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2017年10月30日 (月)

ブラヴァツキー(アニー・ベザント編、加藤大典訳)『シークレット・ドクトリン 第三巻(上)』を読んで

当記事は、アマゾンの拙レビューに加筆したものです。

レビューを書いた時点では品切れでした(新古品、中古品は表示されていました)。

H・P・ブラヴァツキー(アニー・ベザント編、加藤大典訳)『シークレット・ドクトリン 第三巻(上)――科学・宗教・哲学の統合――』
文芸社 (2016/8/1)
ISBN-10: 4286172430
ISBN-13: 978-4286172439

ブラヴァツキーの二大大著は『シークレット・ドクトリン』と、その前に書かれた『Isis Unveild』です。

ブラヴァツキーが生まれたのは1831年、すなわち日本では江戸時代の天保年間で、亡くなったのは1891年、明治24年です。どちらもそんな昔に書かれたとはとても思えない内容です。

『シークレット・ドクトリン』の原典第一巻の前半に当たる部分が宇宙パブリッシングから『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》』というタイトルで出ています。
第二巻が人類発生論。
第三巻の前半部分が、この加藤大典氏の翻訳による『シークレット・ドクトリン 第三巻(上) ――科学、宗教、哲学の統合―― 』で、未完に終わっていたものがアニー・ベサントの編集で世に出た貴重なものですね。アニー・ベサントは神智学協会第二代会長を務めました。

『Isis Unveild』の前半に当たる部分の邦訳版が『ベールをとったイシス〈第1巻〉科学〉』上下巻で竜王文庫から出ていますが、わたしはこの『シークレット・ドクトリン 第三巻(上) 』を読みながら、『ベールをとったイシス』の続きを読んでいるような気がしました。

アカデミックの世界ではグノーシス主義の定義すら曖昧でしたが、死海文書やナグ・ハマディ文書の発見により、グノーシス主義の輪郭や初期キリスト教に関することが次第に明らかになってきています。
『シークレット・ドクトリン』より前に書かれた『ベールをとったイシス』には、それらに関する多くの記述があります。またアリストテレスはプラトンの教えをどう間違って伝えかを的確に指摘していますし、プラトン哲学の核となったピタゴラス哲学に内在するインド的(バラモン教的)概念の抽出を行っています。古代イスラエル人は何者だったのか。国家集団の中で最古のものだったインドとエジプトはなぜ似ているのか。アトランティスに関する記述も、そうした考察と関連する中で出てきます。

この『シークレット・ドクトリン 第三巻(上) 』では、プラトンの著作、新旧両聖書、エノク書、ヘルメス文書、カバラ文書などが採り上げられており、ブラヴァツキーは様々な推論や学説を紹介しながら、世界の諸聖典の中にある秘教的寓意と象徴に隠された意味を明らかにしていきます。

ちなみにブラヴァツキーがインドという場合には太古の時代のそれを指すそうで、上インド、下インド、西インドがあって、ブラヴァツキーが『ベールをとったイシス』を執筆した当時にペルシア - イラン、チベット、モンゴル、大タルタリーと呼ばれていた国々も含まれるそうです。

ウィキペディア「タタール」に、「モンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた」とあります。

また、『シークレット・ドクトリン』の宇宙発生論では、「一太陽プララヤ後の地球惑星体系とそのまわりの目に見えるものの(宇宙)発生論だけが扱われている」(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)とありますので、『第三巻(上)』を読む場合にも、このことに留意しておくべきでしょう。

『シークレット・ドクトリン 第三巻(下) 』の上梓も心待ちにしています。

これ以前に、加藤氏の翻訳によるブラヴァツキーの『インド幻想紀行』を読みました。とても面白い本でした。『シークレット・ドクトリン』は副題に科学・宗教・哲学の統合とあるように、学術的で、難解なところのある論文ですから、読み進めるには当然ながらその方面の教養が要求されますが、『インド幻想紀行』は一般の人にも読みやすい本ではないかと思いました。

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2017年10月21日 (土)

歴史短編1のために #31 扇面和歌を通して考察したこと

何度も同じことを書くようだが、初めて当ブログにお見えになるかたもいらっしゃるので、萬子媛をご存じない方にためにざっと書いておくと……

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萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。

祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、62歳。1705年閏4月10日、80歳で没。断食入定による死であった。

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神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(俊成卿女[しゅんぜいきょうじょ])の歌が揮毫されている。

実家である花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9(1696)年――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、俊成卿女の次の歌である。

梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

俊成卿女は藤原定家の姪だった。

田渕句美子『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今和歌集(角川選書536)』(KADOKAWA、2014)によると、平安末期から鴨倉初期に歌壇を先導した歌人が藤原俊成で、定家はその子、俊成卿女は孫娘に当たる。

俊成卿女は父の政治的不運により、祖父母に引きとられ、俊成夫妻の膝下[しっか]で定家らと共に育てられたという。しかし、定家と俊成卿女の間には確執が生じたようだ。前掲書に詳しく書かれている。

平安末期から鎌倉初期にかけて在位(1183 - 1198)した第82代後鳥羽天皇(1180生 - 1239崩御)は、院政時代に後鳥羽院歌壇を形成した。

その後鳥羽院の招きに応じ、活躍した女性歌人が、式子内親王[しきしないしんのう]、宮内卿[くないきょう]、俊成卿女だった。

それぞれに際立った個性があり、わたしは三人共好きだ。特に進取の気性に富んだ式子内親王の生きかたや歌には心惹かれる。

『異端の皇女と女房歌人』によると、式子には、禁忌を気にせず、加持祈祷を信じない一面があったらしい。式子は晩年三度も呪詛や託宣の事件に巻き込まれたというから、周辺のそうした傾向にうんざりしていたのかもしれない。

『新古今集』の歌は技巧的だというふうに、国語の授業でだか古文の授業でだか習った覚えがあった。だが、その意味をわたしはあまりわかっていなかったようだ。授業では、そこまで詳しくは習わなかった気もする。

前掲書『異端の皇女と女房歌人』によれば、作者自身の体験や感情を核とした平安時代までの和歌とは異なり、院政期からは宮廷和歌において、題詠歌が主流をなしたのだそうだ。

題詠とは、あらかじめ設定された題によって和歌を詠むことであり、題がそれぞれもっている本意(詠むべき主題)をふまえて、本意によって表現史的に様式化された美的観念を、虚構を土台に詠歌することである。(略)歌の作者は、いわばその詠歌主体の人物になりかわって、歌を詠む。物語の作者が、物語中の人物になりかわって歌を詠むことと、ある意味で似ている。(田渕,2014,pp.59-60)

それにしても、授業でも習った『新古今集』の中の式子の「玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする」という情熱的な歌が、「男歌=男性が詠歌主体の歌」だと論証されていると知って、驚いた。いわば、男装して詠まれた歌だという。

式子の恋歌には男歌が多いらしい。勿論、女歌もあるから、鑑賞する場合は二重、三重に注意が必要になる。

『異端の皇女と女房歌人』に、俊成卿女について興味深いことが書かれていた。

健保元年二月七日、四十三歳の俊成卿女は、出家して天王寺に参籠[さんろう]した(『明月記』)。けれどもこれは遁世の出家ではなく、夫通具への別れと独立の宣言であった(森本元子)。中世においては、夫存命中の妻の自由出家は婚姻の解消を意味し、出家によって世俗女性を縛る制約から放たれ、自由な立場を手に入れた。俊成卿女の出家はまさにこれにあたるものであろう。(田渕,2014,p202)

萬子媛の場合も、夫存命中の出家であった。息子の急死がきっかけだったのだろうが、俊成卿女の出家のような意味合いも含まれていたのかもしれない。いずれにせよ、萬子媛は俊成卿女の歌を愛したようだ。

また、俊成卿女は『源氏物語』の注釈・研究を行ったという。断片的に残っているその内容からすると、それは「非常に学術的・考証的な内容」であり、女房歌人というよりも古典学者のような相貌[そうぼう]を見せている」(田渕,2014,p216)

萬子媛も才媛であり、鍋島藩において、その影響には大きなものがあった。

俊成卿女は80余歳で没したとされる。萬子媛は80歳で、国の安泰を祈願して断食入定した。

定家も俊成卿女も藤原北家の人で、花山院家は藤原北家だから、萬子媛にとっては『新古今集』という存在そのものが望郷の念を誘うものだったのかもしれない。

そういえば、『源氏物語』を著した紫式部も藤原北家(傍流)の人だった。

ウィキペディア「藤原北家」
右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。

ウィキペディアの執筆者. “藤原北家”. ウィキペディア日本語版. 2017-09-15. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6&oldid=65515383, (参照 2017-09-15).

