カテゴリー「萬子媛 - 祐徳稲荷神社」の114件の記事

2018年10月12日 (金)

落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-891c.html

……………

祐徳博物館で、改めて鎧を見ると、大きさが様々で、体形に合わせて作られていることがわかる。それからすると、萬子媛の夫である鍋島直朝と家督を継いだ直條(萬子媛の義理の息子)はいずれも小柄だったのではないだろうか。

萬子媛の肖像画の前に行った。微笑んでいられるように見えたことがあったけれど(その見えかたのほうがむしろ普通ではないだろう)、厳めしく見えた。

過去記事の繰り返しになるが、萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

寛文2年(1662)、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

寛文4年(1664)に文丸(あるいは文麿)を、寛文7年(1667)に藤五郎(式部朝清)を出産した。延宝元年(1673)、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

元服以前の10歳で亡くなった文丸(文麿)の死因は伝染病ではないか、とわたしは推測していた。というのも、郷土史家・迎氏からいただいたメールには、父・直朝と側室の間に文丸と同年に生まれた中将が同年、文丸に先立って亡くなっていると述べられていたからだ。

文麿と朝清の肖像画の前にも、改めて立った。そのとき、これまでは気づかなかった文麿に関する解説に目が留まった。

文麿公は痘瘡[とうそう]に罹り、長く病床にあったとあるではないか。これまでこの解説になぜ気づかなかったのだろう? ちなみに夫も気づかなかったといった。夫はわたしの整理不足の小説の第一稿を読み、気に入ってくれた一人で、それなりに興味を持って、見学していたのだった。

痘瘡とは天然痘のことだ。ウィキペディアより引用する。

<ここから引用>
天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。
(……)
大まかな症状と経過は次のとおりである。
・飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日の潜伏期間を経て発症する。
・40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
・発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
・7 - 9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
・2 - 3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
・治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。

<ここまで引用>
「天然痘」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年9月23日 23:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

長く病床にあったという文麿は幼い体で懸命に病魔と闘い、周囲に治癒の希望を抱かせた時期があったかもしれない。文麿は聡明な子供だったようだ。

文麿は花山院家から贈られた木の人形がとても好きで、朝夕手放さなかったという。病床でも、文麿はその人形を握り締めて苦痛に耐えていたのかもしれない。その人形は菅原道真の木像だったそうだ。

迎氏からいただいたメールには、文麿が亡くなる前年の寛文12年(1672)に船で上京し、花山公(文麿の祖父、萬子媛の父)に逢ったとある。帰りは参勤交代で帰国する父・直朝の船に同船した。

人形は、文麿が上京したときにおじいちゃんから贈られたものかもしれない。

花山院定好(文麿の祖父)の没年はウィキペディアに中将、文麿と同年の延宝元年(1673)とあるのだが、死因は書かれていない(「花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)。

文麿は、上京したときに天然痘に感染したのだろうか。それが中将にも感染した――と考えたくなるが、天然痘の潜伏期間は7~16日とされていて、花山院定好の亡くなったのが延宝元年7月4日(1673年8月15日)。潜伏期間の短さを考えると、文麿が前年上京したときにおじいちゃんから天然痘が感染した可能性はなさそうだ。

文麿の死が延宝元年の何月だったかはわからないが、もし花山院定好に先立って亡くなったのだとしたら、文麿の死の知らせがおじいちゃんの体にこたえたということはあったかもしれない。

いずれにせよ、一度に父と子供を亡くした萬子媛の気持ちは、如何ばかりであっただろう。

ところで、文麿に関する解説の下に、和歌の揮毫された色紙があり、年齢と名前が記されている。名前が萬子と読める気もしたがはっきりせず、また記された年齢が萬子媛の没年を超えていた。

祐徳博物館の女性職員のかたにお尋ねして、改めて二人で見た。やはり萬子媛の没年を職員のかたも指摘され、まぎらわしいが、萬子媛の揮毫ではないという結論に達した。

・‥…━━━☆

そのときに、以前からの疑問をお尋ねした。

萬子媛――という呼び名には、史料的な根拠があるのかどうかということだった。

というのも、郷土史家からいただいた資料にも、購入した本(『鹿島藩日記 第一巻』『鹿島藩日記 第二巻』『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』)にも、萬子という名は出てこないのだ。

わたしが見たものからは、俗性は藤氏、父は花山院前[さき]の左丞相(左大臣)定好公、母は鷹司前[さき]の関白信尚公の女[むすめ]、二歳にして前[さき]の准后清子[じゅんごうすがこ]内親王(後陽成天皇の第三女)の養女となって、結婚し、子供二人を亡くした後、尼となって祐徳院に住み、「瑞顔実麟大師」と号した女性が存在したことしか、わからなかった。

史料的な根拠はあるということで、一般公開されていないという史料の一つを博物館の職員のかたと見ていったが、そこには見つからなかった。もう閉館になってしまったのだが、鹿島市民図書館の学芸員がお詳しいということで、電話をかけてくださった。

前にも、萬子媛に関することでご教示くださったかたである。以下の過去記事を参照されたい。

2018年8月 4日 (土)
歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/36-d6f8.html

日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。

萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。

結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。

萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。

生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。

また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。

そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

明治以降、すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなって、氏(姓)と家名(苗字)の別、諱と通称の別が廃されたが、ざっと以下のようなものがある(沢山あって、全部は書ききれない、わからない)。

