カテゴリー「音楽」の58件の記事

2017年12月 5日 (火)

大ちゃん(ヴァイオリニスト・樫本大進)がNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に登場

12月4日放送のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」は『リスクがなければ、面白くない』というタイトルで、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団のコンマス(コンサートマスター)を務めているヴァイオリニスト・樫本大進が登場していました。

大ちゃん……以前からファンです。

テレビでの演奏を視聴して、その繊細で綺麗なヴァイオリンの音色に惹かれ、2011年10月25日にアクロス福岡シンフォニーホールで行われた「ベルリン・バロック・ゾレステン with 樫本大進」に出かけました。

6年も前の演奏会のことなので、おぼろげにしか記憶していないのですが、ヴァイオリンの音色が期待した通りの繊細で綺麗なものだったことは鮮明な印象として記憶にあります。

ただヴィヴァルディの『四季』だったか、テンポの速い部分でやや勇み足のように感じられるところがあり、それだけが少し残念で、今後の課題ではないかと思いました。

38歳になった、ベルリンフィルのコンマスとして、勿論ヴァイオリニストとしても成熟を感じさせられる大ちゃんにテレビで再会でき、感無量でした。

おまけに、これは単なる私事ですが、大ちゃんはわたしのよく知っている人に似ていて、驚きました。6年前に福岡で観たときは全くそうは思いませんでした。6年の間に、わたしの知っているその人も大ちゃんも、年齢を重ねて内面的にも外面的にも重厚さを増し、がっしりとした体格になったような印象です。

屈託のない、それでいて真面目そうな、澄んだまなざしは本当に魅力的です。奥さんも登場していました。マリンバ奏者だそうです。

同じ演奏家ということもあるのでしょう、理解力のありそうな、優しく知的な感じの女性でした。

生で聴く機会のないままに、様々な指揮者によるベルリンフィルの演奏を聴いたわたしの総合的な昔の感想では、技術的には優秀だが、硬質でいくらか型にはまっている……というものでした。

今回、テレビでは、ごく断片的に大ちゃんがコンマスを務めるベルリンフィルの演奏を聴くことができただけでしたが、柔らかな印象を受けました。ぜひ生で聴いてみたいものだと思いました。

『リスクがなければ、面白くない』は、総合で12月8日(金)午前1時25分~2時14分(木曜深夜)に再放送が予定されているようですよ。

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2017年9月25日 (月)

両声ヴォーカリスト、マリアセレン

2013年に公開された動画のようですが、わたしはマリアセレンさんというかたを全然知りませんでした。今日たまたま動画を視聴して、びっくりしました。

御存じないかたは、リンク先の動画で熱唱されている歌を、だまされたと思って最後まで聴いてみてください。

https://youtu.be/3RWs7yeGLyU

 動画のタイトル:脅威の歌唱力!!本当に凄すぎる!!

女性が歌っていると思って聴いていたので、途中から別の声になったとき、まるでそれまでの女性に男性が乗り移ったかのような、オカルトめいた印象を抱いてしまったほどでした。一人の人間の中に男女二人が存在して、それぞれに歌っているような不思議さがあります。

それにしても凄い歌唱力ですね。

オフィシャルサイトもあるようです。

マリアセレン オフィシャルサイト
https://maria-seiren.com/

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2017年2月17日 (金)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想メモ5(おかしな文章) 22日に追記あり

カテゴリー「芥川賞」で採り上げる芥川賞受賞作品に、日本語としておかしな文章が目につくようになった。

自分で校正するしかないわたしのような物書きの文章と比べれば、芥川賞受賞作品は既に文芸雑誌に掲載されたり、本になったりしているのだから、少なくとも本人と編集者、あるいは賞の選考委員といった複数の人間のチェックが入っているはずなのに……と不審に思ってきた。

直木賞受賞作品はめったに読まないので、既に商業出版されている作品も多いはずの直木賞受賞作品のほうはしっかりしているものと思い込んでいた。

しかし、こちらでもどうも見逃されるか、あるいは故意に挿入されるかして――ということはさすがに考えにくいが――おかしな日本語がこうした作品を媒体として大衆に拡散していっているではないか? これは日本文化の根幹にかかわる問題だとの危機感すら覚えた。

『蜜蜂と遠雷』は、ピアノコンクールを舞台とした作品という広告に釣られ、たまたま読んだにすぎなかった。読まなければ、「直木賞のほうはしっかりしているはず」と思い込み、そしてオマージュという和製フランス語を冠せられた怪しい創作法が流行していることにも気づかないままだっただろう。

