カテゴリー「評論・文学論」の242件の記事

2018年1月14日 (日)

歴史短編1のために #33 扇面和歌を通して考察したこと②

#31 扇面和歌を通して考察したこと

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祐徳博物館には、「祐徳院殿御遺物」が展示されており、御遺物には解説が付けられている。その解説の中に萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたとあった。

二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。

二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかることだろう。

二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。

特に藤原俊成女(皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍)の歌を愛されたのか、扇面に記された藤原俊成女の歌がある。記されたのは元禄9年(1696)ということだから、萬子媛出家後の71歳のころのものだ。

昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。

平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」 74 を参照されたい)。

こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如(19神祇,1878,1879,1880)、輪廻観(19神祇,1902)、一切皆成仏(20釈教,1928)といった宗教観が読みとれる。
 ※「マダムNの神秘主義的エッセー」で公開するときに番号の歌を引用する予定。

この複合的、統一感のある宗教観こそが歌謡集から勅撰和歌集まで、そこに集められた歌に凛とした気品と陰翳と知的洗練をもたらしたのだと考えられる。

江戸初期から中期にかかるころに生きた萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたということは、二十一代集に通底する宗教観を萬子媛も共有していたということではないかと思う。

注目したいのは、『新古今和歌集』巻第十九神祇歌1898の歌である。作者は皇太后宮大夫俊成(藤原俊成,1114 - 1204)。萬子媛が扇面に記した歌の作者は藤原俊成女であるが、俊成は藤原俊成女の母方の祖父に当る。『新古今和歌集』の撰者の一人であった藤原定家は俊成の子である。

『日本古典文書12 古今和歌集・新古今和歌集』(訳者代表・窪田空穂、1990)より歌、訳及び解説を引用する。

春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ
(この春日野の、公卿の家筋を暗示するおどろの路の、埋もれ水のごとく世に沈んでいる自分である。今はとにかく、せめて子孫なりとも、わが祈りの験[しるし]をもって、世に現わし栄達させ給え。「春日野」は春日神社を示し、自身も藤原氏でその神の末であることとを余情とした詞。「おどろ」は、草むらの甚だしいもので、「路」の状態とするとともに、公卿の位地を示す語。)(皇太后宮大夫俊成,窪田訳,1990,p.443)

子孫の出世を願う、切実ながらいささか世俗臭のする歌だと考えられるが、俊成は藤原北家の人で、萬子媛も藤原北家の花山院の出であるから、神のしるしどころか、文字通り祐徳稲荷神社の神様の一柱となられた萬子媛は子孫の栄達を祈った俊成の願いを最高に叶えた子孫といえるのではあるまいか。

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2018年1月12日 (金)

山岸凉子『レベレーション(啓示)3』(講談社、2017)を読んで

昨年末に娘が山岸先生の『レベレーション』第3巻を買って来てくれた。

フランスの国民的ヒロイン、ジャンヌ・ダルク(1412 - 1431)を描く『レベレーション』。山岸先生の力量を印象づける力強い筆致で、第1巻がスタートした。

わたしはワタクシ的期待感を籠めて、それの感想を書いた。

2015年1月 3日 (土)
山岸凉子「レベレーション―啓示―」第1回を読んで
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/post-dc53.html

年が明けてから今巻を読み、第2巻を読んだときも思ったように、次の巻を読むまではまだ感想を書けないような気がしている。……といいながら結構書いてしまったので、ネタバレありです、ご注意ください。

というのも、歴史的見地からすると、ジャンヌの今巻での活躍は最高潮に達していたものの、第1巻冒頭に描かれたジャンヌの表情から推測すれば、この後――4巻から――の暗転する状況とそこから起きるジャンヌの内面劇こそがこの作品でのクライマックスにふさわしいものと考えられるからだ。

山岸凉子『レベレーション(啓示)3』
出版社: 講談社 (2017/12/21)
ISBN-10: 4065106192
ISBN-13: 978-4065106198

百年戦争のただなかにあったフランスで、国王シャルル6世の発狂後、ヴァロア朝支持のアルマニャック派(シャルル6世の弟のオルレアン公ルイ)とイギリスと結んだブルゴーニュ派(叔父のブルゴーニュ公フィリップ2世)が対立し、内戦が拡大していた。

王太子シャルル7世(1403 - 1461,第4代国王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの五男。フランス・ヴァロワ朝の第5代国王となる)は、神の啓示を受けたと主張するジャンヌ・ダルクを信じて兵を出す。

オルレアンへ向かったジャンヌ・ダルクは破竹の勢いでイギリス軍の包囲網を破り、オルレアンを解放した。

戦いの場面が連続する割には、今巻はむしろ単調な印象を受けた。

山岸先生は複雑な歴史の流れを説明するのに忙しかったように感じられ、そこから単調な印象がもたらされたのかもしれない。あるいは、神意を享けて動揺していたジャンヌの内面が、ここではさほどの困惑も迷いもなく、安定していたために、そう感じられたのかもしれない。

ただ、精神状態が安定していたからこそ、人々が戦いの中で告解もせずに死んでいったことに対するジャンヌの敵味方を区別しない純粋な悲しみは、人間的心情の華と表現したくなるほどの可憐な印象を与える。山岸先生の手腕が光る。

ちょっと記憶しておきたいのは、ジャンヌが負傷する場面だ。

神意を享けた行動であったにもかかわらず負傷してしまったことに対する恐怖心と傷の痛みから泣いてしまうジャンヌに、聖カトリーヌが出現して(ジャンヌにしか見えない)、恐怖せずに済むだけの根拠を与え、慰める。「そこには大事な臓器がひとつもない 痛くない」と。

人間とは異なる大局的見地に立ってお告げや慰めを与えようとする神的存在のみが持ち得るような、大らかな威厳を感じさせる聖カトリーヌ。圧倒的でありながら、どこかおぼろげな存在感だ。

聖カトリーヌは聖カタリナ(アレクサンドリアの聖カタリナ)のフランス名。

ウィキペディア:アレクサンドリアのカタリナ

聖カトリーヌの両手は抱擁するのをかろうじてとどめているかのような、微妙な開き方をしている。美しい場面である。

一方、ジャンヌ・ダルクに神の啓示を与えたのは、フランスの守護天使(人ではないが、守護聖人)とされる大天使聖ミカエルであったと考えられている。

第1巻で、ジャンヌに神の啓示を与える大天使聖ミカエルは、威圧するような体の大きさで、圧倒的、冷たいといってよいくらいに威厳がありながらも、やはりおぼろげな印象を与える繊細なタッチで描かれている。

第3巻までを、神的存在(大天使聖ミカエル、聖カトリーヌ)とジャンヌの蜜月時代といって差し支えないだろう。それは今後も続くのだろうか。

オルレアンでの勝利の後も、ジャンヌは神意に駆り立てられ、ランスでのシャルル7世の戴冠式を急ごうとする。そこで今巻は終わった。

このあと、シャルル7世の戴冠式が実際に執り行われるが、事態は暗転し、ジャンヌに悲劇が訪れることを歴史は物語っている。

第1巻冒頭でのジャンヌは事態が暗転した後のジャンヌで、処刑を告げられ、火刑場へと引き立てられていくところだ。

ランスへ向かったジャンヌが火刑場に向かうまでを、そして向かった後のジャンヌを山岸先生はどう料理するのだろう? 

