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2018年10月12日 (金)

落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-891c.html

……………

祐徳博物館で、改めて鎧を見ると、大きさが様々で、体形に合わせて作られていることがわかる。それからすると、萬子媛の夫である鍋島直朝と家督を継いだ直條(萬子媛の義理の息子)はいずれも小柄だったのではないだろうか。

萬子媛の肖像画の前に行った。微笑んでいられるように見えたことがあったけれど(その見えかたのほうがむしろ普通ではないだろう)、厳めしく見えた。

過去記事の繰り返しになるが、萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

寛文2年(1662)、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

寛文4年(1664)に文丸(あるいは文麿)を、寛文7年(1667)に藤五郎(式部朝清)を出産した。延宝元年(1673)、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

元服以前の10歳で亡くなった文丸(文麿)の死因は伝染病ではないか、とわたしは推測していた。というのも、郷土史家・迎氏からいただいたメールには、父・直朝と側室の間に文丸と同年に生まれた中将が同年、文丸に先立って亡くなっていると述べられていたからだ。

文麿と朝清の肖像画の前にも、改めて立った。そのとき、これまでは気づかなかった文麿に関する解説に目が留まった。

文麿公は痘瘡[とうそう]に罹り、長く病床にあったとあるではないか。これまでこの解説になぜ気づかなかったのだろう? ちなみに夫も気づかなかったといった。夫はわたしの整理不足の小説の第一稿を読み、気に入ってくれた一人で、それなりに興味を持って、見学していたのだった。

痘瘡とは天然痘のことだ。ウィキペディアより引用する。

<ここから引用>
天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。
(……)
大まかな症状と経過は次のとおりである。
・飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日の潜伏期間を経て発症する。
・40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
・発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
・7 - 9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
・2 - 3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
・治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。

<ここまで引用>
「天然痘」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年9月23日 23:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

長く病床にあったという文麿は幼い体で懸命に病魔と闘い、周囲に治癒の希望を抱かせた時期があったかもしれない。文麿は聡明な子供だったようだ。

文麿は花山院家から贈られた木の人形がとても好きで、朝夕手放さなかったという。病床でも、文麿はその人形を握り締めて苦痛に耐えていたのかもしれない。その人形は菅原道真の木像だったそうだ。

迎氏からいただいたメールには、文麿が亡くなる前年の寛文12年(1672)に船で上京し、花山公(文麿の祖父、萬子媛の父)に逢ったとある。帰りは参勤交代で帰国する父・直朝の船に同船した。

人形は、文麿が上京したときにおじいちゃんから贈られたものかもしれない。

花山院定好(文麿の祖父)の没年はウィキペディアに中将、文麿と同年の延宝元年(1673)とあるのだが、死因は書かれていない(「花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)。

文麿は、上京したときに天然痘に感染したのだろうか。それが中将にも感染した――と考えたくなるが、天然痘の潜伏期間は7~16日とされていて、花山院定好の亡くなったのが延宝元年7月4日(1673年8月15日)。潜伏期間の短さを考えると、文麿が前年上京したときにおじいちゃんから天然痘が感染した可能性はなさそうだ。

文麿の死が延宝元年の何月だったかはわからないが、もし花山院定好に先立って亡くなったのだとしたら、文麿の死の知らせがおじいちゃんの体にこたえたということはあったかもしれない。

いずれにせよ、一度に父と子供を亡くした萬子媛の気持ちは、如何ばかりであっただろう。

ところで、文麿に関する解説の下に、和歌の揮毫された色紙があり、年齢と名前が記されている。名前が萬子と読める気もしたがはっきりせず、また記された年齢が萬子媛の没年を超えていた。

祐徳博物館の女性職員のかたにお尋ねして、改めて二人で見た。やはり萬子媛の没年を職員のかたも指摘され、まぎらわしいが、萬子媛の揮毫ではないという結論に達した。

・‥…━━━☆

そのときに、以前からの疑問をお尋ねした。

萬子媛――という呼び名には、史料的な根拠があるのかどうかということだった。

というのも、郷土史家からいただいた資料にも、購入した本(『鹿島藩日記 第一巻』『鹿島藩日記 第二巻』『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』)にも、萬子という名は出てこないのだ。

わたしが見たものからは、俗性は藤氏、父は花山院前[さき]の左丞相(左大臣)定好公、母は鷹司前[さき]の関白信尚公の女[むすめ]、二歳にして前[さき]の准后清子[じゅんごうすがこ]内親王(後陽成天皇の第三女)の養女となって、結婚し、子供二人を亡くした後、尼となって祐徳院に住み、「瑞顔実麟大師」と号した女性が存在したことしか、わからなかった。

史料的な根拠はあるということで、一般公開されていないという史料の一つを博物館の職員のかたと見ていったが、そこには見つからなかった。もう閉館になってしまったのだが、鹿島市民図書館の学芸員がお詳しいということで、電話をかけてくださった。

前にも、萬子媛に関することでご教示くださったかたである。以下の過去記事を参照されたい。

2018年8月 4日 (土)
歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/36-d6f8.html

日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。

萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。

結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。

萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。

生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。

また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。

そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

明治以降、すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなって、氏(姓)と家名(苗字)の別、諱と通称の別が廃されたが、ざっと以下のようなものがある(沢山あって、全部は書ききれない、わからない)。

  • 同じ血統に属する一族を表す氏[うじ]。
  • 日本古代の諸氏(うじ)の家格を示す称号、姓[かばね]。
  • その家の名、名字(家名)。
  • 生存中は呼ぶことをはばかる、身分の高い人の実名、諱[いみな]。
  • 実名のほかにつける別名、字[あざな]。
  • 元服以前の名、幼名[ようめい]。
  • 出家後の諱、法諱[ほうき]。法名にほぼ同じ。
  • 受戒した僧に師が与える、あるいは僧が死者に与える名である法名・戒名・法号。
  • 人の死後にその人を尊んで贈る称号、諡[おくりな]。
  • 公的な身分や資格、地位などを表す称号、号[ごう]。学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名(雅号)も号[ごう]という。
  • 別につけた称号・呼び名、別号[べつごう]。

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2018年10月10日 (水)

シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書

10月5日に「アルベール・カミュのシモーヌ・ヴェイユに関する文章」というタイトルの記事をアップしましたが、ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録するに当たり、大幅に加筆を行いましたので、過去記事を削除し、前掲ブログにアップしたエッセー 86 「シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書」を転載します。

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シモーヌ・ヴェイユ(不詳)
出典:Wikimedia Commons

図書館から借りた『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に、アルベール・カミュがシモーヌ・ヴェイユに関して書いた短い文章が収録されていた。

アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)はフランス領アルジェリアの出身で、純文学小説『異邦人』、哲学的エッセー『シーシュポスの神話』で有名になったフランスの作家である。カミュは不条理という言葉を『シーシュポスの神話』で鮮烈に用い、その後、この言葉は実存主義の用語となった。不条理とは、人間存在の根源的曖昧さ、無意味さ、非論理性に由来する絶望的状況を意味する言葉とされる。

わたしの大学のころ――40年ほども昔の話になる――には、第二次大戦後にフランスからサルトルなどによって広まった実存主義はまだ流行っていた。

否、今でも哲学的主流はこのあたりに停滞していて、現代哲学は唯物論に依拠して局部的、細部的分析に終始しているのではないだろうか。

カミュは自分では実存主義者ではないとしているが、その思想傾向からすれば、実存主義者に分類されていいと思われる。

カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909 - 1943)はパリでユダヤ系の両親から生まれ、晩年、キリスト教的神秘主義思想を独自に深めていったが、しばしば実存主義哲学者に分類される。だが、そのシモーヌも、ジャン・ヴァールへの手紙で次のように書いて、実存主義に警戒心を抱いていたようである。シモーヌ・ペトルマン(田辺保訳)『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』(勁草書房、1978)より、引用する。

<ここから引用>
わたしは、《実存主義》的な思想の流れは、自分の知るかぎりにおいて、どうやらよくないものの側に属するように思えますことを、あなたに隠しておくことができません。それは、その名が何であれ、ノアが受け入れ、伝えてきた啓示とは異種の思想の側に、すなわち、力の側に属するように思われます。*1
<ここまで引用>

実存主義はマルクス主義の影響を受けた思想で、唯物論的であり、マルクス主義の流行とも相俟って一世を風靡した。しかし、一端、唯物論的袋小路へ入り込んでしまうと、自家中毒を起こし、下手をすれば阿片中毒者のような廃人になってしまう危険性さえある。

村上春樹のムーディ、曖昧模糊とした小説はこうした不条理哲学の子供――ただし、カミュの作品が持つ聡明さ、誠実さを欠いた子供といえる。戦後、日本はGHQによる洗脳工作(WGIP)や公職追放*2などもあって、唯物主義、物質主義が優勢となったのだった。

わたしが「カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ」と先に述べたのは、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『超自然的認識』(勁草書房、1976)の訳者あとがきで述べられている、次の文章を根拠としたものだった。

<ここから引用>
ガリマール社版のシモーヌ・ヴェイユの著作はほとんどすべて、本書と同じ「希望[エスポワール]」双書に収められているが、この双書はアルベール・カミュ(1913―60)によって創設された。第二次大戦下の英国において、34歳で死んだ、当時まったく無名だったといっていいシモーヌ・ヴェイユを、戦後のフランスの思想界に紹介した大きい功績は、当然第一にカミュに帰せられるべきであるが、本書の編集も(明記されてはいないが)、カミュであるとみなすことは充分に可能である。*3
<ここまで引用>

現在60歳のわたしが、『超自然的認識』によってシモーヌ・ヴェイユの思想に触れたのは大学時代だった。この本には「プロローグ」というタイトルで、シモーヌ・ヴェイユの有名な美しい断章が紹介されていた。『超自然的認識』の新装版がアマゾンに出ていたので、紹介しておく。

超自然的認識
シモーヌ・ヴェイユ (著), 田辺 保 (翻訳)
出版社: 勁草書房; 改装版 (2014/5/1)
ISBN-10: 4326154292
ISBN-13: 978-4326154296

『超自然的認識』を読んだときから、シモーヌの作品の邦訳版を読み漁り、またシモーヌとカミュとの接点を求めて、あれこれ読んだ。カミュがシモーヌを発見した人物であることを雄弁に物語っているような文章には、出合えなかった。

邦訳されていないだけだと思っていたのだが、『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に収録されたアルベール・カミュの文章、及び解説を読んで、シモーヌの母セルマの関与が浮かび上がってきた。

訳出されたカミュの文章は、竹内修一氏の解説によると、『NRF出版案内』1949年6月号に発表された「シモーヌ・ヴェイユ」と題された文章だという。

カミュがシモーヌの発見者であるにしては、その文章の内容からしてシモーヌを高く評価していることに間違いはないにせよ、短いというだけでなく、いささか精彩を欠くものであるようにわたしには思える。竹内氏は述べている。

<ここから引用>
1943年8月、ロンドン郊外のサナトリウムで死したとき一般の人々にはほとんど知られていなかったシモーヌ・ヴェイユが、戦後これほど有名になるためには、彼女が「生涯のあいだ頑なに拒否した「第一級の地位」を獲得するためには、みずからが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書から彼女の著作を次々に刊行したカミュの功績があったのである。*4
<ここまで引用>

ところが、この叢書が1946年3月に創刊されたとき、カミュはヴェイユのことをほとんど知らなかったばかりか、シモーヌの遺作の出版は全く予定されていなかったというのだ。

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シモーヌ・ヴェイユの歴史的・政治的著作の初版のカバー
出典:Wikimedia Commons

カミュの文章「シモーヌ・ヴェイユ」は本来なら〈希望〉叢書の9冊目の書物『根をもつこと』のための序文として書かれたものだった。それがヴェイユの遺産相続者――シモーヌの父母なのか、兄アンドレなのかは不明――の依頼によるものか、あるいは何らかのトラブルによって、この文章は別個に発表された。『根をもつこと』は序文も注釈もなしに出版されたのだそうだ。

1960年にカミュが自動車事故で死んだとき、〈希望〉叢書24作品のうちの7つの作品がシモーヌ・ヴェイユの著作だった。カミュの死後も2つのシモーヌの作品が出版された。

