カテゴリー「児童文学」の180件の記事

2019年5月23日 (木)

『帰ってきたメアリー・ポピンズ』で、自分がどこから来たかをムクドリに語る赤ん坊 (2) (※書きかけです)

『帰ってきたメアリー・ポピンズ』で、自分がどこから来たかをムクドリに語る赤ん坊 (1) 
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/04/post-f68a49.html

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パメラ・リンドン・トラヴァース(Pamela Lindon Trvers,1899-1996)の評伝、森恵子『P.L.トラヴァース』(KTC中央出版、2006、p.43)によると、「グルジェフの死後1952年に出版されたトラヴァースのメアリー・ポピンスの物語の第4巻『公園のメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins in the Park、53歳)にはグルジェフの考え方が織り込まれているという。

また、晩年に出版された第9巻『さくら通りのメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins in Cherry Tree Lane、1982年、83歳)、第10巻『メアリー・ポピンズとおとなりさん』(Mary Poppins and the House Next Door、1988、89歳)では、森によると(2006,p53)、ますます「グルジェフの神知学」の影響が大きくなるそうだ。

当記事は神智学の影響を受けたというトラヴァースの代表作であるメアリー・ポピンズの物語にどの程度、ブラヴァツキーの神智学の影響が窺えるかを調べるのが目的であるから、神智学の流れを汲むというグルジェフに踏み込むのは別の機会にしたいと思う。

ブラヴァツキーの神智学の観点から読むと、確かに、いわゆる神智学の影響が色濃く感じられるのは初期のメアリー・ポピンズの物語中第1巻『風にのってきたメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins、1934年、35歳) 、第2巻『帰ってきたメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins Comes Back、1935年、36歳) である。

53歳で出版された『公園のメアリー・ポピンズ』は洗練された作品となっており、トラヴァースの児童文学作家としての成熟が感じられる。神秘主義的な作風であるが、格別に神智学を感じさせられる箇所は見つけられなかった。グルジェフの思想のオリジナルな部分からの影響がそれだけ強いということだろうか。

『さくら通りのメアリー・ポピンズ』と『メアリー・ポピンズとおとなりさん』には、いくらか筆の衰えを感じさせられるものがあった。

しかしながら、この2作品には幻想的というより夢幻的といったほうがいいような趣があり、現実と異世界の境界が曖昧で、このころ既にトラヴァースは異世界の住人となっていたようですらあって、夢見心地で書かれたような何か朧げな、恬淡とした味わいがある。

以上のことから、当記事で採り上げるべき作品は初期の前掲2作品ということになる。ロマンティックなところのある『風にのってきたメアリー・ポピンズ』は過去記事で採り上げたから、ここでは『帰ってきたメアリー・ポピンズ』を採り上げたい。

P.L.トラヴァース(林容吉訳)『帰ってきたメアリー・ポピンズ』(岩波書店⦅岩波少年文庫 053⦆、2001新版)では、アナベルという女の子が4人の下に生まれ、バンクス夫妻は5人の子持ちになるわけだが、そのアナベルがゆりかごの中で、ムクドリの問いかけに答えて、自らの起源を語る。

私見によると、この場面でアナベルが語る3箇所に、神智学色が濃厚に表れているのである。引用する。ここに2箇所ある。

「話しておやり、アナベル!」と、親どりが、しゃがれ声でいいました。
 アナベルは、毛布の下で、手を動かしました。
「わたしは、土と空と火と水なの。」と、しずかにいいました。「わたしは闇[やみ]のなかからきたの。なんでも、はじまりはそこなの。」(トラヴァース,林訳,2001,p175)

旧約聖書の創世記にも「闇」が出てくるが、アナベルが語る「闇」とは重要度が異なる印象である。聖書から見てみよう。

❗❗ すみませんが、ちょっと中断します。まだ途中ですが、アップしておきます。この記事は書きかけです。

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2019年4月20日 (土)

『帰ってきたメアリー・ポピンズ』で、自分がどこから来たかをムクドリに語る赤ん坊 (1) 

パメラ・リンドン・トラヴァース(Pamela Lindon Trvers,1899-1996)の評伝、森恵子『P.L.トラヴァース』(KTC中央出版、2006)で彼女が受けた思想的影響をざっと見ていくと、AE(George William Russell  ジョージ・ラッセル,1867-1935)を通じて「マダム・ブラバツキの神知学協会」を知ったトラヴァースは「はじめは疑問をいだいていた」が、『ニュー・イングリッシュ・ウィクリー』の編集者アルフレッド・リチャード・オイレジ(Alfred Richard Orage,1873-1934)の話を聞き、「積極的な信奉者に変わった」。

1933年、AEを通じてオイレジと知り合ったトラヴァースは、1年の交流の間にオイレジの編集する前掲誌の劇評家となり、またオイレジを通じてジョージ・イワノヴィチ・グルジェフ(George Ivanovitch Gurdjieff,1866-1949)に出会ったのだった。オイレジはグルジェフの布教活動をしていたのである。

「マダム・ヘレナ・ブラヴァツキ(Helena P.Blavatsky,1831-1891)の神知学の流れをくむ」グルジェフは、彼の提唱する「仕事」を通じ、「知性と感情と肉体の三つをつなぎバランスをとること」で「本来的自己(霊性)」に目覚め、「それが神性と同じであることを認識し救済に至る」という思想を説いていた。

※グルジェフについては無知で、現時点では未知の人物であるため、評伝をそのまま引用する。ブラヴァツキーの神智学に関する著者の解説は割愛させていただいたが、わたしには違和感があった。

トラヴァースはグルジェフの教えに共鳴した。グルジェフの死後出版された『公園のメアリー・ポピンズ』には、グルジェフの考えが盛り込まれているという。

1963年に京都を訪れたトラヴァースは「アメリカ人で日本人と結婚し、禅の修行を積んだ」ルース・ササキという女性から教えを受けた。また「グルジェフ派のグループの会合にはリーダー格として参加し、インド人の導師クリシュナムルチ(Krishnamurti)をグルジェフの再来として崇拝した」。

1963年、トラヴァースはディズニーによるミュージカル映画『メアリー・ポピンズ』の制作に顧問として参加する。映画は1964年に封切られたが、それはトラヴァースの期待を裏切るものだった。

「エドワード朝の平凡な主婦」のバンクス夫人が「婦人参政権論者」に仕立てられ、「行儀をわきまえているはずの」メアリーのスカートが舞い上がって下着が見え、「アニメ化されたペンギンがファンタジーを損なう」などであった。バートと絵のなかに入る「外出日」が目玉扱いされているのも不満だった。

