カテゴリー「萬子媛 - 祐徳稲荷神社」の101件の記事

2018年2月 5日 (月)

歴史短編1のために #34 鹿島鍋島家の御殿医

萬子媛をモデルとした小説のためのノートというよりは個人的な覚書なのだが、鹿島鍋島家に関する事柄が入っているので、ノートに加えることにした。

亡き母の友人で、現在は博多にお住いのキクヨさんから年に一、二度電話がある。

83歳の高齢で、ここ数年、腰痛やパーキンソン病による歩行の不自由などがあり、お体がつらそうだ。

キクヨさんは鹿島鍋島藩の御殿医の家系の人で、萬子媛をモデルとした小説の第一稿を「あなた、面白かったわよ! 三回読んじゃった」といってくださった貴重な読者だ。

2016年5月 9日 (月)
御殿医の子孫から聞いた萬子媛の歴史短編の感想
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/05/post-7a1a.html

小説をこのままでいいとは思っていないが、もしこれを大衆向きの歴史小説にしたら、キクヨさんも、キクヨさんと同じように作品を喜んでくれた人々も離れて行ってしまうに違いない。

「小説はどうなった?」と気がかりそうなお声。「第二稿に入るところです」といった。

自分の書いたこの小説を通し、わたしはキクヨさんと年齢を越えて――おこがましいかもしれないけれど――本当の友人になれた気がする。

まず、以前と比較して、ナイーヴそのもののお声が違う。それまではガードのようなもの、警戒心のようなものが感じられた。わたしという人間の正体がもう一つわからず、気が許せないという風に感じられていた。

ところが、下書きに近い代物であるにも拘わらず、第一稿の小説を内容的に受け容れ、共感を寄せてくださったことを感じ、神秘主義的な表現をも快く捉えてくださったことがわかった。その一点といっていいかもしれない。わたしが他人との絆を感じられるのは。

職業作家にはなれなくとも、創作を続けてきてよかった。本当に。

わたしはキクヨさんが我が家に手製のプリンや抜群に美味しい煮物を持って遊びに来られていたころから、キクヨさんと友人になりたいと思っていた。キクヨさんは勿論、母を訪ねて見えていたのだった。

キクヨさんは父親を亡くしたあと、母親に仕え、親戚のために心を砕き、長く独身だった。中年になってから、博多にお住いの大学教授のところへお嫁に行かれた。

数年後にご主人が亡くなり、しばらくはひとり暮らしを続けて血のつながらない孫の面倒を楽しそうに見たりなさっていたが、やがて身辺を整理してホームに入られた。

見かけは普通のおばさんだったが、わたしはキクヨさんの秘められた知性に、子供のころから敏感に気づいていた。人知れず冷たく光っている宝石のような孤独や、持って生まれた類まれな純粋さにも気づいていた。

でも、わたしはキクヨさんの堅いガードを解けず、友人にはしていただけなかった。ずっと、そうだった。馬鹿なことをしてはよく注意され、プライドに障ることをいってしまってはしっぺ返しを食らうことなどあって、わたしには手強い人だった。それでも、キクヨさんが大好きだった。だから、母が亡くなった後も連絡を取り続けた。

昨年、わたしは中学時代からの友人2人と別れた。友人として純粋に愛されているとは思えないところが決定的になったからだった。その代わりに、古くから知ってはいたが、友人とはいえなかった人と友人になれたのだった。

萬子媛は長生きされたが、お子さんがたを亡くしたあとで病気になられたようだ。上のお子さんを看取り(下のお子さんは鍋島光茂公に仕えて佐賀に住んでいた21歳のときに亡くなり、急死だった)、萬子媛を診察し治療したのはキクヨさんの御先祖様だったに違いない。

「トンさん(殿様)」と呼ばれた鍋島直紹公が健在だったころのお話だったと思うが、そのころまでは鹿島鍋島家の集まりが催されていて、御殿医の子孫のやはり医師だったキクヨさんの叔父様が紋付羽織袴で出席なさっていたという。

昨年、祐徳博物館に、佐賀錦のお守り袋を寄贈したとおっしゃった。「あまりに綺麗なので」とキクヨさん。直紹公の御祖母様のものだった、とおっしゃったかな。あまりに長電話で、鹿島鍋島家の話がいろいろと出てきたものだから、わからなくなってしまった。祐徳博物館に行ったときに拝見しよう。

鹿島鍋島家の菩提寺である普明寺を見学した話をキクヨさんにすると、わたしには荒れ果てているように見えたけれど、奉仕活動で定期的に清掃されているそうだ。キクヨさんの叔父様は年に二回は必ずお墓参りに普明寺に出かけられたという。普明寺にあるのは、キクヨさんの御先祖様が代々治療を施し、看取った方々のお墓だ。

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2018年1月14日 (日)

歴史短編1のために #33 扇面和歌を通して考察したこと②

#31 扇面和歌を通して考察したこと

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

祐徳博物館には、「祐徳院殿御遺物」が展示されており、御遺物には解説が付けられている。その解説の中に萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたとあった。

二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。

二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかることだろう。

二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。

特に藤原俊成女(皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍)の歌を愛されたのか、扇面に記された藤原俊成女の歌がある。記されたのは元禄9年(1696)ということだから、萬子媛出家後の71歳のころのものだ。

昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。

平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」 74 を参照されたい)。

こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如(19神祇,1878,1879,1880)、輪廻観(19神祇,1902)、一切皆成仏(20釈教,1928)といった宗教観が読みとれる。
 ※「マダムNの神秘主義的エッセー」で公開するときに番号の歌を引用する予定。

この複合的、統一感のある宗教観こそが歌謡集から勅撰和歌集まで、そこに集められた歌に凛とした気品と陰翳と知的洗練をもたらしたのだと考えられる。

江戸初期から中期にかかるころに生きた萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたということは、二十一代集に通底する宗教観を萬子媛も共有していたということではないかと思う。

注目したいのは、『新古今和歌集』巻第十九神祇歌1898の歌である。作者は皇太后宮大夫俊成(藤原俊成,1114 - 1204)。萬子媛が扇面に記した歌の作者は藤原俊成女であるが、俊成は藤原俊成女の母方の祖父に当る。『新古今和歌集』の撰者の一人であった藤原定家は俊成の子である。