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シモーヌ・ヴェイユの署名
出典:Wikimedia Commons

竹内氏の解説中、ギー・バッセによれば、〈希望〉叢書から出版されるシモーヌの著作に無署名の「刊行者のノート」が付されたとすれば、それはカミュではなく、母セルマが作成したものだという。

シモーヌ・ヴェイユの兄アンドレ・ヴェイユの娘で、シモーヌの姪に当たるシルヴィ・ヴェイユ(1942 - )は自著(稲葉延子訳)『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』(春秋社、2011)の中で、シモーヌの死後、アンドレと両親との間にシモーヌの死や彼女の自筆原稿をめぐって亀裂が生じたと述べている。シモーヌの死後、ヴェイユ夫妻の残りの人生は娘の原稿を後世に残すための清書に費やされたそうだ。

シルヴィはその著書で、「父はこの分析が正しいのかどうかはわからないが、自分の母親がシモーヌの内に、母親がいなくてはならない状態をつくりあげ、それが原因でシモーヌは死んだと見做していた」*5と述べている。

また、エッセー 22 「グレイ著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ 』を読了後に」で採り上げたフランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイは、シモーヌの摂食障害――拒食症の傾向――に迫っている。

これはわたしの憶測にすぎないが、シモーヌ・ヴェイユの母セルマは、豊かな財力によってカミュが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書の9つの出版枠を買い取ったのではないだろうか。

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シモーヌ・ヴェイユの墓
出典:Wikimedia Commons

我が身に自ら拘束帯をつけたかのような、ストイックすぎる生きかたをしたシモーヌ・ヴェイユ。高純度の思想を書き残したシモーヌと母セルマを思うとき、一卵性親子と呼ばれた美空ひばり(加藤和枝)と母・加藤喜美枝を連想してしまう。

セルマには、シモーヌをプロデュースしたステージママのような一面があったように思う。シモーヌは哲学者となり、兄のアンドレは高名な数学者となった。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅰ・Ⅱ』『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ』『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』を読むと、セルマの並外れた母親ぶりに圧倒される。

わたしはエッセー 23 「ミクロス・ヴェトー(今村純子訳)『シモーヌ・ヴェイユの哲学―その形而上学的転回』から透けて見えるキリスト教ブランド」で、次のように書いた。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは、おそらく母親の偏愛――シモーヌ・ヴェイユが理想とする愛とはあまりにもかけ離れたものを含む現象――を感じ、その呪縛性を知りつつも、それをそっとしておき、恭順の意さえ示している。キリスト教に対する態度も同じだったように思える。

彼女はキリスト教というブランドを非難しつつも、それに屈し、媚びてさえいる。その恭順の姿勢ゆえに、シモーヌ・ヴェイユという優等生は西洋キリスト教社会では一種聖女扱いされてきたということがいえると思う。
<ここまで引用>

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-159)によると、セルマは演劇的な人物だった。シモーヌの死後は聖女の母という役を演じて能力を開花させ、修道女のような態でシモーヌの賞賛者である限られた数人の聖職者たちと亡き娘の部屋に籠っていたという。

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-176)はまた、17歳のセルマが母親ジェルトルード宛の手紙に「使用人と類する人たち」に対する嫌悪感を綴ったこと、その同じ人物が第一次大戦後ほどなくヴァカンスで過ごした豪奢なホテルのサロンにあるピアノで「革命家インターナショナル」を笑いながら自慢げに演奏し、組合主義者の教師となったシモーヌが右翼メディアに「赤い聖処女」と採り上げられたときには、その赤い聖処女の母という役回りに愉悦していたという事実が信じられないと語る。

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シモーヌ・ヴェイユと生徒(ル・ピュイ)
出典:Wikimedia Commons

完全主義者で所有欲が強く、演劇的で矛盾に満ち、絶え間なくシモーヌを見守った――ある意味で操ったとさえいえる――セルマは、どこか世俗キリスト教と重なる。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』の著者シモーヌ・ペトルマンは、ヴェイユの最も親密な友人の一人であったそうだが、「日本語版によせて」の最後に、次のように書いている。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは宗教問題に深い関心を寄せていましたが、それはキリスト教の限界を越えるものだったことを、もう一度思い出しておきたいと思います。特に彼女は、禅仏教に強い興味を示していました。フランスにおいて、禅なんてほとんどまったく知られずにいた時代のことでした。
*6
<ここまで引用>

その禅とは、鈴木大拙の著書を通したものだったと考えてよい。シモーヌ・ヴェイユは、ペトルマン宛の手紙で次のように書いている。

<ここから引用>
英語で書かれた、禅仏教に関する、哲学者鈴木テイタロー[大拙、仏教哲学者]の著書をおすすめします。とてもおもしろいわよ。*7
<ここまで引用>

エッセー 24 「ルネ・ゲノンからシモーヌ・ヴェイユがどんな影響を受けたかを調べる必要あり」で書いたように、鈴木大拙は神智学協会の会員だったから、シモーヌ・ヴェイユは大拙の著作を通して近代神智学思想に触れたといえるかもしれない。

しかし、その同じシモーヌ・ヴェイユがルネ・ゲノンという、極めて混乱した宗教観と貧弱な哲学しか持ち合わせないばかりか、近代神智学の母と謳われるブラヴァツキーの代表的著作すらろくに読んだ形跡がないにも拘わらず、神智学批判を行った――これは誹謗中傷というべきだろう――人物の著作の愛読者だったそうだから、わたしはあれほどまでに輝かしい知性の持主のシモーヌがなぜ……と、違和感を覚えずにはいられない。

それは、シルヴィが祖母セルマに感じたのと同じような、信じられない思いである。

…………………………

*1:ペトルマン,田辺訳,1978,p.370

*2:わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まった。20万人以上もの公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれる。

*3:ヴェイユ,田辺訳,1976,訳者あとがきpp.409-410

*4:『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行・鈴木宏、水声社、2017、p.49)

*5:シルヴィ、稲葉訳、2011、p.152

*6:ペトルマン,田辺訳,1978,日本語版によせてp.433

*7:ペトルマン,田辺訳,1978,p.323

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2018年10月 4日 (木)

