カテゴリー「歴史」の323件の記事

2018年8月19日 (日)

鹿島藩日記第二巻ノート ③萬子媛の葬礼(書きかけ)

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

萬子媛(一貫して祐徳院様と記されている)逝去後、すぐに葬礼の段取りがつけられると同時に、あちこちへ訃報が届けられた。細かく記されている。

訃報は直ちに松之助様、お幾様(鍋島直條の娘で萬子媛を慕った義理の孫。前ノート②参照)、泉州様(鍋島直朝、萬子媛の夫)、京都・花山院(萬子媛の実家)、江戸……

こうした記述と交錯するように、鍋島直條に対するお見舞いが蓮池家から届けられたリしている(実際にはこのとき既に江戸で直條は亡くなっている)。

さらに訃報を届けるため、飛脚が遣わされた。信州様(鍋島綱茂。佐賀藩の第三代藩主。光茂の長男。光茂は1700年に亡くなった)、その他御親戚方。彦山僧正(萬子媛の姉が嫁いでいる)。

萬子媛に引導を授けるために格峯(鍋島直孝。断橋和尚)の指示で請待された僧の名が「拙巌」と記されており、この人物がわからなくて躓いた。またしても悶々としてリサーチ。

結局わからないままなのだが、桂巌禅師(桂巌明幢1627 - 1710)以外に考えられない。まぎらわしいことに、拙巌(せつがん)という僧は存在するが、浄土真宗本願寺だし、1791-1860 で時代が違う。

今時間がないので、後で続きをノートします。このノートは書きかけです。

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2018年8月16日 (木)

鹿島藩日記第二巻ノート ②萬子媛の病気が心配でたまらない義理の孫

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

変体仮名が曲者だわ~!

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『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、1979)によく出てくるこの文字がわからず、悶々とした。合略仮名(仮名合字、つづきかな)で、平仮名の「よ」と「り」の合字、「より」。

昨日からまだざっとメモしているだけなのだが、萬子媛の実家を継いだ弟、花山院定誠が萬子媛の亡くなる前年に亡くなったことが日記からわかる。

前の記事に「忠広と定教は若くして亡くなり、寛永17年2月26日(1640年4月17日)生まれの定誠が藤原氏北家師実流の花山院家24代当主となった。権大納言、武家伝奏役、内大臣をつとめたあと、元禄5年(1692年)、52歳で出家し、宝永元年(1704年)に死去」と書いた。萬子媛にはショックだったのではないだろうか。

萬子媛が病気になられてから、頻繁に「お幾様」というお名前が出てくる。鍋島直條女とあるから、このお幾様は萬子媛の義理の息子の娘。義理の孫になる。お幾様が萬子媛を心配していた様子が日記から伝わってくる。

鍋島直條(1655 - 1705)は51歳で亡くなっており、家督を継いだ五男、直堅(1695 - 1727)は病弱だったらしく、33歳で早世している。

直堅の母違い(?)の姉が「お幾様」ではないかと思うが、弟との年齢差はかなりあっただろう(直堅の母は中野氏)。それでも、父、直條の年齢を考えれば、比較的、若かったのではないだろうか。

直條の結婚は寛文11年(1671)、17歳のときで、相手は佐賀藩主光茂の養女(蓮池藩鍋島直澄の娘)千代、19歳である。直條夫人千代は元禄元年(1688)、36歳で出産後、亡くなっている。千代のこの末の子もほどなく亡くなった。第二女が既に天和二年(1682)、亡くなっている。

お幾様が長女だったとすれば、早ければ結婚の翌年くらいに生まれ、遅ければ第二女が生まれ亡くなった前々年くらいの生まれになるから、萬子媛が亡くなったとき、25歳~33歳くらい。

萬子媛の修行期間は62歳からの18年間に及ぶから、萬子媛の出家時、お幾様は7歳~15歳。子供のころ可愛がられ、萬子媛の出家後は時々会いに行っていたとすれば、慕うのも頷ける。

わたしは萬子媛をモデルとした歴史小説の第一稿で、萬子媛を慕い、お産につきそう若い女性を描いた。

義理の娘に設定したのだが、実際には娘ではなく孫だったとはいえ、萬子媛を慕う「お幾様」のような女性がいたことに驚きを覚えた。

他にも、萬子媛が筝を奏でる情景が頭に浮かんだので、その場面を書いたら、実際に萬子媛は筝を弾かれたようで、遺愛の琴(筝)を祐徳博物館で観ることができる。

萬子媛が可愛がり、萬子媛を慕う若い女性が萬子媛に付き添っているところがしきりに頭に浮かび、病気はちょっと思いつかなかったので、萬子媛のお産ということにしたのだった。

実際の萬子媛も、お幾様を可愛がられたに違いない。わたしが神秘主義的感性で捉える萬子媛はそのような格調高い慈母のような雰囲気を持つかたなのだ。

だからわたしも――お幾様には負けるかもしれないが――あの世のかたであるにも拘わらず萬子媛が大好きになってしまった。そうでなければ、書き慣れない歴史小説など書こうとは思わない。児童小説の続きを書く。

お亡くなりになった神智学の先生も大好きなので(先生は多くの会員から慕われていた)、ちょっと困るくらいだ。百合も薔薇もたまらなく好き、という感じだろうか。

護摩堂での二夜三日の祈禱を命じたり、お見舞いに行く折に中尾地蔵へも参詣したり、しきりに人をやって容体を尋ね(萬子媛逝去の前日も)……と、お幾様は萬子媛のことが心配でたまらなかったのだろう。

父と義理の祖母を一度に亡くしたお幾様……可哀想に。萬子媛と寝食を共にして修行に明け暮れた筋金入りの尼僧たちとは違って、一般的な女性だったと思われるので、なおさら気の毒になってしまう。

元禄14年に起きた赤穂事件について日記に書かれており、解説を引用しておきたいが、記事を改めよう。『伊万里市史』から、鍋島焼についてもノートしておきたい。

赤穂事件が起きた翌年の元禄15年、肥前佐賀領大風雨とあり、これは台風だろうか。被害状況が細かく記されている。

田畠18万1,000石が荒れた。倒家数2万9,045軒。崩塀3,800間余。
倒木3万4,850本。破船29艘。
死人62人のうち男57人、女5人。
死馬8疋。

わたしは萬子媛が断食入定ではなく、一般的な死にかたを選ばれた――と推測できることが嬉しい(萬子媛が古枝にあった祐徳院のどこで病まれたかが書かれていないので、断定はできない)。

萬子媛に興味が湧いたのは断食入定という過酷な死にかたをなさったという伝承に接したからだったが、わたし自身は死に至るまで断食を続けるような過激な修行を不自然、不要なことだと思っている。

それに、高雅でありながらとても率直なかたである萬子媛がわたしの思い込みに違和感を覚えていられる感じがそれとなく伝わってきて、現実にはどうであったのか知りたくなり、『鹿島藩日記 第二巻』を購入した。購入して、よかった。