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。

修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、萬子媛の亡くなりかたや『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述から考えると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったはずだ。

その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

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2017年9月17日 (日)

歴史短編1のために #30 神仏習合(加筆あり)

神秘主義エッセーブログに入れようと思って過去ノートに加筆したものですが、先にこちらにアップしておきます。

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数年前から、祐徳稲荷神社を創建した花山院萬子媛をモデルとした歴史小説に取り組んでいる。第一稿で粗描を試み、第二稿に入ったところだ。

萬子媛が入られた黄檗禅系祐徳院は、取材の結果、庵のような小規模の建物ではなく、もっと大きな建物だったと推測されるので、小説の冒頭部分は書き直さなければならない。

祐徳院は法泉寺と同じく普明寺の子院だったから、法泉寺くらいはあったのではないかと思う。普明寺は法泉寺の1.5倍くらいの大きさに見えた。

祐徳院の門には、普明寺の門のところにあったのと同じ「不許葷酒入山門(葷酒の山門に入るを許さず)」と記された碑があったであろう。

不許葷酒入山門とは、肉や生臭い野菜を食べたり酒を飲んだりした者は、修行の場に相応しくないので立ち入りを禁ずるという意味である。(→ウィキペディア「禁葷食」

萬子媛の義理の息子で、大名であった直條の執筆とされる『祐徳開山瑞顔大師行業記』(祐徳稲荷神社蔵)を読むと、祐徳院に所属する尼僧の外出、俗客の往来を許さず、その他の規則は大変厳しかった(森厳という言葉が使われている)とあるのが、碑文にぴったりくる。

そして、神事のほうも、滞りなく行われていたに違いない。江戸時代までの神仏習合は現代日本の神仏習合とは様相が違っていたのではないだろうかと考えて、それをどのように描けばいいのかわからず、わたしは何ヶ月も悶々としていた。

例えば、出家後の萬子媛は神事にどのように参加されていたのだろうか……と考えたとき、思い出したのは前に図書館から借りて読んだ『英彦山修験道絵巻』だった。

村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する著作である。絵巻が作られたのは有誉が座主のときであった。

有誉の母は花山院定好の娘――つまり、萬子媛の姉だったと思われる。萬子媛の兄弟姉妹については拙「マダムNの神秘主義的エッセー」 72 に書いている。

萬子媛の兄弟姉妹は、花山院家を継いだ定誠以外は、円利は禅寺へ、堯円は浄土真宗へ入って大僧正に。姉は英彦山座主に嫁ぎ、妹は臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。定誠、武家に嫁いだ萬子媛も結局は出家している。

絵巻に描かれた神事の情景の中に、神職の格好をした人や一般の参列者の他に僧侶姿の参列者の描かれていた記憶がある。

萬子媛と一緒に京都から下ってきたと想像される、萬子媛に仕えていたという尼僧が技芸神として祀られている(拙「マダムNの神秘主義的エッセー」 72  参照)ことから考えると、神事の際に行われる神楽舞の振り付けなどはその人が指導したのではないかとわたしは考えている。

神事のとき、萬子媛はどのような位置で、どのような行動をなさっていたのだろうか。

厄除け祈願をお願いしたときのことが参考になるだろうか?

これはあくまでわたしの神秘主義的感性が捉えた――内的鏡にほのかに映った――萬子媛をはじめとする、この世にあったときは尼僧であったと思われる方々の御祈願時の様子なのであるが、わたしはそうしたこの世ならざる方々が御神楽殿での御祈願時にそこへお見えになるとは想像もしていなかった。

そのときまで萬子媛のことしか念頭になく、御祈願のときにもし萬子媛をわたしの内的鏡が捉えることがあるとしたら前方に捉えるのではないかと想像していた。というのは、そのときに萬子媛の臨在があるとすれば、神主さんに寄り添うような形をとられるのではないかと漠然と想像していたからだった。

事実は違った。萬子媛をはじめとする尼僧の方々――生前は尼僧であったとわたしが推測する方々――は、御祈願を受けるわたしたち家族のすぐ背後に整然と並ばれたのであった。拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」収録の以下のエッセーを参照されたい。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年
71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日
72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日

端然とした雰囲気の中にも、日ごろの馴染んだ行為であることが窺えるような、物柔らかな自然な感じがあり、整然と並ばれたといっても、軍隊式を連想させるような硬さは全くなかった。

わたしの内的鏡にほのかに映った美しい情景からは、江戸時代初期から中期かけて、神事というものがごく自然に仏事や日々の生活に溶け込んでいた様子が窺えた。神事も仏事もどちらもこよなく敬虔に、当たり前のこととして行われていたに違いない。

わたしがここでいう内的鏡とは、物質の鏡とは異なり、対象が生者であろうがこの世ならざる者であろうが、対象としたものの内面性や雰囲気を精緻に捉える鏡なのだ。姿は、ほの昏い湖面に映るかのような、ほのかに映る程度である。

オーラが時には肉眼で見えるどんな色彩よりも鮮明に生き生きとして見えるのとは、違う。オーラを見るときは肉眼で見るように見る。内的鏡で見るときは自らの心が鏡のようにも目のようにもなって、内的鏡を内的視力で見るという感じなのだ。

どちらも神秘主義的能力だと思うが、使い勝手(?)が異なる。神秘主義の文献によく鏡という表現が出てくるのを、なるほどと思うようになった。この内的鏡をいつごろからか、心が清澄であるときにごく自然に使っている自分に気づくことがある。

話が逸れたが、『梁塵秘抄』は平安時代末期に後白河院(1127生 - 1192没)によって編まれた歌謡集であるが、ここでは神事と仏事の習合が見られ、そこからは純粋というだけでなく、格調高いといえるような信仰心が汲みとれる。

江戸時代もおそらくそうで、明治時代に神仏分離令が出されるまで、そうしたところは変わらなかったのではないだろうか。

臼田勘五郎&新間進一 校注・訳『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集 日本古典文学大系』(小学館、1976初版、1989第14版)によると、『梁塵秘抄』は『梁塵秘抄二十巻後白河院勅撰』といい、20巻であったらしい。

20巻のうち、10巻が音律の秘伝や芸歴などを記した口伝集、残りの10巻が歌詞集であったそうだが、大半が失われてしまった。現存するのは巻第一断簡の長歌[ながうた]・小柳[こやなぎ]・今様と、巻第二の法文歌[ほうもんうた]・四句神歌[しくのかみうた]・二句神歌[にくのうみうた]である。

ただ、法文歌と四句神歌とで合計400首を超えるというから、それだけでも結構なボリュームだ。

ここで、前掲書『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集 日本古典文学大系』の『梁塵秘抄』から歌と訳を引用しておこう。

法文歌のうち最も有名なのは、格調高い響きを持つ次の歌だろう。

仏は常にいませども 現[うつつ]ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁[あかつき]に ほのかに夢に見えたまふ
 仏はお亡くなりになることなく常にいらっしゃるのだが、お姿を拝することができない。それが尊く思われる。しかし、人の物音のしない静かな暁には、かすかに夢の中にお姿を現わされる。臼田&新間 校注・訳,1989,pp.204-205

次の法文歌と神歌には同趣意の主張が含まれている。神仏と人の違いに萎縮するようなところは微塵もない。いずれは神仏に成る我が身、ならねばならない我が身との自覚があってこその矜持だろう。

仏は昔は人なりき われらも終[つひ]には仏なり 三身仏性[さんしんぶつしやう][ぐ]せる身と 知らざりけるこそあはれなれ
 仏も遠い昔にはわれらと同じ人であった。われらも最後には成仏することができるのだ。三身仏性を本来備えている身であると知らないで、仏道をなおざりにしているのが、悲しいことに思われる。臼田&新間 校注・訳,1989,pp.257-258

ちはやぶる神 神にましますものならば あはれと思[おぼ]しめせ 神も昔は人ぞかし
 (ちはやぶる)神よ、ほんとうに神でいらっしゃるならば、私の訴えをかわいそうだとお思いになってください。神も昔は人であられたのですよ。臼田&新間 校注・訳,1989,p.317

権現に直訴するかのような、迫力と切実さを感じさせる神歌もある。

花の都を振り捨てて くれくれ参るは朧[おぼろ]げか かつは権現[ごんげん]御覧[ごらん]ぜよ 青蓮[しやうれん]の眼[まなこ]をあざやかに
 花の都を振り捨てて、暗い気持で参詣するのは、なみたいていの志だろうか。権現[ごんげん]よ、一方では私の志をもよくよくごらんください。その青蓮[しようれん]の眼[まなこ]をかっと見開いて。臼田&新間 校注・訳,1989,p.266