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇

昨日、祐徳稲荷神社に出かけました。

そのときにまた貴重な取材ができ、二つの疑問がほぼ解けました。祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館の学芸員のかたには今回もお世話になりました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

萬子媛の死後、祐徳院がどうなったのかなど知りたいことは沢山残っているのですが、わたしが書こうとしている歴史小説にはもうこれ以上のリサーチは必要ないと思うので、とりあえずお試し期間(?)としてひと月、創作に集中する予定です。第二稿を書けるかどうかのお試し期間です。

写真は娘がスマホで撮りました。縮小以外の修正は加えずにアップします。

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祐徳博物館横の駐車場に車を止め、橋を渡りました。午後の2時を回ったくらいの時間でした。せせらぎに心が和みました。参拝客はそれなりにいましたが、娘はいないところをうまく撮ってくれています。

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なぜか、金色の鯉が夫に懐いて(?)、しきりに寄ってきました。夫が熱帯魚を飼っているからでしょうか。

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階段を上り、萬子媛のお社「石壁社」にも参拝しました。

ああでも、今回はどこもかしこも空っぽでした!  御神楽殿での御祈願の間も、そうでした。石壁社へ参拝した後はすっかり意気消沈して、泣きたいぐらいでした。

あのかたがたの気韻に溢れる気配を感じることができないと、こんなに空っぽに感じるんですね。勿論、これはわたしの感じかたにすぎません。

昨年参拝したときは、博物館を優先したために、萬子媛ご一行が一日のお勤めを終えて御帰りになるところが――もう雲の辺り――地上から何となくわかり、そのときに萬子媛の放たれた霊的な光が辺りを一変させて、わたしは天国にいるような高揚感を覚えました。そのときのことは、以下のエッセーに控えめに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材) : マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710
<ここから引用>
博物館の近くの駐車場に夫が車を止め、降りて本殿や石壁社のあるあたりに目を向けたとき、傾きかけた日が燦然と射して、あまりの美しさにしばらく見とれてしまった。
日を受けた樹々の緑の輝きがあまりに美しいので、「まるで天国みたいに綺麗ね、こんなに綺麗に見えるのは初めてよ」と娘にいうと、娘は怪訝な顔をした。
何て綺麗なんだろう、ずっとここにいたいと思ったほどだった。後で、もっと傾いた日を受けて、それでもまだ輝いている樹々の緑を見たときの平凡な印象とは、落差があった。あの美しさは、お帰りになる萬子媛のオーラの輝きが日の輝きに混じっていたからだとしか思えない。

<ここまで引用>

お勤めを放棄なさるはずはないので、まだ「夕焼け小焼け」が響き渡る時間以前に何も感じられないということは、わたしが感じられないというだけのことだったと想像するしかありません(尤も、感じられないという人が大多数でしょうけれど)。

なぜ? 母親を求める乳児のように、わたしは萬子媛の霊的存在を求めましたが、何も感じられませんでした。

家で早朝、娘に起こされてそちらを見ると(萬子媛についてまだわからないことを、明け方近くまでかかってまとめていて寝坊しました)、娘とわたしの間の空間に、金色に輝く大きな楕円形の光が見えました。2014年に見た短冊状の光とは形状が違いましたが、共通点が感じられたので、萬子媛のメッセージかしらと思いました。以下は2014年のときのことを書いたエッセーからの引用です。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年: マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/10/210502
<ここから引用>
しばらく熱中してふと顔を挙げると、目の前の空間に金色の短冊状のものが棚引くのが見えた。
これは肉眼には見えないもので、神智学でいう透視力が目覚めてきてからこうした類のものが次第に見えるようになった。いつからその透視力が目覚めてきたかといえば、大学時代から「枕許からのレポート」(エッセー34「枕許からのレポート」参照)を書いた頃にかけてだったように思う。
文通をしてくださった神智学の先生――先生は多くの人々と文通をなさっていた――がお亡くなりにあと、先生はあの世に行かれる前に透明になったお体で挨拶に来てくださったのだが、その後しばらくしてから空間に星のようにきらめく色つきの光の点を見るようになった。
空間はわたしには見えない世界からのメッセージボードのようなもので、それまでにもいろいろと見えることはあったが、ある種の規則性を持ったものが見えるようになったのはそれ以降だった。
それが何なのかはわからないが、先生からの、あるいは見えない世界からの助言ではないかと想像している。
金色の短冊はそれとは異なった。それを目にすると同時に「急いで」と優しくいわれたような気がした。萬子媛のお使いかな、と思った。

楕円形の光の意味はわかりませんでしたが(急いで、と今回もおっしゃったのでしょうか)、萬子媛は今回の御祈願のときも2016年のときのように臨在を感じさせてくださるに違いないと、自ずから期待が高まりました。

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日: マダムNの神秘主義的エッセー 
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355
<ここから引用>
御祈願していただいている間中ずっと、わたしは背後に、萬子媛を中心にして、生きているときは女性であったと思える方々が端然と立っていられるのをほのかに感じていた。すぐ後ろにいらっしゃるのが萬子媛だとなぜかわかった。
<ここまで引用>

夫の運転する車で佐賀へ向かっているとき、高速道路の両脇に植えられた木々が、葉の間から光がこぼれているだけの現象とはとても思えない、沢山の大粒のダイヤモンドのような実をつけているかのようにキラキラと輝いている非現実的な光景を助手席からうっとりと眺めていましたが、帰りの車の中で夫と娘に尋ねたところ、気づかなかったといいました。

あのような輝かしい木々を見て気づかないはずはないと思うので、あれは萬子媛が贈ってくださった光景だったのでしょう。でも、お会いできなかった……あえて、そうなさったのでしょうね。

御祈願のときに心の中で、わたしはまずは一年間見守っていただいたお礼を述べたあとで、わたしが萬子媛の小説を書くことはあまりにつつしみのないことではないかということを第一にお尋ねしたかったし、そのあとも沢山の質問を思い浮かべる予定でした。それに答えてくださるはずはありませんが、気配で伝わって来るものがあるだろうと計算していました。

神様にお目にかかるというのに、何て打算的だったのでしょう。実はその自覚はあったので、お目にかかれないかもしれないという虞れも一方ではありました。それが的中したのでした。