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2018年8月15日 (水)

鹿島藩日記第二巻ノート ①萬子媛の病気

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

過去記事に書いたように、『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、1979)には宝永二年三月六日ごろから、ほぼ毎日、閏四月十日に「今夜五ツ時、祐徳院様(花山院定好女萬子 鍋島直朝後室)御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」と記されるまで、萬子媛の病気に関する記述が繰り返されている(前掲書366~398頁)。

同年の三月二十六日の日記に、二十四日からの石丸作佐衛門という人の手紙が写されていて、萬子媛の病気や食欲について知ることができる。

この間より御心持御かろみあそばされ、御快(おこころよく)なられましたとのこと――といったことが書かれているから、病状はよくなったり悪くなったりで、一進一退を繰り返した。

食欲について、「御食事四十め宛」とあり、めは目盛り(?)、宛は「数量を表す名詞に付いて、…あたり、…について、の意を表す」接尾語(?)。

御腫気とは浮腫のことか?

同写しに御風気とあり、御風気(ごふうき)とは風邪のことだから、高齢になって、断食行などは続けていられたのだろうが、やはり体は弱ってきており、風邪に罹ってそれがなかなか回復しないまま、肺炎か何かで亡くなられたのではないだろうか。まだざっと読んだだけで、解読はこれからだから、間違っているかもしれないが。

花山院家や英彦山との交際があったことなどもわかる。以下の過去記事に書いたように、萬子媛の姉が英彦山座主に嫁いでいた。

花山院家系図で見ると、定好には男子5人、女子3人いて、真ん中の女子が萬子媛。鍋嶌和泉守室とあるから。嶌は島で、鍋島。和泉守は官位。室はその妻のこと。
忠広と定教は若くして亡くなり、寛永17年2月26日(1640年4月17日)生まれの定誠が藤原氏北家師実流の花山院家24代当主となった。権大納言、武家伝奏役、内大臣をつとめたあと、元禄5年(1692年)、52歳で出家し、宝永元年(1704年)に死去。
円利は禅寺に入ったようである。堯円は浄土真宗の寺に入り、第16世大僧正となった。
姉は、豊前国英彦山を統括する首席僧、亮有の妻となった。亮有の父有清の妻となったという異説もあるようだ。有清も英彦山座主である。萬子媛の妹は惣持院の尼となったとある。

閏四月十日(6月1日)の日記には様々なことが書かれている。萬子媛の義理の息子である鍋島直條は既に四月三十日(5月22日)江戸で亡くなっていたのだが、郷土史家の迎昭典氏がお書きになっているように、まだ鹿島ではそのことを知らなかったことがこの日の日記を読むと、わかる。

同日、萬子媛の病床に付き添っている人々に、殿様からこわ飯(おこわ)・煮しめ物重二組が差し入れられた。萬子媛はこの日の「今夜五ツ時」――夜8時に亡くなった。

『鹿島藩日記 第二巻』は、なかなか興味深い。食物について。当時は様々な種類の鳥が食べられており、魚の種類も豊富。餅菓子なども出てくる。

日記には元禄14年3月14日 (1701年4月21日)に起きた赤穂事件についても、詳しく記されている。

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2018年8月 8日 (水)

萬子媛の死を記録した本が届いた

貴重な本を届けていただき、祐徳博物館には感謝の気持ちでいっぱいです。

・‥…☆・‥…☆・‥…☆

今日は他に用事があるので、とりあえず、ざっとメモしておこう。漢文が苦手なので、まだ「祐徳院」という法諱が出てくる箇所をチェックしただけ。

当時の雰囲気に引き込まれ、「萬子媛、死なないで!」と心の中で叫びながら、藩日記を辿っていた。

現実(?)には萬子媛は現在、この世のどなたよりも生き生きと、オーラの威光に満ち、あの世のかたとして神社という形式を最大限に活用し、毎日あの世からこの世に通って、千手観音のようにボランティア集団のリーダーとして活動なさっていることが、神秘主義的感受性に恵まれた人間にはわかるはずだ。先祖返りにすぎない霊媒能力ではおそらく、あの高貴、精妙な存在感はわからないだろう。

しかしながら、肉身としての萬子媛は、宝永二年(1705)閏四月十二日に逝去された。

祐徳稲荷神社のオフィシャルサイトには、次のように書かれている。

齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。

祐徳博物館の女性職員がおっしゃるには、寿蔵で萬子媛が断食の行を積まれたことは間違いないだろうとのこと。

身体が弱ってからも、断食の行を続けられたのかどうかはわからない。断食の行が御老体に堪えたのかどうかもわからない。

いずれにしても、萬子媛は宝永二年三月六日ごろにはお加減が悪かった。それからほぼ毎日、閏四月十日に「今夜五ツ時、祐徳院様(花山院定好女萬子 鍋島直朝後室)御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」(『鹿島藩日記 第二巻』祐徳稲荷神社、1979、398頁)と記されるまで、萬子媛の容体に関する記述が繰り返されている(前掲書366~398頁)。

この「今夜五ツ時、祐徳院様(花山院定好女萬子 鍋島直朝後室)御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」という藩日記からの抜粋は、郷土史家の迎昭典氏からいただいたコピーの中にあった。

藩日記にははっきりと「御病気」という言葉が出てくるから、萬子媛が何らかの病気に罹られたことは間違いない。

そして、おそらくは「断橋和尚年譜」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)の中の断橋和尚の追悼詩に「末梢(最期)疑うらくはこれ熟眠し去るかと」(92頁)と描かれたように、一進一退を繰り返しながら、最期は昏睡状態に陥り、そのまま逝かれたのだろう。

鹿島市民図書館の学芸員は取材の中で「石壁亭そのものは祐徳院様が来る前から断橋和尚が既に作っていて、観音様を線刻したような何か黄檗宗の信仰の対象となっているようなところ――洞穴を、自らのお墓に定められたということだと思います」とおっしゃったが、現在の萬子媛の活動を考えると、観音様のようになることを一途に祈念しつつの断食行であり、死であったのに違いない。

2018年8月 4日 (土)
歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/36-d6f8.html

また、学芸員は「尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった」とおっしゃった。

ところで、わたしは拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に「萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性的な方々の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性的な方々は生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧たちではないかとどうしても思えてくるのだ。萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性的な方は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来られたときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ」と書いている。

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355

学芸員のお言葉は、わたしの感性が捉えた萬子媛とその周囲にいる人々の雰囲気に符号するものがある。中心的役割を果たしている人々を囲むようにボランティアなさっている方々はもっと沢山いらっしゃるように感じられるのだが、あの世で新たに参加なさった方々なのだろうか。

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2018年8月 4日 (土)

歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー

インタビューにお答えくださったかたは、鹿島市民図書館の学芸員でいらっしゃいます。歴史小説の第二稿を書くための取材でしたが、ブログ公開の許可をいただいたので、紹介します。貴重な内容だと思います。

鹿島市民図書館学芸員への取材で、わたしが主にご意見をお伺いしたかったのは、萬子媛の断食入定は事実としてあったのか、また黄檗文化の普茶料理や煎茶などに鍋島焼は使われたのか――という二点でした。

わたしの質問で、それを除いても文章の意味が通る箇所は省略しました。

・‥…☆・‥…☆・‥…☆

2018年 6月 5日

● 萬子媛(祐徳院様)の死の前後について

実際のところはわからないというのが正直なところだと思うんですけれど、具体的なことで言うと、祐徳神社さんが祐徳院さん中心にお祀りしていく中で、こういう風な祐徳院さんの最期であったという形でいわれていること、あるいは継承しようとしていることと、実際の史料から伺えることというのは当然乖離するというところだと思うんです。

亡くなる前から準備されて、修行僧として、あるいは民の幸福を祈りながら最期を遂げられたというのは祐徳神社さんにとっては当然、見解としては持っておきたいところですよね。

亡くなられたあとで遺骸を移されたという風に考えるのが、実態に近いことだと思います。生前墓を作るというのは、あの時期でいうと当たり前のように思われていることなので。

―――萬子媛は後妻さんですから、普明寺には入れないということで、あそこに生前墓を作らなければならなかったということもあるのでしょうか。

祐徳院様のお墓は、泰智寺にはたぶんあるとは思うので。それも元々そこにあったものなのか、祐徳神社さんになるときに――神仏分離のときに――移したものなのか……今の神社の境内には墓は置かないということになっているので。

―――石壁社の側に洞穴に蓋をしたような跡がありますよね。そこに御遺骸が埋まったままなのかと思っていました。

当然、ご遺骸本体はそこにあるのだと思います。泰智寺には御遺髪で……御遺骸は土葬で埋められて、御遺髪は普明寺に持ってくるという形態をとっているので、それに準じた扱いになっているのか……

祐徳院さんは鹿島藩の年譜の中でははっきりと出て来ない方にはなってくるので。直條さんの時代に亡くなられているので、直條さんとの血脈の関係もあって、その時期の藩日記はたぶん残ってはいるとは思うので、遺骸、葬儀の様子はどこまで……鹿島藩日記の刊行されているぶんにはたぶん記載があるとは思うので。

ただ先ほど申し上げたように、信仰上の最期のありかたと実際のありかたというところは、どちらをとって語られるか考えるということはちょっと難しいところがあるかなと思います。

伝承というのがですね、祐徳神社そのものが元々祐徳院というお寺の中心だったものが、寛政くらいから稲荷神社という側面が前面に出てくるんですね。

そこから宿場町――、それまでの人里離れた修行場からいろんなところから参拝客を連れてきて門前が形 <成されて、お客さんを誘致してくるときの口上というか伝承というのが、こういうところの霊験がありますよというのを普及して、それで皆さんを佐賀や大牟田や島原といったところから連れてきて宿坊を中心に栄えて行く。江戸時代の途中の段階で、たぶん祐徳院さんに関する伝承というものも形成されていって、それまでの在り方と変わっていく、ということだと思うんですよ。

尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。

祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった。

あくまで祐徳院さんとの関わりで入った方ということになってくるので。鹿島のどこからか女の人を連れてきて、黄檗僧として入れるというものでもないと思うので。

黄檗宗の修行が相当厳しいものにはなってくるので、そこらへんに耐えうる女性というところはなかなか、祐徳院さんの信仰心に直接接点を持っていた方以外にはそこまでやり遂げる力というのはなかったのかなというところだとは思うんですよ。

祐徳院さんがお子さんたちを亡くして悲嘆に暮れている様子に直接接した記憶がある人たちは、祐徳院さんの気持ちに最後まで添い遂げようとはされるとは思うんですけれども。そこが直接接点を持たない人たちになると、ちょっと意味合いが変わってしまうのかなというところだと思うんですけれどもね。

―――「断橋和尚年譜」〈※井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収〉の中の「大師、偶[たま]たま痾[やまい]染[うつ]りて起[た]たず」という記述は信憑性があると考えていいのでしょうか。伝染性の病気にかかられたということですよね、この文章の意味は。

そうですね。ぼちぼちそういう年齢にはなられているとは思うので、いろんなところで体調を崩されて、ということだとは思うんですよ。

石壁亭そのものは祐徳院様が来る前から断橋和尚が既に作っていて、観音様を線刻したような何か黄檗宗の信仰の対象となっているようなところ――洞穴を、自らのお墓に定められたということだと思います。

―――「断橋和尚年譜」の中に、断橋和尚の追悼詩が紹介されているのですが、意味のわからない箇所があります。次のような詩です。

「一座さん(※王偏に賛。引用者)玩[がん]たり石壁山。三千刹海、顔を蔵さず。末梢(最期)疑うらくはこれ熟眠し去るかと。鼻息齁々[こうこう]たり生死の間」これは、萬子媛が亡くなったあと、皆で石壁山に集って遺徳を讃えるといった情景を描いたものだと考えていいのでしょうか。

禅宗系のお坊さんは追悼の詩は必ず読まれるので、その中に定型化している文章というものと、個人的な思い入れが強い分についてはその方の生前の様子とか関わりが出てくるということになると思います。

断橋さんの場合、祐徳院さんとは義理のおかあさんであり、黄檗に招いたという密接な関わり方になってくるので、ありきたりの漢詩の定型文というものとは違う形になるかなあと思います。

追悼詩からはこのころから既に神秘的にというか、直接的な描写をしないという形でされていて、最期がどうであったかは明白にはしないというところかなと思うんですよね。

この段階から、神秘的な捉え方があるということだと思います。皇室絡みの人でもあり、開山というような特殊で、これから先そういう風になっていくということであった方であったことは間違いがなかったと思うので、そこらへんの部分でかなとは思うんですよね。

あくまでもこれは桂巌さんはじめ、黄檗の高僧たちがこの葬儀のときに来ているとは思うので、断橋さんというのは鍋島家の関係者であったとしても、黄檗での序列は低い方にはなるので、何十人ものお坊さんがいた中での献詩の一種になるかと思います。

―――黄檗宗は当時はかなりの勢力だったのでしょうね?

このころが全盛期に近い――。

● 黄檗文化と鍋島焼は無関係?