最もトラヴァースを失望させたのは、「メアリー・ポピンズがただの使用人になってしまい、作品の特徴である神秘性が感じられない」ところであった。

以上、森恵子『P.L.トラヴァース』(KTC中央出版、2006)16~46頁を参考・引用させていただいた。

トラヴァースはケルトの文芸復興運動とも関わりが深そうなので、その方面からも見る必要があるだろうが、ここではただ、神智学の影響を色濃く感じさせる部分を拾うに留めたい。過去記事では『風にのってきたメアリー・ポピンズ』を見ていった。

メアリーが子どもたちの世話役として勤務するバンクス家には、4人の子どもがいた。ジェイン、マイケル、双子のジョンとバーバラである。

P.L.トラヴァース(林容吉訳)『帰ってきたメアリー・ポピンズ』(岩波書店⦅岩波少年文庫 053⦆、2001新版)では、アナベルという女の子が4人の下に生まれ、バンクス夫妻は5人の子持ちになる。

 

❗上でトラヴァースが受けた思想的影響をざっと見たので、このあと『帰ってきた』で、神智学の影響を色濃く感じさせる箇所を引用する予定です。パソコンをつかえないため、iPadで書いており、時間がかかるため、途中ですが、アップしておきます。

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2019年3月19日 (火)

末吉暁子『星に帰った少女』(偕成社、2003改訂版)を読んで ※20日に加筆あり、緑字

児童小説、末吉暁子『星に帰った少女』(偕成社、2003改訂版)を読みました。

ネタバレあり、ご注意ください。

佐藤さとる氏の解説によると、イギリスの女流作家フィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』が日本に紹介されたときの影響力は大きく、同じ手法を追う試みがいくつかなされたそうだ。『星に帰った少女』も、直接か間接か影響を受けているかもしれないという。

主人公マミ子がママから貰った古いオーバーのポケットに入っていたバスの回数券を使ってタイムトラベルするというストーリーだから、解説を読む前の作品を読んでいる途中で、わたしもピアスの作品を連想した。

12歳の誕生日の晩、母子家庭でママの帰宅を待つマミ子。マミ子の気持ちにあまり寄り添わない、キャリア志向のママ。古びたオーバーを貰って困惑するマミ子の気持ちも、率直な物言いをするママの気持ちもよく書けている。オーバーはママが大層大事にしていたものだった。

東京からタイムトラベルした、敗戦後間もない昭和24年の海辺の町。富士山が間近に見える。進駐軍が何気なく出てくる。町の様子は丹念に、叙情味ゆたかに描かれ、「昭和」の薫りが郷愁を誘う。

マミ子はその町で、同じ12歳のママ、杏子と出会った……これはもしかしたらピアスにも勝る第一級の児童小説ではないだろうか、とわたしは興奮した。

だが、後半部、その感激は徐々に冷めていき、竜頭蛇尾の印象に終わったことを残念に思う。

ママが再婚を匂わせるようになり、その相手の男性トシさんをマミ子は受け入れていたはずだった。ところが、トシさんといるときのママに違和感を覚え、反発した態度をとってしまう。

その場面の描写は秀逸である。長くなるが、勉強のためにも引用しておこう。

 とつぜん、ふたりのわらい声がきこえた。ふりかえると、ママはその場に立ちどまり、おなかに手をあて、身をよじってわらっている。いっぱいに、ひらかれた赤いくちびる……切れめなしに、あふれでてくるわらい声。
「ママったら、道のまんなかでみっともない……」
 トシさんも、そんなママをたのしそうにみている。両手をポケットにつっこみ、じょうだんでママをわらわせた、とくいの表情をして……。
 ママのあんなわらい声を、一度もみたことがない……。
「そう、あたしは、これまで一度もわらわなかった。だからいままでのぶんも、いっぺんにとりもどしているのよ。」
 かん高いわらい声は、そういっていた。
 マミ子は、きびすをかえして歩きだした。駐車場にはいかず、駅にむかって、どんどん歩いた。
 ふりかえると、絵の具箱をぶちまけたような色彩のなかを、みしらぬ顔、顔がうごめいているだけだった。
(末吉,2003,pp.193-194)

無防備に女としての自分をさらけ出しているママに対するマミ子の生理的な嫌悪感、トシさんに対する敗北感、孤独感といった一連の心の動きが実に巧みに表現されている。

それなのに、そこからの展開は、マミ子の心情を切り捨てた、ママ側に立ったご都合主義の要素が強まるのである。

古びたオーバーは、海で溺死したマミ子の祖母がママにくれたものだった。海での事故は、小学6年生だったときのママ、杏子が母の再婚をうまく受け入れることができなかったことに起因する不幸な事故だった。

つまり、杏子とマミ子は同じ年齢のときに、母親の再婚を受け入れることができないという同じ問題を抱えていたわけである。

海が荒れてきていたのに、杏子は母と再婚相手に無茶をいって、大きな鳥のように見える舟で海に出て行かせた。舟は転覆し、一人しか助けられない再婚相手に娘を助けてくれるように頼み、杏子の母は海に沈んでいった。

作者は、同じ体験をさせることで、それを通過儀礼のように用いて、杏子ができなかった受容をマミ子に果たさせようとする。

祖母を呑み込んだ海にやってきたマミ子は、砂浜で一人、鳥のように見える舟に乗り込む。舟はなぜか海へと動き出し、やがて転覆して、マミ子は海に放り出される。

ここで読者は、オカルティックな忌まわしい現象か、亡き祖母による神秘的な救いかのいずれかを期待するのではないだろうか。

作者は他の救いを用意していた。事前にビーバーみたいな歯をした少年との出会いがあり、その少年に救出されるのである。

海に投げ出されたとき、マミ子の手さげかばんも一緒に海に投げ出された。かばんには12歳のときのママが綴った日記も入っていた(日記にはマミ子との出会いと事故のトラウマが綴られていた)。

日記が海に消え去ったことが、厄落としにでもなったかのようなことをママはいう。あれほどマミ子が貰ったオーバーが大事にされていたわりには、祖母の出番は全くない。

次のようなことをマミ子にいうとき、ママには母性の欠片も見あたらず、子供のように直截的である。

マミ子がいてくれるのが、生きていく支えだったんだけど……でもね、マミ子、いま、ママは、もっと必要な人がいるのよ。ママの足りない部分をおぎなってくれるおとなの人が……
(末吉,2003,p.259)

「マミ子はママにとってかけがえのない娘だけど、トシさんもママにはかけがえのない人なの。」といえば、マミ子の心証も違っただろう。尤も、あなたは不要といわれたも同然のマミ子は、溺れかけた体験が通過儀礼となったらしく、大人びた理解者にバージョンアップ(?)していて、さほど傷つくこともない。作者の思惑通りに、ママの再婚を祝福するのである。おまけのように、そこにはビーバーのような歯をした少年もいる。

