カテゴリー「萬子媛 - 祐徳稲荷神社」の123件の記事

2019年5月17日 (金)

ノートパソコンの異音が消えたことについて。光明皇后、元寇に関する本のことなど。

深夜、長い記事を書いていたが、眠くなったので、閉じて寝たのはいいが、保存し忘れたらしい。虚脱感。

まず、パソコンのことから書いたはず。

異音がしたパソコンは、バッテリパックの交換で静かになった。

富士通パソコンの2010年から2016年に販売開始されたノートパソコンはバッテリ充電制御機能を提供されていて、それはバッテリの消耗に合わせて充電電圧を制御し、発火事故を未然に防ぐものだ。

なぜそのようなものが提供されているかというと、富士通製ノートパソコンに搭載されたパナソニック製の一部のバッテリパックにおいて、充電中や電源オン/オフいずれの場合でも、発火し火災に至る恐れがあることがわかったからだという。

わたしのパソコンのバッテリパックはリコール対象ではなかったものの、「既に交換・回収を実施している上記のバッテリパック以外にも、発生率は非常に低いものの発火事故が発生しております。これらの発火事故に対する未然防止策として、現在までの調査から、バッテリの内圧が上昇する現象を抑制することが効果的」なのだそうだ。

リコール対象ではないということで、安心し、よく読まなかったのか、「既に交換・回収を実施している上記のバッテリパック以外にも、発生率は非常に低いものの発火事故が発生」という箇所を読み過ごし、この記事を書くために文章を再読して気づいた。

発生率は低くても火災事故が発生しているのなら、バッテリ充電制御機能を提供されているノートパソコンは全てリコールの対象でないとおかしい。

わたしのパソコンは「バッテリ充電制御ユーティリティ」の適用で、消耗したバッテリを使っていたから、実際のバッテリ駆動時間(充電量)は約65%になっていた。

パソコンがかなり熱くなり、ファンの音が高くなりがちだったのが、異音までしたので、これはまずいと思い、バッテリパックを交換したのだった。もっと早く交換すべきだったと思う。

ファンの音が高い以外はよく働いてくれていたから、こんなものかと思ってしまっていた。バッテリパックの交換で、こうも違うとは。

深夜書いた記事では他に、図書館から借りてきた本のことで、再度借りたメアリー・ポピンズ物語の中の『帰ってきたメアリー・ポピンズ』のどこが神智学的かを要点だけ書いたように思う。それをここで再度書くより、ちゃんとした記事にしたい。

また、マインドフルネス瞑想の危険について調べる中で再読した三浦関造の著作に光明皇后の記述があり、光明皇后に関する本を借りて読んでいることを書き、光明皇后が藤原氏出身だということに気づいたことなど書いた。

光明皇后は仏教事業と人道支援で有名だが(ウィキペディアの言葉を借りれば、政治面では、皇族以外から立后する先例を開いたことでも有名)、人道支援の側面に着目したとき、同じ藤原氏出身であった萬子媛との共通点が浮かび上がった。

別の方面のことに熱中していても、萬子媛のほうへ優しく揺り戻される気のすることがあることは前にも書いたが、今回もそのような感触を覚えた。

蒙古来襲、すなわち元寇について書かれた本も借りた。防衛戦にはおそらくわたしの母方の祖母のご先祖が関わっていたと思われるので、以前から興味があった。

といっても、祖母はお嫁に来た人で本家からは離れているため、家系図などの確認はないが、親戚の話などから確認できたことを総合すると、祖母の家が大蔵氏系江上氏の分家であったことはまず間違いない。

6代氏種の時、元冦の役の軍功により肥前国神埼荘地頭職を賜り移住。元弘3年(1333年)、8代近種が護良親王の命で行動していたことが確認される。
永享6年(1434年)、12代常種は少弐氏の九州探題渋川満直の征討に協力。勢福寺城の城主となり、以後は少弐方として行動するようになった。13代興種は大内氏(大内義興)と通じたため少弐氏により勢福寺城を追われたが、14代元種は大内氏と対立を深める少弐氏(少弐資元)を援け再び勢福寺城に入った。天文2年(1533年)元種は東肥前に侵攻してきた大内氏の軍勢を蹴散らしたが、天文3年(1534年)再び侵攻した大内氏に少弐方は劣勢に立たされた。元種は少弐資元・冬尚親子を勢福寺城に受け入れ立てこもったが、最後は水ヶ江龍造寺氏の龍造寺家兼の進言により大内氏と和議を結び勢福寺城を明け渡した。
「江上氏」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年10月26日 12:17 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

祖母の家は分家で苗字は違うが、「日本の苗字七千傑」や少弐氏家臣団の中の大蔵党の中にその苗字がある。「武将系譜辞典」に記された大蔵党は原田氏、波多江氏、小金丸氏、秋月氏、江上氏、直塚氏、枝吉氏、成富氏、執行氏、高橋氏、三原氏、田尻氏、内田氏、赤尾氏。http://www.geocities.jp/kawabemasatake/hizen.html(※ジオシティーズはサービス提供が終了してしまったため、移転、工事中であるようだ。移転先はhttps://kawabemasatake.jimdofree.com/)

借りてきた元寇についての本は学術的な内容で、読みごたえがある(難解ともいえる)。この本に、捕虜となった少弐氏のことが極めて印象的に描かれているのだ。

「神風」が吹いた。果たして、それは真実か。『蒙古襲来絵詞』には、暴風は描かれていない」と本の商品説明にある。全身全霊を賭けて戦った人々がいたことが本を読めばわかる。

このあと用事があるので、今日はこの件では時間切れ。借りてきた本をメモしておこう。

パウリ=ユング往復書簡集
ヴォルフガング・パウリ (著), C・グスタフ・ユング (著), 湯浅 泰雄 (監修), 黒木 幹夫 (監修, 翻訳), 渡辺 学 (監修, 翻訳), 越智 秀一 (翻訳), 定方 昭夫 (翻訳), 高橋 豊 (翻訳), 太田 恵 (翻訳)
出版社: ビイング・ネット・プレス (2018/8/1)

ニュートンの錬金術
B.J.T. ドブズ (著), Betty Jo Teeter Dobbs (原著), 寺島 悦恩 (翻訳)
出版社: 平凡社 (1995/11/1)

英国のプラトン・ルネサンス―ケンブリッジ学派の思想潮流
エルンスト カッシーラー (著), 花田圭介 (監修, 監修), 三井 礼子 (翻訳)
出版社: 工作舎 (1993/9/20)

光明皇后 (人物叢書)
林 陸朗 (著)
出版社: 吉川弘文館; 〔新装版〕版 (1986/04)

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実(中公新書)
小川 剛生 (著)
出版社: 中央公論新社 (2017/11/18)

蒙古襲来
服部 英雄 (著)
出版社: 山川出版社 (2014/12/1)

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2019年5月 8日 (水)

亡き母の友人とおしゃべり(彼女の御先祖様は萬子媛を看取ったに違いない御殿医)

亡き母の友人からで、今年85歳におなりになるキクヨさんからお電話があった。

開口一番、「歴史小説はどうなった?」と訊いてくださった。

以下の過去記事で書いたように、キクヨさんの御先祖様は、代々鹿島鍋島家の御殿医だった。

2018年2月 5日 (月)
歴史短編1のために #34 鹿島鍋島家の御殿医
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/02/post-e6ec.html

そろそろ電話をかけてみようかなと思っていたところ、先月の27日にキクヨさんの夢を見た。それが普通の楽しい夢だったので、そのうちあちらからお電話があるだろうと思っていたら、今日かかってきた。

