カテゴリー「評論・文学論」の258件の記事

2018年8月12日 (日)

「試着室」(金平糖企画新作公演、作・演出 時枝霙)を観劇して

インターネットでの拡散はOKのようなので、下手なレビューを書きます。ネタバレありなので、これから観劇なさるかたはご注意ください。

金平糖企画主宰、時枝霙さんを採り上げた記事がネット検索で出てきたので、リンクしておきます。

クローズアップ 2018  輝きの女たち
いつも行く美容院や飲食店を舞台に公演
演劇、朗読、写真、文章など多彩に表現
時枝 霙さん
金平糖企画主宰

http://www.josei-oita.jp/2018_7h.html

「医師と表現者の二足のわらじ。演劇、朗読、文章、写真など活動は多彩」と前掲記事にあり、驚かされます。

以下は、「金平糖企画」のツイッターです。

金平糖企画 @confettiplannin
舞台作品をつくったり、ライブをします。9/23.24熊本DENGEKI参戦。諫早独楽劇場シアターバー10月。

https://twitter.com/confettiplannin

8月8日、「試着室」(金平糖企画新作公演、作・演出 時枝霙)を観に行きました。

貸店舗での舞台と客席の境界を設けない上演で、全体に実験的要素が感じられる劇でした。

舞台はアパレルショップ。舞台装置は極めてシンプルで、境目のない舞台からドアに向かう空間が舞台の延長として活用され、能楽でいう橋掛りの役目を持っていました。

音響はレトロ調、近距離からの照明は迫力がありました。

店主役によって吊り下げられていくハンガーには折鶴がぶら下がり、床には折り紙が巻き散らされます。それらは服に見立てられているようでした。

登場人物は、アパレルショップの店主、アルバイトの女子学生(長身のスリムな男性が演じていました)、女性客、沈黙したまま片隅に蹲っている首にギブスをつけた怪我人。

台詞はしばしば詩のようで、客と店主が会話を交わすとき、客が失恋を独白するときなどに、学生がバックミュージックのように髪、爪、血液などの人体に関する自然科学的な台詞を詩の朗読のようにいう場面があり、不思議な雰囲気を創り出していました。

客が学生と一緒に駆け回りながら、床にまき散らされた折り紙を掴んではまき散らす場面は圧巻で、絶望感に囚われた女性に合う服はどうしても見つかりません。

ストーリーらしいストーリー、結末らしい結末はなく、別の客がアパレルショップへやってきて(片隅に蹲っていた怪我人との二役。演じていたのは時枝さん)、店主と新しい客が、前の客と全く同じ会話を交わすところで、存在しない幕が下りました。

アパレルショップは、エンドレスに循環する宇宙的な営みをシンボライズしているようでもありました。

娘の友人の演技には磨きがかかっていました。アパレルショップへの訪問者(客)を過去のトラウマから自分探しの旅(?)へと誘う店主の役を、品よくこなしていました。

この品のよさこそが、劇中で日常と非日常を違和感なく一体化させていた重要な要素に思えました。

「試着室」からはよい意味でのアマチュアリズムというべきか、ひじょうにナイーヴな芸術性というべきか、純粋志向が感じられ、いささか古い用語を用いるならば、「不条理」なテーマへの純粋すぎるくらいのアプローチが印象的でした。

不条理という言葉は、今の若い人々には馴染みのない言葉かもしれませんが、アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)の哲学的エッセー「シーシュポスの神話」で有名になった実存主義の用語で、人間存在の根源的曖昧さ、無意味さ、非論理性に由来する絶望的状況を意味する言葉です。

ここからは蛇足になりますが、わたしの大学のころ――40年ほども昔の話になります――には、第二次大戦後にフランスからサルトルなどによって広まった実存主義はまだ流行っていました。否今でも哲学的主流はこのあたりに停滞していて、現代哲学は唯物論に依拠して局部的、細部的分析に終始しているように思えます。

ちなみに、カミュは自分では実存主義者ではないとしていますが、その思想傾向からすれば、実存主義者に分類されていいと思われます。

カミュに発見された女性哲学者シモーヌ・ヴェイユは晩年、キリスト教的神秘主義思想を独自に深めていきますが、しばしば実存主義哲学者に分類されます。

実存主義はマルクス主義の影響を受けた思想で、唯物論的であり、マルクス主義の流行とも相俟って一世を風靡したのでした。

しかし、一端、唯物論的袋小路へ入り込んでしまうと、自家中毒を起こし、下手をすれば阿片中毒者のような廃人になってしまう危険性さえあります。村上春樹のムーディ、曖昧模糊とした小説はこうした不条理哲学の子供、ただしカミュの作品が持つ聡明さ、誠実さを欠いた子供といえます。

戦後、日本人はGHQによる洗脳工作(WGIP)や公職追放(注)などもあって、唯物主義、物質主義が優勢となりました。こうしたことに起因する現代日本の問題点が演劇という形式で真摯に表現されているという点で――それが意図されたわけではなかったのかもしれませんが――、「試着室」は興味深い作品でした。

(注)
わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まりました。20万人以上もの公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれます。

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2018年7月11日 (水)

椿山滋「今夜は鍋にしましょうよ」(民主文学 2018年8月号)を読んで

一昨日の記事で書いたことですが、椿山滋さんが『民主文学 2018年8月号』(日本民主主義文学会、2018年8月)を送ってくださいました。

本格的なプロレタリア系文芸同人誌で、神秘主義者のわたしが不用意に読んでいいのだろうかと思ってしまいましたが、文学作品はどこに発表されていようと、文学作品として読み、感想があれば書く、というスタンスですので、拝読しました。

前掲誌「支部誌・同人誌評」の冒頭で評者が「『民主文学』本誌に掲載されるのは民主文学的作品(この定義自体が曖昧なのだが)に限定されるという誤解があるが、掲載されるかどうかはジャンルではなく、社会と人間の真実にせまる、その作品の芸術的評価による」(136頁)という第25回全国研究集会での話を伝えておられ、このスタンスには共鳴するところです。

椿山さんの作品は「今夜は鍋にしましょうよ」です。以下に、掲載小説四篇の感想を掲載順に記します。連載小説については、のぞかせていただきました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

今後千寿子「柿」

小説では、アル中問題、農業の衰退、過疎、老人問題などが複合的に重なっている。それぞれの問題は関連し合っているようでもあり、そうでないようでもある。

例えば、農業の衰退によって過疎化が進み、老人問題を深刻化させることはあっても、アル中問題はまた別のところにある気がする。

これは私事になるが、政府の減反政策で米作りが振るわなくなり、家業を農業から肥育農家に転じた親戚があった。

儲かったそうだが、肥育農家が家風に合わなかったようで、伯父は牛供養に力を入れ、伯母は牛を市場に送り出すたびに泣いていた。牛市場の競争が激化する中、息子は公務員に、伯父夫婦は高齢となり、肥育農家を廃業した。

牛市場の競争の激化は、1991年(平成3年)4月の牛肉・オレンジの輸入自由化によるものだった。牛肉・オレンジの輸入自由化はアメリカの要求によるものであり、その原因を遡れば日本の敗戦にまで行き着いてしまう。

「柿」はリアリズムの手法で描かれていながら、歴史的な背景が欠落しており、読んでいて物足りなさを感じる。

青木資二「スタンダード」

安倍政権になってから道徳の教科書、授業に偏りが出てきたことを憂う、元小学校教員――退職して7年経過――が主人公。小学一年生になる孫が夢遊病(?)となり、そのことと学校教育が関係あるような、ないようなストーリー展開となっている。

35頁に「戦争法」と出てくる。ウィキペディア「戦時国際法」に「戦時国際法(せんじこくさいほう、英:Law of War)は、戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき義務を明文化した国際法であり、狭義には交戦法規を指す。戦争法、戦時法とも言う」(ウィキペディアの執筆者. “戦時国際法”. ウィキペディア日本語版. 2018-04-14. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%88%A6%E6%99%82%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B3%95&oldid=68198605, (参照 2018-04-14).)とあるが、「平和安全法制」に批判的な人々は、それを戦争法と呼ぶようだから、小説の安倍政権に批判的な内容からすると、後者の意味だろう。

ただ、平和安全法制に肯定的な人々は同じ法律を戦争防止法と解釈しているわけで、小説は論文ではないが、もう少し中立的な視点も必要ではないかという気がする。尤も、授業参観後の懇談会を描き、様々な意見を紹介することで、バランスがとられているのかもしれない。

教育勅語も出てくる。教育勅語の内容を、わたしは安倍総理に絡んでそれが話題となるまで、全く知らなかった。知らない人のほうが多いのではないかと思う。

「教育勅語」「大東亜戦争 開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」「玉音放送」を歴史資料集にでも載せるべきではないか。

日本人として子どもたちには――当然大人にも――大日本帝国の教育方針がどのようなものであったのか、また大日本帝国が日本となるに至る決定的な瞬間に著された二つの文書の内容を知る権利があるのではないかと思う。

これらを知った上で、大日本帝国に暮らしていたわたしたちの祖先の生き方をどう思うかは、思想統制されていないはずの今の日本に生きる人間として自由であるはずだ。

戦前の教育への回帰を危機感と捉える人物を主人公とするのであれば、そうは捉えない人々にも説得力を持つだけのストーリー展開と描写力が要求されるだろう。子どもの夢遊病と担任教師の道徳教育に対する逡巡だけでは、弱い気がする。