大正、昭和時代の作家たちは、純文学であれ、大衆文学であれ、わが国の文学がここまで斜陽化するとは想像もしなかったに違いない。

おかしいと思ってチェックした箇所は多いが、特に気になった文章を挙げておきたい。

不法移民問題がクローズアップされている昨今であるが、国籍という法律用語を無造作に使うのはどうかと思う。

例えば、次の文章。「帽子の下の端正な顔はアジア系だが、見開かれた瞳や色白の肌はどこか無国籍風だ。」(恩田、2016、12頁)

アジア系だが色白で、しかも無国籍風というと、ジプシーは流浪の民というイメージから白人の血が混じったジプシーを連想した。

しかし、国籍が特定の国家の構成員としての資格のことをいうことから考えれば、この法律用語が瞳や肌の色に関係する言葉とは思えない。瞳や肌の色に関係する言葉は人種ではないだろうか。

『新明解国語辞書 第五版(特装版)』(三省堂、1999)には「人種」について、「地球上の人類を、皮膚・髪の色や顔の形の共通性などで大きく分けた種別。優劣に関係はない」と説明されている。

風間塵の目や肌の色がどうであれ、彼は蜜蜂の研究家である父親に連れられて問題なく世界を旅してきたようだから、無国籍ではないはずである。無国籍だと、そうはいくまい。

国籍の取得については原則として国内法で定められ、わが国では国籍法が定められている。国籍法は国によって違う。

「国籍」という言葉は他にも出てくる。

「『マーくん、アメリカで出てるんだね。だから余計に気付かなかった。マーくんの国籍って、フランスじゃないの?』/『今はまだどっちでもいいんだ。ジュリアードが、アメリカで出てくれって。そのうち選ばなきゃならないかもしれないけど』/そうか、マーくんはまだ未成年だっけ。うん? 国際的には十八で成人だったかな? 二重国籍っていうのとは意味が違うのかしら。」(恩田、2016、182頁)

国際、国籍といった言葉の使いかたに作者の混乱が見られる。マーくん――――マサル・カルロス・レヴィ・アナトール――は多重国籍を認めているアメリカ合衆国とフランスの国籍を持っているのだろう。

成人とは、前出の『新明解国語辞書』には「〔法律上の権利・義務などの観点から見て〕社会の一員とされる大人(となること)」と説明されている。ウィキペディア「成年」に「国際法『児童の権利に関する条約』において児童とは、18歳未満の者のことをいう」とあるが、成人年齢は国によって違うのだ。

「国籍豊かな、十数人もの審査員がぞろぞろとやってくる様子は圧巻である。」(恩田、2016、184頁)という表現も変である。「国際色豊か」とすべきだろう。

「まだ伸び盛りらしいしなやかな骨格も美しい。」(恩田、2016、23頁)というと、人間の目がレントゲン撮影の装置であるかのようだから、「しなやかな肢体」でいいのではないか。

「快楽と嫌悪は表裏一体だ」(恩田、2016、31頁)は、「快楽と苦痛は表裏一体」ならわかる。

ピアノコンクールの審査員の一人スミノフは、風間塵が伝説的な音楽家であったホフマンの弟子であったことを認めておきながら、彼がこれまでに全く正規の音楽教育を受けていないことを強調し、さらには「この少年には本当に凄まじいテクニックがあって、聴く者を熱狂させてしまうということだ。全く音楽教育を受けていないのに、ね。」(恩田、2016、37頁)とまで放言する。

伝説的音楽家であったホフマン先生は風間塵に音楽を教えずして、何を教えていたというのだろう? 学校外で音楽の個人指導を行うことは、音楽教育とはいわないのだろうか。

「実に九十人ぶりにステージに戻ってきた」(恩田、2016、195頁)と書かれているところを読んで、恩田陸は帰国子女だろうかと思ったのだった。九十年ぶりの間違いかと思ったけれど、それではピアノコンクールの話が浦島太郎の話になってしまうので、ここはやはり人数のことをいいたかったのだろう。

メモ4でも書いたが、「進化」という言葉の使いかたがおかしい。「弟子は、日一日と進化していたが、コンクールに入ってからは更に一日ごとに伸びていた。」(恩田、2016、242頁)

毎日進化すれば、人間も天使になり、さらに凄い何物かになりそうだが、『蜜蜂と遠雷』はSFではない。ウィキペディア「進化」から以下に引用しておく。

進化とは、生物個体群の性質が、世代を経るにつれて変化する現象である。また、その背景にある遺伝的変化を重視し、個体群内の遺伝子頻度の変化として定義されることもある。この定義により、成長や変態のような個体の発生上の変化は進化に含まれない。

ウィキペディアの執筆者. “進化”. ウィキペディア日本語版. 2017-01-24. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%80%B2%E5%8C%96&oldid=62759605, (参照 2017-01-24).

