カテゴリー「文化・芸術」の902件の記事

2018年8月12日 (日)

「試着室」(金平糖企画新作公演、作・演出 時枝霙)を観劇して

インターネットでの拡散はOKのようなので、下手なレビューを書きます。ネタバレありなので、これから観劇なさるかたはご注意ください。

金平糖企画主宰、時枝霙さんを採り上げた記事がネット検索で出てきたので、リンクしておきます。

クローズアップ 2018  輝きの女たち
いつも行く美容院や飲食店を舞台に公演
演劇、朗読、写真、文章など多彩に表現
時枝 霙さん
金平糖企画主宰

http://www.josei-oita.jp/2018_7h.html

「医師と表現者の二足のわらじ。演劇、朗読、文章、写真など活動は多彩」と前掲記事にあり、驚かされます。

以下は、「金平糖企画」のツイッターです。

金平糖企画 @confettiplannin
舞台作品をつくったり、ライブをします。9/23.24熊本DENGEKI参戦。諫早独楽劇場シアターバー10月。

https://twitter.com/confettiplannin

8月8日、「試着室」(金平糖企画新作公演、作・演出 時枝霙)を観に行きました。

貸店舗での舞台と客席の境界を設けない上演で、全体に実験的要素が感じられる劇でした。

舞台はアパレルショップ。舞台装置は極めてシンプルで、境目のない舞台からドアに向かう空間が舞台の延長として活用され、能楽でいう橋掛りの役目を持っていました。

音響はレトロ調、近距離からの照明は迫力がありました。

店主役によって吊り下げられていくハンガーには折鶴がぶら下がり、床には折り紙が巻き散らされます。それらは服に見立てられているようでした。

登場人物は、アパレルショップの店主、アルバイトの女子学生(長身のスリムな男性が演じていました)、女性客、沈黙したまま片隅に蹲っている首にギブスをつけた怪我人。

台詞はしばしば詩のようで、客と店主が会話を交わすとき、客が失恋を独白するときなどに、学生がバックミュージックのように髪、爪、血液などの人体に関する自然科学的な台詞を詩の朗読のようにいう場面があり、不思議な雰囲気を創り出していました。

客が学生と一緒に駆け回りながら、床にまき散らされた折り紙を掴んではまき散らす場面は圧巻で、絶望感に囚われた女性に合う服はどうしても見つかりません。

ストーリーらしいストーリー、結末らしい結末はなく、別の客がアパレルショップへやってきて(片隅に蹲っていた怪我人との二役。演じていたのは時枝さん)、店主と新しい客が、前の客と全く同じ会話を交わすところで、存在しない幕が下りました。

アパレルショップは、エンドレスに循環する宇宙的な営みをシンボライズしているようでもありました。

娘の友人の演技には磨きがかかっていました。アパレルショップへの訪問者(客)を過去のトラウマから自分探しの旅(?)へと誘う店主の役を、品よくこなしていました。

この品のよさこそが、劇中で日常と非日常を違和感なく一体化させていた重要な要素に思えました。

「試着室」からはよい意味でのアマチュアリズムというべきか、ひじょうにナイーヴな芸術性というべきか、純粋志向が感じられ、いささか古い用語を用いるならば、「不条理」なテーマへの純粋すぎるくらいのアプローチが印象的でした。

不条理という言葉は、今の若い人々には馴染みのない言葉かもしれませんが、アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)の哲学的エッセー「シーシュポスの神話」で有名になった実存主義の用語で、人間存在の根源的曖昧さ、無意味さ、非論理性に由来する絶望的状況を意味する言葉です。

ここからは蛇足になりますが、わたしの大学のころ――40年ほども昔の話になります――には、第二次大戦後にフランスからサルトルなどによって広まった実存主義はまだ流行っていました。否今でも哲学的主流はこのあたりに停滞していて、現代哲学は唯物論に依拠して局部的、細部的分析に終始しているように思えます。

ちなみに、カミュは自分では実存主義者ではないとしていますが、その思想傾向からすれば、実存主義者に分類されていいと思われます。

カミュに発見された女性哲学者シモーヌ・ヴェイユは晩年、キリスト教的神秘主義思想を独自に深めていきますが、しばしば実存主義哲学者に分類されます。

実存主義はマルクス主義の影響を受けた思想で、唯物論的であり、マルクス主義の流行とも相俟って一世を風靡したのでした。

しかし、一端、唯物論的袋小路へ入り込んでしまうと、自家中毒を起こし、下手をすれば阿片中毒者のような廃人になってしまう危険性さえあります。村上春樹のムーディ、曖昧模糊とした小説はこうした不条理哲学の子供、ただしカミュの作品が持つ聡明さ、誠実さを欠いた子供といえます。

戦後、日本人はGHQによる洗脳工作(WGIP)や公職追放(注)などもあって、唯物主義、物質主義が優勢となりました。こうしたことに起因する現代日本の問題点が演劇という形式で真摯に表現されているという点で――それが意図されたわけではなかったのかもしれませんが――、「試着室」は興味深い作品でした。

(注)
わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まりました。20万人以上もの公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれます。

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2018年4月11日 (水)

歴史短編1のために #35 冷泉家の乞巧奠 (七夕祭)

「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップした次のエッセーで、藤原俊成、その子・定家、俊成の孫・藤原俊成女に言及した。

78 祐徳稲荷神社参詣記 ➄扇面和歌から明らかになる宗教観
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/01/18/174234

萬子媛をモデルとした第二稿が滞っている。結婚前の萬子媛を描写しようとしても、公家のお姫様の暮らしぶりというのがうまく想像できず、それが一番の障壁となっていた。

例えば、御遺物の中に貝合わせ、貝櫃(貝合わせを入れる箱)があって、萬子媛も貝合わせという遊びをなさることもあったのだろうと思ったが、その情景が具体的なものとして浮かんでこなかった。

四季折々の行事。それは公家にとっては仕事、任務であったと知識ではわかっていても、やはり具体的な情景が浮かんでこなかった。

そうしたところへ、深夜BSプレミアムで「京都 冷泉家の八百年」(初回放送:2003年)が放送されていた。冷泉家は、藤原俊成、藤原定家の流れを汲む家系である。

[BSプレミアム]
2018年4月11日(水) 午前0:45~午前2:26 [火曜深夜](101分)
京都 冷泉家の八百年~和歌の心、日本の美を守り伝えて~(初回放送:2003年)
鎌倉時代に始まる公家で、歌道の伝承者でもある冷泉(れいぜい)家。現存する唯一の公家屋敷の中の雅な日々を1年間に渡って記録した。

