カテゴリー「瀕死の児童文学界」の72件の記事

2018年7月25日 (水)

余華の対談(「三田文學」2018年冬季号)。拙児童小説『すみれ色の帽子』を読んだ従姉の感想。

従姉から電話があった数日後、わたしはアマゾンのサービスで電子書籍にしたKindle版の児童小説をプリントアウトして送りました(以下の過去記事参照)。

2018年7月 5日 (木)
悪質な自費出版系ビジネスと、餌食になりかけた従姉の児童書に対する失望感
http://elder.tea-nifty.com/blog/2018/07/post-9c6e.html

PDF形式でプリントアウトしたら、分厚くなりました。なぜ、そんなものを送ったかというと、従姉が失望してしまった児童書がどんなものであったのか詳細は聞いていませんが、想像がつきました。そうしたものと同類の作品を書いていると思われたくなかったからです。

そんなわたしの作品には賛否両論寄せられます。自分では同類とは思っていないのですが、従姉は同類と思うかもしれませんでした。

同類だとしたら、世間的にはわたしはプロ作家並みの児童小説を書いているということになるでしょう。従姉が誉めてくれるとすれば、わたしは世には出られない自身の境遇を納得することになるのです。

昔からわたしの作品に関心を示してくれる唯一の人が、この従姉でした。従姉はわたし宛の葉書に次のように書いてきました。

‟すみれ色の帽子”一気に読みました。瞳ちゃんとK…ちゃん(※瞳は主人公。K…ちゃんは従姉の孫娘)がオーバーラップして、Nちゃん(※わたしのこと)、K…ちゃんのことしっているのかなと思う位! 文章が綺麗で、読んだ後、心の中が澄み切ったようでした。他の本も楽しみです。

作品が従姉に嫌われなくてよかった、とホッとしました。出版の件は後日報告とあったので、従姉の息子さんと知人の女性で制作された絵本は出版の運びとなるのかもしれません。良心的な出版社から出してほしいものです。

出版する場合、数社に見積もりを出して貰い、比較して決めることを電話では従姉にすすめました。文学仲間はそうしています。

自費出版は髙い買い物になるので、最低5年くらいは試行錯誤を重ねてよいものへと作品を高めていき、それから出版しても遅くないような気がしますが、思い立ったが吉日ともいいますから、外野からあれこれ干渉すべきことではないと考えます。

わたしもそろそろ紙の本を出したいけれど、一生出すことはないままに終わるでしょうね。幸い只で出せる電子書籍サービスがありますし、何より神秘主義者ですので、世に知られることがないままに終わったとしても、創作を通して、きよらかな、澄んだ思いを発散させることだけでも、意義のあることだと知っています。

神秘主義者としてもう一つわかっていることは、文学、つまり芸術は、宗教的修行と同じ求道の道だということです。

その道を歩きながら神秘主義的ないくらかの霊的能力はわたしに目覚めてきたものであって、それは決して霊媒的な低級能力、先祖返りの能力ではないと感じています。その道をしっかり歩いている限りにおいては、安全性の高い道であると確信します。

ただ、霊媒的な低級能力、いわゆる左手の道へと逸れてしまう危険性は宗教的修行の場合と同じく芸術活動にもあって――否、普通に生きているつもりの人々にもその危険性は人間である限りつき纏うものでしょうが――、その危険性をわたしが現実のものとして感じたのは賞狙いに没頭していたときでした。