2月22日に追記:

恩田陸『蜜蜂と遠雷』の感想は、そのうちまとめたいと考えている。ヴァイオリニストを主人公とするブラヴァツキーの小説から凄みのある演奏の場面を引用し、恩田陸の描き方と比較してみたいと思っていたが、あまり意味のないことのような気がするので、それはやめにする。

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2017年2月12日 (日)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想メモ4(唯物論的芸術観の限界か?)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎、2016)の本の帯に赤字で「第156回直木賞受賞作 ピアノコンクールを舞台に、人間の才能と運命、そして音楽を描き切った青春群像小説」と書かれている。

『蜜蜂と遠雷』を読んでいると、わたしは故人となったピアニスト中村紘子のいくつかの名エッセーを連想してしまう。

参考にされているからだろうが、ピアノコンクールの現場からの濃やかなレポート、昨今のクラシック音楽事情、またピアニズムの歴史やしっかりと構築された音楽論などは、慌ただしく挿入展開される恩田陸独自の乱暴な音楽論とは到底相容れないものがあり、作品全体がちぐはぐで読むに堪えない。

ただ、技術的には優秀なピアニストでありながら、最高級の情操といえるような種類の霊感からのみ来る表現の妙には足りないものを感じさせる中村紘子の演奏を考えるとき、恩田陸ではいくらか滑稽な表現になっているとはいえ、両者に共通することとして、わたしはそこに唯物論的芸術観の限界を見るような気がする。

小説の中で、進歩程度のことを進化と表現し、作品の鍵として登場させた風間塵という少年をギフト、劇薬と表現して、この少年をことさらに天才に仕立てて現状打破の道具にしようとする作者の性急さは、恩田陸の焦燥、飢餓感を感じさせ、それは彼女のいささか道を踏み外した創作法と思想的限界を物語るものであるようにわたしには思える。

風間塵の演奏中に栄伝亜矢が浸る幻想で、塵はいう。「先生と話していたんだよ。今の世界は、いろんな音楽に溢れているけど、音楽は箱の中に閉じ込められている。本当は、昔は世界中が音楽で満ちていたのにって。」(恩田、2016、492頁)

その箱こそ、唯物論という、戦後の世界を席巻した左派(リベラル)の思想ではないだろうか?

それを打破するにはおそらく即物的手段では不可能だろうが、恩田陸はそれしか思いつかない。

即物的手段にいくら音楽風の装飾をほどこしたところで、風間塵の演奏は即物的様相を帯びてしまう。「なんて大きな音なの。三枝子は、自分の耳が、目が信じられなかった。音の圧力に、顔が打たれているようだった。本当に、刺激を、痛みを、肌が感じているのだ。/こんなに大きな音が出せるなんて。それとも、あたしの錯覚なのだろうか。巨大なエネルギーを持つ物質があそこにあって、四方八方に放射されているように感じる。」(恩田、2016、397頁)

これはピアノ演奏よりも、爆弾の炸裂に適した表現ではあるまいか。

過去記事でも紹介したが、近代神智学運動の母といわれるブラヴァツキー系の神秘主義では唯物論、物質をどう考えるかがエレナ・レーリッヒ『新時代の共同体 一九二六』(日本アグニ・ヨガ協会、1993)の用語解説にわかりやすく示されているので、引用しておきたい。

 唯物論 近代の唯物論は精神的な現象を二次的なものと見なし肉体感覚の対象以外の存在をすべて否定する傾向があるが、それに対して古代思想につながる「霊的な意味での唯物論」(本書123)は、宇宙の根本物質には様々な等級があることを認め、肉体感覚で認識できない精妙な物質の法則と現象を研究する。近代の唯物論は、紛れもない物質現象を偏見のために否定するので、「幼稚な唯物論」(121)と呼ばれる。「物質」の項参照。(275頁~276頁)

 物質 質料、プラクリティ、宇宙の素材。「宇宙の母即ちあらゆる存在の大物質がなければ、生命もなく、霊の表現もあり得ない。霊と物質を正反対のものと見なすことにより、物質は劣等なものという狂信的な考え方が無知な者たちの意識に根づいてきた。だが本当は、霊と物質は一体である。物質のない霊は存在しないし、物質は霊の結晶化にしかすぎない。顕現宇宙は目に見えるものも、見えないものも、最高のものから最低のものまで、輝かしい物質の無限の面をわたしたちに示してくれる。物質がなければ、生命もない」(『手紙Ⅰ』373頁)。(275頁)

次に、恩田陸『蜜蜂と遠雷』の中のひっかかった文章についてメモしておこう。

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2017年2月10日 (金)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想メモ3(奇妙な自説の展開)