歌の家・冷泉家に今に伝えられる古式ゆかしい四季折々の行事がドキュメンタリータッチで紹介されていた。

気づいたときにはすでに始まっていたため(慌てて録画した)、いくらか見損なったのが残念であったけれど、貝合わせなどの場面もあって参考になった。

旧暦7月7日に行われる七夕の行事「乞巧奠[きっこうでん〕」が圧巻だった。こうした行事は、冷泉家が運営する財団の予算で行われるという。

南庭に、彦星、織姫に供える祭壇「星の座」が設けられ、織姫に捧げる五色の布と糸、星を映して見るための角盥〔つのだらい〕、琵琶、琴、秋草、海の幸・山の幸などが配置された。

襖や障子は外され、部屋と庭が一つとなる。日が落ちるころ、雅楽が奏でられ、祭壇の灯明が灯される。そして、夜のとばりが下りたなかで、星に和歌が捧げられるのだ。

そのあと、遊興の座「当座式(流れの座)」が設けられる。座敷に天の川に見立てた白布を敷き、それを挟んで狩衣・袿袴姿の男女が向かい合って座る。男女は即興で恋の歌を交わし合う。

冷泉家には、初雪を藤原俊成の木像に供える慣わしがあるという。91歳で亡くなるときに、俊成は高熱にうなされた。息子の定家が氷室に人をやり、雪を持ってこさせた。その雪を「ああ、おいしい」と喜んで食べ、亡くなった。明月記にそのように書いてあるそうだ。

俊成の木像は生々しい表情で、まるで生きているみたいにわたしには見えた。子孫の行く末を案じて「春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ」という歌を詠んだ俊成。

子孫の行く末というのが、歌の行く末であるのだと、木像の俊成のお顔を見てわかった。

萬子媛をモデルとした小説から離れすぎると、優しく呼び戻される気がする。

ヤコブ・ベーメの本を夜中読んでいたせいで、眠い。アバター&インターポットのキラポチ、数学のお勉強が眠すぎてできないかも。

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2017年6月13日 (火)

萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺(法泉寺)に電話取材しました

8日、祐徳稲荷神社に参詣し、翌日、以下の記事を書きました。

動揺したことがあったために、すぐにはまとまった文章が書けなかったのですが、気持ちの整理もついたので、まとめにかかろうとしました。

が、まだわからないことがあり、電話で取材するのは失礼かもしれないと思いつつ、決行。萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺・法泉寺に電話取材しました。

その結果、さらなる驚き、という以上の衝撃に見舞われました。今回の一連の取材を通して、廃仏毀釈の爪痕をまざまざと見たように感じたのでした。

黄檗宗で断食入定が行われていたのかどうかが知りたいと思い、いっそ大本山にお尋ねしてみようと思い、電話したのでした。ご回答いただいたのは、宝物館の和尚様でした。

電話するまでは、密教の影響で、萬子媛が断食入定を実行されたのではないかと考えていたのです。尤も、黄檗宗は密教の影響も受けているようですけれど、萬子媛の断食入定は特異な例ではないかと憶測していました。

黄檗宗でも行われていたようです。いつごろまで何人断食入定をしたのか(現代では法律上不可能です)、記録が残っているのかどうかを知りたかったのですが、はっきりと記録されているわけではないのかもしれません。何度か同じ質問をしたのですが、はぐらかされてしまいました。

黄檗宗は中国の明朝の仏教が日本に伝えられたものです。その明朝で、また日本でも行われていた過酷な修行法を伺いました。

例えば、手に包帯をぐるぐる巻きにしてそれに油をさし、火をつけ、それを燈明代わりに、お経を読むのだそうです。

ひ、とわたしは心の中で悲鳴を上げ、「火傷では済まない場合もあるのではありませんか?」というと、「そういえば、どこそこに指を燈明代わりにした坊さんがおったな……」と事もなげに萬福寺の和尚様。いつの時代のお話なのでしょうか、恐ろしくて聞けませんでした。

明朝では(日本でも?)、自らの血で仏画を描いたり、写経をしたりということも流行ったとか。

そして、断食入定はそうした過酷な修行法の一つと位置づけられていたようです。

穀類を断ち、水だけを飲んで、骨皮筋衛門になる――と和尚様はおっしゃいました――修行を木食[もくじき]入道というそうです。

そして山の斜面みたいなところに入って、「つまり生き埋めになるわけですわ。息だけはできるようにしてな」と和尚様。

「水は飲めるのでしょうか? 生き埋めになったあと」とわたし。飲めるそうです。毎日お経を読み、水を飲んで、入寂のときまで……。

と、ここまで萬福寺の和尚様から伺ったことをメモしました。

まだまとめる段階にはないので(写真を挿入しながらきちんとまとめたいと思っています)、忘れないうちに、とりあえずメモしておきます。

鹿島の祐徳稲荷神社に舞台を戻すと、博物館のかたに教わって見学した岩本社には、萬子媛に仕えた尼さんがお祀りしてあるというお話でした。技芸の神様だそうです。

ところで、わたしは過去記事で次のようなことを書きました。

2016年8月18日 (木)
歴史短編1のために #27 萬子媛遺愛の品々 ②入定について。印象的な御袈裟。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/08/27-1e00.html

萬子媛があの世でボランティア集団を組織なさっているとわたしが想像するのは、参拝するたびに、萬子媛を囲むように一緒にいるあの世の大勢の方々を感じるからだ。
その大勢の方々というのは、萬子媛が禅院を主宰なさっていたときにそこに所属していた尼僧たちを中心とする方々ではないだろうか。
わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛にはどこか深窓の麗人のような趣があり、無垢で高雅で率直な高級霊の雰囲気が伝わってくる。
それに対して、萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性達の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性たちは生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧たちではないかとどうしても思えてくるのだ。
萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来たときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ。
何にしても、萬子媛の一番近くにいる女性は身辺の護衛でも司っていそうな、シャープな雰囲気のある女性なのだ。わたしの内的鏡にほのかに映った気がする程度のものなのだが、萬子媛の圧倒的な雰囲気とはまた別種の矜持と気品とがまぎれもなく感じられて、興味深い。

過去記事で出てくる萬子媛の近くに控える矜持を感じさせる女性的な存在が、岩本社に祀られている尼僧ではないかと想像したくなります。

時代も下って、鍋島藩の家臣の家に育ったと聞く母方の祖母ですら、鹿島にお嫁に来るとき――有名な軍人さんが仲人だったというから、それくらいの時代――には、3人の側に仕えていた人々と一緒にお嫁に来たと従姉がいっていたことから考えれば、萬子媛には当然そうした方々がいらっしゃって、一緒に京都から鹿島に下られたことは確かでしょう。

その尼僧が技芸の神様として祀られているということは、生前、その方面の指導で優れていたからではないでしょうか。こうしたことからも、京都から萬子媛と一緒に下ってきた人ではないかと思えます。

37歳で京都の花山院から肥前鹿島にお嫁に来られた萬子媛。萬子媛は1625年生まれですから、このとき1662年(寛文2年)。今は2017年。2017年−1662年=355年。