それについては、統合失調症を患う天才型詩人を友人の目で描いた拙日記体小説『詩人の死』(Kindle版)に書きました。

 神秘主義ではよく知られていることだが、霊的に敏感になると、他の生きものの内面的な声(思い)をキャッチしてしまうことがある。人間や動物に限定されたものではない。時には、妖精、妖怪、眷族などという名で呼ばれてきたような、肉眼では見えない生きものの思いも。精神状態が澄明であれば、その発信元の正体が正しくわかるし、自我をコントロールする能力が備わっていれば、不必要なものは感じずに済む。
 普段は、自然にコントロールできているわたしでも、文学賞の応募作品のことで頭がいっぱいになっていたときに、恐ろしいというか、愚かしい体験をしたことがあった。賞に対する期待で狂わんばかりになったわたしは雑念でいっぱいになり、自分で自分の雑念をキャッチするようになってしまったのだった。
 普段であれば、自分の内面の声(思い)と、外部からやってくる声(思い)を混同することはない。例えば、わたしの作品を読んで何か感じてくれている人がいる場合、その思いが強ければ(あるいはわたしと波長が合いやすければ)、どれほど距離を隔てていようが、その声は映像に似た雰囲気を伴って瞬時にわたしの元に届く。わたしはハッとするが、参考程度に留めておく。ところが、雑念でいっぱいになると、わたしは雑念でできた繭に籠もったような状態になり、その繭が外部の声をキャッチするのを妨げる。それどころか、自身の内面の声を、外部からやってきた声と勘違いするようになるのだ。
 賞というものは、世に出る可能性への期待を高めてくれる魅力的な存在である。それだけに、心構えが甘ければ、それは擬似ギャンブルとなり、人を気違いに似た存在にしてしまう危険性を秘めていると思う。
 酔っぱらうことや恋愛も、同様の高度な雑念状態を作り出すという点で、いささか危険なシロモノだと思われる。恋愛は高尚な性質を伴うこともあるから、だめとはいえないものだろうけれど。アルコールは、大方の神秘主義文献では禁じられている。
 わたしは専門家ではないから、統合失調症について、詳しいことはわからない。が、神秘主義的観点から推測できることもある。
 賞への期待で狂わんばかりになったときのわたしと、妄想でいっぱいになり、現実と妄想の区別がつかなくなったときの詔子さんは、構造的に似ている。そんなときの彼女は妄想という繭に籠もっている状態にあり、外部からの働きかけが届かなくなっている。彼女は自らの妄想を通して全てを見る。そうなると、妄想は雪だるま式に膨れ上がって、混乱が混乱を呼び、悪循環を作り上げてしまうのだ。
*

*直塚万季『詩人の死』Kindle版、2013年、ASIN: B00C9F6KZI

ところで、わたしは今年還暦という年齢になりましたが、二十代で竜王文庫の書物を通してブラヴァツキーの近代神智学を知りました。

創作を通してハートの力を育み、不勉強な一会員ですけれど、竜王会、神智学協会ニッポンロッジから出ている機関誌や書物を読むことによって総合力、分析力を培おうと自分なりに努力を続けてきました。

そうした道の歩みの中で、いわば霊的な次元で何かを察知することは珍しくありませんが、江戸初期に生まれ、江戸中期にさしかかるころに黄檗宗の僧侶として亡くなった――祐徳院と生前から慕われ続けてきた――萬子媛のようなかたに巡り合うことができたのは、めったにない貴重な体験であると思っています。

萬子媛について知ろうとすることは日本の宗教史を深く覗き見ることでもありました。萬子媛は日本の宗教史に咲いた一輪の香り高い花であるとわたしは見ています。

萬子媛をモデルとした小説の第二稿に入りましたが、計画が思うように進まず、おのれの非力を感じざるをえません。それでも、時間はかかってもこれは自分がやり遂げるしかない仕事だと思い、今後、集中度を高めていきたいと考えています。

萬子媛が帰依した黄檗宗(禅宗の一派)は、日本に招請された明朝の禅僧、隠元隆琦によって開かれました。隠元は明朝の文化、文物を伝え、煎茶道の開祖ともされています。

古来、この例からもわかるように、わが国には中国から優れた文化、文物が伝えられてきました。しかし、現在の中国をメディアを通して見るとき、これはどうしたことだろうとわたしは絶望的な気持ちに囚われます。

でも、動画で法輪功の舞台を視聴したとき、中国本来の――といういいかたは語弊があるかもしれませんが――歴史が甦るような感動を覚えました。

2015年6月11日 (木)
失われたと思っていた中国五千年の芳香 ①弾圧される人々
http://elder.tea-nifty.com/blog/2015/06/post-c356.html

また、現代の中国人作家、余華の対談を「三田文學(第97巻 第132号 冬季号)」(関根謙編集、2018年2月)で読み、日本の純文学が衰退しているこのときに、中国に生まれて育った中国人作家、それでいながら中共色に染まっていない余華という人物が作家らしさを好ましく発散していることに驚きを覚えました。中国における文学状況がどのように推移したかもわかる、貴重な対談となっています。