『日本古典文書12 古今和歌集・新古今和歌集』(訳者代表・窪田空穂、1990)より歌、訳及び解説を引用する。

春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ
(この春日野の、公卿の家筋を暗示するおどろの路の、埋もれ水のごとく世に沈んでいる自分である。今はとにかく、せめて子孫なりとも、わが祈りの験[しるし]をもって、世に現わし栄達させ給え。「春日野」は春日神社を示し、自身も藤原氏でその神の末であることとを余情とした詞。「おどろ」は、草むらの甚だしいもので、「路」の状態とするとともに、公卿の位地を示す語。)(皇太后宮大夫俊成,窪田訳,1990,p.443)

子孫の出世を願う、切実ながらいささか世俗臭のする歌だと考えられるが、俊成は藤原北家の人で、萬子媛も藤原北家の花山院の出であるから、神のしるしどころか、文字通り祐徳稲荷神社の神様の一柱となられた萬子媛は子孫の栄達を祈った俊成の願いを最高に叶えた子孫といえるのではあるまいか。

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2017年12月16日 (土)

(書きかけ)歴史短編1のために #33 『断橋和尚年譜』に描かれた萬子媛②

師走の慌ただしさで、調べものをしていても気が急く。気が急くと、集中力が削がれ、現時点での本当に必要なこととそうでないことの区別が曖昧になり、余計なことをしてしまったりして、よけいに時間がかかることになる。

ここ数日、『断橋和尚年譜』の内容が気にかかり、気が急きながらもこれをノートしているため、とんでもない引用ミスや解釈ミスをしでかしてしまうかもしれない(このノートは素人の試行錯誤の創作のためのノートにすぎないので、参考にしないでください)。

ネットや漢和辞典での旧字体探しが半端ない~! 旧字体は文字化けしたりしそう。

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

の続きになる。

ごく簡単に復習すると、『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集=井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、発行=佐賀大学地域学歴史文化研究センター)所収『断橋和尚年譜』の執筆者は元徳大愚、執筆年は享保6年(1721)。

鍋島直朝の長男である断橋(直孝)は承応元年(1652)に生まれ、正徳5年(1715)に没している。

わたしがどうしても気にかかるのは、萬子媛(祐徳院)の死についてである。断食入定であったという確証がこれまでのところ黄檗禅寺の記録からは掴めていないからだ。

それを想わせる記述はあっても、短い、抽象的な書きかたで、神社の由緒記に明記されているようなはっきりとしたものではない。

『断橋和尚年譜』の記述に関しては、断橋が義母であった萬子媛を弔った詩を含めて、このあと見ていきたいが、前掲書所収『円福山普明禅寺創建事由略記』には、萬子媛の死が次のように記されている。書き下し文から引用する。

世寿八十歳、臨抹消頭[右宝永二乙酉年四月初十日]、平生の如くして帰寂(逝去)す。法骸は、院の乾(西北)丘巌阿に窆[ほうむ]り、扁して華蔵窟と曰う。故[ゆえ]を以て今、当院僧房と作[な]ると雖[いえど]も、永く大師を院の開基と尊崇する者なり[大師、曽臣家にに在る時、紅綃に製作されし官服乙具、并びに家系図等、院の宝庫に鎮蔵す]。 (『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』15頁)

萬子媛は平生の如くに逝去し、遺骸が葬られた窟には「華蔵窟」という横額が掲げられた。『断橋和尚年譜』には「不蔵顔」と掲げられたとある。

逝去後に遺骸が移されたように読めるが、凡庸な死にかたとは思えない表現である。

執筆年は延享五年(1748)、著作者は際祥聚海。

解説によると、『円福山普明禅寺創建事由略記』と『断橋和尚年譜』は昭和8年、21代鸞峰和尚によって合本された。「普明寺由緒、祐徳院関[と]じらるるに及び、記録・典章、寺院に殆ど絶ゆ。幸いに此のニ珍書有り、実[まこと]に是れ什宝[じゅうほう](宝物)なり」とあり、明治期の廃仏毀釈の爪痕を見る思いがする。

danger この記事は書きかけです。

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2017年12月11日 (月)

下調べに終わった萬子媛をモデルとした歴史小説の第二稿、しかし収穫は大きい

萬子媛をモデルとした歴史小説の第二稿は、下調べで終わった今年でした。

しかし、収穫は大きかったように思います。

現代感覚で、当時の人々の信仰心というものを考えていたときは何も見えてきませんでしたが、取材や史料漁り、また自身の神秘主義的な感性を通して見た世界は、現代感覚で描かれた歴史小説の世界とは別世界といえました。

萬子媛は文化形成に携わる専門家の家系――公家――の出ですが、当時の公家が経済的に困窮し、活躍の場のなさといった問題点を抱えていたとしても(以下の過去記事参照)、その役割の重要さや意識の高さには見るべきものがあると思います。

初の歴史小説 (39)後陽成天皇の憂鬱 ②猪熊事件の背景にある公家の境遇    
http://elder.tea-nifty.com/blog/2014/09/39-ea87.html

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、ノートからエッセーにまとめたものを公開しています(無造作なまとめかたではありますが)。

祐徳稲荷神社の創建者、鹿島藩主鍋島直朝公夫人萬子媛に興味のあるかたは、のぞいてみてください。

神秘主義的な捉え方を基調としたエッセーですが、わたしは宗教とは本来このようなものだと思っています。萬子媛について調べる過程で、その確信が強まりました。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/10/210502

71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355

72 祐徳稲荷神社参詣記(複数の取材) ③2017年6月8日
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

74 祐徳稲荷参詣記 ④神仏習合
http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/09/18/194428

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2017年11月29日 (水)

歴史短編1のために #32 『断橋和尚年譜』に描かれた萬子媛①

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集=井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、発行=佐賀大学地域学歴史文化研究センター)には21の著作が収められている。鍋島直條の著作とされている――署名には別人の名があるので、代筆によるものと思われる――『祐徳開山瑞顔大師行業記』もそのうちの一つだ。

