カテゴリー「神秘主義」の247件の記事

2017年7月18日 (火)

息子の土産話。温まった旧交を冷やす、女友達との価値観の違い。

昨夜、フランス語圏の国に2週間出張していた息子から電話があり、長電話になった。興味深い話をいろいろと聞くことができた。

古い洋館が研修施設になっていたそうだが、近くに森があり、その森は日本の森や林といったイメージからは遠く、そう大きな森ではないのに、とても暗くて、ヨーロッパの昔話によく出てくる魔女でも出てきそうな感じだったとか。

魔女裁判があっていたころ、異端視された人々が森の中で秘密の集会を開く場面を本で読んだことがあったが、隠れるにはぴったりといった雰囲気だそう。

尤も、息子は森に入ったわけではなく、近くを通ったときに見た程度だったようだ。

小さな国の割には放牧地が広大で、牛の群れが無造作に点在していたとか。

森の近くの研修施設も、そこからは離れた研究団地のようなところにあるオフィスも国際色豊か、人々は友好的。

ただその国の礼儀作法で、親しい男女間、女性同士が頬を触れ合う挨拶があり(男性同志ではしない)、女性と頬をくっつけ合う挨拶では固まってしまい、それを察知した相手は次の日から握手に代えてくれたとか。

オフィスには世界中飛び回っているアフリカ出身のキャリアウーマンがいて、その人は大の日本贔屓だそうで、それは青年海外協力隊に親切にして貰ったからだという。

オフィスのある街の住人もとても親切で、フランス語しか通じないレストランで戸惑っていると、隣で食事していたお客さんが通訳を買って出てくれたそうだ。

研修の間もオフィスでも昼食はフランスパンにハム、チーズ、野菜などを挟んだサンドウィッチ。ハーブがきつくて、息子はそれが苦手だったそう。

息子がチョコレートを送ってくれるそうで、娘と楽しみにしている。

暗い森の話のところで、つい魔女裁判を連想してしまったのは、わたしが児童小説に魔女裁判にかけられる女性を登場させたいと思い、いろいろと調べてきたからだった。

そして、ヨーロッパの昔話に見られるような魔女の起源はキリスト教会に異端視されたカタリ派に求められるらしいこと、またカタリ派ではイエスとマグダラのマリアが結婚していたと教えていたらしいことを知った。

『異端カタリ派と転生』(原田武、人文書院、1991)によると、カタリ派は都市部における富裕層の知識人たちによって担われ、栄えたが、弾圧されるにつれて農村部に移り、次第に迷信化、妖術化していった。つまり、どんどん俗化を強めていき、遂には絶えたということである。

イエスとマグダラのマリアの結婚については、拙神秘主義ブログの以下の記事を参照されたい。

これも過去記事で書いたことだが、上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社〈講談社学術文庫〉、1998年)によると、魔女裁判が異端審問の延長上に生まれたことは確かであるようだ。

フランスのように教皇庁指揮下の裁判は異端審問、世俗裁判所では魔女裁判――という風に担当が明確であった所もあれば、ドイツのように教皇庁の力が弱くて双方が入り乱れていた所もあって、地域により時代によりまちまちだったようである。

異端者という語を生み、異端審問の開始のきっかけとなったのは、カタリ派だった。カタリ派は、それだけキリスト教会を脅かす存在だったのだ。

現代であれば精神病者に分類されるような人々が訴えられたり、逆に訴えたりするケースは多かったようだ。

一貫して魔女裁判の抑止力となったのは、神秘主義者たちだった。

前掲書『魔女とキリスト教』によると、魔女裁判の衰退に最も影響を与えたのは、ヴァイアーの医学的アプローチ、魔女懐疑論だった。

ヴァイアーはパラケルスス、アグリッパの思想系譜に属する神秘主義者で、彼の師アグリッパは魔女迫害推進派から邪悪な魔術の象徴として攻撃された。

アグリッパは異端視されながら『女性の高貴』など女性賛美の文章を書き(男性優位の社会背景があった。ちなみにカタリ派は男女平等論者だったという)、パリに秘密結社をつくり、メッツ市の法律顧問となって、魔女の嫌疑のかかった老婆の救援に立った。

勿論彼自身も魔女裁判の犠牲となる危険と隣り合わせだったが、個人的に教皇から好意をもたれていたことが幸いしたという。

ヴァイアーは、メランコリーという医学概念を魔女の判定に持ち込んで、魔女は責任能力を有しないことを立証しようとした。

こうした精神病理学の発達で、魔女裁判をリードしてきたフランスの法曹界がその影響を受けるようになったことから、魔女は火炙りにされるよりは拘禁され始め、山火事のようにヨーロッパに拡がった魔女現象は次第に鎮静化したという。

旧交を温めた友人のご主人が統合失調症と診断され、大変なようだ。別の医者は別の診断を下しているという。薬漬け、アル中気味だったのが、療養所に入所したことで、少なくともアルコールとの縁は断っているそうだ。

律儀に夫を支え続けている彼女は立派だ。

が、残念ながら、彼女と前述したような話はできない。

戦後の日本が、共産主義者が大勢入り込んだ進駐軍による愚民政策によって唯物主義、現世主義に大きく傾いたように、彼女の物の考えかたにはその影響が色濃く、それが現代日本における主流なのだから、目下わたしに勝ち目はない。

物心ついたときから神秘主義者であったわたしなどは、非科学的な時代錯誤の人間と映って当然だ。これをいってはまずいのかもしれないが、わたしにはむしろ彼女のような人々のほうが古めかしい人々に映る。

高校時代に親しかった彼女に、当時のわたしは自身のほのかな前世やあの世の記憶について、話したことはなかった。話せない雰囲気を感じていたからだろうが、かくも価値観の異なる青春時代における友人関係というものが、互いにとって有意義であったかどうかは微妙なところだろう。

ただ、何にせよ、神秘主義は科学に反する立場をとっているわけではない。オーラが肉体を包んでいるように、神秘主義は科学そのものを包含し、包含する観点から正誤を考察しようとするものなのだ。

近代神智学運動の母H・P・ブラヴァツキーの著書はそのようなもので、その著書には古代から当時知られた科学者に至るまで、多くの科学者、哲学者の説が沢山出てくる。

わたしは友人ににこうした考えを押し付けようとは思わない。彼女が思った以上に現世主義者で、価値観があまりにも異なることがわかったため、高校時代にそうであったように、今後こうした方面の話はしないだろう。

彼女も、彼女のご主人も一定の落ち着きを得たようだし、頼りになる妹さんもいるようだから、元のように距離を保つほうがいいかもしれない。

もっとも、神秘主義の研究を標榜しながら出鱈目な論文を書く学者や、スピリチュアルという名の下に誤った知識を商売道具にしている者など怪しげな人々が沢山いて、神秘主義が誤解されるのも無理はない。

それでも、精神病理学を発達させたのがヴァイアーのような神秘主義者であったことから考えると、神秘主義を排除して唯物的なアプローチを続けたところで、精神医学が停滞を続けるばかりであることは想像できる。

ユングのような神秘主義に関心を持った心理学者も出たが、そのアプローチの仕方はあまりに恣意的なのではないだろうか。

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2017年7月 8日 (土)

大雨から考えさせられた、古代文明社会における魔術とイアンブリコス

凄まじいばかりの大雨には驚かされるばかりで、古代文明社会で魔術の研究が盛んだったのも心情的にわかるような気がした。

古代文明社会では、人智を超えた力を招聘してでも何とかしたいという思いに至るほど、天災による悲劇が数多く発生したに違いない。

近代神智学運動の母P・H・ブラヴァツキーは、半分邦訳版が出ている Isis unveiled ――H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010)、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 下』(竜王文庫、2015)――の中で、古代文明社会で行われた魔術がどのようなものであったかを、歴史的な変遷に沿って理論面から丹念に考察している。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版)の用語解説「魔術」には次のように書かれている。

