カテゴリー「歴史」の341件の記事

2019年5月17日 (金)

ノートパソコンの異音が消えたことについて。光明皇后、元寇に関する本のことなど。

深夜、長い記事を書いていたが、眠くなったので、閉じて寝たのはいいが、保存し忘れたらしい。虚脱感。

まず、パソコンのことから書いたはず。

異音がしたパソコンは、バッテリパックの交換で静かになった。

富士通パソコンの2010年から2016年に販売開始されたノートパソコンはバッテリ充電制御機能を提供されていて、それはバッテリの消耗に合わせて充電電圧を制御し、発火事故を未然に防ぐものだ。

なぜそのようなものが提供されているかというと、富士通製ノートパソコンに搭載されたパナソニック製の一部のバッテリパックにおいて、充電中や電源オン/オフいずれの場合でも、発火し火災に至る恐れがあることがわかったからだという。

わたしのパソコンのバッテリパックはリコール対象ではなかったものの、「既に交換・回収を実施している上記のバッテリパック以外にも、発生率は非常に低いものの発火事故が発生しております。これらの発火事故に対する未然防止策として、現在までの調査から、バッテリの内圧が上昇する現象を抑制することが効果的」なのだそうだ。

リコール対象ではないということで、安心し、よく読まなかったのか、「既に交換・回収を実施している上記のバッテリパック以外にも、発生率は非常に低いものの発火事故が発生」という箇所を読み過ごし、この記事を書くために文章を再読して気づいた。

発生率は低くても火災事故が発生しているのなら、バッテリ充電制御機能を提供されているノートパソコンは全てリコールの対象でないとおかしい。

わたしのパソコンは「バッテリ充電制御ユーティリティ」の適用で、消耗したバッテリを使っていたから、実際のバッテリ駆動時間(充電量)は約65%になっていた。

パソコンがかなり熱くなり、ファンの音が高くなりがちだったのが、異音までしたので、これはまずいと思い、バッテリパックを交換したのだった。もっと早く交換すべきだったと思う。

ファンの音が高い以外はよく働いてくれていたから、こんなものかと思ってしまっていた。バッテリパックの交換で、こうも違うとは。

深夜書いた記事では他に、図書館から借りてきた本のことで、再度借りたメアリー・ポピンズ物語の中の『帰ってきたメアリー・ポピンズ』のどこが神智学的かを要点だけ書いたように思う。それをここで再度書くより、ちゃんとした記事にしたい。

また、マインドフルネス瞑想の危険について調べる中で再読した三浦関造の著作に光明皇后の記述があり、光明皇后に関する本を借りて読んでいることを書き、光明皇后が藤原氏出身だということに気づいたことなど書いた。

光明皇后は仏教事業と人道支援で有名だが(ウィキペディアの言葉を借りれば、政治面では、皇族以外から立后する先例を開いたことでも有名)、人道支援の側面に着目したとき、同じ藤原氏出身であった萬子媛との共通点が浮かび上がった。

別の方面のことに熱中していても、萬子媛のほうへ優しく揺り戻される気のすることがあることは前にも書いたが、今回もそのような感触を覚えた。

蒙古来襲、すなわち元寇について書かれた本も借りた。防衛戦にはおそらくわたしの母方の祖母のご先祖が関わっていたと思われるので、以前から興味があった。

といっても、祖母はお嫁に来た人で本家からは離れているため、家系図などの確認はないが、親戚の話などから確認できたことを総合すると、祖母の家が大蔵氏系江上氏の分家であったことはまず間違いない。

6代氏種の時、元冦の役の軍功により肥前国神埼荘地頭職を賜り移住。元弘3年(1333年)、8代近種が護良親王の命で行動していたことが確認される。
永享6年(1434年)、12代常種は少弐氏の九州探題渋川満直の征討に協力。勢福寺城の城主となり、以後は少弐方として行動するようになった。13代興種は大内氏(大内義興)と通じたため少弐氏により勢福寺城を追われたが、14代元種は大内氏と対立を深める少弐氏(少弐資元)を援け再び勢福寺城に入った。天文2年(1533年)元種は東肥前に侵攻してきた大内氏の軍勢を蹴散らしたが、天文3年(1534年)再び侵攻した大内氏に少弐方は劣勢に立たされた。元種は少弐資元・冬尚親子を勢福寺城に受け入れ立てこもったが、最後は水ヶ江龍造寺氏の龍造寺家兼の進言により大内氏と和議を結び勢福寺城を明け渡した。
「江上氏」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年10月26日 12:17 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

祖母の家は分家で苗字は違うが、「日本の苗字七千傑」や少弐氏家臣団の中の大蔵党の中にその苗字がある。「武将系譜辞典」に記された大蔵党は原田氏、波多江氏、小金丸氏、秋月氏、江上氏、直塚氏、枝吉氏、成富氏、執行氏、高橋氏、三原氏、田尻氏、内田氏、赤尾氏。http://www.geocities.jp/kawabemasatake/hizen.html(※ジオシティーズはサービス提供が終了してしまったため、移転、工事中であるようだ。移転先はhttps://kawabemasatake.jimdofree.com/)

借りてきた元寇についての本は学術的な内容で、読みごたえがある(難解ともいえる)。この本に、捕虜となった少弐氏のことが極めて印象的に描かれているのだ。

「神風」が吹いた。果たして、それは真実か。『蒙古襲来絵詞』には、暴風は描かれていない」と本の商品説明にある。全身全霊を賭けて戦った人々がいたことが本を読めばわかる。

このあと用事があるので、今日はこの件では時間切れ。借りてきた本をメモしておこう。

パウリ=ユング往復書簡集
ヴォルフガング・パウリ (著), C・グスタフ・ユング (著), 湯浅 泰雄 (監修), 黒木 幹夫 (監修, 翻訳), 渡辺 学 (監修, 翻訳), 越智 秀一 (翻訳), 定方 昭夫 (翻訳), 高橋 豊 (翻訳), 太田 恵 (翻訳)
出版社: ビイング・ネット・プレス (2018/8/1)

ニュートンの錬金術
B.J.T. ドブズ (著), Betty Jo Teeter Dobbs (原著), 寺島 悦恩 (翻訳)
出版社: 平凡社 (1995/11/1)

英国のプラトン・ルネサンス―ケンブリッジ学派の思想潮流
エルンスト カッシーラー (著), 花田圭介 (監修, 監修), 三井 礼子 (翻訳)
出版社: 工作舎 (1993/9/20)

光明皇后 (人物叢書)
林 陸朗 (著)
出版社: 吉川弘文館; 〔新装版〕版 (1986/04)

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実(中公新書)
小川 剛生 (著)
出版社: 中央公論新社 (2017/11/18)

蒙古襲来
服部 英雄 (著)
出版社: 山川出版社 (2014/12/1)

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2019年4月16日 (火)

これはショック、ノートルダム大聖堂が……。大聖堂復興に貢献したユーゴ―の文学作品。

<ここから引用>
パリのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris、ノートルダム寺院とも) はゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂1。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。 (……)
ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。
全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成した。全体の色合いから、白い貴婦人とも称されている。 (……)
1789年のフランス革命以降、自由思想を信奉し宗教を批判する市民により、大聖堂は「理性の神殿」とみなされ、破壊活動、略奪が繰り返されていた。1793年には西正面の3つの扉口および、王のギャラリーにあった彫刻の頭部が地上に落とされた。ノートルダムの歴史を語る装飾が削り取られ、大聖堂は廃墟と化した。
その後、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の出版が、国民全体に大聖堂復興運動の意義を訴えることに成功し、1843年、ついに政府が大聖堂の全体的補修を決定した。(……)
2019年4月15日の夕方に大規模火災が発生し、屋根の尖塔が崩落した。フランスのメディアでは、現地で実施されていた改修工事による火災の可能性があると報じられている。 建物内の美術品や聖遺物は、全て搬出された。
<ここまで引用>
「ノートルダム大聖堂 (パリ)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年4月15日 23:00 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