  • 同じ血統に属する一族を表す氏[うじ]。
  • 日本古代の諸氏(うじ)の家格を示す称号、姓[かばね]。
  • その家の名、名字(家名)。
  • 生存中は呼ぶことをはばかる、身分の高い人の実名、諱[いみな]。
  • 実名のほかにつける別名、字[あざな]。
  • 元服以前の名、幼名[ようめい]。
  • 出家後の諱、法諱[ほうき]。法名にほぼ同じ。
  • 受戒した僧に師が与える、あるいは僧が死者に与える名である法名・戒名・法号。
  • 人の死後にその人を尊んで贈る称号、諡[おくりな]。
  • 公的な身分や資格、地位などを表す称号、号[ごう]。学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名(雅号)も号[ごう]という。
  • 別につけた称号・呼び名、別号[べつごう]。

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2018年10月 4日 (木)

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇

昨日、祐徳稲荷神社に出かけました。

そのときにまた貴重な取材ができ、二つの疑問がほぼ解けました。祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館の学芸員のかたには今回もお世話になりました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

萬子媛の死後、祐徳院がどうなったのかなど知りたいことは沢山残っているのですが、わたしが書こうとしている歴史小説にはもうこれ以上のリサーチは必要ないと思うので、とりあえずお試し期間(?)としてひと月、創作に集中する予定です。第二稿を書けるかどうかのお試し期間です。

写真は娘がスマホで撮りました。縮小以外の修正は加えずにアップします。

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祐徳博物館横の駐車場に車を止め、橋を渡りました。午後の2時を回ったくらいの時間でした。せせらぎに心が和みました。参拝客はそれなりにいましたが、娘はいないところをうまく撮ってくれています。

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なぜか、金色の鯉が夫に懐いて(?)、しきりに寄ってきました。夫が熱帯魚を飼っているからでしょうか。

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階段を上り、萬子媛のお社「石壁社」にも参拝しました。

ああでも、今回はどこもかしこも空っぽでした!  御神楽殿での御祈願の間も、そうでした。石壁社へ参拝した後はすっかり意気消沈して、泣きたいぐらいでした。

あのかたがたの気韻に溢れる気配を感じることができないと、こんなに空っぽに感じるんですね。勿論、これはわたしの感じかたにすぎません。

昨年参拝したときは、博物館を優先したために、萬子媛ご一行が一日のお勤めを終えて御帰りになるところが――もう雲の辺り――地上から何となくわかり、そのときに萬子媛の放たれた霊的な光が辺りを一変させて、わたしは天国にいるような高揚感を覚えました。そのときのことは、以下のエッセーに控えめに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材) : マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710
<ここから引用>
博物館の近くの駐車場に夫が車を止め、降りて本殿や石壁社のあるあたりに目を向けたとき、傾きかけた日が燦然と射して、あまりの美しさにしばらく見とれてしまった。
日を受けた樹々の緑の輝きがあまりに美しいので、「まるで天国みたいに綺麗ね、こんなに綺麗に見えるのは初めてよ」と娘にいうと、娘は怪訝な顔をした。
何て綺麗なんだろう、ずっとここにいたいと思ったほどだった。後で、もっと傾いた日を受けて、それでもまだ輝いている樹々の緑を見たときの平凡な印象とは、落差があった。あの美しさは、お帰りになる萬子媛のオーラの輝きが日の輝きに混じっていたからだとしか思えない。

<ここまで引用>

お勤めを放棄なさるはずはないので、まだ「夕焼け小焼け」が響き渡る時間以前に何も感じられないということは、わたしが感じられないというだけのことだったと想像するしかありません(尤も、感じられないという人が大多数でしょうけれど)。

なぜ? 母親を求める乳児のように、わたしは萬子媛の霊的存在を求めましたが、何も感じられませんでした。

家で早朝、娘に起こされてそちらを見ると(萬子媛についてまだわからないことを、明け方近くまでかかってまとめていて寝坊しました)、娘とわたしの間の空間に、金色に輝く大きな楕円形の光が見えました。2014年に見た短冊状の光とは形状が違いましたが、共通点が感じられたので、萬子媛のメッセージかしらと思いました。以下は2014年のときのことを書いたエッセーからの引用です。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年: マダムNの神秘主義的エッセー
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/10/210502
<ここから引用>
しばらく熱中してふと顔を挙げると、目の前の空間に金色の短冊状のものが棚引くのが見えた。
これは肉眼には見えないもので、神智学でいう透視力が目覚めてきてからこうした類のものが次第に見えるようになった。いつからその透視力が目覚めてきたかといえば、大学時代から「枕許からのレポート」(エッセー34「枕許からのレポート」参照)を書いた頃にかけてだったように思う。
文通をしてくださった神智学の先生――先生は多くの人々と文通をなさっていた――がお亡くなりにあと、先生はあの世に行かれる前に透明になったお体で挨拶に来てくださったのだが、その後しばらくしてから空間に星のようにきらめく色つきの光の点を見るようになった。
空間はわたしには見えない世界からのメッセージボードのようなもので、それまでにもいろいろと見えることはあったが、ある種の規則性を持ったものが見えるようになったのはそれ以降だった。
それが何なのかはわからないが、先生からの、あるいは見えない世界からの助言ではないかと想像している。
金色の短冊はそれとは異なった。それを目にすると同時に「急いで」と優しくいわれたような気がした。萬子媛のお使いかな、と思った。