(……)魔術とは現世を越えた天上的な力と交流してこれを意のままに動かし、またより低級な領域の諸力を自在に使用するという科学である。それは隠れた自然の神秘の実際的知識で、ごくわずかな人にしか知られていない。魔術は非常に得がたい知識であり獲得しようとする人はほとんど法則に違反し罪を犯して失敗してしまうからである。古代と中世の神秘家達は魔術を、テウルギー(神々との交流)とゴスティアと自然の魔術の三つのクラスに分類した。(……) (ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説p.59)

テウルギー(神働術)について多くを書き残し、それを実践したのは、3世紀の新プラトン派に属する神智学者で、イニトエートであったとされるイアンブリコスだった。

彼は「たいへんな苦行をし、清浄で真剣な生活を送った。(……)地面から約5メートルの高さまで空中浮遊したと言われている。」(ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説p.17)

神智学の創始者アンモニオス・サッカスの直弟子達プロティノスとポルフィリオスはテウルギーは危険であるとして、懸念を抱いたらしい。

イアンブリコスの一派は、プロティノスやポルフィリオスの一派とは違っていた。このふたりの高名な人物は、典礼魔術も神働術も堅く信じてはいたが,危険であるとして強く反対した。 (H・P・ブラヴァツキー、ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』竜王文庫、2010、ベールの前でp.lvi)

イアンブリコスはピタゴラスについて最も多くを書き残している。ピタゴラス派の日々の生活がどのようであったかがイアンブリコス(水地宗明訳)『ピタゴラス的生き方(西洋古典叢書 2011 第3回配本)』(京都大学学術出版会、2011)を読むと、細かにわかる。

共同食事を解散する前に最年長者が神に献酒した後で唱える戒告が印象的なので、引用しておこう。ちなみに共同食事の献立はワイン、大麦パン、小麦パン、おかずは煮たのと生のままの野菜。神々に供えられた動物の肉も[時には]添えられた。

栽培され果実を産する植物を傷つけるなかれ、あやめるなかれ。同じく、人類に有害でない動物を傷つけるなかれ、あやめるなかれ。なおまた、神とダイモーンとへーロースのたぐいについては言葉を慎み、よい心情を抱け。また両親と恩人についても同様の心情を持て。法に味方せよ。違法と戦え。 (イアンブリコス,水地訳,2011,p.108)

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2017年6月29日 (木)

二つ目の追記を、神秘主義エッセーブログの記事「0 当ブログについて」にアップしました

二つ目の追記を、神秘主義エッセーブログの記事「0 当ブログについて」にアップしました

マダムNの神秘主義的エッセー
http://mysterious-essays.hatenablog.jp

以下の文章を加筆しました。

2017年6月29日における追記


神智学がいうように、人間が七つの本質からなり、オーラの卵と呼ばれる色彩を帯びた卵形の光の中に生きている存在だとすれば、わたしが時々見るオーラと呼ばれる色彩を帯びた放射物を、今はまだ見ることができない人々もいずれは全員が見るようになるはずだと思うのです。

そのオーラが見え始めたのは大学生のころからで、それが比類なく美しいために、物書きの本能として、わたしは描写せずにはいられませんでした。他の神秘主義的な体験についても、自己肥大や商売っ毛からそうしてきたわけではありません。

自分の体験を特別視していないからこそ、描写し、記録し、神智学などの神秘主義関係の書籍と照らし合わせて研究したくなるのです。

自己肥大や商売っ気からなる著作は、記録や試行錯誤の研究というには自信満々で、その内容はわたしには何か遠いものに映ります。

海外には行ったことがないから、他の国ではどうなのかは知りませんが、今の日本社会では、わたしのような人間は「オーラが見えてすみません」くらいの低姿勢でいないと、一般の人々からは精神病患者あるいは詐欺師と疑われかねず、神秘主義と関わっているのに神秘主義的感性には欠けているインテリ――彼らが神秘主義について何かいうと、絵に描いた餅のように響きます――からは霊媒に分類されかねません。

一般の人々や頭でっかちのインテリは、神秘主義の本格的な勉強に入るより、芸術に触れて情操を高めるほうが先かもしれません。情操の発達こそが、健全な感受性を、つまり透視力や透聴力を育むはずだからです。

一足飛びに大師になれるわけではないといわれるのが真実なら、大師になるずっと前に、誰しもいずれはわたしと同じ段階に至るでしょう。

そのとき、神秘主義的体験の記録をとろうと思ったわたしの動機を人々はようやく理解し、聖典や大師方の手の加わった大著作と霊媒の著作との間に、このような成長記録――つまり当ブログに収録していくエッセー――のようなものがあってまあ助かる、と思ってくれるのではないでしょうか。

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2017年6月13日 (火)

萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺(法泉寺)に電話取材しました

8日、祐徳稲荷神社に参詣し、翌日、以下の記事を書きました。

動揺したことがあったために、すぐにはまとまった文章が書けなかったのですが、気持ちの整理もついたので、まとめにかかろうとしました。

が、まだわからないことがあり、電話で取材するのは失礼かもしれないと思いつつ、決行。萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺・法泉寺に電話取材しました。

その結果、さらなる驚き、という以上の衝撃に見舞われました。今回の一連の取材を通して、廃仏毀釈の爪痕をまざまざと見たように感じたのでした。

黄檗宗で断食入定が行われていたのかどうかが知りたいと思い、いっそ大本山にお尋ねしてみようと思い、電話したのでした。ご回答いただいたのは、宝物館の和尚様でした。

電話するまでは、密教の影響で、萬子媛が断食入定を実行されたのではないかと考えていたのです。尤も、黄檗宗は密教の影響も受けているようですけれど、萬子媛の断食入定は特異な例ではないかと憶測していました。

黄檗宗でも行われていたようです。いつごろまで何人断食入定をしたのか(現代では法律上不可能です)、記録が残っているのかどうかを知りたかったのですが、はっきりと記録されているわけではないのかもしれません。何度か同じ質問をしたのですが、はぐらかされてしまいました。

黄檗宗は中国の明朝の仏教が日本に伝えられたものです。その明朝で、また日本でも行われていた過酷な修行法を伺いました。

例えば、手に包帯をぐるぐる巻きにしてそれに油をさし、火をつけ、それを燈明代わりに、お経を読むのだそうです。

ひ、とわたしは心の中で悲鳴を上げ、「火傷では済まない場合もあるのではありませんか?」というと、「そういえば、どこそこに指を燈明代わりにした坊さんがおったな……」と事もなげに萬福寺の和尚様。いつの時代のお話なのでしょうか、恐ろしくて聞けませんでした。

明朝では(日本でも?)、自らの血で仏画を描いたり、写経をしたりということも流行ったとか。

そして、断食入定はそうした過酷な修行法の一つと位置づけられていたようです。

穀類を断ち、水だけを飲んで、骨皮筋衛門になる――と和尚様はおっしゃいました――修行を木食[もくじき]入道というそうです。

そして山の斜面みたいなところに入って、「つまり生き埋めになるわけですわ。息だけはできるようにしてな」と和尚様。

「水は飲めるのでしょうか? 生き埋めになったあと」とわたし。飲めるそうです。毎日お経を読み、水を飲んで、入寂のときまで……。

と、ここまで萬福寺の和尚様から伺ったことをメモしました。

まだまとめる段階にはないので(写真を挿入しながらきちんとまとめたいと思っています)、忘れないうちに、とりあえずメモしておきます。

鹿島の祐徳稲荷神社に舞台を戻すと、博物館のかたに教わって見学した岩本社には、萬子媛に仕えた尼さんがお祀りしてあるというお話でした。技芸の神様だそうです。

ところで、わたしは過去記事で次のようなことを書きました。

2016年8月18日 (木)
歴史短編1のために #27 萬子媛遺愛の品々 ②入定について。印象的な御袈裟。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/08/27-1e00.html