何と、355年も萬子媛に仕えていらっしゃるというわけです。

355年後つまり出家後も、さらには死んでからも、同じように萬子媛に仕えているのだとすれば、それは萬子媛が黄檗禅の、また霊的な分野における師匠あるいはリーダーとして理想的な存在であり続けているからでしょう。

この世でグループを形成した人々は、あの世でも同じグループに属することがあるようです。その逆もいえるでしょう。

尼僧に神格が与えられ、技芸の神様とされていることから考えると、神社での祭事を連想させられます。明治の廃仏毀釈までは、仏事と神事がどちらも怠りなく行われていたということではないでしょうか。

岩本社を見学した後、普明寺を見学しました。案内図も撮ってきたので、まとめには挿入します。

普明寺は鍋島直朝公の長男である断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳明幢禅師が開山となり創建されたお寺です。

寺域全体を竜に見立てて建物や施設が配置されているとか。相当に奥行きのある敷地には草木が生い茂っていて、竹林などもあり、石仏が沢山あって、建物も立派でした。

ただ全体が自然に抱かれすぎているというか、率直にいえば、苔むして荒れていました。鹿島市は田舎ですが、祐徳稲荷神社のすぐ近くにあれほどの自然が手つかずで存在しているとは想像もしませんでした。

普明寺も、同じ敷地内の手前のほうにある普明寺の子院である法泉寺も、廃寺のように見えました。

でも、電話で萬福寺の和尚様はおっしゃいました。「普明寺に、去年の夏にお経をあげに行ったがよ」

(あの物凄いところへ?)と、失礼ながら思ってしまいました。江戸時代にはさぞ威容を誇ったであろう普明寺の背後が墓地になっているようですが、藪蚊が凄くて、そこへは行きませんでした。

でも、あそこにいた間、もう日が落ちかけて、爽やかな風が強く吹いていたので、すばらしい散策ともなりました。風が静まると、藪蚊がとまりに来るので、とまっているところを何匹か退治したり退治し損なったりしました。

それなのに、車に戻って体を調べてみると、一箇所も蚊に刺されていませんでした。夫も娘もそうでした。この時期の藪蚊は血を吸わないのでしょうか。

もしかしたら、萬子媛のお墓が神社の石壁社とは別に普明寺にあるのかもしれないと思いつつ、帰途についたのでした。

萬福寺の和尚様は、わたしが調査しているようなことに詳しいかたを何人か教えてくださいました。そのうちのお一人のご著書は読んだことがありました。

しかし、「総合的に知っている人はいない。佐賀も殿さんが沢山、黄檗の寺院を作った。祐徳稲荷もそうじゃが」と和尚様。

「普明寺は、相当に苔むしているように見えました。綺麗になれば、一般人も行きやすくなると思いますけれど」と磊落な和尚様の雰囲気に甘えて、ついいってしまうと、「あんたが、あんたが人のため、世のため。自分がやるか、やらないかをいうことに価値がある」と和尚様。

「わたしは黄檗宗の僧侶として断食入定を遂げられた祐徳院様に魅せられ、黄檗宗について知りたいと思いました。いろいろと教えていただいて、ありがとうございました」といいました。

法泉寺に電話したのは、田中保善『鹿島市史 真実の記録』(田中保善、1990)に、次のような記述があったからでした。

祐徳院と稲荷社は世間の信仰を集め、御霊験あらたかで有名になり参詣人も多く興盛になったが、明治を迎えて神仏混淆のお寺は明治政府の『神仏判然令』により神仏を分離して廃仏毀釈が実施されるようになった。ここでは仏像や仏具一切を普明寺に移して神社のみとした。普明寺では仏像仏具類は完備しており、普明寺の末寺の法泉寺に祐徳院の寺の物を全部移して現在大切に保管している。(田中,1990,pp.151-152)

祐徳博物館の職員は「祐徳院にあった物は普明寺に移されたということのようですよ」とおっしゃいました。前述したように普明寺も法泉寺も同じ敷地内にあり、法泉寺は普明寺の子院なのです。

しかし、法泉寺に電話でお尋ねしたところでは、禅寺だった祐徳院の物は何一つないというお話でした。萬子媛のお墓もないそうです。

「ここは藩主の菩提寺で、藩主と正室のかたしかお墓はありません。祐徳院様は後室なので、ここにはないのです」とのことでした。以下のオンライン論文にも、そのようなことが書かれています。

高橋研一(鹿島市民図書館 学芸員)「鍋島直彬の先祖史蹟顕彰事業 ~先祖の史蹟を訪ねた直彬」<http://kcc.lolipop.jp/_src/sc1250/82d382e982b382c692t96k8du8989985e81i8dc58fi81j.pdf>(2017/6/13アクセス)

他の大名家のお墓をきちんと調べていかなければなりませんが、夫婦が対になった墓所の配置は鍋島家の特徴的な墓の作り方といえるかもしれません」とも書かれています。

同じ正室であっても、先に嫁いだ正室だけが藩主と同じ墓地に眠る権利があったということのようですね。

そして、前掲論文の次のような記述に胸を打たれました。

普明寺の場合、菩提寺だったので非常に多くの子院が建てられています。当時の景観で言うと、ここから祐徳稲荷神社まで山伝いに子院がつながっていました。祐徳稲荷神社の前身も元々は祐徳院といって、普明寺の子院でした。

どんなに壮観だったことでしょう!

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2017年4月22日 (土)

杉田久女、川端茅舎、三橋鷹女、松本たかしの春の句を紹介

当ブログで以前、杉田久女、川端茅舎、三橋鷹女、松本たかしの俳句を紹介していました。その後、「マダムNの俳句紹介」へと紹介の場を移し、気が向いたときに記事を更新してきました。

久しぶりに更新したのですが、当ブログでも紹介したくなりました。過去記事で紹介した句もありますが、再度。

………………………………

 三橋鷹女

あすが来てゐるたんぽぽの花びらに

花買はな雪解け窓を押し開き

………………

 松本たかし

人来ねば鼓打ちけり花の雨

めりがちの鼓締め打つ花の雨

春愁や稽古鼓を仮枕

座敷には鼓出されて花に月

チチポポと鼓打たうよ花月夜


………………

 杉田久女

掃きよせてある花屑も貴妃桜

風に落つ貴妃桜房のまゝ

花房の吹かれまろべる露台かな

むれ落ちて貴妃桜房のまゝ

むれ落ちて貴妃桜尚あせず

きざはしを降りる沓なし貴妃桜


………………

 川端茅舎

山高みこのもかのもに花の雲

花の雲鳩は五色に舞ひあそぶ

(け)ちらして落花とあがる雀かな

花吹雪瀧つ岩ねのかゞやきぬ


 ■ 引用・参考文献

 『三橋鷹女全集』(立風書房、1989年)
 『川端茅舎 松本たかし集 現代俳句の世界3』(朝日新聞社〈朝日文庫〉、1985年)
 『杉田久女全集』(立風書房、1989年)

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2017年4月13日 (木)