めでたし、めでたしで、納得できないのは読者であるわたし一人だけだ。

比べようのないものを、無理に比べる必要があるのだろうか。母性愛と異性愛のどちらが重いか、量ることができるのだろうか。ハッピーエンドがそんなに貴重だろうか。

杏子はかつて母親を失ったように、今度は娘を犠牲にしようとしているように思えてならない。当座の「必要」、そのときの自分の都合だけで物事を判断する、身勝手な人間に思えてならない。

子供をネグレクトしたり、不倫したりする人間は、杏子型の単純な思考回路の持主ではないかとわたしは穿った見方さえしてしまう。

割り切れないものを割り切れないままに、通常の見方とは異なる視点から描くのが純文学だとわたしは考えているので、割り切れないものを切り捨てて茶番劇のような終わり方をしたこの作品が『トムは真夜中の庭で』のような純文学作品だとはわたしには思えない。エンター系かといわれると、そうなのかどうか、わたしにはわからない。

タイムトラベルという技法の用いられかたは、両作品によって、はっきりと異なる。

『トムは真夜中の庭で』では、同じ場所を別の視点から見ることが目的である。そうすることによって、今は失われた庭園が息づき、そこに展開していた――今につながる――人間関係が浮かび上がってくる。タイムトラベルは、歴史を紐解くという本来の役どころに納まっている。

『星に帰った少女』では、タイムトラベルはマミ子の「教育」に用いられている。ママの12歳のときの体験を娘に追体験させ、ママの理解者に育てるための「教育」である。

小学6年生には無理な成熟を促がそうというわけだが、人の成熟は社会を含めた大自然が促すもので、タイムトラベルには土台無理なお役目なのである。

トムはタイムトラベルしたことで、内面的な成長を遂げたようでもあるが、神経過敏になった。タイムトラベルすることによって歴史の思わぬ闇を体験し、精神的損傷を受ける可能性もあったのだ。タイムトラベルは、トムにとってスリリングな冒険だった。

マミ子には、「成熟」という課題が与えられており、タイムトラベルがもたらす過去の歴史はそのために整えられた教育環境にすぎないから、マミ子はタイムトラベルがもたらすかもしれない弊害からはあらかじめ作者によって保護されているのである。

マミ子のタイムトラベルはトムの場合に比べれば小手先の教育対策にすぎず、冒険というよりは修学旅行だろう。

平家物語をモチーフとした末吉暁子『波のそこにも』(偕成社、2015)は、着想の卓抜さ、「水底[みなそこ]の国」のファンタスティックな描写の美しさに心惹かれたが、神秘性がもう一つ感じられず、次第に単調に思われ出した。

わたしの好みから出た感想にすぎないが、美点を考えれば、この作品も『星に帰った少女』同様、残念な作品に思われた。わたしのようなヨチヨチ歩きの物書きからすれば、こんなに長く綺麗な文章で書き通すことができるということだけでも、凄いことだと思うけれど。

割り切れないものを強引に割り、余りは切り捨ててしまってハッピーエンドに納まるパターンは、今のわが国の児童文学にはよく見かけるものだ。それが教科書とされているからだろう。

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2019年3月 8日 (金)

P.L.トラヴァースにおける近代神智学の影響を考察する ①みんなおなじ

過去記事に書いたことだが、繰り返していうと、トラヴァースと神智学の関係は、森恵子氏の評伝『P.L.Travers(現代英米児童文学評伝叢書)』(KTC中央出版、2006)に出てくる(20~21頁参照)。

1933年、トラヴァースはアイルランドの文芸復興運動の指導者の一人で詩人であったAE(ジョージ・ラッセル George William
Russell, 1867 -
1935)に頼み、AEの友人で『ニュー・イングリッシュ・ウィークリー』の編集者アルフレッド・リチャード・オイレジ(Alfred Richard
Orage,1973 - 1934)に紹介して貰う。

トラヴァースはオイレジに才能をみこまれ、『ニュー・イングリッシュ・ウィークリー』に詩を寄稿、ほどなく同誌の劇評家となった。オイレジはマダム・ヘレナ・ブラヴァツキ(Helena
P.Blavatsky、1831 – 1891)の神知学派の流れをくむジョージ・イワノヴィッチ・グルジェフ(George Ivanovich
Gurdjieff,1866 - 1949)の布教活動をしていた。

トラヴァースはオイレジを通じグルジェフに出会った。トラヴァ―スにとって、AEは文学的な父、グルジェフは精神的な父であった。

<ここから引用>
当時、マダム・ブラヴァツキの神知学協会は、AEやイェイツにも大きな影響を与えていた。AEから聞いた神知学にはじめは疑問をいだいていたトラヴァースだったが、オイレジの話を聞き積極的な信奉者に変わった。彼女が実際にグルジェフに会うのは1936年である。
 神知学には、ゾロアスター教やヒンズー教、グノーシス主義などが混同している。人間は肉体に閉じこめられ本来の自己(霊性)を忘却し深い眠りのなかに落ちこんでいる。眠りをさまし本来的自己に目覚め、それが神性と同じであることを認識し救済にいたるという思想である。目覚めるためには超人的な努力が必要である。グルジェフの提唱する「仕事」を通じ、知性と感情と肉体の三つをつなぎバランスをとることで、それが可能となる。ところでトラヴァースによれば、妖精物語は人間の真の姿を見せてくれるものであり、それは子ども時代以降は眠りに落ちている。自分が何者であるかを認識するために、人間は妖精物語を眠りから呼び覚まさなければならない。トラヴァースは眠っている妖精物語と本来的自己は同じものと考え、ここで彼女のなかで妖精物語と神知学は結びつくのである。

<ここまで引用>
(森,2006,pp.20-21)

わたしはグルジェフは未読であるし、神智学の説明とトラヴァースの考えには若干違和感があるけれど、トラヴァースがブラヴァツキーの神智学の影響を受けていると思わせられる箇所をP.L.トラヴァースの「メアリー・ポピンズ」シリーズから拾ってみたい。

『風にのってきたメアリー・ポピンズ』で、ジェインとマイケルはメアリー・ポピンズのお誕生日に動物園へ行く。檻の中には動物の代わりに人間が入っていて、動物はみんな外へ出ている。キング・コブラがいう。

<ここから引用>
たべることも、たべられることも、しょせん、おなじことであるかもしれない。わたくしの分別では、そのように思われるのです。わたくしどもは、すべて、おなじものでつくられているのです。いいですか、わたくしたちは、ジャングルで、あなたがたは、町で、できていてもですよ。おなじ物質が、わたくしどもをつくりあげているのです――頭のうえの木も、足のしたの石も、鳥も、けものも、星も、わたくしたちはみんなかわりはないのです。すべて、おなじところにむかって、うごいているのです。
<ここまで引用>
(トラヴァース、林訳、2003,pp.249-250)

「おなじものでつくられている」というキング・コブラの言葉から連想されるのは、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1989)に出てくる次の文章である。