萬子媛があの世でボランティア集団を組織なさっているとわたしが想像するのは、参拝するたびに、萬子媛を囲むように一緒にいるあの世の大勢の方々を感じるからだ。
その大勢の方々というのは、萬子媛が禅院を主宰なさっていたときにそこに所属していた尼僧たちを中心とする方々ではないだろうか。
わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛にはどこか深窓の麗人のような趣があり、無垢で高雅で率直な高級霊の雰囲気が伝わってくる。
それに対して、萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性達の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性たちは生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧たちではないかとどうしても思えてくるのだ。
萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来たときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ。
何にしても、萬子媛の一番近くにいる女性は身辺の護衛でも司っていそうな、シャープな雰囲気のある女性なのだ。わたしの内的鏡にほのかに映った気がする程度のものなのだが、萬子媛の圧倒的な雰囲気とはまた別種の矜持と気品とがまぎれもなく感じられて、興味深い。

過去記事で出てくる萬子媛の近くに控える矜持を感じさせる女性的な存在が、岩本社に祀られている尼僧ではないかと想像したくなります。

時代も下って、鍋島藩の家臣の家に育ったと聞く母方の祖母ですら、鹿島にお嫁に来るとき――有名な軍人さんが仲人だったというから、それくらいの時代――には、3人の側に仕えていた人々と一緒にお嫁に来たと従姉がいっていたことから考えれば、萬子媛には当然そうした方々がいらっしゃって、一緒に京都から鹿島に下られたことは確かでしょう。

その尼僧が技芸の神様として祀られているということは、生前、その方面の指導で優れていたからではないでしょうか。こうしたことからも、京都から萬子媛と一緒に下ってきた人ではないかと思えます。

37歳で京都の花山院から肥前鹿島にお嫁に来られた萬子媛。萬子媛は1625年生まれですから、このとき1662年(寛文2年)。今は2017年。2017年−1662年=355年。

何と、355年も萬子媛に仕えていらっしゃるというわけです。

355年後つまり出家後も、さらには死んでからも、同じように萬子媛に仕えているのだとすれば、それは萬子媛が黄檗禅の、また霊的な分野における師匠あるいはリーダーとして理想的な存在であり続けているからでしょう。

この世でグループを形成した人々は、あの世でも同じグループに属することがあるようです。その逆もいえるでしょう。

尼僧に神格が与えられ、技芸の神様とされていることから考えると、神社での祭事を連想させられます。明治の廃仏毀釈までは、仏事と神事がどちらも怠りなく行われていたということではないでしょうか。

岩本社を見学した後、普明寺を見学しました。案内図も撮ってきたので、まとめには挿入します。

普明寺は鍋島直朝公の長男である断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳明幢禅師が開山となり創建されたお寺です。

寺域全体を竜に見立てて建物や施設が配置されているとか。相当に奥行きのある敷地には草木が生い茂っていて、竹林などもあり、石仏が沢山あって、建物も立派でした。

ただ全体が自然に抱かれすぎているというか、率直にいえば、苔むして荒れていました。鹿島市は田舎ですが、祐徳稲荷神社のすぐ近くにあれほどの自然が手つかずで存在しているとは想像もしませんでした。

普明寺も、同じ敷地内の手前のほうにある普明寺の子院である法泉寺も、廃寺のように見えました。

でも、電話で萬福寺の和尚様はおっしゃいました。「普明寺に、去年の夏にお経をあげに行ったがよ」

(あの物凄いところへ?)と、失礼ながら思ってしまいました。江戸時代にはさぞ威容を誇ったであろう普明寺の背後が墓地になっているようですが、藪蚊が凄くて、そこへは行きませんでした。

でも、あそこにいた間、もう日が落ちかけて、爽やかな風が強く吹いていたので、すばらしい散策ともなりました。風が静まると、藪蚊がとまりに来るので、とまっているところを何匹か退治したり退治し損なったりしました。

それなのに、車に戻って体を調べてみると、一箇所も蚊に刺されていませんでした。夫も娘もそうでした。この時期の藪蚊は血を吸わないのでしょうか。

もしかしたら、萬子媛のお墓が神社の石壁社とは別に普明寺にあるのかもしれないと思いつつ、帰途についたのでした。

萬福寺の和尚様は、わたしが調査しているようなことに詳しいかたを何人か教えてくださいました。そのうちのお一人のご著書は読んだことがありました。

しかし、「総合的に知っている人はいない。佐賀も殿さんが沢山、黄檗の寺院を作った。祐徳稲荷もそうじゃが」と和尚様。

「普明寺は、相当に苔むしているように見えました。綺麗になれば、一般人も行きやすくなると思いますけれど」と磊落な和尚様の雰囲気に甘えて、ついいってしまうと、「あんたが、あんたが人のため、世のため。自分がやるか、やらないかをいうことに価値がある」と和尚様。

「わたしは黄檗宗の僧侶として断食入定を遂げられた祐徳院様に魅せられ、黄檗宗について知りたいと思いました。いろいろと教えていただいて、ありがとうございました」といいました。

法泉寺に電話したのは、田中保善『鹿島市史 真実の記録』(田中保善、1990)に、次のような記述があったからでした。

祐徳院と稲荷社は世間の信仰を集め、御霊験あらたかで有名になり参詣人も多く興盛になったが、明治を迎えて神仏混淆のお寺は明治政府の『神仏判然令』により神仏を分離して廃仏毀釈が実施されるようになった。ここでは仏像や仏具一切を普明寺に移して神社のみとした。普明寺では仏像仏具類は完備しており、普明寺の末寺の法泉寺に祐徳院の寺の物を全部移して現在大切に保管している。(田中,1990,pp.151-152)

祐徳博物館の職員は「祐徳院にあった物は普明寺に移されたということのようですよ」とおっしゃいました。前述したように普明寺も法泉寺も同じ敷地内にあり、法泉寺は普明寺の子院なのです。

しかし、法泉寺に電話でお尋ねしたところでは、禅寺だった祐徳院の物は何一つないというお話でした。萬子媛のお墓もないそうです。

「ここは藩主の菩提寺で、藩主と正室のかたしかお墓はありません。祐徳院様は後室なので、ここにはないのです」とのことでした。以下のオンライン論文にも、そのようなことが書かれています。

高橋研一(鹿島市民図書館 学芸員)「鍋島直彬の先祖史蹟顕彰事業 ~先祖の史蹟を訪ねた直彬」<http://kcc.lolipop.jp/_src/sc1250/82d382e982b382c692t96k8du8989985e81i8dc58fi81j.pdf>(2017/6/13アクセス)

他の大名家のお墓をきちんと調べていかなければなりませんが、夫婦が対になった墓所の配置は鍋島家の特徴的な墓の作り方といえるかもしれません」とも書かれています。

同じ正室であっても、先に嫁いだ正室だけが藩主と同じ墓地に眠る権利があったということのようですね。

そして、前掲論文の次のような記述に胸を打たれました。

普明寺の場合、菩提寺だったので非常に多くの子院が建てられています。当時の景観で言うと、ここから祐徳稲荷神社まで山伝いに子院がつながっていました。祐徳稲荷神社の前身も元々は祐徳院といって、普明寺の子院でした。

どんなに壮観だったことでしょう!