ノートルダム大聖堂の歴史は知らなかった。ノートルダムが聖母マリアを指すことは知っていたが、キリスト者ではないわたしには真っ先にユーゴ―の有名な文学作品『ノートルダムのせむし男』(ノートルダム・ド・パリ)が連想された。

しかし、その作品が大聖堂復興運動や修復に大きく関わっていたとは知らなかった。

そもそも革命以降、ノートルダム大聖堂が廃墟と化していた時期があったことなど、知らない人も多いのではないだろうか。今、ふと思い出したが、ユーゴ―は確かフリーメイソンではなかったか。

<ここから引用>
ヴィクトル・ユーゴー(1802年生) - 作家。著書は『レ・ミゼラブル』など。政治活動家(中年期以降)。ユーゴーはメイソンのDr. Henry Hopkinsに対して自分がフリーメイソンリーに所属していることを認めた。ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』は、メイソンの象徴で満ちている。同小説の「Ceci tuera cela(これがあれを滅ぼすだろう)」の章は、疑う余地なくメイソンリーが反映されている。『レ・ミゼラブル』における秘密結社「ABC(ア・ベ・セー)の友」は、実在の政治的秘密結社「人権協会」がモデルであるが、メイソンリーに類似する。ユーゴーは1871年にルクセンブルク大公国のロッジ「Enfans de la Concorde fortifiée」のメイソンたちと接触した。ユーゴーがメイソンでないという文献もある。
<ここまで引用>
「フリーメイソン」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年4月9日 02:13 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

フリーメイソンは本来は神秘主義的な性格を持つ博愛的な団体で、各結社により個性があった。

ところが、1777年に反神秘主義者であったアダム・ヴァイスハウプトがフリーメーソンとなり、彼のラディカルな思想(ヴァイスハウプトはこれに先立つ1776年にイルミナティ教団を立ち上げている)によってフリーメーソン結社を侵食し始めた。

81 トルストイ『戦争と平和』… ②ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ: マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/04/05/151342

フランス革命には、イルミナティ系フリーメーソンが関わっていたといわれる。

本来のフリーメーソンであれば、暴力革命に賛成するはずがない。ユーゴ―はフリーメーソンだったと思われるが、作品から見る限り、反イルミナティだったとしか思えない。改めて、ユーゴ―について調べる必要を覚える。

いずれにせよ、ユーゴ―は「聖母マリア」を救った。明治期の廃仏毀釈によって破壊され尽くされようとしていた仏教美術を救った一人、フェノロサは近代神智学の影響を受けていた。神秘主義者たちによって貴重な文化遺産が救われてきたことは、あまり知られていない。

キリスト者にとっては聖母マリアの象徴であり、文学を愛する人間にとっては文学の象徴でもあったノートルダム大聖堂があんなことになり、ノーベル文学賞が滅茶苦茶になって……哀惜の念に堪えない。

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2019年4月 4日 (木)

子守唄について その壱

わたしはよく童謡が聴きたくなる。神経的、精神的疲労感を覚えているときに童謡を聴くと、心が洗われるようで、疲れがとれるからだ。

特に好きな童謡は『夏は来ぬ』かな。

好きな童謡歌手は、芹洋子さん。温かみのある歌声にどれだけ癒されてきたことか。

芹洋子さんは1992年に交通事故で記憶喪失になられたそうだが、リハビリを経て復活され、現在もお元気でご活躍中。Twitterもある。

芹 洋子 〜 Yoko Seri 〜
@seri_yoko

で、たまたま芹さんの童謡を聴いていたときだったと思うが、YouTubeで別の歌手の『島原の子守唄』が出てきた。

子守唄といえば、島原の子守唄、五木の子守唄、竹田の子守唄をわたしは真っ先に思い出す。これらはどれも涙なくしては聴けないものばかりで、雰囲気がよく似ている。日本の子守唄はどうしてこれほどやりきれないものばかりなのだろう、日本の過去は暗かった……と何となく思っていた。

どれも古くからの伝承をもとにしたもので、古い時代のことが描かれているのだと思い込んでいたのだった。

ところが、じっと歌詞を聴いていると、何か変だと思われてきた。(続)

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2019年4月 1日 (月)

薫り高い新元号「令和」

本日――2019年4月1日13時15分、元号を「令和[れいわ]」に改める政令が官報に掲載され、公布されました。

新元号「令和」は万葉集の梅の花の歌、32首の序文にある次の文章から引用されたとか。典拠が漢籍ではなく、国書――それも日本最古の和歌集――というのは意外でした。

初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す

「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込め、『令和』に決定した」との安倍首相の言葉です。

「令和」が始まる日となる政令の施行日は、皇太子さまが天皇に即位する5月1日。

古い時代の和歌では、花というと、梅を指すことが多いですね。冬の寒さに耐えていた花の中で、梅は一番に莟をふくらませ、開花します。百花の魁[さきがけ]といわれ、「春告草」の別名がある、大変おめでたい花です。

ウィキペディア「万葉集」には、次のような解説があります。

『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人々が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので(うち作者不詳の歌が2100首以上ある)、759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、体裁が整った成立は759年以後の、780年頃にかけてとみられている。
和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており、日本文学における第一級の史料であることは勿論であるが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。
また、日本史上初めてその出典を漢籍に求めなかった元号「令和」は、この万葉集に収められた一文が元である。(略)
編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。
「万葉集」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2019年4月1日 07:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

ウィキペディア「万葉仮名」によると、万葉仮名の最も古い資料と言えるのは、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣で、漢字の音を借りて固有語を表記する方法は5世紀には確立していたそうです。平安時代には万葉仮名から平仮名・片仮名へと変化していきました。

江戸時代の和学者・春登上人は『万葉用字格』(1818年)の中で、万葉仮名を五十音順に整理し〈正音・略音・正訓・義訓・略訓・約訓・借訓・戯書〉に分類した。万葉仮名の字体をその字源によって分類すると記紀・万葉を通じてその数は973に達する。
「万葉仮名」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年11月23日 14:59 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

古い時代から長い時間をかけて整えられてきた文字を、わたしたちは今、日本語として使っているわけです。

令という字でわたしなどが思い浮かべるのは命じるという意味ですが、同時に「令室」「令嬢」という敬称としての使い方も思い浮かびます。他に、「よい」「立派な」という意味もあるのですね。

令月はよい月という意味のようです。

梅を愛でる日本人の感性は、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集『新古今和歌集』などにも脈々と受け継がれ、江戸時代に生きた萬子媛が愛した『新古今和歌集』の中の藤原俊成女の歌にも梅が出てきます。梅は俳句でも盛んに詠まれてきました。

平成にはよいことも沢山ありましたが、物書きのわたしからすれば、わが国の文化――その中でも文化と深い結びつきのある文学――が貶められた時代だったとの印象が強いのです。

文化が損なわれるということは、日本の国柄が損なわれるということです。香気が薄れるということです。

新元号に、日本文化の回復と深化を期待し、外国から日本に訪れたり、滞在したり、帰化している方々にもそのような思いが伝わればいいなと思います。

ところで、3年前に「令和」を予知した人がいるようで、話題になっています。何気なく書かれているだけに、驚きです。未来人の予言は全滅ですね。

https://twitter.com/syaaaan_/status/753177564164653056

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2019年3月13日 (水)

歴史短編1のために #51 直朝公の愛

今は京都御苑となっている、かつては200もの公家屋敷が立ち並んでいた町で、萬子媛はどのような暮らしを送られていたのだろう? 