ところで、小説では子ども――主人公の孫――の夜中の異常行動が夢遊病(睡眠時遊行症)とは書かれていない。

わたしが夢遊病ではないかと思ったのは、自身の体験からそう思っただけのことである。小説の中の子どものように、それが起きたと聞かされたのは小学校一年生のときで、2回だったか3回だったか忘れてしまったが、それくらいの回数で治まった。

わたしは極度に過敏な子どもだった。その原因としては、両親の都合で子守さんの手を転々としたり、親戚に預けられたりして、常に興奮状態にあったためではないかと思う。

子守さんが不要となり、一人きりの静かな時間が持てるようになって、児童文学全集を次々に読むようになってからは精神的に安定した。文学様様なのだ。文学こそがわたしの真の母といえるくらいである。

「明治神宮」のオフィシャルサイトより、教育勅語の口語文訳を転写しておく。
http://meijijingu.or.jp/about/3-4.html
<ここから引用>
【教育勅語の口語文訳】
 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

~国民道徳協会訳文による~
<ここまで引用>

サイト「日本に生まれた若い人たちへ」で、「大東亜戦争 開戦の詔勅  (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」「玉音放送」が紹介されている。わたしはこのようなものであったのかとの感慨を覚えた。受ける印象は人それぞれだろう。

椿山滋「今夜は鍋にしましょうよ」

若年性アルツハイマー型認知症と診断された女性が主人公。病気に怯える主人公の日常生活が主人公の意識に沿って描かれ、「恋待ち商店街」の人々との温かみのある親交がホームドラマのような趣で描かれる。

完成された文体と工夫されたストーリー展開に手練れと感じさせられるが、何作も読むと、パターン化されているようで、ちょっと飽きがくる。登場人物は、あえてそう造形されているのか、個性がない。特に、一緒に暮らしている夫や電話をかけてくる娘は平板な描き方で、遠景のようだ。

主人公の症状にしても、若年性アルツハイマー型認知症とはこのようなものだろうという、一通りの情報をもとに描かれているように感じられてしまうのだ(実際にはどうであれ)。医者の言葉なり、医学書の解説なりを使った、専門的な知識が読者にもたらされれば、主人公の症状が説得力を帯びてくるかもしれない。

小説の終わりの方で、「生きているかぎり、人間に賞味期限などあってはならないのだ」という主人公の胸のうちの言葉が出てくる。施設に入れられることを恐れる主人公にとって、賞味期限の切れた人間の送られるところが施設というイメージなのだろうか。

より突っ込んだ読み方をすれば、商店街でのぬるま湯のような親交、雑事の積み重ねであるにすぎない日常生活は賽の河原での石積みのようであり、人間は運命に翻弄されるだけの存在と印象づけられる。

椿山さんの小説には救いがない。登場人物がありきたりで魅力に乏しいことが、その救いのなさを助長する。その救いのなさこそがおそらくは作者の思想で、危険性を孕む微温的な日常生活を描き続ける椿山さんの作品には、哲学的ペシミズムが通奏低音として流れている。

増田竹雄「二年目の春」

印象的な作品だった。プロレタリア文学というジャンルを思い出させてくれる小説で、1965年ごろの国鉄を時代背景として、そこを職場とする一プロレタリアの生き方(活動)を克明に描こうとする一途さが感じられる。

冒頭の投身事故が衝撃的である。後始末をする主人公の様子が淡々と描かれる。

主人公の野原進は国労内の反主流派で、統一戦線を掲げ政党支持自由を方針にしている1947年発足の「革同会議」の有志グループに所属していた。しかし、野原は職場の同期だった共産党員――斎藤の頼みを受け入れ、1964年四・一七スト中止のビラを撒く。その目的は、親米的な組合幹部がアメリカ帝国主義の企む挑発ストに乗るのを阻止することだった。

国労本部の方針に反した野原の行動は問題となるが、彼の教宣活動を好意的に捉える組合員が増え始めており、彼ら120人が所属する大分会の組合員が野原を統制処分から守ってくれる。

こうした事件がきっかけとなり、斎藤の勧めもあって、野原は共産党に入党し、三人でつくる「細胞」の一人として活動を始める。1965年の春闘四・三〇ストの成功がクライマックスだろう。

ストが進行するなかで、管理の隙をかい潜るように、動力車労働組合に巣食う革マル派集団がバケツに白ペンキと刷毛を手にして旅客車両に「国鉄解体・国鉄粉砕・動労革マル」と殴り書きする姿が読者の目にも異様に映る。管理者は彼らの動向を野放しで泳がせているようだ。

国鉄ストがどのように行われていたかが克明に描かれており、歴史的、史料的価値のある作品といえるのではないだろうか。

野原の活動は、輸送の安全と労働者の生活の改善だけを純粋に目的としたものではなく、マルクス理論の実践という側面を持つ。

マルクス主義は絶対的なものという前提がこの小説にはあるようだが、一般読者の一人として、そこに疑問を持つのである。マルクス主義が絶対的なものとして語られるには、小説として、マルクス主義がどのようなものであるかの丁寧な説明が必要だ。

小説が背景とする時代から時が流れた現代では、最も帝国主義的な国家はアメリカより中国であるようにわたしなどの感覚では思われるのだが、小説の主人公野原は現在どのような活動をしているのだろう。続編を書いてほしいものである。

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2018年6月25日 (月)

H.P.ブラヴァツキー(忠源訳)『シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論』(竜王文庫、2018)を読んで

アマゾンに書き込んだ拙レビューを転載します。

 シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論 (神智学叢書)
 H.P.ブラヴァツキー (著), 忠 源 (翻訳)
 出版社: 竜王文庫 (2018/1/1)
 ISBN-10: 4897416205
 ISBN-13: 978-4897416205

シークレット・ドクトリン 第2巻 第1部 人類発生論 (神智学叢書)

霊(モナド)・魂(知性)・肉の三つの面から総合的に捉えられた人類発生論
★★★★★

まだ読み込んだとはいえませんが、この著作が貴重な、またこの上なく面白いものであることには間違いないと思われますので、おすすめです。

ブラヴァツキーの著作を読むと、人類の知的遺産の薫りがして、作品の中に破壊されたアレクサンドリア図書館までもがまるごと存在しているかのような感動を覚えずにはいられません。

肉体的、物質的な面に限定された観点からではない、霊(モナド)・魂(知性)・肉――七本質――の三つの面から総合的に捉えられた人類発生論ですから、宇宙発生論同様、この『第2巻 第1部人類発生論』の内容も深遠です。

『シークレット・ドクトリン』がブラヴァツキーの渾身の執筆作業を通じて、大師がたの監修のもとに人類に贈られた科学、宗教、哲学を統合する一大著作であるとすれば、それは現人類にとって、自分を知るための最高の教科書であるはずで、その記述が深遠、難解であるのも当然のことでしょう。

宇宙発生論を復習すると、目に見える惑星には自分を含めて七つの仲間球があり、一つの惑星チェーンを構成します(四番目のものが最も濃密、目に見える実体のある球体です)。惑星上の生命の源モナドはその七つの球体をまわり――一環(ラウンド)といいます――、七回まわります(七環あります)。

わたしたちは第四環の第四球体である物質地球(D球)上に存在しており、第5〈根本〉人種期にあります。第6、第7と続きます。

「人間は――動物の姿をした神だが――〈物質的自然界〉の進化だけによる結果であり得るのか?」(106頁)というテーマが壮大な宇宙と地球的ドラマを見せながら展開される中でも、月と地球の関係など、本当に神秘的な記述でありながら、なるほどと納得させられるだけの根拠が感じられます。

月から来たモナドである月ピトリ達(月の主方)のアストラル的な影(チャーヤー)であり、自生であった第1人種。滲出生であった第2人種。卵生、二重性(雌雄同体)であった第3人種。その終わりに、性の分離が起きます。

人間の性の分離後における半神的な人間の最初の子孫がアトランティス人で、このアトランティスの巨人達が第4人種でした。

レムリア、アトランティスに関する記述は圧巻です。古代の宗教・哲学、神話、寓話、伝説、伝承がかくもダイナミックに甦るとは。

わたしは昔、学研から出ていたオカルト情報誌「ムー」でアトランティス伝説を知り、その後アトランティスについて書かれたプラトンの未完の作品『クリティアス』を読みました。この度、美しい、わかりやすい日本語で、ブラヴァツキーの筆が醸し出す精緻、荘重な雰囲気を味わいながらアトランティスに関することを読める幸福感はまた一入でした。

プラトンは、アトランティスに関することをファンタジーとして書いたわけではありませんでした。新プラトン学派とも呼ばれた古代神智学徒の流れを汲む近代神智学徒ブラヴァツキーにアトランティスに関する記述があったとしても、不思議なことではありません。

初めてこの本を開いたのは、2017年のクリスマスでした。クリスマスに、旧約聖書に登場するノアがアトランティス人として語られるくだりを読むのは、格別の面白さに感じられたものです。

「訳者 あとがき」で『シークレット・ドクトリンの第1巻 宇宙発生論』を平成元年に上梓された第二代竜王文庫社長で綜合ヨガ竜王会第二代会長、神智学協会ニッポン・ロッジ初代会長でもあった田中恵美子先生による訳者はしがきが紹介されており、その中で『シークレット・ドクトリン』の構成について、次のような説明がなされています。

<ここから引用>
『シークレット・ドクトリン』の原典の第一巻は第1部「宇宙発生論」スタンザとその註釈、第2部「シンボリズム」、第3部「補遺」となっています。又、二巻は第1部「人類発生論」スタンザと註釈、第2部「世界の宗教とシンボリズム」、第3部「補遺」となっています。
<ここまで引用>