その中に、『断橋和尚年譜』というのがあって、昨日これを読み、発見があった。

『断橋和尚年譜』の執筆者は元徳大愚、執筆年は享保6年(1721)。

原文は漢文で、書き下し文が添えられているのだが、わたしにはその書き下し文すら難しく感じられるため、そのうち『断橋和尚年譜』もちゃんと読まなければと思いつつ、放置してしまっていたのだった。

それが昨夜『断橋和尚年譜』を読み、なぜもっと早く読まなかったのだろうと思った。

断橋は、萬子の夫・直朝の長男で、後継として大名になった直條の兄に当たる。病弱だったために大名とならず、出家した。

『断橋和尚年譜』はこの断橋の小伝といってよい作品で、断橋の生き方自体に神秘主義者のわたしとしては興味深いものがある。

というのも、度々霊夢を見たと書かれていて、その内容に圧倒されるのである。何とも荘厳なのだ。わたしはまるで、神智学の文献を読んでいるような気がした。

断橋の夢には神仏習合のきらびやかさがあって、中にはお告げと思われるものもある。

しかし、断橋和尚は知的な人であったようで(黄檗禅がそうしたものでもあったのだろう)、夢には妄想の変形にすぎないものと神的なものとがあると解釈し、夢がどちらの性質のものであるかということを熟考して、見た夢について他人に語らなかったことも多かったようだ。

『断橋和尚年譜』中、萬子媛に関する記述は4箇所ある。瑞顔大師とあるのは萬子媛のことである。萬子媛の小伝『祐徳開山瑞顔大師行業記』に「大師、諱[いみな]は実麟[じつりん]、号は瑞顔[ずいがん]、洛陽(京都)の人なり」(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』72頁)とある。

注目したのは、1689年と1705年に萬子媛の誕生祝を行ったと記されている箇所だった。

1705年の場合は、「猛春十八日」に「耋齢(80歳)の誕を祝する」と書かれている。

旧暦では1月から3月までを春(猛春・仲春・季春)、4月から6月までを夏(孟夏・仲夏・季夏)、7月から9月までを秋(孟秋・仲秋・季秋)、10月から12月までを冬(猛冬・仲冬・季冬)とし、1月を睦月、正月、猛春、早緑月、太郎月、初空月などと称する。

旧暦1月18日に萬子媛の80歳を祝うパーティーが行われたのだろう。

そしてまた、「この歳の夏、大師、偶[たま]たま痾[やまい]染[うつ]りて起[た]たず。四月初十日を以て、畢[つい]に本院に帰寂す。全身を送り、石壁停傍の岩窟中に葬る」(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』92頁)と書かれているではないか。

この記述からすると、萬子媛は4月にたまたま伝染病に罹り、それが原因で亡くなって、亡骸を石壁停傍の岩窟中に葬ったように思わせられる。

しかし、祐徳稲荷神社の公式ウェブサイトの「石壁社[せきへきしゃ]・水鏡[みずかがみ]」の「ご祭神|萬子媛(祐徳院殿)」には、「齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました」<https://www.yutokusan.jp/sanpai/sekiheki.php>(2017年11月29日アクセス)とあり、他の史料や伝説の存在からも、萬子媛の断食入定はまず間違いのないところだろう。

黄檗宗の大本山・萬福寺(宝物館)への電話取材からも、断食入定が修行法の一つとして存在していたことが確認できている。(拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」中、「72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日(収穫ある複数の取材)」を参照されたい →ここ

元禄17年(1704)に直條によって著されたとされる『祐徳開山瑞顔大師行業記』には、萬子媛の断食入定に関連した次のような記述がある(書き下し文から引用する)。

大師、今[こん]歳[さい]、春秋[しゅんじゅう](年令)七十有九、自[みずか]ら残生の久しく存すべからざるを念(おも)う。乃[すなわ]ち(そこで)、院後の石壁亭の側に就[お]いて、自らの寿蔵(生前につくる墓)を造り、以[もっ]て百年の後に備う。この日、工竣[おわ]り、余にこれを視んことを請う。(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』73頁)

79歳になった萬子媛は自分が長くないことを悟り、断食入定の準備として、石壁と称されるあずまやの側に生前墓を築かせ、直條に視察を要請したのだ。

そして、翌年80歳の祝いを終えた後の閏4月に、断食入定を実行した。萬子媛は、最後の気力・体力を振り絞って大事業に挑まれたのだろう。

次のような経緯を経て、萬子媛の死は訪れたと思われる(前掲拙ブログ収録のエッセー 72 から引用する)。

萬子媛は寿蔵に入ったあと、水はお飲みになった可能性が高い。

毎日お経を唱え、水を飲んで、入寂のときまで……。

郷土史家・迎昭典氏が提供してくださった資料の中に『鹿島藩日記』からの抜粋があり、それには入寂を伝える様子が生々しく記されている。

鹿島藩日記抜粋  宝永二年(1705年)以下()内はすべて注書き
 閏四月十日

一 今夜五ツ時、祐徳院様御逝去之由、外記(岡村)へ、番助(田中)・石丸作左衛門より申来。

迎氏の解説によれば、祐徳院様(萬子媛)の入寂は、宝永2年(1705)閏4月10日(太陽暦にすれば宝永2年6月1日)のことだった。この年は4月が2回あり、閏4月の前に4月があったという。

『断橋和尚年譜』からわかったことは、義理の息子・断橋も萬子媛同様に、神秘主義的体験を持つ僧侶であったということである。

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2017年10月22日 (日)

「歴史短編1のために #31」に追加(メモ)。インターポット・アバター。

ノート31に加筆すべきだが、選挙に行き、そのまま家族で出かけるため、今日は時間がとれそうにない。追加したいことをざっとメモしておこう。

息子が送ってきてくれたお菓子の写真もアップしたい(ドイツのベルリンに出張だったのだが、お菓子はフィンランド空港で買ったとのこと。フィンランド航空を利用したため、フィンランドで乗り継ぎがあったとか)

今日はインターポットのキラポチできないかも。間に合わせたいのだけれど……何だかキラポチが家事の一つみたいになってしまった。小説をアップしておられるかたがあったり(リンクからブログにお邪魔して拝読している)、面白いつぶやきに出合ったりもし、勿論日々変化する庭や部屋を鑑賞することも結構楽しいのだ。