萬子媛は二歳で、祖母である清子内親王の養女となり(萬子媛の母が亡くなったためではないかとわたしは想像している)、鷹司家でお暮しになっていたと思われる。清子内親王は鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号していた。

以下の写真付きブログ記事を閲覧させていただいて、わたしは貧弱な想像力を掻き立てようとしている。鷹司邸跡の標示……

京都御苑の公家跡: 京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1
https://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/41415018.html

<ここから引用>
江戸時代まで、今の京都御苑には、200もの公家屋敷が立ち並んでいたそうです。(……)
江戸時代末の慶応年間の公家屋敷図によれば、京都御苑には、大きな屋敷としては、北に近衛家と桂宮家、西北に一條(一条)家、中央に有栖川宮家、西南に嘉陽宮家と閑院宮家、南に九條(九条)家と鷹司家があったことがわかります。
<ここまで引用>

以下のブログ記事では、京都御苑内にある「花山院邸跡」と刻まれた石碑と、花山院家の邸宅で祀られていた邸内神「花山稲荷大明神」を閲覧させていただいた。

花山院家邸内にあった花山稲荷大明神: 京都観光旅行のあれこれ
https://kyotohotelsearch.com/blog/2018/06/07/kazaninaridaimyojin/

<ここから引用>
また、日本三大稲荷のひとつとされる佐賀県の祐徳稲荷神社は、花山院家の姫が鍋島家へ嫁いだ際に祀った分霊であり、「祐徳」はその姫の謚(おくりな)だそうです。
花山稲荷大明神は、京都を中心に庶民から公家・宮中さらには徳川将軍家をはじめ諸大名の江戸屋敷にも分霊や御札が祀られていました。
今は、宗像神社に小さな社殿が残るだけですが、信仰は全国に広がり、今もなお各地の分霊が祀られている神社に多くの人が参拝しています。
商売繁栄、産業興隆、書道・技芸上達の信仰も篤いそうですよ。

<ここまで引用>

養子に行ったといっても、同じ公家町内のこと。萬子媛は花山院家にちょくちょく行かれていたのではないだろうか。

鹿島鍋島家に嫁いでからも、花山院家との親密な関係が続いていたことは鹿島藩日記からも窺える。

ところで、井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収「直朝公」(普明寺蔵『鹿島家正系譜』収載)を読むと、直朝公が元禄四年(1691)辛未春正月二十一日、70歳のよろこびの礼を行い、申楽[さるがく](能楽)を花頂山に奏したとあり、「毎歳今日(この日)に必ず申楽[さるがく]有るは侯の誕辰(誕生日)を以[もっ]ての故[ゆえ]なり」(井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92)と記されている。

ならば、同じ『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』所収「断橋和尚年譜」に、断橋和尚が54歳の宝永二年乙酉(1705)に記されている、次の箇所はどうだろう?

<ここから引用>
猛春十八日、祐徳院殿瑞顔大師の耋齢(八十歳)の誕を祝するの序略に云う、
<ここまで引用>
(井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92)

萬子媛80歳のお祝いが誕生日当日に行われたとは限らないが、直朝公は自分の誕生日に拘りがあったようだから、その直朝公が妻の80歳の誕生日に贈り物をしたことが三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)に記されているとなると、妻の誕生日にも拘ったのではないか……と思いたくなるではないか。

つまり、その猛春十八日が萬子媛のお誕生日ではないかと。猛春には、春の初め、旧暦1月という意味があるが、『鹿島藩日記 第二巻』宝永二年乙酉正月十八日の日記に次のように記されている。

<ここから引用>
一、今日、祐徳院様八十之御祝誕ニ付而、従 殿様為御祝儀、御野菜被進候、左ニ書載、
   一、午房       一、山芋
   一、昆布       一、椎茸
   一、田鴈       一、蓮根
      
 右一折二〆
   一、蜜柑一折
 右、御使者木庭彦兵衛相勤、介副池田新内、

<ここまで引用>
(井上・伊香賀・高橋編,2016,pp.343-344)

何というささやかな、心づくしだろう! 修行に勤しむ妻に合わせた贈り物なのだ。直朝公から贈られた食材は調理され、萬子媛の80歳を祝う食卓を飾ったに違いない。

過去記事に書いたように、この年の閏四月十日、萬子媛は危篤となり、その日、直朝公から付き添う人々におこわと煮しめが届けられている。

2018年8月15日 (水)
歴史短編1のために #39 鹿島藩日記第二巻ノート (1)萬子媛の病気
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/post-caf5.html

閏四月十日(6月1日)の日記には様々なことが書かれている。[略]
同日、萬子媛の病床に付き添っている人々に、殿様からこわ飯(おこわ)・煮しめ物重二組が差し入れられた。萬子媛はこの日の「今夜五ツ時」――夜8時に亡くなった。

直朝公は家を出て修行三昧だった妻を全身全霊で愛し、気遣っていられたのではないだろうか。いやはや、ここまで思われちゃ、断食入定なんてできないだろうなあ。

で、萬子媛の仮ホロスコープを作成してみた。フィクションである小説の中の萬子媛のイメージを膨らませるために。これは、わたしの勝手な憶測です。寛永二年一月十八日は、西暦に変換すると、1625年2月24日。

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2019年2月 1日 (金)

メディカル・ジェノサイド メモ1

まだ、過去記事の加筆整理ができていません。中国共産党の臓器ビジネスについて改めて調べていると、底なし沼に沈んでいくような気持になります。

法輪功学習者へのひどい迫害を知った日から、このことを考えない日は一日もありません。それがウイグル人に、さらに中国の地下キリスト教徒へと拡がって行くのを、同時代人として傍観しているという葛藤。

中国「臓器狩り」の証拠を弾圧下のウイグル自治区で発見
2018.10.06 07:00
NEWSポストセブン
https://www.news-postseven.com/archives/20181006_754699.html?PAGE=1#container

中国の臓器狩り:大紀元
https://www.epochtimes.jp/special/34/index.html

ノンフィクション作家・河添恵子さんによると、世界の調査機関によるおとり捜査によって、中国側の病院がどのようなやりとりをしているか明らかになっているそうです。

ピザを頼むような、軽いやりとりで話が進んでいくとか。病院内に使用済みとなった死体(ご遺体なのです)を処理するための火葬場(設置した側の意識では、おそらくただの焼却炉)があることも、ボイラー室で働いている人の声でわかっています。

世界では中国に行って移植を受けることを法律で禁ずる流れとなっていて、イスラエル、台湾、スペインなどそうなっているそうですが、日本では名前を出し勇気を持って戦ってくれる学者、国際弁護士、医師などがいないらしいです。

しかも、中国で移植手術を受けている人数が多いのは、日本、中東だそうです。

中国共産党が尖閣を皮切りに沖縄、北海道を狙っているといわれてきましたが、最近では九州もその中に含まれるようになってきました。

グローバリズムの利権にまみれた政治家たちは、ろくな対策も打たずにこうした地域を切り捨て、真ん中だけの日本にするつもりですか。でも、そうなったとき、もはや真ん中も日本ではなくなっているでしょう。