こちらからお電話してもいいのだが、博多の老人ホームにお住まいで、午前中は掃除があったり、食事の時間も大体決まっていて、通院だけでも週に2回、ついでの買い物などしたら帰宅は午後6時を回り、どこか調子の悪いときもちょくちょくらしく、訪問客もあって……となると、いつお電話したらいいのか、わからなくなる。

キクヨさんがわたしとおしゃべりしたい気分のときにかけてくださるのを待とう、と思うのだ。

おしゃべりしていると、射手座のお生まれらしい溌剌とした雰囲気なので、高齢とわかっていながらも、わたしは全く心配していなかった。が、彼女には食が細いという弱点がおありだ。

少食であるところへ、料理上手であることが裏目に出て、ホームの食事がしばしば喉を通らない。決して我儘でも、医学的に無知でもないのに(医師の家系らしく、むしろ相当に詳しい)、昨年末、栄養失調になり、体重が落ちすぎて、医師から「今年いっぱいかも……」といわれたそうだ。

これはわたしもわかる。ずいぶん前の話だが、検査入院したときに(3週間くらいのものだった)、自分でも意外だったことに、病院の食事を受け付けなかったのだ。単なる検査入院で、まあ頭蓋骨は窪んだが、大部屋での入院生活は結構楽しく、食欲が落ちる理由もなかった。

単純に味が合わなかっただけだった。大学時代の女子寮生活では、食事が駄目で出て行く人も多い中、最後まで粘った若かりし頃を思うと、病院の食事を受け付けないのが不思議なくらいだった。

その若い頃との違いは、主婦業として料理するようになり、子供が大きくなるまでは質より量といった感じの料理だったのだが、この市に引っ越し、書店勤めだった娘が服部幸應先生の料理雑誌「週刊  しあわせクッキング」をせっせと買ってきてくれたお陰で、料理の腕が上がってしまったのだ。

まずい料理を食べると、なぜそうなったかが分析できるようになり、食材が生かされていない、非常に痛ましい状況に思え、食材の不幸に共感してしまって、食べたくなくなる。幸か不幸か、食事をどの程度食べたかの看護師さんによるチェックは自己申告で済んだので、申し訳ないと思いながらも沢山残していた。海苔の佃煮でご飯を食べた。

最近はストウブ頼みで、服部先生のレシピに熱中していたころに比べると、大雑把になったので、今だと食べられるだろうか。ストウブ料理の美味しさを思えば、一層食べられなくなっている可能性もある。

キクヨさんは、わたしの病院でのあの状態が何年も続いているわけだ。

「しっかり召し上がって、長生きしてくださらないと、困ります。萬子媛の小説を読んでいただくまでは、生きていてくださらないと……」と、わたしは鼻息荒くいった。

すると、「そんなら、あんた、急ぎんしゃい」と、キクヨさんは鹿島弁になって、おっしゃった。

わたしは形式で 迷っているといった。小説かエッセーか評伝的なものか。

キクヨさんは「うーん」といって、しばらく黙していらした。そして、「それは、Nちゃんが 考えて決めることよ。ゆっくり決めればいいじゃない、急がないで」とおっしゃった。そのぶん、長生きしてくださいね。

2時間ほどもおしゃべりした。最初と最後はわたしの小説を話題にしてくださり、真ん中辺りで子供達の結婚がまだだというと、キクヨさんの知り合いにも、自分の子が結婚しないと訴える母親が多いという。既婚者は男性の場合、10人中3人だそうだ。

また、博多では中国人、韓国人が目に見えて増えたという。言葉でわかるそうだ。

外国人が増えるのはわたしの考えでは一向に構わないが(不法入国は論外)、日本の国柄や文化に理解のある人に来てほしい。理解がなければ、努力して理解力を身につけてほしい。

萬子媛をモデルとした作品によって、日本の国柄を薫り高く伝えることができればと考えている。

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2019年4月18日 (木)

メアリー・ポピンズの再読から入ります(創作メモ)。祐徳稲荷神社の素敵なお写真。

ようやく、親知らずの抜歯による心身のダメージ(大袈裟かな)から回復したところです。

萬子媛ノートが気になりますが、書きかけたメアリー・ポピンズの記事で、トラヴァースがどの程度神智学の影響を受けたか、もう少し調べてまとめ、拙「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録したいと考えています。

一旦ポピンズを離れたら、当分は戻ってこられないと思うので。こうして放置状態になっている小論――の書きかけ――が溜まっていきます。それで、なるべく離れるときは、ある程度のまとまりをつけるようにしているのです。

映画を観に行ったことがきっかけで、その内容に疑問が湧き、ポピンズ物の原作者トラヴァースについて調べたところ、彼女に近代神智学の影響があるとわかりました。再読して、繊細な描写力に加え、予想を上回る神智学の影響を見出し、いくらかでも彼女の作品について神秘主義的観点から書いておきたいと思ったのでした。

2019年2月18日 (月)
神智学の影響を受けたメアリー・ポピンズの生みの親、パメラ・リンドン・トラヴァース
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/02/post-a783.html

2019年2月22日 (金)
魔法というにはあまりにも自然で美しい、原作のメアリー・ポピンズ
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/02/1964-0212.html

2019年3月 8日 (金)
P.L.トラヴァースにおける近代神智学の影響を考察する ①みんなおなじ
http://elder.tea-nifty.com/blog/2019/03/post-bc5d.html

過去記事のストックはこれだけです。トラヴァースに関する小論に映画のことまで書くかどうか、迷うところです。両者は本質からすると全くの別物で(書物と映画という形式の違いは、本質を見る場合には関係ありません)、それはそれで追究すべきものがあります。でも、時間がないことを考えれば、両者はカラーが違う、と書くのが精一杯ということになりそう。

『風にのってきたメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins)は過去記事ですでに見ていったので、まずは再度図書館から借りた『帰ってきたメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins Comes Back)、『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins Opens the Door)、『公園のメアリー・ポピンズ』(Mary Poppins in the Park) を精読する作業から入ります。

児童書を何度も借りるのは、子供が借りるのを邪魔するようで悪い気がしますが、複数冊ずつ置いてあるので、許されるかと。

『風』では、作業が読書の純粋な歓びとなりました。他の作品ではどうでしょうか。そして、神智学の影響は見い出せるのでしょうか。

平成が令和に変わるまでには、萬子媛の歴史小説に戻っていられればと思います。萬子媛の記事を待っていてくださるかたがいらっしやるようなので、お待たせばかりで心苦しいです。ツイッターで見つけた祐徳稲荷神社の素敵なお写真を貼らせていただきます(ツイッターは早くも情報を得るだけの場となりました。ブログに貼り付けられるのが便利)。

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2019年3月13日 (水)

歴史短編1のために #51 直朝公の愛

今は京都御苑となっている、かつては200もの公家屋敷が立ち並んでいた町で、萬子媛はどのような暮らしを送られていたのだろう? 