楕円形の光の意味はわかりませんでしたが(急いで、と今回もおっしゃったのでしょうか)、萬子媛は今回の御祈願のときも2016年のときのように臨在を感じさせてくださるに違いないと、自ずから期待が高まりました。

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日: マダムNの神秘主義的エッセー 
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355
<ここから引用>
御祈願していただいている間中ずっと、わたしは背後に、萬子媛を中心にして、生きているときは女性であったと思える方々が端然と立っていられるのをほのかに感じていた。すぐ後ろにいらっしゃるのが萬子媛だとなぜかわかった。
<ここまで引用>

夫の運転する車で佐賀へ向かっているとき、高速道路の両脇に植えられた木々が、葉の間から光がこぼれているだけの現象とはとても思えない、沢山の大粒のダイヤモンドのような実をつけているかのようにキラキラと輝いている非現実的な光景を助手席からうっとりと眺めていましたが、帰りの車の中で夫と娘に尋ねたところ、気づかなかったといいました。

あのような輝かしい木々を見て気づかないはずはないと思うので、あれは萬子媛が贈ってくださった光景だったのでしょう。でも、お会いできなかった……あえて、そうなさったのでしょうね。

御祈願のときに心の中で、わたしはまずは一年間見守っていただいたお礼を述べたあとで、わたしが萬子媛の小説を書くことはあまりにつつしみのないことではないかということを第一にお尋ねしたかったし、そのあとも沢山の質問を思い浮かべる予定でした。それに答えてくださるはずはありませんが、気配で伝わって来るものがあるだろうと計算していました。

神様にお目にかかるというのに、何て打算的だったのでしょう。実はその自覚はあったので、お目にかかれないかもしれないという虞れも一方ではありました。それが的中したのでした。

これまでのことがわたしの妄想でないことだけは、はっきりしました。あのような高貴な気配やオーラを、わたしが自分でつくり出す――想像する――など、とてもできない芸当だからです。尤も、それを他人に証明できないという点では同じですけれど。

もう萬子媛をモデルとした歴史小説は書けない気がしていました。祐徳博物館に行くのが何だかつらい気さえしました。でも、遠くてめったに来られないので、萬子媛の肖像画にお目にかかってから帰ろうと思いました。(2)へ

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2018年9月11日 (火)

鹿島藩日記第二巻ノート (7)祐徳院における尼僧達 その2

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

その1の続き。

「蘭契」という名が出てくるのは、宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記(『鹿島藩日記第二巻』416頁)である。

素人解読なので間違っているかもしれないが(※あまり参考にしないでくださいね。原文に当ってください)、大体次のようなことが書かれているのではないかと思う。

佐賀の御親類方より勝屋伊右衛門まで、祐徳院様の御中陰は何日より何日まで御執行でしょうかとの問い合わせがあり、こちらに言ってよこされた。それについて、外記より蘭契まで伺ったところ、御中陰というのはなく、御葬礼が行われたことで、儀式は済みました。(……)尼達と相談して申し上げますが、殊に山中ということもありますので、御名代などを送って寄越すには及びません、伊右衛門よりそのようにお口添え下さるのがよいでしょう、とのこと。

わたしの憶測でしかないが、蘭契という尼僧が萬子媛亡き後、代表者的、長的な役割を果たしたのではないだろうか。その代表者に、外記が問い合わせたと考えるのが自然だと思う。

その蘭契という人物が、祐徳博物館で伺った、萬子媛に仕えて岩本社に祀られたという尼僧かどうかはわからない。(以下のリンク先参照のこと)

72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

萬子媛の葬礼は簡素だったようだが、五月十五日(1705年7月5日)の日記に書かれた三十五日についても、格峯(鍋島直孝、断橋)が恵達(慧達)、石柱を同行して祐徳院に一泊し、御霊供膳と皆に振る舞う料理を用意させているが、目立った儀式はなかった模様だ。

もし、萬子媛の葬礼のときの布施の記録に名のあった僧侶達の中で、蘭契からが祐徳院に属した尼僧達だとすれば、17 名(蘭契、満堂、蔵山、亮澤、大拙、瑞山、眠山、石林、観渓、英仲、梅点、旭山、仙倫、全貞、禅国、智覚、𫀈要)。萬子媛がいらっしゃったときは総勢 18 名だったことになる。

萬子媛が亡くなる前年までのことが書かれた、萬子媛の略伝といってよい『祐徳開山瑞顔大師行業記』には、萬子媛が尼十数輩を率いたとあるので、人数的には合う。

求道者らしいストイックな暮らしをなさっていたと想像できる祐徳院所属の尼僧達。五月十五日に料理を振る舞うことで、格峯は尼僧達をねぎらったのだろうか。

彼女達がその後どうなられたかが気になるところだ。

ところが、わたしは神秘主義者として知っている。江戸時代に亡くなった彼女達は、あの世で、萬子媛を長とするボランティア集団を形成し、中心的役割を果たしておられるのだ。

カルマに障らないような、高度なボランティアを手がけておられることが窺える。

萬子媛は太陽さながら、豊麗なオーラを放射されるのだが、その光が如何にすばらしいものであったとしても、そのやりかたはわたしが神秘主義者として竜王会、神智学協会ニッポン・ロッジで理論的に学び、また前世での男性僧侶としての修行や今生での独習から会得した技法と同じだと思う。