この国は、萬子媛のような、あの世にあってもなおこの世に生きるわたしたちのことを思って千手観音のような働きをなさっている先人たちが見守っていられるというのに。何て罰当たりな話でしょうか。

人を部品の集合体としか思わない単純な唯物主義ほど、愚かしい怖ろしいものはありません。

以下の動画は、林原チャンネル「ノンフィクション作家・河添恵子#11-2★中国臓器狩りの真実◉人道を超えた臓器売買&移植手術の実態」です。

以下の動画はNTDTVJP「メディカル・ジェノサイド: 中国の臓器移植産業の隠れた大量虐殺」です。

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2019年1月30日 (水)

リチャード・ノル「ユング・カルト」にはトンデモ解説が(絶句)。スリランカ建国の父ダルマパーラに対するブラヴァツキーの言葉。(加筆あり、緑文字。30日の加筆は茶文字。)

2019年1月27日7時57分に初公開した記事。

過去記事に書いたが、ユングに関する辛口の本を探していたところ、本当に辛口なのかどうかは読まなければわからないながら、以下の本を見つけた。

ユングという名の「神」―秘められた生と教義
リチャード ノル (著), Richard Noll (原著), 老松 克博 (翻訳)
出版社: 新曜社 (1999/1/1)

ユング・カルト―カリスマ的運動の起源
リチャード ノル (著), Richard Noll (原著), 月森 左知 (翻訳), 高田 有現 (翻訳)
出版社: 創土社; 新装版 (2011/12/1)

これも過去記事で書いたことだが、読む必要があって図書館からアジア主義の本2冊、萬子媛の小説の資料にする本と一緒に、前掲書2冊も借りた。堀田善衛、辻邦生、シモーヌ・ヴェイユの本も再度。

で、老松先生の名訳に騙されてはいけない(?)と思い、同じ著者のもので、別の訳者によるものを先に繙いた。

目次を見ると、ブラヴァツキーの名があって、驚いた。ユングは神智学の影響を受けなかったのだろうかという疑問が湧いたことはあったが、ちゃんと調べたことはなかったので、疑問はそのままになっていた。

最初にブラヴァツキーとの関係を知りたいと思い、その章に目を通しかけたところで、……ブラヴァツキーや神智学協会に関してトンデモ解説が書かれていたために――ああまたか――、一気に読む気が失せてしまった。著者はおそらく、ブラヴァツキーの著作を読んでいない。どんな風にトンデモなのかは、いずれ別の記事で。

著者リチャード・ノルのプロフィールを訳者あとがきから拾うと、リチャード・ノルは臨床心理学者で、ハーバード大学で科学史を専攻し、博士号を取得後、現在同大学の特別研究員を務めているという。

ノルによると、ユングはブラヴァツキーよりもG・R・S・ミードの影響を強く受けたらしい。George Robert Stowe Mead(1863 - 1933) に関して、英語版ウィキペディアに書かれていることをざっと読み、ミードと神智学協会との関係がおおよそ掴めた。ミードはヘルメス主義、グノーシス主義の研究で著名らしい。

ブラヴァツキーや神智学協会に関する信用できない記述から考えると、ユングに関する記述もどの程度信用できるか疑問だが、2冊はざっとでも読む予定。

アジア独立運動に神智学協会の影響は大きかったといわれるが、このことは日本ではほとんど知られていないのではないだろうか。恥ずかしながら、会員のわたしでさえ、ろくに知らなかったのだから。

以下の本は前に一度借りてきてざっと読んだが、ちゃんと読むために再度借りた。スリランカ建国の父、アナーガリカ・ダルマパーラの章に次のような記述がある(下線引用者)。

アジア英雄伝―日本人なら知っておきたい25人の志士たち
坪内 隆彦 (著)
出版社: 展転社 (2008/11)

<ここから引用>
マハトマ・ガンジーはブラヴァツキー夫人の弟子から大きな思想的影響を受けていたが、ダルマパーラにとっても神智学との出会いは決定的だった。アジア各地の伝統思想、宗教の復興、それと結びついた反植民地主義に与えた神智学の影響の大きさは、もっと重視されても良いのではなかろうか。
 神智学協会会長を務めるオルコット大佐は、1880年にスリランカを訪れ、仏教に帰依した。その年6月、ダルマパーラは叔父に連れられてオルコット大佐の演説会に出かけている。そして、1884年1月、正式に神智学協会の会員になった。
 だが、ブラヴァツキー夫人は、ダルマパーラに「神秘主義を研究する必要はない。パーリ語を勉強すべきだ。そこに必要なものは皆見出されるだろう。そして、人類の福祉のために働くべきだ」と語った。

<ここまで引用>(坪内,2008,p.83)

下線部分に注目していただきたい。ここでのブラヴァツキーの言葉には、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の中の77「前世療法は、ブラヴァツキーが危険性を警告した降霊術にすぎない」で引用した中に見出される原則が息づいていることがわかる。引用したのは、質疑応答形式で著されたH・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1995・改版)からである。

神智学協会の会員は一般に、もし、協会の三つの目的に共鳴し実行しようとするならば、どんな宗教や哲学を好もうと好むまいと自由です。この協会は理論的な面ではなく、実践的な面で同胞団という考えを宣布するための博愛的、学術的な団体です。会員達はキリスト教徒であっても、イスラム教徒であっても、ユダヤ教徒、パルシー教徒、仏教徒、バラモン、心霊主義者、唯物論者であっても、少しもかまいません。(ブラヴァツキー,田中訳,1995,p.29)

協会としては、政治に関係することを注意深く避けています。(略)神智学協会は最高の意味での国際的な組織です。協会の会員は人類の改善という唯一の目的で協力して働く、あらゆる人種、宗教、思想の男女から成っています。しかし、協会としては国民的、党派政治には絶対に参加しません。(略)国際的な組織ですから。その上、政治活動は必然的に、時や個人の特異性でいろいろと変わらなければなりません。神智学協会の会員は神智学徒として当然、神智学の原則を承認しています。でなければ、彼等は協会に入るはずはありません。しかし、会員達はすべての問題で意見が一致するということにはなりません。協会としては、会員全体に共通のこと、即ち神智学自体と関係するものだけを一緒に実行することができます。個人としては、神智学の原理に違反せず、協会を傷つけない限り、政治的思想や活動は完全に各自の自由に任せられています。(ブラヴァツキー,田中訳,1995,pp.227-228)

明治期、廃仏毀釈により沈滞ムードが漂っていた仏教界が神智学による刺激を受けたことは、何本かのオンライン論文(※)を閲覧したところでは間違いないようだし、神道も……


森孝一.シカゴ万国宗教会議:1893年.同志社アメリカ研究.1990-03-25,no.26, p.1-21.https://ci.nii.ac.jp/els/contents110000198859.pdf?id=ART0000567991 ,(参照 2019-01-28).

吉永進一, 野崎晃光. 平井金三と日本のユニテリアニズム. 舞鶴工業高等専門学校紀要. 2005-03-10,no.40, p.124-133. https://ci.nii.ac.jp/els/contents110004629004.pdf?id=ART0007341661, (参照 2019-01-28).

橋本満.近代日本における「宗教」の発見,あるいは宗教社会学の起点.甲南女子大学研究紀要.人間科学編.2013-03,no.49,p.133-144.https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1458&item_no=1&page_id=13&block_id=17,(参照 2019-01-28).