―――鍋島焼というのは黄檗文化に関係があるのでしょうか。普茶料理とかに使われていたのかと。伊万里焼の発展がそのころでしょ、ちょうど。

そういうことはあまり考えたことはなかったのですが、おそらくこの時期のものは中国から持ってきたものを作っている、あるいは復刻するという状態で作っていると思うので、中国のありかたをそのまま再現をするということなので、日本流にアレンジしたものを使うのはもう少しあとかと思うんですよね。

―――萬子媛の息子さんが二十歳くらいのころに亡くなられて、息子さんは、佐賀の殿様のところへ入られていましたよね。その鍋島光茂公が藩窯に出したかなり厳しい指示書が残っているようなのですが。

そのころは長崎を中心とした、あるいは萬福寺を中心として動いている時期なので、佐賀が独自に何かそういったものを、とりたててそれが黄檗に入ってくるというよりは、長崎や京都から直接に黄檗の下へと持ち込まれる、藩を介するということはあまりないかなあとは思うんですけれどね。

―――この時代、若くてポックリと亡くなったりするのは、伝染病とかが多いんでしょうね。

88歳までも長生きする人はしているので。この時期になると、鍋島家の血統を守るために近親婚に近いものがあったりもするので、いろんな条件が重なって、ということだと思います。

江戸で亡くなっている場合は伝染病という可能性は高いと思うんですけれどね。こっちの場合はそこまで人口が多くはないので、伝染病が流行るうんぬんというのは、もうちょっと後になってからかな。

江戸のように人口が密集して、水や何やらが循環できない、綺麗にすることが追いつかないところは発生しやすいんだと思います。明治くらいになってからコレラや赤痢といったものがどんどん流行り出してくる……人々の生活のあり方が自然との調和を超えて循環し出したころに、それまでは自然の循環の中で成り立っていたものが、どんどんどんどん消費の拡大等もあって難しくなっていく時代がくるとは思うんですよね、森林の伐採含めてですね。

森林を伐採して洪水が起きやすくなって、といったことが江戸時代の中期から終わりのころにかけて起こってくるので、そういった中に病気というものも含まれてくるのではないかと思います。

―――祐徳院のあった場所はわからないんでしょうか。

おそらく神楽殿のあたりだったのではないかと。神社を上のほうに作って、下のほうにお寺が広がっていたということだと思います。

―――今の本殿のあるあたりに神社があったということですね。普明寺の子院はいくつもあったのでしょうか。

山沿いにずらっとあったということですけれど、絵図や何やらでそういったものが押さえられているかというと、まだ押さえられていない状況です。

―――お時間を割いていただき、申し訳ありません。ずいぶん深く研究なさっていて、感動しました。ありがとうございました。

・‥…☆・‥…☆・‥…☆

②では、インタビューを参考にして、わたしなりに調べたことを公開します。この調べものの段階で、前にもお世話になった祐徳博物館の女性職員に、これは今日の話になりますが、本の注文についてお尋ねしたことに合わせて、教えていただいたことがありました。

鹿島市民図書館の学芸員に萬子媛の時代の歴史に詳しいかたがいらっしゃると教えてくださったのも、このかたでした。

実は、その本『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、1979)の注文自体がこれからです。第一巻を購入した昔と値段が変わっていなくて、よかった! 

アマゾンでは、第一巻が45,000円という馬鹿高い値段で出ていて、次巻からは出ていません。博物館で注文できるということで、値段は5,000円だそうです。漢文なので、おおまかな把握すら難儀しそうですが、どうしても確認しておきたいことがあるのです。

祐徳稲荷神社には秋に行く予定です。鹿島市民図書館にそのとき寄って調べるには遅すぎるので、購入できないということであれば、困ったところでした。

ただ、おそらく、その本で確認するまでもなく、萬子媛の最期に関するわたしの結論は学芸員のご意見と同じになりそうです。小説――フィクション――としてどう書くかは、これから考えます。

鍋島焼については、改めて史料探しから始めました。意外なところから参考になりそうな史料に出合いました。伊万里市史編さん委員会編『伊万里市史 陶磁器編 古唐津・鍋島』(伊万里市、2006)。

余談になりますが、夫の母方の祖父は、伊万里市が伊万里町だったころに町長を務めました。その後の昭和29年(1954)、2町7村合併により、伊万里市が発足します。

昨年、図書館で借りた『伊万里市史 現代篇Ⅰ』に、第二次世界大戦直後の大変な時期に町長を務めた夫の祖父が登場しました。市史には、夫の祖父が語ったことや働きぶりが活写されていたのです。

これは家宝とすべきと思い、注文して我が家に一冊、息子に一冊、義父母に一冊送りました。義父母からは大変悦ばれました。

この伊万里市史の中に鍋島焼のことを書いた巻が存在することを思い出したというわけでした。一町長のことがあれほど詳しく書かれているのだから、鍋島焼についてもそのはずだと予測しました。

図書館から借りて、今手元にあります。黄檗宗と鍋島焼の結びつきが書かれていることを期待しましたが、それについては期待外れでした。ですが、やはり鍋島焼の史料の乏しい中で、これほど丹念にアプローチした著作は陶器の専門書にもないのではないかと思えるほどです。

それにしても、一世を風靡したはずの黄檗文化に、方々の文献でほとんど触れられないのはどういうわけでしょう。

『黄檗――OBAKU 京都宇治・萬福寺の名宝と禅の新風』(九州国立博物館、2011)によれば、明朝体[みんちょうたい]は隠元和尚が伝えたもので、原稿用紙も隠元和尚の言葉をまとめた本がもとになっているとか。

普茶料理、あるのが当たり前になっているドリンク――煎茶、いんげん豆、すいか、たけのこ、れんこん。寒天はメイド・イン・ジャパンでも、名付け親は隠元和尚だそうです。普茶料理のごま豆腐はわたしの大好物。鳴り物では木魚の原型である飯梆[はんぽう]、木魚、小鼓[しょうこ]、銅磬[どうけい]、銅羅鼓[どらこ] ……

隠元和尚はまるでサンタクロースのように、明末清初期に再興された臨済禅と中国文化の数々の贈り物を携えて日本にやってきたのでした。

萬子媛に心の中でお尋ねすると、しかるべき時期に必ず回答といえるものに巡り合えるのが不思議です。それでも、次々に知りたいことが出てくるのですが、これで何とか書けそうな気がしてきました。核心的なことすら結論が出ないままでは、書けるはずがなかったのでした。

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2018年6月25日 (月)

H.P.ブラヴァツキー(忠源訳)『シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論』(竜王文庫、2018)を読んで

アマゾンに書き込んだ拙レビューを転載します。

 シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論 (神智学叢書)
 H.P.ブラヴァツキー (著), 忠 源 (翻訳)
 出版社: 竜王文庫 (2018/1/1)
 ISBN-10: 4897416205
 ISBN-13: 978-4897416205

シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論 (神智学叢書)

霊(モナド)・魂(知性)・肉の三つの面から総合的に捉えられた人類発生論
★★★★★

まだ読み込んだとはいえませんが、この著作が貴重な、またこの上なく面白いものであることには間違いないと思われますので、おすすめです。

ブラヴァツキーの著作を読むと、人類の知的遺産の薫りがして、作品の中に破壊されたアレクサンドリア図書館までもがまるごと存在しているかのような感動を覚えずにはいられません。