第1部「宇宙発生論」スタンザとその註釈に関しては、以下の邦訳版をアマゾンで購入できます。

    シークレット・ドクトリン 宇宙発生論《上》
    H・P・ブラヴァツキー (著),‎ 田中恵美子 (翻訳),‎ ジェフ・クラーク (翻訳)
    出版社: 宇宙パブリッシング; 第1版 (2013/4/15)
    ISBN-10: 4907255004
    ISBN-13: 978-4907255008

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2018年5月12日 (土)

「三田文學」(第24回三田文学新人賞)から新星あらわる

関根謙 編集人、吉増剛造 発行人「三田文學」(第97巻 第133号 春季号、2018.5)誌上で、第24回三田文學新人賞が発表になり、受賞作と選評が掲載されている。

三田文學を定期購読してきたのだが、ここ数年は積読になっていた。この号も積読の中に入れるつもりで、新人賞の応募要項だけ確認しようとして開くと、第24回三田文學新人賞とある頁が目に入った。

受賞作は、佐藤述人「ツキヒツジの夜になる」。村上春樹の影響を受けた小説だろうと思い、雑誌を閉じようとしたところ、ふとその頁が光を宿しているかのように美しく見えた。

それが気のせいかどうかを確認するために、読み始めた。

以前から、商業誌、同人誌いずれにしても、目につく純文学小説は大抵、プロレタリア系私小説の流れにあるものか、同じ左派系土壌から生まれた妄想ファンタジー系主観小説の流れにあるものかのどちらかだった。

前者は日本語の使いかたは概ね正しく、安心して読めるという利点はあるが、辛気臭くて退屈なこと、この上ない。どこからともなく黴臭がしてくるほど。後者はしばらくは楽しませて貰えても、所詮は表面的な遊戯にすぎないと感じられて退屈になる。どちらを読んでも、モチベーションが低下する原因の一つになるだけなのだ。

この小説は後者だろうか、無駄な読書をする時間はないけれど……と思いつつ、読んでいった。

以下、ネタバレありです。ご注意ください。

主人公武一のいる室内の描写が丹念に続けられる中で、彼に生き物の声が聞こえてくる。

わたしは「露わになったTシャツ一枚の背」という表現に引っかかった。露わとはむき出しのことで、一枚とはいえ着ているものがあるのだから、余計だ。「耳に血液を集中させる」という表現も妙ではないだろうか。注意を集中させることはできても、血液を意図的に集中させるのは難しい気がする。注意を集中した結果、生理学的にそのような現象が起きるにせよ。

正体のわからない生き物の声に誘われて主人公が外へ出ると、斜め向かいの女性住人が先に生き物の声に誘われて出てきていた。倉庫の下に生き物はいて、これまでは挨拶を交わす程度だった女性がそれはツキヒツジだと教えてくれる。

それだけのことで家に戻った武一は、両親のことや図書館から借りっぱなしの本のことを考えているうちに眠る。早朝に目覚めたあと、午前9時まで旧約聖書のルツ記を読む。それだけのことで、場面は移る。

これは春樹とは違うぞ、とわたしは考え出した。春樹であれば、女性をそのまま帰すわけはないし(センスのよい女性であることを印象づける、何らかの記述のあることが多い)、旧約聖書など出すなら、それを利用した気の利いたセリフを吐くはずだ。

武一は牛丼屋と古本屋にいったあと帰宅し、またベッドに座って21歳のときに再会し、去年死んだ同級生寛史のことを回想する。武一はそのとき、芸術哲学を学ぶ美大の学生だった。同級生は国立大の学生。

友人というほどの関係はなかったが、自己主張の強い武一とは対照的に、思慮深そうな寛史の顔つきは記憶に刻まれていた。

待ち合わせて再会したときの寛史に関する描写は簡潔で美しい。

彼の横顔は変わっていなかった。短かった髪を今は伸ばしており、前髪は二方向に分かれ、細いフレームの眼鏡をかけ、顔の無駄な肉がなくなっていた。だから正面の印象は随分違っていた。けれども、横顔はあのままだった。…(24頁)

大学4年生で起業した寛史は世間で有名になるが、去年の夏、自殺した。

寛史を知っている同級生4人が彼を偲ぶために集まる。そこでヒツジニンゲンの話が出る。再会したとき、寛史がヒツジニンゲンの話をしたことを武一は思い出す。小さい頃に見たと寛史は言った。

寛史のために集まった同級生の男女の中で、退職して実家にいる武一は浮いた存在となる。

彼らはきっと寛史の横顔を覚えていない。有名な学生企業家の知りあいだったことや友人を失った痛みを経験したことを自分のステータスに刻みたいだけだ。でも、武一は彼らにみじめな微笑みを向けることしかできない。彼らが仕事帰りだということを考える今の武一が何を言っても中学生のころの選挙権がないのに選挙を語るおさない言葉と変わらない。できることが少なすぎる。社会の端でなんとか生かされている。そしてこれからも生かされていくのだろう。これからもずっとみじめな微笑みしかできないのだろう。…(30頁)

わたしは読みながら、段々と自分がこの小説を書いたような気がしてきていた。そこまで共感していたのだ。冷静に自己を見つめる武一。

両親は、仕事をやめた武一に休養の期間もたまには必要だからしばらく実家にいなさいと言ってくれた。そのことに感謝しながらも武一は、両親はどうやって武一を追い出そうかと会議しているに違いないなどと考える。「会議」の言葉が、みじめさの中にもユーモラスな雰囲気を演出している。

慰めや勇気づけを音楽に求める人間はわたしを含めて多いと思うが、作者が次に書くようなことを意識化できる者がどれだけいるだろうか。既にわたしは作者の観察眼と分析力に非凡なものを感じていたが、この箇所で確信した。新星あらわると。

音楽を耳に流し込む。音楽はいつも体の周りを温めて、しかしやっぱりどこか深くへは来てくれない。音楽は魔法ではないのだ。そんなことはわかっているだろう。わかっているだろう? 寒い。夜の音はもう聞こえない。代わりに音楽が流れているのだ。イヤホンの外にある夜の音は感じることができない。もしかしたらそれが奥まで来てくれるはずのものなのかもしれない。…(33頁)

作者の言葉は何て静かに、リリカルに、そしてまた力強く訴えかけてくることだろう。これこそ、文学だ。文学の力である。

武一の観察と分析は研ぎ澄まされて、身の回りにあるもの全てが、夜でさえもが、誰かが作ったものだと思えてくる。聖書に手を伸ばそうとして、あれ? と武一は思う。

なぜページがあるのだろう。聖書もだれかが製本したのだ。なるほど、と声に出している。大量の聖書が製本されていく工場を想像している。だとすれば、武一にはこの本を開く権利もない。言葉にふれる権利はあるだろう。あると信じている。…(34頁)

このくだりは、もはや思想である。哲学だ。箴言のような、詩のような文章。静かな、毅然とした言葉。まるで耳に響いてくるようだ。わたしは涙していた。すばらしい書き手があらわれた。ついに、あらわれた。

すべてが参加に裏付けされている中で、自分にはそれに参加する――それを享受する――資格がないと武一は思う。それを確認するときの畳みかけるような言葉の連続が美しい。

演劇を見ることで参加する側の一員になろうとして、富山の劇場に出かけた武一は、そこでも参加できない自分を発見し、テーマを深めることになるが、どうやら答えは出ない。

小説が終わりに向かう中、武一は塀に蔦のように這ったコードに額の毛の白い金色の小さな生き物の死体がぶら下がっているのを見る。彼は、その死んだ生き物――おそらくはツキヒツジ――を入れたと思われる紙袋を穴に入れ、燃やす儀式を行う。

その行動をとる前に、斜め向かいの女性住人と会話を交わす場面が出てくる。その女性がわたしにはなぜか、統合失調症と闘い続けて亡くなった「詩人」と呼んだ女友達に思えて仕方がなかった。

女性住人は、計算されていなければ出て来ない雰囲気を持っている。だが、わたしにはツキヒツジの意味も、その女性が登場した意味もわからなかった。

出ない答えを出そうとする作者の焦りが、ツキヒツジという存在の曖昧さに出ているとも思える。この案が充分に練れているとは思えないが、ファンタスティックな生き物と飄々とした女性はこの作品に合う。

儀式のあと、図書館の本が入ったもう一つの紙袋を持ち上げて、武一が公園から出ていくところで作品は終わっている。

武一が参加にこだわるのは、その時期が来ているにも拘わらず、社会参加ができていないからである。参加するには違和感のある社会なのだ。人間は社会的な生き物であると、改めて思わずにはいられない。

もう還暦を迎えたというのに、ここ数年この主人公のような意識をわたしは強めてきたので、共感も一入だった。そして、読んだ後で、武一を作ったのは誰なのかと考えさせられた。神秘主義的深みのある、哲学的な小説に出合えた喜び。

創作に入るには、最低限、借り物でない作者自身の発見がなければならず、芸術の一分野としての文学行為であるためには真善美への焦がれるような憧れがなければならないとわたしは考えてきた。

この小説はこれらを満たしているように思われた。めったにないことである。技法的な問題は、創作を重ねることで解決していくだろう。

本物の才能が現れましたよ、三枝先生。日本文学は大丈夫です。この才能には土壌があるはずで、それを誕生させた優れた人々が周りにはいるはずです。作品がそう明かしているではありませんか――わたしは亡き三枝和子先生に語りかけていた。

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2018年5月 4日 (金)

ノーベル文学賞が選考機関の性犯罪疑惑で発表見送り、ですと。

何のこっちゃ?