那須理香.1893年シカゴ万国宗教会議における日本仏教代表 釈宗演の演説: 「近代仏教」伝播の観点から.日本語・日本学研究,東京外国語大学国際日本研究センター[編] (Journal for Japanese studies). 2015-03, no.5, p.81-94.http://hdl.handle.net/10108/86184, (参照 2019-01-28).

「平井金三と日本のユニテリアニズム」の筆者のお一人である吉永進一氏は、平井のユニテリアニズムと同時に神智学との関わりを追っていながら、この論文でも、神智学協会の主要な著作物、すなわちブラヴァツキーの著作を読んでいないことがわかる。行動を追うには足跡さえ辿ればいいが、思想を追うには理解するしかないから、それができていないと支離滅裂な解説にならざるをえない。

もっとも、わたしも平井金三の作品は、青空文庫に収録されている「大きな怪物」(「新小説 明治四十四年十二月号」春陽堂、1911(明治44)年12月.https://www.aozora.gr.jp/cards/001360/card49256.html)を閲覧しただけなので、憶測にすぎないが、森孝一「シカゴ万国宗教会議:1893年」の中で、平井は万国宗教会議に日本仏教の代表としてではなく、神智学の代表として出席したとあり、森(1990)の論文で紹介された平井の演説の中に次のような言葉がある。

「西欧が不平等条約を必要だと考えるもう一つの理由は,日本人は偶像崇拝者で邪教信者であるからというものである。本当にそうなのか,あなたがたは日本語で書かれた権威ある宗教書を読んでから判断してほしい」

英語が堪能で、このようなことをいう平井が、神智学徒でありながらブラヴァツキーの著作を読まなかったとは思えない。

平井が、心霊現象の実在については肯定論に立ちながら、そこには個人の霊魂は存在しないとの否定的な態度を取ることについて、吉永は不思議でならないようだ。

ブラヴァツキーの著作で、カーマ・ローカについての論考を読めば、平井の言葉の謎は解けるだろうが、宇宙と人間の七本質、また神智学協会の三つの目的という、この基本さえ押えずに、吉永が神智学協会絡みの研究を続ける意味がわたしにはわからない。

万国宗教会議にはキリスト教の優位を誇示する雰囲気があったようだが、平井のキリスト教批判は反響を呼び、演説後、満場総立ちになったそうだ。平井は晩年ユニテリアン運動に参加したという。

森(1990)の前掲論文における演説からの紹介は、次の言葉で終わっている。

<ここから引用>
私が批判しているのは真実のキリスト教ではなく,誤ったキリスト教である。私は偏狭な仏教徒として,教派主義的な(sectarian)動機からキリスト教を批判しているのではない。私はキリスト教に対して最も辛辣な批判者である。しかし,同時に福音に対しては心から敬意を払う者である。万国宗教会議の目的は口先だけの宗教の統一ではなく,実践的な統一である。4 千万人の日本人は国際正義の上にしっかりと立って,キリスト教的道徳が完全に実現されることを待ち望んでいる。

<ここまで引用>

森(1990)のシカゴ万国宗教会議の「成果と評価」を読むと、複雑な気持ちにさせられたが、そうした部分も含めて、シカゴ万国宗教会議がどんなものであったかを別記事で論文から紹介しておきたい気がする。

山口靜一『三井寺に眠る フェノロサとビゲロウの物語』(宮帯出版社、 2012)の広告の目次、第一章の中に「神智学への関心」とあるので、読みたいと思ったが、生憎、行きつけの図書館にはない。

ネット検索したら、岡本佳子「明治日本の欧米人仏教徒と神智学—ウィリアム・S・ビゲロウの場合—」というのが出てきたが、これも残念なことに講演・口頭発表のようだ。

ウィリアム・スタージス・ビゲローはフェノロサと共に来日して、岡倉天心を援助した。三人共、日本の仏教美術の恩人として知られている。

先日読んだ岩間浩『三浦関造の生涯 続編』(竜王文庫、2018)の中に、感動したというべきか愕然としたというべきか、いずれにせよ、衝撃を受けた記述があった。

第二次大戦後のいわゆるGHQによる占領政策が開始されたとき、日本が国体――国柄、国風――を維持できるかどうかは、GHQの匙加減ひとつでどうにでもなったことに改めて気づかされ、背筋が寒くなったのだった。

前掲書には、竜王会の二代目会長(神智学協会ニッポン・ロッジ初代会長)であった田中恵美子は中西旭(1905 - 2005)から神智学を教わったとある。中西氏はちょうど100歳生きられたようだ。

中西旭は、GHQが神道を排斥しようとしたことに危惧を抱き、マッカーサー司令部に神道擁護の書『神道の理論』を提出した。それがどのようなものであったかを読むと、ああこれは神智学をやった人でないと書けないだろうな、という豪華絢爛な内容であるようだ。

中西の行動は、ウィキペディア「神社本庁」を参考にすると、神社界の生き残りをかけた打開策の一つであったのだろう。そして、神社は残った。『三浦関造の生涯 続編』には、中西は神社本庁の教学顧問となり、神道の哲学的理論の中心的な存在となったとある。

江戸時代に始まった檀家制度も、またGHQの息のかかった神社本庁も、仏教、神道にとっては不自然なものだという気がするが、檀家制度はキリスト教の脅威に抗して生まれたものであったし、神社本庁の誕生にも先人の生き残りをかけた苦闘があったことを思えば、違った感想が出てくる。

もし、神社仏閣が日本からなくなっていたとしたら、観光立国どころではなかった。日本文化自体、否、日本という国がそれでも続いているといえたかどうか。ぞっとする話ではないか。 

危機的状況にあった仏教、神道に神智学徒を通じて働きかけたブラヴァツキーの近代神智学がなければ、そうなっていたかもしれなかった。

国柄も国境も破壊して世界統一政府の樹立、ニュー・ワールド・オーダー(NWO)の実現を謀ろうとするグローバリズムの怖さ、愚かさに世界はようやく目覚めてきた。

グローバリズム、共産主義、シオニズム、ネオコンサバティズム(ネオコン、新自由主義)は同義語といってよい。これらはどれも、ロスチャイルド、ロックフェラーなどの国際金融資本家が育てたものだからだ。

大戦前の近代神智学運動の広がりとその後を見ていくと、ブラヴァツキーが育んだ「最高の国際的組織」は、第二次大戦期に、国際金融資本家に操られた国際的組織に敗北を喫したといえよう。

国際金融資本家に操られた国際的組織は、その目的も、アダム・ヴァイスハウプトが創立したイルミナティ教団の教説を取り入れた――目的のためなら手段を選ばない――やりかたも、ブラヴァツキーのいう「最高の国際的組織」とは、まことに対照的なダークさ加減である。

岩間浩『三浦関造の生涯 続編』を読んで割り切れない思いがした一節があり、そこには次のように記されている。

<ここから引用>
三浦関造は、その生涯において数々の霊的治療を行っていた。特に、昭和五(1930)年五月、アメリカに渡る時、船上で富豪ロックフェラー一家の、医師から見放され子供を癒したことが奇縁となり、ロックフェラー家による入国手続きでの証言でアメリカ入国がかなった事例が印象深い。

<ここまで引用>
(岩間,2018,p.8)

戦争すら操ってきたといわれる、国際金融資本家のダークな面を知らなければ、わたしも三浦先生のこのときの霊的治療を美談としか受止めなかっただろう。

三浦関造の癒した子供というのがロックフェラー家の誰だったかは記されていない。ちなみに、2年前に101歳で亡くなったデイヴィッド・ロックフェラー(David Rockefeller、1915年6月12日 - 2017年3月20日)は、1930年5月には翌月に誕生日を控えて、14歳だった。