それは、この世でもあの世でも通じるやりかたなのだとわかった。誰もができるやりかたのはずだ。この世の出来事に囚われ、その技法を磨くことを怠ってきたけれど、このことが確信できただけでも、わたしにとっては大きな進歩だ。

萬子媛をモデルにした小説を完成できるかどうはわからないが、頑張ってみたい。

日記には元禄14年3月14日 (1701年4月21日)に起きた赤穂事件について記されているので、次のノートで採り上げたい。わたしの興味を惹いたのは、日記の解説にあった次の箇所である。

<ここから引用>
元禄十一年の『御在府日記』によると、鹿島藩江戸藩邸では、吉良上野介の希望によって、二三度にわたって有田焼の水差しや香爐などを送っている。(鹿島藩日記 第二巻』祐徳稲荷神社、昭和54年、「解説」2頁)
<ここまで引用>

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2018年8月26日 (日)

鹿島藩日記第二巻ノート (6)祐徳院における尼僧達 その1

ノート(5)で、萬子媛は出家同然の扱いで、葬礼は「軽ク」執り行われ、僧侶の方々が大勢お見えになった、黄檗宗色の濃い葬礼であったようだ――と書いた。

布施の記録に、30人の僧侶の名があるのだが、この中に祐徳院で萬子媛と寝食を共にして修行に励んできた尼僧の名はあるのだろうか、というわたしの疑問があった。今一度、その記録を引用して凝視してみたい。

祐徳院様御葬礼、今日於津御庵相済申候、右に付、僧衆へ被下候布施、左ニ書載、

 白銀三枚   桂岩和尚
 同 壱枚    月岑和尚
 金子弐百疋   慧達
 同 弐百疋   石柱
 銀拾五匁宛   先玄 五州 絶玄 盤江 長霊 禹門 石応 万山 訥堂 蘭契 満堂 蔵山 亮澤 大拙 瑞山 
 銀拾匁宛   眠山 石林 観渓 英仲 梅点 旭山 仙倫 全貞 禅国
 銀五匁宛   智覚 𫀈要
 (406頁)

30名の僧侶方。「和尚」が付けてあるのは、桂岩(桂巌)和尚、月岑和尚のみ。

桂巌は普明寺の開山であり、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)であった。次に記されている慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)。

その次に記されている石柱は、前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てくる。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れた。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させている。

そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されている。比丘尼とは尼僧のことだから「御庵中比丘尼」というのは、祐徳院で萬子媛と共に修行した尼僧達のことだろう。

御霊供膳用を含め、精進料理に使う野菜を祐徳院に運んだのは大熊孫左衛門で、彼は御厨藤左衛門・原口孫左衛門へ渡した。またこの料理関係で提市郎兵衛が十四日晩から料理が済むまで祐徳院に詰めた。

食材は豊富である。こんにゃくにも、「こんにゃく」「白こんにゃく」「佐賀こんにゃく」「氷こんにゃく」が出てくる。氷こんにゃくを試しにググってみると、文字通りこんにゃくを凍らせたものがダイエットによいということで流行っているようだが、宝永のころの氷こんにゃくとは別物だろうか。

布施の記録にある桂岩、月岑、慧達、石柱は、普明寺関係の男性僧侶達である。それ以外はわからないのだが、残り全部が尼僧達かもしれないし、何割かがそうであるかもしれない。あるいは、尼僧達はこの記録には全然ないのかもしれない。

「蘭契」という名が女性的だな、とわたしは思った。果たして、この蘭契が先の頁に出てきた。

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2018年8月24日 (金)

鹿島藩日記第二巻ノート (5)萬子媛、直條の葬礼

候文はもう、おなかいっぱいという感じですが、江戸中期の情景の中へ入っていくような面白さがあって、つい読んでしまいます。

日記を読むことで、萬子媛が剃髪後も鹿島鍋島家から、こまやかに見守られていたことがわかりました。台風被害の記録で、倒木の1本に至るまでも把握されていることに驚きました。罪を犯した者の記録もありましたが、その者達は追放になったようです。

引用だけからはわからないと思いますが、藩全体に何か家族のような雰囲気があるように感じられるのが意外でした。台風で倒れた木、盗まれた材木、打擲された下人も、藩の大切な財産であると同時に、家族のようなもの、慈しまれるものでもあったわけです。

そのような雰囲気が交際などを通して、藩の外まで広がっているように感じられるのです。いや、それはあるいは外から来たものであったのかもしれません。

死後313年経っても、地上であくせくと生きている人間達を見捨てず、思いを同じくするあの世の方々とボランティアなさっている萬子媛。そのような思いがどこから来たのかを知りたいと思い、計画した歴史小説の執筆。果たして書けるでしょうか。

そうそう、萬子媛、直條公の葬礼がいつで、どのようなものだったか、ノートしておかなくては。アバウトなノートになっています。あまり参考にしないでくださいね。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

萬子媛の葬礼は、宝永二年閏四月十四日(1705年6月5日)に執り行われた。

僧侶方――格峯(鍋島直孝、断橋和尚)、月岑和尚――のご意見により、「祐徳院様御事、御出家御同前ノ御事候ヘハ、」、つまり萬子媛に関する事柄は御出家同然の事柄なので、簡素に――「軽ク」と書かれている――執り行われた。