萬子媛は二歳で、祖母である清子内親王の養女となり(萬子媛の母が亡くなったためではないかとわたしは想像している)、鷹司家でお暮しになっていたと思われる。清子内親王は鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号していた。

以下の写真付きブログ記事を閲覧させていただいて、わたしは貧弱な想像力を掻き立てようとしている。鷹司邸跡の標示……

京都御苑の公家跡: 京都を感じる日々★マイナー観光名所、史跡案内Part1
https://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/41415018.html

<ここから引用>
江戸時代まで、今の京都御苑には、200もの公家屋敷が立ち並んでいたそうです。(……)
江戸時代末の慶応年間の公家屋敷図によれば、京都御苑には、大きな屋敷としては、北に近衛家と桂宮家、西北に一條(一条)家、中央に有栖川宮家、西南に嘉陽宮家と閑院宮家、南に九條(九条)家と鷹司家があったことがわかります。
<ここまで引用>

以下のブログ記事では、京都御苑内にある「花山院邸跡」と刻まれた石碑と、花山院家の邸宅で祀られていた邸内神「花山稲荷大明神」を閲覧させていただいた。

花山院家邸内にあった花山稲荷大明神: 京都観光旅行のあれこれ
https://kyotohotelsearch.com/blog/2018/06/07/kazaninaridaimyojin/

<ここから引用>
また、日本三大稲荷のひとつとされる佐賀県の祐徳稲荷神社は、花山院家の姫が鍋島家へ嫁いだ際に祀った分霊であり、「祐徳」はその姫の謚(おくりな)だそうです。
花山稲荷大明神は、京都を中心に庶民から公家・宮中さらには徳川将軍家をはじめ諸大名の江戸屋敷にも分霊や御札が祀られていました。
今は、宗像神社に小さな社殿が残るだけですが、信仰は全国に広がり、今もなお各地の分霊が祀られている神社に多くの人が参拝しています。
商売繁栄、産業興隆、書道・技芸上達の信仰も篤いそうですよ。

<ここまで引用>

養子に行ったといっても、同じ公家町内のこと。萬子媛は花山院家にちょくちょく行かれていたのではないだろうか。

鹿島鍋島家に嫁いでからも、花山院家との親密な関係が続いていたことは鹿島藩日記からも窺える。

ところで、井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収「直朝公」(普明寺蔵『鹿島家正系譜』収載)を読むと、直朝公が元禄四年(1691)辛未春正月二十一日、70歳のよろこびの礼を行い、申楽[さるがく](能楽)を花頂山に奏したとあり、「毎歳今日(この日)に必ず申楽[さるがく]有るは侯の誕辰(誕生日)を以[もっ]ての故[ゆえ]なり」(井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92)と記されている。

ならば、同じ『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』所収「断橋和尚年譜」に、断橋和尚が54歳の宝永二年乙酉(1705)に記されている、次の箇所はどうだろう?

<ここから引用>
猛春十八日、祐徳院殿瑞顔大師の耋齢(八十歳)の誕を祝するの序略に云う、
<ここまで引用>
(井上・伊香賀・高橋編,2016,p.92)

萬子媛80歳のお祝いが誕生日当日に行われたとは限らないが、直朝公は自分の誕生日に拘りがあったようだから、その直朝公が妻の80歳の誕生日に贈り物をしたことが三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)に記されているとなると、妻の誕生日にも拘ったのではないか……と思いたくなるではないか。

つまり、その猛春十八日が萬子媛のお誕生日ではないかと。猛春には、春の初め、旧暦1月という意味があるが、『鹿島藩日記 第二巻』宝永二年乙酉正月十八日の日記に次のように記されている。

<ここから引用>
一、今日、祐徳院様八十之御祝誕ニ付而、従 殿様為御祝儀、御野菜被進候、左ニ書載、
   一、午房       一、山芋
   一、昆布       一、椎茸
   一、田鴈       一、蓮根
      
 右一折二〆
   一、蜜柑一折
 右、御使者木庭彦兵衛相勤、介副池田新内、

<ここまで引用>
(井上・伊香賀・高橋編,2016,pp.343-344)

何というささやかな、心づくしだろう! 修行に勤しむ妻に合わせた贈り物なのだ。直朝公から贈られた食材は調理され、萬子媛の80歳を祝う食卓を飾ったに違いない。

過去記事に書いたように、この年の閏四月十日、萬子媛は危篤となり、その日、直朝公から付き添う人々におこわと煮しめが届けられている。

2018年8月15日 (水)
歴史短編1のために #39 鹿島藩日記第二巻ノート (1)萬子媛の病気
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/post-caf5.html

閏四月十日(6月1日)の日記には様々なことが書かれている。[略]
同日、萬子媛の病床に付き添っている人々に、殿様からこわ飯(おこわ)・煮しめ物重二組が差し入れられた。萬子媛はこの日の「今夜五ツ時」――夜8時に亡くなった。

直朝公は家を出て修行三昧だった妻を全身全霊で愛し、気遣っていられたのではないだろうか。いやはや、ここまで思われちゃ、断食入定なんてできないだろうなあ。

で、萬子媛の仮ホロスコープを作成してみた。フィクションである小説の中の萬子媛のイメージを膨らませるために。これは、わたしの勝手な憶測です。寛永二年一月十八日は、西暦に変換すると、1625年2月24日。

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2019年1月13日 (日)

在野の歴史学者・森銑三の身が引き締まるような論考。歴史小説執筆の参考になる河津武俊著『肥後細川藩幕末秘聞』。

図書館から以下の本を借りた。

歴史小説執筆の参考にするため
辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記

辻 邦生 (著)
出版社: 新潮社 (2004/08)


堀田善衛全集10  美しきもの見し人は・方丈記私記・定家明月記私抄
堀田 善衛 (著)
出版社: 筑摩書房 (1994/02)


肥後細川藩幕末秘聞
河津 武俊 (著)
出版社: 講談社 (1993/12)


出星前夜
飯嶋 和一 (著)
出版社: 小学館 (2008/8/1)


資料として
伊万里市史 陶磁器編古唐津・鍋島
伊万里市史編さん委員会 (編集)
出版社: 伊万里市 (2006.3)


森銑三著作集 第9巻
森 銑三 (著)
出版社: 中央公論社 (1971/5)


興味から
シモーヌ・ヴェーユ著作集 3 重力と恩寵,救われたヴェネチア
シモーヌ・ヴェーユ (著), 渡辺 一民 (翻訳), 渡辺 義愛 (翻訳)
出版社: 春秋社; 新装版 (1998/10)

文芸同人誌「日田文學」でお世話になった河津さんが確か歴史小説もお書きになっていたはずだと思い、検索すると果たしてあった。講談社から1993年に上梓された『肥後細川藩幕末秘聞』という本だ。

この本は弦書房から2017年に新装改訂版が文庫本で出ているので、宣伝しておこう。

河津さんとお話しして、互いの作風が似ていることを確認したことがある。河津さんの文章の美しさ、取材力、情報の集約力には遠く及ばないながら、長所も欠点もよく似ているのである。

書き慣れない歴史小説の執筆に悶々とする中でふと、河津さんはどうお書きになったのだろう、河津さんと同じ手法でならわたしにも書けるかもしれないと思ったのだった。どの世界でも、持つべきものはよき先輩である。

『肥後細川藩幕末秘聞』は、第一部で歴史の闇をルポルタージュ形式で追い、第二部がそれをもとにした歴史小説となっている。黒船が来航した年の嘉永6年(1853)、阿蘇の山ぶところに抱かれた平和な村が忽然とこの世から消えたという。

取材の過程を報告しつつ小説を紡いでいく形式が自分には合っている気がして、門玲子『わが真葛物語―江戸の女流思索者探訪』(藤原書店、2006)、『江馬細香 化政期の女流詩人』(藤原書店、2010)を研究したりしていたのだが、河津さんの歴史ルポ&歴史小説を読み、大いに参考になった。

『肥後細川藩幕末秘聞』は、ミステリータッチで描かれていて、面白く読み進めることができるが、伝承の解明には至らないまま終わっているため、それをもとにした第二部が盛り上がりに欠けるのが惜しい。