『レベレーション』が何巻で完結するのかは知らないけれど、とりあえずは第4巻がとても待ち遠しい。 

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2017年12月27日 (水)

ホラーさながらの文学コンクール

ある絵本コンクールの応募要項を怖いと思うのは、わたしだけだろうか?

「応募者は著作人格権を行使しないことを前提とします」だなんて。

一身専属の権利であり、譲渡できない権利であるために、「著作者人格権は行使しない」旨の条項を設けておくことが他の分野などでも流行っているようで、これだけでも充分に怖いのに、ホラーさながらなのはその対象が受賞者ではなく、応募者となっているところだ。

足を踏み入れたが最後、数名の受賞者以外は娑婆に戻ってこられる者(作品)はいない。あらかじめ人権(著作人格権)は剥ぎ取られているのだから、戻ってこられない者(作品)がそこで人間(作品)らしい扱いを受けられる望みはない。

純文学系新人賞の募集要項に「他の新人賞に応募したものは対象外とする」とあるのも立派なホラーだ。

「他の新人賞を受賞したものは」ということではない。

一度でもどこかにチャレンジして落ちたら、もうその作品はどこにも出せないのだから、裏では既に決まっていることも多い新人賞のどこかに出したが最後ということだ。

奴隷売買人に似た非情さを持ち、簡単に我が子を捨てる親に似た無責任さを持ち合わせなければ、現代日本ではもはや作家を志すことはできなくなったということである。

そうやって勤しむ行為は、芸術に属する文学活動などとは到底いえず、穴を掘っては埋める作業に等しい苦役にすぎない。

こうした規定に、純粋に文学を愛し精進している作家の卵潰し以外のどんな目的があるのか、わたしにはさっぱりわからない。

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2017年10月30日 (月)

ブラヴァツキー(アニー・ベザント編、加藤大典訳)『シークレット・ドクトリン 第三巻(上)』を読んで

当記事は、アマゾンの拙レビューに加筆したものです。

レビューを書いた時点では品切れでした(新古品、中古品は表示されていました)。

H・P・ブラヴァツキー(アニー・ベザント編、加藤大典訳)『シークレット・ドクトリン 第三巻(上)――科学・宗教・哲学の統合――』
文芸社 (2016/8/1)
ISBN-10: 4286172430
ISBN-13: 978-4286172439

ブラヴァツキーの二大大著は『シークレット・ドクトリン』と、その前に書かれた『Isis Unveild』です。

ブラヴァツキーが生まれたのは1831年、すなわち日本では江戸時代の天保年間で、亡くなったのは1891年、明治24年です。どちらもそんな昔に書かれたとはとても思えない内容です。

『シークレット・ドクトリン』の原典第一巻の前半に当たる部分が宇宙パブリッシングから『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》』というタイトルで出ています。
第二巻が人類発生論。
第三巻の前半部分が、この加藤大典氏の翻訳による『シークレット・ドクトリン 第三巻(上) ――科学、宗教、哲学の統合―― 』で、未完に終わっていたものがアニー・ベサントの編集で世に出た貴重なものですね。アニー・ベサントは神智学協会第二代会長を務めました。

ただ、『シークレット・ドクトリン』の最新版であるジルコフ版から訳出されたH・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1989)の凡例には「原典『シークレット・ドクトリン』(英文)は四巻になる予定であったが、“第三巻”と“第三巻”は結局出版されなかった」と明記されているのです。このあたりの複雑な事情については冒頭に掲げられたジルコフによる「『シークレット・ドクトリン』の沿革」(松田佳子訳)に詳しく書かれています。
そして、ジルコフは「数年もの間多くの論議をかもした」第三巻、第四巻に関しては、「以上、我々は様々な意見を引用してきたが、第三巻、第四巻の原稿存在に関しはっきりとした是非は下せない」と結論づけています。

『Isis Unveild』の前半に当たる部分の邦訳版が『ベールをとったイシス〈第1巻〉科学〉』上下巻で竜王文庫から出ていますが、わたしはこのアニー・ベサントの編集による『シークレット・ドクトリン 第三巻(上) 』を読みながら、『ベールをとったイシス』の続きを読んでいるような気がしました。

アカデミックの世界ではグノーシス主義の定義すら曖昧でしたが、死海文書やナグ・ハマディ文書の発見により、グノーシス主義の輪郭や初期キリスト教に関することが次第に明らかになってきています。
『シークレット・ドクトリン』より前に書かれた『ベールをとったイシス』には、それらに関する多くの記述があります。またアリストテレスはプラトンの教えをどう間違って伝えかを的確に指摘していますし、プラトン哲学の核となったピタゴラス哲学に内在するインド的(バラモン教的)概念の抽出を行っています。古代イスラエル人は何者だったのか。国家集団の中で最古のものだったインドとエジプトはなぜ似ているのか。アトランティスに関する記述も、そうした考察と関連する中で出てきます。

この『シークレット・ドクトリン 第三巻(上) 』では、プラトンの著作、新旧両聖書、エノク書、ヘルメス文書、カバラ文書などが採り上げられており、ブラヴァツキーは様々な推論や学説を紹介しながら、世界の諸聖典の中にある秘教的寓意と象徴に隠された意味を明らかにしていきます。

ちなみにブラヴァツキーがインドという場合には太古の時代のそれを指すそうで、上インド、下インド、西インドがあって、ブラヴァツキーが『ベールをとったイシス』を執筆した当時にペルシア - イラン、チベット、モンゴル、大タルタリーと呼ばれていた国々も含まれるそうです。

ウィキペディア「タタール」に、「モンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた」とあります。

また、『シークレット・ドクトリン』の宇宙発生論では、「一太陽プララヤ後の地球惑星体系とそのまわりの目に見えるものの(宇宙)発生論だけが扱われている」(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)とありますので、『第三巻(上)』を読む場合にも、このことに留意しておくべきでしょう。

『シークレット・ドクトリン 第三巻(下) 』の上梓も心待ちにしています。

これ以前に、加藤氏の翻訳によるブラヴァツキーの『インド幻想紀行』を読みました。とても面白い本でした。『シークレット・ドクトリン』は副題に科学・宗教・哲学の統合とあるように、学術的で、難解なところのある論文ですから、読み進めるには当然ながらその方面の教養が要求されますが、『インド幻想紀行』は一般の人にも読みやすい本ではないかと思いました。

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2017年10月18日 (水)

カズオ・イシグロ『日の名残り』を、とりあえずざっと

カズオ・イシグロ(土屋政雄訳)『日の名残り』(早川書房、2001)を、とりあえずざっと読んだ。

イギリス政界の大物ダーリントン卿に仕える執事スティーブンのモノローグを通して、第一次・第二次大戦の反省(?)がなされる

執事の前の主人ダーリントン卿は、イギリスの戦争対策の失敗を象徴する存在として描かれている。

卿は紳士的であったがゆえに宥和政策を推進する立場で動いた。その見通しに甘さがあったために、性善説に基づいたような行動がナチスに利用され、ヒトラーのドイツ帝国勃興を招いたという見方だ。