恥ずかしながら、中共のいわゆる御用作家ではない余華のような中国の現代作家をわたしは知りませんでした。対談の中で印象的だった余華の言葉を引用します。

<ここから引用>
かつて日本の記者に、川端康成が私の一人目の先生だと言ったら、彼らは大いに驚きました。私の小説と川端康成のそれとの違いが大き過ぎると言うのです。確かにそうですよね。そのとき彼らに比喩の話をしました。一人の作家が別の作家に影響を与えるのは、日光が樹木に影響を与えるようなものです。樹木は日光の影響を受けて成長するとき、樹木のスタイルで成長します。日光のスタイルで成長するわけではありません。(306頁)
<ここまで引用>

図書館から余華のエッセー集と小説、そして台湾の現代作家である甘耀明の小説を借りました。読まなければならない本が沢山あるので、読む時間がとれるかどうかはわかりませんが、読んだら感想を書きたいと思っています。

ほんとうの中国の話をしよう
余 華 (著), 飯塚 容 (翻訳)
出版社: 河出書房新社 (2012/10/13)
言語: 日本語
ISBN-10: 4309206077
ISBN-13: 978-4309206073

中国では書けない中国の話
余華 (著), 飯塚容 (翻訳)
出版社: 河出書房新社 (2017/8/22)
ISBN-10: 4309207324
ISBN-13: 978-4309207322

活きる
余 華 (著, 原著), 飯塚 容 (翻訳)
出版社: 角川書店 (2002/03)
ISBN-10: 4047914118
ISBN-13: 978-4047914117

神秘列車 (エクス・リブリス)
甘耀明 (著), 白水 紀子 (翻訳)
出版社: 白水社 (2015/6/24)
ISBN-10: 4560090408
ISBN-13: 978-4560090404

鬼殺し(上) (エクス・リブリス)
甘耀明 (著), 白水 紀子 (翻訳)
出版社: 白水社 (2016/12/28)
ISBN-10: 4560090483
ISBN-13: 978-4560090480

鬼殺し(下) (エクス・リブリス)
甘耀明 (著), 白水 紀子 (翻訳)
出版社: 白水社 (2016/12/28)
ISBN-10: 4560090491
ISBN-13: 978-4560090497

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2018年7月 5日 (木)

悪質な自費出版系ビジネスと、餌食になりかけた従姉の児童書に対する失望感

東京在住の従姉から、相談の電話がかかってきました。従姉といっても、年が離れていて、彼女はしっかり高齢の域です。

従姉の四十代の息子さん――わたしからすれば従甥――が絵心のある知人の女性と組んで、絵本を作り、それを新聞の広告で見た賞に応募したというのです。従姉の声は明るく、弾んでいました。

息子さんが趣味でイラストを描いているという話を聞いたことはありましたが、童話を書くと聞いたことはなかったので、ビギナーズラックだろうかと多才さに呆れる思いで、「わあ、すごいじゃない。入賞したのね」というと、「ううん、そういうわけではないんだけれど、それがねNちゃん……」と従姉が話し出したので、悪い予感がしたところ、案の定でした。

悪質な自費出版ビジネスのまさに餌食となる寸前のところで、運よく、彼女はわたしに電話をかけてきたのでした。

以前、2人――1人は大学時代の女友達、もう1人は別の大学時代の女友達の兄君――がわたしの周辺で、餌食になっていました。それを知ったのは、餌食になった後でした。

息子さんは絵本、女友達も絵本、兄君は美術評論です。

息子さんは、落選した作品の感想を聞きたいと思って、賞を開催した出版社に電話をかけたとか。

このことだけでも、一般的な賞ではありえない展開です。「応募要項、選考過程に関する問い合わせには応じない」と明記されているのが普通だからです。

従姉もその息子さんも、上品な人たちです。主催者側から何の働きかけもないのに、自分のほうから積極的に――あるいは厚かましく――電話して落選理由を聞くなど、ちょっと考えられません。

問題の出版社のオフィシャルサイトへ行き、賞の募集要項を見ると、前掲の記述があるではありませんか。

しかし、その次の箇所に、応募者には有料出版の提案をさせていただく場合があると明記されています。

もう一度従姉に尋ねなければ詳細はわかりませんが、落選通知に応募者側から電話をかけたくなるような何かが書かれていたのではないかと憶測したくなります。

息子さんは出版社へ出かけて行き(おそらく交通費は自費でしょうね)、2時間話したということです。

出版社側は息子さんの才能を称賛し、将来的な成功を匂わせたようです。

そして、出版社からの提案は1,000部の自費出版、それにかかる費用は出血大サービス(?)で170万円とのことです。

全く、人を馬鹿にした話ではありませんか。それほど見どころのある優れた作品であれば、なぜ受賞対象とならなかったのでしょうか。そんなお宝の持主の許へ、なぜ編集者は自ら馳せ参じないのでしょうか。