詳しくは、時事ドットコム(2018/05/04-19:12)の記事へ⇒ここ

いい加減にしてほしいものです、ノーベル文学賞。

関連記事:

2017年10月 6日 (金)
カズオ・イシグロ氏の受賞ではっきりした、ノーベル文学賞の変節
http://elder.tea-nifty.com/blog/2017/10/post-a6a2.html

2017年10月18日 (水)
カズオ・イシグロ『日の名残り』を、とりあえずざっと
http://elder.tea-nifty.com/blog/2017/10/post-fcc1.html

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2018年4月29日 (日)

ヤコブ・ベーメに関するメモ3(30日に訂正、加筆あり)

トルストイの『戦争と平和』について書いている途中なのだが、ちょっとメモ。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1995改版)「用語解説」の「錬金術(Alchemy)」ではアルケミーの語源、概要、歴史、近代化学的解釈などについて解説されている。以下は抜粋である。

……アルケミーは、自然の精妙な諸力と、それらのエネルギーが働いている物質の様々な状態を扱う。イニシエーションを受けていない利己的な世間の人々が手に入れても危険にならない程度に大神秘を伝えようとしてアルケミストは、多少人工的な言葉で地水火風という四大元素の基本となる等質の質量の中には、ある種の普遍的溶剤が存在することをアルケミーの第一原理として仮定する。この等質の質量をアルケミストは純金、即ち最高の物質[マテリア]という。普遍的溶媒とも言われるこの溶剤には、人体からあらゆる病気の種を取り除き、若さを取り戻し、長寿にする力がある。これが哲人の石である。(……)アルケミーを学ぶには、三つの異なる面、即ち宇宙的、人間的、俗世的面があるが、それにはいろいろな解釈が可能である。
 この三つの面は、硫黄、水銀、塩という三つの錬金術的特性によって代表されていた。
(……)アルケミーにはただ一つの目的があるという点で、著者達はみな一致している。それは卑金属を純金に変質させることである。だが、これはただアルケミーの一つの面にすぎなく、つまり、俗世での純粋に心理的で霊的な象徴的意味がある。……(ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説pp.67-68)

カバリストの錬金術師は、錬金術の物質的側面を追求するが、オカルティストの錬金術師は、低級四つ組を人間の神聖な高級四つ組に変質させる方向へのみあらゆる注意を向け、努力を尽すという。低級四つ組と高級三つ組がついに融合すると両者は一つとなる。

この錬金術の解説とも響き合うブラヴァツキーの言葉を引用して、神智学協会ニッポンロッジの初代会長、翻訳家であり、神智学の優れた研究家・解説者であった田中恵美子先生は竜王会の機関誌「至上我の光」の中で、次のようにお書きになっている。

……もし、すべてのカーマを殺し、これをすべて上向きの清浄な欲求に置きかえることが出来た場合には、七重の構成体に驚くべき変化がおきます。つまり、アートマ・ブディー、マナスの三つ組みは浄化した低級マナスを受け入れ四つ組みになります。一方死すべき四つ組みはカーマが消えて、肉体と複体とプラーナで三つ組みになります。これが解脱した人の様子であるとH・P・Bは言っています。……(綜合ヨガ機関誌「至上我の光」374・5号、7・8月合併号、竜王文庫、1985、ハートの神秘pp.37-38)

カーマとは、サンスクリット語で欲望のことである。釈迦の解脱が仏教の核心であることを考えると、錬金術の核心的技法は仏教の奥義に一致するということだ。

現代化学はその最大の発見を錬金術に負っているのだが、宇宙にはただ一つの元素しかないというのが錬金術の否定し難い公理にもかかわらず、化学は金属類を元素類の部に入れてしまった――と、ブラヴァツキーはいう。

以上のような、錬金術に関する予備知識があるのとないのとでは、難解なベーメの著作の理解度に著しい差が出る。

ヤコブ・ベーメ(南原実訳)『キリスト教神秘主義著作集 第13巻』(教文館、1989)所収「シグナトゥーラ・レールム ――万物の誕生としるしについて――」によると、神はミステリウム(神秘)であり、無である。

唯一の存在のことである“永遠の非存在”という概念は、私達が存在の概念を自分達の現在の存在意識に限定していることを忘れている者には逆説と考えられるだろう」(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』神智学協会ニッポン・ロッジ、1989、スタンザⅠp.251)とブラヴァツキーはいうが、この文章はまるで、ベーメのいう神=無の解説さながらである。

ベーメに戻ると、無は永遠の目、底なしの目である。この目は意志――あらわれ出て無を見出したいというあこがれ――であるが、意志のまえには何もないから自分自身のなかに入って自然を通して自分を見出す。

自然の外のミステリウムのなかには二つの姿がある。第一の姿は自然へと、奇跡の目の顕現へ向かう。第二の姿は第一の意志の子で、大いなるよろこびの欲である。

よろこびの欲は意志と欲のガイストとして内から外へ出ていく。ガイストは命の機〔はた〕を織り、欲はガイストのなかに姿をつくり、はてしないミステリウムはさまざまな形となってあらわれる。姿をとった全体が神性の永遠の智である。

ベーメのいうガイストとは、精神、聖霊、霊、気といった、「かみ」の意味範囲にまたがる、目にみえず、五感ではつかめない純粋な運動をいう。

……万物は唯一人の母から出て来て、永遠の本体にもとづき、二つの本体、すなわち、死と不死の本体、生と死、ガイストとからだの二つに分かれた。ガイストは生命であり、からだは死であり、すなわちガイストの家である。外にむかっての出産は、三位一体の誕生に似ている。四つのエレメントからなるこの外の世界のフィギュアとおなじく、天にもまた、本体とガイストがあり、もともと一つのエレメントであったのが、上に述べたように、外の世界において、火、風、水、地の四つの性質に分裂する。
 さらにこの世界の創造については、次のようなことがみられる。すなわち、この世界の浮かぶ宇宙空間〔ロクス〕のうちに、永遠の世界の全本体が動いて、姿全体に火がつき、蠕動しはじめる。こうしたことが、顕現へとむかう欲のうちに起こったのである。このとき、誕生したものは、燃え出した火の衝撃を受けて四つの部分にわかれた。すなわち、火、風、水、地。
……(ベーメ,南原訳,1989,p.38)

そして、万物の第一の母、欲をともなう自由な意志は、主として七つの姿に移行し、それぞれ固有の飢えの性質のままに、からだをつくるのだとベーメはいう。

あらゆる神秘主義者やカバリストの中で、火を一番正確に定義したのは、バラ十字会員達であった」(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』神智学協会ニッポン・ロッジ、1989、スタンザⅤp.354)とブラヴァツキーは述べている。以下は、『神智学の鍵』の用語解説「拝火哲学者(Fire philosopher)」からの引用である。

……バラ十字会員は、火を神性の象徴と見た。火は物質的原子の根源であるだけでなく、原子にエネルギーを与える霊的、サイキック的な力を含んでいるものでもあった。火は三つの本質から成り立っている。秘教的には、他のあらゆる元素と同じく、七つの本質から成る。人間は、霊、魂、体と四つの相で構成されているが、火もまた同じである。有名なバラ十字会員の一人であるロバート・フラットの著作によると、火は第一に見える炎(体)を含み、第二に見えないアストラルの火(魂)を、第三に霊を含むという。四つの相とは(a)熱(生命)、(b)光(心)、(c)電気(カーマ的、分子的力)、(d)霊を超えた総合的本質、つまりその存在と顕現の根本原因。……(ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説pp.47-48)

自然の中心には三つの姿が宿る、とベーメはいう。すべての根源である第一プリンキピウム(原理)ではガイスト、第二プリンキピウムでは愛、第三プリンキピウムでは本体と呼ばれる。そして第三プリンキピウムのなかで、三つの姿はスルフル(硫黄)、メルクリウス(水銀)、サル(塩)と呼ばれる。

人間は神、あるいは在りとし在るもののうちの在るものをかたどって造られていればこそ、人間のうちには三つの世界すべての姿がことごとくひそんでいる。この三つの世界に対応して、三人の工匠、トリオのフィアット(創造への意志、欲)が人間のなかにいて、主導権争いをする。どの工匠が主導権を握るかによって、リュートは異なる音を出し、残りの二人は退いてバックグラウンドのひびきとなる。

つまり、人間の生命は三つのプリンキピアに、すなわち三種類のエッセンスにまたがる。第一には永遠の自然、火の性質のガイスト。第二には永遠の光、神の本性の性質のガイスト。第三には外なる世界の性質のガイスト。

このような三重のガイスト、三重のエッセンスと意志の性質、そしてこれらのエッセンス、ガイストがたがいに争って生ずる病気、癒す薬、療法が何であるかをベーメは考察していくのである。