執事はダーリントン卿を支持し続け、卿の失脚ののちも慕い続けるが、ここには作者のいささか単純で皮肉な見方が潜んでいるはずである。

でなければ、このような一面的な書き方にはならないはずだ。勧善懲悪の世界観から一歩も出ていない。

その見方を骨格にして、あれこれ工夫を凝らし、お手軽な大英帝国凋落の物語に仕上げているという印象を受けた。

このような、今の時代であればこそ通りやすい歴史的解釈の安易な利用を純文学であれば決してしない。むしろ、あの時代について、独自の調査・取材をし、そこに新たな発見があったときに初めて創作に着手しようとするのだ。

イギリスが大英帝国時代を持つしたたかな国であることを知らない人間は、まずいないだろう。

皮肉としてであれ、本当の思いからであれ、第二次大戦前から激動の時代を主人と共に生きた執事の品格を自ずと浮かび上がらせるには、描くべき歴史的背景をあまりに端折りすぎだ。

イギリスという国が紙切れみたいに薄っぺらに感じられてしまうではないか。イギリスという国の重厚でしたたかな側面が何も感じられない。

「高貴な本能」を利用されてしまうダーリントン卿は、イギリス紳士というより、お人好しな日本人みたいだ。イシグロ氏の身近にいたのが日本人だったから、イギリス紳士が日本人になってしまうのだろうか。

この作品は、ハーレクインロマンスを連想させられる文章で書かれた、執事のマナー読本みたいだ。ただ、そこにも手抜きが感じられ、執事の仕事内容がもう一つはっきりしない。

そして、ハーレクインロマンスでは盛り上がる箇所で、この本ではわざとらしく欠落をこしらえている。

技巧なのか、歴史的背景の説明同様、面倒なことは飛ばすことにしているのか。

人物も場面も描きかたが薄っぺらすぎて、登場人物に会話させるためのアイテムでしかなく、執事は仕える相手がイギリス紳士からアメリカ人の富豪に変更になったとはいえ、現役の執事とも思えない、執事のモノローグというよりボケかけた人の寝言みたいだ。

前回のボブ・ディランのときから、ノーベル文学賞が純文学作品からエンターテイメント系の作品に授与されるものへと変節した。

それならそれで、賞の対象になりそうな面白い作品がごまんとある中で、イシグロ氏の作品というのがわたしには納得できない。

ところで、『日の名残り』ではデュポンが意味ありげに出てくるが、あのデュポンだろうか?

もしあのデュポンだとすると、説明がないため、デュポンが戦争で果たした役割について知らない人は、なぜここでデュポンが出てきたのかがわからないのではあるまいか。黒シャツ隊についても同様。いくら執事のモノローグという設定だとしても、説明を省略しすぎる。

ウィキペディア「デュポン」より引用しておく。

エルテールの祖父はユグノーの時計職人で、父は経済学者で政府の官僚にもなったピエール・サムエル・デュポン・ド・ヌムール(Pierre Samuel du Pont de Nemours)であった。フランス革命を避けて、1799年に一家でアメリカに移住したエルテールは、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事し化学知識があり、黒色火薬工場としてデュポン社を設立した。当時アメリカで生産されていた黒色火薬はきわめて粗悪であったため、ビジネスは成功した。徹底的な品質管理と安全対策、そして高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取り、南北戦争で巨利をあげた。やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するようになった。第一次世界大戦・第二次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マンハッタン計画に参加しワシントン州ハンフォード・サイト、テネシー州のオークリッジ国立研究所でウラニウムの分離・精製やプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

ウィキペディアの執筆者. “デュポン”. ウィキペディア日本語版. 2017-09-04. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%9D%E3%83%B3&oldid=65371259, (参照 2017-09-04).

萬子媛関連の資料となりそうな本を図書館から借り、早く読みたいがために『日の名残り』をまだざっとしか読んでいない状況。読み込んで考えが変わる可能性もまだある。

『日の名残り』をちゃんと読んだら、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の以下のエッセーに加筆するつもりだ。

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2017年10月12日 (木)

メーテルリンク『青い鳥』の罪な象徴性について

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、ノーベル文学賞作家モーリス・メーテルリンクについて書いた。

ブラヴァツキーの神智学を批判したメーテルリンクの文章を考察することで、メーテルリンクの思想の一端が明らかとなったように思う。

わたしが前掲エッセーで採り上げたのは復刻版『マーテルリンク全集――第二巻』(鷲尾浩訳、本の友社、1989)の中の「死後の生活」で、1913年にこの作品が刊行された翌年の1914年、メーテルリンクの全著作がカトリック禁書目録に指定された(禁書目録は1966年に廃止されている)。

「死後の生活」を読んだ限りでは、メーテルリンクが神智学的思考法や哲学体系に精通していたようにはとても思えなかった。

上手く理解できないまま、恣意的に拾い読みして自己流の解釈や意味づけを行ったにすぎないような印象を受けた。一方、SPR(心霊現象研究協会)の説には共鳴していた節が窺えた。

『青い鳥』は、1908年に発表されたメーテルリンクの戯曲である。メーテルリンクは1911年にノーベル文学賞を受賞した。

わたしは子供向けに書き直されたものしか読んだことがなかったので、改めてメーテルリンク(堀口大學訳)『青い鳥』(新潮社、1960年初版、2006年改版)を読んだ。

『青い鳥』は、貧しい木こりの家に生まれた兄チルチルと妹ミチルが、妖女ベリリウンヌに頼まれた青い鳥を、お供を連れて探す旅に出るという夢物語である。

妖女の娘が病気で、その娘のために青い鳥が必要なのだという。

兄妹は、思い出の国、夜の御殿、森、墓地、幸福の花園、未来の王国を訪れる。見つけた青い鳥はどれも、すぐに死んでしまったり、変色したりする。

一年もの長旅のあと、兄妹が家に戻ったところで、二人は目覚める。

妖女にそっくりなお隣のおばあさんベルランゴーが、病気の娘がほしがるチルチルの鳥を求めてやってくる。

あの鳥いらないんでしょう。もう見向きもしないじゃないの。ところがあのお子さんはずっと前からあれをしきりに欲しがっていらっしゃるんだよ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)と母親にいわれてチルチルが鳥籠を見ると、キジバトは青くなりかけていて(まだ完全には青くない)、青い鳥はここにいたんだなと思う。

チルチルには、家の中も森も以前とは違って綺麗に見える。そこへ元気になった娘が青い鳥を抱いてやってきて、チルチルと二人で餌をやろうとまごまごしているうちに、青い鳥は逃げてしまった……

ファンタスティックな趣向を凝らしてあるが、作品に描かれた世界は、神秘主義的な世界観とはほとんど接点がない。

登場する妖精たちは作者独自の描きかたである。

これまで人間から被害を被ってきた木と動物たちが登場し、兄妹の飼いネコは人間の横暴に立ち向かう革命家として描かれている。ネコは狡い性格の持ち主である。

それに対立する立場として飼いイヌが描かれており、「おれは神に対して、一番すぐれた、一番偉大なものに対して忠誠を誓うんだ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)という。イヌにはいくらか間の抜けたところがある。