肉体的、物質的な面に限定された観点からではない、霊(モナド)・魂(知性)・肉――七本質――の三つの面から総合的に捉えられた人類発生論ですから、宇宙発生論同様、この『第2巻 第1部人類発生論』の内容も深遠です。

『シークレット・ドクトリン』がブラヴァツキーの渾身の執筆作業を通じて、大師がたの監修のもとに人類に贈られた科学、宗教、哲学を統合する一大著作であるとすれば、それは現人類にとって、自分を知るための最高の教科書であるはずで、その記述が深遠、難解であるのも当然のことでしょう。

宇宙発生論を復習すると、目に見える惑星には自分を含めて七つの仲間球があり、一つの惑星チェーンを構成します(四番目のものが最も濃密、目に見える実体のある球体です)。惑星上の生命の源モナドはその七つの球体をまわり――一環(ラウンド)といいます――、七回まわります(七環あります)。

わたしたちは第四環の第四球体である物質地球(D球)上に存在しており、第5〈根本〉人種期にあります。第6、第7と続きます。

「人間は――動物の姿をした神だが――〈物質的自然界〉の進化だけによる結果であり得るのか?」(106頁)というテーマが壮大な宇宙と地球的ドラマを見せながら展開される中でも、月と地球の関係など、本当に神秘的な記述でありながら、なるほどと納得させられるだけの根拠が感じられます。

月から来たモナドである月ピトリ達(月の主方)のアストラル的な影(チャーヤー)であり、自生であった第1人種。滲出生であった第2人種。卵生、二重性(雌雄同体)であった第3人種。その終わりに、性の分離が起きます。

人間の性の分離後における半神的な人間の最初の子孫がアトランティス人で、このアトランティスの巨人達が第4人種でした。

レムリア、アトランティスに関する記述は圧巻です。古代の宗教・哲学、神話、寓話、伝説、伝承がかくもダイナミックに甦るとは。

わたしは昔、学研から出ていたオカルト情報誌「ムー」でアトランティス伝説を知り、その後アトランティスについて書かれたプラトンの未完の作品『クリティアス』を読みました。この度、美しい、わかりやすい日本語で、ブラヴァツキーの筆が醸し出す精緻、荘重な雰囲気を味わいながらアトランティスに関することを読める幸福感はまた一入でした。

プラトンは、アトランティスに関することをファンタジーとして書いたわけではありませんでした。新プラトン学派とも呼ばれた古代神智学徒の流れを汲む近代神智学徒ブラヴァツキーにアトランティスに関する記述があったとしても、不思議なことではありません。

初めてこの本を開いたのは、2017年のクリスマスでした。クリスマスに、旧約聖書に登場するノアがアトランティス人として語られるくだりを読むのは、格別の面白さに感じられたものです。

「訳者 あとがき」で『シークレット・ドクトリンの第1巻 宇宙発生論』を平成元年に上梓された第二代竜王文庫社長で綜合ヨガ竜王会第二代会長、神智学協会ニッポン・ロッジ初代会長でもあった田中恵美子先生による訳者はしがきが紹介されており、その中で『シークレット・ドクトリン』の構成について、次のような説明がなされています。

<ここから引用>
『シークレット・ドクトリン』の原典の第一巻は第1部「宇宙発生論」スタンザとその註釈、第2部「シンボリズム」、第3部「補遺」となっています。又、二巻は第1部「人類発生論」スタンザと註釈、第2部「世界の宗教とシンボリズム」、第3部「補遺」となっています。
<ここまで引用>

第1部「宇宙発生論」スタンザとその註釈に関しては、以下の邦訳版をアマゾンで購入できます。

    シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》
    H・P・ブラヴァツキー (著),‎ 田中恵美子 (翻訳),‎ ジェフ・クラーク (翻訳)
    出版社: 宇宙パブリッシング; 第1版 (2013/4/15)
    ISBN-10: 4907255004
    ISBN-13: 978-4907255008

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2018年6月24日 (日)

泰智寺にある萬子媛のお墓

鹿島市民図書館の学芸員に電話取材したときに、その学芸員のかたは「萬子媛のお墓が泰智寺にあるのではないか、確かあったと思います」とおっしゃっていました。

2018年6月 5日 (火)
地元の底力を実感(萬子媛の取材に関して)
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/06/post-9667.html

今年になってからまだ祐徳稲荷神社に参拝できていませんが、今度――いつ?――参拝で出かけたときに泰智寺を見学できたらと思いました。

それで、萬子媛のお墓が実際にあるのかどうか、また見学できるかどうかを確認しておきたいと思い、今日、電話しました。

鹿島市浜町にある泰智寺は曹洞宗(禅宗)のお寺で、開基は初代鹿島藩主・鍋島忠茂です。

2代藩主・政茂が鹿島藩後継問題で佐賀藩と揉めて鹿島藩を追われ、鹿島藩は一旦断絶してしまいます。

佐賀藩から直朝(萬子媛の夫)が鹿島藩に入り、直朝の長男・断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳明幢禅師が開山となり創建された黄檗宗のお寺が普明寺です。

普明寺を見学したときのことは、拙「マダムNの神秘主義的エッセー」で公開中のエッセー に書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

泰智寺も普明寺も、鹿島鍋島家の菩提寺なのです。

忠茂の遺骨は泰智寺に納められていますが、3代藩主直朝から歴代藩主の遺骨は普明寺に、遺髪は泰智寺に納めることになったそうです。

昨年の6月8日、普明寺とその子院である法泉寺に電話取材したときに、「ここは藩主の菩提寺で、藩主と正室のかたしかお墓はありません。祐徳院様は後室なので、ここにはないのです」と伺いました。

それ以上のことはわからず、萬子媛のお墓はどこにあるのだろうと思っていたのでした。鹿島市民図書館の学芸員に教わらなければ、知らないままだったでしょう。

泰智寺の御住職にお尋ねしたところ、萬子媛のお墓は「あります」とおっしゃいました。

「萬子媛のお墓に納められているのは御遺髪でしょうか」とお尋すると、わからないということでした。考えてみれば、萬子媛は出家して剃髪されていたわけだから……出家以前の御遺髪があったのかどうかはわかりませんが。

萬子媛の断食入定に関して伝わっていることが何かないかお尋ねしたところ、「それは、祐徳院さんのほうで入定されていると思いますので……」ということで、伝わっていることは何もないとのことでした。

『断橋和尚年譜』の記述からからすれば、断食入定はなかったともとれ、しかしながら、そこに挿入された断橋和尚の死者を弔う神秘的な漢詩を読めば、あったようにもとれ……うーん。