これまでのことがわたしの妄想でないことだけは、はっきりしました。あのような高貴な気配やオーラを、わたしが自分でつくり出す――想像する――など、とてもできない芸当だからです。尤も、それを他人に証明できないという点では同じですけれど。

もう萬子媛をモデルとした歴史小説は書けない気がしていました。祐徳博物館に行くのが何だかつらい気さえしました。でも、遠くてめったに来られないので、萬子媛の肖像画にお目にかかってから帰ろうと思いました。(2)へ

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2018年9月20日 (木)

勝本華蓮『尼さんはつらいよ』(新潮新書、2012)を読んで

図書館から『尼さんはつらいよ』という本を借りた。

尼さんはつらいよ (新潮新書)
勝本 華蓮 (著)
出版社: 新潮社 (2012/01)
ISBN-10: 4106104539
ISBN-13: 978-4106104534

尼僧の環境がどのようなものであるかを中心に、現代日本における仏教社会の裏事情が活写された、興味深くも脱力感に襲われるような内容だった。

著者は、在家出身で、広告関係の仕事で成功していたが、ある仏教者との出会いがきっかけとなって仏教にのめり込む。会社を畳んで比叡山に転居し、佛教大学と叡山学院に学んだ。三年後に、京都の天台宗青蓮院門跡で得度。佛教大学卒業後、尼寺に入り、そこで現実をつぶさに見、幻滅して尼寺を出た。その後、仏教研究者(専攻はパーリ仏教)の道を歩んで現在に至るようである。年齢はわたしと近く、著者(1995年大阪府生まれ)は三つ上になる。

パーリ仏教は上座仏教(上座部仏教)、南伝仏教ともいわれるようだが、昔は小乗仏教といった気がしてウィキペディア「上座部仏教」を閲覧すると、小乗仏教という呼称はパーリ仏教側の自称でないため、不適切であるということになったらしい。

本には、上座仏教圏のスリランカ、タイ、大乗仏教のチベット仏教の話や、尼僧の活動が目立つという台湾、香港の話も出てきた。そういえば、YouTubeで梵唄を検索したとき、台湾か香港からのアップと思われる仏教音楽の動画が沢山出てきて、驚かされたことがあった。

本の核心に触れると、日本の尼寺は絶滅の危機に瀕しているらしい。

尼寺における、あまりに俗っぽいエピソードの数々が紹介されている。全ての尼寺がそんな風ではないのだろうが、著者自身の体験が報告されているのだから、その一端が描かれていることは間違いない。

尼寺が絶滅の危機に瀕している原因を、著者は「なぜ尼寺に弟子が来ないか、来ても続かないか、その理由は、日本が豊かになったからである。生活や教育目的で寺を頼る必要がないのである。そういった福祉は、国家や公共団体が面倒をみてくれる」(42頁)といった表層的社会事情に帰している。

しかし、いくら物質的に豊かになったとしても(今の日本はもはやそうではなくなっているといえる)、人間が老病死を完全に克服しない限りは宗教は需要があるはずである。

歴史的原因を探れば、明治期の廃仏毀釈、第二次大戦後のGHQによる占領政策、フランクフルト学派によるマルクス主義の隠れた強い影響を見過ごすことはできない。これらによって、日本の仏教が壊滅的ダメージを被ったことは間違いないのだ。

本には、著者の神秘主義的能力の萌芽と思われる体験や、心霊現象といったほうがよいようなエピソードがいくつか挟み込まれていたが、こうしたことに関する知識は著者が身を置いた世界では全然得られないのだと思われて、この点でも何だか脱力感を覚えた。

江戸中期に亡くなった萬子媛のような筋金入りの尼僧は、今の日本では望むべくもないということか。

以下の過去記事で紹介した本では、まだ萬子媛の頃の名残が感じられたのだが……

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

あやめ艸日記―御寺御所大聖寺門跡花山院慈薫尼公
花山院 慈薫 (著), バーバラ ルーシュ (編集), 桂 美千代 (編集), ジャニーン バイチマン (翻訳), ベス ケーリ (翻訳)
出版社: 淡交社 (2009/1/30)
ISBN-10: 4473035697
ISBN-13: 978-4473035691

前掲記事で引用した編者バーバラ・ルーシュの文章を再度、引用してみたい。

<ここから引用>
このような経験を積み重ねてゆくにつれ、尼門跡寺院という制度があることがわかってきました。この制度は、日本の真なる文化財の一つともいえますが、十九世紀の廃仏毀釈令によってほとんど破壊されてしまいました。尼門跡寺院というのは、何かを抑えつけるところではなく、逆に解き放つところといえる存在であり、もしこのような場が存在しなかったら、日本のきわめて高い文化的教養をもった女性たちが幾世紀にもわたって活躍できなかっただろうと思われます。皇室由来の寺院におられた尼僧様たちが、和歌の古典的な形態をみがき上げ、『源氏物語』に関する文化、さらに茶道、華道、香道、年中行事などの保存にお勤めになられたのでございます。
<ここまで引用>

尼門跡とは皇女や貴族の息女が住職となる寺院で、随筆集『あやめ艸日記』の執筆者、花山院慈薫(臨済宗大聖寺二十七代門跡 1910 - 2006)は31代・花山院家正(1834 - 1840年)の娘。萬子媛は、21代・花山院定好の娘だった。

和歌には、拙神秘主義エッセーブログ「78 祐徳稲荷神社参詣記 ⑤扇面和歌から明らかになる宗教観」でみたように、日本人の宗教観が薫り高く織り込まれてきたのだ。

その貴い伝統を、左翼歌人の俵万智が壊した。

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2018年9月16日 (日)

日本人、必見必聴の動画です、「【討論】国連の本当の姿」(チャンネル桜)

日本バッシングが目に余るようになった国連ですが、一体、国際連合とは如何なる組織なのでしょうか。

実は、国際連合という国際機構は、世界のどこを見ても存在していず、正しくは「連合国」というそうです。日本では戦争に負けた年の11月初めまでは「連合国」と呼んでいたのが、11月からは「国際連合」の名前に変わったとか。