錬金術独特の表現とみられる文章を引用しておきたい。

……こうして、錬金術師の観察すべきことは――三人の殺害者、すなわちサトゥルヌス、マルス、メルクリウスがライオンの葡萄色の血のなかで溺れ死ぬとき、三人は、消え失せるのではなく、その罪が許されるのであって、すなわち、かれらの憤怒は、愛の欲へと変容される。すなわち、ヴェーヌスからソルへの変容が行われる。火の欲が水の欲のなかに入って行くとき、水のなかから、そしてまた水のなかに光、つまり輝きがあらわれる。すなわちヴェーヌスは、白く、火の欲は、赤い。そして、ここに色の変容が起こって黄色が生じる。つまり、黄色は、白と赤とが同時に存在すると生じる色であって、王者の色である。すなわち、メルクリウスがよろこびの力に変容すると、増殖[ムルチプリカチオーン]がはじまる。死んだまま母のなかに閉じ込められていたメルクリウスは、母をソルに変容する。メルクリウスは、地上的なものをことごとく天上的なものとなし、かつて乙女がそうであった一つの性質とする。すなわち、このとき乙女もまたその名を失う。なぜなら、乙女は、その愛と真珠を騎士に与えるからである。そして、この騎士がここでは白いライオンと呼ばれるのであって、イスラエルとダビデの家の獅子と聖書に記されているとおりである。……(ベーメ,南原訳,1989,p.164)

延々と続くこのような文章には唖然とさせられるが、よく読めば、実験の過程で生じる様々な現象が語られているのだとの察しはつく。

ベーメは科学教育を受けていなかったため、科学分野の知識に乏しかったというだけでなく、科学的思考自体がキリスト教によって抑圧されていた、17世紀初頭のドイツにおける著作であることを念頭に置いておかなければならない。

上山安敏によると、ヨーロッパではドイツを含めて魔女裁判の最盛期は16世紀、17世紀であった(『魔女とキリスト教』講談社[講談社学術文庫]、1998、p.221)。

ちなみに、ベーメが亡くなった1624年イングランドに生まれたアイザック・ニュートン(Isacc Newton, 1624 - 1727)は錬金術師であったし、1627年、アイルランドに生まれたロバート・ボイル(Sir Robert Boyle、1627 - 1691)は近代科学の祖といわれるが、彼もまた錬金術師であった。

ベーメの著作では、一つの単語が重層的な意味を持っていることもあって、異様にわかりにくい表現となっている。

例えば、メルクリウス,水星(Mercurius)は、「すべての生命と運動のもと」「目に見えない力を形あるものとなす工匠、棟梁」「万物の誕生の輪」「不安の輪」「分節化によって、音、ひびき、ことばをもたらす」「聖なる内なるメルクリウスは神の息吹、言葉」「メルクリウスの毒に対抗できるのはメルクリウス自身の子キリスト」「メリクルウス固有の性質は毒の生命」「メルクリウスの毒の輪」「毒のメリクルウスのうちにこそ大きな真珠がひそむ」「メリクルウスの水は水銀」「パリサイ人」……といった使いかたがなされる。

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2018年4月19日 (木)

椿山滋「雨、嫌いやねん」(『日曜作家 第22号』)を読んで

休刊中の『日田文學』の同人仲間だった椿山滋(ペンネーム)さんがタウンマガジン『なかつ  VOL.209』(2018年3月1日発行)をお送りくださったことを以下の過去記事に書きました。

2018年2月27日 (火)
椿山さん、タウンマガジンありがとうございます
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/02/post-0fa5.html

今度は季刊文芸誌『日曜作家 第22号』をお送りくださいました。御礼を申し上げると共に、意欲的な創作活動に敬意を表します。

短編小説のタイトルは「雨、嫌いやねん」。

感想は、ネタバレになります。

これまでの椿山さんの作品の中でも、特に安定した筆力を感じさせられました。平易な言葉が使われていますが、それらが選び抜かれたものであることが、流れるような文章からわかります。

ストーリーを紹介しますと、主人公・逸郎の母親が倒れる場面から話が始まります。71歳の母親は五日後に亡くなります。

母親が倒れたとき、逸郎はその原因が自分の帰省にあったのではないかとの自責の念に駆られます。

私立大学卒業後も就職せずにバンド活動を続け、29歳のときにはメジャーデビューの話が聞こえ始めていたところ、新メンバーとして迎えた女性をめぐって内輪もめがあり、バンドは解散してしまいました。

その女性と同棲していた逸郎は彼女と共に新メンバーを募り、バンド活動を再開したものの、思うような結果は出せず、女性とも別れた逸郎は6年前の36歳のときに、音楽から完全に遠ざかりました。

逸郎は様々な職業を転々とするうち、抑うつ神経症になって、帰省したのでした。

5年前に、父親も亡くなっていました。狭量で神経質、短気で臆病な父親に逸郎は自分が似ていると感じています。四つ上で46歳になる兄はそこそこの会社に勤めていましたが、リストラに遭います。自分のために兄に大学進学を諦めさせたという自責の念も、逸郎にはありました。

兄は父親に反対されて結婚せず、逸郎と同じく独身でした。優しい、しっかり者の兄と、その兄に甘え依存する弟の逸郎。弟を心配する兄の焦慮、弟の情けない様子が丁寧に描かれていきます。

逸郎はやけを起こし、ちょっとした狂言自殺をはかります。夢の中で前を行く母親に追いつけなかった逸郎は、自分に呼びかける兄の声で意識を回復しました。「起きなくていい、そのまま寝てろ」と言う兄の声は慈悲に満ちていました。

その兄はしかし、その同じ時刻に交通事故を起こして病院にいたことが、看護師の緊急電話からわかります。

病院にいるという兄に死なんといてくれと訴えかけ、「おれは寄生虫やない。おれは寄生虫やない。なぁ、兄ちゃん、聞いてるか? おれは寄生虫やないで。ちゃんと働くで」と半泣きになった逸郎が転がるようにして部屋を出るところで、小説は終わります。

プロになれない物書きは、主人公・逸郎が目指していた音楽の世界での成功を文学の世界でのことに置き換えて読むでしょう。わたしには恐ろしい小説でした。

考えてみれば、音楽や文学の世界に限らず、どの世界においても、逸郎は星の数ほど存在します。

その逸郎の存在価値を認める家族は、友人は、知人は、いないのでしょうか。彼のベースギターの音は、一番身近な家族には聴こえなかったのでしょうか。

その点が充分には描かれていないために、聴こえなかったとしか思えず、逸郎の存在は救いようのないものになっています。

家族は逸郎が見た音楽の夢のために被害を被った人々であるといえますが、一方では逸郎もまた、音楽がわからない家族の無神経さの被害者であるともいえます。

芸術の世界であれ、どの世界であれ、スポットライトを浴びて活躍できるのは一握りの人々にしかすぎません。その一握りの人々だけでは当然ながらその世界は成り立たないわけですが、逸郎はその自覚に欠け、成功を目的としすぎていたのではないでしょうか。敗残者っぷりが半端ではありませんから。

バンド活動中のベースを弾く逸郎の様子が効果的に挿入されていたとしたら、小説はまた違った雰囲気になったでしょうね。

「最後のほうは意地だけでつづけていたようなもんやった」としても、逸郎が10年以上生きた音楽の世界について具体的に知りたいと読者であるわたしは思いましたが、あえてそれをせず、作者は世間の目となって無慈悲に(安易に)逸郎を断罪しているように思えました。

いやー、わたしにはホント、怖ろしい小説でした。ちゃんとした感想になっていず、すみません。

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2018年4月14日 (土)

ヤコブ・ベーメに関するメモ1(16日にメモ追加、まだ書きかけ)

トルストイ『戦争と平和』にはバラ十字系ロシア・フリーメーソンの記述があるので、その関連から神智学の本でバラ十字についてざっと調べたあとは、神秘家、錬金術師、神智学者とされるヤコブ・ベーメはバラ十字であったとバラ十字会のオフィシャルサイトにあったので、家にあった邦訳版のベーメの本を読んでいた。

ヤコブ・ベーメについて、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1995改版)の用語解説「ベーメ(Jacob Boehme」には「神秘家であって、偉大な哲学者であり、最も優れた神智学徒の一人である。1575年頃、ドイツのゲルリッツ市の近くに生まれ、1624年に50歳近くで没した。村の学校で読み書きを習ったあと、ゲルリッツの貧しい靴屋の徒弟となった。全く驚嘆すべき力のある天性の透視家であった。科学教育を受けず、その知識もなかったが、多くの本を書いた。今、それらの著作には科学的真理がたくさん含まれているのが証明されている」(ブラヴァツキー,田中訳、1995,用語解説p.56)と始まって、1頁まるごと使って解説されている。一方では、「この偉大な神智学徒が300年後に生まれていたとすれば、それを別の言い方で表現したであろう」(ブラヴァツキー,田中訳、1995,用語解説p.57)とも書かれている。

ヤコブ・ベーメの邦訳版著作が1冊だけ、我が家の本棚にあった。教文館刊行の「キリスト教神秘主義著作集」の中の1冊で、第13巻がヤコブ・ベーメである。

めったに邦訳版の出ることのないベーメの貴重な著作であることは、これを購入した30年ほど前のわたしにもわかっていた。

が、わたしは2人の子供の子育て真っ最中、純文学の賞狙いで熱くなっていたころだったので、当時5,000円というのは高額に感じられ――今もそうだが――、もう1冊同じシリーズの17巻に入っているサン・マルタンとどちらにすべきか、大いに迷った。

どちらか1冊しか買えないとなると、ベーメだろうか。神秘家、錬金術師として有名なベーメの著作がどんなものであるのか、触れてみたい。サン・マルタンはまたの機会に。作家の端くれにでもなれたら、自分の小遣いくらいは稼げるようになるだろうから――と当時のわたしは思った。

作家の端くれにもなれなかったわたしには今でも購入できるサン・マルタンはやはり、高価だ(アマゾンで見ると、7,020円)。ベーメは中古品しかない。この街の県立図書館にこのシリーズは置かれていないようだ。