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2017年6月 8日 (木)

今東光『毒舌日本史』(文藝春秋、1996)から薫る神智学的教養

神智学と縁の深かった父親を持ち、自身も神智学書籍の翻訳などした今東光について、当ブログの過去記事をもとに書いた記事を拙「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップした。

ウェブサイトで閲覧した記事には今東光の著作からの引用も多く、参考になったが、本人の著作を読まずに記事を書いて終わらせるわけにはいかないので、加筆するつもりで、現在色々なタイプの今東光の5冊の著作――歴史小説2冊、歴史エッセー、身上相談物2冊――とと、編集者が書いた小伝を読んでいる。

身上相談物を読んで、東光が大好きになってしまった。ああ会ってみたかった。

親に恵まれなくとも、昔の日本には今東光のような慈父であり、またどこか慈母でもあるような人物がいて、魅力的な毒舌口調で相談にのってくれていたのだ。

読んでいて感激の涙が出てくるくらいに、真正面からこの上なく真剣に東光は回答している。

その身上相談を読んでも東光が身につけている物凄い教養とユーモアのセンスは感じとれるのだが、今東光『毒舌日本史』(文藝春秋、1996)を読むと、その教養から神智学の薫りがするのである。

例えば、聖徳太子。今東光は阿育王(アショーカ王)の善政を評価し、その善政に倣った隋の文帝を評価し、短命だった隋だが、「僕に言わせるとこの文帝の仏教治国策は古代東洋における阿育王の話に次ぐ近代性を有つ国家です」(今,1996,p.59)という。

そして、人民の民度は低く、野蛮と無法とが貧困と同居している日本で、この隣国の仏教治国策を施そうとしたのが聖徳太子だといい、東光は最大級の賛辞を捧げている。

アショーカ王の特色は、彼が熱烈な仏教信者でありながら、他の諸宗教を排斥しなかったところにある。中村元は『古代インド』(講談社、2004)で、それは仏教に、本来このような性格があるからだと述べている。

仏教とは覚者(ブッダ)の教えである。覚者とは万有の真理を会得した人にほかならない。このような覚者は、偏狭な先入見を去って、ありとあらゆるものにその存在理由を求め、主種な思想的立場に対しては、そのよって成立するゆえんを洞察するものであらねばならない。覚者の教えは他の教えと対立することがない。それらを超越してしかも包含しているところのものである。ゆえに仏教それ自身はかならずしも他の思想体系を否認せず、それぞれの意義を十分に承認し、それぞれの長所を生かそうとするものである。(中村,2004,p.193)

わたしはここから神智学の教えを連想するのであるが、アショーカ王は真の仏教信者であったから排他的でない宗教性を持っていたのだろうし、今東光は真の仏教信者であったからこそ、神智学に親和性があったのだろう。あるいは、神智学に親和性のある資質が東光を仏教信者にしたといえるのかもしれない。

アショーカ王はチャンドラグプタの孫だった。過去記事でも書いたことだが、ブラヴァツキーを指導、守護したモリヤ大師のモリヤの名は、同大師の化身であったモリヤ(マウリヤ)王朝の始祖チャンドラグプタ・モリヤから来たものだといわれている。東光はこのことを知っていただろうか。

東光は神仏分離を次のように批判している。

僕の持論はね、明治初年の神仏分離は稀に見る悪法で、稀に見る悪法で、あのために日本はモラルのバックボーンを喪失したと見るんです。従って神仏は改めて新しく発足し直し、昔ながらに手を握るべきである。これなくして日本はモラルを恢復することが出来ないと主張してるんですどうです、こりゃ名論卓説てえもんでしょう。(今,1996,p.98)

平安時代末期に編まれた歌謡集『梁塵秘抄』に収録された歌では神仏がそれぞれの系譜を純粋に保ちながら渾然一体となっていて、そこからは高い美意識と倫理観が感じられる。

日本人の美意識、倫理観がこのとき既に高度な水準に達していたことを考えるとき、わたしにも、神仏分離は悪法だったとしか思えない。神智学徒であれば、誰しもそう思うだろう。

絶世の美女とされるクレオパトラの知的魅力を、「アレクサンドリア学派の哲学を修めた教養の高い才女」(今,1996,p.39)という風に、アレクサンドリア学派を背景に説くところなども、神智学徒らしさを感じさせる。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版)の用語解説「アレクサンドリア学派(Alexandrian Philosophers School)」を読むと、アレクサンドリア学派について総合的な知識を得ることができるが、ここに、アレクサンドリア市は「西暦173年にアンモニオス・サッカスが設立した折衷学派即ち新プラトン学派で一層有名になった」(田中,1995,「用語解説」pp.16-17)とあり、質疑応答形式の本文に「神智学という名称は三世紀に折衷神智学を創始したアンモニオス・サッカスとその弟子達から始まったものです」(田中,1665,p.13)とあるように、神智学はアレクサンドリア学派から起こった。

だからアレクサンドリア学派という名称は、神智学徒にとっては特別の響きを持っているはずである。

今東光は嵐のような日教組に対する批判活動を繰り広げていたらしい。「共産主義てえもんは赤色帝国主義だってえ解るときが怖いんだ」(今,1996,p.133)という東光は、その怖さを緻密な歴史研究を通して知っている。

そして、引用する左翼的教育に対する今東光の懸念は、唯物史観とは到底相容れない神智学的歴史観からすれば、当然のものだ。

日本の左翼的教育てえものは、つまり馬鹿を拵[こしら]える教育で、それでねえとインチキなマルクス・レーニン主義を押しつけることが出来ねえんだね。だから日本の歴史も、仏教も何も知らねえ二十世紀人ばかりになってきた。将来、此奴等が大人になって人の親となったら、それこそ歴史の悲劇だろうな。(今,1996,p.19)

東光の懸念は当たってしまった。

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2017年5月21日 (日)

ブラヴァツキーの星学に関する言葉

占星術に関するつぶやきと神智学の勉強ノート。

わたしの場合、木星の年齢域とは違って、土星の域では人間関係が活発になり、友人たちとの交際の機会も増えると推測できたが、実際に、木星の域では人間関係が不活発どころか人間嫌いに近い感じになっていた。

それが、確かに土星の域になってから、いろいろな人が車間距離が近すぎると思うくらいに接近してくるようになった。

新らしい人から何十年ぶりという人まで。幼馴染から電話があったのは、それを代表する出来事といってよい。本当になつかしかった。

ただ、自分のために使いたい時間は確保する必要があるので、全ての接近を同じように受け入れることは無理だ。

自分と相手にとって、その交際が有用であると感じられなければ、如何な旧友であろうが距離を置くしかない。グループごと交際が復活した場合はちょっと複雑で、学生時代のように行くだろうか。

舞い上がるほど楽しい面がある代わりに、各人が長年生きてきたあかしともいえるある種の毒素にお互い目を瞬かせられることも当然ある。また、昔であれば、学生時代特有の共通の知識があったが、各人が共有できる知識にもバラつきが出ていることに気づかされる。

わたしはその知識のバラつきをなるべく埋めたいほうで(そう熱望するあまり、こちらから車間距離を縮めすぎて失敗したと思うことがある)、アマチュアとはいえ物書きだから、様々な事柄に興味を働かせるほうだが、皆がそうとは限らない。それでも、やっぱりなつかしさには敵わないけれど。

何にしても、占星術って当たるなあ、と思った次第。

といっても、無知なわたしには占星術をどれくらい信頼のおけるものとして受け入れてよいかが今一つわからないので、物事にある傾向があるかどうかを判断する際の資料の一つとして用いる程度にとどめている。

それというのも、西洋占星術にしても、東洋占星術にしても、流派がいろいろあるうえに、どれも難しくて全体像が掴めず、わたしには表面をなぞるくらいが精々なのだ。

近代神智学運動の母ブラヴァツキーは、星学についても書いている。天文学と占星術はもともとは星学という名のもとに一つであったので、ブラヴァツキーも星学という用語をそのような意味で用いているのではないかと思う。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1989)で次のようなことを書いている。