<ここから引用>
無限で不死不生の唯一の宇宙元素だけが存在し、その他のものすべて、即ち大宇宙的結果から小宇宙的結果に至るまで、又超人から人間や人間より下の存在に至るまで、簡単に言えば、客観的存在のすべては、その唯一のものが多種多様に分化した諸面であり、今は相関関係(correlation)といわれている変形であることをもし学徒が覚えているならば、最初の主な難点はなくなり、オカルト宇宙論に熟達することができるだろう。
<ここまで引用>
(ブラヴァツキー,田中&クラーク訳,1989,p.293)

よほど大事な教えなのだ、同じ教えが言葉を変えて幾度も繰り返されるのだから。

<ここから引用>
星から鉱物原子に至るまで、最高のディヤーニ・チョーハンから最少の油虫に至るまで、完全な意味で、大自然の複合物の各構成部分の究極的エッセンスが根本的に統一していることは、オカルト科学の唯一の基本である。それが霊的世界または知的界、物質界のいずれに当てはめられても違いはない。
<ここまで引用>
(ブラヴァツキー,田中&クラーク訳,1989,p.352)

ということは、神智学で叩き込まれるこの教えがその人の思考形態を根本から支えていない限り、その人が神智学の影響を受けたということはできないに違いない。トラヴァースはこの基本を押さえていた。

「子どもも、ヘビも、星も、石も――みんなおなじ。」(トラヴァース、林訳、2003,p.251)というキング・コブラのシューシューいう声が低くなってきて、身をゆすり、ゆすられているような心地よさのなかで、「なかばかくした、やわらかい光」(トラヴァース、林訳、2003,p.251)がふたりの顔にあたる。「よくねて、夢でもみているよう――ふたりとも。」(トラヴァース、林訳、2003,p.252)といったひくい声がキング・コブラの声だったのか、おかあさんが毛布をなおしながらいったのか。ジェインとマイケルは夢うつつである。

「なかばかくした、やわらかい光」というのは月の光だろうか、それとも別の神秘的な――例えばオーラの光とか――だろうか? トラヴァースはしばしばこのような紗のかかったような、直截的でない繊細な表現をとり、それが作品を陰翳に富む、謎めいた、神秘がかったものにしている。

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2018年7月25日 (水)

余華の対談(「三田文學」2018年冬季号)。拙児童小説『すみれ色の帽子』を読んだ従姉の感想。

従姉から電話があった数日後、わたしはアマゾンのサービスで電子書籍にしたKindle版の児童小説をプリントアウトして送りました(以下の過去記事参照)。

2018年7月 5日 (木)
悪質な自費出版系ビジネスと、餌食になりかけた従姉の児童書に対する失望感
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/07/post-9c6e.html

PDF形式でプリントアウトしたら、分厚くなりました。なぜ、そんなものを送ったかというと、従姉が失望してしまった児童書がどんなものであったのか詳細は聞いていませんが、想像がつきました。そうしたものと同類の作品を書いていると思われたくなかったからです。

そんなわたしの作品には賛否両論寄せられます。自分では同類とは思っていないのですが、従姉は同類と思うかもしれませんでした。

同類だとしたら、世間的にはわたしはプロ作家並みの児童小説を書いているということになるでしょう。従姉が誉めてくれるとすれば、わたしは世には出られない自身の境遇を納得することになるのです。

昔からわたしの作品に関心を示してくれる唯一の人が、この従姉でした。従姉はわたし宛の葉書に次のように書いてきました。

‟すみれ色の帽子”一気に読みました。瞳ちゃんとK…ちゃん(※瞳は主人公。K…ちゃんは従姉の孫娘)がオーバーラップして、Nちゃん(※わたしのこと)、K…ちゃんのことしっているのかなと思う位! 文章が綺麗で、読んだ後、心の中が澄み切ったようでした。他の本も楽しみです。

作品が従姉に嫌われなくてよかった、とホッとしました。出版の件は後日報告とあったので、従姉の息子さんと知人の女性で制作された絵本は出版の運びとなるのかもしれません。良心的な出版社から出してほしいものです。

出版する場合、数社に見積もりを出して貰い、比較して決めることを電話では従姉にすすめました。文学仲間はそうしています。

自費出版は髙い買い物になるので、最低5年くらいは試行錯誤を重ねてよいものへと作品を高めていき、それから出版しても遅くないような気がしますが、思い立ったが吉日ともいいますから、外野からあれこれ干渉すべきことではないと考えます。

わたしもそろそろ紙の本を出したいけれど、一生出すことはないままに終わるでしょうね。幸い只で出せる電子書籍サービスがありますし、何より神秘主義者ですので、世に知られることがないままに終わったとしても、創作を通して、きよらかな、澄んだ思いを発散させることだけでも、意義のあることだと知っています。

神秘主義者としてもう一つわかっていることは、文学、つまり芸術は、宗教的修行と同じ求道の道だということです。

その道を歩きながら神秘主義的ないくらかの霊的能力はわたしに目覚めてきたものであって、それは決して霊媒的な低級能力、先祖返りの能力ではないと感じています。その道をしっかり歩いている限りにおいては、安全性の高い道であると確信します。

ただ、霊媒的な低級能力、いわゆる左手の道へと逸れてしまう危険性は宗教的修行の場合と同じく芸術活動にもあって――否、普通に生きているつもりの人々にもその危険性は人間である限りつき纏うものでしょうが――、その危険性をわたしが現実のものとして感じたのは賞狙いに没頭していたときでした。

それについては、統合失調症を患う天才型詩人を友人の目で描いた拙日記体小説『詩人の死』(Kindle版)に書きました。

 神秘主義ではよく知られていることだが、霊的に敏感になると、他の生きものの内面的な声(思い)をキャッチしてしまうことがある。人間や動物に限定されたものではない。時には、妖精、妖怪、眷族などという名で呼ばれてきたような、肉眼では見えない生きものの思いも。精神状態が澄明であれば、その発信元の正体が正しくわかるし、自我をコントロールする能力が備わっていれば、不必要なものは感じずに済む。
 普段は、自然にコントロールできているわたしでも、文学賞の応募作品のことで頭がいっぱいになっていたときに、恐ろしいというか、愚かしい体験をしたことがあった。賞に対する期待で狂わんばかりになったわたしは雑念でいっぱいになり、自分で自分の雑念をキャッチするようになってしまったのだった。
 普段であれば、自分の内面の声(思い)と、外部からやってくる声(思い)を混同することはない。例えば、わたしの作品を読んで何か感じてくれている人がいる場合、その思いが強ければ(あるいはわたしと波長が合いやすければ)、どれほど距離を隔てていようが、その声は映像に似た雰囲気を伴って瞬時にわたしの元に届く。わたしはハッとするが、参考程度に留めておく。ところが、雑念でいっぱいになると、わたしは雑念でできた繭に籠もったような状態になり、その繭が外部の声をキャッチするのを妨げる。それどころか、自身の内面の声を、外部からやってきた声と勘違いするようになるのだ。
 賞というものは、世に出る可能性への期待を高めてくれる魅力的な存在である。それだけに、心構えが甘ければ、それは擬似ギャンブルとなり、人を気違いに似た存在にしてしまう危険性を秘めていると思う。
 酔っぱらうことや恋愛も、同様の高度な雑念状態を作り出すという点で、いささか危険なシロモノだと思われる。恋愛は高尚な性質を伴うこともあるから、だめとはいえないものだろうけれど。アルコールは、大方の神秘主義文献では禁じられている。
 わたしは専門家ではないから、統合失調症について、詳しいことはわからない。が、神秘主義的観点から推測できることもある。
 賞への期待で狂わんばかりになったときのわたしと、妄想でいっぱいになり、現実と妄想の区別がつかなくなったときの詔子さんは、構造的に似ている。そんなときの彼女は妄想という繭に籠もっている状態にあり、外部からの働きかけが届かなくなっている。彼女は自らの妄想を通して全てを見る。そうなると、妄想は雪だるま式に膨れ上がって、混乱が混乱を呼び、悪循環を作り上げてしまうのだ。
*