大金を奪われることになるかもしれない危ない話にうぶな一般人がつい釣られてしまいそうになるのは、結婚詐欺と似た手口で、よい気持ちにさせられるからでしょうし、またマルチ商法と似た手口で、投資的な利益を予想――実際には妄想――させられるからでしょう。

文学の世界で――一向に勝ち目のない――現実的な戦いを強いられてきたわたしたち作家の卵は、そんなうまい話が転がっているはずがないことを熟知しています。幸か不幸か、文学界の裏側まで、かなり見透せるだけの神通力を身につけるに至っています。

こんな詐欺まがいの商売がいつまでも、いつまでも通用するのは法的不備に原因があるのでしょうか、文学界の衰退にこそ、その原因を求めるべきでしょうか。

息子さんは障害者や引きこもりのいるクラスを受け持つ高校教師として、寝る時間をも削って18年間奮闘してきたとか。障害を持つ生徒さんを武蔵野美大、多摩美大に合格させ、そのときだけは報われた思いを味わったのだとか。

ところが、学校の考えかたが変わり、息子さんはその方針転換に疑問を覚え、心身の疲労が溜まって、遂に退職、入院してしまいました。

そして療養を経て再就職の準備をしているのだそうですが、その合間に可愛い姪のために童話を書いたのだそうです。おそらく、本当に純粋な気持ちで初創作したのでしょう。

従姉がいうには、その孫――息子さんにとっては姪、わたしにとっては従姪孫――のために書店に本を探しに行くのだけれど、そこに置かれている沢山の児童書に全く感心できないのだそうです。

「もう、本当になぜ、こんな……」と従姉はいいながら絶句するのです。従姉も絵心のある人ですから、書店が安っぽい挿絵のついた三文児童小説に溢れかえって見えたのでしょう。

「まだ、うちの息子の作品のほうがましに思えたのよ」と従姉。従姉が息子さんに応募を勧めたのかもしれません。

息子さんは出版など考えたこともなかったとのことですが、出版社の提案が高額な自費出版であったにも拘わらず、迷いが生じ、わたしに訊いてみてくれないかと従姉にいったのだとか。

出版対象が絵本ですから、よいものであれば、この金額でも高いとはいえないのかもしれません。問題は、息子さんが自分では出版を考えてもいなかったのに、その気にさせられたというこの一点に尽きます。

従姉と息子さんが出版とはこんなものかもしれないと勘違いしている証拠には、この時点では従姉の声には翳りがなく、澄んだ雰囲気を湛えていました。

「チャンスの神は前髪しかない」という諺があります。息子さんは、チャンスの神の前髪を掴むべきかどうかで、迷っていたと思われます。

「そこは悪名高い自費出版系出版社だから、そこから出すのはやめておいたほうがいいと思う。自費出版するとしたら、何社かに見積もりを出して貰って、比較したほうがいいわね」というと、従姉の雰囲気の翳るのが伝わってきました。

弱り目に祟り目というべき出来事ですが、わたしが知り得た問題の出版社の情報を伝えなければ、従姉も息子さんも、挿絵を描いてくれた女性も、現実的な被害を被る可能性があります。

「ネットで検索してみて。作品は、今は大事にとっておいたほうがいいんじゃないかな。再就職が決まって気持ちにゆとりができてから、出版のことは考えても遅いということはないと思うのよ」とわたし。

そういいながら、動悸がしてきました。わたしには心臓弁膜症、不整脈、冠攣縮性狭心症の持病がありますが、案外感情の起伏が不整脈や冠攣縮性狭心症の発作を招くことは少ないのです。

気温の差や疲労が最も影響します。ですが、このところ、暑くなって心臓のポンプ機能が低下気味なのか、足やおなかが腫れぼったく、尿が出にくいという症状があったところへ、大腸がんのステージ3で症状は安定しているという幼馴染みに電話して、相変わらずのホスピス志向と自分勝手な解釈――亡くなった母親が寂しがって呼んでいるという思い込み――を聞かされているときに、ふいに動悸がしてきました。