ブログ「いつか電池がきれるまで http://fujipon.hatenablog.com/」2015年9月3日付記事「『新しいことやってます』という人は嫌いです 」の中で、「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2005年10月号の恩田陸と鴻上尚史の対談記事から、ストーリーのオリジナリティについて対談している箇所が紹介されている。

その中に、恩田陸の次のような言葉がある。「私には、ストーリーにオリジナルなんかないという持説があって。つまり、人間が聞いて気持ちいいストーリーというのは、ずっと昔からいくつかパターンが決まってて、それを演出を変えてやってるだけだと。
私は新しいことやってますという人は嫌いなんです。それはあなたが知らないだけで、絶対誰かが過去にやってるんだからと。

ストーリーにいくつかのパターンが存在するのは周知の事実であるが、パターン=ストーリー でないことは、恩田陸自身が語っている。

恩田陸は、ストーリーとは決まったパターンをもとに演出したものであると定義づけている。この定義にも問題がある気がする。

手元にある『新明解国語辞書 第五版(特装版)』(三省堂、1999)ではストーリー、パターン、演出はそれぞれ次のように説明されている。

ストーリー
①物語。話。②筋(の運び)。筋書。

パタン(パターン)
①特徴によって分類した型。[以下略]

演出
①〔劇・テレビ・放送などで〕脚本に基づいて、俳優の演技や装置・衣装・照明・音楽などを指示し、上演・撮影を効果的に行うこと。
②〔会などで〕あらかじめ決めた順序・筋書きなどの通りに事が運ぶようにさせること。〔文脈により、特別な趣向を凝らして思い通りに事を運ぶ意にも用いられる〕

「オリジナルなんかない」のが物語であるのか、筋であるのかで意味合いが違ってくるのだが、いずれにしてもストーリーにオリジナルなんかないという恩田陸の言葉は、人間の顔はパターン化できるから人間は皆同じ容貌である、というのと同じくらいの暴論であるように思える。

そもそも彼女が『チョコレートコスモス』を執筆するにあたり、オマージュ(和製フランス語で、パクリとの違いがわたしにはわからない)の対象として『ガラスの仮面』を選んだのはなぜだろうか。

恩田陸の暴論に従えば、どんな作品をオマージュの対象としても『チョコレートコスモス』が完成したことになるはずなのだが、あえて『ガラスの仮面』を選んだのは『ガラスの仮面』の他ならぬオリジナルな部分に魅了されたからではないだろうか。

人間の顔のパーツは決まっているから容貌の違いなどない、と思う人はあまりいない。そのように考える人間が多勢となれば、美容整形外科クリニックの多くは廃業に追い込まれてしまうに違いない。

整形美人などと揶揄する言葉があるのは、自然の造形の妙に富んだ顔をどこかの美人に似せてパターン化しようとする行為に対する批判であるだろう。

火傷や事故による傷、先天的なものであっても奇形や目立ちすぎる痣などを手術などで目立たなくすることを非難する人間はまずいないからである。

美容整形のモデルとされる、どこかの生まれつきの美人は、整形して貰おうとする人間の顔と同様、自然の造形の妙に富んでいるはずである。パターン化、単純化されることで、真似やすくなるが、マネキンの顔のようなものになってしまうのだ。

生まれつきの容貌の著作権者は自然――あるいは創造主――だろうが、美容整形がその著作権を犯す行為と見なされるからこそ(?)、揶揄されたりもするのだろう。

美内すずえの『ガラスの仮面』は『王将』を下敷きにしたものだそうだが、『ガラスの仮面』はまだ完結していない。長年、作者が完結させようとして苦しんでいるのをファンは見守ってきているのだ。

『王将』という作品を顔に例えれば、美内すずえはその顔に魅了され、その顔を研究し、その顔に学び、その顔を参考資料として別の、この世に一つしかないオリジナリティに富んだ顔『ガラスの仮面』を、自らが創造主になって作り上げようとしているのに違いない。

一方の恩田陸はどうだろうか。

『ガラスの仮面』や他の先行作品に魅了されていながらストーリーにオリジナルなんかないとうそぶくことで(わたしにはパクリ、盗作といわれないための詭弁にしか思えない)、他人の作品も自分の持ち物であるかのような、勝手な利用の仕方をしているのではないかと疑われる。

『蜜蜂と遠雷』が直木賞にまで選ばれていることから考えると、パクリ、盗作といわれないための周到な工夫は凝らされているのだろうが。

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2017年2月 8日 (水)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想メモ2(オマージュ?)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』で描かれたクラシック音楽の世界があまりに陽性かつ単純なので、芸術行為に潜む魔性――デモーニッシュな側面――を描いたブラヴァツキーの「不思議なヴァイオリン」から圧倒的な演奏の場面を引用し、先に引用した恩田陸の場面と比べてみたいと思った。