次の神歌について「日吉山王[ひえさんのう]を舞台に、神仏習合思想の要約を巧みに歌謡化した感じ」と解説されているが、正にそんな趣の歌だ。

仏法弘[ひろ]むとて 天台麓[てんだいふもと]に迹[あと]を垂れおはします 光を和[やは]らげて塵[ちり]となし 東の宮とぞ斎[いは]はれおはします
 わが国に仏の教えをひろめようというので、この比叡山の麓に、釈迦如来[しやかによらい]以下の仏や菩薩[ぼさつ]たちが、二十一社の神々となり化現されて、鎮座しておられる。威光を隠して俗世に交わり、東方の尊い神社として、祀[まつ]られていらっしゃる。臼田&新間 校注・訳,1989,p.261

四句神歌のうち雑[ぞう](主として世俗的な民謡風の歌を集めたもの)に分類された次の歌は、最初に挙げた法文歌と並んで『梁塵秘抄』を代表する歌であり、解釈は様々あるようだが、清冽な信仰心が通奏低音となっているがゆえに、えもいわれぬ歌となっているのではないだろうか。

遊びをせんとや生[う]まれけむ 戯[たはぶれ]れせんとや生[む]まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺[ゆ]るがるれ
 遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのであろうか。それとも戯れをしようとして生まれてきたのであろうか。無心に遊んでいる子どもたちの声を聞いていると、自分の体までが自然と動き出すように思われる。臼田&新間 校注・訳,1989,p.293

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2017年9月 2日 (土)

『風と共に去りぬ』のアメリカにおける上映禁止について

映画『風と共に去りぬ』に関する以下のニュースがTwitterで話題になっている。

irr @IrrTenko ・ 8月28日
米テネシー州の劇場で、内容が「無神経」「レイシスト」などの批判のコメントを多く受け取ったとして、34年間続いた映画『風と共に去りぬ』の上演が終わる。同映画はユダヤ系プロデューサーが当時、黒人に対する差別表現を避けて作ったといわれる。

Tennessee Theater Cancels ‘Gone With the Wind’ Screening After 34 Years Over ‘Racist’ Content Complaints
http://www.breitbart.com/big-hollywood/2017/08/26/tennessee-theater-cancels-gone-with-the-wind-screening-after-34-years-over-racist-content-complaints/

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YouTubeに公開されていた予告編を貼りつけさせていただく。

動画のタイトル:『風と共に去りぬ』予告編』(※2009年初ブルーレイ化時)
動画のURL:https://youtu.be/lWcdyySRZck

風と共に去りぬ(Gone With the Wind)

監督 ビクター・フレミング
脚色 シドニー・ハワード
原作 マーガレット・ミッチェル
製作 デビッド・O・セルズニック
撮影 アーネスト・ホーラー
音楽 マックス・スタイナー
出演者 スカーレット=ヴィヴィアン・リー、レット・バトラー=クラーク・ゲーブル、メラニー= オリビア・デ・ハビランド、アシュレー・ウィルクス=レスリー・ハワード、マミー=ハティ・マクダニエル
制作会社 セルズニック・インターナショナル
配給 メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
公開 1939年(アメリカ)、1952年(日本)
上映時間 222分
製作国 アメリカ合衆国
言語 英語
制作費 $3,900,000、

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『風と共に去りぬ』(1939年)。相手役のレット・バトラーはクラーク・ゲーブルが演じた。
From Wikimedia Commons, the free media repository

ハリウッド映画史に残る不朽の名作といわれる『風と共に去りぬ』は南北戦争を背景に一人の女性の生きる姿が繊細、巧みに描かれた壮大な映像芸術作品なのだが、テネシー州の劇場が上映禁止に追い込まれたというニュースに衝撃を覚えた。

しかし、調べてみると、これは初めてのケースではないようで、今やアメリカでは『風と共に去りぬ』を上映するのは大変なようである。

アメリカでの公開は1939年。この年の9月には第二次大戦が勃発している。第二次大戦前にこのような映画が制作されたことは驚くべきことで、歴史的な価値がある映画であることに間違いない。

テネシー州の劇場での上映は無神経、差別主義者という非難を浴びたようだが、そうした非難は誰が誰に、何に対して投げかけた言葉なのだろう?

70年以上経って「今更……」と思わぬでもなかった。人種差別は依然として存在しており、改善されなければならない部分なのだろうが、数の力にものをいわせた『風と共に去りぬ』潰しにも想像され、詳細な経緯を知りたくなる。

黒人の奴隷化を肯定することが目的で制作された作品でないことは映画を観ればわかるはずのことなのだから、黒人が奴隷扱いされた歴史的事実を考慮した上で、上映禁止に関しては慎重に検討されるべきではないかと思うが、甘い考えなのだろうか。

『風と共に去りぬ』は南北戦争という大事件に呑み込まれていく人間模様を南部の視点で描きながら、その中でもがきつつ大倫のロマンスの花を咲かせようとするヒロインの精神的な成長を扱った大河小説である。

原作の終章で、ようやく自分にとってレットがかけがえのない存在であるに気づいたスカーレットであるが、レットは去り、絶望感の中でスカーレットは遂に悟るのである。

彼女は、愛するふたりの男を、ふたりながら、ついに理解していなかったのだ。そして、そのために、ふたりながら失ったのである。もしアシュレを理解していたら、彼を愛するようなことにはならなかっただろうし、もしレットを理解していたら、彼を失うことはなかったであろう。そのことがおぼろげながらわかったのである。いったい自分は、だれにしろ、人をほんとうに理解したことがあったのだろうかと思うと、さびしい気持ちになった。(マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬⅡ』大久保康雄・竹内道之助訳、集英社、昭和44年、688頁)

『風と共に去りぬ』に登場するマミーと呼ばれる黒人の侍女役をハティ・マクダニエルが演じて、アカデミー助演女優賞を受賞している。

マミーは主人公スカーレットの母エレンの部屋付きの侍女で、エレンと共にタラに来た忠実な奴隷である。スカーレットの教育係でもあったマミーはスカーレットにとってタラと一体化した何か大きな存在として描かれている。

生まれたときからスカーレットの側に侍女としてマミーがいるのは、スカーレットの咎ではない。原風景の中に黒人奴隷がいるのはスカーレットにとっては自然なことであり、それがそのまま描かれている。

文学作品は風俗史の役割を果たすものでもあるが、南部では黒人奴隷が農場の担い手であったという歴史的事実がある。

南北戦争後の荒廃したタラの大地を耕して作った綿花畑の中で、きつい監督者のまなざしをしたスカーレットが妹たちを叱咤しながら、手籠に綿を次々に摘み取っていく場面が思い出される。スカーレットは黒人奴隷と同じ労働を体験するのである。

レットに去られたスカーレットは、絶望の中でタラに帰ろうと思う。ヒロイン以外の人間で、『風と共に去りぬ』の最後に顔を出すのはマミーである。

それに、あそこにはマミーがいる。きゅうに彼女は、マミーが、子どものときのように、むしょうに恋しくなった。頭をもたせかけてくれる広い胸や、髪をなでてくれる節くれだった黒い手が恋しくなった。マミーこそは、自分となつかしい昔をつなぐ最後の輪なのだ。
 たとえ敗北に直面しようとも、敗北を認めようとしない祖先の血を受けた彼女は、きっと顔をあげた。レットをとりもどすことができる。かならずできる。いったん、これと心をきめたら、自分のものにできない男なんて、いままでにも、けっしてなかったではないか。
(みんな、明日、タラで考えることにしよう。そしてら、なんとか耐えられるだろう。明日、あのひとをとりもどす方法を考えることにしよう。明日はまた明日の陽が照るのだ)
(ミッチェル,大久保・竹内訳,昭和44,pp.689-690)

こうして大河小説『風と共に去りぬ』は終わるのだが、映画は原作を損なうことなく、印象的な場面を数々残して幕を閉じる。

わたしが調べたところでは、前掲の上映禁止の動きには民主党ヒラリーのポリコレリベラル団体が絡んでいるらしい。

ヒラリー・クリントンがドナルド・トランプに大統領選で敗れてから、アメリカでデモや暴動が相次いでいる様子からすると、民主党のリベラル勢力が『風と共に去りぬ』をトランプ政権潰しのアイテムの一つと見なして利用していることも考えられる。

ポリコレというのが何なのかわからなかったので、ウィキペディアを閲覧すると次のように解説されていた。

ウィキペディア「ポリティカル・コレクトネス」

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・障害者・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。

1980年代に多民族国家アメリカ合衆国で始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」という活動だけでなく、差別是正に関する活動全体を指すこともある。

ウィキペディアの執筆者. “ポリティカル・コレクトネス”. ウィキペディア日本語版. 2017-08-24. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9&oldid=65237460, (参照 2017-08-24).