*直塚万季『詩人の死』Kindle版、2013年、ASIN: B00C9F6KZI

ところで、わたしは今年還暦という年齢になりましたが、二十代で竜王文庫の書物を通してブラヴァツキーの近代神智学を知りました。

創作を通してハートの力を育み、不勉強な一会員ですけれど、竜王会、神智学協会ニッポンロッジから出ている機関誌や書物を読むことによって総合力、分析力を培おうと自分なりに努力を続けてきました。

そうした道の歩みの中で、いわば霊的な次元で何かを察知することは珍しくありませんが、江戸初期に生まれ、江戸中期にさしかかるころに黄檗宗の僧侶として亡くなった――祐徳院と生前から慕われ続けてきた――萬子媛のようなかたに巡り合うことができたのは、めったにない貴重な体験であると思っています。

萬子媛について知ろうとすることは日本の宗教史を深く覗き見ることでもありました。萬子媛は日本の宗教史に咲いた一輪の香り高い花であるとわたしは見ています。

萬子媛をモデルとした小説の第二稿に入りましたが、計画が思うように進まず、おのれの非力を感じざるをえません。それでも、時間はかかってもこれは自分がやり遂げるしかない仕事だと思い、今後、集中度を高めていきたいと考えています。

萬子媛が帰依した黄檗宗(禅宗の一派)は、日本に招請された明朝の禅僧、隠元隆琦によって開かれました。隠元は明朝の文化、文物を伝え、煎茶道の開祖ともされています。

古来、この例からもわかるように、わが国には中国から優れた文化、文物が伝えられてきました。しかし、現在の中国をメディアを通して見るとき、これはどうしたことだろうとわたしは絶望的な気持ちに囚われます。

でも、動画で法輪功の舞台を視聴したとき、中国本来の――といういいかたは語弊があるかもしれませんが――歴史が甦るような感動を覚えました。

2015年6月11日 (木)
失われたと思っていた中国五千年の芳香 ①弾圧される人々
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/06/post-c356.html

また、現代の中国人作家、余華の対談を「三田文學(第97巻 第132号 冬季号)」(関根謙編集、2018年2月)で読み、日本の純文学が衰退しているこのときに、中国に生まれて育った中国人作家、それでいながら中共色に染まっていない余華という人物が作家らしさを好ましく発散していることに驚きを覚えました。中国における文学状況がどのように推移したかもわかる、貴重な対談となっています。

恥ずかしながら、中共のいわゆる御用作家ではない余華のような中国の現代作家をわたしは知りませんでした。対談の中で印象的だった余華の言葉を引用します。

<ここから引用>
かつて日本の記者に、川端康成が私の一人目の先生だと言ったら、彼らは大いに驚きました。私の小説と川端康成のそれとの違いが大き過ぎると言うのです。確かにそうですよね。そのとき彼らに比喩の話をしました。一人の作家が別の作家に影響を与えるのは、日光が樹木に影響を与えるようなものです。樹木は日光の影響を受けて成長するとき、樹木のスタイルで成長します。日光のスタイルで成長するわけではありません。(306頁)
<ここまで引用>

図書館から余華のエッセー集と小説、そして台湾の現代作家である甘耀明の小説を借りました。読まなければならない本が沢山あるので、読む時間がとれるかどうかはわかりませんが、読んだら感想を書きたいと思っています。

ほんとうの中国の話をしよう
余 華 (著), 飯塚 容 (翻訳)
出版社: 河出書房新社 (2012/10/13)

中国では書けない中国の話
余華 (著), 飯塚容 (翻訳)
出版社: 河出書房新社 (2017/8/22)

活きる
余 華 (著, 原著), 飯塚 容 (翻訳)
出版社: 角川書店 (2002/03)

神秘列車 (エクス・リブリス)
甘耀明 (著), 白水 紀子 (翻訳)
出版社: 白水社 (2015/6/24)

鬼殺し(上) (エクス・リブリス)
甘耀明 (著), 白水 紀子 (翻訳)
出版社: 白水社 (2016/12/28)

鬼殺し(下) (エクス・リブリス)
甘耀明 (著), 白水 紀子 (翻訳)
出版社: 白水社 (2016/12/28)

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2018年7月 5日 (木)

悪質な自費出版系ビジネス (1)餌食になりかけた従姉の児童書に対する失望感

東京在住の従姉から、相談の電話がかかってきました。従姉といっても、年が離れていて、彼女はしっかり高齢の域です。

従姉の四十代の息子さん――わたしからすれば従甥――が絵心のある知人の女性と組んで、絵本を作り、それを新聞の広告で見た賞に応募したというのです。従姉の声は明るく、弾んでいました。

息子さんが趣味でイラストを描いているという話を聞いたことはありましたが、童話を書くと聞いたことはなかったので、ビギナーズラックだろうかと多才さに呆れる思いで、「わあ、すごいじゃない。入賞したのね」というと、「ううん、そういうわけではないんだけれど、それがねNちゃん……」と従姉が話し出したので、悪い予感がしたところ、案の定でした。

悪質な自費出版ビジネスのまさに餌食となる寸前のところで、運よく、彼女はわたしに電話をかけてきたのでした。

以前、2人――1人は大学時代の女友達、もう1人は別の大学時代の女友達の兄君――がわたしの周辺で、餌食になっていました。それを知ったのは、餌食になった後でした。

息子さんは絵本、女友達も絵本、兄君は美術評論です。

息子さんは、落選した作品の感想を聞きたいと思って、賞を開催した出版社に電話をかけたとか。

このことだけでも、一般的な賞ではありえない展開です。「応募要項、選考過程に関する問い合わせには応じない」と明記されているのが普通だからです。

従姉もその息子さんも、上品な人たちです。主催者側から何の働きかけもないのに、自分のほうから積極的に――あるいは厚かましく――電話して落選理由を聞くなど、ちょっと考えられません。