それは置いておいて、ちょっと気になったことをメモしておきたい。

わたしは『蜜蜂と遠雷』を読みながら、参考文献が何も示されていないことが気になった。

というのもメモ1で書いたように、資料を参考にしていると思われる部分とそうでない独自性が高いと思われる部分とに異なる地層を見るような違和感があったため、参考文献の文章を原形に近い形で借り、しかもその部分が非常に多いのではないかと思ったからだった。

わたしは第2稿に入った自身の初の歴史小説の中で、資料からかなり引用しているが、歴史研究の側面を持つ作品であることから意図的にそうしていることであって、引用した箇所には出典を明示するようにしている。

そのようなやりかたとはどうも違う……疑問に思いながら、別のことで調べていたところ(恩田陸の独自性の高いと思われる文章におかしなところがある気がして、帰国子女なのだろうかと思い、検索した)、恩田陸と関連して「オマージュ」という和製フランス語に出くわしたのだった。

それは「オマージュ」という言葉で、オマージュとはフランス語のはずだが、どうも日本独自の使いかたがなされているらしい。

いくら説明を読んでも、わたしには和製フランス語「オマージュ」とパクリの違いがどうしてもわからなかった。

当然、わたしと同じ疑問を覚える人もいるようで、パクリ、盗作、オマージュの違いを知恵袋などで質問している人や、オマージュという技法を疑問に思っているブロガーの記事など閲覧した。

恩田陸はオマージュ作家として有名らしい。自分の作品のほとんどが先行作品へのオマージュであることを公言しているとか。例えば、恩田陸『チョコレートコスモス』は美内すずえ『ガラスの仮面』のオマージュらしい。

わたしは驚いた。それはそうだ。直木賞作家――『チョコレートコスモス』が出たときはまだ直木賞作家ではなかっただろうが――の作品が漫画化されるのであればまだわかるが、その逆なのだから。しかも、そのようなオリジナリティに欠ける「オマージュ」作家が直木賞まで受賞するという日本の文学界。恐ろしい……ここまできたのか。

何がオマージュだ。フランス語で誤魔化すのはやめて貰いたい。

すみません、また中断です。

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2017年2月 7日 (火)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想メモ1

作家の卵を続けているうちに、他人の作品の構造が嫌でも見えるようになる。

資料を参考にしている部分とそうでない部分。

資料がうまく消化され、それが創作にうまく生かされていないと、異なる地層を見るような違和感がある。

そこが創作の難しいところで、歴史小説初体験のわたしの悩みでもある。消化するのが難しいとあって、資料そのものを損ないたくないために、引用という形で資料を用いる箇所が多くなった初稿であった。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』はまだ3分の1程度読んだところなのだが、資料を参考にしていると思われる部分とそうでないオリジナルと思われる部分とに、異なる地層を見るような違和感がある。

本日読んだ最後の頁は162頁で、その頁の次の引用部分などは作者が表現に工夫した独自性の高い部分だろう。

「なんという迫力。/ 曲は後半のクライマックスに向かって突き進んでいた。きらびやかなメロディ、凄まじい和音の連打と加速。ピアノから、いや、ステージ上の大きな直方体の空間全体から、音の壁が飛び出してくるかのようだ。/ 観客は、その音圧に、飛び出してくる音楽に吹き飛ばされまいと、席で踏ん張って必死に耐えている。むろん、耐えているのは、驚異的な演奏を聴いている衝撃に対してであり、それは形容しがたい無類の快楽でもあるのだ。地響きにも似た分厚いトレモロが、正面から剛速球で顔を、眼を、全身を打ってくる。」を読んで、いくら形容しがたいからといって、ここまで物理的な表現を重ねられると、スポ根コミック『巨人の星』を連想してしまう。

生演奏を視聴する醍醐味は、演奏者の生活ぶりや肉体的強みと弱点、内面などが透けて見えるところである。

アルゲリッチはすばらしかったが、テレビで観るのとそれほど大きな違いを感じなかった。

中村紘子の指の体操のような(技術に終始したような)、内容の痩せた演奏には愕然とさせられた。テレビで視聴していたNHK『ピアノのおけいこ』はよかったし、舞台でのチャーミングなスピーチとよく似合っていた可愛らしい衣装は忘れがたいけれど。

中村紘子のエッセーがあれほど秀逸なのに演奏が無味乾燥に感じられたのはなぜだろう、とずっと考えている。もしかしたら、彼女には左派的、唯物論的考えかたがあって、そのせいだったのだろうか……と最近は考えたりしている。