そのあたりのことも含めて、鹿島市民図書館の学芸員にお尋ねしたときのことをノートにする予定です。何にしても、萬子媛は今日もお元気に(?)、ボランティア集団のリーダーとして、あの世からこの世に通勤なさったことでしょう。いやホント。

泰智寺の見学は、自由にできるということです。本堂にパンフレットが置かれているとか。案内が必要であれば、事前にお電話したほうがいいようです。

ところで、ここ数日、ブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論 (神智学叢書)』に夢中でした。

そろそろどなたかレビューをお書きになっているだろうと思い、アマゾンへ行ったところ、まだレビューはありませんでした。

これほどのお宝はめったになく、わたしなんかよりずっとずっと神智学に詳しくて、教養、語学共に優れたかたが沢山おられるのだから、どなたか書いてくださればいいのにと思います。

今月中に書いておきたいと思い、ざっと読んでいました。深く読んで理解しようと思えば、何年もかかりそうなのです。あまりの面白さ、深遠さ、難解さに思わず引き込まれて、抜け出すのに努力がいります。とても読みやすい邦訳版だと思います。(追記: 25日にレビュー書きました。当ブログに転載しました。ここ

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2018年6月 4日 (月)

歴史短編1のために #36 神社に参拝する僧侶たち(「神と仏のゴチャマゼ千年…」 - NHK「歴史秘話ヒストリア」2018.5.30

5月30日のNHK「歴史秘話ヒストリア」は「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」というタイトルだった。

神仏習合の長い歴史を振り返り、その後の明治期に起きた廃仏毀釈と、その中で生き残った神仏習合の事例や復活した風習などを紹介していた。

その中に、興福寺の僧侶たちがその装束のまま春日大社に参拝する一場面があった。「そうよ、こんな風なのよ」とわたしは口走った。

というのも、祐徳稲荷神社で御祈願をお願いしたときに、わたしは同じような情景を内的鏡で見ていたからである。そのときのことを拙「マダムNの神秘主義的エッセー」の 74 で次のように書いている。

神事のとき、萬子媛はどのような位置で、どのような行動をなさっていたのだろうか。厄除け祈願をお願いしたときのことが参考になるだろうか?

これはあくまでわたしの神秘主義的感性が捉えた――内的鏡にほのかに映った――萬子媛をはじめとする、この世にあったときは尼僧であったと思われる方々の御祈願時の様子なのであるが、わたしはそうしたこの世ならざる方々が御神楽殿での御祈願時にそこへお見えになるとは想像もしていなかった。

そのときまで萬子媛のことしか念頭になく、御祈願のときにもし萬子媛をわたしの内的鏡が捉えることがあるとしたら前方に捉えるのではないかと想像していた。というのは、そのときに萬子媛の臨在があるとすれば、神主さんに寄り添うような形をとられるのではないかと漠然と想像していたからだった。

事実は違った。萬子媛をはじめとする尼僧の方々――生前は尼僧であったとわたしが推測する方々――は、御祈願を受けるわたしたち家族のすぐ背後に整然と並ばれたのであった。

端然とした雰囲気の中にも、日ごろの馴染んだ行為であることが窺えるような、物柔らかな自然な感じがあり、整然と並ばれたといっても、軍隊式を連想させるような硬さは全くなかった。

わたしの内的鏡にほのかに映った美しい情景からは、江戸時代初期から中期かけて、神事というものがごく自然に仏事や日々の生活に溶け込んでいた様子が窺えた。神事も仏事もどちらもこよなく敬虔に、当たり前のこととして行われていたに違いない。

同じ記事に、村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995)で見た、江戸期の神事に参列している僧侶たちのことを書いたが、どれも同じ神仏習合の風習を伝えるものだ。

番組では、1941年に滋賀県の日吉神社の社殿の床下の土中から発見された懸仏[かけぼとけ]なども紹介していた。

懸仏とは、銅などの円板に浮彫の仏像を付けたもので、柱や壁にかけて礼拝するものだそうだが、それら懸仏が「廃仏毀釈」からの生き残りとして紹介された。

娘と視聴していて思わず「わぁ可愛らしい」と同時に声を上げたほど、おぼろげに浮かび上がった仏様が如何にも尊く、可憐な御姿に見えた。これを彫り、拝んだ人々の思いがそのようなものであったからだろう。イコンを連想させた。

番組の参考文献として挙げられた著作

  • 『神道とは何か 神と仏の日本史』(伊藤 聡 中公新書)
  • 『古代仏教をよみなおす』(吉田一彦 吉川弘文館)
  • 『神仏習合』(義江彰夫 岩波新書)
  • 『神道・儒教・仏教 ―江戸思想史のなかの三教』(森 和也) 

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2018年4月11日 (水)

歴史短編1のために #35 冷泉家の乞巧奠 (七夕祭)

「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップした次のエッセーで、藤原俊成、その子・定家、俊成の孫・藤原俊成女に言及した。

78 祐徳稲荷神社参詣記 ➄扇面和歌から明らかになる宗教観
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/01/18/174234

萬子媛をモデルとした第二稿が滞っている。結婚前の萬子媛を描写しようとしても、公家のお姫様の暮らしぶりというのがうまく想像できず、それが一番の障壁となっていた。

例えば、御遺物の中に貝合わせ、貝櫃(貝合わせを入れる箱)があって、萬子媛も貝合わせという遊びをなさることもあったのだろうと思ったが、その情景が具体的なものとして浮かんでこなかった。

四季折々の行事。それは公家にとっては仕事、任務であったと知識ではわかっていても、やはり具体的な情景が浮かんでこなかった。

そうしたところへ、深夜BSプレミアムで「京都 冷泉家の八百年」(初回放送:2003年)が放送されていた。冷泉家は、藤原俊成、藤原定家の流れを汲む家系である。

[BSプレミアム]
2018年4月11日(水) 午前0:45~午前2:26 [火曜深夜](101分)
京都 冷泉家の八百年~和歌の心、日本の美を守り伝えて~(初回放送:2003年)
鎌倉時代に始まる公家で、歌道の伝承者でもある冷泉(れいぜい)家。現存する唯一の公家屋敷の中の雅な日々を1年間に渡って記録した。

歌の家・冷泉家に今に伝えられる古式ゆかしい四季折々の行事がドキュメンタリータッチで紹介されていた。

気づいたときにはすでに始まっていたため(慌てて録画した)、いくらか見損なったのが残念であったけれど、貝合わせなどの場面もあって参考になった。

旧暦7月7日に行われる七夕の行事「乞巧奠[きっこうでん〕」が圧巻だった。こうした行事は、冷泉家が運営する財団の予算で行われるという。

南庭に、彦星、織姫に供える祭壇「星の座」が設けられ、織姫に捧げる五色の布と糸、星を映して見るための角盥〔つのだらい〕、琵琶、琴、秋草、海の幸・山の幸などが配置された。