この組織の公用語は六つ。

日本では国連と呼ぶようになったこの組織を、誰が、どんな目的でつくったのか――という観点から、外交評論家・加瀬英明氏、元駐ウクライナ兼モルドバ大使・馬渕睦夫氏が分析を始めます。

司会は水島総。パネリストは以下の方々。https://youtu.be/mPH7psUXDEI より引用します。

<ここから引用>
小野寺まさる(前北海道議会議員・チャンネル北海道キャスター)  
加瀬英明(外交評論家)  
我那覇真子(琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会代表運営委員 / 日本文化チャンネル桜沖縄支局キャスター)  
高橋史朗(麗澤大学特任教授)  
細谷清(歴史の真実を求める世界連合会 理事)  
馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)  
山本優美子(なでしこアクション 代表・慰安婦の真実国民運動 幹事)

<ここまで引用>

聴きごたえのある、日本人必見必聴の動画だと思います。

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2018年9月11日 (火)

鹿島藩日記第二巻ノート (7)祐徳院における尼僧達 その2

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

その1の続き。

「蘭契」という名が出てくるのは、宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記(『鹿島藩日記第二巻』416頁)である。

素人解読なので間違っているかもしれないが(※あまり参考にしないでくださいね。原文に当ってください)、大体次のようなことが書かれているのではないかと思う。

佐賀の御親類方より勝屋伊右衛門まで、祐徳院様の御中陰は何日より何日まで御執行でしょうかとの問い合わせがあり、こちらに言ってよこされた。それについて、外記より蘭契まで伺ったところ、御中陰というのはなく、御葬礼が行われたことで、儀式は済みました。(……)尼達と相談して申し上げますが、殊に山中ということもありますので、御名代などを送って寄越すには及びません、伊右衛門よりそのようにお口添え下さるのがよいでしょう、とのこと。

わたしの憶測でしかないが、蘭契という尼僧が萬子媛亡き後、代表者的、長的な役割を果たしたのではないだろうか。その代表者に、外記が問い合わせたと考えるのが自然だと思う。

その蘭契という人物が、祐徳博物館で伺った、萬子媛に仕えて岩本社に祀られたという尼僧かどうかはわからない。(以下のリンク先参照のこと)

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

萬子媛の葬礼は簡素だったようだが、五月十五日(1705年7月5日)の日記に書かれた三十五日についても、格峯(鍋島直孝、断橋)が恵達(慧達)、石柱を同行して祐徳院に一泊し、御霊供膳と皆に振る舞う料理を用意させているが、目立った儀式はなかった模様だ。

もし、萬子媛の葬礼のときの布施の記録に名のあった僧侶達の中で、蘭契からが祐徳院に属した尼僧達だとすれば、17 名(蘭契、満堂、蔵山、亮澤、大拙、瑞山、眠山、石林、観渓、英仲、梅点、旭山、仙倫、全貞、禅国、智覚、𫀈要)。萬子媛がいらっしゃったときは総勢 18 名だったことになる。

萬子媛が亡くなる前年までのことが書かれた、萬子媛の略伝といってよい『祐徳開山瑞顔大師行業記』には、萬子媛が尼十数輩を率いたとあるので、人数的には合う。

求道者らしいストイックな暮らしをなさっていたと想像できる祐徳院所属の尼僧達。五月十五日に料理を振る舞うことで、格峯は尼僧達をねぎらったのだろうか。

彼女達がその後どうなられたかが気になるところだ。

ところが、わたしは神秘主義者として知っている。江戸時代に亡くなった彼女達は、あの世で、萬子媛を長とするボランティア集団を形成し、中心的役割を果たしておられるのだ。

カルマに障らないような、高度なボランティアを手がけておられることが窺える。

萬子媛は太陽さながら、豊麗なオーラを放射されるのだが、その光が如何にすばらしいものであったとしても、そのやりかたはわたしが神秘主義者として竜王会、神智学協会ニッポン・ロッジで理論的に学び、また前世での男性僧侶としての修行や今生での独習から会得した技法と同じだと思う。

それは、この世でもあの世でも通じるやりかたなのだとわかった。誰もができるやりかたのはずだ。この世の出来事に囚われ、その技法を磨くことを怠ってきたけれど、このことが確信できただけでも、わたしにとっては大きな進歩だ。

萬子媛をモデルにした小説を完成できるかどうはわからないが、頑張ってみたい。

日記には元禄14年3月14日 (1701年4月21日)に起きた赤穂事件について記されているので、次のノートで採り上げたい。わたしの興味を惹いたのは、日記の解説にあった次の箇所である。

<ここから引用>
元禄十一年の『御在府日記』によると、鹿島藩江戸藩邸では、吉良上野介の希望によって、二三度にわたって有田焼の水差しや香爐などを送っている。(鹿島藩日記 第二巻』祐徳稲荷神社、昭和54年、「解説」2頁)
<ここまで引用>

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2018年8月26日 (日)

鹿島藩日記第二巻ノート (6)祐徳院における尼僧達 その1

ノート(5)で、萬子媛は出家同然の扱いで、葬礼は「軽ク」執り行われ、僧侶の方々が大勢お見えになった、黄檗宗色の濃い葬礼であったようだ――と書いた。

布施の記録に、30人の僧侶の名があるのだが、この中に祐徳院で萬子媛と寝食を共にして修行に励んできた尼僧の名はあるのだろうか、というわたしの疑問があった。今一度、その記録を引用して凝視してみたい。

祐徳院様御葬礼、今日於津御庵相済申候、右に付、僧衆へ被下候布施、左ニ書載、

 白銀三枚   桂岩和尚
 同 壱枚    月岑和尚
 金子弐百疋   慧達
 同 弐百疋   石柱
 銀拾五匁宛   先玄 五州 絶玄 盤江 長霊 禹門 石応 万山 訥堂 蘭契 満堂 蔵山 亮澤 大拙 瑞山 
 銀拾匁宛   眠山 石林 観渓 英仲 梅点 旭山 仙倫 全貞 禅国
 銀五匁宛   智覚 𫀈要
 (406頁)

30名の僧侶方。「和尚」が付けてあるのは、桂岩(桂巌)和尚、月岑和尚のみ。

桂巌は普明寺の開山であり、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)であった。次に記されている慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)。