幕末から明治初期にかけて起きた最後のキリシタン大迫害「浦上四番崩れ」は有名だが、この肥後小国臼内切での事件が小説通りに起きたとすれば、あまりに暴発的で手続きに欠けているため、なかったことにするしかなかったということだろうか。

歴史物ではないが、同じ手法を用いたものとしては、殺人事件を追った河津さんの小説『森厳』のほうが成功しているとわたしは思う。過去記事で感想を書いている。

2013年10月 5日 (土)
男のロマンゆえに形式を踏み外した(?)2編――河津武俊 (著) 『森厳』、谷山稜『最後の夏山』
http://elder.tea-nifty.com/blog/2013/10/2-77d2.html

辻邦生の『天草の雅歌』は、高校時代の恩師が年賀状の中で歴史小説執筆の参考として挙げてくださった著作。

森銑三『森銑三著作集 第9巻』 (中央公論社、1971)は、了然尼に関する情報を求めて辿り着いた著作だったが、すばらしい内容だったので、アマゾンとブクログにレビューを書いた。

読みながら身が引き締まるほどの本格的な論考

美貌のあまり入門を断られたため、自らの顔を焼いて入門の許可を得たということで有名な黄檗宗の尼僧、了然尼(1646-1711)に関する情報を求めて森銑三の論考に辿り着いた。
精密な調査に驚き、著者銑三に対する興味も湧いた。ここまで本格的な歴史上の人物に関する論考は、これまでに読んだことがなかった気がする。読みながら、身が引き締まる思いがしたほどだ。
ウィキペディアによると、森銑三(もり せんぞう、1895年(明治28年)9月11日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、昭和期日本の在野の歴史学者、書誌学者で、著作は『著作集』(全13巻)『著作集 続編』(全17巻)にまとめられ、その著述は、江戸・明治期の風俗研究、人物研究を行う上での基点となっているそうだ。
本巻には、「宮本武蔵の生涯」を冒頭に、前掲論考を含む14の論考が収められている。

論考自体が旧字混じりである上に、一次資料からの引用が豊富であるため、漢文、候文ありとなると、わたしのようなド素人が読むには覚悟がいる。

ウィキペディア(「森銑三」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年10月2日 07:53 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org)には、次のようなことも書かれている。

高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝や典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。

在野の研究家であっても、これほどの業績が残せるのだ! 凄い、本当に凄い。これ以上言葉が出ない。

シモーヌ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ著作集 3 重力と恩寵,救われたヴェネチア』のレビューもアマゾンとブクログに書いた。

哲学者ヴェーユの戯曲が収められていて、貴重

重力と恩寵は、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵 シモーヌ・ヴェイユ「ノート」抄』(講談社文庫 - 講談社、1974)で40年ほど前に初めて読み、稀にしか出合えない高純度の思索に触れた思いがした。それ以来、何度も読み返している。ヴェーユの著作は、一生の宝物となるような性質のものなのだ。
本書には渡辺義愛訳「重力と恩寵」が収められているが、それ以外にヴェーユの珍しい戯曲が収められていて貴重である。この戯曲は未定稿で、完成されていない部分がひじょうに多いという。本書にはヴェーユのメモが頭を下げて各ページの下の部分に印刷されており、読むと新鮮な印象を受ける。
ヴェーユには、母親に溺愛されたヴェーユ、哲学者ヴェーユ、教師ヴェーユ、政治活動家ヴェーユ、神秘主義者ヴェーユとはまた別の顔――作家ヴェーユの顔――もあったのだ。

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2018年12月19日 (水)

歴史短編1のために #50 萬子媛の父の仕事と妹の生活を、松薗斉『日記に魅入られた人々』から想像する

公家は、官位(官職と位階)によってランク付けされた。五位以上の位階を与えられると――従五位下になると――貴族と呼ばれた。叙爵とは、貴族として下限の位階であった従五位下に叙位されることをいった。

参議以上および三位以上の者を公卿と呼んだ(位階は四位であっても参議に就任すると、公卿である)。

花山院家の家業は「四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道。一条家の家礼」とウィキペディア「花山院家」(「花山院家」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年8月6日 04:57 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org)とある。

萬子媛の父・花山院定好の仕事内容を想像できる記述が、松薗斉『日記で読む日本史 日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』(臨川書店、2017)にある。

前掲書では、院政期から戦国時代までの貴族・公家の日記が解説と共に紹介されているのだが、江戸時代になっても公家の勤務形態や日常の習慣は引き継がれていたようだから、参考になる。

除目[じもく]という政務は、公卿の筆頭である左大臣が担当したという。定好は寛文元年(1661)から寛文3年(1663)まで左大臣職にあった。

『日記で読む日本史 日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』から、除目について書かれた部分を引用する。

<ここから引用>
公卿になると、特にまだ見習い扱いの参議から昇進して権中納言以上になると、年中・臨時の行事や諸政務において指揮者ともいうべきこの上卿[しょうけい]という役がまわってくる。儀式・政務には規模の大小、また重要度でも軽重があるが、正月の節会や天皇一代に一度しか行われない即位などは規模が大きく(これらの上卿は内弁と呼ばれる)、またトラブルが生じるとその天皇の治世についてまでまことしやかに言われてしまうので責任が重い。そして個人的に負担が大きいのは、
(略)除目(特に春のそれ)・叙位の執筆[しゅひつ]という、朝廷の人事異動を決定する政務で、その新任者や位階の上がったものを大間書[おおまがき]や叙位簿[じょいぼ]とよばれる書類にリストに書き込んでいく役であろう。天皇・関白の前で行われなければならず、除目の場合、三日間にわたって行われ、作法も煩瑣、かつ書き誤りも許されず、旧の暦とはいえ正月の寒い夜、なかなか負担が重かった。ただし、これらの重要な役は公卿全員に課せられるということはなく、大臣、特にその筆頭である左大臣がまず担当する(そのため左大臣は一の上卿とか一上[いちのかみ]と呼ばれる)。当然、左大臣は公事の様々な次第・作法、そして先例に通暁した練達の人物でなければ務まらない。そのような人物が上卿や除目の執筆を務める際には、公事に熱心な貴族たち(当然ライバルもいる)がその儀式に参加しなくても見物に押しかけることになる。
<ここまで引用>(松薗,2017,pp.32-33)

同書第五章「やさしい宮様(中世の夫婦善哉日記 ――貞成親王『看聞日記』)」に、貞成親王の日記『看聞日記』からの抄訳がある。いや、『看聞日記』がウィキペディアの解説にあるようなものだとすると、これは他界した妻が夫の日記を紹介するというスタイルをとった貞成親王『看聞日記』の意訳というべきか。

<ここから引用>
『看聞日記』(かんもんにっき)は、伏見宮貞成親王(後崇光院、1372年 - 1456年)の日記。日記41巻と御幸記1巻、別記1巻、目録1巻から構成され、全44巻から成る。一部は散逸しているが、応永23年(1416年)より文安5年(1448年)まで33年間に渡る部分が現存する。『看聞日記』は宮内庁書陵部所蔵の貞成親王自筆の原本の題名で、一般には『看聞御記』(かんもんぎょき)とも呼ばれる。

貞成親王は伏見宮3代で、後花園天皇の実父にあたる人物である。将軍足利義教時代の幕政や世相、貞成親王の身辺などについて記されており、政治史だけでなく文化史においても注目される。
<ここまで引用>「看聞日記」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2018年7月13日 13:24 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

その中に、阿五々と呼んで育てていた姫宮のことが記されている。

この姫宮が入江殿三時知恩寺に尼として入ることになり、そのときの様子やこの姫宮が一人前の尼となって今御所と呼ばれるようになってからのことなど書かれていて、興味深い。