これが行き過ぎた場合、あるいは別の目的のためのアイテムとして使われた場合は、それに対する反発が起きてくるのは当然のことで、梓弓さんというかたの解説にはなるほどと思わせられたので、引用しておきたい。

クリントン敗北の要因の一つはポリコレによる言葉狩り"在米駐在の中小企業サラリーマン、梓弓さんがアメリカの実情を解説。
https://togetter.com/li/1046979

梓弓 @Ma_R8
2016-11-10 06:26:02
今回のクリントン敗北の要因の一つはポリティカル・コレクトネスによる言葉狩りが典型で、普段「和解」とか「融和」と言いながら、リベラル側が決めた枠にハマらない人達に対する言論封殺やヘイトスピーチ全開のリベラル達の非寛容さの偽善に多くの米国民が拒否反応を示したからだと思う。

梓弓 @Ma_R8
2016-11-10 06:30:52
「今年の会社のクリスマスカードはハッピーホリデイズじゃなくてメリークリスマスにするぞ!」と同僚。キリスト教徒以外にメリークリスマスと言えと強制したら問題だが、キリスト教徒が会社ではメリークリスマスのクリスマスカードが使えない窮屈さから解放されそうな同僚は晴れ晴れとした気分だった。

これは日本の左派にもいえることで、左派による言論封殺、自分達には甘くてヘイトスピーチやり放題、不寛容、偽善には多くの日本人に拒否反応が出始めているところなのではないだろうか。

わたしは改めて、映画の原作であるマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』とアン・エドワーズによって書かれたミッチェルの伝記『タラへの道 マーガレット・ミッチェルの生涯』を本棚の奥から引っ張り出して再読したわけだが、今回の再読で初めて気づいた、面白い――というと語弊があろうが――事実に気づいた。

南北戦争当時、南部は民主党の地盤だったということに。ウィキペディアで確認をとってみた。引用する。

ウィキペディア「アメリカ合衆国民主党の歴史」

奴隷制をめぐる対立が激化し、反奴隷制を掲げて共和党が結党された後、1860年から1932年にかけては共和党優位の時代となった。特に南北戦争前後の民主党は弱体化し、一時期は南部の地域政党の様相を呈した。
………………………
南北戦争が終結し、レコンストラクション(再建)の時代に入ると、旧連合国諸州の合衆国復帰や、奴隷制廃止後の諸問題の解決をめぐり、共和党内部にリンカーン等穏健派と急進派の分裂が生じた。共和党急進派は1866年アメリカ合衆国下院選挙で議会の3分の2を占める勝利を挙げて、国内問題を処理するための権力を手に入れ、南部を軍事的に占領して黒人に投票権を与える等の急進的政策を実行した。民主党議員は共和党急進派の再建政策に全力で反対したが、無駄であった。

ウィキペディアの執筆者. “アメリカ合衆国民主党の歴史”. ウィキペディア日本語版. 2017-03-11. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2&oldid=63317093, (参照 2017-03-11).

民主党と共和党の地盤が入れ替わるのは、リチャード・ニクソン大統領のときであるようだ。

『風と共に去りぬ』には、クー・クラックス・クランも出てくる。

「もちろん、ケネディさんも、クラン団にはいっていらっしやるのよ。それからアシュレもね。あたしたちの知ってる男たちは、みんなはいっていますよ」とインディアが叫んだ。(ミッチェル,大久保・竹内訳,昭和44,p.375)

クー・クラックス・クランは白人至上主義団体である。ヴィキペディア「クー・クラックス・クラン」には「民主党最右翼の人種差別過激派として保守的な白人の支持を集め始めていく」と書かれている(ウィキペディアの執筆者. “クー・クラックス・クラン”. ウィキペディア日本語版. 2017-08-25. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3&oldid=65246229, (参照 2017-08-25). )。

民主党ヒラリーのポリコレリベラル団体は自分たちの黒歴史を消し去りたいのだろうか。

共和党は戦争屋というイメージが形成されているが、実際には民主党こそ戦争屋の名にふさわしい。第一次世界大戦、シベリア出兵、第二次世界大戦、朝鮮戦争、キューバ侵攻、ベトナム戦争、イラク空爆、ボスニア・ヘルツェゴビナ空爆、スーダン空爆、アフガニスタン空爆、コソボ空爆は民主党政権下で始まっている。

それに対して、共和党政権下で始まったのは米西戦争、アメリカ-フィリピン戦争、コロンビア・パナマ介入、ニカラグア派兵、キューバ派兵、カンボジア侵攻、ラオス侵攻、グレナダ侵攻、リビア空爆、パナマ侵攻、湾岸戦争、イラク空爆である。

話を戻すと、ミッチェルがクー・クラックス・クランを登場させたのは、小説がメロドラマ調に流れないよう、面白くするための試みだったと前掲の伝記に書かれている。

そういえば、ミッチェルの母メイベルはフェミニストだった。「アトランタの戦闘的な婦人参政権推進グループのリーダーの一人だった」(アン・エドワーズ『タラへの道 マーガレット・ミッチェルの生涯』大久保康雄訳、文藝春秋、1986、30頁)。『風と共に去りぬⅡ』巻末の年表によると、メーベルの父は南北戦争当時ジャクスン将軍の兵站総監本部大尉だった。

自由奔放なスカーレットを主人公とする『風と共に去りぬ』は、フェミニズム的色彩を帯びているということもできそうだ。

一方ではスカーレットには日本風にいえば大和撫子的とでもいいたくなるような従順で忍耐強い面があり、一途に片恋するアシュレーから妻メラニーの面倒を見るように頼まれると、神妙にそれに従う。

恋敵であった憎きメラニーの出産がアトランタの陥落間近になって始まるのだが、スカーレットは彼女を見捨てることなく、医師が来てくれないなかで自分の出産時の記憶だけを頼りに産婆役まで――仕方なく――勤めて見事に赤ん坊の産声をあげさせ、その後、北軍によって炎上したアトランタから万難を排してメラニーを連れ出そうとする。

その救出劇に一役買うことになったのが、レット・バトラー。これを書きながら、自分が若いころ、レット・バトラー役を勤めたクラーク・ゲーブルにぞっこんだったことを思い出した。

でも、このレット・バトラー役ほど素敵だったクラーク・ゲーブルは見つけられなかったので、レット・バトラーに恋していたのかもしれない。

一癖も二癖もある人物だけれど、本当に困ったときにはどこからともなく現れて助けてくれる――しかも、必要以上は決して助けず、時には「お題」を出すこともある――レットはまるで白馬の王子様のようだ。

前掲の伝記によると、「生き抜くこと[サヴァイバル]がミッチェルの小説のメインテーマであった。それは彼女の言葉でいえば、「進取の気性」。第二のテーマは大地の魅力だった。

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2017年7月18日 (火)

息子の土産話。温まった旧交を冷やす、女友達との価値観の違い。

昨夜、フランス語圏の国に2週間出張していた息子から電話があり、長電話になった。興味深い話をいろいろと聞くことができた。

古い洋館が研修施設になっていたそうだが、近くに森があり、その森は日本の森や林といったイメージからは遠く、そう大きな森ではないのに、とても暗くて、ヨーロッパのお伽噺によく出てくる魔女でも出てきそうな感じだったとか。

魔女裁判があっていたころ、異端視された人々が森の中で秘密の集会を開く場面を本で読んだことがあったが、隠れるにはぴったりといった雰囲気だそう。

尤も、息子は森に入ったわけではなく、近くを通ったときに見た程度だったようだ。

小さな国の割には放牧地が広大で、牛の群れが無造作に点在していたとか。

森の近くの研修施設も、そこからは離れた研究団地のようなところにあるオフィスも国際色豊か、人々は友好的。

ただその国の礼儀作法で、親しい男女間、女性同士が頬を触れ合う挨拶があり(男性同志ではしない)、女性と頬をくっつけ合う挨拶では固まってしまい、それを察知した相手は次の日から握手に代えてくれたとか。

オフィスには世界中飛び回っているアフリカ出身のキャリアウーマンがいて、その人は大の日本贔屓だそうで、それは青年海外協力隊に親切にして貰ったからだという。

オフィスのある街の住人もとても親切で、フランス語しか通じないレストランで戸惑っていると、隣で食事していたお客さんが通訳を買って出てくれたそうだ。

研修の間もオフィスでも昼食はフランスパンにハム、チーズ、野菜などを挟んだサンドウィッチ。ハーブがきつくて、息子はそれが苦手だったそう。

息子がチョコレートを送ってくれるそうで、娘と楽しみにしている。

暗い森の話のところで、つい魔女裁判を連想してしまったのは、わたしが児童小説に魔女裁判にかけられる女性を登場させたいと思い、いろいろと調べてきたからだった。

そして、ヨーロッパの昔話に見られるような魔女の起源はキリスト教会に異端視されたカタリ派に求められるらしいこと、またカタリ派ではイエスとマグダラのマリアが結婚していたと教えていたらしいことを知った。