問題の出版社のオフィシャルサイトへ行き、賞の募集要項を見ると、前掲の記述があるではありませんか。

しかし、その次の箇所に、応募者には有料出版の提案をさせていただく場合があると明記されています。

もう一度従姉に尋ねなければ詳細はわかりませんが、落選通知に応募者側から電話をかけたくなるような何かが書かれていたのではないかと憶測したくなります。

息子さんは出版社へ出かけて行き(おそらく交通費は自費でしょうね)、2時間話したということです。

出版社側は息子さんの才能を称賛し、将来的な成功を匂わせたようです。

そして、出版社からの提案は1,000部の自費出版、それにかかる費用は出血大サービス(?)で170万円とのことです。

全く、人を馬鹿にした話ではありませんか。それほど見どころのある優れた作品であれば、なぜ受賞対象とならなかったのでしょうか。そんなお宝の持主の許へ、なぜ編集者は自ら馳せ参じないのでしょうか。

大金を奪われることになるかもしれない危ない話にうぶな一般人がつい釣られてしまいそうになるのは、結婚詐欺と似た手口で、よい気持ちにさせられるからでしょうし、またマルチ商法と似た手口で、投資的な利益を予想――実際には妄想――させられるからでしょう。

文学の世界で――一向に勝ち目のない――現実的な戦いを強いられてきたわたしたち作家の卵は、そんなうまい話が転がっているはずがないことを熟知しています。幸か不幸か、文学界の裏側まで、かなり見透せるだけの神通力を身につけるに至っています。

こんな詐欺まがいの商売がいつまでも、いつまでも通用するのは法的不備に原因があるのでしょうか、文学界の衰退にこそ、その原因を求めるべきでしょうか。

息子さんは障害者や引きこもりのいるクラスを受け持つ高校教師として、寝る時間をも削って18年間奮闘してきたとか。障害を持つ生徒さんを武蔵野美大、多摩美大に合格させ、そのときだけは報われた思いを味わったのだとか。

ところが、学校の考えかたが変わり、息子さんはその方針転換に疑問を覚え、心身の疲労が溜まって、遂に退職、入院してしまいました。

そして療養を経て再就職の準備をしているのだそうですが、その合間に可愛い姪のために童話を書いたのだそうです。おそらく、本当に純粋な気持ちで初創作したのでしょう。

従姉がいうには、その孫――息子さんにとっては姪、わたしにとっては従姪孫――のために書店に本を探しに行くのだけれど、そこに置かれている沢山の児童書に全く感心できないのだそうです。

「もう、本当になぜ、こんな……」と従姉はいいながら絶句するのです。従姉も絵心のある人ですから、書店が安っぽい挿絵のついた三文児童小説に溢れかえって見えたのでしょう。

「まだ、うちの息子の作品のほうがましに思えたのよ」と従姉。従姉が息子さんに応募を勧めたのかもしれません。

息子さんは出版など考えたこともなかったとのことですが、出版社の提案が高額な自費出版であったにも拘わらず、迷いが生じ、わたしに訊いてみてくれないかと従姉にいったのだとか。

出版対象が絵本ですから、よいものであれば、この金額でも高いとはいえないのかもしれません。問題は、息子さんが自分では出版を考えてもいなかったのに、その気にさせられたというこの一点に尽きます。

従姉と息子さんが出版とはこんなものかもしれないと勘違いしている証拠には、この時点では従姉の声には翳りがなく、澄んだ雰囲気を湛えていました。

「チャンスの神は前髪しかない」という諺があります。息子さんは、チャンスの神の前髪を掴むべきかどうかで、迷っていたと思われます。

「そこは悪名高い自費出版系出版社だから、そこから出すのはやめておいたほうがいいと思う。自費出版するとしたら、何社かに見積もりを出して貰って、比較したほうがいいわね」というと、従姉の雰囲気の翳るのが伝わってきました。

弱り目に祟り目というべき出来事ですが、わたしが知り得た問題の出版社の情報を伝えなければ、従姉も息子さんも、挿絵を描いてくれた女性も、現実的な被害を被る可能性があります。

「ネットで検索してみて。作品は、今は大事にとっておいたほうがいいんじゃないかな。再就職が決まって気持ちにゆとりができてから、出版のことは考えても遅いということはないと思うのよ」とわたし。

そういいながら、動悸がしてきました。わたしには心臓弁膜症、不整脈、冠攣縮性狭心症の持病がありますが、案外感情の起伏が不整脈や冠攣縮性狭心症の発作を招くことは少ないのです。

気温の差や疲労が最も影響します。ですが、このところ、暑くなって心臓のポンプ機能が低下気味なのか、足やおなかが腫れぼったく、尿が出にくいという症状があったところへ、大腸がんのステージ3で症状は安定しているという幼馴染みに電話して、相変わらずのホスピス志向と自分勝手な解釈――亡くなった母親が寂しがって呼んでいるという思い込み――を聞かされているときに、ふいに動悸がしてきました。

そのあと胸が苦しくなったのでニトロを舌下し、従姉たちのことを考えてまた動悸がしてきたので、従姉はまだ何か話したそうでしたが、時間がない風を装ってこちらから電話を切りました。

ここ数日でニトロペンの使用量が5錠。ちょっと使いすぎですね。でも、ニトロで心臓が元気になることは確かです。

電話を切る前に、息子さんの作品を読みたいとわたしは従姉におねだりしました。そして、わたしも自作の児童小説を送ることにしました。昔から、わたしを応援してくれる唯一の人がこの従姉なのです。

今日、PDF形式でプリントアウトしたのは、電子書籍にしている作品――すみれ色の帽子、田中さんちにやってきたペガサス、マドレーヌとわたし、ぬけ出した木馬、ぼくが病院で見た夢、卵の正体――です。分厚くなってしまい、レターパックには入りきりません。

『田中さんちにやってきたペガサス』は作曲家志望の父親とその息子を中心にした児童小説ですが、従姉の娘さん――息子さんの妹です――は国立[くにたち]音大(作曲)を出て、音楽教室に勤めています。もし、娘さんが読むと、音楽に無知な、お馬鹿なことを書いているかもしれません。

従姉に送る拙児童小説には、おすすめの児童書についての手紙も添えようと思います。

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2018年3月 7日 (水)

サブアバをリンドグレーンに変更

サブアバターをフランスの世界的文豪バルザックをイメージして編集していましたが、「子どもの本の女王」と呼ばれたという児童文学作家アストリッド・リンドグレーンをイメージして編集し直しました。