親日家として知られたそうだ。

以下は、ウィキペディアの「デイヴィッド・ロックフェラー」より引用。

<ここから引用>
ニューヨークのマンハッタン西54丁目で五男一女の兄弟姉妹の末っ子として生まれる。
(略)1936年、ハーヴァード大学卒業。(略)
ニューヨーク市長フィオレロ・ラガーディアの秘書を務めた後、1946年に旧チェース・ナショナル銀行に入行。1961年にチェース・マンハッタン銀行会長に就任し、1969年から1981年にかけて最高経営責任者(CEO)となる。海外に銀行事業を拡大し、世界各国の政財界に幅広い人脈を築き、それを生かして民間外交を活発に行い、東西冷戦最中の1973年にソビエト連邦に赴いてソ連初の米銀行支店、中華人民共和国に旅して中国初の米コルレス銀行を設立し、三極委員会を創設した。外交問題評議会名誉会長。ビルダーバーグ会議には初会合から参加していた。
ロンドン・ロスチャイルド家当主ジェイコブ・ロスチャイルドとは過去50年にわたって交友関係を築いてきた。

<ここまで引用>
「デイヴィッド・ロックフェラー」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年12月30日 (日) 08:47 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

デイヴィッド・ロックフェラーは6回の心臓移植――7回との説もある――を受けたとされる。その心臓、わたしは江沢民派が行ってきた、まさに悪魔の所業である臓器ビジネスから調達したのかと思っていたが、クローンという噂もある。

無実の法輪功学習者、ウィグル人が臓器ビジネスの犠牲になってきたといわれるが、日本人はお得意様だそうだ。規制を求める声が日本国内からも上がるようにはなってきた。中国に渡って移植を受ける人々は、自分たちが人類史上最も忌まわしい殺人に加担しているかもしれないとは想像もしないのだろうか。

大紀元の以下のカテゴリーに詳しい。

中国の臓器狩り:大紀元
ttps://www.epochtimes.jp/special/34/index.html

当ブログにも、臓器狩りに関する過去記事がある。

2015年6月11日 (木)
失われたと思っていた中国五千年の芳香 ①弾圧される人々
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/06/post-c356.html

2015年6月13日 (土)
失われたと思っていた中国五千年の芳香 ②ジェノサイドを見て見ぬふりをするしかない日本
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/06/post-4872.html

ブラヴァツキーは大師に助けられたことはあったが、霊治療を行った形跡がない。彼女ほどの人にできなかったはずはないのだ。それには、彼女の深い考えがあったはずだとわたしは考えている。伝記の以下の言葉から推測しているにすぎないのだが。

(ここにあとで伝記から引用します。)

この記事は書き直して、神秘主義エッセーブログにアップの予定。

そういえば、一昨日だったか、BS世界のドキュメンタリー「シャネルVSスキャパレリ」を観ていたら、シャネルのライバルだったイタリア貴族出身のスキャパレリが一時期ブラヴァツキー夫人に心酔していたと出てきた。夫が神智学協会の会員だったようだ。離婚したようだけれど。

シャネルの黒に対して、スキャパレリはショッキングピンクに代表される大胆、前衛的なデザインで一世を風靡したらしい。面白い番組だった。

そもそもこの記事は簡単なメモで済ませて、あとはシャネルの番組とハリオの耐熱湯呑のことを書くつもりだったのに、何だかくたびれてしまって、どちらも書く気力がなくなってしまった。

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2019年1月13日 (日)

在野の歴史学者・森銑三の身が引き締まるような論考。歴史小説執筆の参考になる河津武俊著『肥後細川藩幕末秘聞』。

図書館から以下の本を借りた。

歴史小説執筆の参考にするため
辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記

辻 邦生 (著)
出版社: 新潮社 (2004/08)


堀田善衛全集10  美しきもの見し人は・方丈記私記・定家明月記私抄
堀田 善衛 (著)
出版社: 筑摩書房 (1994/02)


肥後細川藩幕末秘聞
河津 武俊 (著)
出版社: 講談社 (1993/12)


出星前夜
飯嶋 和一 (著)
出版社: 小学館 (2008/8/1)


資料として
伊万里市史 陶磁器編古唐津・鍋島
伊万里市史編さん委員会 (編集)
出版社: 伊万里市 (2006.3)


森銑三著作集 第9巻
森 銑三 (著)
出版社: 中央公論社 (1971/5)


興味から
シモーヌ・ヴェーユ著作集 3 重力と恩寵,救われたヴェネチア
シモーヌ・ヴェーユ (著), 渡辺 一民 (翻訳), 渡辺 義愛 (翻訳)
出版社: 春秋社; 新装版 (1998/10)

文芸同人誌「日田文學」でお世話になった河津さんが確か歴史小説もお書きになっていたはずだと思い、検索すると果たしてあった。講談社から1993年に上梓された『肥後細川藩幕末秘聞』という本だ。

この本は弦書房から2017年に新装改訂版が文庫本で出ているので、宣伝しておこう。

河津さんとお話しして、互いの作風が似ていることを確認したことがある。河津さんの文章の美しさ、取材力、情報の集約力には遠く及ばないながら、長所も欠点もよく似ているのである。

書き慣れない歴史小説の執筆に悶々とする中でふと、河津さんはどうお書きになったのだろう、河津さんと同じ手法でならわたしにも書けるかもしれないと思ったのだった。どの世界でも、持つべきものはよき先輩である。

『肥後細川藩幕末秘聞』は、第一部で歴史の闇をルポルタージュ形式で追い、第二部がそれをもとにした歴史小説となっている。黒船が来航した年の嘉永6年(1853)、阿蘇の山ぶところに抱かれた平和な村が忽然とこの世から消えたという。

取材の過程を報告しつつ小説を紡いでいく形式が自分には合っている気がして、門玲子『わが真葛物語―江戸の女流思索者探訪』(藤原書店、2006)、『江馬細香 化政期の女流詩人』(藤原書店、2010)を研究したりしていたのだが、河津さんの歴史ルポ&歴史小説を読み、大いに参考になった。

『肥後細川藩幕末秘聞』は、ミステリータッチで描かれていて、面白く読み進めることができるが、伝承の解明には至らないまま終わっているため、それをもとにした第二部が盛り上がりに欠けるのが惜しい。

幕末から明治初期にかけて起きた最後のキリシタン大迫害「浦上四番崩れ」は有名だが、この肥後小国臼内切での事件が小説通りに起きたとすれば、あまりに暴発的で手続きに欠けているため、なかったことにするしかなかったということだろうか。

歴史物ではないが、同じ手法を用いたものとしては、殺人事件を追った河津さんの小説『森厳』のほうが成功しているとわたしは思う。過去記事で感想を書いている。

2013年10月 5日 (土)
男のロマンゆえに形式を踏み外した(?)2編――河津武俊 (著) 『森厳』、谷山稜『最後の夏山』
http://elder.tea-nifty.com/blog/2013/10/2-77d2.html

辻邦生の『天草の雅歌』は、高校時代の恩師が年賀状の中で歴史小説執筆の参考として挙げてくださった著作。

森銑三『森銑三著作集 第9巻』 (中央公論社、1971)は、了然尼に関する情報を求めて辿り着いた著作だったが、すばらしい内容だったので、アマゾンとブクログにレビューを書いた。