襖や障子は外され、部屋と庭が一つとなる。日が落ちるころ、雅楽が奏でられ、祭壇の灯明が灯される。そして、夜のとばりが下りたなかで、星に和歌が捧げられるのだ。

そのあと、遊興の座「当座式(流れの座)」が設けられる。座敷に天の川に見立てた白布を敷き、それを挟んで狩衣・袿袴姿の男女が向かい合って座る。男女は即興で恋の歌を交わし合う。

冷泉家には、初雪を藤原俊成の木像に供える慣わしがあるという。91歳で亡くなるときに、俊成は高熱にうなされた。息子の定家が氷室に人をやり、雪を持ってこさせた。その雪を「ああ、おいしい」と喜んで食べ、亡くなった。明月記にそのように書いてあるそうだ。

俊成の木像は生々しい表情で、まるで生きているみたいにわたしには見えた。子孫の行く末を案じて「春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ」という歌を詠んだ俊成。

子孫の行く末というのが、歌の行く末であるのだと、木像の俊成のお顔を見てわかった。

萬子媛をモデルとした小説から離れすぎると、優しく呼び戻される気がする。

ヤコブ・ベーメの本を夜中読んでいたせいで、眠い。アバター&インターポットのキラポチ、数学のお勉強が眠すぎてできないかも。

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2018年4月 6日 (金)

トルストイ『戦争と平和』… 2 ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ

当ブログの過去記事に加筆修正して拙「マダムNの神秘主義的エッセー」に順次アップ中の「トルストイ『戦争と平和』…」(エッセー番号80~84)ですが、加筆部分が多いので、当ブログにもアップすることにしました。

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エッセー「トルストイ『戦争と平和』に描かれた、フリーメーソンがイルミナティに侵食される過程

目次 

1 映画にはない、主人公ピエールがフリーメーソンになる場面
2 ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ
3 イルミナティ……主人公ピエールとローゼンクロイツェル系フリーメーソンの長老
4 イルミナティ創立者ヴァイスハウプトのこけおどしの哲学講義
5 テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界

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2 ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ

目から鱗のオンライン論文に出合った。

『戦争と平和』にあらわれたロシア・フリーメイスン
著者: 笠間, 啓治
発行日: 1995年
出版者: 北海道大学スラブ研究センター
誌名: スラヴ研究(Slavic Studies)
, 42: 41-59
URI: http://hdl.handle.net/2115/5233

この論文によると、『戦争と平和』は1805年から1812年の歴史的動乱に生きたロシア・インテリゲンチャの精神的苦悩と魂の遍歴をテーマにしている。主人公ピエールは煩悶から抜け出す第一歩をフリーメーソンとしての活動に見い出し、フリーメーソンの中で精神的な成長を遂げる。

そして、「19世紀初頭のロシアはフリーメイスンの活動のもっとも盛んな時期に当っていた。この時期のロシアを描写するには、フリーメイスンの要素を抜きにしては考えられない」という。

しかも、このロシア・フリーメーソンとは、ドイツからもたらされた中世神秘思想ローゼンクロイツェル系だというのである。

クリスチャン・ローゼンクロイツ(Christian Rosenkreutz、 1378-1484)はバラ十字団の創立者とされる伝説的人物だが、ローゼンクロイツェルというのはクリスチャン・ローゼンクロイツのことで、バラ十字系ということだろうか。

中世が生んだこの形而上学的思考方法は、18世紀ロシア思想界を席巻したと言っても過言ではない。というより、まったくの無菌状態のロシアにて異常繁殖したと表現してもよいだろう」と論文には書かれている。

ピエールが魅了され、フリーメーソンになるきっかけとなった老人が出てくる。読みながらわたしも思わず魅了されたその老人は、ロシアが19世紀初頭のフリーメーソンの再興期を迎えたとき、ローゼンクロイツェル系フリーメーソンの長老として活動の中心にいた人物であるという。

『戦争と平和』に登場する人物は多いが、主要人物にはこのようにモデルがいて、その人々がフリーメーソンであったというのだから、驚かされる。

この当時のロシアにおいては、フリーメイスンであることはけっして秘密事項ではなかった。フリーメイスンの集会での議事録や出席者の名簿は、当局に報告するのが慣例になっていた」が、王政打倒を公言していたイルミナティと呼ばれる組織が浸透してきたために当局が警戒感から目を光らせるようになり、1822年に禁止令が公布されることになったのだった。

論文には、禁止令の施行後も「フリーメイスンたちの純粋の理論的討議は一部の人たちによって続けられていた」とあるので、イルミナティの革命思想の影響も禁止令の影響も受けなかったフリーメーソンはロシアに存在し続けたということだろうか。

28歳のときにイルミナティを創立したアダム・ヴァイスハウプトは、バイエルン選帝侯領インゴルシュタットの出身である。バイエルン選帝侯領とは、神聖ローマ帝国の領邦で、バイエルン王国の前身である。現ドイツ・バイエルン州の一部に当る。カトリックのイエズス会の家系に生まれた。

ヴァイスハウプトはインゴルシュタット大学の教会法の教授と実践哲学の教授だった。教会法はカノン法ともいわれる、カトリック教会が定めた法である。ヴァイスハウプトは教会法を教授する神学者であったにも拘わらず、反カトリックであった。1776年には啓蒙主義的なサークルを作り、サークルはのちにイルミナティと名称を改めた。

ウィキペディア「イルミナティ」には、「1777年、ヴァイスハウプト自身もフリーメイソンになっており、並行してフリーメイソンだった者も多かった。ヴァイスハウプトはミュンヘンでフリーメイソンと出会い、共感するところがあったためにフリーメイソンリーに入会した」*1とある。

だとすると、イルミナティとフリーメーソンは全く別の組織だが、バイエルンでイルミナティをつくったヴァイスハウプトがフリーメーソンになったことでその影響がフリーメーソンに及び、フリーメーソンでありながらイルミナティにも入る者が出てきたということになる。

アダム・ヴァイスハウプト(芳賀和敏訳)『秘密結社イルミナティ入会講座〈初級編〉』(KKベストセラーズ、2013)の「はじめに」には、次のようなことが書かれている。

イルミナティの発展は、フリーメイソンのグループによって行われた。フリーメイソンの多くが、イルミナティにリクルートされたので、フリーメイソンのある支部(ロッジ)はイルミナティの手中にあると言われるようになった。しかし「両者の意図と目的は一致しない」となった。このことをルートヴィヒ・クリスティアン・フォン・グロルマン〔1741-1809、ギーセンの法学者〕という人が、1793年12月のフリーメイソン支部における演説で強調した。その演説は、身分秩序を脅かし宗教(キリスト教の信仰)を危険な状態に陥れるイルミナティへの激しい非難を含んでいた。フォン・グロルマンの目には禁止後もイルミナティは、諸国政府に遍[あまね]く浸透しており、至るところで活動していると見られていた。