男性の服をなかなかゲットできないということが第一にありました。以前、誕生日の贈り物として娘から貰ったヤコブ・フォシェッル監修(石井 登志子訳) 『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』(岩波書店、2007)を見て、リンドクレーンはとてもお洒落な人だったということがわかりました。

2015年9月14日 (月)
『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』で紹介された「はるかな国の兄弟」と関係のあるエピソード
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/09/post-9f31.html

神経衰弱でアバターの服をゲットするのは難しいので、当面は我慢していただくしかありませんが……

改めてバルザックとリンドグレーンの写真をじっくり観察して思ったことは、ああ目と口元がやはり凡人とは違うなあということでした。

目はとても澄んでいて、強い光を宿しています。口はしっかりと結ばれていて、凛々しい。

いわゆる美男、美女ではないのでしょうが、どちらも作家にふさわしい美しい顔です。限られたパーツで表現するのはわたしには難しくて、まあほとんど似てませんけれどね。

中学数学の学習はチャート式の参考書にまで手を出すようになりました。問題集だけだと、もう綺麗に忘れている部分を埋めることができないのでした。へえー数学ってこんなだったんだ、と今になってわかりました。

中学・高校数学を終えて、その上まで行くには時間がかかりそうだけれど、児童小説書いても、中学生が数学を勉強する場面がリアルに描けそうですよ。

勿論、数学の学習を始めた動機は忘れていません、求人情報には毎日目を通しています。一方では、萬子媛の小説が課題として残っており、今年中にこれを何とかしたいと思っています。

とりあえずは専門家にどうしてもお尋ねしたいことが出てきたのですが、どうお尋ねすればいいのか、どなたにお尋ねすべきか、考えているところです。

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2017年12月27日 (水)

ホラーさながらの文学コンクール

ある絵本コンクールの応募要項を怖いと思うのは、わたしだけだろうか?

「応募者は著作人格権を行使しないことを前提とします」だなんて。

一身専属の権利であり、譲渡できない権利であるために、「著作者人格権は行使しない」旨の条項を設けておくことが他の分野などでも流行っているようで、これだけでも充分に怖いのに、ホラーさながらなのはその対象が受賞者ではなく、応募者となっているところだ。

足を踏み入れたが最後、数名の受賞者以外は娑婆に戻ってこられる者(作品)はいない。あらかじめ人権(著作人格権)は剥ぎ取られているのだから、戻ってこられない者(作品)がそこで人間(作品)らしい扱いを受けられる望みはない。

純文学系新人賞の募集要項に「他の新人賞に応募したものは対象外とする」とあるのも立派なホラーだ。

「他の新人賞を受賞したものは」ということではない。

一度でもどこかにチャレンジして落ちたら、もうその作品はどこにも出せないのだから、裏では既に決まっていることも多い新人賞のどこかに出したが最後ということだ。

奴隷売買人に似た非情さを持ち、簡単に我が子を捨てる親に似た無責任さを持ち合わせなければ、現代日本ではもはや作家を志すことはできなくなったということである。

そうやって勤しむ行為は、芸術に属する文学活動などとは到底いえず、穴を掘っては埋める作業に等しい苦役にすぎない。

こうした規定に、純粋に文学を愛し精進している作家の卵潰し以外のどんな目的があるのか、わたしにはさっぱりわからない。

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2017年10月12日 (木)

メーテルリンク『青い鳥』の罪な象徴性について

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、ノーベル文学賞作家モーリス・メーテルリンクについて書いた。

ブラヴァツキーの神智学を批判したメーテルリンクの文章を考察することで、メーテルリンクの思想の一端が明らかとなったように思う。

わたしが前掲エッセーで採り上げたのは復刻版『マーテルリンク全集――第二巻』(鷲尾浩訳、本の友社、1989)の中の「死後の生活」で、1913年にこの作品が刊行された翌年の1914年、メーテルリンクの全著作がカトリック禁書目録に指定された(禁書目録は1966年に廃止されている)。

「死後の生活」を読んだ限りでは、メーテルリンクが神智学的思考法や哲学体系に精通していたようにはとても思えなかった。

上手く理解できないまま、恣意的に拾い読みして自己流の解釈や意味づけを行ったにすぎないような印象を受けた。一方、SPR(心霊現象研究協会)の説には共鳴していた節が窺えた。

『青い鳥』は、1908年に発表されたメーテルリンクの戯曲である。メーテルリンクは1911年にノーベル文学賞を受賞した。

わたしは子供向けに書き直されたものしか読んだことがなかったので、改めてメーテルリンク(堀口大學訳)『青い鳥』(新潮社、1960年初版、2006年改版)を読んだ。

『青い鳥』は、貧しい木こりの家に生まれた兄チルチルと妹ミチルが、妖女ベリリウンヌに頼まれた青い鳥を、お供を連れて探す旅に出るという夢物語である。

妖女の娘が病気で、その娘のために青い鳥が必要なのだという。

兄妹は、思い出の国、夜の御殿、森、墓地、幸福の花園、未来の王国を訪れる。見つけた青い鳥はどれも、すぐに死んでしまったり、変色したりする。

一年もの長旅のあと、兄妹が家に戻ったところで、二人は目覚める。

妖女にそっくりなお隣のおばあさんベルランゴーが、病気の娘がほしがるチルチルの鳥を求めてやってくる。

あの鳥いらないんでしょう。もう見向きもしないじゃないの。ところがあのお子さんはずっと前からあれをしきりに欲しがっていらっしゃるんだよ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)と母親にいわれてチルチルが鳥籠を見ると、キジバトは青くなりかけていて(まだ完全には青くない)、青い鳥はここにいたんだなと思う。

チルチルには、家の中も森も以前とは違って綺麗に見える。そこへ元気になった娘が青い鳥を抱いてやってきて、チルチルと二人で餌をやろうとまごまごしているうちに、青い鳥は逃げてしまった……

ファンタスティックな趣向を凝らしてあるが、作品に描かれた世界は、神秘主義的な世界観とはほとんど接点がない。

登場する妖精たちは作者独自の描きかたである。

これまで人間から被害を被ってきた木と動物たちが登場し、兄妹の飼いネコは人間の横暴に立ち向かう革命家として描かれている。ネコは狡い性格の持ち主である。

それに対立する立場として飼いイヌが描かれており、「おれは神に対して、一番すぐれた、一番偉大なものに対して忠誠を誓うんだ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)という。イヌにはいくらか間の抜けたところがある。

木と動物たちがチルチル・ミチル兄妹の殺害を企む場面は、子供向けに上演されることも珍しくない作品にしては異様なまでに長く、具体的で、生々しい。

木と動物たちの話し合いには、革命の計画というよりは、単なる集団リンチの企みといったほうがよいような陰湿な雰囲気がある。

チルチルはナイフを振り回しながら妹をかばう。そして、頭と手を負傷し、イヌは前足と歯を2本折られる。

新約聖書に出てくる人物で、裏切り者を象徴する言葉となっているユダという言葉が、ネコ革命派(「ひきょうもの。間抜け、裏切り者。謀叛人。あほう。ユダ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)からも、イヌ(「この裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.114)とチルチル(「裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.123)の口からも発せられる。

