったり、妙に細かかったりで、読者に深読みの自由が与えられているようには読めなかったのだ。

|

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

Livly | Notes:アストリッド・リンドグレーン | Notes:アントニオ・タブッキ | Notes:グノーシス・原始キリスト教・異端カタリ派 | Notes:不思議な接着剤 | Notes:卑弥呼 | Notes:国会中継 | Notes:夏目漱石 | Notes:江戸初期五景1(萬子ひめ) | Notes:江戸初期五景2(天海・崇伝) | Notes:源氏物語 | Notes:百年文庫(ポプラ社) | Theosophy(神智学) | top page | ◆マダムNの電子書籍一覧 | ◇高校生の読書感想文におすすめの本 | ★シネマ・インデックス | ★マダムNの文芸作品一覧 | ★当サイトで紹介した作家、思想家一覧 | ☆☆紹介記事 | ☆マダムNのサイト総合案内 | ☆メールフォーム | おすすめKindle本 | おすすめYouTube | おすすめサイト | お出かけ | お知らせ | ぬいぐるみ・人形 | やきもの | よみさんの3D作品 | アクセス解析 | アニメ・コミック | アバター | イベント・行事 | イングリット・フジコ・ヘミング | ウェブログ・ココログ関連 | ウォーキング | エッセー「バルザックと神秘主義と現代」 | エッセー「卑弥呼をめぐる私的考察」 | エッセー「宇佐神宮にて」 | エッセー「文学賞落選、夢の中のプードル」 | エッセー「映画『ヒトラー最期の12日間』を観て」 | エッセー「村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ」 | エッセー「百年前の子供たち」 | エッセー「精神安定剤」の思い出」 | エッセー「自己流の危険な断食の思い出」 | オペラ・バレエ・コンサート | オルハン・パムク | カリール・ジブラン(カーリル・ギブラン) | ガブリエラ・ミストラル | クッキング | グルメ | コラム「新聞記事『少女漫画の過激な性表現は問題?』について」 | シネマ | シモーヌ・ヴェイユ | ショッピング | テレビ | ニュース | ハウツー「読書のコツを少しだけ伝授します」 | バルザック | パソコン・インターネット | マダムNのYouTube | マダムNの他サイト情報 | マリア・テレジア | メモ帳Ⅰ | メモ帳Ⅱ | ライナー・マリア・リルケ | 俳句 | 健康 №1(治療中の疾患と服用中の薬) | 健康 №2(体調)  | 健康 №3(受診) | 健康 №4(入院) | 健康 №5(お役立ち情報etc) | 健康 №6(ダイエット) | 健康 №7(ジェネリック問題) | 健康 №8(日記から拾った過去の健康に関する記録) | 健康№8(携帯型心電計) | 児童文学 | 児童文学作品「すみれ色の帽子」 | 写真集「秋芳洞」 | 創作関連(賞応募、同人誌etc) | 占星術・タロット | 友人の詩/行織沢子小詩集 | 地域 | | 夫の定年 | 季節 | 家庭での出来事 | 山岸凉子 | 思想 | 恩田陸の怪しい手法オマージュ | 息子の就活 | 息子関連 | 手記「枕許からのレポート」 | 文化・芸術 | 文学 №1(総合・研究)  | 文学 №2(自作関連) | 日記・コラム・つぶやき | 時事・世相 | 書籍・雑誌 | 未来予知・予測(未来人2062氏、JJ氏…) | 村上春樹 | 村上春樹現象の深層 | 東京旅行2012年 | 植物あるいは動物 | 検索ワードに反応してみました | 歴史 | 瀕死の児童文学界 | 父の問題 | 珈琲 | 神戸旅行2015 | 神秘主義 | 福島第一原発関連 | 科学 | 経済・政治・国際 | 美術 | 能楽 | 自作小説「あけぼの―邪馬台国物語―」 | 自作短編童話「風の女王」 | 自作童話「不思議な接着剤」 | 芥川賞・直木賞 | 萬子媛 - 祐徳稲荷神社 | 薔薇に寄せて☆リルケの詩篇『薔薇』のご紹介 | 評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』 | 評論・文学論 | | 連載小説「地味な人」 | 電子書籍 | 音楽