ブログを続けるメリット、デメリット

当ブログを開設したのは2006年4月で、11年が経過した。ブログを始めたころはブログ文化が花盛りで、私的な事情や内面を率直に吐露した内容のブログは珍しくなかった。

わたしは小説を書いてきたし、また神秘主義者でもあるので、その観点から私的な事情や内面をも一つのサンプルと捉える傾向があるため、そうしたものを含めて全てをメモしておきたいという思いが強い。

こうしたことから、わたしはブログ文化に自然に溶け込んで多くを書き、また様々なブログから教わったり、慰めを得たりとブログ文化を享受してきた。

しかし、フェイスブック、ツイッターが流行り出してからはブロガーが減った気がする。

私的な事情や内面を率直に吐露したブログが減ってくると、こうしたことを続けている自分のブログが浮いているような気がしてきた。

神秘主義、小説にジャンルを絞ったブログを別個に立ち上げたのは、あれこれ書きすぎている当ブログに恥じらいを覚えるようになったということも理由の一つとして挙げられる。

これだけいろんなことを書いているにも拘わらず、閲覧者は自分が読みたいところだけ、自分が読みたいように読む。

わたしもそうであって、それは閲覧者の自由なのだが、時々マナー違反とも思えるメールを頂戴することがあり、そんなときにはブログを閉鎖してしまいたくなったりするのだ。

つい最近も、そういうことがあった。

ある問い合わせを受け、普通にメールしたはずが、数回のやりとりの間にその人からのメールが完全にラブレターになってしまったのである。

怖ろしい。最初にメールをいただいたときから、何かねちっこい雰囲気が伝わってきたので、警戒はしていたのだが。

ブログを読んで、その人はわたしについて熟知したような感じを抱いたのだろう。だからといって、わたしがその人について知らなければならない義務などない。

違ったタイプの不愉快なメールをいただくことも、時々ある。逆に、こちらが浄化されるようなきよらかな雰囲気と共に礼儀正しいメールが届くこともある。勿論、雰囲気だけが届くこともある。

ねちっこい雰囲気には個性がない。性別さえ、わからないことがあるほどだ。

しかし、きよらかな雰囲気にはきよらかという共通点がありながらも個性の刻印があり、その雰囲気を届けてくださったのが男性か女性かもはっきりわかる。

私的なことを書きすぎたブログを閉鎖してしまいたいという思いを止めるのは、そうした快い体験だ。

時々ブログに綴ってきた政治や文学に関する雑感も、断片的なものだが、11年の間にはわが国におけるそれらの流れがわかるような記録となっていて、それなりに貴重ではないかと思う。

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2017年2月 7日 (火)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想メモ1

作家の卵を続けているうちに、他人の作品の構造が嫌でも見えるようになる。

資料を参考にしている部分とそうでない部分。

資料がうまく消化され、それが創作にうまく生かされていないと、異なる地層を見るような違和感がある。

そこが創作の難しいところで、歴史小説初体験のわたしの悩みでもある。消化するのが難しいとあって、資料そのものを損ないたくないために、引用という形で資料を用いる箇所が多くなった初稿であった。

恩田陸『蜜蜂と遠雷』はまだ3分の1程度読んだところなのだが、資料を参考にしていると思われる部分とそうでないオリジナルと思われる部分とに、異なる地層を見るような違和感がある。

本日読んだ最後の頁は162頁で、その頁の次の引用部分などは作者が表現に工夫した独自性の高い部分だろう。

「なんという迫力。/ 曲は後半のクライマックスに向かって突き進んでいた。きらびやかなメロディ、凄まじい和音の連打と加速。ピアノから、いや、ステージ上の大きな直方体の空間全体から、音の壁が飛び出してくるかのようだ。/ 観客は、その音圧に、飛び出してくる音楽に吹き飛ばされまいと、席で踏ん張って必死に耐えている。むろん、耐えているのは、驚異的な演奏を聴いている衝撃に対してであり、それは形容しがたい無類の快楽でもあるのだ。地響きにも似た分厚いトレモロが、正面から剛速球で顔を、眼を、全身を打ってくる。」を読んで、いくら形容しがたいからといって、ここまで物理的な表現を重ねられると、スポ根コミック『巨人の星』を連想してしまう。

生演奏を視聴する醍醐味は、演奏者の生活ぶりや肉体的強みと弱点、内面などが透けて見えるところである。

アルゲリッチはすばらしかったが、テレビで観るのとそれほど大きな違いを感じなかった。

中村紘子の指の体操のような(技術に終始したような)、内容の痩せた演奏には愕然とさせられた。テレビで視聴していたNHK『ピアノのおけいこ』はよかったし、舞台でのチャーミングなスピーチとよく似合っていた可愛らしい衣装は忘れがたいけれど。

中村紘子のエッセーがあれほど秀逸なのに演奏が無味乾燥に感じられたのはなぜだろう、とずっと考えている。もしかしたら、彼女には左派的、唯物論的考えかたがあって、そのせいだったのだろうか……と最近は考えたりしている。

思想が何もない人間など考えられず(凡人であっても、その時代と地域で支配的となっている思想の影響は受ける)、思想が曲の理解に影響しないはずはない。

テレビで観るよりずっと白人ぽく見えたフジ子・ヘミングの曲に対する深い解釈と瞑想的な趣も、生でないとわからなかった。それだけに、フジ子はソロ向きで、オーケストラとの共演には向かないのではないだろうか。中村紘子はその逆だろう。

以上は勿論、わたしの勝手な印象にすぎない。

いずれにしても、絵に描いたような天才はいないのだとわたしには感じられる。だからこそ、演奏家が、人間が、いとおしく、興味深い。

絵に描いた餅のようでない小説が読みたかったわたしは既に『蜜蜂と遠雷』に失望しつつあるが、文字通り絵にしたらいいかもしれない。

「ガラスの仮面」はストップしたままだが、美内すずえに漫画にして貰えば、ぴったりかもしれない。映画にもよさそうだ。

白髪三千丈式の馬鹿馬鹿しい表現や、ステレオタイプの登場人物たちと現実には存在しえないスーパー天才ぶりなども上手に肉づけされて、広告通りの名作になるかもしれない。

参考文献の記載がないので、作者がどのような本を参考にしたのかはわからないが、わたしが魅力を覚えたとしたら、そうした資料的部分である。

クラシック音楽の名エッセーは多い。わたしの印象に特に残っているのは、中村紘子『チャイコフスキー・コンクール―― ピアニストが聴く現代』(中央公論社、1991)や『ピアニストという蛮族がいる』(中央公論社、2009)、あるいは奥田昭則『母と神童―五嶋節物語』(小学館、1998)などである。

題名は失念したが、グレン・グルールドの評伝、吉田秀和のエッセーも記憶に残る。まだ読んでいない、青柳いづみこのエッセーを読んでみたい。

小説では何といっても、『ジャン・クリストフ』である。読み返そうとして、あまりの厚さ、内容の濃さに、すぐには読み返せないと思った。ブラヴァツキー「不思議なヴァイオリン」(『夢魔物語』所収。田中恵美子訳、竜王文庫、1997)も忘れられない。