僧侶の方々が大勢お見えになった、黄檗宗色の濃い葬礼であったようだ。布施の額が記されている。

祐徳院様御葬礼、今日於津御庵相済申候、右に付、僧衆へ被下候布施、左ニ書載、

 白銀三枚   桂岩和尚
 同 壱枚    月岑和尚
 金子弐百疋   慧達
 同 弐百疋   石柱
 銀拾五匁宛   先玄 五州 絶玄 盤江 長霊 禹門 石応 万山 訥堂 蘭契 満堂 蔵山 亮澤 大拙 瑞山 
 銀拾匁宛   眠山 石林 観渓 英仲 梅点 旭山 仙倫 全貞 禅国
 銀五匁宛   智覚 𫀈要
 (406頁)

30名の僧侶方。匁[もんめ]は江戸時代における銀貨の重量単位。僧侶方にはまた、ニ汁六菜、あるいは一汁六菜の料理が出された。

日記には「御葬礼ニ付、御領中今日一日、殺生禁断申付候、」と記されている。

桂岩和尚というのは、桂巌禅師(桂巌明幢1627 - 1710)のことだろう。桂巌は萬子媛を黄檗宗に導いた義理の息子・断橋の師で、萬子媛はこの桂巌を授戒師として得度した。

鹿島四代藩主・鍋島直條の場合、五月十九日(1705年7月9日)が四十九日に当ったが、葬礼がまだだった。それでも、(葬礼より先に)普明寺・泰智寺で軽い四十九日の法事が執り行われたようだ。

五月二十日(1705年7月10日)の日記に、「今晩より来ル廿六日迄、殺生禁断、筋々相触候、」と記されている。

直條の葬礼が二十二日(1705年7月12日)に普明寺で執り行われるのだが、前日の二十一日(1705年7月11日)の日記に、それにたずさわる者の名が16頁に渡って記されている。大がかりなものだった様子がわかる。萬子媛の簡素な葬礼と対照的である。

以下に、役目のみ引用しておく。人物名は省いた。変換できない文字には?をつけた。「御葬禮行烈(列)次第」の右同は横書きでは上同になるが、原文通りに引用した。

都合頭人  銀穀役  料理方  筆者  御茶湯方  普明寺門番  施行?放生気遣  方々より御名代衆  普明寺被罷越候節、近辺宿気遣、野菜・薪等迄、宿々へ指出候気遣  方々より之御名代取合  普明詰給仕  寺中無作法之儀無之様、気遣・掃除等、見計役、  御香奠請取役  法泉庵詰  通玄庵詰  御霊前堪忍  御霊供奉役  

御葬禮行烈(列)次第
 壱番   御卒馬  木綿打掛
 二番   沓箱  右同
 三番   御挾箱  右同
 四番   御? 対  右同
 五番   具足箱  右同
 六番   御臺笠  右同
 七番   御長柄  右同
 八番   御打物  右同
 九番   散花  木綿上下
 十番   散米  右同
 十一番   大幡  右同
 十二番   鍬  右同

この行列次第は32番まであります。御棺の登場は25番。後で気が向いたら続きを引用します。

翌、五月二十二日(1705年7月12日)の日記には「御葬礼、今昼八ツ時相澄〔ママ〕候、」と一行だけ記されている。お疲れ様!

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2018年8月22日 (水)

鹿島藩日記第二巻ノート (4)飛脚が東奔西走、洪水。こよみの計算に便利なサイト、CASIO「keisan」

「円福山普明禅寺創建事由略記」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)の中の普明禅寺末寺である祐徳院に関して引用しておきたいが、Windowsのメモ帳に写しているところで、前日は時間切れとなった。

その作業を残しつつ、今日は引き続き、『鹿島藩日記 第二巻』を読んでいた。解読しつつ、ざっと読んでいるだけなので、間違いがあるかも。

鹿島四代藩主・鍋島直條と継母に当る萬子媛の死亡時期が近かったうえに、当時の交通事情もあって連絡が遅れ、萬子媛の訃報をあちこちに届け、葬礼準備にとりかかった矢先、先月直條が江戸で亡くなったという知らせが届く。届くのに、13日もかかっている。

今であれば、メール、電報、電話で瞬時に伝わる情報も、当時は飛脚頼み。二人の死が重なって、日記には飛脚の文字が頻出する。飛脚が東奔西走する。

直條の亡くなったのが、宝永二年四月三十日(1705年5月22日)。この年は翌月が閏四月であって、四月が2回あるのだ。萬子媛が亡くなったのはその閏四月だった。宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)。郷土史家の迎昭典氏がこのあたりのまぎらわしい前後関係を整理してくださっているので、ありがたい。

江戸で亡くなった直條の遺骸を鹿島まで運ぶのも大変だった様子が、日記から伝わってくる。遺骸はまず、江戸から「大坂」まで運ばれた。

御遺骸去月廿七日大坂御着、同廿九日彼地御出棺、(430頁)。

これは五月六日の日記であるから、つまり直條の遺骸は閏四月二十七日(1705年6月18日)に大坂に到着し、二十九日(1705年6月20日)にその地を出棺した。

ちなみに、CASIO「keisan」というサイトが便利。ホーム→こよみの計算→和暦・西暦とアクセス。「和暦から西暦変換(年月日)」のページで、指定する和暦年月日を西暦の年月日に変換してくれる。高性能で助かる。