思想が何もない人間など考えられず(凡人であっても、その時代と地域で支配的となっている思想の影響は受ける)、思想が曲の理解に影響しないはずはない。

テレビで観るよりずっと白人ぽく見えたフジ子・ヘミングの曲に対する深い解釈と瞑想的な趣も、生でないとわからなかった。それだけに、フジ子はソロ向きで、オーケストラとの共演には向かないのではないだろうか。中村紘子はその逆だろう。

以上は勿論、わたしの勝手な印象にすぎない。

いずれにしても、絵に描いたような天才はいないのだとわたしには感じられる。だからこそ、演奏家が、人間が、いとおしく、興味深い。

絵に描いた餅のようでない小説が読みたかったわたしは既に『蜜蜂と遠雷』に失望しつつあるが、文字通り絵にしたらいいかもしれない。

「ガラスの仮面」はストップしたままだが、美内すずえに漫画にして貰えば、ぴったりかもしれない。映画にもよさそうだ。

白髪三千丈式の馬鹿馬鹿しい表現や、ステレオタイプの登場人物たちと現実には存在しえないスーパー天才ぶりなども上手に肉づけされて、広告通りの名作になるかもしれない。

参考文献の記載がないので、作者がどのような本を参考にしたのかはわからないが、わたしが魅力を覚えたとしたら、そうした資料的部分である。

クラシック音楽の名エッセーは多い。わたしの印象に特に残っているのは、中村紘子『チャイコフスキー・コンクール―― ピアニストが聴く現代』(中央公論社、1991)や『ピアニストという蛮族がいる』(中央公論社、2009)、あるいは奥田昭則『母と神童―五嶋節物語』(小学館、1998)などである。

題名は失念したが、グレン・グルールドの評伝、吉田秀和のエッセーも記憶に残る。まだ読んでいない、青柳いづみこのエッセーを読んでみたい。

小説では何といっても、『ジャン・クリストフ』である。読み返そうとして、あまりの厚さ、内容の濃さに、すぐには読み返せないと思った。ブラヴァツキー「不思議なヴァイオリン」(『夢魔物語』所収。田中恵美子訳、竜王文庫、1997)も忘れられない。

「不思議なヴァイオリン」はピアノの名手であったブラヴァツキーが神秘主義的教訓を籠めた作品で、手っ取り早くいうと、悪魔に魂を売り渡したヴァイオリニストの話である。恐ろしい演奏の場面を描いた部分を147頁から引用してみると、

すみません、中断しますが、この記事は書きかけです。

関連記事:

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2016年1月12日 (火)

2016年1月10日に、デヴィッド・ボウイが死んだ!

デヴィッド・ボウイが10日、がんで死去した。69歳の誕生日だった1月8日に通算25作目のスタジオアルバム『Blackstar』をリリースしたばかりだったという。

ソニーミュージックによるデヴィッド・ボウイのオフィシャルサイトでBlackstarのビデオを視聴した。

ショッキングなニュースだった。

ボウイの熱烈なファンというわけではなかったが、かなり好きで、LPレコードは何枚か持っていた。大学時代に文芸部の皆で映画「地球に落ちて来た男(The Man Who Fell to Earth)」(1976年)を観に行ってから特に好きになったような気がする。

あの映画のボウイは大変神秘的でセクシーだった……!

ボウイは、「グラムロック」の旗手といわれていた。グラムロックをウィキペディアから引用する。

グラムロック(glam rock)は、主にイギリスで1970年代前半から中盤にかけて流行した、ロック・スタイル。由来は、魅惑的であることを意味する英語の"glamorous"から来ている。日本のロックやファッションシーンにも影響を与えた。

スタイルの特徴
一概には言えないが、男性でも濃い(時には装飾的な)メイクを施し、煌びやかで(けばけばしい)、古い映画やSFをモデルにしたような、懐古趣味的な衣装をまとうのが特徴である。キャンプ 的であるともいわれる。また宇宙趣味、未来趣味も混在している。
主に男性的な力強さや激しさを表現するハードロックや、演奏技術や楽曲の構成力を強調していたプログレッシブ・ロックが主流だった1970年代において、それらとは異なった中性的なファッションや振る舞いを施し、単純で原始的なビートやキャッチーなサウンドをみせていたのがグラムロックのミュージシャンたちであった(この傾向が、後のパンク・ロックの出現に大きく影響することになる)。また、サックスでリフを刻むことが多いことも、グラムの特徴の1つである。
ただ、ジャンルとしてはルックスやステージングなどの面で区別されることが多いため、サウンドや楽曲の作風、音楽的志向などは、かなり異なり、大きな共通性はない。このような経緯から、クイーンも登場当初はグラムロックバンドと見る者もいた。

ウィキペディアの執筆者. “グラムロック”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-11. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF&oldid=58211569, (参照 2016-01-12).