<ここから引用>
三時知恩寺(さんじちおんじ)は、京都市上京区上立売町にある浄土宗の寺院(尼寺)。門跡寺院。本尊は阿弥陀如来。
応永年間(1394年 - 1428年)北朝4代後光厳天皇の皇女見子内親王が北朝3代崇光天皇の御所で一条西洞院にあった入江殿を寺に改めたのに始まる。
(略)
後柏原天皇の代に三時知恩寺と称されるようになったが、これは宮中における六時勤行(1日6回の勤行)のうち昼間の3回をこの寺で行うようになったことによるとされる。正親町天皇の代に現在地へ移転した。

<ここまで引用>「三時知恩寺」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2018年4月5日 12:03 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

なぜ興味が湧くかというと、萬子媛の妹が臨済宗単立の尼門跡寺院で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入ったからで、小大名に嫁いだ萬子媛だったが、そのような人生を歩んだとしても不思議ではなかったからだ。

慈受院と総持院は室町幕府4代将軍・足利義持の正室であった日野栄子を開基として同時期に創建され、明治6年、総持院と慈受院は合併し(慈受院は江戸期に曇華院宮の管掌となっていた)、大正8年から寺名を慈受院としたそうだ。

慈受院の複雑な歴史について、サイト「黒駒 寺社参拝記」に詳しいので、引用させていただく。

<ここから引用>
慈受院寺史

現在の慈受院は元々、慈受院と総持院という別々の門跡寺院が明治になって
合併したお寺であり、両寺の開基は足利四代将軍義持の正室慈受院竹庭瑞賢尼(藤原栄子)である。義持の菩提を弔うために応永34年(1427)に創建された。
慈受院・総持院はともに内親王・宮家子女・将軍家子女・近衛家子女などが代々の住持を務めていたが、慈受院は江戸期に入り曇華院宮の管掌となる。
総持院は近衛家と花山家から交互して子女が住持となり、宝暦年間(18世紀中期)には比丘尼御所(尼門跡)に列せられて薄雲御所号を勅許される。
明治6年に慈受院と総持院は合併して、大正8年からは寺名を慈受院とした。
江戸期の石高は総持院が74石、慈受院は98石。臨済宗 本尊釈迦牟尼如来。

<ここまで引用>
薄雲御所 慈受院門跡「黒駒 寺社参拝記」<https://blog.goo.ne.jp/ebosi624/e/cdc7edeff9fcf78ddbf74ac01e5e3054>(2018年12月20日アクセス)

尼門跡寺院での生活を、花山院慈薫 (バーバラ・ルーシュ編)『あやめ艸日記―御寺御所大聖寺門跡花山院慈薫尼公』(淡交社、2009)から想像したりしていたのだが、『日記で読む日本史 日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』中の『看聞日記』には、幼い姫宮のホームシックの様子や若くして門跡の代わりを務める重圧のことなど書かれていて、生々しい。

<ここから引用>
入室の儀は門跡様の肝いりで、寺中の尼たちも総出でお迎えくださり、たいそう華やかに執り行われたのですが、何分まだ幼いので、家を恋しがってずっと泣いていたそうでございます。<ここまで引用>(松薗,2017,p.129)

一人前となった今御所は将軍様や上様にも可愛いがられるようになって、18歳のときには将軍様の姫君をお弟子として預かり、領地を寺に寄進していただいた。宮家の長女として尼となっていった妹たちの面倒もよく見ていた。

しかし、高齢となり、病気がちとなった門跡の代わりを務めるにはまだ若すぎたようで、その重圧からか一種の精神錯乱を起こしたようなことが書かれている。

<ここから引用>
永享10月の9月、門跡様がご体調を崩されるとその重責に押しつぶされてしまいそうになったのでしょうか、11月末に実家に帰ってくると、すぐに体調を崩してしまい、突然大声で泣き出したり、乗り移った門跡の他の尼の生霊でしょうか、「今御所を長らく憎んできた」などとおかしなことを口走るようになって、ひどく錯乱してしまいました。宮家の者たちもびっくりしてどうしてよいのやら、門跡の方々にも随分心配をおかけしましたが、お頼みいただいた験者たちの祈祷のおかげで何とか回復し、その年の暮れにはお寺に帰りました。
<ここまで引用>(松薗,2017,p.130)

三年後、今御所は京で流行った疱瘡に罹患し、亡くなる。26歳だった。

以下の記事は前掲書『あやめ艸日記―御寺御所大聖寺門跡花山院慈薫尼公』を読んだときにとったノートで、『『あやめ艸日記』は平成18年に96歳の天寿を全うされた大聖寺27代門跡・花山院慈薫の随筆集である。

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

萬子媛は、花山院家の21代・花山院定好の娘だが、花山院慈薫は31代・花山院家正(1834年 - 1840年)の娘。
花山院家の37代・花山院弘匡(1962年 - )によると、尼門跡寺院大聖寺の門跡は24代まで内親王だったが、明治以降は華族出身の子女が尼門跡寺院の法統をお守りするようになり、伯母・花山院慈薫にもお話があったという。
お経、仏典、和漢の書、和歌、哲学などを学び、児童文学や少女雑誌なども読んで育ち、13歳で剃髪。
大聖寺の宗旨は臨済宗系の単立で、本尊は釈迦如来。
ちなみに、萬子媛は黄檗宗の尼僧となったが、開祖・隠元隆琦は中国臨済宗の僧で、黄檗宗は臨済宗系であり、明朝風様式を伝えているといわれている。
編者のバーバラ・ルーシュはコロンビア大学名誉教授で、13世紀に活躍した無外如大禅尼について研究するようになり、この禅尼が大聖寺門跡と関係あることがわかったことから、大聖寺にお参りしたいと思ったそうだ。
バーバラ・ルーシュ「思い出の花輪を捧ぐ」に書かれた以下の箇所は興味深い。

〈ここから引用〉
このような経験を積み重ねてゆくにつれ、尼門跡寺院という制度があることがわかってきました。この制度は、日本の真なる文化財の一つともいえますが、十九世紀の廃仏毀釈令によってほとんど破壊されてしまいました。尼門跡寺院というのは、何かを抑えつけるところではなく、逆に解き放つところといえる存在であり、もしこのような場が存在しなかったら、日本のきわめて高い文化的教養をもった女性たちが幾世紀にもわたって活躍できなかっただろうと思われます。皇室由来の寺院におられた尼僧様たちが、和歌の古典的な形態をみがき上げ、『源氏物語』に関する文化、さらに茶道、華道、香道、年中行事などの保存にお勤めになられたのでございます。

〈ここまで引用〉

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2018年11月 3日 (土)

松薗斎『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』(臨川書店、2017)に解説があった叙目という仕事。(この記事はまだ書きかけです)

萬子媛の父、花山院定好は公卿であったが、その仕事がどんなものであったのか、今一つぴんとこなかった。それが、松薗斎『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』(臨川書店、2017)を読み、これは中世のこととはいえ、仕事としては引き継がれている部分が大きいと思われるので、参考になる。

小説の参考になることを別にしても、中世の日記から面白いものが紹介、解説されていて、読んでみたくなる本だ。

「花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』( 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)によると、花山院家の家業は、四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道であった。定好は主に、後水尾天皇(108代)から後西天皇(111代)の四代に仕えた。

慶長16年(1611)に元服し侍従に叙爵。以降順調に出世したようで、寛永8年(1631)権大納言に任じられ、寛永20年(1643)まで務めた。慶安2年(1649)には内大臣となったが、すぐに辞職し、承応2年(1653)から翌年にかけて右大臣。万治3年(1660)に従一位に上り、寛文元年(1661)から寛文3年(1663)にわたって左大臣を務めた。

公家は、官位(官職と位階)によってランク付けされた。五位以上の位階を与えられると――従五位下になると――貴族と呼ばれた。叙爵とは、貴族として下限の位階であった従五位下に叙位されることをいった。

参議以上および三位以上の者を公卿と呼んだ(位階は四位であっても参議に就任すると、公卿である)。

前掲書によれば、除目は公卿の筆頭である左大臣が務めたとあり、どのような仕事であったかが解説されているので興味深かった。萬子媛の父は左大臣職にある間、このような仕事をしていたのかと思った。いやー、ストレスが募りそうなお仕事ですよ。

図書館から借りた本で、返さなくてはならないので、抜き書きしておきたい。が、今はちょっと時間がないので、あとで。この記事は書きかけです。

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2018年10月31日 (水)

歴史短編1のために #49 萬子媛は再婚だったのか、初婚だったのか?