そのあと胸が苦しくなったのでニトロを舌下し、従姉たちのことを考えてまた動悸がしてきたので、従姉はまだ何か話したそうでしたが、時間がない風を装ってこちらから電話を切りました。

ここ数日でニトロペンの使用量が5錠。ちょっと使いすぎですね。でも、ニトロで心臓が元気になることは確かです。

電話を切る前に、息子さんの作品を読みたいとわたしは従姉におねだりしました。そして、わたしも自作の児童小説を送ることにしました。昔から、わたしを応援してくれる唯一の人がこの従姉なのです。

今日、PDF形式でプリントアウトしたのは、電子書籍にしている作品――すみれ色の帽子、田中さんちにやってきたペガサス、マドレーヌとわたし、ぬけ出した木馬、ぼくが病院で見た夢、卵の正体――です。分厚くなってしまい、レターパックには入りきりません。

『田中さんちにやってきたペガサス』は作曲家志望の父親とその息子を中心にした児童小説ですが、従姉の娘さん――息子さんの妹です――は国立[くにたち]音大(作曲)を出て、音楽教室に勤めています。もし、娘さんが読むと、音楽に無知な、お馬鹿なことを書いているかもしれません。

従姉に送る拙児童小説には、おすすめの児童書についての手紙も添えようと思います。

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2017年12月27日 (水)

ホラーさながらの文学コンクール

ある絵本コンクールの応募要項を怖いと思うのは、わたしだけだろうか?

「応募者は著作人格権を行使しないことを前提とします」だなんて。

一身専属の権利であり、譲渡できない権利であるために、「著作者人格権は行使しない」旨の条項を設けておくことが他の分野などでも流行っているようで、これだけでも充分に怖いのに、ホラーさながらなのはその対象が受賞者ではなく、応募者となっているところだ。

足を踏み入れたが最後、数名の受賞者以外は娑婆に戻ってこられる者(作品)はいない。あらかじめ人権(著作人格権)は剥ぎ取られているのだから、戻ってこられない者(作品)がそこで人間(作品)らしい扱いを受けられる望みはない。

純文学系新人賞の募集要項に「他の新人賞に応募したものは対象外とする」とあるのも立派なホラーだ。

「他の新人賞を受賞したものは」ということではない。

一度でもどこかにチャレンジして落ちたら、もうその作品はどこにも出せないのだから、裏では既に決まっていることも多い新人賞のどこかに出したが最後ということだ。

奴隷売買人に似た非情さを持ち、簡単に我が子を捨てる親に似た無責任さを持ち合わせなければ、現代日本ではもはや作家を志すことはできなくなったということである。

そうやって勤しむ行為は、芸術に属する文学活動などとは到底いえず、穴を掘っては埋める作業に等しい苦役にすぎない。

こうした規定に、純粋に文学を愛し精進している作家の卵潰し以外のどんな目的があるのか、わたしにはさっぱりわからない。

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2017年10月12日 (木)

メーテルリンク『青い鳥』の罪な象徴性について

拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、ノーベル文学賞作家モーリス・メーテルリンクについて書いた。

ブラヴァツキーの神智学を批判したメーテルリンクの文章を考察することで、メーテルリンクの思想の一端が明らかとなったように思う。

わたしが前掲エッセーで採り上げたのは復刻版『マーテルリンク全集――第二巻』(鷲尾浩訳、本の友社、1989)の中の「死後の生活」で、1913年にこの作品が刊行された翌年の1914年、メーテルリンクの全著作がカトリック禁書目録に指定された(禁書目録は1966年に廃止されている)。

「死後の生活」を読んだ限りでは、メーテルリンクが神智学的思考法や哲学体系に精通していたようにはとても思えなかった。

上手く理解できないまま、恣意的に拾い読みして自己流の解釈や意味づけを行ったにすぎないような印象を受けた。一方、SPR(心霊現象研究協会)の説には共鳴していた節が窺えた。