生まれる時すでに、各人の人生はアストラル光に描かれているが、それは宿命論的なことではなく、ただ、未来は過去と同じくいつも現在の中に生きているからである。こうして各人の運命、各子供の誕生と関係のあるリピカ達は、星学にも影響を及ぼすと言える。気が進んでも進まなくても、私達は星学の真実を認めざるを得ない。(ブラヴァツキー,田中&クラーク訳,1989,332頁)

リピカはマハットの一部といわれ、マハットとは顕現した神聖な概念作用である。詳しくは、前掲書を参照されたい。

現在、過去、未来については、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の『67 神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ③タブッキの円熟とフェルナンド・ペソアの青い果実』でも引用したが、次のように解説されている。

現在、過去、未来の三つの期間は秘教哲学では複合時間(Compound time)である。現象界に関してだけこの三つは合成数であり、本体の領域では抽象的妥当性はない。聖典に言われているように、“過去は現在であり未来でもある。未来はまだ現れてはいないが、やはりある”。それはマードヤミカのプラーサンギカ派の教えの諺によるのだが、それが純粋に秘教的な学派から離れて以来、その教義が知られてきた。簡単に言えば、継続と時間に関する概念はすべて連想の法則に従って、私達の感覚から出てくるものである。その概念とは人間の知識の相対性でがんじがらめに縛られているが、それにもかかわらず、個人や自我の経験の中でなければ存在しないし、自我の進化が現象的存在というマーヤーを追い払う時、消滅するのである。(ブラヴァツキー,田中&クラーク訳,1988,pp.249-250)

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『実践的オカルティズム』(神智学協会ニッポン・ロッジ 竜王文庫内、1995)にも星学に関して深遠なことがいろいろと書かれているが、実生活で役立つことも書かれている。

公開の場所に群がる『大気の精』即ちエレメンタル達から身を守るために、その時をつかさどる惑星の色の玉石の指輪をはめるか、またはその惑星に相応する金属製のものを身につけたほうがよい。しかし、やましいところのない良心と、人類を益しようという確固とした決意は最良の保護を与えるものである。(ブラヴァツキー,田中&クラーク訳,1995,186頁)

パラマンサ・ヨガナンダ『ヨガ行者の一生』(関書院新社、初版1960、1979改訂第12版)にも、インドの星学についてとても詳しく書かれている。その本にも、ブラヴァツキーの著作から引用したのと同じようなことが書かれている。

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2017年5月 4日 (木)

Notes:不思議な接着剤#95 ナザレ人

H・P・ブラヴァツキー(アニー・ベサント編、加藤大典訳)『シークレット・ドクトリン 第三巻(上)――科学・宗教・哲学の統合――』(文芸社、2016)に注目すべきことが書かれている。この第三巻は、未完のまま終わった『シークレット・ドクトリン』をアニー・ベサントが再編し刊行したものだという。

ブラヴァツキーは次のように書いている。

『新約聖書』、『使徒行伝』そして『使徒書簡』集が――いかにイエスの歴史像の真実に迫るとしても――すべて象徴的、比喩的な発言であること、また「キリスト教の創設者はイエスではなくパウロであった」こと、しかしそれはいずれにしても、正式な教会キリスト教ではなかったこともまた真実である。「弟子たちがキリスト教徒と初めて呼ばれたのは、アンテオケにおいてであった」ことを『使徒行伝』は伝える。それまで彼らはそう呼ばれなかったし、その後も長い間、単にナザレ人と呼ばれた。(ブラヴァツキー,加藤訳,2016,p.262)

また、「ナザレ人はカルデアのテウルギストつまり秘儀参入者の階級」(ブラヴァツキー,加藤訳,2016,p.265)であって、パウロが「秘儀参入者」の階級に属していたと書き、その根拠を示している。パウロが目指した教義は次のようなものだったという。

パウロにとって、キリストは個人でなく、具体化された理念である。『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者であり』この人は、秘儀参入者のように、生まれ変わったのだ。なぜなら主は霊――人間の霊――だからである。パウロは、イエスに会ったことはなかったけれども、イエスの教えの底に横たわる秘密の理念を理解していた唯一の使徒であった」「しかしパウロ自身は無謬ではなく完全でもなかった」「新しく広やかな改革、人類全体を包むことのできる改革をスタートすることに心を傾けていた彼は、自身の教義を本心から、時代の知恵のはるか上位、古代の密儀や最終的な『エポプタイ』(秘儀の伝授)より上に本心で設定した」(ブラヴァツキー,加藤訳,2016,pp.264-265)

ペテロは秘儀参入者ではなく、ユダヤのカバリストであった。

このような方向で、ギリシアの秘儀とカバラという確かなガイドを目の前にして探索をすすめるならば、パウロがペテロ、ヨハネおよびヤコブによりあのように迫害され憎悪される秘められた理由を発見するのは容易であろう。『黙示録』の著者は、生粋のユダヤ人カバリストであり、異教の秘儀に対する先祖伝来の憎悪を全身に漲らせていた(註『ヨハネによる福音書』がヨハネによって書かれたものでなく、プラトン主義者、あるいは新プラトン学派に属するグノーシス主義者の一人によって書かれたことは言うまでもない。イエスの存命中における彼の嫉妬はペテロにまで広がった。(ブラヴァツキー,加藤訳,2016,pp.266-268)

この第三巻(上)は、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010)、H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 下』(竜王文庫、2015)と重なる部分も多く、『ベールをとったイシス』に補足した巻ということもできそうだ。

原始キリスト教を研究するには、『ベールをとったイシス』同様に欠かせない著作であると思う。

「『ヨハネによる福音書』がヨハネによって書かれたものでなく、プラトン主義者、あるいは新プラトン学派に属するグノーシス主義者の一人によって書かれたことは言うまでもない」と前掲書の註に書かれていた文章から、カタリ派がヨハネ福音書を偏愛していた事実を思い出した。

ナザレ人はカルデアのテウルギストつまり秘儀参入者の階級だった、とブラヴァツキーは書いている。

新バビロニア(カルデア人が築いた王国で、カルデア王国ともいう。紀元前625 - 紀元前539)の王ネブカドネザル2世により紀元前597年に滅ぼされたユダ王国のユダヤ人たちは、バビロンに捕囚された(ダビデ王によって統一された統一イスラエル王国は、ソロモン王の死後、紀元前930年頃に分裂し、北のイスラエル王国は紀元前722年、アッシリア帝国に滅ばされている)。

その地で、ユダヤ人は圧倒的なバビロニア文化(カルデア人は天文学・占星術に優れていた)の影響を受ける一方では、それに抗して律法を重視する(エルサレムの町も神殿も失っていたため)ユダヤ教を確立した。

ブラヴァツキーはこうも書いている。ノート92から引用する。

アリストテレスの時代には物質主義が優勢な思潮となって、霊性と信仰は頽廃した。秘儀そのものが甚だしく変質し、熟達者[アデプト]と秘儀参入者[イニシエート]は侵略者の武力で散り散りになり、その後継者と子孫は少数だった(ジルコフ編,老松訳,2010,pp.18-19)とブラヴァツキーはいう。

エジプトの「聖なる書記や秘儀祭司は,地上をさすらう者となった。彼らは聖なる秘儀の冒涜を恐れて,ヘルメス学的な宗団――後にエッセネ派Eseenesとして知られるようになる――のなかに隠れ家を探さざるをえず,その秘儀知識はかつてなかったほどに深く埋もれた」(ブラヴァツキー,ジルコフ編,老松訳,2010,p.19)