24日、第二稿、やっと、一行だけ書いた。

第一稿が2015年12月の脱稿だから、三年間のブランク。

第二稿が全く進まなかったのは、萬子媛についてわからないことが多く、伝承と史実が異なると思える部分もあって(一致している可能性もないではない)、調べ.るのに時間がかかり、調べてもわからなかったりもして、創作意欲が低下していたということがあった。

しかし、現地取材したり、取材に協力していただいた専門家の方々のお陰でわかったことも多い。藩日記を読んだ収穫も大きかった。

そのような中で、まだわからないことは、37歳で鍋島直朝に嫁いだ萬子媛は初婚だったのか、再婚だったのかということである。

専門家の方々も、第一稿を読んでくださった方々も、閲覧した複数のサイトでも、わたしの夫と息子も皆が、萬子媛の年齢から考えて再婚だった――という憶測をなさる。

小説というフィクションを書くのだから、どう書こうと自由なのだが、ここが決まらないために悶々としていたが、決めた。初婚だということに。娘だけが、わたしと同じ憶測をする。

わたしがなぜそう考えるかというと、大名職を引退した夫が存命であるにも拘わらず(恐らく仲も悪くなかった)、おなかを痛めた子のうちの次男までもが21歳で早逝したとき、萬子媛は剃髪なさった。

そのときに義理の息子・断橋和尚に吐露した率直な気持ちが、大名になった断橋の弟・直條の著と考えられる萬子媛の小伝に書かれている。

かくも自分の気持ちに正直で、思い切ったこともなさる萬子媛。情の深さ、細やかさと優れた教養で多くの人々を惹きつけた萬子媛。

いわば全力投球型の萬子媛が再婚だったとは、考えにくいのだ。

初婚で結婚した相手に不満があれば、積極的に打開策を考えて実行なさるだろうし(離婚という匙投げの手段ではなく)、夫と死別したのであれば、萬子媛の性格からして、その地で出家なさったのではないだろうか。

花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

もし再婚であったなら、萬子媛は初婚のときも授かったのか?

結婚するたびにお稲荷さんを持たされて送り出されるというのも、不自然な気がする。

なぜなら、そのお稲荷さんは、ただのお稲荷さんというわけではない。朝廷の勅願所であった伏見稲荷大神の分霊なのだ。

萬子媛は二歳で、母方の祖母・清子内親王(後陽成天皇の第三皇女)の養女となっている。清子内親王について、萬子媛との関係を中心にざっとまとめてみる。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説<https://kotobank.jp/dictionary/nihonjinmei/>(2018年10月25日アクセス)に、次のような解説がある。

清子内親王(後陽成天皇の第三皇女)
1593-1675* 
江戸時代前期,後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇女。

文禄(ぶんろく)2年10月23日生まれ。母は女御藤原前子(さきこ)(中和門院)。慶長6年内親王となり,9年鷹司信尚(たかつかさ-のぶひさ)にとつぐ。信尚没後,大鑑院と号した。延宝2年12月9日死去。82歳。

清子内親王は28歳で、夫・鷹司信尚と死別して大鑑院と号した。
大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とした。
37歳になる萬子媛を1662年に嫁に出したとき、大鑑院は69歳。
曾孫の文丸が生まれた1664年(萬子媛39歳)、大鑑院は71歳。
曾孫の朝清が生まれた1667年(萬子媛42歳)、大鑑院は74歳。
1673年に文丸が10歳で死去したとき、大鑑院は80歳。

未亡人であった清子内親王は、なぜ萬子媛を養女としたのだろうか。萬子媛には同じ母から生まれた兄弟姉妹がいる。サイト「公卿類別譜(公家の歴史)」より引用させていただく,。

忠弘
定教(母同。忠広嗣) 
円利(※家譜による。母同。入叢林為出家)
定誠(母同。定教嗣) 
堯円(母同。専修寺十六代。近衛尚嗣猶子) 
女子(母同。号貞寿院実全妙操〔高千穂家譜〕。   
 元禄10年9月18日(1697年11月1日)卒〔高千穂家譜〕。   
 ※家譜は豊前国英彦山座主亮有室とあるが、愛宕家譜・知譜拙記によれば、愛宕通福の実父は亮有の父有清〔岩倉具堯二男〕で、母は定好の娘とある)
女子(母同。鍋嶌和泉守室) 
女子(母同。惣〔*系図纂要作総〕持院尼。智山周旭)


花山院家(清華家)-公卿類別譜(公家の歴史)<http://www.geocities.jp/okugesan_com/kazanin.htm>(2018年10月25日アクセス)

鍋嶌和泉守室というのが萬子媛のことで、下に妹がいる。この妹といくつ違いなのかわからないが、母(没年不明)が出産後に亡くなり、そのときまだ二歳だった萬子媛を祖母が引き取ったということも考えられる。

祖母との暮らしは、抹香臭い(?)、宗教色の濃いものだったのではないだろうか。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収の萬子媛の小伝「祐徳開山瑞顔大師行業記」に、
大師、いまだ笄[こうがい](かんざしで髪を束ねる)せざるより、早くも三宝[さんぽう]の敬すべきを知り、香華を仏に供[そな]うるを以[もっ]て常の業と為[な]し、帰に泪[およ]ぶ」(2016,p.72)とあることから考えても。

萬子媛は成人以前に早くも仏教における「仏・法・僧」と呼ばれる三つの宝物を敬うべきことを知り、仏前に香と花を供えることを日課とし、仏教に帰依していた――とあるので、祖母と一緒に、清く正しく美しくお暮しになっていたことは間違いない。

そして、それは幼いころからのものであったために、萬子媛にとってはごく自然な、快いものでさえあったのではないだろうか。

父の花山院定好はもとより祖母も、萬子媛の良縁を心底願っていたに違いない。わたしに憶測できる、萬子媛が晩婚になった理由はこのことしかない。格式の高さと貧乏である。

江戸時代、公家は様々な制約の中で、貧乏生活を余儀なくされていた。

萬子媛の実家である花山院家は750石。養女に行った鷹司家は五摂家※の一つで、最高貴族といえる家柄だが、鷹司家は1500石と小大名より少ない(10万石以上を大大名、5万石以上を中大名、それ以下の大名を小大名といった)。