『青い鳥』は、1908年に発表されたメーテルリンクの戯曲である。メーテルリンクは1911年にノーベル文学賞を受賞した。

わたしは子供向けに書き直されたものしか読んだことがなかったので、改めてメーテルリンク(堀口大學訳)『青い鳥』(新潮社、1960年初版、2006年改版)を読んだ。

『青い鳥』は、貧しい木こりの家に生まれた兄チルチルと妹ミチルが、妖女ベリリウンヌに頼まれた青い鳥を、お供を連れて探す旅に出るという夢物語である。

妖女の娘が病気で、その娘のために青い鳥が必要なのだという。

兄妹は、思い出の国、夜の御殿、森、墓地、幸福の花園、未来の王国を訪れる。見つけた青い鳥はどれも、すぐに死んでしまったり、変色したりする。

一年もの長旅のあと、兄妹が家に戻ったところで、二人は目覚める。

妖女にそっくりなお隣のおばあさんベルランゴーが、病気の娘がほしがるチルチルの鳥を求めてやってくる。

あの鳥いらないんでしょう。もう見向きもしないじゃないの。ところがあのお子さんはずっと前からあれをしきりに欲しがっていらっしゃるんだよ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)と母親にいわれてチルチルが鳥籠を見ると、キジバトは青くなりかけていて(まだ完全には青くない)、青い鳥はここにいたんだなと思う。

チルチルには、家の中も森も以前とは違って綺麗に見える。そこへ元気になった娘が青い鳥を抱いてやってきて、チルチルと二人で餌をやろうとまごまごしているうちに、青い鳥は逃げてしまった……

ファンタスティックな趣向を凝らしてあるが、作品に描かれた世界は、神秘主義的な世界観とはほとんど接点がない。

登場する妖精たちは作者独自の描きかたである。

これまで人間から被害を被ってきた木と動物たちが登場し、兄妹の飼いネコは人間の横暴に立ち向かう革命家として描かれている。ネコは狡い性格の持ち主である。

それに対立する立場として飼いイヌが描かれており、「おれは神に対して、一番すぐれた、一番偉大なものに対して忠誠を誓うんだ」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)という。イヌにはいくらか間の抜けたところがある。

木と動物たちがチルチル・ミチル兄妹の殺害を企む場面は、子供向けに上演されることも珍しくない作品にしては異様なまでに長く、具体的で、生々しい。

木と動物たちの話し合いには、革命の計画というよりは、単なる集団リンチの企みといったほうがよいような陰湿な雰囲気がある。

チルチルはナイフを振り回しながら妹をかばう。そして、頭と手を負傷し、イヌは前足と歯を2本折られる。

新約聖書に出てくる人物で、裏切り者を象徴する言葉となっているユダという言葉が、ネコ革命派(「ひきょうもの。間抜け、裏切り者。謀叛人。あほう。ユダ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.125)からも、イヌ(「この裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.114)とチルチル(「裏切り者のユダめ」メーテルリンク,堀口訳,2006,p.123)の口からも発せられる。

危ないところで光が登場し、帽子のダイヤモンドを回すようにとチルチルを促がす。チルチルがそうすると、森は元の静寂に返る。

人間は、この世ではたったひとりで万物に立ち向かってるんだということが、よくわかったでしょう」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.127)という光の言葉は、如何にも西洋的な感じがする。

『青い鳥』の世界をキリスト教的世界と仮定すると、『青い鳥』の世界を出現させた妖女ベリリウンヌは神、妖女から次のような任務を与えられる光は定めし天使かイエス・キリスト、あるいは法王といったところだろうか。

さあ、出かける時刻だよ。「光」を引率者に決めたからね。みんなわたしだと思って「光」のいうことをきかなければならないよ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.53)

ただ、『青い鳥』の世界は第一にチルチルとミチルが見た夢の世界として描かれているということもあって、そこまで厳密な象徴性や構成を持ってはいない。

そこには作者が意図した部分と、作者の哲学による世界観の混乱とが混じっているようにわたしには思われた。その混乱については、前掲のエッセー 63 で触れた。

結末にも希望がない。

自分の家に生まれてくることになる未来の弟に、チルチルとミチルは「未来の王国」で会う。その子は「猩紅熱と百日咳とはしか」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.196)という三つもの病気を持ってくることになっている。そして死んでしまうのだという。

既に両親は、男の子3人と女の子4人を亡くしている。母親はチルチルとミチルの夢の話に異常なものを感じ、それが子供たちの死の前兆ではないかと怯える場面がこのあと出てくるというのに、またしてもだ。

新たに生まれてくる男の子は、病気のみを手土産に生まれてきて死ぬ運命にあるのだ。

このことから推測すると、最後のチルチルの台詞「どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ほくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.236)は意味深長だ。

今は必要のない青い鳥だが、やがて生まれてくる弟の病気を治すためにそれを必要とするようになるかもしれないという暗示ではないだろうか。

結局、青い鳥が何を象徴しているのかがわたしには不明であるし、それほどの象徴性が籠められているようには思えない青い鳥に執着し依存するチルチルの精神状態が心配になる。