エッセネ派はノート91で書いたように、ユダヤ人の一派であって、グノーシス派、ピタゴラス派、ヘルメス学的集団、あるいは初期キリスト教徒であったとブラヴァツキーは述べているのだ。
(……)

ウィキペディアからナグ・ハマディ文書について引用すると、写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。(……)調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルスの内容と共通することがわかっている。そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる(ウィキペディアの執筆者. “ナグ・ハマディ写本”. ウィキペディア日本語版. 2016-02-23. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC&oldid=58723955, (参照 2016-02-29).)とあることからもわかるように、エッセネ派に関するブラヴァツキーの記述はまるでナグ・ハマディ文書の内容を述べたかのようである。

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2017年4月28日 (金)

創作状況(初の歴史小説、エッセー)

改稿の下準備段階の御遺物メモで止まっている初の歴史小説「祐徳院物語」(仮題)だが、義理の息子のうち、大名となった弟の直條公によって創作された漢詩を読んでいる。

肥前鹿島藩第四代藩主鍋島直條由来の詩箋巻を翻刻・注釈したもので、中尾友香梨、井上敏幸『文人大名鍋島直條の詩箋巻』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2014)。

わたしは図書館から借りているが、この作品はセンターのホームページからPDF形式で閲覧、ダウンロードすることもできる。

分けていただいた、井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2016)もそうだが、どちらも貴重な史料だと思う。

昨日から今日にかけて、タブッキの本を2冊再読している最中に、なぜか初の歴史小説のことが思い浮かび、直條公の視点で萬子媛を描いてみたらどうだろう、という発想が浮上した。

初稿では、最初に村人を出したのが失敗だったような気がしている。何年かかるかわからないが、時間をかけて仕上げることにしたので、とりあえずこの案で書いてみたいと考えている。

萬子媛の断食入定についてだが、明治時代に禁止されるまで、日本では断食入定は主に密教系の仏教で行われたようだ。ジャイナ教がどこかで影響しているということは考えられないだろうか。

仏教とほぼ同時期に成立したといわれるジェイナ教は、インド独立運動の指導者マハトマ・ガンジーの非暴力運動にも影響を与えたといわれている(インド独立運動といえば、ガンジーと親交があり、独立運動のために自治連盟を組織し、国民会議の議長になったりした神智学協会第二代会長アニー・ベザントを連想する)。

ジャイナ教については、上記した程度の乏しい知識しかなかった。それがたまたまH・P・ブラヴァツキーを守護、指導したモリヤ大師のモリヤという名が、この大師の化身であった古代インドのモリヤ王朝(マウリヤ王朝)の始祖チャンドラグプタ・モリヤから来ているという神智学協会のエピソードが気になり、ウィキペディアで「チャンドラグプタ (マウリヤ朝)」を閲覧した。

すると、次のようなことが書かれていた。

ウィキペディア:チャンドラグプタ (マウリヤ朝)

ジャイナ教系の記録によれば、チャンドラグプタは晩年ジャイナ教を厚く信仰し、退位して出家し、ジャイナ教の聖人バドラバーフの弟子となり、出家後の名はプラバーカンドラとした。バドラバーフの下で苦行に打ち込んだチャンドラグプタは、最後は絶食して餓死したとされている。
ウィキペディアの執筆者. “チャンドラグプタ (マウリヤ朝)”. ウィキペディア日本語版. 2016-11-07. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)&oldid=61839301, (参照 2016-11-07).

少し驚きながら、ジャイナ教についてもウィキペディアを閲覧してみた。次の記述が印象的で、ジャイナ教に関する本を図書館から2冊借りたところ。ちなみに、仏教を守護した大王として有名なアショーカ王はチャンドラグプタの孫に当たる。

ウィキペディア:ジャイナ教

ジャイナ教はあらゆるものに生命を見いだし、動物・植物はもちろんのこと、地・水・火・風・大気にまで霊魂(ジーヴァ)の存在を認めた。
ウィキペディアの執筆者. “ジャイナ教”. ウィキペディア日本語版. 2016-10-19. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99&oldid=61585475, (参照 2016-10-19).

これは神智学を連想しないわけにはいかない。

そして、ジャイナ教に関する本を読み始めてすぐに、何ともいえないなつかしさが胸に込み上げてきた。カタカナで書かれている言葉に自分でも驚くくらいに反応し、それが郷愁に変わる驚き。

これまでカタカナに邦訳されたサンスクリット語、パーリ語、チベット語などを見ると、苦手意識のほうが先に立ったのだが、ジャイナ教の解説の雰囲気の中で馴染みのないはずの、あるいは目にして苦手に感じたはずの言葉がなぜか心に沁みて、その言葉をつぶやきたくなるのである。

わたしは過去記事で、前世とあの世のわずかばかりの霊的記憶を持って生まれてきたとたびたび書いてきた。

そして、間抜けなことに、この世で果たすべき使命があるという思いを持ってこの世に下りてきながら、それが何であるかを完全に忘れ、覚えているのは前世は年老いた僧侶として死んだということ、太陽と大気に関するこの世とあの世におけるそれらの性質、感触、色彩の違いだけだった。ただ小学生のころまで、秘かに瞑想をする習慣を前世から持ってきていた。

自分がどんな宗教に属していたのか、それすらわからず、若いころからキリスト教、仏教など、あれこれ惹かれる宗教は多かったのだが、諸宗教を総合してそこから高純度のエッセンスを抽出する作業を行った近代神智学運動の母ブラヴァツキーの著書に強く惹かれたのを別にすれば、どれにももう一つ違和感があった。

しかし今、おそらく、わたしは前世の一つでジャイナ教の僧侶であったことがあったに違いないと考えている。子供のころに萬子媛の断食入定を知って、恐ろしいと思いながらも強い印象を受けて、ずっと忘れられなかったのも、前世の一つにおけるジャイナ教体験から来ているのかもしれない。

江戸時代の日本で禅宗の黄檗僧としての生きかたを貫かれた萬子媛だが、古代インドでジャイナ教に属していた前世もお持ちでは……と空想したくなる。勿論これは完全なわたしの空想にすぎない。

前掲のウィキペディア「ジャイナ教」には、断食入定について次のように解説されている。

ウィキペディア:ジャイナ教

アヒンサーを守るための最良の方法は「断食」であり、もっとも理想的な死はサッレーカナー(sallekhanā)、「断食を続行して死にいたる」ことである。マハーヴィーラも断食の末に死んだとされ、古来、段階的な修行を終えたジャイナ出家者・信者のみがこの「断食死」を許された。
ウィキペディアの執筆者. “ジャイナ教”. ウィキペディア日本語版. 2016-10-19. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99&oldid=61585475, (参照 2016-10-19).