危ないところで光が登場し、帽子のダイヤモンドを回すようにとチルチルを促がす。チルチルがそうすると、森は元の静寂に返る。

人間は、この世ではたったひとりで万物に立ち向かってるんだということが、よくわかったでしょう」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.127)という光の言葉は、如何にも西洋的な感じがする。

『青い鳥』の世界をキリスト教的世界と仮定すると、『青い鳥』の世界を出現させた妖女ベリリウンヌは神、妖女から次のような任務を与えられる光は定めし天使かイエス・キリスト、あるいは法王といったところだろうか。

さあ、出かける時刻だよ。「光」を引率者に決めたからね。みんなわたしだと思って「光」のいうことをきかなければならないよ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.53)

ただ、『青い鳥』の世界は第一にチルチルとミチルが見た夢の世界として描かれているということもあって、そこまで厳密な象徴性や構成を持ってはいない。

そこには作者が意図した部分と、作者の哲学による世界観の混乱とが混じっているようにわたしには思われた。その混乱については、前掲のエッセー 63 で触れた。

結末にも希望がない。

自分の家に生まれてくることになる未来の弟に、チルチルとミチルは「未来の王国」で会う。その子は「猩紅熱と百日咳とはしか」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.196)という三つもの病気を持ってくることになっている。そして死んでしまうのだという。

既に両親は、男の子3人と女の子4人を亡くしている。母親はチルチルとミチルの夢の話に異常なものを感じ、それが子供たちの死の前兆ではないかと怯える場面がこのあと出てくるというのに、またしてもだ。

新たに生まれてくる男の子は、病気のみを手土産に生まれてきて死ぬ運命にあるのだ。

このことから推測すると、最後のチルチルの台詞「どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ほくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.236)は意味深長だ。

今は必要のない青い鳥だが、やがて生まれてくる弟の病気を治すためにそれを必要とするようになるかもしれないという暗示ではないだろうか。

結局、青い鳥が何を象徴しているのかがわたしには不明であるし、それほどの象徴性が籠められているようには思えない青い鳥に執着し依存するチルチルの精神状態が心配になる。

ちなみに、青い鳥を必要とした、お隣のおばあさんの娘の病気は、神経のやまいであった。

医者は神経のやまいだっていうんですが、それにしても、わたしはあの子の病気がどうしたらなおるかよく知っているんですよ。けさもまたあれを欲しがりましてねえ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)

娘の病気はそれで治るのだから、鳥と接する気分転換によって神経の病が治ったともとれるし、青い鳥が一種の万能薬であったようにもとれる。

訳者である堀口大學氏は「万人のあこがれる幸福は、遠いところにさがしても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです」とお書きになっている。一般的に、そのような解釈がなされてきたように思う。

しかし、観客に呼びかけるチルチルの最後の台詞からすると、その日常生活の中にある幸福が如何に不安定なものであるかが印象づけられるし、森の中には人間を憎悪している木と動物たちがいることをチルチルは知っている。家の中にさえ、彼らに通じるネコがいるのだ。

そもそも、もし青い鳥が日常生活の中にある幸福を象徴する存在であるのなら、その幸福に気づいたチルチルの元を青い鳥が去るのは理屈からいえばおかしい。

いずれにせよ、わたしは青い鳥に、何か崇高にして神聖な象徴性があるかの如くに深読みすることはできなかった。戯曲は部分的に粗かったり、妙に細かかったりで、読者に深読みの自由が与えられているようには読めなかったのだ。

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2016年8月24日 (水)

神智学的なメーテルリンクと瀬戸内寂聴『般若心経』の解説動画に関する、ちょっとしたメモ(追記あり)

萬子媛の小説の手直しの合間に読もうと思って、神智学的な作品を書いたメーテルリンクの『限りなく幸福へ』『蜜蜂の生活』『花の知恵』を図書館から借りています。

メーテルリンクについては改めて書きたいと考えています。蜜蜂は好きな昆虫なので、何冊か本を読みましたが、『蜜蜂の生活』は凄く面白い。蜜蜂の結婚については詳しくなかったのです。蜜蜂の結婚は恐ろしくもあります。

『限りなく幸福へ』では長々とバルザックの作品『ピエレット』について書かれています。『花の知恵』には思わず抜き書きしたくなる文章があちこちにあります。『青い鳥』しか知らなかったので、驚きです。

今回は借りてきませんでしたが、モーリス・メーテルリンク (山崎剛訳)『死後の存続 』(めるくまーる、2004)はぜひ読みたいと考えています。カトリック教禁書目録に入れられた問題作です。目次は以下。

死に対する不当な扱い
存在の消滅
死後の意識の存続
神智学の仮説
新しい交霊術の仮説・霊たちの出現
死者との対話
クロス交信
再生
意識のたどる道
二つの顔を持つ無限
無限における人間の運命

神智学の影響を受けた作家たちをざっと調べてきましたが、いずれ一冊のKindle本にできればと思っています。当分はリサーチが続きそうですけれど。

萬子媛の小説を手直しする過程で、般若経典が浮かびあがってきました。

で、『般若心経』を覚えるつもりで、覚えるのによそさうな動画を求めてYouTubeに行くと、瀬戸内寂聴の解説動画が出てきました。

過去記事で、 「イエスの教えがユダヤ教の聖書と切り離すことができないように、ゴータマ・ブッダの教えもヒンドゥー教がベースにあるはずで、そこから読み解かなければ、読み誤るのではないかという気がします」と書いたのは、実は瀬戸内寂聴の解説に違和感を覚えたからでした。これについては、次の萬子媛ノートで。

瀬戸内寂聴が文学界に強大な影響力を及ぼしていなければ、解説動画を視聴することもなかったでしょう。以下の過去記事は6年以上前に情報量の少ない中で書いたものですが、瀬戸内寂聴の文学界に及ぼす影響について書いたものです。

上記記事と以下の記事には重なる部分があります。

追記:
メーテルリンクの著作を何冊か読んだ感想としては、彼は神秘主義者というよりは形而上学的であると思いました。近代神智学には批判的であり、SPR(心霊現象研究協会)の見解に依拠するエッセーを書いています。SPRは神智学協会の自由な雰囲気から生まれた協会でしたが、神智学協会にとっては鬼子といってよい側面があります。

ライン以下の続きに、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で公開中のエッセー「心霊主義に傾斜したメーテルリンクの神智学批判と、風評の原因」を転載しておきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

続きを読む "神智学的なメーテルリンクと瀬戸内寂聴『般若心経』の解説動画に関する、ちょっとしたメモ(追記あり)"

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