日記には、人、馬、舟の手配(勿論その手配のための連絡には飛脚が欠かせない)、銀などによる金銭の遣り取りなども記されている。

五月十四日(1705年7月4日)の日記には直條の遺骸は去十二日(1705年7月2日)に下関に着き、十三日に小倉の海を渡って黒崎に泊まることになるが、潮時次第で遅速が当然あるだろうと記されている。「次馬35疋、人足30人、駕3挺」。駕は乗り物。

小倉より飛脚が到着し、小倉の海を渡るのに適した船がなく、十三日は小倉に留まるといってきたので、花木庭へお知らせしたとある。花木庭は、萬子媛の夫で鹿島三代藩主・鍋島直朝の隠棲の地。

同日、盗物である材木(樛[※ツガ]、樫)を売って一儲けしようとした者達。また傷害事件に関する記録があり、斎藤伝右衛門とその女房が下人三助を斧で打擲(殴った)。そのときの傷が原因で三助は後日、相果てた(死んだ)……

いずれも岩松殿(鍋島直堅)家来が起こした事件である。鍋島直堅は直條が亡くなったため、将軍綱吉に謁見し、家督相続して五代藩主となるが、このとき、11歳。

同日、晩の記録には、小倉より飛脚が到着したとあり、遺骸が下関に到着、海を渡って、「大里御泊十三日、飯塚御泊十四日、田代御泊十五日、牛津御泊十六日、加嶋御着之段、外記へ舎人より(※「より」は合字が使われている)申越候、依之、」と文章は続く。

五月十五日(1705年7月5日)の日記には、今日御遺骸が牛津に到着するので、御迎えのため吉田官兵衛・松永藤次郎が牛津に向かった。一方、「今日祐徳院様御三十五日」とあり、御供えする野菜、料理のことなどが書かれている。

現代でも和食(精進料理)に使われている食材、調味料が色々と書かれていて、読んでいて全く違和感がない。当時からこんなに色々とあったのかと驚かされる。これについても、別にメモしておきたいと思う。

それにしても直條の遺骸が鹿島に届くまでにずいぶん日数がかかっているけれど、防腐処理なんかは施されていたのだろうか。五月十六日になってもまだ、牛津を御出棺、雨が降り続いているために「塩田川水出、中川・山田川も水出申候、」などと書かれていて、続く記述を読むと、これは洪水状態と考えていいだろう。人が大勢出て、対処している。

翌五月十七日になってやっと、「昨夜中雨止申候付而、塩田川水減、御尊躰船より(※「より」は合字が使われている)御渡被成候、」とあり、読んでいてホッとした。直條公、御帰りなさい。

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2018年8月19日 (日)

鹿島藩日記第二巻ノート (3)萬子媛の死

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

萬子媛(一貫して祐徳院様と記されている)逝去後、すぐに葬礼の段取りがつけられると同時に、あちこちへ訃報が届けられた。細かく記されている。

訃報は直ちに松之助様、お幾様(鍋島直條の娘で萬子媛を慕った義理の孫。前ノート②参照)、泉州様(鍋島直朝、萬子媛の夫)、京都・花山院(萬子媛の実家)、江戸……

こうした記述と交錯するように、鍋島直條に対するお見舞いが蓮池家から届けられたリしている(実際にはこのとき既に江戸で直條は亡くなっている)。

さらに訃報を届けるため、飛脚が遣わされた。信州様(鍋島綱茂。佐賀藩の第三代藩主。光茂の長男。光茂は1700年に亡くなった)、その他御親戚方。彦山僧正(萬子媛の姉が嫁いでいる)。

萬子媛に引導を授けるために格峯(鍋島直孝。断橋和尚)の指示で請待された僧の名が「拙巌」と記されており、この人物がわからなくて躓いた。またしても悶々としてリサーチ。

結局わからないままなのだが、桂巌禅師(桂巌明幢1627 - 1710)以外に考えられない。まぎらわしいことに、拙巌(せつがん)という僧は存在するが、浄土真宗本願寺だし、1791-1860 で時代が違う。

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2018年8月16日 (木)

鹿島藩日記第二巻ノート (2)萬子媛の病気が心配でたまらない義理の孫

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

変体仮名が曲者だわ~!

Cocolog_oekaki_2018_08_16_09_14

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、1979)によく出てくるこの文字がわからず、悶々とした。合略仮名(仮名合字、つづきかな)で、平仮名の「よ」と「り」の合字、「より」。

昨日からまだざっとメモしているだけなのだが、萬子媛の実家を継いだ弟、花山院定誠が萬子媛の亡くなる前年に亡くなったことが日記からわかる。

前の記事に「忠広と定教は若くして亡くなり、寛永17年2月26日(1640年4月17日)生まれの定誠が藤原氏北家師実流の花山院家24代当主となった。権大納言、武家伝奏役、内大臣をつとめたあと、元禄5年(1692年)、52歳で出家し、宝永元年(1704年)に死去」と書いた。萬子媛にはショックだったのではないだろうか。

萬子媛が病気になられてから、頻繁に「お幾様」というお名前が出てくる。鍋島直條女とあるから、このお幾様は萬子媛の義理の息子の娘。義理の孫になる。お幾様が萬子媛を心配していた様子が日記から伝わってくる。

鍋島直條(1655 - 1705)は51歳で亡くなっており、家督を継いだ五男、直堅(1695 - 1727)は病弱だったらしく、33歳で早世している。

直堅の母違い(?)の姉が「お幾様」ではないかと思うが、弟との年齢差はかなりあっただろう(直堅の母は側室から昇格した継室・中野氏)。それでも、父、直條の年齢を考えれば、比較的、若かったのではないだろうか。