『異端カタリ派と転生』(原田武、人文書院、1991)によると、カタリ派は都市部における富裕層の知識人たちによって担われ、栄えたが、弾圧されるにつれて農村部に移り、次第に迷信化、妖術化していった。つまり、どんどん俗化を強めていき、遂には絶えたということである。

イエスとマグダラのマリアの結婚については、拙神秘主義ブログの以下の記事を参照されたい。

これも過去記事で書いたことだが、上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社〈講談社学術文庫〉、1998年)によると、魔女裁判が異端審問の延長上に生まれたことは確かであるようだ。

フランスのように教皇庁指揮下の裁判は異端審問、世俗裁判所では魔女裁判――という風に担当が明確であった所もあれば、ドイツのように教皇庁の力が弱くて双方が入り乱れていた所もあって、地域により時代によりまちまちだったようである。

異端者という語を生み、異端審問の開始のきっかけとなったのは、カタリ派だった。カタリ派は、それだけキリスト教会を脅かす存在だったのだ。

現代であれば精神病者に分類されるような人々が訴えられたり、逆に訴えたりするケースは多かったようだ。

一貫して魔女裁判の抑止力となったのは、神秘主義者たちだった。

前掲書『魔女とキリスト教』によると、魔女裁判の衰退に最も影響を与えたのは、ヴァイアーの医学的アプローチ、魔女懐疑論だった。

ヴァイアーはパラケルスス、アグリッパの思想系譜に属する神秘主義者で、彼の師アグリッパは魔女迫害推進派から邪悪な魔術の象徴として攻撃された。

アグリッパは異端視されながら『女性の高貴』など女性賛美の文章を書き(男性優位の社会背景があった。ちなみにカタリ派は男女平等論者だったという)、パリに秘密結社をつくり、メッツ市の法律顧問となって、魔女の嫌疑のかかった老婆の救援に立った。

勿論彼自身も魔女裁判の犠牲となる危険と隣り合わせだったが、個人的に教皇から好意をもたれていたことが幸いしたという。

ヴァイアーは、メランコリーという医学概念を魔女の判定に持ち込んで、魔女は責任能力を有しないことを立証しようとした。

こうした精神病理学の発達で、魔女裁判をリードしてきたフランスの法曹界がその影響を受けるようになったことから、魔女は火炙りにされるよりは拘禁され始め、山火事のようにヨーロッパに拡がった魔女現象は次第に鎮静化したという。

旧交を温めた友人のご主人が統合失調症と診断され、大変なようだ。別の医者は別の診断を下しているという。飲み薬漬け、アル中気味だったのが、療養所に入所したことで、少なくともアルコールとの縁は断っているそうだ。

律儀に夫を支え続けている彼女は立派だ。

が、残念ながら、彼女と前述したような話はできない。

戦後の日本が、共産主義者が大勢入り込んだ進駐軍による愚民政策によって唯物主義、現世主義に大きく傾いたように、彼女の物の考えかたにはその影響が色濃く、それが現代日本における主流なのだから、目下わたしに勝ち目はない。

物心ついたときから神秘主義者であったわたしなどは、現代日本の価値観からすれば、非科学的な時代錯誤の人間と映って当然だ。一方では、これをいってはまずいのかもしれないが、わたしにはむしろ彼女のような人々のほうが古めかしい人々に映る。

高校時代に親しかった彼女に、当時のわたしは自身のほのかな前世やあの世の記憶について、話したことはなかった。話せない雰囲気を感じていたからだろうが、かくも価値観の異なる青春時代における友人関係というものが、互いにとって有意義であったかどうかは微妙なところだろう。

ただ、何にせよ、神秘主義は科学に反する立場をとっているわけではない。オーラが肉体を包んでいるように、神秘主義は科学そのものを包含し、包含する観点から正誤を考察しようとするものなのだ。

近代神智学運動の母H・P・ブラヴァツキーの著書はそのようなもので、その著書には古代から当時知られた科学者に至るまで、多くの科学者、哲学者の説が沢山出てくる。

わたしは友人ににこうした考えを押し付けようとは思わない。彼女が思った以上に現世主義者で、価値観があまりにも異なることがわかったため、高校時代にそうであったように、今後こうした方面の話はしないだろう。

彼女も、彼女のご主人も一定の落ち着きを得たようだし、頼りになる妹さんもいるようだから、元のように距離を保つほうがいいかもしれない。

もっとも、神秘主義の研究を標榜しながら出鱈目な論文を書く学者や、スピリチュアルという名の下に誤った知識を商売道具にしている者など怪しげな人々が沢山いて、神秘主義が誤解されるのも無理はない。

それでも、精神病理学を発達させたのがヴァイアーのような神秘主義者であったことから考えると、神秘主義を排除して唯物的なアプローチを続けたところで、精神医学が停滞を続けるばかりであることは想像できる。

ユングのような神秘主義に関心を持った心理学者も出たが、そのアプローチの仕方はあまりに恣意的なのではないだろうか。

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2017年7月 8日 (土)

大雨から考えさせられた、古代文明社会における魔術とイアンブリコス

凄まじいばかりの大雨には驚かされるばかりで、古代文明社会で魔術の研究が盛んだったのも心情的にわかるような気がした。

古代文明社会では、人智を超えた力を招聘してでも何とかしたいという思いに至るほど、天災による悲劇が数多く発生したに違いない。

近代神智学運動の母P・H・ブラヴァツキーは、半分邦訳版が出ている Isis unveiled ――H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010)、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 下』(竜王文庫、2015)――の中で、古代文明社会で行われた魔術がどのようなものであったかを、歴史的な変遷に沿って理論面から丹念に考察している。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版)の用語解説「魔術」には次のように書かれている。

(……)魔術とは現世を越えた天上的な力と交流してこれを意のままに動かし、またより低級な領域の諸力を自在に使用するという科学である。それは隠れた自然の神秘の実際的知識で、ごくわずかな人にしか知られていない。魔術は非常に得がたい知識であり獲得しようとする人はほとんど法則に違反し罪を犯して失敗してしまうからである。古代と中世の神秘家達は魔術を、テウルギー(神々との交流)とゴスティアと自然の魔術の三つのクラスに分類した。(……) (ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説p.59)

テウルギー(神働術)について多くを書き残し、それを実践したのは、3世紀の新プラトン派に属する神智学者で、イニトエートであったとされるイアンブリコスだった。

彼は「たいへんな苦行をし、清浄で真剣な生活を送った。(……)地面から約5メートルの高さまで空中浮遊したと言われている。」(ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説p.17)

神智学の創始者アンモニオス・サッカスの直弟子達プロティノスとポルフィリオスはテウルギーは危険であるとして、懸念を抱いたらしい。

イアンブリコスの一派は、プロティノスやポルフィリオスの一派とは違っていた。このふたりの高名な人物は、典礼魔術も神働術も堅く信じてはいたが,危険であるとして強く反対した。 (H・P・ブラヴァツキー、ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』竜王文庫、2010、ベールの前でp.lvi)

イアンブリコスはピタゴラスについて最も多くを書き残している。ピタゴラス派の日々の生活がどのようであったかがイアンブリコス(水地宗明訳)『ピタゴラス的生き方(西洋古典叢書 2011 第3回配本)』(京都大学学術出版会、2011)を読むと、細かにわかる。

共同食事を解散する前に最年長者が神に献酒した後で唱える戒告が印象的なので、引用しておこう。ちなみに共同食事の献立はワイン、大麦パン、小麦パン、おかずは煮たのと生のままの野菜。神々に供えられた動物の肉も[時には]添えられた。

栽培され果実を産する植物を傷つけるなかれ、あやめるなかれ。同じく、人類に有害でない動物を傷つけるなかれ、あやめるなかれ。なおまた、神とダイモーンとへーロースのたぐいについては言葉を慎み、よい心情を抱け。また両親と恩人についても同様の心情を持て。法に味方せよ。違法と戦え。 (イアンブリコス,水地訳,2011,p.108)

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2017年6月30日 (金)

楽譜と白薔薇を手にしてご機嫌なアバター。大岡敏昭『武士の絵日記』が面白い。

マダムN

ブログの管理画面にアバターの欄があり、空欄をふと埋めたくなって作ってしまったアバター。

庭と部屋があり、何をゲットするにもゲームしなきゃならないみたいです。

デフォルトの格好で、デフォルトの庭とデフォルトの部屋をうろうろするアバターが不憫になり(後ろ姿が何ともいえない)、とりあえずドレスを着せ、楽譜と白薔薇を贈りました。

あとは気が向いたときに。リヴのお世話だけでいっぱい、いっぱい。

それにしても、このアバター、二頭身であるばかりか、頭のほうがデカいので、頭の飾りが何かほしい気がします。まあボチボチ。

祐徳稲荷参詣記の②と③を神秘主義エッセーブログにアップしようと思い、②をまとめていたのですが、昨日は時間切れでした。

当ブログにアップしたリルケとトルストイ『戦争と平和』に関する記事もエッセーにまとめて、前掲ブログにアップしておきたいと考えています。リルケとトルストイは深く調べようとすれば、とんでもない時間を食いそうなので、とりあえずはテーマを絞って。