木と動物たちがチルチル・ミチル兄妹の殺害を企む場面は、子供向けに上演されることも珍しくない作品にしては異様なまでに長く、具体的で、生々しい。

木と動物たちの話し合いには、革命の計画というよりは、単なる集団リンチの企みといったほうがよいような陰湿な雰囲気がある。

チルチルはナイフを振り回しながら妹をかばう。そして、頭と手を負傷し、イヌは前足と歯を2本折られる。

新約聖書に出てくる人物で、裏切り者を象徴する言葉となっているユダという言葉が、ネコ革命派(「ひきょうもの。間抜け、裏切り者。謀叛人。あほう。ユダ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)からも、イヌ(「この裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.114)とチルチル(「裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.123)の口からも発せられる。

危ないところで光が登場し、帽子のダイヤモンドを回すようにとチルチルを促がす。チルチルがそうすると、森は元の静寂に返る。

人間は、この世ではたったひとりで万物に立ち向かってるんだということが、よくわかったでしょう」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.127)という光の言葉は、如何にも西洋的な感じがする。

『青い鳥』の世界をキリスト教的世界と仮定すると、『青い鳥』の世界を出現させた妖女ベリリウンヌは神、妖女から次のような任務を与えられる光は定めし天使かイエス・キリスト、あるいは法王といったところだろうか。

さあ、出かける時刻だよ。「光」を引率者に決めたからね。みんなわたしだと思って「光」のいうことをきかなければならないよ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.53)

ただ、『青い鳥』の世界は第一にチルチルとミチルが見た夢の世界として描かれているということもあって、そこまで厳密な象徴性や構成を持ってはいない。

そこには作者が意図した部分と、作者の哲学による世界観の混乱とが混じっているようにわたしには思われた。その混乱については、前掲のエッセー 63 で触れた。

結末にも希望がない。

自分の家に生まれてくることになる未来の弟に、チルチルとミチルは「未来の王国」で会う。その子は「猩紅熱と百日咳とはしか」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.196)という三つもの病気を持ってくることになっている。そして死んでしまうのだという。

既に両親は、男の子3人と女の子4人を亡くしている。母親はチルチルとミチルの夢の話に異常なものを感じ、それが子供たちの死の前兆ではないかと怯える場面がこのあと出てくるというのに、またしてもだ。

新たに生まれてくる男の子は、病気のみを手土産に生まれてきて死ぬ運命にあるのだ。

このことから推測すると、最後のチルチルの台詞「どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ほくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.236)は意味深長だ。

今は必要のない青い鳥だが、やがて生まれてくる弟の病気を治すためにそれを必要とするようになるかもしれないという暗示ではないだろうか。

結局、青い鳥が何を象徴しているのかがわたしには不明であるし、それほどの象徴性が籠められているようには思えない青い鳥に執着し依存するチルチルの精神状態が心配になる。

ちなみに、青い鳥を必要とした、お隣のおばあさんの娘の病気は、神経のやまいであった。

医者は神経のやまいだっていうんですが、それにしても、わたしはあの子の病気がどうしたらなおるかよく知っているんですよ。けさもまたあれを欲しがりましてねえ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)

娘の病気はそれで治るのだから、鳥と接する気分転換によって神経の病が治ったともとれるし、青い鳥が一種の万能薬であったようにもとれる。

訳者である堀口大學氏は「万人のあこがれる幸福は、遠いところにさがしても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです」とお書きになっている。一般的に、そのような解釈がなされてきたように思う。

しかし、観客に呼びかけるチルチルの最後の台詞からすると、その日常生活の中にある幸福が如何に不安定なものであるかが印象づけられるし、森の中には人間を憎悪している木と動物たちがいることをチルチルは知っている。家の中にさえ、彼らに通じるネコがいるのだ。

そもそも、もし青い鳥が日常生活の中にある幸福を象徴する存在であるのなら、その幸福に気づいたチルチルの元を青い鳥が去るのは理屈からいえばおかしい。

いずれにせよ、わたしは青い鳥に、何か崇高にして神聖な象徴性があるかの如くに深読みすることはできなかった。戯曲は部分的に粗かったり、妙に細かかったりで、読者に深読みの自由が与えられているようには読めなかったのだ。

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2017年10月 6日 (金)

カズオ・イシグロ氏の受賞ではっきりした、ノーベル文学賞の変節

カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞の受賞者に選ばれた。NHK NEWSWEBの記事より引用する。

スウェーデンのストックホルムにある選考委員会は日本時間の5日午後8時すぎ、ことしのノーベル文学賞の受賞者にカズオ・イシグロ氏を選んだと発表しました。

イシグロ氏は62歳。1954年に長崎で生まれ、5歳のとき、日本人の両親とともにイギリスに渡り、その後、イギリス国籍を取得しました。

1989年に出版された「日の名残り」は、第2次世界大戦後のイギリスの田園地帯にある邸宅を舞台にした作品で、そこで働く執事の回想を通して失われつつある伝統を描き、イギリスで最も権威のある文学賞、ブッカー賞を受賞しています。

また、2005年に出版された「わたしを離さないで」は、臓器移植の提供者となるために育てられた若者たちが、運命を受け入れながらも生き続けたいと願うさまを繊細に描いたフィクションで、2010年に映画化され、翌年には日本でも公開されました。

ノーベル文学賞の選考委員会は「カズオ・イシグロ氏の力強い感情の小説は、私たちが世界とつながっているという幻想に隠されている闇を明らかにした」と評価しています。

NHK NEWSWEB(2017年10月5日 20時03分)「ノーベル文学賞にカズオ・イシグロ氏 英国の小説家」<http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171005/k10011169111000.html?utm_int=detail_contents_news-related_002>(2017年10月6日アクセス)

ノーベル文学賞の選考委員会のいう「力強い感情の小説」という言葉の意味を、わたしは理解できない。登場人物の感情表現が巧みだということか? それとも、作者の感情が充溢した作品であるということか。

後者であれば、いわゆる文学という芸術作品にはなりにくい感傷小説である可能性がある。

また「私たちが世界とつながっているという幻想に隠されている闇を明らかにした」という文章も解せない表現だ。翻訳の問題なのだろうか。

世界とつながっているというわたしたちの思いが幻想にすぎないことを、作者が何らかの闇を描くことで明らかにした――というのであれば、まだわかるが。

作者は何の闇を描いたのか。そのことがなぜ、世界とつながっているというわたしたちの思いを否定させるのか? こうしたことが納得のいくように伝えられなければ、授賞理由はよくわからないままだ。

Yahoo!ニュースに、「ノーベル賞受賞!カズオ・イシグロ『書くことは生きること、読むことは生きるために必要なこと』」というインタビュー記事があり、その中で、「イシグロ作品は広く読まれていながら『文学』の香りがあるように感じます。ご自身が考える『文学』のあるべき要素とはどんなものですか?」という問いに対して、イシグロ氏は次のように答えている。