ロック音楽としてはボウイよりもディープ・パープルやジャニス・ジョプリンをよく聴いたが、SF小説とボウイを組み合わせると最高だった。一つの世界を作り上げたという点では、ボウイに勝るロックスターを見つけるのは難しい。

ボウイに魅了されたが、ボウイは宇宙的でセクシーで謎めいていて、そして、どこか気持ち悪いところがあった。雰囲気、表情、曲、歌い方……全てに。だからこそ惹かれたのかもしれない。

人間の男性として普通に亡くなったというイメージが湧かず、ボウイが作り上げたというよりボウイと共に存在したあの世界に還っていったという気がしてならない。

『NME』が運営する音楽サイト「NME.com」の日本版で、デヴィッド・ボウイのトリビア50選という特集を閲覧した(→ここ)。

それによると、わたしはボウイが生まれつきのオッドアイだと思っていたが、そうではなく、過去に喧嘩で殴られことが原因で瞳孔拡大したままであるためにそう見えるだけだという。

その喧嘩がどういったものであったかなど、ググればボウイの壮絶な過去について出て来たが、どこまで本当のことかわからないのでリンクは張らない。

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2015年3月20日 (金)

シャンソン歌手・ケイ潤子さんの味わい深い「明日は月の上で」

アダモ、越路吹雪が歌う「明日は月の上で」もいいけれど、シャンソン歌手・ケイ潤子さんの「明日は月の上で」は軽快、かつ味わい深くて、一度聴くと、癖になり(?)、YouTubeに行くと、つい聴きたくなります。

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2014年5月 5日 (月)

別府アルゲリッチ音楽祭で、またしてもフジコを想う

 1日に「第16回 別府アルゲリッチ音楽祭 ベスト・オブ・ベストシリーズ Vol.2 アルゲリッチ&クレーメルデュオ」に出かけた。以下はプログラム。

...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

M.ヴァインベルク: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第5番 ト短調 op.53
第1楽章: アンダンテ・コン・モート
第2楽章: アレグロ・モルト
第3楽章: アレグロ・モデラート
第1楽章: アレグロ~アンダンテ~アレグレット

L.v.ベートーヴェン: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第10番 ト長調 op.96
第1楽章: アレグロ・モデラート
第2楽章: アダージョ・エスプレッシーヴォ
第3楽章: スケルツォ、アレグロ
第1楽章: ポーコ・アレグレット

(休憩)

M.ヴァインベルク: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ 第3番 op.126

L.v.ベートーヴェン: ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第8番 ト長調 op.30-3
第1楽章: アレグロ・アッサイ
第2楽章: テンポ・メヌエット・マ・モルト・モデラート・エ・グラツィオーソ
第3楽章: アレグロ・ヴィヴァーチェ

A3

...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

 アルゲリッチはどうしても聴いておきたいピアニストの一人だったが、アルゲリッチ音楽祭は毎年あり、グランシアタで演奏会があるため、いつでも行けるような錯覚を覚え、引き延ばしてきた。

 さすがに上手で、両手のバランスが実によい、無理のない、生で見ると本当にフォームが綺麗なアルゲリッチのピアノだった。が、演奏会の途中でわたしはまたしても、ふいにフジコ・ヘミングのピアノが聴きたくなった。

 ギドン・クレーメルのヴァイオリンがあまり好きではないせいもあったかもしれない。上手で、繊細な音色から迫力満点の音色まで自在に出せる感じなのだが、全体的になぜか筋張って聴こえてしまった。ヴァインベルクの曲が抽象的すぎる現代絵画を連想させ、わたしには全然理解できなかったためかもしれない。

 アルゲリッチを聴いたあとで、彼女以外のピアニストの演奏をCDや動画で、物故者から活躍中のピアニストまで、ここ3日ほどいろいろと聴き比べていた(創作関係は完全なサボり。たまにはいいじゃない、こんなことって、めったにない)。

 ギーゼキング、ギレリス、クラウディオ・アラウ、アルトゥル・シュナーベル、ポリーニ、ホロヴィッツ、リヒテル、ブレンデル、バックハウス、ラザール・ベルマン、ホルヘ・ボレット、ジョルジュ・シフラ、ディヌ・リパッティ、ルービン・シュタイン、グレン・グールド、マリヤ・グリンベルク、マリア・ティーポ、ブリジット・エンゲラー、アリシア・デ・ラローチャ、イーヴォ・ボゴレリチ、キーシン、ブーニン、内田光子、マリア・ジョアン・ピリス……