以下、メモ。

井上敏幸・中尾友香梨『文人大名鍋島直條の詩箋巻』(佐賀大学地域歴史文化センター、2014)によると、梅嶺、鳳岡、竹洞は直條にとって、黄檗禅、漢文学、漢詩文の師であったらしい。また次のように書かれている。

「直條の十五歳という年は、鹿島藩第四代藩主となることが決定し、人生の方向が定められた年であったと同時に、和歌・漢詩文・禅の道に邁進する文人大名の出発点であったことが確認できるのである。」

この引用はオンライン論文からだが、前に本を図書館から借りた。再度借りて熟読したい。

前掲書によると、兄格峰も、弟直條も度々大病にかかったという。弟以上に病弱だった兄は直朝の後継者(鹿島藩主)とはならず弟に譲り、自身は黄檗禅にあこがれ、仏道へ身を投ずることとなった。

直朝の息子たちは和歌・漢詩文・禅を好んだが、そこには萬子媛の大きな影響があったのではないかと思われる。そのこころざしは如何にも純粋であり、そのような清浄、自由な学術的雰囲気が萬子媛によって醸成されていたものと見ることができよう。

萬子媛がおなかを痛めた2人の子供はいずれも病死。義理の子供たちも病弱だったとあって、萬子媛は大変だっただろう。

高齢出産や長命だったことからして、萬子媛のほうは生涯を通じて強壮な人だったのかと思っていたのだが、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の記述によると、萬子媛自身も出家するまでは病弱だったようだ。特に子供たちを亡くしたあとの病気。『祐徳開山瑞顔大師行業記』から引用しておきたい。

後鳥羽院歌壇で活躍した3人の女性歌人――式子内親王、宮内卿、俊成卿女についてもう少し本から引用し、加筆しておきたい。

夭折歌人・宮内卿の透明感のある明晰な歌を読んでいると、わたしが詩人と呼んでいた亡くなった女友達の詩を連想する。

健保元年二月七日、四十三歳の俊成卿女は、出家して天王寺に参籠[さんろう]した(『明月記』)。けれどもこれは遁世の出家ではなく、夫通具への別れと独立の宣言であった(森本元子)。中世においては、夫存命中の妻の自由出家は婚姻の解消を意味し、出家によって世俗女性を縛る制約から放たれ、自由な立場を手に入れた。俊成卿女の出家はまさにこれにあたるものであろう。(田渕,2014,p202)

この文章の引用のあと、「萬子媛の場合も、夫存命中の出家であった。息子の急死がきっかけだったのだろうが、俊成卿女の出家のような意味合いも含まれていたのかもしれない」とわたしは書いたが、萬子媛の入った祐徳院が鹿島藩主・直條の経済的援助に頼っていたことは間違いない。

しかし、出家によって、どうやら重荷だったらしい親戚づき合い(『祐徳開山…』から引用)からは解放されただろうし、精神的な自由を手に入れて、自分の望む生きかたができたことには大きな意義があっただろう。

とはいえ、死後も大衆に仕えるという千手観音さまのような、わたしのような凡人にはとても考えられない険しい道を選択なさったわけだ……

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2017年10月21日 (土)

歴史短編1のために #31 扇面和歌を通して考察したこと①

何度も同じことを書くようだが、初めて当ブログにお見えになるかたもいらっしゃるので、萬子媛をご存じない方にためにざっと書いておくと……

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萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られている。

祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院であった。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は黄檗宗の禅寺で、萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となった。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。

1687年、式部朝清、21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。断食入定による死であった。

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神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(俊成卿女[しゅんぜいきょうじょ])の歌が揮毫されている。

実家である花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9(1696)年――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、俊成卿女の次の歌である。

梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

俊成卿女は藤原定家の姪だった。

田渕句美子『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今和歌集(角川選書536)』(KADOKAWA、2014)によると、平安末期から鴨倉初期に歌壇を先導した歌人が藤原俊成で、定家はその子、俊成卿女は孫娘に当たる。

俊成卿女は父の政治的不運により、祖父母に引きとられ、俊成夫妻の膝下[しっか]で定家らと共に育てられたという。しかし、定家と俊成卿女の間には確執が生じたようだ。前掲書に詳しく書かれている。

平安末期から鎌倉初期にかけて在位(1183 - 1198)した第82代後鳥羽天皇(1180生 - 1239崩御)は、院政時代に後鳥羽院歌壇を形成した。

その後鳥羽院の招きに応じ、活躍した女性歌人が、式子内親王[しきしないしんのう]、宮内卿[くないきょう]、俊成卿女だった。

それぞれに際立った個性があり、わたしは三人共好きだ。特に進取の気性に富んだ式子内親王の生きかたや歌には心惹かれる。

『異端の皇女と女房歌人』によると、式子には、禁忌を気にせず、加持祈祷を信じない一面があったらしい。式子は晩年三度も呪詛や託宣の事件に巻き込まれたというから、周辺のそうした傾向にうんざりしていたのかもしれない。

『新古今集』の歌は技巧的だというふうに、国語の授業でだか古文の授業でだか習った覚えがあった。だが、その意味をわたしはあまりわかっていなかったようだ。授業では、そこまで詳しくは習わなかった気もする。

前掲書『異端の皇女と女房歌人』によれば、作者自身の体験や感情を核とした平安時代までの和歌とは異なり、院政期からは宮廷和歌において、題詠歌が主流をなしたのだそうだ。

題詠とは、あらかじめ設定された題によって和歌を詠むことであり、題がそれぞれもっている本意(詠むべき主題)をふまえて、本意によって表現史的に様式化された美的観念を、虚構を土台に詠歌することである。(略)歌の作者は、いわばその詠歌主体の人物になりかわって、歌を詠む。物語の作者が、物語中の人物になりかわって歌を詠むことと、ある意味で似ている。(田渕,2014,pp.59-60)

それにしても、授業でも習った『新古今集』の中の式子の「玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする」という情熱的な歌が、「男歌=男性が詠歌主体の歌」だと論証されていると知って、驚いた。いわば、男装して詠まれた歌だという。