「不思議なヴァイオリン」はピアノの名手であったブラヴァツキーが神秘主義的教訓を籠めた作品で、手っ取り早くいうと、悪魔に魂を売り渡したヴァイオリニストの話である。恐ろしい演奏の場面を描いた部分を147頁から引用してみると、

すみません、中断しますが、この記事は書きかけです。

関連記事:

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2016年11月 4日 (金)

演劇を鑑賞した昨夜

昨夜、演劇を鑑賞しました。県民芸術祭文化祭ジャンル別行事として開催された演劇の会設立10周年記念公演です。

娘の年下の友人が出るので、娘と一緒に出かけたのでした。お花を、と思い、駅で花屋さんに寄ると、花瓶に挿さなくても長持ちするように作られた花束があったので、ささやかながらそれを贈ることにしました。

初舞台と聴いていたこともあって、胸がドキドキしました。

初舞台の初々しさと彼女の研究心が一つとなって、『ヴェニスの商人』のユダヤ商人シャイロックの娘の役をすばらしいものにしていました。

シェイクスピアの原作とはいくぶん違っていました。ユダヤ人シャイロックは悪漢というより、キリスト教徒に虐められる哀れな老人という印象のものとなっていて、シャイロックを演じたかたの卓越した演技力もあって同情を誘いました。

シャイロックの娘は駆け落ちの相手と父親との間で煩悶し、劇の最後のところで泣き顔を隠すように舞台の袖に走り去る姿が何とも清楚で、舞台に花を添えていました。娘と一緒に贈った、ピンク色を基調にした花束を連想しました。

その最後の場面がなければ、単なる老人虐め物語になっていたところでした。

私事になりますが、大学祭で、文芸部は創作劇を行うのが恒例となっていました。わたしも恥ずかしながら出演し、あれは1年生のときだったか、着物姿で「わたいは孕んでやるんだ、闇を孕んでやるんだよう!」という台詞をいうのが恥ずかしかった記憶があります。

今だと、もう少し内面的な表現ができたかもしれないと思います。

娘の友人は初舞台なのに、複雑な内面をさりげなく表現できていて感心しました。今後も続けられるのかどうかはわかりませんが、できたらまた来年も観劇したいものだと思いました。

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2016年8月 9日 (火)

大戦前後の日本が透けて見えてくる、岩間浩編著『綜合ヨガ創始者 三浦関造の生涯』

三つの過去記事(本に関するメモ)をまとめました。レビューというには難があるかもしれませんが…

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

岩間浩『綜合ヨガ創始者 三浦関造の生涯 』(竜王文庫、2016)は、総合ヨガを創始し、わが国に近代神智学を紹介した三浦関造を描いた決定版である。

この書は『伝記』的ではあるが、同時に、三浦関造関係者の証言集ともいうべき性格を備えているために、いつくかの重複が存在する」と「はじめに」にあるように、三浦関造があらゆる角度から捉えられている。

神秘主義に関心のある人にもない人にも、三浦関造の稀有な生涯には力強く訴えかけてくるものがあるのではないかと思う。

満州事変のころ、アメリカにいた三浦関造はウィリアム・ダドリー・ペリーと交渉を持った。

ウィリアム・ダドリー・ペリーは吉永進一の論文「近代日本における神智学思想の歴史」で次のように描かれている人物である。

メタフィジカル宗教で最も政治的な活動をした人物がウィリアム・ダドリー・ペリーである。ペリーは元ジャーナリスト、脚本家で、ロシア革命を取材して反共、反ユダヤ主義になる。1928年に神秘体験をしてから霊的思想に目覚め、メタフィジカル教師として名声を得る。〔略〕キリスト教的終末論と神智学的人種論の混淆が彼の特徴であった。

神智学的人種論と書かれているのだが、ペリーの人種論が吉永がいうように「彼の説によれば、シリウスから三千万から五千万年も前に魂の集団が移住してきてこれが動物に入る。人類は、猿から生まれた人種、シリウスから転生した魂、偉大なアヴァターの弟子である十四万四千の正しい魂に分かれるという」 ようなものだとしたら、わたしのような理解の浅い者でも、このような考え方には何の接点も見い出せない。

『シークレット・ドクトリン』の二巻第1部「人類発生論」はまだ邦訳版が出ていないので、わたしは機関誌に掲載された田中恵美子先生の解説を通しての理解程度なのである。もっとも、第一巻第1部「宇宙発生論」からも人類の発生についてわかる部分がありはする。

何の接点も見い出せないそれを、神智学的とはどういうことなのだろうか。

ブラヴァツキーがH・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクト リン 宇宙発生論(上)』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1989)の中で、以下のように憤慨(?)しているので、ダーウィンの進化論をあまりの理解不足 から支持した人がいるのだろうが、その誤った理解を指して神智学的とはいわないだろう。

ある神智学徒は『エソテリック・ブッディズム』をほとんど理解しなかったので、その本はダーウィンの進化論、特に人間が直立猿人の直系の子孫であるという説を完全に支持したようである。この事実をつきとめて私達は本当に驚いている。 (ブラヴァツキー,田中&クラーク訳,1989,スタンザⅥp.437)

シリウスのような遠い星の話も出てこない。

こ れから与えられるスタンザはすべて、一太陽プララヤ後の地球惑星体系とそのまわりの目に見えるものの(宇宙)発生論だけを扱っていることを読者は覚えてお かなくてはならない。普遍的コスモスの進化についての秘密の教えは与えることはできない。それはこの時代の最高の叡智の持ち主にも理解できないからであ る。〔略〕従って伝えられることは、“梵の夜”が終わったあとの我々の目に見えるコスモスについてだけである。(ブラヴァツキー,田中&クラーク訳,1989,プロエム(緒論)p.201)

ペリーの説が神智学的だとすれば、吉永の解説は間違っているだろうし、ペリーの説が吉永のいう通りだとすれば、その説には神智学的なところは全くないということになる。

神智学徒の誰かの説に似ているというのであれば、誰の説なのか、せめて名を示すべきである。

ところで、吉永の論文ではペリーの小説家としての側面や具体的な政治活動には言及がないが、ペリーは1920年に The Face in the Window 、1930年に The Continental Angle でオー・ヘンリー賞に入賞している。

ちなみに、1920年の一等賞はMaxwell Struthers Burt、二等賞はFrances Noyes Hartで、その他の入賞者の中にペリーの名があり、同じ入賞者の中に「グレート・ギャツビー」「楽園のこちら側」で知られるF・スコット・フィッ ツジェラルドの名もある。