それほど堅苦しく考えなくてもいいと思いますよ。つまり「文学」と、「娯楽作」「大衆作」を分け隔てることもないのかなと、私は思っているんです。大学の勉強などでは人工的に線引きをすることもありますが、現代のそういう場所で「文学」と呼ばれているものは、過去においては「ポップ」だったんですから。

Yahoo!ニュース(2017年10月6日12時15分),渥美志保(映画ライター)「ノーベル賞受賞!カズオ・イシグロ『書くことは生きること、読むことは生きるために必要なこと』」<https://news.yahoo.co.jp/byline/atsumishiho/20171006-00076589/>(2017年10月6日アクセス)

2015年まで、ノーベル文学賞は純文学作品を対象としていたが、2016年になって突然ポピュラー音楽の作詞を対象とし、2017年の今年は娯楽作・大衆作を対象としたようである。

カズオ・イシグロ氏の本は書店の目立つ位置に置かれていることが多いので、わたしは何度となく手にとりながら、読んだことがない。

ぱらぱらとめくってみて、娯楽作・大衆作と思ったのである。

反日左派によって席巻されたわが国の文学界で、世に出られない物書きとして草の根的(?)な創作活動を続けているわたしには読まなければならない純文学作品のことで頭がいっぱいなので、元の位置にそっと戻してきたのだった。

実際に読んでみなくてはわからない――そのうち読んでみたいと思っている――が、前掲のインタビューの内容自体がイシグロ氏の諸作品がジャンルとしては文学(日本流にいえば、いわゆる純文学)に分類されるタイプの作品ではなく、娯楽作・大衆作に分類される性質のものであることを物語っている。

純文学には学術的、芸術的という特徴があるゆえに、ノーベル文学賞は理系のノーベル賞と釣り合いのとれるものであった。ところが、昨年から文学賞に関していえば、人気コンテストになってしまったのだった。

純文学は文学の土台をつくる研究部門といってよい分野だから、純文学が衰退すれば、娯楽作・大衆作も衰退を免れない。

音楽に例えれば、クラシック音楽が衰退してポピュラー音楽だけが存在する世界を想像してみればよい。

純文学が衰退することによる、人々の言語能力や思考能力の低下、また伝統の継承や優れた文化醸成への悪影響なども懸念される。

一体、ノーベル文学賞に何が起きたのか?

産経ニュースの記事によると、イシグロ氏と村上春樹は互いにファンであることを公言しているという。

ノーベル文学賞に決まったカズオ・イシグロ氏。毎年、有力候補に名前が挙がる村上春樹氏とは、互いにファンを“公言”していることでも知られる。

産経ニュース(2017年10月5日21時27分)「カズオ・イシグロ氏と村上春樹氏、互いにファンを公言」<http://www.sankei.com/life/news/171005/lif1710050041-n1.html>(2017年10月6日アクセス)

以下のエッセーは、昨年の10月16日に拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に公開したものである。ライン以下に折り畳んで再掲しておく。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

続きを読む "カズオ・イシグロ氏の受賞ではっきりした、ノーベル文学賞の変節"

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2017年9月 7日 (木)

文学界のち的発言集 ①島田雅彦氏、平野啓一郎氏、山中恒氏

記事のタイトルの「ち的」の「ち」に知、痴、どちらの漢字がしっくりくるか、ご自身でご判断ください。

島田雅彦氏のツイッターが最近、炎上したようだ。

2017年8月29日19時14分の島田氏のツイート

PAC3に116億、Jアラートに92億を払うより、金正恩に小遣いやって懐柔し、日本を射程から外してもらう方が安上がりで確実なミサイル防衛になったりして。ロシアや中国はそれくらいの裏技を使っているだろう。

Shimada_twitter_20170829

https://twitter.com/SdaMhiko/status/902716208599797760

島田雅彦氏は1961年生まれの小説家である。また、法政大学国際文化学部教授であり、2010年下半期より芥川賞選考委員を務めている。

イスラム過激派アイシルによる日本人拘束事件が起きたとき、日本政府はテロに屈しない方針を固めたのではなかったか。

芥川賞選考委員、大学教授という社会的地位にある、知的エリート、知識人と呼ばれるべき、それゆえに責任を帯びているはずの人間が甚だしく知性を欠いた、ヤクザの一味であるようなことを平気でのたまう。

島田氏は過去にも問題発言を行っている。

平野啓一郎氏のツイッターも、やはり最近炎上したようである。


Hirana_twitter20170830

https://twitter.com/hiranok/status/903046626234605569

「今月、首相が公邸に泊まったのは25、28両日のみ。いずれも翌早朝に北朝鮮がミサイルを発射しており、事前に兆候を察知していたとみられる。25日は夜の会合などを入れず、28日夜も公邸内で自民党役員らと会食したのみ。出席者の1人は『首相はあまり酒を飲まなかった』と話していた」という8月30日18時15分配信のニュース(時事通信)に対して、平野氏は「腐ってる。」とツイートした。

平野啓一郎氏は1975年生まれの小説家で、1998年『日蝕』で『新潮』デビュー。デビュー時には三島由紀夫の再来ともてはやされた。翌1999年には、『日蝕』で第120回芥川賞を最年少とされる23歳で受賞。

どうしてこうした人々は、北朝鮮がミサイルを飛ばすと、安倍首相の一挙一動、一言一句をにケチをつけ、攻撃しようとするのだろう?

北朝鮮の暴挙に対して、作家らしい抗議声明を出してもいいところを、そうした援護射撃どころか、寝首を掻こうとしているようにしか思えない。もし首相の行動に問題があると思うのなら(どこに問題があるのか、わたしにはわからない)、作家らしい文章で疑問を呈するべきだろう。

ああ恥ずかしい……

平野氏関連の過去記事は以下。

こうした人々が純文学界を占拠しているのだ。尤も、日本の純文学はもう虫の息だ……まだ息があるとは思うのだ、そう思いたい。

彼らがいっていることと同系統の発言を、 1931年生まれの児童文学作家――ウィキペディアを見ると、児童よみもの作家と呼ぶべきなのだろう――である山中恒氏の動画で聴き、衝撃を覚えた。

ウィキペディア「山中恒」より引用

「児童文学作家」と呼ばれることを好まず、「児童よみもの作家」と称している。理由はデビュー当時「児童文学者」を称した人々の純文学的な作風への反発に加え、戦争中に戦争協力的な作品を書いた当時の児童文学作家が、戦後あっさりと「民主」的な作風に乗り換えたことに対する反発もあるとされる。

ウィキペディアの執筆者. “山中恒”. ウィキペディア日本語版. 2017-02-02. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E6%81%92&oldid=62872532, (参照 2017-02-02).