この文章からは、イルミナティがどのようにしてフリーメーソンを侵食していったかの様子がわかるだけでなく、本来のフリーメーソンは宗教――それはキリスト教のようだが――と親和関係にあったことがわかる。

そして、イルミナティは禁止されたが、まるで強力な伝染病か何かのような世界的拡がりを見せていたようである。「禁止令の前に、クニッゲ男爵(教団での名前はフィロ)の精力的な活動に起因するイルミナティの爆発的な拡大が起きていた」とも、「はじめに」には書かれている。

前掲書『秘密結社イルミナティ入会講座〈初級編〉』は、25冊のヴァイスハウプトの著作中9番目に書かれ(このとき、ヴァイスハウプトは38歳である)、彼の全著作中唯一邦訳された著作である。1787年に上梓された『イルミナティの新システム――全位階と装置の詳説――』を抄訳し、再編集したものだという。

この邦訳版は「秘密結社の組織論」を付録とした4章で構成されているのだが、4章は「神秘主義に傾倒するすべての成員に告ぐ」というタイトルの下に、神秘主義が全否定されている。論拠薄弱なので(この内容に関してはこのあと見ていきたい)、わたしには単なるこきおろしとしか読めなかった。

ヴァイスハウプトはこのような反神秘主義でありながら、神秘主義の性格を持つフリーメーソンになったわけである。

ヴァイスハウプトの思想がどのようなものであれ、反カトリックでありながら――次第にそうなったのかもしれないが――教会法の教授を務め、反神秘主義でありながらフリーメーソンになるという不穏分子的性格が彼にあることは確かである。

『秘密結社イルミナティ入会講座〈初級編〉』によると、バイエルン選帝侯が1784年6月22日にミュンヘンでイルミナティに出した禁令には、犯罪者に対する厳格な処罰が含まれ、同種の企みを告発するだけで報奨金がもらえることまで定められていたという。

ところが、ヴァイスハウプトはリベラルな公爵エルンスト2世の下に逃れ、ザクセン・ゴータの宮中顧問官に任ぜられ、生涯年金を得て恵まれた82歳の生涯を終えたらしい。

『秘密結社イルミナティ入会講座〈初級編〉』の「はじめに」に、ヴァイスハウプトの次のような言葉が紹介されている。

そもそも普遍啓蒙主義運動を広める者は、同時にそれによって普遍的な相互信頼をも手に入れ、そして普遍的な啓蒙主義運動と信頼は、領邦君主(Fürst)と国家を不必要とする。そうでなければ何のためなのか。

短絡的な結論づけはヴァイスハウプトの文章の特徴である。

いずれにせよ、反王政で、既存の国家政府を否定する思想の持ち主でありながら、宮中顧問官になってぬくぬくと生涯を終えたヴァイスハウプト……これを二枚舌、ご都合主義、二重基準、ダブルスタンダードといわずに、何といおう?

アダム・ヴァイスハウプトの行動にも思想にもこうしたダブルスタンダードが潜んでいて、それが人を狂わせる、最も危険な要素であるとわたしには思われる。狂った人々によって、組織が国家が狂うこともありえるのだ。

アグニ・ヨガの教えを伝達したエレナ・レーリッヒ(1879-1955)は、神智学協会を創立したブラヴァツキーの後継者といわれる人だが、エレナ・レーリッヒ(アグニ・ヨガ協会編、ジェフ・クラーク訳)『エレナ・レーリッヒの手紙(抜粋訳)』(竜王文庫、2012校正版)*2には、その後のフリーメーソンがどうなっていったかを物語る記述がある。ブラヴァツキーもエレナ・レーリッヒもロシア人である。

さて、フリーメーソンの支部について。もちろん、その中にまったく政治的なもので、非常に有害な支部もあります。ある国々では、フリーメーソンのほとんどの活動は退化して、見せかけのものになってしまいました。初期にきわめて美しかった高尚な運動がこのように歪められてきたことは、たいへん嘆かわしいことであり、大師方はそれについて言い表わせない悲しさを感じます。*3…

別の手紙にも同じ趣意の文章がある。

初期の頃のフリーメーソンは輝かしくすばらしい運動であり、大師方によって指導されることがよくありました。特に、そのような時には、教会の指導者達からの迫害が激しくなりました。しかし教会がキリストの清い教えから離れたように、現在のフリーメーソンも初期のすばらしい教えから離れてしまいました。どちらのほうにも、命のないドグマと儀式という抜け殻しか残っていません(もちろん、例外も少しありますが)。*4…

エレナ・レーリッヒのいう政治的な、ひじょうに有害なフリーメーソンの支部というのは、イルミナティに乗っ取られた支部の姿だろうか。何しろイルミナティは、1822年の帝政ロシアで、政府が禁止令を公布せずには済ませられなかったほどの革命思想を持つ、政治的な結社だったはずだからである。

尤も、エレナの手紙にイルミナティという組織名は出てこないので、その原因がイルミナティだったとは限らない。

ただ、本来のフリーメーソン結社が政治を目的とした組織ではないということ、またフリーメーソンは支部によってカラーの違いがあるということが手紙からはわかる。

エレナ・レーリッヒがモリヤ大師からアグニ・ヨガの教えの伝達を受け始めたのは、1920年代からである。夫ニコラスに同行した1923年からの5年間に渡る中央アジア探検後の1928年、『アグニ・ヨガ』が出版されている。エレナの死が1955年であるから、フリーメーソン批判を含む手紙はそれまでに書かれた。

1920年代にはアメリカの経済的大繁栄、ソビエト社会主義共和国連邦 (ソ蓮)の成立、1930年前後には世界大恐慌が起き、1939年から1945年までの6年間に第二次世界大戦争、1950年代は冷戦の時代であった。

ところで、マンリー・P・ホール(1901-1990)の象徴哲学大系は神秘主義を知りたい人のためのガイドブックといってよいシリーズである。

マンリー・P・ホール(吉村正和訳)『フリーメーソンの失われた鍵』(人文書院、1983)によると、21歳でこの本を書いたホールがフリーメーソンになったのは1954年のことだったという。メーソンとなったことで、メーソン結社に対して彼が長い間抱いていた賞賛の気持ちは深くまた大きなものになったのだそうだ。

1950年代には、フリーメーソンが置かれた状況は好転したのだろうか、それともホールが所属した支部は例外的にすばらしさを保っていたのだろうか(例外もあるとエレナ・レーリッヒは書いている)。


*1:ウィキペディアの執筆者. “イルミナティ”. ウィキペディア日本語版. 2018-03-11. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3&oldid=67669253, (参照 2018-03-11).

*2:「至上我の光」500号(平成10年5月号)~527号(平成12年7月号)に渡って掲載されたものをその順に編集したもの。原本はⅠ、Ⅱの2巻本。

*3:レーリッヒ,クラーク訳,2012,p.73

*4:レーリッヒ,クラーク訳,2012,pp.126-127

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