その次に記されている石柱は、前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てくる。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れた。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させている。

そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されている。比丘尼とは尼僧のことだから「御庵中比丘尼」というのは、祐徳院で萬子媛と共に修行した尼僧達のことだろう。

御霊供膳用を含め、精進料理に使う野菜を祐徳院に運んだのは大熊孫左衛門で、彼は御厨藤左衛門・原口孫左衛門へ渡した。またこの料理関係で提市郎兵衛が十四日晩から料理が済むまで祐徳院に詰めた。

食材は豊富である。こんにゃくにも、「こんにゃく」「白こんにゃく」「佐賀こんにゃく」「氷こんにゃく」が出てくる。氷こんにゃくを試しにググってみると、文字通りこんにゃくを凍らせたものがダイエットによいということで流行っているようだが、宝永のころの氷こんにゃくとは別物だろうか。

布施の記録にある桂岩、月岑、慧達、石柱は、普明寺関係の男性僧侶達である。それ以外はわからないのだが、残り全部が尼僧達かもしれないし、何割かがそうであるかもしれない。あるいは、尼僧達はこの記録には全然ないのかもしれない。

「蘭契」という名が女性的だな、とわたしは思った。果たして、この蘭契が先の頁に出てきた。

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2018年8月24日 (金)

鹿島藩日記第二巻ノート (5)萬子媛、直條の葬礼

候文はもう、おなかいっぱいという感じですが、江戸中期の情景の中へ入っていくような面白さがあって、つい読んでしまいます。

日記を読むことで、萬子媛が剃髪後も鹿島鍋島家から、こまやかに見守られていたことがわかりました。台風被害の記録で、倒木の1本に至るまでも把握されていることに驚きました。罪を犯した者の記録もありましたが、その者達は追放になったようです。

引用だけからはわからないと思いますが、藩全体に何か家族のような雰囲気があるように感じられるのが意外でした。台風で倒れた木、盗まれた材木、打擲された下人も、藩の大切な財産であると同時に、家族のようなもの、慈しまれるものでもあったわけです。

そのような雰囲気が交際などを通して、藩の外まで広がっているように感じられるのです。いや、それはあるいは外から来たものであったのかもしれません。

死後313年経っても、地上であくせくと生きている人間達を見捨てず、思いを同じくするあの世の方々とボランティアなさっている萬子媛。そのような思いがどこから来たのかを知りたいと思い、計画した歴史小説の執筆。果たして書けるでしょうか。

そうそう、萬子媛、直條公の葬礼がいつで、どのようなものだったか、ノートしておかなくては。アバウトなノートになっています。あまり参考にしないでくださいね。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

萬子媛の葬礼は、宝永二年閏四月十四日(1705年6月5日)に執り行われた。

僧侶方――格峯(鍋島直孝、断橋和尚)、月岑和尚――のご意見により、「祐徳院様御事、御出家御同前ノ御事候ヘハ、」、つまり萬子媛に関する事柄は御出家同然の事柄なので、簡素に――「軽ク」と書かれている――執り行われた。

僧侶の方々が大勢お見えになった、黄檗宗色の濃い葬礼であったようだ。布施の額が記されている。

祐徳院様御葬礼、今日於津御庵相済申候、右に付、僧衆へ被下候布施、左ニ書載、

 白銀三枚   桂岩和尚
 同 壱枚    月岑和尚
 金子弐百疋   慧達
 同 弐百疋   石柱
 銀拾五匁宛   先玄 五州 絶玄 盤江 長霊 禹門 石応 万山 訥堂 蘭契 満堂 蔵山 亮澤 大拙 瑞山 
 銀拾匁宛   眠山 石林 観渓 英仲 梅点 旭山 仙倫 全貞 禅国
 銀五匁宛   智覚 𫀈要
 (406頁)

30名の僧侶方。匁[もんめ]は江戸時代における銀貨の重量単位。僧侶方にはまた、ニ汁六菜、あるいは一汁六菜の料理が出された。

日記には「御葬礼ニ付、御領中今日一日、殺生禁断申付候、」と記されている。

桂岩和尚というのは、桂巌禅師(桂巌明幢1627 - 1710)のことだろう。桂巌は萬子媛を黄檗宗に導いた義理の息子・断橋の師で、萬子媛はこの桂巌を授戒師として得度した。

鹿島四代藩主・鍋島直條の場合、五月十九日(1705年7月9日)が四十九日に当ったが、葬礼がまだだった。それでも、(葬礼より先に)普明寺・泰智寺で軽い四十九日の法事が執り行われたようだ。

五月二十日(1705年7月10日)の日記に、「今晩より来ル廿六日迄、殺生禁断、筋々相触候、」と記されている。

直條の葬礼が二十二日(1705年7月12日)に普明寺で執り行われるのだが、前日の二十一日(1705年7月11日)の日記に、それにたずさわる者の名が16頁に渡って記されている。大がかりなものだった様子がわかる。萬子媛の簡素な葬礼と対照的である。

以下に、役目のみ引用しておく。人物名は省いた。変換できない文字には?をつけた。「御葬禮行烈(列)次第」の右同は横書きでは上同になるが、原文通りに引用した。

都合頭人  銀穀役  料理方  筆者  御茶湯方  普明寺門番  施行?放生気遣  方々より御名代衆  普明寺被罷越候節、近辺宿気遣、野菜・薪等迄、宿々へ指出候気遣  方々より之御名代取合  普明詰給仕  寺中無作法之儀無之様、気遣・掃除等、見計役、  御香奠請取役  法泉庵詰  通玄庵詰  御霊前堪忍  御霊供奉役  

御葬禮行烈(列)次第
 壱番   御卒馬  木綿打掛
 二番   沓箱  右同
 三番   御挾箱  右同
 四番   御? 対  右同
 五番   具足箱  右同
 六番   御臺笠  右同
 七番   御長柄  右同
 八番   御打物  右同
 九番   散花  木綿上下
 十番   散米  右同
 十一番   大幡  右同
 十二番   鍬  右同

この行列次第は32番まであります。御棺の登場は25番。後で気が向いたら続きを引用します。

翌、五月二十二日(1705年7月12日)の日記には「御葬礼、今昼八ツ時相澄〔ママ〕候、」と一行だけ記されている。お疲れ様!