以下の過去記事をきちんと書き直そうと思い、 児童文学界の重鎮と思われる山中恒氏の論文を再読し、講演動画を探したのだった。

山中恒氏のオンライン論文は以下のリンク先のページで公開されている。わが国の児童文学界について知ろうと思えば、これらの論文を読まずに済ませるわけにはいかないだろう。

課題図書の存立構造・抜粋(.htm版)/.txt版 初出『教育労働研究2』(1973・10社会評論社) 所収『児童読物よ、よみがえれ』(1979・10 晶文社)
課題図書の存立構造(全文)/.txt版 (山中恒)初出『教育労働研究2』(1973・10社会評論社) 所収『児童読物よ、よみがえれ』(1979・10 晶文社)

『子どもの本のねがい』(NHK出版協会 1974)
『児童読物よ、よみがえれ』(晶文社 1978)

http://www.hico.jp/ronnjya/08y/yamanakah.htm

課題図書の存立構造」を読むと、日本の児童文学界が共産系のおらが村になった経緯がわかる。ひじょうに参考になる論文だが、気になる点がいくつかあった。いずれ前掲過去記事を書き直すときにそれについても触れるつもりである。

衝撃を受けた動画というのは、2016年3月6日(日)、東京都町田市の町田市民文学館ことばらんどにて開催された山中恒講演会「子どもの本のねがい ―児童読物作家として」を収録したものである。

動画のUPL https://youtu.be/-JHsxTIen6k

動画の中で、山中氏は次のようなことをいっている。

いじめの国家的範囲に拡がっていくのが戦争だってこと考えていくとね、いじめっていうのは撲滅しなきゃいけないし、必ずいじめやったらね、しっぺ返しがくるんだってことをね、子供にも知って貰いたいし、今申し上げたようにね戦争っていうのは、一旦始まっちゃったらどうにもならないんですよ。

今になって北朝鮮や中国の悪口いうけどもね、どうしてアメリカの悪口いわないの?

「いじめの国家的範囲に拡がったのが戦争」という幼稚な考えかたには、心底驚かされた。子供の時の戦争体験が強烈すぎて、また栄養不足などもあり、脳の発達がそこで止まってしまったのではないだろうか、と真剣に考えてしまった。

「今になって北朝鮮や中国の悪口いうけどもね、どうしてアメリカの悪口いわないの?」というのは講演の中に出てくるもので、子供の言葉ではない。

北朝鮮や中国が日本の脅威になった今だからこそ、北朝鮮、中国の批判をするのではないのだろうか。

共産主義者以外の人間はアメリカの批判をしないというのは認識不足だと思うが、普通の日本人であれば、アメリカが同盟国であることを認識している。それに対して、中国、北朝鮮のミサイルは現に日本に向いているのだ。

危機管理意識がいわせる批判であって、悪口などという生易しいレベルのことではないはずだ。戦争の恐ろしさを知っていると講演でアピールしている人間が日本の危機的状況下でこちらにミサイルを向けている相手を見ず、自国のみ凝視しているのが異常である。

この人は戦時中子供であったために、戦争下の特殊な状況に置かれていた日本――戦時下ではどの国もそうである――がずっと昔から、そして敗戦後もずっとそのような日本であるような妄想を抱いているのではないだろうか。

子供が不都合なこと、理不尽なことは全て親のせいだと思うような、何か痛々しいところさえある。その親の代表、シンボリックな父親が安倍首相というわけなのだろう。

とにかく、日本が危機的状況にあることは間違いない。以下の本はおすすめ。スイス人の危機管理能力は凄い。この本を読めば、日本人がどんなに無防備であるかがよくわかる。

民間防衛ーあらゆる危険から身をまもる
原書房編集部 (翻訳)
単行本: 320ページ
出版社: 原書房; 新装版 (2003/7/7)
ISBN-10: 4562036672
ISBN-13: 978-4562036677

アマゾンの商品説明から引用させていただく。

商品の説明
内容紹介
本書はスイス政府がその住民と国土を戦争・災害から守るためのマニュアルとして、全国の各家庭に一冊ずつ配ったものの翻訳である。官民それぞれが平時から準備すべき事柄が簡潔に具体的にまとめられ非常に参考になる。この1冊で、戦争や災害などの、想定されるさまざまな局面と状況に対応できる!


【内容目次】

平和

われわれは危険な状態にあるのだろうか
深く考えてみると
祖国
国の自由と国民それぞれの自由
国家がうまく機能するために
良心の自由
理想と現実
受諾できない解決方法
自由に決定すること
将来のことはわからない
全面戦争には全面防衛を
国土の防衛と女性
予備品の保存
民間防災の組織
避難所
民間防災体制における連絡
警報部隊
核兵器
生物兵器
化学兵器
堰堤の破壊
緊急持ち出し品
被災者の救援
消化活動
救助活動
救護班と応急手当
心理的な国土防衛

戦争の危険

燃料の統制、配給
民間防災合同演習
心理的な国土防衛
食料の割当、配給
地域防衛隊と軍事経済
軍隊の部分的動員
全面動員
連邦内閣に与えられた大権
徴発
沈黙すべきことを知る
民間自警団の配備
妨害工作とスパイ
死刑
配給
頑張ること
原爆による隣国の脅迫
放射能に対する防護
被監禁者と亡命者
危険が差し迫っている
警戒を倍加せよ
防衛

戦争

奇襲
国防軍と民間防災組織の活動開始
戦時国際法
最後まで頑張る
用心
戦いか、死か

戦争のもう一つの様相

敵は同調者を求めている
外国の宣伝の力
経済的戦争

革命闘争の道具
革命闘争の目標
破壊活動
政治生活の混乱
テロ・クーデター・外国の介入

レジスタンス(抵抗活動)

抵抗の権利
占領
抵抗活動の組織化
消極的抵抗
人々の権利
無益な怒り
宣伝と精神的抵抗
解放のための秘密の戦い
解放のための公然たる闘い
解放

知識のしおり

避難所の装備
医療衛生用品
救急用カバン
2週間分の必要物資
2ヶ月分の必要物資
だれが協力するか? どこで?

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2017年8月20日 (日)

高校生の読書感想文におすすめの本 2017年夏・秋

夏休みの読書感想文によい本を選んで記事にするつもりでしたが、遅くなりましたので、秋の読書週間(10月27日から11月9日まで)にもよい本ということで、おすすめを選んでみました。来年の夏休みの本選びの参考にしてくださっても結構です。

画家を主人公とした短編小説2編、中・長編小説各1編を選んでみました(バルザックの作品を除けば、過去記事で採り上げた作品になります)。大人のかたにもおすすめです。

作品がいつ、どこで書かれたかということは重要です。

読んでいる途中でそれを知りたくなることが多いものですが、読んだ後にでも、そうしたことについて調べてみれば、作品に対する理解がより深まることでしょう。

自分が読みたいように読んで、好きなように感想を書いても一応感想文にはなるでしょうが、作者がどういう意図をこめて作品を書いたかというを考えながら読まなければ、作品を通して作者が伝えたかったことが読みとれませんし、作者との関係を育むこともできません。

対人関係においても、こうした読書で培われた洞察力がよき友人を得ることに役立つでしょう。他人を理解したいと思っている人よりも、他人に自分を理解されたいと思っている人のほうが圧倒的多数を占めます。

他人を理解するということは、自分を理解することにも通じます。読書を通して自分を見つめる習慣を持ち、他人を理解したいと思うような人が増えれば、この世はもう少し繊細な、美しいところとなるのではないでしょうか。

作品を通して作者からもたらされる読書の喜びは、心という源泉を刺激して、えもいわれぬ幸福感をもたらしてくれるでしょう。そのためには、それを可能としてくれるような良書を選ぶ必要があります。