ちなみに、青い鳥を必要とした、お隣のおばあさんの娘の病気は、神経のやまいであった。

医者は神経のやまいだっていうんですが、それにしても、わたしはあの子の病気がどうしたらなおるかよく知っているんですよ。けさもまたあれを欲しがりましてねえ。(メーテルリンク,堀口訳,2006,p.230)

娘の病気はそれで治るのだから、鳥と接する気分転換によって神経の病が治ったともとれるし、青い鳥が一種の万能薬であったようにもとれる。

訳者である堀口大學氏は「万人のあこがれる幸福は、遠いところにさがしても無駄、むしろそれはてんでの日常生活の中にこそさがすべきだというのがこの芝居の教訓になっているわけです」とお書きになっている。一般的に、そのような解釈がなされてきたように思う。

しかし、観客に呼びかけるチルチルの最後の台詞からすると、その日常生活の中にある幸福が如何に不安定なものであるかが印象づけられるし、森の中には人間を憎悪している木と動物たちがいることをチルチルは知っている。家の中にさえ、彼らに通じるネコがいるのだ。

そもそも、もし青い鳥が日常生活の中にある幸福を象徴する存在であるのなら、その幸福に気づいたチルチルの元を青い鳥が去るのは理屈からいえばおかしい。

いずれにせよ、わたしは青い鳥に、何か崇高にして神聖な象徴性があるかの如くに深読みすることはできなかった。戯曲は部分的に粗かったり、妙に細かかったりで、読者に深読みの自由が与えられているようには読めなかったのだ。

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2017年9月 7日 (木)

文学界のち的発言集 ①島田雅彦氏、平野啓一郎氏、山中恒氏

記事のタイトルの「ち的」の「ち」に知、痴、どちらの漢字がしっくりくるか、ご自身でご判断ください。

島田雅彦氏のツイッターが最近、炎上したようだ。

2017年8月29日19時14分の島田氏のツイート

PAC3に116億、Jアラートに92億を払うより、金正恩に小遣いやって懐柔し、日本を射程から外してもらう方が安上がりで確実なミサイル防衛になったりして。ロシアや中国はそれくらいの裏技を使っているだろう。

Shimada_twitter_20170829

https://twitter.com/SdaMhiko/status/902716208599797760

島田雅彦氏は1961年生まれの小説家である。また、法政大学国際文化学部教授であり、2010年下半期より芥川賞選考委員を務めている。

イスラム過激派アイシルによる日本人拘束事件が起きたとき、日本政府はテロに屈しない方針を固めたのではなかったか。

芥川賞選考委員、大学教授という社会的地位にある、知的エリート、知識人と呼ばれるべき、それゆえに責任を帯びているはずの人間が甚だしく知性を欠いた、ヤクザの一味であるようなことを平気でのたまう。

島田氏は過去にも問題発言を行っている。

平野啓一郎氏のツイッターも、やはり最近炎上したようである。


Hirana_twitter20170830

https://twitter.com/hiranok/status/903046626234605569

「今月、首相が公邸に泊まったのは25、28両日のみ。いずれも翌早朝に北朝鮮がミサイルを発射しており、事前に兆候を察知していたとみられる。25日は夜の会合などを入れず、28日夜も公邸内で自民党役員らと会食したのみ。出席者の1人は『首相はあまり酒を飲まなかった』と話していた」という8月30日18時15分配信のニュース(時事通信)に対して、平野氏は「腐ってる。」とツイートした。

平野啓一郎氏は1975年生まれの小説家で、1998年『日蝕』で『新潮』デビュー。デビュー時には三島由紀夫の再来ともてはやされた。翌1999年には、『日蝕』で第120回芥川賞を最年少とされる23歳で受賞。

どうしてこうした人々は、北朝鮮がミサイルを飛ばすと、安倍首相の一挙一動、一言一句をにケチをつけ、攻撃しようとするのだろう?