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2018年8月22日 (水)

鹿島藩日記第二巻ノート (4)飛脚が東奔西走、洪水。こよみの計算に便利なサイト、CASIO「keisan」

「円福山普明禅寺創建事由略記」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)の中の普明禅寺末寺である祐徳院に関して引用しておきたいが、Windowsのメモ帳に写しているところで、前日は時間切れとなった。

その作業を残しつつ、今日は引き続き、『鹿島藩日記 第二巻』を読んでいた。解読しつつ、ざっと読んでいるだけなので、間違いがあるかも。

鹿島四代藩主・鍋島直條と継母に当る萬子媛の死亡時期が近かったうえに、当時の交通事情もあって連絡が遅れ、萬子媛の訃報をあちこちに届け、葬礼準備にとりかかった矢先、先月直條が江戸で亡くなったという知らせが届く。届くのに、13日もかかっている。

今であれば、メール、電報、電話で瞬時に伝わる情報も、当時は飛脚頼み。二人の死が重なって、日記には飛脚の文字が頻出する。飛脚が東奔西走する。

直條の亡くなったのが、宝永二年四月三十日(1705年5月22日)。この年は翌月が閏四月であって、四月が2回あるのだ。萬子媛が亡くなったのはその閏四月だった。宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)。郷土史家の迎昭典氏がこのあたりのまぎらわしい前後関係を整理してくださっているので、ありがたい。

江戸で亡くなった直條の遺骸を鹿島まで運ぶのも大変だった様子が、日記から伝わってくる。遺骸はまず、江戸から「大坂」まで運ばれた。

御遺骸去月廿七日大坂御着、同廿九日彼地御出棺、(430頁)。

これは五月六日の日記であるから、つまり直條の遺骸は閏四月二十七日(1705年6月18日)に大坂に到着し、二十九日(1705年6月20日)にその地を出棺した。

ちなみに、CASIO「keisan」というサイトが便利。ホーム→こよみの計算→和暦・西暦とアクセス。「和暦から西暦変換(年月日)」のページで、指定する和暦年月日を西暦の年月日に変換してくれる。高性能で助かる。

日記には、人、馬、舟の手配(勿論その手配のための連絡には飛脚が欠かせない)、銀などによる金銭の遣り取りなども記されている。

五月十四日(1705年7月4日)の日記には直條の遺骸は去十二日(1705年7月2日)に下関に着き、十三日に小倉の海を渡って黒崎に泊まることになるが、潮時次第で遅速が当然あるだろうと記されている。「次馬35疋、人足30人、駕3挺」。駕は乗り物。

小倉より飛脚が到着し、小倉の海を渡るのに適した船がなく、十三日は小倉に留まるといってきたので、花木庭へお知らせしたとある。花木庭は、萬子媛の夫で鹿島三代藩主・鍋島直朝の隠棲の地。

同日、盗物である材木(樛[※ツガ]、樫)を売って一儲けしようとした者達。また傷害事件に関する記録があり、斎藤伝右衛門とその女房が下人三助を斧で打擲(殴った)。そのときの傷が原因で三助は後日、相果てた(死んだ)……

いずれも岩松殿(鍋島直堅)家来が起こした事件である。鍋島直堅は直條が亡くなったため、将軍綱吉に謁見し、家督相続して五代藩主となるが、このとき、11歳。

同日、晩の記録には、小倉より飛脚が到着したとあり、遺骸が下関に到着、海を渡って、「大里御泊十三日、飯塚御泊十四日、田代御泊十五日、牛津御泊十六日、加嶋御着之段、外記へ舎人より(※「より」は合字が使われている)申越候、依之、」と文章は続く。

五月十五日(1705年7月5日)の日記には、今日御遺骸が牛津に到着するので、御迎えのため吉田官兵衛・松永藤次郎が牛津に向かった。一方、「今日祐徳院様御三十五日」とあり、御供えする野菜、料理のことなどが書かれている。

現代でも和食(精進料理)に使われている食材、調味料が色々と書かれていて、読んでいて全く違和感がない。当時からこんなに色々とあったのかと驚かされる。これについても、別にメモしておきたいと思う。

それにしても直條の遺骸が鹿島に届くまでにずいぶん日数がかかっているけれど、防腐処理なんかは施されていたのだろうか。五月十六日になってもまだ、牛津を御出棺、雨が降り続いているために「塩田川水出、中川・山田川も水出申候、」などと書かれていて、続く記述を読むと、これは洪水状態と考えていいだろう。人が大勢出て、対処している。

翌五月十七日になってやっと、「昨夜中雨止申候付而、塩田川水減、御尊躰船より(※「より」は合字が使われている)御渡被成候、」とあり、読んでいてホッとした。直條公、御帰りなさい。

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2018年8月19日 (日)

鹿島藩日記第二巻ノート (3)萬子媛の死

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

萬子媛(一貫して祐徳院様と記されている)逝去後、すぐに葬礼の段取りがつけられると同時に、あちこちへ訃報が届けられた。細かく記されている。

訃報は直ちに松之助様、お幾様(鍋島直條の娘で萬子媛を慕った義理の孫。前ノート②参照)、泉州様(鍋島直朝、萬子媛の夫)、京都・花山院(萬子媛の実家)、江戸……

こうした記述と交錯するように、鍋島直條に対するお見舞いが蓮池家から届けられたリしている(実際にはこのとき既に江戸で直條は亡くなっている)。

さらに訃報を届けるため、飛脚が遣わされた。信州様(鍋島綱茂。佐賀藩の第三代藩主。光茂の長男。光茂は1700年に亡くなった)、その他御親戚方。彦山僧正(萬子媛の姉が嫁いでいる)。

萬子媛に引導を授けるために格峯(鍋島直孝。断橋和尚)の指示で請待された僧の名が「拙巌」と記されており、この人物がわからなくて躓いた。またしても悶々としてリサーチ。

結局わからないままなのだが、桂巌禅師(桂巌明幢1627 - 1710)以外に考えられない。まぎらわしいことに、拙巌(せつがん)という僧は存在するが、浄土真宗本願寺だし、1791-1860 で時代が違う。

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