わからない言葉が出てきたとは、面倒臭がらずに辞書を引いてみることをおすすめします。わからなかった言葉がわかるようになるということは、それだけ自分の世界が広がることなのです。

もし、作品から否定的な印象を与えられた場合には、作品のどういうところが肯定できないのか、探ってみてください。そのことをきちんと書けば、それも立派な感想文になりますよ。

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中編小説、サマセット・モーム(1874生 - 1965没)の『月と六ペンス』は読書感想文向きです。登場人物がややステレオタイプで、それだけに読みやすいといえます。

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)
ウィリアム・サマセット モーム (著), 土屋 政雄 (翻訳)
文庫: 433ページ
出版社: 光文社 (2008/6/12)
ISBN-10: 433475158X
ISBN-13: 978-4334751586

モームはイギリスの作家で、『新潮世界文学 30 モームⅡ』(中野好夫訳、新潮社、1968)によると、医師として第一次大戦で従軍しますが、諜報関係の仕事にまわされ、スイスのジュネーヴを中心に活躍しました。

このときの体験が、スパイ小説の古典といわれる短編小説集『アシェンデン』に生かされています。40年ほども昔の話になりますが、わたしが学んだ高校で使われていた英語の教科書に、『アシェンデン』の一部分が教材として載っていました。

第一次大戦ではその後、ロシアの過激派政権成立を阻止するための任務を帯びます(工作は失敗)。第二次大戦では、戦争協力に関するフランスの情報を蒐集する仕事を行っていたそうです。

モームの作家活動は、19世紀末のヴィクトリア朝時代に始まりました。その作風は皮肉っぽいリアリズムを特徴としていますが、世紀末的唯美主義の影響も見られます。

モームが『月と六ペンス』の主人公としたストリックランドは、フランスの画家ポール・ゴーギャン(1848-1903)をモデルとしたといわれています。

ゴーギャンは、中年になってそれまでの仕事をやめ、家庭も捨て、楽園を求めて南太平洋フランス領ポリネシアにあるタヒチ島に渡ります。ストリックランドもそうです。

とはいえ、ゴーギャンの絵を画集で見、『ノアノア』というタヒチ滞在記を読むと、ゴーギャンとストリックランドは作風も性格もかなり違うなという気がします。モームの『月と六ペンス』はゴーギャンの伝記ではなく、モームの芸術観が結晶した小説なのですから、それが当然ではあるのでしょう。

『月と六ペンス』では、イギリスの中・上流家庭の様子が細かに描かれています。一方、ゴーギャンの『ノアノア』を読むと、ゴーギャンのタヒチ滞在が帝国主義的西欧列強による植民地主義と深い関わりがあることがわかります。

タヒチがフランス領だったからこそ、ゴーギャンはタヒチで暮らすことができたのですが、タヒチに楽園の理想を託しながらも、その楽園に植民地主義の影響が及んでいることに失望します。

一方、モームの小説ではストリックランドは何を求めてタヒチに渡り、その成り行きはどうだったのでしょうか。そういえば、ゴーギャンと、ゴーギャンと親交のあったゴッホは共に日本の浮世絵の影響を受けています。モームは世界周遊の締め括りとして1959年、日本を訪れたそうです。

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画家を描いたゴーゴリとバルザックの短編をご紹介します。

狂人日記 他二篇 (岩波文庫 赤 605-1)
N.ゴーゴリ (著), 横田 瑞穂 (翻訳)
文庫: 224ページ
出版社: 岩波書店 (1983/1/17)
ISBN-10: 4003260511
ISBN-13: 978-4003260517

『狂人日記 他二篇』に収められている『肖像画』がおすすめです。

ロシア・リアリズム文学の創始者とされるニコライ・ゴーゴリ(1809生 - 1852没)は、 ゴーゴリに続いた世界の文豪たちに大きな影響を及ぼしました。

臨場感あふれる写実的、映像的な描写が特徴で、作風はリアリズムと幻想性の融け合った独特のムードを持っています。

『肖像画』には幻想的というよりはオカルティックなムードがあり、わたしは読みながら恐ろしくなりました。

この作品では重要な芸術論が展開されています。本物の芸術作品が放つ清浄、深遠、気品をゴーゴリは見事に表現しています。

ここまで芸術の神髄に迫った作品は稀でしょう。今後の人生で、芸術作品を鑑賞するときの指針となってくれるような小説です。

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サラジーヌ 他3篇 (岩波文庫)
バルザック (著), 芳川 泰久 (翻訳)
文庫: 272ページ
出版社: 岩波書店 (2012/9/15)
ISBN-10: 4003750829
ISBN-13: 978-4003750827

オノレ・ド・バルザック(1799生 - 1850没)はフランスの国民的作家であるにとどまらず、近代文学の祖とされている小説家です。

壮大な人類の歩み全体を捉えようとする総合性がその文学の特徴で、バルザックは「上から下まで、全段階にわたる社会、立法、宗教、歴史、現在を、私は残らず分析し観察した」(E・R・クルティウス『バルザック論』大矢タカヤス監修、小竹済栄訳、1990)と書いています。

『サラジーヌ 他三篇』に収められた『ピエール・グラスー』は短編ですが、このような小品においてもバルザックの本領は発揮されています。

画家を主人公とした短編小説はバルザックにはもう一編あり、バルザックの短編の代表作として挙げられる『知られざる傑作』がそうです。芸術に溶解してしまうかのような画家が描かれた作品ですが、今回おすすめする『ピエール・グラスー』ではお気楽な俗っぽい画家が描かれます。

生活の糧を得るために画家になったピエールは、芸術行為を社会生活における損得に合わせて行います。

このような行為はもはや芸術行為とはいえないのでしょうが、彼はあくまで善良な社会の一員であって、権力の絶頂に登り詰めた後も自分の絵の本当の価値がどんなものかがわかっており、良心の呵責からある善行(?)を行ったりします。

ピエールが彼を取り巻く善良な人々と共に幸福な人生を送る姿は、何ともいえません。今の日本社会では、ピエール・グラスー型の芸術家にうまくなりおおせている人々が大勢、精力的に生産活動を行っているのではないでしょうか。

何だか種明かしをしてしまったようですが、これはわたしの解釈と感想にすぎません。あなたは、わたしとは異なる感想文をお書きになることと思います。

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どうせ読むなら長編小説を、というかたのためには、画家を主人公としたゾラの長編小説をおすすめします。

制作 (上) (岩波文庫)
エミール・ゾラ (著), 清水 正和 (翻訳)
文庫: 382ページ
出版社: 岩波書店 (1999/9/16)
言語: 日本語
ISBN-10: 4003254554
ISBN-13: 978-4003254554

制作 (下) (岩波文庫)
エミール・ゾラ (著), 清水 正和 (翻訳)
文庫: 371ページ
出版社: 岩波書店 (1999/9/16)
ISBN-10: 4003254562
ISBN-13: 978-4003254561