萬子媛の小説を書く参考にしようと思い、大岡敏昭『武士の絵日記』(KADOKAWA〈角川ソフィア文庫〉、平成26)を読んでいます。実は、時代を勘違いして江戸中期くらいと思ったら、幕末でした。

それでも、明治の廃仏毀釈までのお寺の姿は、やはり今とはずいぶん違うものだったということがわかったのは収穫でした。絵日記の作者が行きつけとしていたお寺は武士も町人も女子供も自由に集う、一種社交の場であったようです。

士農工商という身分制度が厳然としてあったという昔学校で習った歴史は実は自虐史観によるもので、実際は違っていたといわれるようになりましたが、この絵日記を読むまでは半信半疑でした。でも、納得。

そういえば、時代はぐっと遡りますが、典雅な王朝文学として知られる『源氏物語』には意外にも庶民の姿が生き生きと描かれているのが印象的ですね。

絵日記の作者は下級武士で、29歳のときに上書をして藩政を論じたために蟄居を申し渡されたり、過酒による不行を理由に閉戸(自宅謹慎)を命ぜられたりしなからも、至っておおらかに暮らしています。

物凄い読書家で、本のタイトルをメモしておきたくなります。食生活も興味深く、魚介類、野菜類、豆腐をよく食べ、お酒をよく飲みます。

毎日のように、それも一日に複数回行ったり来たりも珍しくなく、気軽に、また楽しそうに人に会っていて、極めて風通しのよい暮らしぶり。それでいて節度があり、好感が持てます。

大きな行燈が印象的です。気が向いたら、読後にレビューを書きます。

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2017年6月15日 (木)

祝「テロ等準備罪」成立。イルミナティ用語としての「市民」。

やっと、「テロ等準備罪」が成立しました。産経ニュースより、引用します。

 共謀罪の構成要件を厳格化した「テロ等準備罪」を新設する改正組織犯罪処罰法は15日午前の参院本会議で、与党などの賛成多数で可決、成立した。
 テロ等準備罪の対象犯罪は277で、適用対象をテロ組織や暴力団、詐欺グループなどの組織的犯罪集団に限定した。構成員が2人以上で犯罪を計画し、少なくとも1人が準備行為をすれば、計画に合意した構成員が処罰される。
 政府は過去3度、「共謀罪」の法案を提出したが、「話し合っただけで処罰される」などの批判を浴び廃案となっていた。
(……)
 改正組織犯罪処罰法の成立で、187カ国・地域が締結している国際組織犯罪防止条約(TOC条約)の批准手続きが進む見通しだ。条約では締結に際し、各国にテロ等準備罪などの「合意罪」や「参加罪」を求めている。安倍晋三首相は「条約は、わが国がテロを含む組織犯罪の抜け穴となることを防ぐために極めて重要だ」と訴えていた。(……)

産経ニュース2017/06/15 (07:47)<http://www.sankei.com/politics/news/170615/plt1706150018-n1.html>(2017/6/15アクセス)

外務省ホームページにある「国際組織犯罪に対する国際社会と日本の取組」を閲覧すると、日本が国際社会の一員としての役割を果たすためには、この法案の成立が如何に重要だったかがわかります。これで、ようやく187カ国・地域が締結している国際組織犯罪防止条約(TOC条約)の批准手続きが進むことになるでしょう。

先進7か国(G7)の中で締結していないのは、日本だけなのです。187もの国・地域が締結しているのに、その中に加われず、法の抜け穴となっていた日本。どれほどみじめな立場であったことか。

前掲「国際組織犯罪に対する国際社会と日本の取組」に「国際組織犯罪は,社会の繁栄と安寧の基盤である市民社会の安全,法の支配,市場経済を破壊するものであり,国際社会が一致して対処すべき問題です」とあります。

ここで使われている市民社会の市民とは、イルミナティ教団の創設者アダム・ヴァイスハウプトが特殊な意味合いを持たせた「市民」とは異なる普通の意味での市民でしょう。

1776年に、今のドイツでアダム・ヴァイスハウプト(1748 - 1830)によって創設されたイルミナティ教団は、その危険性が警戒されて1784年に壊滅させられていますが、そのときには既にフリーメーソンリーを侵食しており、イルミナティ教団の原理原則はマルクス主義やテロ組織に取り入れられたといわれています。

左派が好んで使う市民という用語も、イルミナティ用語と考えられます。知らずに使っている人のほうが多いかもしれませんが。

アダム・ヴァイスハウプトは『秘密結社イルミナティ入会〈初級編〉』(芳賀和敏訳、2013)で次のように書いています。

ただ、市民による政府だけが、しかしながら最善の意思をもって全力を挙げれば、古来変わらぬ悪の根源を解決するだけの力をもっている。
(芳賀,2013,第2章「なせ秘密結社が必要なのか」〈悪と戦う市民政府は可能か〉p.80)

この引用だけでも、一般的には、国家、社会、地域社会を構成する構成員という意味で使われる市民という用語が突出し、国家から遊離しているかのような市民政府などという造語が使われていて、イルミナティでは如何に特殊な意味合いを持っているかがわかるでしょう。

ジョン・ロック(1632 - 1704)に「統治二論(市民政府論)」という著作があり、市民政府というのはその影響を受けた用語だと思えますが、ヴァイスハウプトが『秘密結社イルミナティ入会〈初級編〉』の「第2章 なぜ秘密結社が必要なのか」〈読書について〉で、ジョン・ロックを推薦図書に挙げていないのはなぜでしょうか?

ヴァイスハウプトによると、既存の市民による政府において、「人々は自分のことだけを考え、法はただ弱者をいじめているだけで、上位の者に対しては必要な圧力をかけることもできない。そこでは教育がないがしろにされ、身分や名前による差別のない無期限の解放が布告される。真理は貶められ、とっくに滅び去ってしまっている。そして阿諛追従する者によってのみ信じられている。市民社会での国家の関心は、ひとえに危急を要する外国からの安全保証に基づいている(芳賀,2013,p.80)のだそうです。

国家の関心が「危急を要する外国からの安全保証」にしかないほどの外国の侵略にさらされれば、人が自分のことだけを考え、弱者いじめの法しかない、教育も受けられないような環境となることもあるでしょう。

ですが、ヴァイスハウプトの場合は、人が自分のことだけを考え、弱者いじめの法しかない、教育も受けられないような環境をつくった国家では、真理が追究されることもなく、当然ながら弱体化して防衛に専念するしかない、といっているようでもあります。

しかし、このような国家としての体を成していないような「おらが村」を一般論に持っていっているおかしさがあります。国家とはおしなべてこのようなものだと思っていたようですね、ヴァイスハウプトは。

ヴァイスハウプトという人は、そんなおらが村で悲惨な生涯を送ったのでしょうか。

いいえ。

ヴァイスハウプトはインゴルシュタットに生まれ、25歳で法学部の教会法正教授となった超エリートだとか。

イルミナティ教団が禁止されたことによってヴァイスハウプトはバイエルンから逃れなければならなくなったそうですが、公爵エルンスト2世に庇護され、後にザクセン・ゴートの宮中顧問官に任ぜられて、生涯年金を得、恵まれた生涯を終えたようです。

恵まれ、甘やかされて育った頭でっかちのお坊ちゃんが28歳で創設した――趣味に走った――会がイルミナティであったと考えれば、『秘密結社イルミナティ入会〈初級編〉』はなるほどと思わせられる内容です。

過去の哲学という哲学、宗教という宗教を嘲笑うヴァイスハウプトの真理、善悪、倫理、理性、幸福といった観念に関する考察は貧弱というより、考察自体がろくになく、一見効果的に挟まれるこれらの言葉の正体は曖昧な漠然としたもので、恣意的に用いられているにすぎません。

ヴァイスハウプトは、市民による政府よりも優れているのは秘密結社だとみなし、人間は自然状態から市民社会を経て秘密結社へと至るように、秘密に盟約結合しようという衝動を神自らによって植えつけられているのだといいます。

しかしながら、イルミナティという思想の正体は次の文章に端的に表れています。

服従なくしていかなる社会(結社)の秩序も成り立たない。我々が、服従を要求するのは、あらゆるシステム、教団、体制は、それが厳しい秩序をもっていればいるほど、最大の効果が発揮されるからである。そして、いずれ君もまた命令する側の立場に立つようになるからである。(芳賀,2013,第3章「初級者を受け入れる秘密結社の覚悟と使命」〈新規入会者への秘密結社側からの要求事項〉p.122)