式子の恋歌には男歌が多いらしい。勿論、女歌もあるから、鑑賞する場合は二重、三重に注意が必要になる。

『異端の皇女と女房歌人』に、俊成卿女について興味深いことが書かれていた。

健保元年二月七日、四十三歳の俊成卿女は、出家して天王寺に参籠[さんろう]した(『明月記』)。けれどもこれは遁世の出家ではなく、夫通具への別れと独立の宣言であった(森本元子)。中世においては、夫存命中の妻の自由出家は婚姻の解消を意味し、出家によって世俗女性を縛る制約から放たれ、自由な立場を手に入れた。俊成卿女の出家はまさにこれにあたるものであろう。(田渕,2014,p202)

萬子媛の場合も、夫存命中の出家であった。息子の急死がきっかけだったのだろうが、俊成卿女の出家のような意味合いも含まれていたのかもしれない。いずれにせよ、萬子媛は俊成卿女の歌を愛したようだ。

また、俊成卿女は『源氏物語』の注釈・研究を行ったという。断片的に残っているその内容からすると、それは「非常に学術的・考証的な内容」であり、女房歌人というよりも古典学者のような相貌[そうぼう]を見せている」(田渕,2014,p216)

萬子媛も才媛であり、鍋島藩において、その影響には大きなものがあった。

俊成卿女は80余歳で没したとされる。萬子媛は80歳で、国の安泰を祈願して断食入定した。

定家も俊成卿女も藤原北家の人で、花山院家は藤原北家だから、萬子媛にとっては『新古今集』という存在そのものが望郷の念を誘うものだったのかもしれない。

そういえば、『源氏物語』を著した紫式部も藤原北家の人だった。

ウィキペディア「藤原北家」
右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。

ウィキペディアの執筆者. “藤原北家”. ウィキペディア日本語版. 2017-09-15. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6&oldid=65515383, (参照 2017-09-15).

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。

修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、萬子媛の亡くなりかたや『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述から考えると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったはずだ。

その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

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2017年9月17日 (日)

歴史短編1のために #30 神仏習合(加筆あり)

神秘主義エッセーブログに入れようと思って過去ノートに加筆したものですが、先にこちらにアップしておきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

数年前から、祐徳稲荷神社を創建した花山院萬子媛をモデルとした歴史小説に取り組んでいる。第一稿で粗描を試み、第二稿に入ったところだ。

萬子媛が入られた黄檗禅系祐徳院は、取材の結果、庵のような小規模の建物ではなく、もっと大きな建物だったと推測されるので、小説の冒頭部分は書き直さなければならない。

祐徳院は法泉寺と同じく普明寺の子院だったから、法泉寺くらいはあったのではないかと思う。普明寺は法泉寺の1.5倍くらいの大きさに見えた。

祐徳院の門には、普明寺の門のところにあったのと同じ「不許葷酒入山門(葷酒の山門に入るを許さず)」と記された碑があったであろう。

不許葷酒入山門とは、肉や生臭い野菜を食べたり酒を飲んだりした者は、修行の場に相応しくないので立ち入りを禁ずるという意味である。(→ウィキペディア「禁葷食」

萬子媛の義理の息子で、大名であった直條の執筆とされる『祐徳開山瑞顔大師行業記』(祐徳稲荷神社蔵)を読むと、祐徳院に所属する尼僧の外出、俗客の往来を許さず、その他の規則は大変厳しかった(森厳という言葉が使われている)とあるのが、碑文にぴったりくる。

そして、神事のほうも、滞りなく行われていたに違いない。江戸時代までの神仏習合は現代日本の神仏習合とは様相が違っていたのではないだろうかと考えて、それをどのように描けばいいのかわからず、わたしは何ヶ月も悶々としていた。

例えば、出家後の萬子媛は神事にどのように参加されていたのだろうか……と考えたとき、思い出したのは前に図書館から借りて読んだ『英彦山修験道絵巻』だった。

村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する著作である。絵巻が作られたのは有誉が座主のときであった。

有誉の母は花山院定好の娘――つまり、萬子媛の姉だったと思われる。萬子媛の兄弟姉妹については拙「マダムNの神秘主義的エッセー」 72 に書いている。

萬子媛の兄弟姉妹は、花山院家を継いだ定誠以外は、円利は禅寺へ、堯円は浄土真宗へ入って大僧正に。姉は英彦山座主に嫁ぎ、妹は臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。定誠、武家に嫁いだ萬子媛も結局は出家している。

絵巻に描かれた神事の情景の中に、神職の格好をした人や一般の参列者の他に僧侶姿の参列者の描かれていた記憶がある。

萬子媛と一緒に京都から下ってきたと想像される、萬子媛に仕えていたという尼僧が技芸神として祀られている(拙「マダムNの神秘主義的エッセー」 72  参照)ことから考えると、神事の際に行われる神楽舞の振り付けなどはその人が指導したのではないかとわたしは考えている。

神事のとき、萬子媛はどのような位置で、どのような行動をなさっていたのだろうか。

厄除け祈願をお願いしたときのことが参考になるだろうか?

これはあくまでわたしの神秘主義的感性が捉えた――内的鏡にほのかに映った――萬子媛をはじめとする、この世にあったときは尼僧であったと思われる方々の御祈願時の様子なのであるが、わたしはそうしたこの世ならざる方々が御神楽殿での御祈願時にそこへお見えになるとは想像もしていなかった。

そのときまで萬子媛のことしか念頭になく、御祈願のときにもし萬子媛をわたしの内的鏡が捉えることがあるとしたら前方に捉えるのではないかと想像していた。というのは、そのときに萬子媛の臨在があるとすれば、神主さんに寄り添うような形をとられるのではないかと漠然と想像していたからだった。

事実は違った。萬子媛をはじめとする尼僧の方々――生前は尼僧であったとわたしが推測する方々――は、御祈願を受けるわたしたち家族のすぐ背後に整然と並ばれたのであった。拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」収録の以下のエッセーを参照されたい。

45 祐徳稲荷神社参詣記 ①2012~2014年
71 祐徳稲荷神社参詣記 ②2016年6月15日
72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日

端然とした雰囲気の中にも、日ごろの馴染んだ行為であることが窺えるような、物柔らかな自然な感じがあり、整然と並ばれたといっても、軍隊式を連想させるような硬さは全くなかった。