ウイリアム・ダドリー・ペリーはドイツ語版ウィキペディアによると、アメリカに生まれた英国メソジストの家系で、純粋な英語の家系であることを誇りにしていた。

メソジストといえば、三浦関造は青山学院大学神学部出身で、『綜合ヨガ創始者 三浦関造の生涯 』によると、関造の妻ハルの上の兄・豊田実は東京大学を出て青山神学校に入り、そこで関造と同級となり、関造はその縁でハルと結ばれた。豊田実はケンブリッジ大学を出て御茶ノ水、九州大学教授を経て青山学院院長となる(第9代院長1946~1955→青山学院歴代院長<https://www.aoyamagakuin.jp/history/introduction/list_02.html>2016年8月9日アクセス )。

青山はメソジスト系だから、関造とペリーは神秘思想という共通点以外にも、メソジストという共通した宗教教育を受けていたわけである。

英語版ウィキペディアを参考にすると、ウィリアム・ダドリー・ペリー(1890年3月12日- 1965年6月30日)はマサチューセッツ州の東端、エセックス郡に位置する都市リンに生まれた。

第一次世界大戦後、ペリーは外国特派員としてヨーロッパとアジアを旅してロシア内戦中に残虐行為を目撃する。こうした経験は共産主義とユダヤ人に対する深い嫌悪を残し、ペリーは彼らが世界征服を計画していたと信じた。

アメリカに帰国後はハリウッドでシナリオライターとなり、1928年以降は超常体験と形而上学的著作で知名度を上げた。

大恐慌が1929年にアメリカを襲い、ペリーは政治に積極的になる。アッシュビルに移住後の1932年、その対応に特化した「社会形而上学」及び「キリスト教の経済学」コースのあるガラハッド大学を設立した。

1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーがドイツの首相となると、ペリーはヒトラーに共鳴し、国のほぼ全州で銀シャツ党を設立、すぐに相当数の信奉者を獲得した。

ペリーは反戦活動家、反共産主義者、反ユダヤ主義者、国粋主義者、ファシスト、レイシスト……など、彼を見る人の立場によってさまざまに呼ばれたようである。

いずれにせよ、ペリーはルーズヴェルトに反対し続けた。ルーズヴェルトを主戦論者と非難し(warmonger は戦争屋という訳すべきだろうか)、孤立主義を主張したのであった。

孤立主義とは、他国と同盟関係を結ばず、可能な限り他国との関係を持たないで孤立を保とうとする外交上の主義をいう。モンロー主義に代表される、第二次世界大戦前までのアメリカの伝統的な外交政策をさす。

現代日本人の感覚でペリーをファシスト、レイシストと斬り捨てることも可能だろうが、彼のような枢軸国に理解のある反戦活動家は、戦争を望まなかった当時の日本人には貴重な存在であっただろう。

満州事変が勃発した昭和6年(1931)前後の2年間、三浦関造はアメリカを講演して回っていた。関造がウイリアム・ペリーと接触したのはそのときであった。

関造はアメリカにおいて、ウイリアム・ペリーとも接触し、手紙のやり取りも増す。キリストに天啓を受けたウイリアム・ペリーは後に、ユダヤ金権に踊らされる米政府に抵抗して、日米戦争を未然に防止しようとするが、投獄されてしまう。(岩間,2016,p.35)

アメリカと戦争すれば負けるとよく知っていた三浦関造は知人を通じて戦争回避を総理大臣・近衛秀麿に直訴した。陸軍の荒木貞夫大将は三浦の提出した建白書に賛成したが、真珠湾攻撃を決めていた海軍にはそれは通らなかった。

荒木大将は昭和15年に、関造の身を守るために、亡命のような形で自由都市上海へ逃した。このとき関造は57歳を迎えていた。(岩間,2016,p.38)

予知能力があったという三浦関造には、悲惨な日本の姿が脳裏に浮かんでいたのではないたろうか。ペリーとの接触や近衛秀麿への直訴といった行動からは、関造が戦争回避のためにどれだけ必死だったかがわかる。

上海では世界宗教同胞会を組織してスリーエル運動という平和運動を展開した。スリーエルとは光Light、愛Love、自由Libertyの意味である。

光と愛と自由の美しいハーモニーがなければ、真の平和は達成できないことを、戦争のさなかに、上海、満州、モンゴル等で説いて回った。(岩間,2016,p.39)

また、神智学やヨガに関する英文冊子を10冊以上出版し、神智学などの神秘科学を外国人たちに英語で講義した。

敗戦後、300人ほどの暴徒から袋叩きに遭ったことなども『綜合ヨガ創始者 三浦関造の生涯 』には出てくる。このときの奇跡的な現象が凄い。自らに起こしたその現象がなければ、このとき三浦関造は見るも無残な死体となっていただろう。

300人もの暴徒のことは、朝鮮進駐軍と僭称して暴れ回った在日朝鮮人たちのことを余命図書で読んでいなければ、わたしには何のことだかわからなかっただろう。余命プロジェクトチーム『余命三年時事日記』(青林堂、2015、pp.195-198)を参照していただきたい。

余命プロジェクトチーム『余命三年時事日記ハンドブック』(青林堂、2016)第1章中、「在日による略奪・暴行・虐殺」(pp.15-22)には、敗戦によって日本軍は解体され、警察力も弱体化して治安維持が困難となった当時の日本で、旧陸軍の小銃や拳銃などで武装した在日朝鮮人が起こした凶悪事件のうち特に有名なものが一部挙げられている(22件)。

さらには三浦関造の身に降りかかったGHQによる出版禁止、没収、パージ(追放)のことなども、わたしには今だから理解できた。

これについては、関野通夫『日本人を狂わせた洗脳工作 いまなお続く占領軍の心理作戦』(自由社、2015) 、江藤淳『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本(文春文庫)』(文藝春秋、1994)を参照していただければと思う。

三浦関造が「竜王会」を創立したのは昭和28年(1952)のことであった。

竜王会ではなぜ神智学とヨガを教わるのだろう、とわたしは時々考えていた。

つまり神智学会の結成と解散、そして竜王会の創立までに三浦関造にどのような内的変遷があり、どのような動機で竜王会の創立がなされたのかが会員のわたしには呑み込めていなかったのだった。次のように書かれている箇所を読んで納得した次第。

関造は、神智学をしている間に常に思っていたことがあった。すなわち、神智学を通して、人々は自分の中に潜む神性を知ることが出来、死をも恐れず、喜んで日常生活に精を出し、真の幸せをつかみ得るはずであると考えていた。この幸せをすべての人々と分かち合いたいと切実に思っていた。そして、だがどうして人々が来てくれないのかという、一般の人に対するやるせない気持ちがあった。
この気持ちから、方法論としてヨガを導入することで、神智学理論を実践する方向が開けると思い、ヨガと神智学を結び付けて、打ちひしがれている日本人の敗戦後の心に光を灯そうという情熱が燃え上がった。
(岩間,2016,p.44)

本書と合わせて同著者による『ユネスコ創設の源流を訪ねて―新教育連盟と神智学協会』(学苑社、2008)、また三浦関造の諸著や神智学関連書など読まれれば、より深みのある世界がひろがることと思う。