直條の結婚は寛文11年(1671)、17歳のときで、相手は佐賀藩主光茂の養女(蓮池藩鍋島直澄の娘)千代、19歳である。直條夫人千代は元禄元年(1688)、36歳で出産後、亡くなっている。千代のこの末の子もほどなく亡くなった。第二女が既に天和二年(1682)、亡くなっている。

お幾様が長女だったとすれば、早ければ結婚の翌年くらいに生まれ、遅ければ第二女が生まれ亡くなった前々年くらいの生まれになるから、萬子媛が亡くなったとき、25歳~33歳くらい。

萬子媛の修行期間は62歳からの18年間に及ぶから、萬子媛の出家時、お幾様は7歳~15歳。子供のころ可愛がられ、萬子媛の出家後は時々会いに行っていたとすれば、慕うのも頷ける。

わたしは萬子媛をモデルとした歴史小説の第一稿で、萬子媛を慕い、お産につきそう若い女性を描いた。

義理の娘に設定したのだが、実際には娘ではなく孫だったとはいえ、萬子媛を慕う「お幾様」のような女性がいたことに驚きを覚えた。

他にも、萬子媛が筝を奏でる情景が頭に浮かんだので、その場面を書いたら、実際に萬子媛は筝を弾かれたようで、遺愛の琴(筝)を祐徳博物館で観ることができる。

萬子媛が可愛がり、萬子媛を慕う若い女性が萬子媛に付き添っているところがしきりに頭に浮かび、病気はちょっと思いつかなかったので、萬子媛のお産ということにしたのだった。

実際の萬子媛も、お幾様を可愛がられたに違いない。わたしが神秘主義的感性で捉える萬子媛はそのような格調高い慈母のような雰囲気を持つかたなのだ。

だからわたしも――お幾様には負けるかもしれないが――あの世のかたであるにも拘わらず萬子媛が大好きになってしまった。そうでなければ、書き慣れない歴史小説など書こうとは思わない。児童小説の続きを書く。

お亡くなりになった神智学の先生も大好きなので(先生は多くの会員から慕われていた)、ちょっと困るくらいだ。百合も薔薇もたまらなく好き、という感じだろうか。

護摩堂での二夜三日の祈禱を命じたり、お見舞いに行く折に中尾地蔵へも参詣したり、しきりに人をやって容体を尋ね(萬子媛逝去の前日も)……と、お幾様は萬子媛のことが心配でたまらなかったのだろう。

父と義理の祖母を一度に亡くしたお幾様……可哀想に。萬子媛と寝食を共にして修行に明け暮れた筋金入りの尼僧たちとは違って、一般的な女性だったと思われるので、なおさら気の毒になってしまう。

元禄14年に起きた赤穂事件について日記に書かれており、解説を引用しておきたいが、記事を改めよう。『伊万里市史』から、鍋島焼についてもノートしておきたい。

赤穂事件が起きた翌年の元禄15年、肥前佐賀領大風雨とあり、これは台風だろうか。被害状況が細かく記されている。

田畠18万1,000石が荒れた。倒家数2万9,045軒。崩塀3,800間余。
倒木3万4,850本。破船29艘。
死人62人のうち男57人、女5人。
死馬8疋。

わたしは萬子媛が断食入定ではなく、一般的な死にかたを選ばれた――と推測できることが嬉しい(萬子媛が古枝にあった祐徳院のどこで病まれたかが書かれていないので、断定はできない)。

萬子媛に興味が湧いたのは断食入定という過酷な死にかたをなさったという伝承に接したからだったが、わたし自身は死に至るまで断食を続けるような過激な修行を不自然、不要なことだと思っている。

それに、高雅でありながらとても率直なかたである萬子媛がわたしの思い込みに違和感を覚えていられる感じがそれとなく伝わってきて、現実にはどうであったのか知りたくなり、『鹿島藩日記 第二巻』を購入した。購入して、よかった。

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2018年8月15日 (水)

鹿島藩日記第二巻ノート (1)萬子媛の病気

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

過去記事に書いたように、『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、1979)には宝永二年三月六日ごろから、ほぼ毎日、閏四月十日に「今夜五ツ時、祐徳院様(花山院定好女萬子 鍋島直朝後室)御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」と記されるまで、萬子媛の病気に関する記述が繰り返されている(前掲書366~398頁)。

同年の三月二十六日の日記に、二十四日からの石丸作佐衛門という人の手紙が写されていて、萬子媛の病気や食欲について知ることができる。

この間より御心持御かろみあそばされ、御快(おこころよく)なられましたとのこと――といったことが書かれているから、病状はよくなったり悪くなったりで、一進一退を繰り返した。

食欲について、「御食事四十め宛」とあり、めは目盛り(?)、宛は「数量を表す名詞に付いて、…あたり、…について、の意を表す」接尾語(?)。

御腫気とは浮腫のことか?