サン・マルタンに対する興味は、バルザックの著作に度々出てくるところから来ていた(バルザックはバラ十字だった)。サン・マルタンがバラ十字の祖の一人とされている哲学者ということは知らなかったので、むしろ今のほうが強く惹かれる。そのうち中古品でも購入して読んでみなくてはと思う。

ロシア文学のすばらしさを知らない文学好きはいないと思うが、そのすばらしさがどこから来ているのか、わたしにはずっと謎だった。

今、ロシア思想界を席巻したといわれるほどにバラ十字系フリーメーソンの影響が強かったことを思うとき、ロシア文学の研究にはバラ十字の研究も加えられるべきではないかと思う。

世界的文豪とされる作家の作品にはほぼ例外なく、神秘主義の芳香がある。純文学から神秘主義的要素を削ぎ落してしまっては、純文学自体が死んでしまうのだ。

これまでにも書いてきたことだが、第二次大戦後の日本では、GHQによる公職追放によって21万人もの各界の保守層が追放された結果として左翼が勢力を伸ばし、学術研究においても彼らが主導的立場をとることになった。彼らの唯物史観に障る分野の研究はなおざりにされてきたという実情があるのだ。

拙神秘主義エッセーブログの「20 バルザックと神秘主義と現代」でも引用したが、『バルザック全集 弟三巻』(東京創元社、1994・8版)の解説で、安土正夫氏が次のようなことをお書きになっている。

従来バルザックは最もすぐれた近代社会の解説者とのみ認められ、「哲学小説」 は無視せられがちであり、特にいわゆる神秘主義が無知蒙昧、精神薄弱、一切の社会悪の根源のようにみなされている現代においてその傾向が強かろうと想われるが、バルザックのリアリズムは彼の神秘世界観と密接な関係を有するものであり、この意味においても彼の「哲学小説」は無視すべからざるものであることをここで注意しておきたい。

神秘主義に対するマルキストの誹謗中傷は、今やそっくり彼らに返っていったのではないだろうか。

話をヤコブ・ベーメに戻そう。

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ヤコブ・ベーメ(1575年 - 1624年)
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『キリスト教神秘主義著作集 第13巻』所収「神智学書簡」を読むと、ベーメの作品とされるものがどのように書かれたのか、また最初は単なる覚書として、次には方々の質問に答えようとして何冊か本を書いたがために、誹謗中傷や迫害を受けたことがわかる。

第12の手紙には次のように書かれている。

私の書いたのは、いろんな本を勉強して学んだ知識や学問によるのではなく、わたしの内部に開かれた私自身という本から書いたものです。つまり、神の高貴な像(すなわち神の似姿である人間)という本を読む恵みが与えられたのでした。(……)
主の霊がそのうちに働かない者が、神に関する事柄をどうして判断できましょうか。(……)社会的な地位などに関係なく人間のうちにあって判断を下す神の霊、目に見ることのない神の霊の助けなしには、だれひとり真理と主の御心をとらえることはできません。素人もドクトルも同じことです。
(ベーメ,南原,1989,pp.276-278)

べーメはごく平凡に日々を過ごしていたわけではなく、イエス・キリストの御心を一途に求めた人であった。ある日、それに対する応答を自らのうちに得たということのようである。

神のミステリウムについて何か知ろうとは、少しも望まなかったし、いわんや如何に探し如何にして求めたらよいか、何一つわかりませんでした。何一つわきまえぬ素人のように、私は、無知そのものでした。私が求めたのは、ひたすらイエス・キリストの御心だけ。(……)こうして心をつくして探し求めるうちに(はげしい苦悩におちいりましたが、そこから逃げ出してすべてを放棄するよりはむしろ死んだ方がましだとまで思ううちに)、扉が開き、15分間のうちに、大学で何年も学ぶよりもはるかに多くのことを見、そして知ったのでした。まことに不思議なことで、なぜまたそうなったのか自分でも分からなかった。私の心は、ただ神の御業をたたえるばかりでした。…(ベーメ,南原,1989,p.274)

ゲルリッツ市参議宛の第54の手紙には、自分や妻子に加えられる迫害から守ってほしいという切実な訴えが綴られている。ベーメの書いたものは巷で評判になり、賛否を巻き起こしたのだろう。

このささやかな本のなかで、神から賜物を授かった私の個人的ないきさつが記されておりますが、それは身分も高く、学問もある方々の依頼を断り切れず書きましたもので、いくたりかの方々の心を動かすことがあったとみえて、さる高貴な貴族の方が、愛の心から印刷させたのでございます。…(ベーメ,南原,1989,p.298)

ベーメを理解し、支援したのは、バラ十字であった人々が中心であっただろう。というのも、一般人にはベーメの作品は凡そ理解できないものであったに違いないからである。

バラ十字の最初の著作は1614年に神聖ローマ帝国(現ドイツ)のカッセルで、第二の著作は1615年にやはりカッセルで、第三の著作は1616年にシュトララースブルクで上梓されている。

バラ十字がその存在を世に知らしめ、活動を表立って活発化させた時期と、ベーメの著作が世に出た時期とが重なる。

『神智学の鍵』の用語解説「拝火哲学者(Fire philosopher)」(p.57)には、バラ十字会員はテウルギー師の後継者だと書かれている。

H・P・ブラヴァツキー(ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳)『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』(竜王文庫、2010、ベールの前でIv)によると、キリスト教時代の神働術(theurgy)の最初の一派は、アレクサンドリアの新プラトン主義者イアンブリコスによって創設された。

しかし、エジプト、アッシリア、バビロニアの神殿では聖なる秘儀において神々の召喚が行われ、その役割を荷った司祭は最早期の太古の時代から神働術師と呼ばれていたという。

もしそうだとすると、バラ十字の起源は太古に遡ることになる。

『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』ベールの前で(lv)によると、神働術師はあらゆる偉大な国々の〈至聖所〉の秘教的教えに関する専門家だった。

イアンブリコスについて過去記事にもいくらか書いていたので、そこから引用する。

『神智学の鍵』の用語解説「イアンブリコス(Iamblichus)」には、イアンブリコスは「たいへんな苦行をし、清浄で真剣な生活を送った。(……)地面から約5メートルの高さまで空中浮遊したと言われている」(ブラヴァツキー,田中訳,1995,用語解説p.17)とある。

『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』によると、神智学の創始者アンモニオス・サッカスの直弟子達プロティノスとポルフィリオスはテウルギーは危険であるとして、懸念を抱いたらしい。

イアンブリコスの一派は、プロティノスやポルフィリオスの一派とは違っていた。このふたりの高名な人物は、典礼魔術も神働術も堅く信じてはいたが,危険であるとして強く反対した。… (ブラヴァツキー,老松訳,2010,ベールの前でlvi)

イアンブリコスはピタゴラスについて最も多くを書き残している。ピタゴラス派の日々の生活がどのようであったかがイアンブリコス(水地宗明訳)『ピタゴラス的生き方(西洋古典叢書 2011 第3回配本)』(京都大学学術出版会、2011)を読むと、細かにわかる。

共同食事を解散する前に最年長者が神に献酒した後で唱える戒告が印象的なので、引用しておこう。ちなみに共同食事の献立はワイン、大麦パン、小麦パン、おかずは煮たのと生のままの野菜。神々に供えられた動物の肉も[時には]添えられた。

栽培され果実を産する植物を傷つけるなかれ、あやめるなかれ。同じく、人類に有害でない動物を傷つけるなかれ、あやめるなかれ。なおまた、神とダイモーンとへーロースのたぐいについては言葉を慎み、よい心情を抱け。また両親と恩人についても同様の心情を持て。法に味方せよ。違法と戦え。 (イアンブリコス,水地訳,2011,p.108)

ALCHEMIST(錬金術師)はアラビア語に由来し、「これはたぶん、Kemet あるいは Kem,つまりエジプトという名前がもとになっている」(ブラヴァツキー,老松訳,2010,ベールの前でxxxi)とブラヴァツキーは解説する。

ロベルトゥス・デ・フルクティブス(ロバート・フラッド)、パラケルスス、トマス・ヴォーン(エウゲニウス・フィラレテス)、ファン・ヘルモントらのような中世の薔薇十字団の団員たちは皆、錬金術師で、彼らはあらゆる無機物の中に隠された霊を探し求めた。

錬金術師を大法螺吹きのペテン師だと悪くいう者もいたが、ロジャー・ベーコン、アグリッパ、ヘンリー・クーンラート、化学の秘密のいくつかをヨーロッパに伝えたアラビア人ゲベルのような人たちに対しては詐欺師扱いも愚か者扱いもできまい。デモクリトスの原子論を基礎として物理科学を改革しつつある科学者たちは、アプデラのデモクリトスが錬金術師だったことを都合よく忘れている――とブラヴァツキーはいう。

また、ブラヴァツキーは次のようにもいって、錬金術師たちがどのような人々であったかに注意を促す。

自然に関する秘密の作業に一定方向にあれほど入り込んでいける人は,すばらしい理性の持主であり,研究を重ねてヘルメス哲学者になったに違いない,ということも都合よく忘れているのである。(ブラヴァツキー,老松訳,2010,ベールの前でxxxii)

前述したように、ベーメの最初の著作『Aurorat(アウローラ)』は1612年に著された。切々と訴える具体的な文面から、ベーメが大変な日々を過ごしたことがわかる。