わたしの内的鏡にほのかに映った美しい情景からは、江戸時代初期から中期かけて、神事というものがごく自然に仏事や日々の生活に溶け込んでいた様子が窺えた。神事も仏事もどちらもこよなく敬虔に、当たり前のこととして行われていたに違いない。

わたしがここでいう内的鏡とは、物質の鏡とは異なり、対象が生者であろうがこの世ならざる者であろうが、対象としたものの内面性や雰囲気を精緻に捉える鏡なのだ。姿は、ほの昏い湖面に映るかのような、ほのかに映る程度である。

オーラが時には肉眼で見えるどんな色彩よりも鮮明に生き生きとして見えるのとは、違う。オーラを見るときは肉眼で見るように見る。内的鏡で見るときは自らの心が鏡のようにも目のようにもなって、内的鏡を内的視力で見るという感じなのだ。

どちらも神秘主義的能力だと思うが、使い勝手(?)が異なる。神秘主義の文献によく鏡という表現が出てくるのを、なるほどと思うようになった。この内的鏡をいつごろからか、心が清澄であるときにごく自然に使っている自分に気づくことがある。

話が逸れたが、『梁塵秘抄』は平安時代末期に後白河院(1127生 - 1192没)によって編まれた歌謡集であるが、ここでは神事と仏事の習合が見られ、そこからは純粋というだけでなく、格調高いといえるような信仰心が汲みとれる。

江戸時代もおそらくそうで、明治時代に神仏分離令が出されるまで、そうしたところは変わらなかったのではないだろうか。

臼田勘五郎&新間進一 校注・訳『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集 日本古典文学大系』(小学館、1976初版、1989第14版)によると、『梁塵秘抄』は『梁塵秘抄二十巻後白河院勅撰』といい、20巻であったらしい。

20巻のうち、10巻が音律の秘伝や芸歴などを記した口伝集、残りの10巻が歌詞集であったそうだが、大半が失われてしまった。現存するのは巻第一断簡の長歌[ながうた]・小柳[こやなぎ]・今様と、巻第二の法文歌[ほうもんうた]・四句神歌[しくのかみうた]・二句神歌[にくのうみうた]である。

ただ、法文歌と四句神歌とで合計400首を超えるというから、それだけでも結構なボリュームだ。

ここで、前掲書『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集 日本古典文学大系』の『梁塵秘抄』から歌と訳を引用しておこう。

法文歌のうち最も有名なのは、格調高い響きを持つ次の歌だろう。

仏は常にいませども 現[うつつ]ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁[あかつき]に ほのかに夢に見えたまふ
 仏はお亡くなりになることなく常にいらっしゃるのだが、お姿を拝することができない。それが尊く思われる。しかし、人の物音のしない静かな暁には、かすかに夢の中にお姿を現わされる。臼田&新間 校注・訳,1989,pp.204-205

次の法文歌と神歌には同趣意の主張が含まれている。神仏と人の違いに萎縮するようなところは微塵もない。いずれは神仏に成る我が身、ならねばならない我が身との自覚があってこその矜持だろう。

仏は昔は人なりき われらも終[つひ]には仏なり 三身仏性[さんしんぶつしやう][ぐ]せる身と 知らざりけるこそあはれなれ
 仏も遠い昔にはわれらと同じ人であった。われらも最後には成仏することができるのだ。三身仏性を本来備えている身であると知らないで、仏道をなおざりにしているのが、悲しいことに思われる。臼田&新間 校注・訳,1989,pp.257-258

ちはやぶる神 神にましますものならば あはれと思[おぼ]しめせ 神も昔は人ぞかし
 (ちはやぶる)神よ、ほんとうに神でいらっしゃるならば、私の訴えをかわいそうだとお思いになってください。神も昔は人であられたのですよ。臼田&新間 校注・訳,1989,p.317

権現に直訴するかのような、迫力と切実さを感じさせる神歌もある。

花の都を振り捨てて くれくれ参るは朧[おぼろ]げか かつは権現[ごんげん]御覧[ごらん]ぜよ 青蓮[しやうれん]の眼[まなこ]をあざやかに
 花の都を振り捨てて、暗い気持で参詣するのは、なみたいていの志だろうか。権現[ごんげん]よ、一方では私の志をもよくよくごらんください。その青蓮[しようれん]の眼[まなこ]をかっと見開いて。臼田&新間 校注・訳,1989,p.266

次の神歌について「日吉山王[ひえさんのう]を舞台に、神仏習合思想の要約を巧みに歌謡化した感じ」と解説されているが、正にそんな趣の歌だ。

仏法弘[ひろ]むとて 天台麓[てんだいふもと]に迹[あと]を垂れおはします 光を和[やは]らげて塵[ちり]となし 東の宮とぞ斎[いは]はれおはします
 わが国に仏の教えをひろめようというので、この比叡山の麓に、釈迦如来[しやかによらい]以下の仏や菩薩[ぼさつ]たちが、二十一社の神々となり化現されて、鎮座しておられる。威光を隠して俗世に交わり、東方の尊い神社として、祀[まつ]られていらっしゃる。臼田&新間 校注・訳,1989,p.261

四句神歌のうち雑[ぞう](主として世俗的な民謡風の歌を集めたもの)に分類された次の歌は、最初に挙げた法文歌と並んで『梁塵秘抄』を代表する歌であり、解釈は様々あるようだが、清冽な信仰心が通奏低音となっているがゆえに、えもいわれぬ歌となっているのではないだろうか。

遊びをせんとや生[う]まれけむ 戯[たはぶれ]れせんとや生[む]まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺[ゆ]るがるれ
 遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのであろうか。それとも戯れをしようとして生まれてきたのであろうか。無心に遊んでいる子どもたちの声を聞いていると、自分の体までが自然と動き出すように思われる。臼田&新間 校注・訳,1989,p.293

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2017年8月 1日 (火)

鹿島おどりのおどり曲に出てくる祐徳稲荷神社

「72 祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日」を書くために当ブログの過去記事を読み返したところ、そこで紹介していた鹿島おどりの動画があったので、改めて歌詞を確認しました。