フランスの小説家ゾラ(1840生 - 1902没)は自然科学の手法を文学に導入した自然主義文学を提唱し、ヨーロッパに一文学潮流を創り出しました。

社会の断面図を見せてくれるような作品を書くゾラの創作姿勢はジャーナリスティックで、明快な写実性を特徴としています。ですから、『制作』は長編ですが、読みやすくて、少しも長いとは感じさせません。

そういう意味では、ゾラとモームには共通点があります。

生まれた順に記せばバルザック、ゴーゴリ、ゾラ、モームとなります。全員が優れた写実性を特徴としていますが、着眼点に違いがあります。

ゾラは、後期印象派の画家セザンヌと親交がありました。『制作』にはセザンヌが投影されているようです。

ゾラのこの作品もゴーゴリの『肖像画』同様、リアリズムと幻想性の融け合った作風で、芸術の魔性に迫っています。ゴーゴリの作品ではその魔性が悪魔的なもの、ゾラの作品ではバッカス的(ここでは退廃的エロス)です。

ゾラの作品にはわたしはいつも作りすぎの印象を受けるのですが、サロン落選展の描写などは圧巻です。

『制作』の主人公クロードの最期……訳者解説によると、小説『制作』を贈られたセザンヌは儀礼的な礼状を最後に、ゾラとの交友を断ってしまったということです。1902年のゾラの急死の報に、セザンヌはひどい衝撃を受け、その後倒れるまでの4年間、『大浴場』『サント・ヴィクトワール山』の連作に没頭し、完成させました。

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2017年6月 8日 (木)

今東光『毒舌日本史』(文藝春秋、1996)から薫る神智学的教養

神智学と縁の深かった父親を持ち、自身も神智学書籍の翻訳などした今東光について、当ブログの過去記事をもとに書いた記事を拙「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップした。

ウェブサイトで閲覧した記事には今東光の著作からの引用も多く、参考になったが、本人の著作を読まずに記事を書いて終わらせるわけにはいかないので、加筆するつもりで、現在色々なタイプの今東光の5冊の著作――歴史小説2冊、歴史エッセー、身上相談物2冊――とと、編集者が書いた小伝を読んでいる。

身上相談物を読んで、東光が大好きになってしまった。ああ会ってみたかった。

親に恵まれなくとも、昔の日本には今東光のような慈父であり、またどこか慈母でもあるような人物がいて、魅力的な毒舌口調で相談にのってくれていたのだ。

読んでいて感激の涙が出てくるくらいに、真正面からこの上なく真剣に東光は回答している。

その身上相談を読んでも東光が身につけている物凄い教養とユーモアのセンスは感じとれるのだが、今東光『毒舌日本史』(文藝春秋、1996)を読むと、その教養から神智学の薫りがするのである。

例えば、聖徳太子。今東光は阿育王(アショーカ王)の善政を評価し、その善政に倣った隋の文帝を評価し、短命だった隋だが、「僕に言わせるとこの文帝の仏教治国策は古代東洋における阿育王の話に次ぐ近代性を有つ国家です」(今,1996,p.59)という。

そして、人民の民度は低く、野蛮と無法とが貧困と同居している日本で、この隣国の仏教治国策を施そうとしたのが聖徳太子だといい、東光は最大級の賛辞を捧げている。

アショーカ王の特色は、彼が熱烈な仏教信者でありながら、他の諸宗教を排斥しなかったところにある。中村元は『古代インド』(講談社、2004)で、それは仏教に、本来このような性格があるからだと述べている。

仏教とは覚者(ブッダ)の教えである。覚者とは万有の真理を会得した人にほかならない。このような覚者は、偏狭な先入見を去って、ありとあらゆるものにその存在理由を求め、主種な思想的立場に対しては、そのよって成立するゆえんを洞察するものであらねばならない。覚者の教えは他の教えと対立することがない。それらを超越してしかも包含しているところのものである。ゆえに仏教それ自身はかならずしも他の思想体系を否認せず、それぞれの意義を十分に承認し、それぞれの長所を生かそうとするものである。(中村,2004,p.193)

わたしはここから神智学の教えを連想するのであるが、アショーカ王は真の仏教信者であったから排他的でない宗教性を持っていたのだろうし、今東光は真の仏教信者であったからこそ、神智学に親和性があったのだろう。あるいは、神智学に親和性のある資質が東光を仏教信者にしたといえるのかもしれない。

アショーカ王はチャンドラグプタの孫だった。過去記事でも書いたことだが、ブラヴァツキーを指導、守護したモリヤ大師のモリヤの名は、同大師の化身であったモリヤ(マウリヤ)王朝の始祖チャンドラグプタ・モリヤから来たものだといわれている。東光はこのことを知っていただろうか。

東光は神仏分離を次のように批判している。

僕の持論はね、明治初年の神仏分離は稀に見る悪法で、稀に見る悪法で、あのために日本はモラルのバックボーンを喪失したと見るんです。従って神仏は改めて新しく発足し直し、昔ながらに手を握るべきである。これなくして日本はモラルを恢復することが出来ないと主張してるんですどうです、こりゃ名論卓説てえもんでしょう。(今,1996,p.98)

平安時代末期に編まれた歌謡集『梁塵秘抄』に収録された歌では神仏がそれぞれの系譜を純粋に保ちながら渾然一体となっていて、そこからは高い美意識と倫理観が感じられる。

日本人の美意識、倫理観がこのとき既に高度な水準に達していたことを考えるとき、わたしにも、神仏分離は悪法だったとしか思えない。神智学徒であれば、誰しもそう思うだろう。

絶世の美女とされるクレオパトラの知的魅力を、「アレクサンドリア学派の哲学を修めた教養の高い才女」(今,1996,p.39)という風に、アレクサンドリア学派を背景に説くところなども、神智学徒らしさを感じさせる。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版)の用語解説「アレクサンドリア学派(Alexandrian Philosophers School)」を読むと、アレクサンドリア学派について総合的な知識を得ることができるが、ここに、アレクサンドリア市は「西暦173年にアンモニオス・サッカスが設立した折衷学派即ち新プラトン学派で一層有名になった」(田中,1995,「用語解説」pp.16-17)とあり、質疑応答形式の本文に「神智学という名称は三世紀に折衷神智学を創始したアンモニオス・サッカスとその弟子達から始まったものです」(田中,1665,p.13)とあるように、神智学はアレクサンドリア学派から起こった。

だからアレクサンドリア学派という名称は、神智学徒にとっては特別の響きを持っているはずである。

今東光は嵐のような日教組に対する批判活動を繰り広げていたらしい。「共産主義てえもんは赤色帝国主義だってえ解るときが怖いんだ」(今,1996,p.133)という東光は、その怖さを緻密な歴史研究を通して知っている。

そして、引用する左翼的教育に対する今東光の懸念は、唯物史観とは到底相容れない神智学的歴史観からすれば、当然のものだ。

日本の左翼的教育てえものは、つまり馬鹿を拵[こしら]える教育で、それでねえとインチキなマルクス・レーニン主義を押しつけることが出来ねえんだね。だから日本の歴史も、仏教も何も知らねえ二十世紀人ばかりになってきた。将来、此奴等が大人になって人の親となったら、それこそ歴史の悲劇だろうな。(今,1996,p.19)

東光の懸念は当たってしまった。

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