 昔はリヒテル、ルービン・シュタイン、グールドが好きだった。ディヌ・リパッティは初めて聴いた。リパッティを聴いたあとでグールドを聴くと、うるさく感じた。特に、声がうるさいと思う。それが好きだったのに。自分の弾くピアノで足りないところを彼は思わず声で補うと伝記にあったと思う。グールドだけ聴いていると、うるさいとは感じない。

 リヒテルはやはり好きだ。タイプが違うので比べられないが、リヒテルは巨匠、リパッティは若き芸神といったイメージがわく。

Dinu_lipatti_1

 このリパッティの指、わたしにはとても人間の指には見えないのであるが……指なんかじゃなく、蛸足でしょ? そういって! 

 クラウディオ・アラウも好きになった。クラウディオ・アラウの「Trois études de concert、S.144/R.5 ため息~3つの演奏会用練習曲より 第3曲」はすばらしい。フジコの演奏と交互に何度も聴いた。

 オーケストラと一緒のときに、ギーゼキングほど強度を発揮した人が他にいるだろうか? ギーゼキングもかなり好きだ。

 前掲のピアニストたちの音楽を聴いたあとでフジコを聴くと、重たく感じた。一部の専門家がフジコを批判するのもわからぬではないなと思う。オーケストラと一緒だと特によくない。もたついて聴こえるときがある。

 が、ショパンの革命を聴きたくなり、ジョルジュ・シフラ、ウラディーミル・アシュケナージ、キーシン、ブーニン、ポリーニ、ボリス・ベレゾフスキー、ホロヴィッツ、ユンディ・リ、ヴァレンティーナ・リシッツァ、アンドレ・ワッツ、リヒター、イディル・ビレット、イグナツィ・パデレフスキ、アナトール・キタイン、ギオマール・ノヴァエス、ヴラディーミル・ド・パハマン、フランチェスコ・リベッタの革命を聴いた。

 ガタガタとうるさく感じられるものが多かった。名だたる演奏家たちの音がうるさいだけに感じられるとは。さっきまでとは印象が逆転してしまった。古い人のは録音状態が悪いせいもあるのかもしれないが。

 ふと思ったのだが、フジコはピアニストには珍しい文系タイプの人なのではなかろうか?

 音楽家には理系が多いそうで、実際にわたしは子供の頃にピアノを習っていて、そう感じた。アルゲリッチとは対照的なピアノ奏法――中村紘子がハイ・フィンガー奏法と呼ぶ――を教わり、それでピアノが嫌いになったのだが、それとは別に疎外感を覚えることがあって、理系人間の中に文系人間がぽつんと混じっているような感じを受けることがよくあった。

 文系人間だからかどうかはわからないが、わたしには無味乾燥な指の訓練が耐えられなかった。が、理系人間の人々は正確に音を刻み、一抱えもある精密な世界を構築することに快感を覚えているように見えた。

 リズムの乱れは神経に障るのだろう。フジコは理系でもあるのかもしれないが、文系の要素を備えていることは間違いないと思う。彼女が弾きながら物語を繰り広げているからだ。文系人間のわたしにはそれが透けて見えるから、バルザックを読んでいるような感じさえすることがある。

 フジコの革命からは、街の通りが見え、民衆の生活ふりが見えてくる。彼らの喜び、街路樹や花の香り、そしてまた男のタバコ、女の化粧が匂い、労働の汗が匂い、赤ん坊から乳が匂い、家の奥からすえた臭いまでしてきて、嘆きが感じられ、やがて動乱の物音や人々の叫びが聴こえてくる。

 そうした物語が、多くのピアニストからは見えてこない。技術的にはすばらしいことがわかってしばらくは驚嘆し、指が紡ぎ出す妙なる調べに浸っていても、物語が見えてこないと、わたしはそのうち退屈してしまうのである。

 多くのピアニストは、例えば、革命なら、「革命とはこんなものだろう」という浅い解釈で弾いている気がしてしまう。それはやはり解釈をもとにした肉付け、音色に表れる。

 フジコは年がいってからのデビューだったので、オーケストラとの共演にはつらいものがあるのではないだろうか。巨匠と呼ばれる音楽家でさえ、ある年齢になれば、仕事を減らしたりするのではないか。

 普通の人間がひかえめとなる頃に、フジコはデビューを果たした。若い頃に出ていたら、また違ったかもしれない。しかし、長い孤独の中で彼女は曲の内容を深め、それを演奏で表現してくれる。

 またフジコの演奏会に行きたい。

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