はじめて書いた本(アウローラ)は天からの授かりもので、私ひとりのために覚え書きのつもりで書き綴り、ひとには見せる考えはなかったところ、神のかくれたるおぼしめしか、いつか手許を離れ、牧師長様のお目に触れることとなったその次第は、尊敬おく能わざる参議のよく御存じのところと愚考します。私自身そのころ何一つわきまえず、たどたどしい言葉で、哲学、錬金術、神智学の根底について書き記し、それが人の目にふれるとは夢にも思いませんでした。牧師長様は、まさに他ならぬこの本を、私の意図に反してとり上げ、中傷してとどまるところを知らず、私は、キリストの名を辱めないために、ひたすら忍耐を重ねたのでございます。
しかるにお役所に呼ばれ、理由を述べて申し開きをせざるを得ない羽目になりましたとき、牧師長様は、今後一切筆をとり、ものを書かぬよう命ぜられ、私もそれをよしとしたのでございます。神がこの私を用いて何を為さんとおぼしめしているのか、その神の道がそのころの私にはまだわからなかったのでございます。とまれ、私の沈黙とひきかえに、牧師長様ならびに副牧師の方々は説教壇では私のことを言わぬと御約束なさったにもかかわらず、その後もひきつゞき中傷を受け、およそ根も葉もないあらぬことを申され、そのため町中の人々はそれを信じて、私ばかりか妻子も、さらし物となり、気違い同様の扱いを受けたのでこざいます。(……)
私の授かったものを検証するには、一般の人々ではなく、博士、牧師、学問のある貴族の方々が必要なのでございます。…(ベーメ,南原,1989,pp.296-300)

ヤコブ・ベーメの著作を読むと、ああやはりこれは神智学の著作だと思わざるをえない。ヤコブ・ベーメ(南原実訳)『キリスト教神秘主義著作集 第13巻』(教文館、1989)の「シグナトゥーラ・レールム ――万物の誕生としるしについて――」の中の宇宙発生、天地誕生の下りからしてそうだ。

今日も時間切れ。ごはんの用意を含む家事があるので、中断します。今日は久しぶりに炒り豆腐をしようかな、アジを焼き、水菜とハムを和えて。それと、味噌汁かスープ
pp.38-39。ここにはあとで続きを書きます。

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2018年4月10日 (火)

小泉八雲原作、小林正樹監督作品「怪談」。原田伊織『明治維新という過ち』。

録画していた邦画を、夫が見始めました。『怪談』というタイトルでした。

オカルト映画は嫌いですし、映画を観るのは疲れるので、一緒に見るつもりはありませんでした。ところが、別のことをしながら何気なく見ると、まるで舞台劇のような、セットにこだわりを感じさせる映画で、どこか能楽を意識したような芸術的な感じがしたので、興味が湧き、一緒に見始めました。

「古い映画みたいだけれど、いつの?」と尋ねると、「昭和40年だよ」と夫。その時点では、小泉八雲の短編集から4編を選んでオムニバス形式で映画化したものだとは知りませんでした。

三國連太郎、仲代達矢、志村喬、丹波哲郎といった男優が若い姿で登場しました。女優陣も豪華で、新珠三千代、岸恵子、奈良岡朋子、杉村春子など。

「皆若くて新鮮な気がするけれど、年齢を重ねてからのほうが魅力的に見えない? 若いころは何だか皆、のっぺりしてるように見えるんだけれど」というと、夫も「そうだねー!」と同意。勿論、役柄もあるのだろうけれど、皆さんよい年齢の重ね方をなさったことが窺えます。

わたしは、3時間の映画が長いとは感じなかったほど、『怪談』の映像に惹きつけられました。夫はわたしほどには感激しなかったようでしたが、最後まで観ていました。

『怪談』(東宝、1965)
監督・小林正樹
原作・小泉八雲『怪談』中、「黒髪」「雪女」「耳無芳一の話」「茶碗の中」。
カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞作品

第一話「黒髪」
武士(三國連太郎)
妻(新珠三千代)

第二話「雪女」
木こり・巳之吉(仲代達矢)
雪女(岸恵子)

第三話「耳無芳一の話」
盲目の琵琶法師・芳一(中村嘉葎雄)
住職(志村喬)
甲冑の武士(丹波哲郎)

第四話「茶碗の中」
関内(中村翫右衛門)
関内の妹(奈良岡朋子)
作者(滝沢修)
おかみさん(杉村春子)

特に第三話「耳無芳一の話」は耽美調な映像で、気に入りました。微動だにせず、端然と座している平家の幽霊たち。

鈍色、青、燃え上がるようなオレンジ、赤といった色彩の変化の中から浮かび上がる壇ノ浦の合戦の様子。中村正義「源平海戦絵巻」が挟まれています。琵琶の音があれほど豊かで、迫力があるとは。

「インドとか東南アジアの楽器を連想させるわね」というと、「うん、そっちから来たんじゃない?」と夫。

第一話「黒髪」が一番オカルト映画っぽく、夫に捨てられて実はとうの昔に死んでいた前妻の髪の毛が生きもののように動き出す最後のほうは怖くなって両手で顔を覆ってしまったので、全部観た気がしませんでした。

第二話「雪女」は雪女が歩いたり走ったりしすぎる気がしましたが、雪女と知らずに恋して暮らし、子をなす、その暮らしが美しく、最後は怖いというより悲痛で、美しく仕上がっていると思いました。雪女役が若かりし頃の岸恵子だと気づいたのはわたしでしたが、なかなかわかりませんでした。

第四話「茶碗の中」だけカラーが違っていました。明治時代の出だしから話は江戸時代に遡り、武家屋敷の中が素敵でした。これくらい、素敵なはずですよね。

大河ドラマで『西郷どん』が放送されています。鈴木亮平が好きなので、久しぶりに観ようと思ったのですが、つまなくて、すぐに挫折しました。最近の大河ドラマも朝ドラも昔の日本人はいつも顔が薄汚れていたように描かれる―――それだけで、もう見る気がしません。

その代わりに、娘が購入した磯田道史『素顔の西郷隆盛(新潮新書)』(新潮社、2018)、原田伊織『明治維新という過ち(講談社文庫)』(講談社、2017)を読みました。

明治維新に肯定的な前者と否定的な後者で、2冊は対照的です。テレビで観る磯田氏のお話は面白くて、いつも楽しませて貰っていますが、話がつながらないので、途中が抜け落ちているのではと思うことがありました。著作にも結構それがある気がします。

原田氏の著作を読み、もしこのようなことであったとすると、廃仏毀釈という出来事もなるほどと思えましたが、衝撃的な内容です。まだ判断できません。他にも出ているようなので、何冊か読んでみたいと思っています。感想は、そのうちに。

話が戻りますけれど、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「雪女」「耳無芳一の話」は青空文庫にあります。小泉八雲の小説は文章が綺麗ですね。

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2018年4月 6日 (金)

トルストイ『戦争と平和』… 2 ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ

当ブログの過去記事に加筆修正して拙「マダムNの神秘主義的エッセー」に順次アップ中の「トルストイ『戦争と平和』…」(エッセー番号80~84)ですが、加筆部分が多いので、当ブログにもアップすることにしました。

………………………………

エッセー「トルストイ『戦争と平和』に描かれた、フリーメーソンがイルミナティに侵食される過程

目次 

1 映画にはない、主人公ピエールがフリーメーソンになる場面
2 ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ
3 イルミナティ……主人公ピエールとローゼンクロイツェル系フリーメーソンの長老
4 イルミナティ創立者ヴァイスハウプトのこけおどしの哲学講義
5 テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界

………………………………

2 ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ

目から鱗のオンライン論文に出合った。

『戦争と平和』にあらわれたロシア・フリーメイスン
著者: 笠間, 啓治
発行日: 1995年
出版者: 北海道大学スラブ研究センター
誌名: スラヴ研究(Slavic Studies)
, 42: 41-59
URI: http://hdl.handle.net/2115/5233

この論文によると、『戦争と平和』は1805年から1812年の歴史的動乱に生きたロシア・インテリゲンチャの精神的苦悩と魂の遍歴をテーマにしている。主人公ピエールは煩悶から抜け出す第一歩をフリーメーソンとしての活動に見い出し、フリーメーソンの中で精神的な成長を遂げる。

そして、「19世紀初頭のロシアはフリーメイスンの活動のもっとも盛んな時期に当っていた。この時期のロシアを描写するには、フリーメイスンの要素を抜きにしては考えられない」という。

しかも、このロシア・フリーメーソンとは、ドイツからもたらされた中世神秘思想ローゼンクロイツェル系だというのである。

クリスチャン・ローゼンクロイツ(Christian Rosenkreutz、 1378-1484)はバラ十字団の創立者とされる伝説的人物だが、ローゼンクロイツェルというのはクリスチャン・ローゼンクロイツのことで、バラ十字系ということだろうか。

中世が生んだこの形而上学的思考方法は、18世紀ロシア思想界を席巻したと言っても過言ではない。というより、まったくの無菌状態のロシアにて異常繁殖したと表現してもよいだろう」と論文には書かれている。

ピエールが魅了され、フリーメーソンになるきっかけとなった老人が出てくる。読みながらわたしも思わず魅了されたその老人は、ロシアが19世紀初頭のフリーメーソンの再興期を迎えたとき、ローゼンクロイツェル系フリーメーソンの長老として活動の中心にいた人物であるという。

『戦争と平和』に登場する人物は多いが、主要人物にはこのようにモデルがいて、その人々がフリーメーソンであったというのだから、驚かされる。

この当時のロシアにおいては、フリーメイスンであることはけっして秘密事項ではなかった。フリーメイスンの集会での議事録や出席者の名簿は、当局に報告するのが慣例になっていた」が、王政打倒を公言していたイルミナティと呼ばれる組織が浸透してきたために当局が警戒感から目を光らせるようになり、1822年に禁止令が公布されることになったのだった。