以下のブログで、鹿島おどりのおどり曲である鹿島一声浮立、鹿島小唄、鹿島節の歌詞が紹介されています(ライン以下の続きに転載させていただきました)。

  • 鹿島おどり Blog
    http://kashimaodori.blog72.fc2.com/

どのおどり曲にも祐徳稲荷神社が出てきます。「鹿島小唄」では二番に出てきます。

二.
響く鈴の音 燃え立つつつじ
朱塗まぶしい 祐徳さまの
登る石段 はずかしうれし
願いかのうて 二人づれ
肥前鹿島は縁どころ

どこか哀愁を帯びた鹿島小唄がわたしは好きですが、この二番の歌詞には祐徳稲荷神社が「祐徳さま」という畏敬と親しみを帯びた呼び名で登場します。

願掛けて恋が叶ったらしい初々しい男女の姿が、祐徳稲荷神社を背景にして映像的に表現されています。

「鹿島節」の作詞を手がけたのは、童謡作詞家として有名な野口雨情だったのですね。「鹿島節」では四番に祐徳稲荷神社が出てきます。

四.
運と福とを さづける神は ヤントコセ
アレヨ祐徳 イッチョ イッチョサ
アレヨ祐徳 サンサエ 稲荷さま ヨササノホーイ
ソコヤットン サラリコセー

鹿島おどりで最も盛り上がりを見せる「鹿島一声浮立」では、二番に祐徳稲荷神社が出てきます。

二.
福は授かる 祐徳稲荷
海は有明 海苔かおる

踊れや さあ踊れ
ハ ヤッサヤッサ ハ ヤッサヤッサヤッサヤッサ
一声浮立は よい踊りソレ よい踊りよい踊り
ハ ヤッサヤッサ ハ ヤッサヤッサヤッサ

祐徳稲荷神社が地元で如何に親しまれてきたかが、こうした歌詞からも窺えます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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2017年6月13日 (火)

萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺(法泉寺)に電話取材しました

8日、祐徳稲荷神社に参詣し、翌日、以下の記事を書きました。

動揺したことがあったために、すぐにはまとまった文章が書けなかったのですが、気持ちの整理もついたので、まとめにかかろうとしました。

が、まだわからないことがあり、電話で取材するのは失礼かもしれないと思いつつ、決行。萬福寺(黄檗宗・大本山)と普明寺・法泉寺に電話取材しました。

その結果、さらなる驚き、という以上の衝撃に見舞われました。今回の一連の取材を通して、廃仏毀釈の爪痕をまざまざと見たように感じたのでした。

黄檗宗で断食入定が行われていたのかどうかが知りたいと思い、いっそ大本山にお尋ねしてみようと思い、電話したのでした。ご回答いただいたのは、宝物館の和尚様でした。

電話するまでは、密教の影響で、萬子媛が断食入定を実行されたのではないかと考えていたのです。尤も、黄檗宗は密教の影響も受けているようですけれど、萬子媛の断食入定は特異な例ではないかと憶測していました。

黄檗宗でも行われていたようです。いつごろまで何人断食入定をしたのか(現代では法律上不可能です)、記録が残っているのかどうかを知りたかったのですが、はっきりと記録されているわけではないのかもしれません。何度か同じ質問をしたのですが、はぐらかされてしまいました。

黄檗宗は中国の明朝の仏教が日本に伝えられたものです。その明朝で、また日本でも行われていた過酷な修行法を伺いました。

例えば、手に包帯をぐるぐる巻きにしてそれに油をさし、火をつけ、それを燈明代わりに、お経を読むのだそうです。

ひ、とわたしは心の中で悲鳴を上げ、「火傷では済まない場合もあるのではありませんか?」というと、「そういえば、どこそこに指を燈明代わりにした坊さんがおったな……」と事もなげに萬福寺の和尚様。いつの時代のお話なのでしょうか、恐ろしくて聞けませんでした。

明朝では(日本でも?)、自らの血で仏画を描いたり、写経をしたりということも流行ったとか。

そして、断食入定はそうした過酷な修行法の一つと位置づけられていたようです。

穀類を断ち、水だけを飲んで、骨皮筋衛門になる――と和尚様はおっしゃいました――修行を木食[もくじき]入道というそうです。

そして山の斜面みたいなところに入って、「つまり生き埋めになるわけですわ。息だけはできるようにしてな」と和尚様。

「水は飲めるのでしょうか? 生き埋めになったあと」とわたし。飲めるそうです。毎日お経を読み、水を飲んで、入寂のときまで……。

と、ここまで萬福寺の和尚様から伺ったことをメモしました。

まだまとめる段階にはないので(写真を挿入しながらきちんとまとめたいと思っています)、忘れないうちに、とりあえずメモしておきます。

鹿島の祐徳稲荷神社に舞台を戻すと、博物館のかたに教わって見学した岩本社には、萬子媛に仕えた尼さんがお祀りしてあるというお話でした。技芸の神様だそうです。

ところで、わたしは過去記事で次のようなことを書きました。

2016年8月18日 (木)
歴史短編1のために #27 萬子媛遺愛の品々 ②入定について。印象的な御袈裟。
http://elder.tea-nifty.com/blog/2016/08/27-1e00.html

萬子媛があの世でボランティア集団を組織なさっているとわたしが想像するのは、参拝するたびに、萬子媛を囲むように一緒にいるあの世の大勢の方々を感じるからだ。
その大勢の方々というのは、萬子媛が禅院を主宰なさっていたときにそこに所属していた尼僧たちを中心とする方々ではないだろうか。
わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛にはどこか深窓の麗人のような趣があり、無垢で高雅で率直な高級霊の雰囲気が伝わってくる。
それに対して、萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性達の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性たちは生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧たちではないかとどうしても思えてくるのだ。
萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来たときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ。
何にしても、萬子媛の一番近くにいる女性は身辺の護衛でも司っていそうな、シャープな雰囲気のある女性なのだ。わたしの内的鏡にほのかに映った気がする程度のものなのだが、萬子媛の圧倒的な雰囲気とはまた別種の矜持と気品とがまぎれもなく感じられて、興味深い。