三浦関造という傑出した一知識人・思想家の生涯を通して、第二次大戦前後の長い間封印されてきたわが国の歴史がダイナミックに透けて見えてくる。

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綜合ヨガ創始者 三浦関造の生涯

岩間 浩 (著)
出版社: 竜王文庫 (2016/7/2)
ISBN-10: 4897411106
ISBN-13: 978-4897411101

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2016年6月22日 (水)

神智学をさりげなく受容した知識人たち――カロッサ、ハッチ判事 ①ハンス・カロッサ

祐徳博物館で見学した萬子媛の御遺物ノートを続ける予定のところを、前々から記事にしておこうと思い、側の丸椅子に積み重ねた本の中にその資料となる2冊の本を加えておきながら、放置したままだった。それを今、やっておこう。

資料となる2冊の本というのは、カロッサ(国松孝二訳)『指導と信徒(岩波文庫)』(岩波書店、2012)及びエルザ・パーカー(宮内もと子)『死者Xから来た手紙――友よ、死を恐れるな』(同朋社、1996)である。

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」収録のエッセー 51、55 で紹介した動画や論文を通して、神智学協会の文化運動が欧米に広がっていたばかりか、インドとの深い関わり、日本への影響、エッセー 15 に見られるようなチリの国民的詩人ガブリエラ・ミストラルの例から推測可能なラテンアメリカへの影響など考えると、その運動が世界的規模のものだったことは間違いのないところだろう。

前掲2冊の本は、神智学協会のメンバーになるところまではいかなくとも(ヒトラー政権下や共産圏では神智学協会のメンバーは弾圧の対象となったことを考慮しておく必要がある)、神智学をさりげなく受容していた知識人がいたことを教えてくれる。

指導と信従 (岩波文庫)
カロッサ (著),    国松 孝二 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2012/9/15)
ISBN-10: 4003243668
ISBN-13: 978-4003243664

カロッサ『指導と信徒』には、神智学と人知学が出てくる箇所がある。区別して訳されているから、人知学とはシュタイナーのアントロポゾフィー(人智学)のことだろう。

『指導と信徒』は1933年に出ている。シュタイナーは1925年に64歳で亡くなっている。カロッサは1878年に生まれ、1956年9月12日に亡くなっているから、シュタイナーが亡くなったとき、カロッサは47歳。

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From Wikimedia Commons, the free media repository

カロッサが神智学やシュタイナーの論文を読んだことがあっただけなのか、神智学協会ドイツ支部あるいはアントロポゾフィー協会と関わりを持ったのかどうかは、『指導と信徒』の中の短い記述からはわからない。

ただ、その記述からすると、仮にそうした場所へ足を運んだことがあったにせよ、それほど深い関わりを持ったようには思えない。だからこそ、当時のドイツにおける知識人たちに神智学やアントロポゾフィーの論文がどんな読まれ方をしてどんな印象を与え、どんな影響力を及ぼしたのかが探れそうな気がする。

また、リルケを医者として診察したときの描写や交際、リルケに潜む東方的な影響――ヨガの精神――について書かれた箇所は印象的である。リルケについてリサーチする必要を覚えているが、まずは『指導と信徒』から神智学、人知学が出てくる箇所を抜き書きしておこう。

シュタイナーは第一次世界大戦、カロッサは第一次大戦とナチス下の第二次大戦を経験し、生死の問題が重くのしかかったであろう過酷な時代を生きた。

ウィキペディア「ルドルフ・シュタイナー」によると、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年2月27日 - 1925年3月30日(満64歳没))は、バルカン半島のクラリェヴェクで生まれ、オーストリアやドイツで活動した神秘思想家、哲学者、教育者。

シュタイナーは1902年に41歳で神智学協会の会員となり、同年に設立された神智学協会ドイツ支部の事務総長に就任した。1912年、51歳のときに神智学協会を脱退し、同年ケルンでアントロポゾフィー協会(人智学協会)を設立する。

シュタイナーの死後、ナチス・ドイツ時代には、アントロポゾフィーはさまざまな規制を加えられた。

ウィキペディア「ハンス・カロッサ」によると、ハンス・カロッサ(Hans Carossa,(1878年12月15日 - 1956年9月12日))はドイツの開業医、小説家、詩人。謙虚でカトリック的な作風であった。

カロッサはわたしが学校に通っていたころはよく読まれていたように思う。ドイツの最良なもの、良心とか良識を象徴するような作家という捉え方がなされていたのではなかったか。

『指導と信徒』巻末の訳者解説にも、「ハンス・カロッサ(手塚富雄)」にも、神智学、アントロポゾフィーへの言及はない。ウィキペディアでも同様である。

カロッサは「手術をして助かる時期も過ぎてしまった」患者を親身になって往診していた。その患者との会話が回想される場面で神智学はさりげなく出てくる。長くなるが、引用しておきたい(神智学を赤字にさせていただいた)。

わたしの友人が一番聞きたがったのは、火山の話、とりわけヘルクラーネウムとポンペイの埋没の話、それから彗星、光年、猛獣、毒蛇の話、さらに死後における霊魂の不滅の話であった。最後の問題には、彼は非常な関心を寄せ、自分がこのまま消滅してしまうことにはどうしても承服できず、永遠に生きつづけて両親や兄弟たちとふたたびめぐりあう権利が自分にはあると、躍起になっていい張った。話しあっていても、しばしば話をこの点に持ってくるくらいで、教会の確約していることを医者の口から保証してもらおうと、彼がどんなに熱望しているかが、私にはじつによく読みとれた。私はどこかで読んだことのある、ある論文のことを思い起こした。その論文をすっかり理解できていたわけではなかったけれども、若干の個所が、この孤独な懐疑家を少しばかり勇気づけてやるのに適切なように思われたので、私は彼にこんなふうに説明してやった。空疎な唯物論は、さいわいにして、ようやく没落し、今では神智学という立派な信頼すべき学問が存在している。そしてその学問のおかげで、私たちが現世の肉体のほかにもう一つの肉体、エーテルの肉体を持っていることが、決定的に証明された。この肉体は宇宙のあらゆる永遠の生命力とつながっていて不滅であり、幾度も浄化され、いくつも星をへめぐったのちにおいて、ふたたび自分の血縁者たちと出会うだろう。こういう牽強付会の説明が、病気の彼にどんな効果をおよぼしたか、そこのところははっきりしなかったが、ともかく、前より気持ちが落ち着いたようだった。 (カロッサ,国松訳,2012,pp.39-40)