※藤原北家から出た近衛家、九条家、鷹司家、一条家、二条家の五家のことをいい、鎌倉時代半ばより代々摂政・関白を務めた。

萬子媛が後妻となった、その小大名の一つである肥前鹿島藩は2万石である。

下種ないいかたになるが、格式の高い家の生まれの明眸、才知ともに備わった萬子媛が年増となり、当時の基準での嫁としての商品価値が下がって初めて、小大名が近寄れるくらいの雰囲気が醸成されたのではないだろうか。

適齢期に大大名、中大名にやるには、貧乏が邪魔をした。

萬子媛が父から授かった伏見稲荷大神の分霊こそ、花山院家屈指のお宝といってよいものだったかもしれない。

前掲引用の系図にあるが、以下の過去記事から引用すると、村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995年)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する著作で、それによれば、絵巻が作られたのは有誉が座主だったときだった。

2016年1月23日 (土)
江戸初期五景2 #2 英彦山。鍋島光茂の人間関係。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/01/2800-e9da.html

この著作には有誉の父が亮有、母は花山院定好の娘だと書かれている(亮有の父・有清の室という説もある)。いずれにしても、ここで出てくる花山院定好の娘というのは、萬子媛の姉だろう。交際があったらしく、英彦山からのお使いは時々、鹿島藩日記に出てくる。

有清の三男で亮有の弟の通福は中院通純の猶子となっており、中院通純の娘・甘媛は鍋島光茂の継室(後妻)となっている。

このころ、英彦山は「英彦山三千 八百坊」(3,000人の衆徒と坊舎が800を数えた)と謳われるほど栄えていたというが、何しろ険しい山の中である。京都住まいの貴族である花山院定好が、本心から嫁にやりたいと思うようなところだったのだろうか。

萬子媛の妹は、臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。以下の過去記事、参照。

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

定好の娘達の落ち着き先をみていくと、下種の勘繰りかもしれないが、花山院定好のつらい胸のうちが読めるような気がしてくる。

渾身の力を振り絞り、万感胸に迫りつつ娘を送り出した父の思いが萬子媛に伝わらないはずはない。こんなことを二度も三度も繰り返すだけの財力も気力も父にはないことを、聡明な萬子媛はわかりすぎるほどわかっていたに違いない。

こうしたことを総合して考えてみると、萬子媛は初婚だったと思えてしまうのだ。

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2018年10月28日 (日)

歴史短編1のために #48 黄檗文化(煎茶道、普茶料理)に鍋島焼が使用されていたことを裏付けるニュース

萬子媛が娘時代を過ごされた江戸時代前期の公家町について、わかっていることがあれば知りたいと思った。図書館検索で、こうした情報に接することができそうな資料を検索したが、思うように出て来なかった。

24日の深夜、「公家町 江戸初期」でネット検索すると、2018年2月21日に発信された、次のような思いがけないニュースがヒットした。

京都市文化財保護審議会(井上満郎会長)は21日、京都迎賓館(上京区)の建設に伴う公家町遺跡出土品2件555点を含む10件を市文化財に指定・登録するよう、市に答申した。京都迎賓館関連の発掘調査では初の指定。[略]発掘調査は1997~2002年、豊臣秀吉が安土桃山時代に公家屋敷を集約させた公家町跡の一角で実施。[略]杉之坊の281点は、当時最先端の文化だった煎茶の道具や茶碗をはじめ、高級な肥前磁器の色絵ふた付き鉢、輸入陶磁器など。[略]市文化財保護課は「いずれも江戸前期に門跡・公家が所持した高級磁器の実態や、公家と町衆の生活を比較する上で重要な資料」としている。

京都新聞(2018年02月21日 22時38分)「公家町遺跡出土品など指定・登録へ 京都文化財保護審」<https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180221000159>(2018年10月28日アクセス)

このニュースは、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で書いた、次のような記述の裏付けとなるものではないだろうか。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

隠元隆琦の渡来は1654年のことで、隠元は63歳であった。1625年生まれの萬子媛は、このとき29歳である。黄檗宗がもたらした文化は「黄檗文化」と呼ばれる。
ウィキペディアによると、「隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した」
*1という。

隠元隆琦は普茶料理という中国式の精進料理を伝え、日本における煎茶道の開祖となった。

有田を中心として焼かれる磁器は有田焼と呼ばれるが、伊万里港から積み出されていたため、伊万里焼とも呼ばれる。これとは別に、大川内山にあった鍋島藩直営の窯で焼かれた献上用の高級磁器は鍋島焼と呼ばれた。

萬子媛が生きていた江戸初期から中期にかけて、黄檗宗が流行り、人々は普茶料理に親しんだ。そして、これはまだわたしの憶測にすぎないが、佐賀藩の有田で焼かれた磁器及び献上用の鍋島焼は、普茶料理に使用されたのではないだろうか。

21歳で早世した萬子媛の次男・式部朝清は佐賀藩2代藩主・鍋島光茂(1632生 - 1700没)に仕え、佐賀に住み、光茂の信頼厚く「親類同格」の扱いを受けていた。

光茂は三家格式を定めることで、蓮池藩・小城藩・鹿島藩の三支藩を完全な統制下に置いた。古今伝授を受けるほどに和歌を好み、彼は『葉隠』の語り手となる山本常朝の主君であった。また、寛文2年(1662)、幕府に先んじて殉死を禁止している。

明敏な頭脳を持ち、政治的、文化的に先取的動きを見せる光茂が黄檗宗、煎茶道と関係が浅かったとは考えられないし、彼は鍋島焼とも関係が深い。鍋島焼との関係の深さは、元禄6年(1693)に光茂が有田皿山代官に与えた手頭(指示書)からも明らかである。

黄檗宗は幕府の鎖国政策の下で流行した。鍋島藩で焼かれた磁器は、江戸時代に花開いた黄檗文化の形成に関係していたとわたしは考えている。もしこの憶測が正しければ、鍋島藩は黄檗文化の流布に一役買っていたことになる。

*1:「隠元隆き」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年11月27日 (日) 07:35 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

写真を見ると、様々な食器がある。

前掲ニュースと関連した催し物(平成30年7月14日~平成30年11月25日)の記事も出てきた。

 平成29年度の京都市有形文化財に「公家町遺跡(安禅寺杉之坊)出土品」と「公家町遺跡(櫛笥家)出土品」が指定されました。そこでこのたび、京都市考古資料館では、文化財指定を記念して平成30年度前期特別展示「お公家さんのうつわ − 京都御苑出土の古伊万里を中心に − 」を開催する運びとなりました。
 指定品は、京都御苑内における京都迎賓館の建設工事に先立って1997~2002年に実施された発掘調査で出土した遺物の一部です。

[略]
 今回、有形文化財に認定された資料は、公家町遺跡出土遺物群のうちの安禅寺杉之坊の穴蔵と櫛笥家の土坑から出土したものです。いずれも、京都市内では類例の少ない古伊万里(肥前磁器)が多数含まれており、江戸時代前期の公家屋敷で用いられた焼き物の実態を伝えています。

京都考古学資料館「平成30年度前期特別展示『お公家さんのうつわ』開催について 」<https://www.kyoto-arc.or.jp/blog/jp-mus-exhibition/2935.html?cat=11>(2018年10月28日アクセス)

このような出土品がなかったために、矢部良明『世界をときめかした伊万里焼』(角川書店、2000)の中の次のような記述が生まれざるをえなかった。

鹿島藩初代藩主を務めた鍋島勝茂(1580-1657)か二代藩主光茂(1632-1700)の時代であったか、鍋島藩が支配する伊万里焼の製品をもって、徳川政権の長である将軍から諸大名、そして貴紳たちに進上することが考えられた。
 後世の記録であるから伝承の範囲のこととはなるが、その鍋島焼の創業は、寛永五年(1628)のことという。もしこの伝承が正しければ、鍋島焼開窯は鍋島勝茂の采配によると考えなくてはならないが、残念なことに当時の史料では証明されていない。
(矢部,2000,p.108)