読みながら身が引き締まるほどの本格的な論考

美貌のあまり入門を断られたため、自らの顔を焼いて入門の許可を得たということで有名な黄檗宗の尼僧、了然尼(1646-1711)に関する情報を求めて森銑三の論考に辿り着いた。
精密な調査に驚き、著者銑三に対する興味も湧いた。ここまで本格的な歴史上の人物に関する論考は、これまでに読んだことがなかった気がする。読みながら、身が引き締まる思いがしたほどだ。
ウィキペディアによると、森銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、昭和期日本の在野の歴史学者、書誌学者で、著作は『著作集』(全13巻)『著作集 続編』(全17巻)にまとめられ、その著述は、江戸・明治期の風俗研究、人物研究を行う上での基点となっているそうだ。
本巻には、「宮本武蔵の生涯」を冒頭に、前掲論考を含む14の論考が収められている。

論考自体が旧字混じりである上に、一次資料からの引用が豊富であるため、漢文、候文ありとなると、わたしのようなド素人が読むには覚悟がいる。

ウィキペディア(「森銑三」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年10月2日 07:53 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org)には、次のようなことも書かれている。

高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝や典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。

在野の研究家であっても、これほどの業績が残せるのだ! 凄い、本当に凄い。これ以上言葉が出ない。

シモーヌ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ著作集 3 重力と恩寵,救われたヴェネチア』のレビューもアマゾンとブクログに書いた。

哲学者ヴェーユの戯曲が収められていて、貴重

重力と恩寵は、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵 シモーヌ・ヴェイユ「ノート」抄』(講談社文庫 - 講談社、1974)で40年ほど前に初めて読み、稀にしか出合えない高純度の思索に触れた思いがした。それ以来、何度も読み返している。ヴェーユの著作は、一生の宝物となるような性質のものなのだ。
本書には渡辺義愛訳「重力と恩寵」が収められているが、それ以外にヴェーユの珍しい戯曲が収められていて貴重である。この戯曲は未定稿で、完成されていない部分がひじょうに多いという。本書にはヴェーユのメモが頭を下げて各ページの下の部分に印刷されており、読むと新鮮な印象を受ける。
ヴェーユには、母親に溺愛されたヴェーユ、哲学者ヴェーユ、教師ヴェーユ、政治活動家ヴェーユ、神秘主義者ヴェーユとはまた別の顔――作家ヴェーユの顔――もあったのだ。

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2018年12月19日 (水)

歴史短編1のために #50 萬子媛の父の仕事と妹の生活を、松薗斉『日記に魅入られた人々』から想像する

公家は、官位(官職と位階)によってランク付けされた。五位以上の位階を与えられると――従五位下になると――貴族と呼ばれた。叙爵とは、貴族として下限の位階であった従五位下に叙位されることをいった。

参議以上および三位以上の者を公卿と呼んだ(位階は四位であっても参議に就任すると、公卿である)。

花山院家の家業は「四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道。一条家の家礼」とウィキペディア「花山院家」(「花山院家」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年8月6日 04:57 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org)とある。

萬子媛の父・花山院定好の仕事内容を想像できる記述が、松薗斉『日記で読む日本史 日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』(臨川書店、2017)にある。

前掲書では、院政期から戦国時代までの貴族・公家の日記が解説と共に紹介されているのだが、江戸時代になっても公家の勤務形態や日常の習慣は引き継がれていたようだから、参考になる。

除目[じもく]という政務は、公卿の筆頭である左大臣が担当したという。定好は寛文元年(1661)から寛文3年(1663)まで左大臣職にあった。

『日記で読む日本史 日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』から、除目について書かれた部分を引用する。

<ここから引用>
公卿になると、特にまだ見習い扱いの参議から昇進して権中納言以上になると、年中・臨時の行事や諸政務において指揮者ともいうべきこの上卿[しょうけい]という役がまわってくる。儀式・政務には規模の大小、また重要度でも軽重があるが、正月の節会や天皇一代に一度しか行われない即位などは規模が大きく(これらの上卿は内弁と呼ばれる)、またトラブルが生じるとその天皇の治世についてまでまことしやかに言われてしまうので責任が重い。そして個人的に負担が大きいのは、
(略)除目(特に春のそれ)・叙位の執筆[しゅひつ]という、朝廷の人事異動を決定する政務で、その新任者や位階の上がったものを大間書[おおまがき]や叙位簿[じょいぼ]とよばれる書類にリストに書き込んでいく役であろう。天皇・関白の前で行われなければならず、除目の場合、三日間にわたって行われ、作法も煩瑣、かつ書き誤りも許されず、旧の暦とはいえ正月の寒い夜、なかなか負担が重かった。ただし、これらの重要な役は公卿全員に課せられるということはなく、大臣、特にその筆頭である左大臣がまず担当する(そのため左大臣は一の上卿とか一上[いちのかみ]と呼ばれる)。当然、左大臣は公事の様々な次第・作法、そして先例に通暁した練達の人物でなければ務まらない。そのような人物が上卿や除目の執筆を務める際には、公事に熱心な貴族たち(当然ライバルもいる)がその儀式に参加しなくても見物に押しかけることになる。
<ここまで引用>(松薗,2017,pp.32-33)

同書第五章「やさしい宮様(中世の夫婦善哉日記 ――貞成親王『看聞日記』)」に、貞成親王の日記『看聞日記』からの抄訳がある。いや、『看聞日記』がウィキペディアの解説にあるようなものだとすると、これは他界した妻が夫の日記を紹介するというスタイルをとった貞成親王『看聞日記』の意訳というべきか。

<ここから引用>
『看聞日記』(かんもんにっき)は、伏見宮貞成親王(後崇光院、1372年 - 1456年)の日記。日記41巻と御幸記1巻、別記1巻、目録1巻から構成され、全44巻から成る。一部は散逸しているが、応永23年(1416年)より文安5年(1448年)まで33年間に渡る部分が現存する。『看聞日記』は宮内庁書陵部所蔵の貞成親王自筆の原本の題名で、一般には『看聞御記』(かんもんぎょき)とも呼ばれる。

貞成親王は伏見宮3代で、後花園天皇の実父にあたる人物である。将軍足利義教時代の幕政や世相、貞成親王の身辺などについて記されており、政治史だけでなく文化史においても注目される。
<ここまで引用>「看聞日記」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2018年7月13日 13:24 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

その中に、阿五々と呼んで育てていた姫宮のことが記されている。

この姫宮が入江殿三時知恩寺に尼として入ることになり、そのときの様子やこの姫宮が一人前の尼となって今御所と呼ばれるようになってからのことなど書かれていて、興味深い。

<ここから引用>
三時知恩寺(さんじちおんじ)は、京都市上京区上立売町にある浄土宗の寺院(尼寺)。門跡寺院。本尊は阿弥陀如来。
応永年間(1394年 - 1428年)北朝4代後光厳天皇の皇女見子内親王が北朝3代崇光天皇の御所で一条西洞院にあった入江殿を寺に改めたのに始まる。
(略)
後柏原天皇の代に三時知恩寺と称されるようになったが、これは宮中における六時勤行(1日6回の勤行)のうち昼間の3回をこの寺で行うようになったことによるとされる。正親町天皇の代に現在地へ移転した。

<ここまで引用>「三時知恩寺」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2018年4月5日 12:03 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

なぜ興味が湧くかというと、萬子媛の妹が臨済宗単立の尼門跡寺院で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入ったからで、小大名に嫁いだ萬子媛だったが、そのような人生を歩んだとしても不思議ではなかったからだ。