論文には、禁止令の施行後も「フリーメイスンたちの純粋の理論的討議は一部の人たちによって続けられていた」とあるので、イルミナティの革命思想の影響も禁止令の影響も受けなかったフリーメーソンはロシアに存在し続けたということだろうか。

28歳のときにイルミナティを創立したアダム・ヴァイスハウプトは、バイエルン選帝侯領インゴルシュタットの出身である。バイエルン選帝侯領とは、神聖ローマ帝国の領邦で、バイエルン王国の前身である。現ドイツ・バイエルン州の一部に当る。カトリックのイエズス会の家系に生まれた。

ヴァイスハウプトはインゴルシュタット大学の教会法の教授と実践哲学の教授だった。教会法はカノン法ともいわれる、カトリック教会が定めた法である。ヴァイスハウプトは教会法を教授する神学者であったにも拘わらず、反カトリックであった。1776年には啓蒙主義的なサークルを作り、サークルはのちにイルミナティと名称を改めた。

ウィキペディア「イルミナティ」には、「1777年、ヴァイスハウプト自身もフリーメイソンになっており、並行してフリーメイソンだった者も多かった。ヴァイスハウプトはミュンヘンでフリーメイソンと出会い、共感するところがあったためにフリーメイソンリーに入会した」*1とある。

だとすると、イルミナティとフリーメーソンは全く別の組織だが、バイエルンでイルミナティをつくったヴァイスハウプトがフリーメーソンになったことでその影響がフリーメーソンに及び、フリーメーソンでありながらイルミナティにも入る者が出てきたということになる。

アダム・ヴァイスハウプト(芳賀和敏訳)『秘密結社イルミナティ入会講座〈初級編〉』(KKベストセラーズ、2013)の「はじめに」には、次のようなことが書かれている。

イルミナティの発展は、フリーメイソンのグループによって行われた。フリーメイソンの多くが、イルミナティにリクルートされたので、フリーメイソンのある支部(ロッジ)はイルミナティの手中にあると言われるようになった。しかし「両者の意図と目的は一致しない」となった。このことをルートヴィヒ・クリスティアン・フォン・グロルマン〔1741-1809、ギーセンの法学者〕という人が、1793年12月のフリーメイソン支部における演説で強調した。その演説は、身分秩序を脅かし宗教(キリスト教の信仰)を危険な状態に陥れるイルミナティへの激しい非難を含んでいた。フォン・グロルマンの目には禁止後もイルミナティは、諸国政府に遍[あまね]く浸透しており、至るところで活動していると見られていた。

この文章からは、イルミナティがどのようにしてフリーメーソンを侵食していったかの様子がわかるだけでなく、本来のフリーメーソンは宗教――それはキリスト教のようだが――と親和関係にあったことがわかる。

そして、イルミナティは禁止されたが、まるで強力な伝染病か何かのような世界的拡がりを見せていたようである。「禁止令の前に、クニッゲ男爵(教団での名前はフィロ)の精力的な活動に起因するイルミナティの爆発的な拡大が起きていた」とも、「はじめに」には書かれている。

前掲書『秘密結社イルミナティ入会講座〈初級編〉』は、25冊のヴァイスハウプトの著作中9番目に書かれ(このとき、ヴァイスハウプトは38歳である)、彼の全著作中唯一邦訳された著作である。1787年に上梓された『イルミナティの新システム――全位階と装置の詳説――』を抄訳し、再編集したものだという。

この邦訳版は「秘密結社の組織論」を付録とした4章で構成されているのだが、4章は「神秘主義に傾倒するすべての成員に告ぐ」というタイトルの下に、神秘主義が全否定されている。論拠薄弱なので(この内容に関してはこのあと見ていきたい)、わたしには単なるこきおろしとしか読めなかった。

ヴァイスハウプトはこのような反神秘主義でありながら、神秘主義の性格を持つフリーメーソンになったわけである。

ヴァイスハウプトの思想がどのようなものであれ、反カトリックでありながら――次第にそうなったのかもしれないが――教会法の教授を務め、反神秘主義でありながらフリーメーソンになるという不穏分子的性格が彼にあることは確かである。

『秘密結社イルミナティ入会講座〈初級編〉』によると、バイエルン選帝侯が1784年6月22日にミュンヘンでイルミナティに出した禁令には、犯罪者に対する厳格な処罰が含まれ、同種の企みを告発するだけで報奨金がもらえることまで定められていたという。

ところが、ヴァイスハウプトはリベラルな公爵エルンスト2世の下に逃れ、ザクセン・ゴータの宮中顧問官に任ぜられ、生涯年金を得て恵まれた82歳の生涯を終えたらしい。

『秘密結社イルミナティ入会講座〈初級編〉』の「はじめに」に、ヴァイスハウプトの次のような言葉が紹介されている。

そもそも普遍啓蒙主義運動を広める者は、同時にそれによって普遍的な相互信頼をも手に入れ、そして普遍的な啓蒙主義運動と信頼は、領邦君主(Fürst)と国家を不必要とする。そうでなければ何のためなのか。

短絡的な結論づけはヴァイスハウプトの文章の特徴である。

いずれにせよ、反王政で、既存の国家政府を否定する思想の持ち主でありながら、宮中顧問官になってぬくぬくと生涯を終えたヴァイスハウプト……これを二枚舌、ご都合主義、二重基準、ダブルスタンダードといわずに、何といおう?

アダム・ヴァイスハウプトの行動にも思想にもこうしたダブルスタンダードが潜んでいて、それが人を狂わせる、最も危険な要素であるとわたしには思われる。狂った人々によって、組織が国家が狂うこともありえるのだ。

アグニ・ヨガの教えを伝達したエレナ・レーリッヒ(1879-1955)は、神智学協会を創立したブラヴァツキーの後継者といわれる人だが、エレナ・レーリッヒ(アグニ・ヨガ協会編、ジェフ・クラーク訳)『エレナ・レーリッヒの手紙(抜粋訳)』(竜王文庫、2012校正版)*2には、その後のフリーメーソンがどうなっていったかを物語る記述がある。ブラヴァツキーもエレナ・レーリッヒもロシア人である。

さて、フリーメーソンの支部について。もちろん、その中にまったく政治的なもので、非常に有害な支部もあります。ある国々では、フリーメーソンのほとんどの活動は退化して、見せかけのものになってしまいました。初期にきわめて美しかった高尚な運動がこのように歪められてきたことは、たいへん嘆かわしいことであり、大師方はそれについて言い表わせない悲しさを感じます。*3…

別の手紙にも同じ趣意の文章がある。

初期の頃のフリーメーソンは輝かしくすばらしい運動であり、大師方によって指導されることがよくありました。特に、そのような時には、教会の指導者達からの迫害が激しくなりました。しかし教会がキリストの清い教えから離れたように、現在のフリーメーソンも初期のすばらしい教えから離れてしまいました。どちらのほうにも、命のないドグマと儀式という抜け殻しか残っていません(もちろん、例外も少しありますが)。*4…

エレナ・レーリッヒのいう政治的な、ひじょうに有害なフリーメーソンの支部というのは、イルミナティに乗っ取られた支部の姿だろうか。何しろイルミナティは、1822年の帝政ロシアで、政府が禁止令を公布せずには済ませられなかったほどの革命思想を持つ、政治的な結社だったはずだからである。

尤も、エレナの手紙にイルミナティという組織名は出てこないので、その原因がイルミナティだったとは限らない。

ただ、本来のフリーメーソン結社が政治を目的とした組織ではないということ、またフリーメーソンは支部によってカラーの違いがあるということが手紙からはわかる。

エレナ・レーリッヒがモリヤ大師からアグニ・ヨガの教えの伝達を受け始めたのは、1920年代からである。夫ニコラスに同行した1923年からの5年間に渡る中央アジア探検後の1928年、『アグニ・ヨガ』が出版されている。エレナの死が1955年であるから、フリーメーソン批判を含む手紙はそれまでに書かれた。

1920年代にはアメリカの経済的大繁栄、ソビエト社会主義共和国連邦 (ソ蓮)の成立、1930年前後には世界大恐慌が起き、1939年から1945年までの6年間に第二次世界大戦争、1950年代は冷戦の時代であった。

ところで、マンリー・P・ホール(1901-1990)の象徴哲学大系は神秘主義を知りたい人のためのガイドブックといってよいシリーズである。

マンリー・P・ホール(吉村正和訳)『フリーメーソンの失われた鍵』(人文書院、1983)によると、21歳でこの本を書いたホールがフリーメーソンになったのは1954年のことだったという。メーソンとなったことで、メーソン結社に対して彼が長い間抱いていた賞賛の気持ちは深くまた大きなものになったのだそうだ。

1950年代には、フリーメーソンが置かれた状況は好転したのだろうか、それともホールが所属した支部は例外的にすばらしさを保っていたのだろうか(例外もあるとエレナ・レーリッヒは書いている)。


*1:ウィキペディアの執筆者. “イルミナティ”. ウィキペディア日本語版. 2018-03-11. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3&oldid=67669253, (参照 2018-03-11).

*2:「至上我の光」500号(平成10年5月号)~527号(平成12年7月号)に渡って掲載されたものをその順に編集したもの。原本はⅠ、Ⅱの2巻本。

*3:レーリッヒ,クラーク訳,2012,p.73

*4:レーリッヒ,クラーク訳,2012,pp.126-127

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