彼はこうもいっています。

我々が要求するのは、あらゆる昇進を決めるのは我々であるということ、誰がどういう人間だから、その者をどう使うか、を知っているのは我々だけだということ。(……)遅々として進まない昇進に愚痴をこぼす者は誰であろうと、不純な意図をもっている。(芳賀,2013,p.124)

下位の者たちにとっては締めつけられるばかりの体制下で、全ては上位者の匙加減ひとつで決まるといっています。つまり、恐怖政治が幸福への道だとヴァイスハウプトは説いているわけです。

なるどね、イルミナティの影響を受けたマルクス主義の下に赤色革命を起こした国では往々にしてそうなりました。

前掲のヴァイスハウプトがいうような「人々は自分のことだけを考え、法はただ弱者をいじめているだけで、上位の者に対しては必要な圧力をかけることもできない。そこでは教育がないがしろにされ、身分や名前による差別のない無期限の解放が布告される。真理は貶められ、とっくに滅び去ってしまっている。そして阿諛追従する者によってのみ信じられている。市民社会での国家の関心は、ひとえに危急を要する外国からの安全保証に基づいている(芳賀,2013,p.80)ような国も、赤色革命を起こした国の中にはありますね、現に。

テロ等準備罪が成立するまで、左派が執拗に妨害し続けたことを考えると、イルミナティの創設者アダム・ヴァイスハウプトの全著作は、今こそ大学などできちんと研究されるべきだとわたしは思います。

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2017年6月13日 (火)

萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺(法泉寺)に電話取材しました

8日、祐徳稲荷神社に参詣し、翌日、以下の記事を書きました。

動揺したことがあったために、すぐにはまとまった文章が書けなかったのですが、気持ちの整理もついたので、まとめにかかろうとしました。

が、まだわからないことがあり、電話で取材するのは失礼かもしれないと思いつつ、決行。萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺・法泉寺に電話取材しました。

その結果、さらなる驚き、という以上の衝撃に見舞われました。今回の一連の取材を通して、廃仏毀釈の爪痕をまざまざと見たように感じたのでした。

黄檗宗で断食入定が行われていたのかどうかが知りたいと思い、いっそ大本山にお尋ねしてみようと思い、電話したのでした。ご回答いただいたのは、宝物館の和尚様でした。

電話するまでは、密教の影響で、萬子媛が断食入定を実行されたのではないかと考えていたのです。尤も、黄檗宗は密教の影響も受けているようですけれど、萬子媛の断食入定は特異な例ではないかと憶測していました。

黄檗宗でも行われていたようです。いつごろまで何人断食入定をしたのか(現代では法律上不可能です)、記録が残っているのかどうかを知りたかったのですが、はっきりと記録されているわけではないのかもしれません。何度か同じ質問をしたのですが、はぐらかされてしまいました。

黄檗宗は中国の明朝の仏教が日本に伝えられたものです。その明朝で、また日本でも行われていた過酷な修行法を伺いました。

例えば、手に包帯をぐるぐる巻きにしてそれに油をさし、火をつけ、それを燈明代わりに、お経を読むのだそうです。

ひ、とわたしは心の中で悲鳴を上げ、「火傷では済まない場合もあるのではありませんか?」というと、「そういえば、どこそこに指を燈明代わりにした坊さんがおったな……」と事もなげに萬福寺の和尚様。いつの時代のお話なのでしょうか、恐ろしくて聞けませんでした。

明朝では(日本でも?)、自らの血で仏画を描いたり、写経をしたりということも流行ったとか。

そして、断食入定はそうした過酷な修行法の一つと位置づけられていたようです。

穀類を断ち、水だけを飲んで、骨皮筋衛門になる――と和尚様はおっしゃいました――修行を木食[もくじき]入道というそうです。

そして山の斜面みたいなところに入って、「つまり生き埋めになるわけですわ。息だけはできるようにしてな」と和尚様。

「水は飲めるのでしょうか? 生き埋めになったあと」とわたし。飲めるそうです。毎日お経を読み、水を飲んで、入寂のときまで……。

と、ここまで萬福寺の和尚様から伺ったことをメモしました。

まだまとめる段階にはないので(写真を挿入しながらきちんとまとめたいと思っています)、忘れないうちに、とりあえずメモしておきます。

鹿島の祐徳稲荷神社に舞台を戻すと、博物館のかたに教わって見学した岩本社には、萬子媛に仕えた尼さんがお祀りしてあるというお話でした。技芸の神様だそうです。

ところで、わたしは過去記事で次のようなことを書きました。

2016年8月18日 (木)
歴史短編1のために #27 萬子媛遺愛の品々 ②入定について。印象的な御袈裟。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/08/27-1e00.html

萬子媛があの世でボランティア集団を組織なさっているとわたしが想像するのは、参拝するたびに、萬子媛を囲むように一緒にいるあの世の大勢の方々を感じるからだ。
その大勢の方々というのは、萬子媛が禅院を主宰なさっていたときにそこに所属していた尼僧たちを中心とする方々ではないだろうか。
わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛にはどこか深窓の麗人のような趣があり、無垢で高雅で率直な高級霊の雰囲気が伝わってくる。
それに対して、萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性達の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性たちは生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧たちではないかとどうしても思えてくるのだ。
萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来たときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ。
何にしても、萬子媛の一番近くにいる女性は身辺の護衛でも司っていそうな、シャープな雰囲気のある女性なのだ。わたしの内的鏡にほのかに映った気がする程度のものなのだが、萬子媛の圧倒的な雰囲気とはまた別種の矜持と気品とがまぎれもなく感じられて、興味深い。

過去記事で出てくる萬子媛の近くに控える矜持を感じさせる女性的な存在が、岩本社に祀られている尼僧ではないかと想像したくなります。

時代も下って、鍋島藩の家臣の家に育ったと聞く母方の祖母ですら、鹿島にお嫁に来るとき――有名な軍人さんが仲人だったというから、それくらいの時代――には、3人の側に仕えていた人々と一緒にお嫁に来たと従姉がいっていたことから考えれば、萬子媛には当然そうした方々がいらっしゃって、一緒に京都から鹿島に下られたことは確かでしょう。

その尼僧が技芸の神様として祀られているということは、生前、その方面の指導で優れていたからではないでしょうか。こうしたことからも、京都から萬子媛と一緒に下ってきた人ではないかと思えます。

37歳で京都の花山院から肥前鹿島にお嫁に来られた萬子媛。萬子媛は1625年生まれですから、このとき1662年(寛文2年)。今は2017年。2017年−1662年=355年。

何と、355年も萬子媛に仕えていらっしゃるというわけです。

355年後つまり出家後も、さらには死んでからも、同じように萬子媛に仕えているのだとすれば、それは萬子媛が黄檗禅の、また霊的な分野における師匠あるいはリーダーとして理想的な存在であり続けているからでしょう。

この世でグループを形成した人々は、あの世でも同じグループに属することがあるようです。その逆もいえるでしょう。

尼僧に神格が与えられ、技芸の神様とされていることから考えると、神社での祭事を連想させられます。明治の廃仏毀釈までは、仏事と神事がどちらも怠りなく行われていたということではないでしょうか。

岩本社を見学した後、普明寺を見学しました。案内図も撮ってきたので、まとめには挿入します。

普明寺は鍋島直朝公の長男である断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳明幢禅師が開山となり創建されたお寺です。

寺域全体を竜に見立てて建物や施設が配置されているとか。相当に奥行きのある敷地には草木が生い茂っていて、竹林などもあり、石仏が沢山あって、建物も立派でした。

ただ全体が自然に抱かれすぎているというか、率直にいえば、苔むして荒れていました。鹿島市は田舎ですが、祐徳稲荷神社のすぐ近くにあれほどの自然が手つかずで存在しているとは想像もしませんでした。

普明寺も、同じ敷地内の手前のほうにある普明寺の子院である法泉寺も、廃寺のように見えました。

でも、電話で萬福寺の和尚様はおっしゃいました。「普明寺に、去年の夏にお経をあげに行ったがよ」

(あの物凄いところへ?)と、失礼ながら思ってしまいました。江戸時代にはさぞ威容を誇ったであろう普明寺の背後が墓地になっているようですが、藪蚊が凄くて、そこへは行きませんでした。

でも、あそこにいた間、もう日が落ちかけて、爽やかな風が強く吹いていたので、すばらしい散策ともなりました。風が静まると、藪蚊がとまりに来るので、とまっているところを何匹か退治したり退治し損なったりしました。