図書館に返してしまったので、再度借りて確認しなくてはならないが、『伊万里市史 第二巻 陶磁器編 古唐津・鍋島』に、その時代の進上にまつわるエピソードが紹介されていた。

メモしようと思いながら忘れてしまったのは、鍋島焼が黄檗文化に関係していたというには、その進上にまつわるエピソードと、前掲書にもある鍋島光茂が元禄六年(1693)に有田皿山の代官に出した「指令文書」(矢部,2000,p.114)の存在だけでは証拠として弱いと思ったからだった。

黄檗文化と鍋島焼の結びつきを専門家にお尋ねしたときに、その結びつきを否定なさったことを考え合わせて、確かに史料、出土品共に乏しすぎる――と思い、何とはなしの失意の中で、本を返してしまった。

それ以上の追究を諦め、所詮は素人芸の小説なのだから、フィクションでどう書こうが問題ない……と半ば投げやりな気持ちでいたときに、このニュースに出くわしたのである。

鍋島焼についてはもう少し詳しく書いておきたいが、とりあえず、このノートはここまで。

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2018年10月12日 (金)

歴史短編1のために #47 落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名

落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-891c.html

……………

祐徳博物館で、改めて鎧を見ると、大きさが様々で、体形に合わせて作られていることがわかる。それからすると、萬子媛の夫である鍋島直朝と家督を継いだ直條(萬子媛の義理の息子)はいずれも小柄だったのではないだろうか。

萬子媛の肖像画の前に行った。微笑んでいられるように見えたことがあったけれど(その見えかたのほうがむしろ普通ではないだろう)、厳めしく見えた。

過去記事の繰り返しになるが、萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

寛文2年(1662)、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

寛文4年(1664)に文丸(あるいは文麿)を、寛文7年(1667)に藤五郎(式部朝清)を出産した。延宝元年(1673)、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

元服以前の10歳で亡くなった文丸(文麿)の死因は伝染病ではないか、とわたしは推測していた。というのも、郷土史家・迎氏からいただいたメールには、父・直朝と側室の間に文丸と同年に生まれた中将が同年、文丸に先立って亡くなっていると述べられていたからだ。

文麿と朝清の肖像画の前にも、改めて立った。そのとき、これまでは気づかなかった文麿に関する解説に目が留まった。

文麿公は痘瘡[とうそう]に罹り、長く病床にあったとあるではないか。これまでこの解説になぜ気づかなかったのだろう? ちなみに夫も気づかなかったといった。夫はわたしの整理不足の小説の第一稿を読み、気に入ってくれた一人で、それなりに興味を持って、見学していたのだった。

痘瘡とは天然痘のことだ。ウィキペディアより引用する。

<ここから引用>
天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。
(……)
大まかな症状と経過は次のとおりである。
・飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日の潜伏期間を経て発症する。
・40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
・発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
・7 - 9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
・2 - 3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
・治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。

<ここまで引用>
「天然痘」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年9月23日 23:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

長く病床にあったという文麿は幼い体で懸命に病魔と闘い、周囲に治癒の希望を抱かせた時期があったかもしれない。文麿は聡明な子供だったようだ。

文麿は花山院家から贈られた木の人形がとても好きで、朝夕手放さなかったという。病床でも、文麿はその人形を握り締めて苦痛に耐えていたのかもしれない。その人形は菅原道真の木像だったそうだ。

迎氏からいただいたメールには、文麿が亡くなる前年の寛文12年(1672)に船で上京し、花山公(文麿の祖父、萬子媛の父)に逢ったとある。帰りは参勤交代で帰国する父・直朝の船に同船した。

人形は、文麿が上京したときにおじいちゃんから贈られたものかもしれない。

花山院定好(文麿の祖父)の没年はウィキペディアに中将、文麿と同年の延宝元年(1673)とあるのだが、死因は書かれていない(「花山院定好」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2017年11月28日 02:14 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org)。

文麿は、上京したときに天然痘に感染したのだろうか。それが中将にも感染した――と考えたくなるが、天然痘の潜伏期間は7~16日とされていて、花山院定好の亡くなったのが延宝元年7月4日(1673年8月15日)。潜伏期間の短さを考えると、文麿が前年上京したときにおじいちゃんから天然痘が感染した可能性はなさそうだ。

文麿の死が延宝元年の何月だったかはわからないが、もし花山院定好に先立って亡くなったのだとしたら、文麿の死の知らせがおじいちゃんの体にこたえたということはあったかもしれない。

いずれにせよ、一度に父と子供を亡くした萬子媛の気持ちは、如何ばかりであっただろう。

ところで、文麿に関する解説の下に、和歌の揮毫された色紙があり、年齢と名前が記されている。名前が萬子と読める気もしたがはっきりせず、また記された年齢が萬子媛の没年を超えていた。

祐徳博物館の女性職員のかたにお尋ねして、改めて二人で見た。やはり萬子媛の没年を職員のかたも指摘され、まぎらわしいが、萬子媛の揮毫ではないという結論に達した。

・‥…━━━☆

そのときに、以前からの疑問をお尋ねした。

萬子媛――という呼び名には、史料的な根拠があるのかどうかということだった。

というのも、郷土史家からいただいた資料にも、購入した本(『鹿島藩日記 第一巻』『鹿島藩日記 第二巻』『肥前鹿島円福寺普明禅寺誌』)にも、萬子という名は出てこないのだ。

わたしが見たものからは、俗性は藤氏、父は花山院前[さき]の左丞相(左大臣)定好公、母は鷹司前[さき]の関白信尚公の女[むすめ]、二歳にして前[さき]の准后清子[じゅんごうすがこ]内親王(後陽成天皇の第三女)の養女となって、結婚し、子供二人を亡くした後、尼となって祐徳院に住み、「瑞顔実麟大師」と号した女性が存在したことしか、わからなかった。

史料的な根拠はあるということで、一般公開されていないという史料の一つを博物館の職員のかたと見ていったが、そこには見つからなかった。もう閉館になってしまったのだが、鹿島市民図書館の学芸員がお詳しいということで、電話をかけてくださった。

前にも、萬子媛に関することでご教示くださったかたである。以下の過去記事を参照されたい。

2018年8月 4日 (土)
歴史短編1のために #37 核心的な取材 ①インタビュー
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/36-d6f8.html

日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。

萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。

結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。

萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。

生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。

また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。

そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

明治以降、すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなって、氏(姓)と家名(苗字)の別、諱と通称の別が廃されたが、ざっと以下のようなものがある(沢山あって、全部は書ききれない、わからない)。

  • 同じ血統に属する一族を表す氏[うじ]。
  • 日本古代の諸氏(うじ)の家格を示す称号、姓[かばね]。
  • その家の名、名字(家名)。
  • 生存中は呼ぶことをはばかる、身分の高い人の実名、諱[いみな]。
  • 実名のほかにつける別名、字[あざな]。
  • 元服以前の名、幼名[ようめい]。
  • 出家後の諱、法諱[ほうき]。法名にほぼ同じ。
  • 受戒した僧に師が与える、あるいは僧が死者に与える名である法名・戒名・法号。
  • 人の死後にその人を尊んで贈る称号、諡[おくりな]。
  • 公的な身分や資格、地位などを表す称号、号[ごう]。学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名(雅号)も号[ごう]という。
  • 別につけた称号・呼び名、別号[べつごう]。

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