まだざっと2冊の本に目を通した程度だが、自身の思い込みを除外しても、ジャイナ教にはとても魅力的なところがある。また、仏教とよく似ていることに驚かされる。

サイト「仏教へのいざない」の仏教入門「第3回 仏教とジャイナ教」によると、この二つの宗教は「双子の宗教」だとか「姉妹宗教」などと呼ばれているそうである。

  • 仏教へのいざない
    http://todaibussei.or.jp/izanai/izanai_index.htm

アントニオ・タブッキの本を2冊再読したのは、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に書きかけのタブッキに関するエッセーの続きを書くためだ。

再読したのは、アントニオ・タブッキ(鈴木昭裕訳)『レクイエム』(白水社、1999)、アントニオ・タブッキ(和田忠彦訳)『イザベルに ある曼荼羅』(河出書房新社、2015)。

タブッキに関するエッセーはまだまだ続くが、次のエッセーを書いたら、タブッキにはしばらく時間を置く。ロシアのフリーメーソンがイルミナティに侵食される過程を描いたトルストイの『戦争と平和』に関するエッセーも、当ブログから「神秘主義的エッセー」のほうへ移しておきたい。

それから、初の歴史小説へ。

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2017年4月25日 (火)

左派の源流となったイルミナティ ①創立者アダム・ヴァイスハウプトの天敵、神智学(26日に再加筆あり)

当記事は、過去記事「左派のグランパ、アダム・ヴァイスハウプト(イルミナティ創立者) ①天敵のプラトン系神智学」に加筆したものです。

…………………………

世界中に浸透した左派の影響力を、ここ数年で思い知らされた気がする。共産圏の人々と左派だけが影響されているのではなかった。

左派の原理原則となってきたのが、1776年に現在の南ドイツでイルミナティを創立したアダム・ヴァイスハウプトの著作であることを知ったときの驚き。

イルミナティなんて、オカルト情報誌『ムー』が情報提供する都市伝説にすぎないと思っていたから。左派の中のどれくらいの人々が、ヴァイスハウプトの思想について知っているのだろうか。

サイト「隠された真実」から、引用させていただく。

結社結成の日、ヴァイスハウプトは『Novus Ordo Seclorum』というタイトルの本を出版している。このラテン語の意味は「新世界秩序」。
ヴァイスハウプトの掲げたイルミナティの行動綱領は以下の通り。

  1. すべての既成政府の廃絶とイルミナティの統括する世界単一政府の樹立。
 2. 私有財産と遺産相続の撤廃。

 3. 愛国心と民族意識の根絶。

 4. 家族制度と結婚制度の撤廃と、子供のコミューン教育の実現。

すべての宗教の撤廃。

これらの行動網領が、後の共産主義の原型となった。

<https://sites.google.com/site/uranenpyou/home/illuminati>(2017/4/20アクセス)

イルミナティの行動綱領を著作で確かめられないのは惜しいが(『Novus Ordo Seclorum』も邦訳してほしい)、邦訳版の出ているアダム・ヴァイスハウプト(副島隆彦・解説、芳賀和敏・訳)『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』(ベストセラーズ、2013)を読んで、この行動綱領の出てきた背景――、つまりヴァイスハウプトの思想を検証することは可能である。

イルミナティの行動綱領を、共産主義がそっくり借用したようである。ならば、いささか遅きに失した感はあるけれど、共産主義の本質を知るためにイルミナティの原典を学術研究する必要があるのではないだろうか。

夫は保守系カラーの大学で――当然、その大学ではマイナーだった――マルクス経済学を専攻したが、ゼミでイルミナティのイの字も聞いたことはなかったそうだ。

ちなみに夫の政治思想自体は、バランスを重んじるところから、一般日本人に多い中道右派といったところだろうか。わたしも政治思想的にはそうだが、わたしの場合は神秘主義者であるために、物事の判断の基準が一般人とは異なる場合がある。

植田樹『ロシアを動かした秘密結社――フリーメーソンと革命家の系譜』(彩流社、2014)によると(35頁)、秘密結社「イルミナティ教団(Iluminati)」が1776年、パヴァリア(現ドイツ・バイエルン州)で、大学の哲学教授アダム・ヴァイスハウプトによって、組織された。

『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』の「訳者あとがき」には、ヴァイスハウプトの学位、肩書きについて、次のように書かれている。

ヴァイスハウプトはインゴルシュタットに生まれ、この地の大学で哲学博士の学位を得た後、法学の員外教授をへて弱冠25歳で法学部の教会法正教授となっている。専攻分野は、はっきりと哲学であった彼が法学部正教授となった経緯は不明であるが、父親が(彼が5歳のときにすでに没している)インゴルシュタットの法律学の正教授であったことと関係があるかもしれない。正教授(プロフェソル・オルディナリス)といえば今日の我が大学教授とは比べものにならないほどのステータスである。さらに25歳といえばかなり俊足のエリートというべきか。しかも教会法といえばカノン法、カトリックの教会法ではないか(教会法に対して世俗法といえばローマ法で、この二つの法を法学生は学ぶのである)。この分野の正教授がカトリックに楯突いたのだ」(ヴァイスハウプト、芳賀訳、2013、「訳者あとがき」211~212頁)

前掲書『ロシアを動かした秘密結社――フリーメーソンと革命家の系譜』によると、イルミナティは、「『理性に支配される独裁的な共和政治』をめざす社会改革を唱えた。組織は軍隊組織のような下位の会員の上位者への絶対服従、部外者への秘密保持、会話や通信における会員同士の間での偽名と暗号の使用を義務づけ、狭量な民族主義や愛国心を否定する国際主義を唱えていた。また『目的達成のためならあらゆる手段が正当化される』と説いていた」(植田、2014、36頁)

イルミナティは本来フリーメーソンの結社ではなかったが、1782年にフリーメーソンの作家フォン・クニッゲ男爵が加入したのを契機に文豪ゲーテ、ドイツ諸侯、貴族ら多くのフリーメーソン会員が加わった結果、イルミナティの結社とフリーメーソンは会員構成で一体化してしまった。

こうしてイルミナティの結社はフリーメーソンの一組織に混淆、変容していき、クニッゲは追放され、大方の貴族が去った一方では、残ったイルミナティの結社員は急進的な政治傾向を強めていった。

パヴァリア選挙侯カルル・テオドルによって、1785年、イルミナティの結社は解散させられた。しかし、「この秘密結社の思想や掟は組織の解散後も各国の革命結社の規範の雛形として取り入れられていく。フランス革命の源流の一つにもなった」(植田、2014、36頁)

イルミナティの思想はイタリア統一運動にも取り込まれた。その中心的役割を荷ったのはカルボナリ党で、フリーメーソンとイルミナティ団の組織や規範を取り込んでいた。ロシアの無政府主義の革命家バクーニンも、この組織に関わった一時期があった。

イルミナティの信奉者はその後、パリで急進的な政治傾向の『親友同盟』の主導権を握り、そこからイルミナティ派の『社会主義サークル』が派生した。

彼らの規律は二十世紀の様々なテロの秘密結社の内部規律に取り込まれ、革命運動の組織に多大の影響を及ぼすことになる。カール・マルクスはこれを『共産主義思想を実現するための最初の革命的組織』と評した」(植田、2014、37頁)

このようにカール・マルクスは、パリで派生したイルミナティ派の社会主義サークルを共産主義の源流として評価しているのである。

左派によってヴァイスハウプトの思想は拡散していったのだが、その工作の陰険、周到、執拗であるさまが露骨に目につき出したのは、日本では民主党政権のころからだった。

海外、特にアメリカではそれがわが国以上の猛威であったと知ったのは、ようやく今度のトランプ大統領誕生のころからだった。

こうした現象を、自分なりにいくらかでも分析し、整理してしまわなければ、落ち着いて創作に向かえない。第二次世界大戦後にGHQによって左傾化させられたわが国の大学の研究室でイルミナティが研究されるようになるには、まだ時間がかかるだろうから。

なぜ左派がイルミナティを研究してこなかったのかは疑問であるが、イルミナティを研究するにはイルミナティの攻撃の対象となったキリスト教や神秘主義をも研究せざるをえないからではないかと思う。それらをヴァイスハウプトに無条件に従って全否定するほうが結束が乱れないことは確かであり、しかし、もしそうだとすれば、それは盲目的信仰以外の何ものでもない。

ヴァイスハウプトがあたかも天敵であるかのように攻撃したのが、プラトンの流れを汲む神智学だった。もっとも、その神智学とはブラヴァツキー以前の神智学である。

1748年に生まれたヴァイスハウプトは、1830年に死去している。近代神智学運動の母となったブラヴァツキーが南ロシアで生まれたのは、その翌年の1831年のことだからである。