同写しに御風気とあり、御風気(ごふうき)とは風邪のことだから、高齢になって、断食行などは続けていられたのだろうが、やはり体は弱ってきており、風邪に罹ってそれがなかなか回復しないまま、肺炎か何かで亡くなられたのではないだろうか。まだざっと読んだだけで、解読はこれからだから、間違っているかもしれないが。

花山院家や英彦山との交際があったことなどもわかる。以下の過去記事に書いたように、萬子媛の姉が英彦山座主に嫁いでいた。

花山院家系図で見ると、定好には男子5人、女子3人いて、真ん中の女子が萬子媛。鍋嶌和泉守室とあるから。嶌は島で、鍋島。和泉守は官位。室はその妻のこと。
忠広と定教は若くして亡くなり、寛永17年2月26日(1640年4月17日)生まれの定誠が藤原氏北家師実流の花山院家24代当主となった。権大納言、武家伝奏役、内大臣をつとめたあと、元禄5年(1692年)、52歳で出家し、宝永元年(1704年)に死去。
円利は禅寺に入ったようである。堯円は浄土真宗の寺に入り、第16世大僧正となった。
姉は、豊前国英彦山を統括する首席僧、亮有の妻となった。亮有の父有清の妻となったという異説もあるようだ。有清も英彦山座主である。萬子媛の妹は惣持院の尼となったとある。

閏四月十日(6月1日)の日記には様々なことが書かれている。萬子媛の義理の息子である鍋島直條は既に四月三十日(5月22日)江戸で亡くなっていたのだが、郷土史家の迎昭典氏がお書きになっているように、まだ鹿島ではそのことを知らなかったことがこの日の日記を読むと、わかる。

同日、萬子媛の病床に付き添っている人々に、殿様からこわ飯(おこわ)・煮しめ物重二組が差し入れられた。萬子媛はこの日の「今夜五ツ時」――夜8時に亡くなった。

『鹿島藩日記 第二巻』は、なかなか興味深い。食物について。当時は様々な種類の鳥が食べられており、魚の種類も豊富。餅菓子なども出てくる。

日記には元禄14年3月14日 (1701年4月21日)に起きた赤穂事件についても、詳しく記されている。

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2018年8月 8日 (水)

歴史短編1のために #38 核心的な取材 ②萬子媛の死を記録した本が届いた

貴重な本を届けていただき、祐徳博物館には感謝の気持ちでいっぱいです。

・‥…☆・‥…☆・‥…☆

今日は他に用事があるので、とりあえず、ざっとメモしておこう。漢文が苦手なので、まだ「祐徳院」と出てくる箇所をチェックしただけ。

当時の雰囲気に引き込まれ、「萬子媛、死なないで!」と心の中で叫びながら、藩日記を辿っていた。

現実(?)には萬子媛は現在、この世のどなたよりも生き生きと、オーラの威光に満ち、あの世のかたとして神社という形式を最大限に活用し、毎日あの世からこの世に通って、千手観音のようにボランティア集団のリーダーとして活動なさっていることが、神秘主義的感受性に恵まれた人間にはわかるはずだ。先祖返りにすぎない霊媒能力ではおそらく、あの高貴、精妙な存在感はわからないだろう。

しかしながら、肉身としての萬子媛は、宝永二年(1705)閏四月十二日に逝去された。

祐徳稲荷神社のオフィシャルサイトには、次のように書かれている。

齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。

祐徳博物館の女性職員がおっしゃるには、寿蔵で萬子媛が断食の行を積まれたことは間違いないだろうとのこと。

身体が弱ってからも、断食の行を続けられたのかどうかはわからない。断食の行が御老体に堪えたのかどうかもわからない。

いずれにしても、萬子媛は宝永二年三月六日ごろにはお加減が悪かった。それからほぼ毎日、閏四月十日に「今夜五ツ時、祐徳院様(花山院定好女萬子 鍋島直朝後室)御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」(『鹿島藩日記 第二巻』祐徳稲荷神社、1979、398頁)と記されるまで、萬子媛の容体に関する記述が繰り返されている(前掲書366~398頁)。

この「今夜五ツ時、祐徳院様(花山院定好女萬子 鍋島直朝後室)御逝去之吉、外記(岡村へ、番助(田中)。石丸作左衛門より申来」という藩日記からの抜粋は、郷土史家の迎昭典氏からいただいたコピーの中にあった。

藩日記にははっきりと「御病気」という言葉が出てくるから、萬子媛が何らかの病気に罹られたことは間違いない。

そして、おそらくは「断橋和尚年譜」(井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)の中の断橋和尚の追悼詩に「末梢(最期)疑うらくはこれ熟眠し去るかと」(92頁)と描かれたように、一進一退を繰り返しながら、最期は昏睡状態に陥り、そのまま逝かれたのだろう。

鹿島市民図書館の学芸員は取材の中で「石壁亭そのものは祐徳院様が来る前から断橋和尚が既に作っていて、観音様を線刻したような何か黄檗宗の信仰の対象となっているようなところ――洞穴を、自らのお墓に定められたということだと思います」とおっしゃったが、現在の萬子媛の活動を考えると、観音様のようになることを一途に祈念しつつの断食行であり、死であったのに違いない。

2018年8月 4日 (土)
歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/36-d6f8.html

また、学芸員は「尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった」とおっしゃった。

ところで、わたしは拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に「萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性的な方々の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性的な方々は生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧たちではないかとどうしても思えてくるのだ。萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性的な方は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来られたときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ」と書いている。

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355

学芸員のお言葉は、わたしの感性が捉えた萬子媛とその周囲にいる人々の雰囲気に符号するものがある。中心的役割を果たしている人々を囲むようにボランティアなさっている方々はもっと沢山いらっしゃるように感じられるのだが、あの世で新たに参加なさった方々なのだろうか。

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