アントロポゾフィーは、リルケとの会話が回想される場面で、これもさりげなく出てくる(人知学を緑字にさせていただいた)。

若いころのリルケは、非常にらくらくと詩が作れたそうで、かつて彼は、『時禱詩集』の詩風だったから、なお長いことつづけていくことができただろう、といったことがある。しかし年とともに、自分自身の芸術に対する要求が高くなって、より深く掘り下げ、より深く見ようと考えるにいたった。一本の樹木、一匹の動物、一基の彫像、一人の人間、ないしは語り伝えられた歴史上の一人物を、幾度も幾度も執拗に見つめ、ついにはその対象の本然の姿が、突如として自分の心中に浮かびあがってくるまで見つづけることを、ロダンから学んだと彼はいっている。こうしたやり方は、私にとってぜんぜん未知なものだったわけではなく、以前目にした人知学の小論文でも同じようなことが述べられていた。  (カロッサ,国松訳,2012,p.119)

これらには誹謗中傷の嫌な雰囲気は微塵もない。カロッサが神智学及びアントロポゾフィーの論文に対して、真摯に知的に接していた様子が窺える。そのあとのくだりで、さらにカロッサは注目すべきことを書いている。

何か異質な東洋的なものが、私たちドイツの夢想家の世界に入りこんできているように思われた」と述べ、「意志の力によって、己れの光線を魂の集光レンズにかけて一点に集約し、ついにその一点が響きを立てて燃焼するようにする、ヨガの精神」に言及し、次のように続けている。

「物を見るということはすばらしいが――物であるということは恐ろしい。」――仏陀のこのぞっとするような言葉も、むろんもうヨーロッパのうちに鳴りひびいていたのだが、私にはまだその意味が完全にはわかっていなかった。もっとも、老ゲーテを読むたびに、ゲーテはとうにそれを知っていたのではなかろうか、ただ彼は悠揚たる流れの鏡のごとき水面の静けさをまもり、あえて無理な努力をしなかったのだろうと、そんな気がした。 (カロッサ,国松訳,2012,p.120)

まだその当時は完全にはわかっていなかったということは、これが書かれている時点ではカロッサは完全にその意味がわかっていたということだろうか?

さりげない書き方がなされている以上に大きな東洋的な影響力がカロッサに、そしてヨーロッパに及んでいた様子が記述からは窺える。そしてまた、その東洋的な影響力をもたらしたのは神智学及びアントロポゾフィーであった可能性が高い。

一方、リルケはそのときにはもう東洋的な影響力の受容を済ませて作品に生かしていたことらしいことがカロッサの記述からはわかる。リルケが受容した東洋的な影響力はロダン経由であるようだ。

ウィキペディア「オーギュスト・ロダン」を閲覧しても、ロダンがどこから東洋的な影響を受けたのかはわからないが、白樺派の人々はロダンと接触を持ったようだ。

「ロダンは生前に白樺派の人々と文通を行っていた。ロダンにデッサンを送ってもらえる機会を得た白樺派の人々は、フランス語の出来る有島生馬が手紙を書き、白樺派の人々が持っている浮世絵と、志賀直哉と武者小路実篤がお金を出し合って買った浮世絵を送った」という。

以下は、『知恵蔵2015』(朝日新聞社)の解説より「白樺派」。

雑誌「白樺」に依拠して、キリスト教、トルストイ主義、メーテルランク、ホイットマン、ブレイクなどの影響を受けつつ、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げた文学者、芸術家たち。1910年に創刊され、23年、関東大震災で幕を閉じた「白樺」は、足かけ14年、全160冊というその刊行期間の長さ、同人の変動の少なさ、影響力の大きさなどからして、近代日本最大の文芸同人誌と言える。「白樺」には同時に、ロダン、セザンヌ、ゴッホ、マチスなどを紹介した美術雑誌としての側面もある。その意味で「白樺」は、文学と美術がジャンルを超えて響き合う、総合芸術雑誌でもあった。(……)総じて「白樺」の自我中心主義や普遍主義やコスモポリタニズムは、あるべき前提と社会意識とを欠いた、良くも悪くも楽天的なものであった。(……)(井上健 東京大学大学院総合文化研究科教授 / 2007年)

以下の過去記事で書いたように、メーテルランク(モーリス・メーテルリンク)は神智学の影響を受けた作家である。Maurice Maeterlinck,http://www.theosophy.wiki/w-en/index.php?title=Maurice_Maeterlinck&oldid=26749(2016/6/22アクセス)

「白樺」の自我中心主義や普遍主義やコスモポリタニズム――と解説にあるが、こうした特徴からはメーテルリンクなどを媒介した神智学の影響を考えずにいられない。

イタリア神智学協会のオフィシャルサイトによると、ポール・ゴーギャン、ピエト・モンドリアン、ワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーは神智学の影響を受けた画家たちであるが、カロッサのようにさりげなく神智学を受容していた芸術家もいたに違いない。

話を戻すと、もっと前の時代に既にゲーテは東洋的な影響力を受けながらも、リルケのようなヨガ行者じみた無理な努力が伴うような受容の仕方はしなかったのではないか、とカロッサは考えていたようである。

いずれにせよ、カロッサは当時のヨーロッパの知識層を代表するような作家の一人である。神智学の影響力が小さなものでも、一時的な流行でもなかったことを、カロッサは彼の作品を通して教えてくれる。

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2016年5月14日 (土)

芥川賞選考委員・島田雅彦氏が中国で行った不思議な政治的発言

前の記事に関連した記事である。

歴代のノーベル文学賞受賞作家の政治を題材とした緊迫感漲る純文学諸作品と、島田雅彦氏のいう今の日本の「悪政下」で日本の最も著名な文学賞である芥川賞の選考委員を2010年下半期から今に至るまで平穏無事に務めおおせることができ、また、多くの優秀な研究者がポスドクで苦労している中で大学教授にまでなりおおせている彼の諸作品とを比較してみてほしい。

今の日本文学を代表しているのがどのような人々で、彼らが日本文学をどうしてしまったか、日本をどうしようとしているかがが鮮明になるだろう。

ウィキペディアより引用する。

中国・北京で2015年6月12日に開幕した日中韓作家の第3回東アジア文学フォーラムに日本側団長として出席した島田氏は「日本は現在、歴史上最もよくない首相(安倍晋三)が執権している」と批判、「日本の多くの作家の考えであり、愚かな政治家がばらまいた対立の種を和解に変えるために寄与する考え」と文学フォーラムの意味を語ったと中央日報にて報道される。
ウィキペディアの執筆者. “島田雅彦”. ウィキペディア日本語版. 2016-03-26. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%9B%85%E5%BD%A6&oldid=59110356, (参照 2016-05-14).

検索すれば、簡単にソースの確認ができるので、目を疑うこの記述は嘘ではない。

それほどの悪政下で亡命もせずに恵まれた地位を享受しているこうした人々にとって、今の日本ほど暮らしやすい国が他にあるとは想像もできないが、どうか島田氏には「日本の抵抗左派作家」として自身の信念を貫いてほしいものである。

島田氏には、日本よりずっと理想的な国家らしい中国に移住して、そこからご自身の意見と作品とを世界に向けて発信していただきたいと切に願う。

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