ヴァイスハウプトは『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』の中で、教会法の正教授に就任した人物とも思えない悪態をついている。何しろ章のタイトルが「神秘主義に傾倒するすべての成員に告ぐ」である。

あんこの足りないくそ坊主どもの戯れ言に他ならぬ現代の伝説というかメルヘンがある。これは、哲学というジャンルに、継承されている。というよりは異なる教説としてあからさまに、表明され含まれているものなのだ。この学説ほど、誤ったものは人間悟性の歴史のなかで他にない。こんなものに熱狂するのは、グノーシス派、折衷派、カバラ主義者くらいで、この連中の先には度はずれた大バカ、腐れ頭人間が待っている。後代の神知学者や神秘主義者は、桁外れのおバカ加減では誰にもひけを取らず、何人たりともこいつらに並ぶのはまだしも、凌駕するなどとんでもない。なんといっても馬鹿さ加減こそやつらの本領なのだから。このセクトは、そのご同類であるグノーシス派とユダヤ派のカバラ姉妹があることと並んで、たくさん麗しい性格の著作がある。身の毛のよだついやらしさの極致なのだが、これらは、いずれ偽造か古代の人物、その名のでっち上げで、連中の絵空事が受け入れられ、おおいに賞賛されるように目論まれていた。たとえばモーセ、アブラハム、ヘルメース、オルペウス、ゾロアスター、ピタビラス等など。(ヴァイスハウプト、芳賀訳、2013、170頁)

大した騒ぎである。神秘主義をこのように嫌う人物が薔薇十字団系のロッジなどもあるフリーメーソンの結社に入ったのは、組織をのっとるためという目的以外には考えられない。

ウィキペディア「イルミナティ」には次のように書かれている。

1777年、ヴァイスハオプト自身もフリーメイソンになっており、並行してフリーメイソンだった者も多かったウィキペディアの執筆者. “イルミナティ”. ウィキペディア日本語版. 2017-02-24. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3&oldid=63134666, (参照 2017-02-24).

『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』には、現代の編者F・W・シュミットによって書かれた「はじめに」がおかれている。それには、次のように書かれている。

イルミナティの発展は、フリーメイソンのグループによって行われた。フリーメイソンの多くが、イルミナティにリクルートされたので、折に触れてフリーメイソンのある支部(ロッジ)はイルミナティの手中にあると言われるようになった。しかし『両者の意図と目的は一致しない』となった。このことをルートヴィヒ・アドルフ・クリスティアン・フォン・グロルマン[1741-1809 ギーセンの法学者]という人が、1793年12月のフリーメイソン支部における演説で強調した。その演説は、身分秩序を脅かし宗教(キリスト教の信仰)を危険な状態に陥れるイルミナティへの激しい非難を含んでいた。フォン・グロルマンの目には禁止後もイルミナティは、諸国政府に遍(あまね)く浸透しており、至る所で活動していると見られていた」((ヴァイスハウプト、芳賀訳、2013、シュミット「はじめに」37~38頁)

トルストイは『戦争と平和』で、ロシアのフリーメーソンのロッジがイルミナティにのっとられる過程をよく描いていると思う。

ヴァイスハウプトは『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』の中で、プラトンを最も罵倒している。『ティマイオス』しか読んでいないかのような、長い引用と短絡的な解釈が特徴的である。

尤も、『ティマイオス』は重要な作品らしい。大学時代にシモーヌ・ヴェイユの著作で『ティマイオス』を知り、そのころから読みたかったのだが、果たせていなかった。文庫では出ていなかったのだ。

ヴァイスハウプトには、プラトン用語の意味がよく呑み込めていないのではないか。反抗期の少年のように字面だけを読んで納得できないと、すぐに断罪し、悪態をつくのである。それをそっくり真似て、左派がブラヴァツキーをバッシングする。純粋理性を重んじているようなことを書きながら、行動が伴っていない気がする。

ブラヴァツキーの著作ではあちこちでプラトンが出てくる。『ティマイオス』にも言及があるので、ヴァイスハウプト、ブラヴァツキー、シモーヌ・ヴェイユが『ティマイオス』をどう読んだかの比較をしたくなった。

改めて、『ティマイオス』が邦訳で出ていないか、図書館検索で調べると、利用している二つの図書館にはなかった。

アマゾンで調べると、プラトン( 種山恭子・田之頭安彦訳)『プラトン全集〈12〉ティマイオス・クリティアス 』(岩波書店、1975)が中古で21,393円! もう1冊、プラトン(岸見一郎訳)『ティマイオス/クリティアス』(白澤社、2015)が2,376円。

翻訳者である岸見氏は、『ティマイオス/クリティアス』の発売元である白澤社ブログの記事「岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』刊行の経緯」によると、「ギリシア哲学研究の大家・故藤澤令夫氏に師事しただけではなく、岩波版『プラトン全集』の『ティマイオス』の訳者・故種山恭子氏の教えもうけた」かただとか。

夫が誕生日に贈ってくれた図書券を使って購入することにした。注文したばかりで、まだ届いていない。読んだら、続きを書きたい。予定が目白押しなので、また間が空くかもしれないけれど。

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2017年4月13日 (木)

ブログを続けるメリット、デメリット

当ブログを開設したのは2006年4月で、11年が経過した。ブログを始めたころはブログ文化が花盛りで、私的な事情や内面を率直に吐露した内容のブログは珍しくなかった。

わたしは小説を書いてきたし、また神秘主義者でもあるので、その観点から私的な事情や内面をも一つのサンプルと捉える傾向があるため、そうしたものを含めて全てをメモしておきたいという思いが強い。

こうしたことから、わたしはブログ文化に自然に溶け込んで多くを書き、また様々なブログから教わったり、慰めを得たりとブログ文化を享受してきた。

しかし、フェイスブック、ツイッターが流行り出してからはブロガーが減った気がする。

私的な事情や内面を率直に吐露したブログが減ってくると、こうしたことを続けている自分のブログが浮いているような気がしてきた。

神秘主義、小説にジャンルを絞ったブログを別個に立ち上げたのは、あれこれ書きすぎている当ブログに恥じらいを覚えるようになったということも理由の一つとして挙げられる。

これだけいろんなことを書いているにも拘わらず、閲覧者は自分が読みたいところだけ、自分が読みたいように読む。

わたしもそうであって、それは閲覧者の自由なのだが、時々マナー違反とも思えるメールを頂戴することがあり、そんなときにはブログを閉鎖してしまいたくなったりするのだ。

つい最近も、そういうことがあった。

ある問い合わせを受け、普通にメールしたはずが、数回のやりとりの間にその人からのメールが完全にラブレターになってしまったのである。

怖ろしい。最初にメールをいただいたときから、何かねちっこい雰囲気が伝わってきたので、警戒はしていたのだが。

ブログを読んで、その人はわたしについて熟知したような感じを抱いたのだろう。だからといって、わたしがその人について知らなければならない義務などない。

違ったタイプの不愉快なメールをいただくことも、時々ある。逆に、こちらが浄化されるようなきよらかな雰囲気と共に礼儀正しいメールが届くこともある。勿論、雰囲気だけが届くこともある。

ねちっこい雰囲気には個性がない。性別さえ、わからないことがあるほどだ。

しかし、きよらかな雰囲気にはきよらかという共通点がありながらも個性の刻印があり、その雰囲気を届けてくださったのが男性か女性かもはっきりわかる。

私的なことを書きすぎたブログを閉鎖してしまいたいという思いを止めるのは、そうした快い体験だ。

時々ブログに綴ってきた政治や文学に関する雑感も、断片的なものだが、11年の間にはわが国におけるそれらの流れがわかるような記録となっていて、それなりに貴重ではないかと思う。

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