それなのに、車に戻って体を調べてみると、一箇所も蚊に刺されていませんでした。夫も娘もそうでした。この時期の藪蚊は血を吸わないのでしょうか。

もしかしたら、萬子媛のお墓が神社の石壁社とは別に普明寺にあるのかもしれないと思いつつ、帰途についたのでした。

萬福寺の和尚様は、わたしが調査しているようなことに詳しいかたを何人か教えてくださいました。そのうちのお一人のご著書は読んだことがありました。

しかし、「総合的に知っている人はいない。佐賀も殿さんが沢山、黄檗の寺院を作った。祐徳稲荷もそうじゃが」と和尚様。

「普明寺は、相当に苔むしているように見えました。綺麗になれば、一般人も行きやすくなると思いますけれど」と磊落な和尚様の雰囲気に甘えて、ついいってしまうと、「あんたが、あんたが人のため、世のため。自分がやるか、やらないかをいうことに価値がある」と和尚様。

「わたしは黄檗宗の僧侶として断食入定を遂げられた祐徳院様に魅せられ、黄檗宗について知りたいと思いました。いろいろと教えていただいて、ありがとうございました」といいました。

法泉寺に電話したのは、田中保善『鹿島市史 真実の記録』(田中保善、1990)に、次のような記述があったからでした。

祐徳院と稲荷社は世間の信仰を集め、御霊験あらたかで有名になり参詣人も多く興盛になったが、明治を迎えて神仏混淆のお寺は明治政府の『神仏判然令』により神仏を分離して廃仏毀釈が実施されるようになった。ここでは仏像や仏具一切を普明寺に移して神社のみとした。普明寺では仏像仏具類は完備しており、普明寺の末寺の法泉寺に祐徳院の寺の物を全部移して現在大切に保管している。(田中,1990,pp.151-152)

祐徳博物館の職員は「祐徳院にあった物は普明寺に移されたということのようですよ」とおっしゃいました。前述したように普明寺も法泉寺も同じ敷地内にあり、法泉寺は普明寺の子院なのです。

しかし、法泉寺に電話でお尋ねしたところでは、禅寺だった祐徳院の物は何一つないというお話でした。萬子媛のお墓もないそうです。

「ここは藩主の菩提寺で、藩主と正室のかたしかお墓はありません。祐徳院様は後室なので、ここにはないのです」とのことでした。以下のオンライン論文にも、そのようなことが書かれています。

高橋研一(鹿島市民図書館 学芸員)「鍋島直彬の先祖史蹟顕彰事業 ~先祖の史蹟を訪ねた直彬」<http://kcc.lolipop.jp/_src/sc1250/82d382e982b382c692t96k8du8989985e81i8dc58fi81j.pdf>(2017/6/13アクセス)

他の大名家のお墓をきちんと調べていかなければなりませんが、夫婦が対になった墓所の配置は鍋島家の特徴的な墓の作り方といえるかもしれません」とも書かれています。

同じ正室であっても、先に嫁いだ正室だけが藩主と同じ墓地に眠る権利があったということのようですね。

そして、前掲論文の次のような記述に胸を打たれました。

普明寺の場合、菩提寺だったので非常に多くの子院が建てられています。当時の景観で言うと、ここから祐徳稲荷神社まで山伝いに子院がつながっていました。祐徳稲荷神社の前身も元々は祐徳院といって、普明寺の子院でした。

どんなに壮観だったことでしょう!

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2017年6月 8日 (木)

今東光『毒舌日本史』(文藝春秋、1996)から薫る神智学的教養

神智学と縁の深かった父親を持ち、自身も神智学書籍の翻訳などした今東光について、当ブログの過去記事をもとに書いた記事を拙「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップした。

ウェブサイトで閲覧した記事には今東光の著作からの引用も多く、参考になったが、本人の著作を読まずに記事を書いて終わらせるわけにはいかないので、加筆するつもりで、現在色々なタイプの今東光の5冊の著作――歴史小説2冊、歴史エッセー、身上相談物2冊――とと、編集者が書いた小伝を読んでいる。

身上相談物を読んで、東光が大好きになってしまった。ああ会ってみたかった。

親に恵まれなくとも、昔の日本には今東光のような慈父であり、またどこか慈母でもあるような人物がいて、魅力的な毒舌口調で相談にのってくれていたのだ。

読んでいて感激の涙が出てくるくらいに、真正面からこの上なく真剣に東光は回答している。

その身上相談を読んでも東光が身につけている物凄い教養とユーモアのセンスは感じとれるのだが、今東光『毒舌日本史』(文藝春秋、1996)を読むと、その教養から神智学の薫りがするのである。

例えば、聖徳太子。今東光は阿育王(アショーカ王)の善政を評価し、その善政に倣った隋の文帝を評価し、短命だった隋だが、「僕に言わせるとこの文帝の仏教治国策は古代東洋における阿育王の話に次ぐ近代性を有つ国家です」(今,1996,p.59)という。

そして、人民の民度は低く、野蛮と無法とが貧困と同居している日本で、この隣国の仏教治国策を施そうとしたのが聖徳太子だといい、東光は最大級の賛辞を捧げている。

アショーカ王の特色は、彼が熱烈な仏教信者でありながら、他の諸宗教を排斥しなかったところにある。中村元は『古代インド』(講談社、2004)で、それは仏教に、本来このような性格があるからだと述べている。

仏教とは覚者(ブッダ)の教えである。覚者とは万有の真理を会得した人にほかならない。このような覚者は、偏狭な先入見を去って、ありとあらゆるものにその存在理由を求め、主種な思想的立場に対しては、そのよって成立するゆえんを洞察するものであらねばならない。覚者の教えは他の教えと対立することがない。それらを超越してしかも包含しているところのものである。ゆえに仏教それ自身はかならずしも他の思想体系を否認せず、それぞれの意義を十分に承認し、それぞれの長所を生かそうとするものである。(中村,2004,p.193)

わたしはここから神智学の教えを連想するのであるが、アショーカ王は真の仏教信者であったから排他的でない宗教性を持っていたのだろうし、今東光は真の仏教信者であったからこそ、神智学に親和性があったのだろう。あるいは、神智学に親和性のある資質が東光を仏教信者にしたといえるのかもしれない。

アショーカ王はチャンドラグプタの孫だった。過去記事でも書いたことだが、ブラヴァツキーを指導、守護したモリヤ大師のモリヤの名は、同大師の化身であったモリヤ(マウリヤ)王朝の始祖チャンドラグプタ・モリヤから来たものだといわれている。東光はこのことを知っていただろうか。

東光は神仏分離を次のように批判している。

僕の持論はね、明治初年の神仏分離は稀に見る悪法で、稀に見る悪法で、あのために日本はモラルのバックボーンを喪失したと見るんです。従って神仏は改めて新しく発足し直し、昔ながらに手を握るべきである。これなくして日本はモラルを恢復することが出来ないと主張してるんですどうです、こりゃ名論卓説てえもんでしょう。(今,1996,p.98)

平安時代末期に編まれた歌謡集『梁塵秘抄』に収録された歌では神仏がそれぞれの系譜を純粋に保ちながら渾然一体となっていて、そこからは高い美意識と倫理観が感じられる。

日本人の美意識、倫理観がこのとき既に高度な水準に達していたことを考えるとき、わたしにも、神仏分離は悪法だったとしか思えない。神智学徒であれば、誰しもそう思うだろう。

絶世の美女とされるクレオパトラの知的魅力を、「アレクサンドリア学派の哲学を修めた教養の高い才女」(今,1996,p.39)という風に、アレクサンドリア学派を背景に説くところなども、神智学徒らしさを感じさせる。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版)の用語解説「アレクサンドリア学派(Alexandrian Philosophers School)」を読むと、アレクサンドリア学派について総合的な知識を得ることができるが、ここに、アレクサンドリア市は「西暦173年にアンモニオス・サッカスが設立した折衷学派即ち新プラトン学派で一層有名になった」(田中,1995,「用語解説」pp.16-17)とあり、質疑応答形式の本文に「神智学という名称は三世紀に折衷神智学を創始したアンモニオス・サッカスとその弟子達から始まったものです」(田中,1665,p.13)とあるように、神智学はアレクサンドリア学派から起こった。

だからアレクサンドリア学派という名称は、神智学徒にとっては特別の響きを持っているはずである。

今東光は嵐のような日教組に対する批判活動を繰り広げていたらしい。「共産主義てえもんは赤色帝国主義だってえ解るときが怖いんだ」(今,1996,p.133)という東光は、その怖さを緻密な歴史研究を通して知っている。

そして、引用する左翼的教育に対する今東光の懸念は、唯物史観とは到底相容れない神智学的歴史観からすれば、当然のものだ。

日本の左翼的教育てえものは、つまり馬鹿を拵[こしら]える教育で、それでねえとインチキなマルクス・レーニン主義を押しつけることが出来ねえんだね。だから日本の歴史も、仏教も何も知らねえ二十世紀人ばかりになってきた。将来、此奴等が大人になって人の親となったら、それこそ歴史の悲劇だろうな。(今,1996,p.19)

東光の懸念は当たってしまった。

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