慈受院と総持院は室町幕府4代将軍・足利義持の正室であった日野栄子を開基として同時期に創建され、明治6年、総持院と慈受院は合併し(慈受院は江戸期に曇華院宮の管掌となっていた)、大正8年から寺名を慈受院としたそうだ。

慈受院の複雑な歴史について、サイト「黒駒 寺社参拝記」に詳しいので、引用させていただく。

<ここから引用>
慈受院寺史

現在の慈受院は元々、慈受院と総持院という別々の門跡寺院が明治になって
合併したお寺であり、両寺の開基は足利四代将軍義持の正室慈受院竹庭瑞賢尼(藤原栄子)である。義持の菩提を弔うために応永34年(1427)に創建された。
慈受院・総持院はともに内親王・宮家子女・将軍家子女・近衛家子女などが代々の住持を務めていたが、慈受院は江戸期に入り曇華院宮の管掌となる。
総持院は近衛家と花山家から交互して子女が住持となり、宝暦年間(18世紀中期)には比丘尼御所(尼門跡)に列せられて薄雲御所号を勅許される。
明治6年に慈受院と総持院は合併して、大正8年からは寺名を慈受院とした。
江戸期の石高は総持院が74石、慈受院は98石。臨済宗 本尊釈迦牟尼如来。

<ここまで引用>
薄雲御所 慈受院門跡「黒駒 寺社参拝記」<https://blog.goo.ne.jp/ebosi624/e/cdc7edeff9fcf78ddbf74ac01e5e3054>(2018年12月20日アクセス)

尼門跡寺院での生活を、花山院慈薫 (バーバラ・ルーシュ編)『あやめ艸日記―御寺御所大聖寺門跡花山院慈薫尼公』(淡交社、2009)から想像したりしていたのだが、『日記で読む日本史 日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』中の『看聞日記』には、幼い姫宮のホームシックの様子や若くして門跡の代わりを務める重圧のことなど書かれていて、生々しい。

<ここから引用>
入室の儀は門跡様の肝いりで、寺中の尼たちも総出でお迎えくださり、たいそう華やかに執り行われたのですが、何分まだ幼いので、家を恋しがってずっと泣いていたそうでございます。<ここまで引用>(松薗,2017,p.129)

一人前となった今御所は将軍様や上様にも可愛いがられるようになって、18歳のときには将軍様の姫君をお弟子として預かり、領地を寺に寄進していただいた。宮家の長女として尼となっていった妹たちの面倒もよく見ていた。

しかし、高齢となり、病気がちとなった門跡の代わりを務めるにはまだ若すぎたようで、その重圧からか一種の精神錯乱を起こしたようなことが書かれている。

<ここから引用>
永享10月の9月、門跡様がご体調を崩されるとその重責に押しつぶされてしまいそうになったのでしょうか、11月末に実家に帰ってくると、すぐに体調を崩してしまい、突然大声で泣き出したり、乗り移った門跡の他の尼の生霊でしょうか、「今御所を長らく憎んできた」などとおかしなことを口走るようになって、ひどく錯乱してしまいました。宮家の者たちもびっくりしてどうしてよいのやら、門跡の方々にも随分心配をおかけしましたが、お頼みいただいた験者たちの祈祷のおかげで何とか回復し、その年の暮れにはお寺に帰りました。
<ここまで引用>(松薗,2017,p.130)

三年後、今御所は京で流行った疱瘡に罹患し、亡くなる。26歳だった。

以下の記事は前掲書『あやめ艸日記―御寺御所大聖寺門跡花山院慈薫尼公』を読んだときにとったノートで、『『あやめ艸日記』は平成18年に96歳の天寿を全うされた大聖寺27代門跡・花山院慈薫の随筆集である。

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

萬子媛は、花山院家の21代・花山院定好の娘だが、花山院慈薫は31代・花山院家正(1834年 - 1840年)の娘。
花山院家の37代・花山院弘匡(1962年 - )によると、尼門跡寺院大聖寺の門跡は24代まで内親王だったが、明治以降は華族出身の子女が尼門跡寺院の法統をお守りするようになり、伯母・花山院慈薫にもお話があったという。
お経、仏典、和漢の書、和歌、哲学などを学び、児童文学や少女雑誌なども読んで育ち、13歳で剃髪。
大聖寺の宗旨は臨済宗系の単立で、本尊は釈迦如来。
ちなみに、萬子媛は黄檗宗の尼僧となったが、開祖・隠元隆琦は中国臨済宗の僧で、黄檗宗は臨済宗系であり、明朝風様式を伝えているといわれている。
編者のバーバラ・ルーシュはコロンビア大学名誉教授で、13世紀に活躍した無外如大禅尼について研究するようになり、この禅尼が大聖寺門跡と関係あることがわかったことから、大聖寺にお参りしたいと思ったそうだ。
バーバラ・ルーシュ「思い出の花輪を捧ぐ」に書かれた以下の箇所は興味深い。

〈ここから引用〉
このような経験を積み重ねてゆくにつれ、尼門跡寺院という制度があることがわかってきました。この制度は、日本の真なる文化財の一つともいえますが、十九世紀の廃仏毀釈令によってほとんど破壊されてしまいました。尼門跡寺院というのは、何かを抑えつけるところではなく、逆に解き放つところといえる存在であり、もしこのような場が存在しなかったら、日本のきわめて高い文化的教養をもった女性たちが幾世紀にもわたって活躍できなかっただろうと思われます。皇室由来の寺院におられた尼僧様たちが、和歌の古典的な形態をみがき上げ、『源氏物語』に関する文化、さらに茶道、華道、香道、年中行事などの保存にお勤めになられたのでございます。

〈ここまで引用〉

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2018年11月 3日 (土)

松薗斎『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』(臨川書店、2017)に解説があった叙目という仕事。(この記事はまだ書きかけです)

萬子媛の父、花山院定好は公卿であったが、その仕事がどんなものであったのか、今一つぴんとこなかった。それが、松薗斎『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』(臨川書店、2017)を読み、これは中世のこととはいえ、仕事としては引き継がれている部分が大きいと思われるので、参考になる。

小説の参考になることを別にしても、中世の日記から面白いものが紹介、解説されていて、読んでみたくなる本だ。

「花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』( 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)によると、花山院家の家業は、四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道であった。定好は主に、後水尾天皇(108代)から後西天皇(111代)の四代に仕えた。

慶長16年(1611)に元服し侍従に叙爵。以降順調に出世したようで、寛永8年(1631)権大納言に任じられ、寛永20年(1643)まで務めた。慶安2年(1649)には内大臣となったが、すぐに辞職し、承応2年(1653)から翌年にかけて右大臣。万治3年(1660)に従一位に上り、寛文元年(1661)から寛文3年(1663)にわたって左大臣を務めた。

公家は、官位(官職と位階)によってランク付けされた。五位以上の位階を与えられると――従五位下になると――貴族と呼ばれた。叙爵とは、貴族として下限の位階であった従五位下に叙位されることをいった。

参議以上および三位以上の者を公卿と呼んだ(位階は四位であっても参議に就任すると、公卿である)。

前掲書によれば、除目は公卿の筆頭である左大臣が務めたとあり、どのような仕事であったかが解説されているので興味深かった。萬子媛の父は左大臣職にある間、このような仕事をしていたのかと思った。いやー、ストレスが募りそうなお仕事ですよ。

図書館から借りた本で、返さなくてはならないので、抜き書きしておきたい。が、今はちょっと時間がないので、あとで。この記事は書きかけです。

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