過去記事で出てくる萬子媛の近くに控える矜持を感じさせる女性的な存在が、岩本社に祀られている尼僧ではないかと想像したくなります。

時代も下って、鍋島藩の家臣の家に育ったと聞く母方の祖母ですら、鹿島にお嫁に来るとき――有名な軍人さんが仲人だったというから、それくらいの時代――には、3人の側に仕えていた人々と一緒にお嫁に来たと従姉がいっていたことから考えれば、萬子媛には当然そうした方々がいらっしゃって、一緒に京都から鹿島に下られたことは確かでしょう。

その尼僧が技芸の神様として祀られているということは、生前、その方面の指導で優れていたからではないでしょうか。こうしたことからも、京都から萬子媛と一緒に下ってきた人ではないかと思えます。

37歳で京都の花山院から肥前鹿島にお嫁に来られた萬子媛。萬子媛は1625年生まれですから、このとき1662年(寛文2年)。今は2017年。2017年−1662年=355年。

何と、355年も萬子媛に仕えていらっしゃるというわけです。

355年後つまり出家後も、さらには死んでからも、同じように萬子媛に仕えているのだとすれば、それは萬子媛が黄檗禅の、また霊的な分野における師匠あるいはリーダーとして理想的な存在であり続けているからでしょう。

この世でグループを形成した人々は、あの世でも同じグループに属することがあるようです。その逆もいえるでしょう。

尼僧に神格が与えられ、技芸の神様とされていることから考えると、神社での祭事を連想させられます。明治の廃仏毀釈までは、仏事と神事がどちらも怠りなく行われていたということではないでしょうか。

岩本社を見学した後、普明寺を見学しました。案内図も撮ってきたので、まとめには挿入します。

普明寺は鍋島直朝公の長男である断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳明幢禅師が開山となり創建されたお寺です。

寺域全体を竜に見立てて建物や施設が配置されているとか。相当に奥行きのある敷地には草木が生い茂っていて、竹林などもあり、石仏が沢山あって、建物も立派でした。

ただ全体が自然に抱かれすぎているというか、率直にいえば、苔むして荒れていました。鹿島市は田舎ですが、祐徳稲荷神社のすぐ近くにあれほどの自然が手つかずで存在しているとは想像もしませんでした。

普明寺も、同じ敷地内の手前のほうにある普明寺の子院である法泉寺も、廃寺のように見えました。

でも、電話で萬福寺の和尚様はおっしゃいました。「普明寺に、去年の夏にお経をあげに行ったがよ」

(あの物凄いところへ?)と、失礼ながら思ってしまいました。江戸時代にはさぞ威容を誇ったであろう普明寺の背後が墓地になっているようですが、藪蚊が凄くて、そこへは行きませんでした。

でも、あそこにいた間、もう日が落ちかけて、爽やかな風が強く吹いていたので、すばらしい散策ともなりました。風が静まると、藪蚊がとまりに来るので、とまっているところを何匹か退治したり退治し損なったりしました。

それなのに、車に戻って体を調べてみると、一箇所も蚊に刺されていませんでした。夫も娘もそうでした。この時期の藪蚊は血を吸わないのでしょうか。

もしかしたら、萬子媛のお墓が神社の石壁社とは別に普明寺にあるのかもしれないと思いつつ、帰途についたのでした。

萬福寺の和尚様は、わたしが調査しているようなことに詳しいかたを何人か教えてくださいました。そのうちのお一人のご著書は読んだことがありました。

しかし、「総合的に知っている人はいない。佐賀も殿さんが沢山、黄檗の寺院を作った。祐徳稲荷もそうじゃが」と和尚様。

「普明寺は、相当に苔むしているように見えました。綺麗になれば、一般人も行きやすくなると思いますけれど」と磊落な和尚様の雰囲気に甘えて、ついいってしまうと、「あんたが、あんたが人のため、世のため。自分がやるか、やらないかをいうことに価値がある」と和尚様。

「わたしは黄檗宗の僧侶として断食入定を遂げられた祐徳院様に魅せられ、黄檗宗について知りたいと思いました。いろいろと教えていただいて、ありがとうございました」といいました。

法泉寺に電話したのは、田中保善『鹿島市史 真実の記録』(田中保善、1990)に、次のような記述があったからでした。

祐徳院と稲荷社は世間の信仰を集め、御霊験あらたかで有名になり参詣人も多く興盛になったが、明治を迎えて神仏混淆のお寺は明治政府の『神仏判然令』により神仏を分離して廃仏毀釈が実施されるようになった。ここでは仏像や仏具一切を普明寺に移して神社のみとした。普明寺では仏像仏具類は完備しており、普明寺の末寺の法泉寺に祐徳院の寺の物を全部移して現在大切に保管している。(田中,1990,pp.151-152)

祐徳博物館の職員は「祐徳院にあった物は普明寺に移されたということのようですよ」とおっしゃいました。前述したように普明寺も法泉寺も同じ敷地内にあり、法泉寺は普明寺の子院なのです。

しかし、法泉寺に電話でお尋ねしたところでは、禅寺だった祐徳院の物は何一つないというお話でした。萬子媛のお墓もないそうです。

「ここは藩主の菩提寺で、藩主と正室のかたしかお墓はありません。祐徳院様は後室なので、ここにはないのです」とのことでした。以下のオンライン論文にも、そのようなことが書かれています。

高橋研一(鹿島市民図書館 学芸員)「鍋島直彬の先祖史蹟顕彰事業 ~先祖の史蹟を訪ねた直彬」<http://kcc.lolipop.jp/_src/sc1250/82d382e982b382c692t96k8du8989985e81i8dc58fi81j.pdf>(2017/6/13アクセス)

他の大名家のお墓をきちんと調べていかなければなりませんが、夫婦が対になった墓所の配置は鍋島家の特徴的な墓の作り方といえるかもしれません」とも書かれています。

同じ正室であっても、先に嫁いだ正室だけが藩主と同じ墓地に眠る権利があったということのようですね。

そして、前掲論文の次のような記述に胸を打たれました。

普明寺の場合、菩提寺だったので非常に多くの子院が建てられています。当時の景観で言うと、ここから祐徳稲荷神社まで山伝いに子院がつながっていました。祐徳稲荷神社の前身も元々は祐徳院といって、普明寺の子院でした。

どんなに壮観だったことでしょう!

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