北朝鮮の暴挙に対して、作家らしい抗議声明を出してもいいところを、そうした援護射撃どころか、寝首を掻こうとしているようにしか思えない。もし首相の行動に問題があると思うのなら(どこに問題があるのか、わたしにはわからない)、作家らしい文章で疑問を呈するべきだろう。

ああ恥ずかしい……

平野氏関連の過去記事は以下。

こうした人々が純文学界を占拠しているのだ。尤も、日本の純文学はもう虫の息だ……まだ息があるとは思うのだ、そう思いたい。

彼らがいっていることと同系統の発言を、 1931年生まれの児童文学作家――ウィキペディアを見ると、児童よみもの作家と呼ぶべきなのだろう――である山中恒氏の動画で聴き、衝撃を覚えた。

ウィキペディア「山中恒」より引用

「児童文学作家」と呼ばれることを好まず、「児童よみもの作家」と称している。理由はデビュー当時「児童文学者」を称した人々の純文学的な作風への反発に加え、戦争中に戦争協力的な作品を書いた当時の児童文学作家が、戦後あっさりと「民主」的な作風に乗り換えたことに対する反発もあるとされる。

ウィキペディアの執筆者. “山中恒”. ウィキペディア日本語版. 2017-02-02. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E6%81%92&oldid=62872532, (参照 2017-02-02).

以下の過去記事をきちんと書き直そうと思い、 児童文学界の重鎮と思われる山中恒氏の論文を再読し、講演動画を探したのだった。

山中恒氏のオンライン論文は以下のリンク先のページで公開されている。わが国の児童文学界について知ろうと思えば、これらの論文を読まずに済ませるわけにはいかないだろう。

課題図書の存立構造・抜粋(.htm版)/.txt版 初出『教育労働研究2』(1973・10社会評論社) 所収『児童読物よ、よみがえれ』(1979・10 晶文社)
課題図書の存立構造(全文)/.txt版 (山中恒)初出『教育労働研究2』(1973・10社会評論社) 所収『児童読物よ、よみがえれ』(1979・10 晶文社)

『子どもの本のねがい』(NHK出版協会 1974)
『児童読物よ、よみがえれ』(晶文社 1978)

http://www.hico.jp/ronnjya/08y/yamanakah.htm

課題図書の存立構造」を読むと、日本の児童文学界が共産系のおらが村になった経緯がわかる。ひじょうに参考になる論文だが、気になる点がいくつかあった。いずれ前掲過去記事を書き直すときにそれについても触れるつもりである。

衝撃を受けた動画というのは、2016年3月6日(日)、東京都町田市の町田市民文学館ことばらんどにて開催された山中恒講演会「子どもの本のねがい ―児童読物作家として」を収録したものである。

動画のUPL https://youtu.be/-JHsxTIen6k

動画の中で、山中氏は次のようなことをいっている。

いじめの国家的範囲に拡がっていくのが戦争だってこと考えていくとね、いじめっていうのは撲滅しなきゃいけないし、必ずいじめやったらね、しっぺ返しがくるんだってことをね、子供にも知って貰いたいし、今申し上げたようにね戦争っていうのは、一旦始まっちゃったらどうにもならないんですよ。

今になって北朝鮮や中国の悪口いうけどもね、どうしてアメリカの悪口いわないの?

「いじめの国家的範囲に拡がったのが戦争」という幼稚な考えかたには、心底驚かされた。子供の時の戦争体験が強烈すぎて、また栄養不足などもあり、脳の発達がそこで止まってしまったのではないだろうか、と真剣に考えてしまった。

「今になって北朝鮮や中国の悪口いうけどもね、どうしてアメリカの悪口いわないの?」というのは講演の中に出てくるもので、子供の言葉ではない。

北朝鮮や中国が日本の脅威になった今だからこそ、北朝鮮、中国の批判をするのではないのだろうか。

共産主義者以外の人間はアメリカの批判をしないというのは認識不足だと思うが、普通の日本人であれば、アメリカが同盟国であることを認識している。それに対して、中国、北朝鮮のミサイルは現に日本に向いているのだ。

危機管理意識がいわせる批判であって、悪口などという生易しいレベルのことではないはずだ。戦争の恐ろしさを知っていると講演でアピールしている人間が日本の危機的状況下でこちらにミサイルを向けている相手を見ず、自国のみ凝視しているのが異常である。

この人は戦時中子供であったために、戦争下の特殊な状況に置かれていた日本――戦時下ではどの国もそうである――がずっと昔から、そして敗戦後もずっとそのような日本であるような妄想を抱いているのではないだろうか。

子供が不都合なこと、理不尽なことは全て親のせいだと思うような、何か痛々しいところさえある。その親の代表、シンボリックな父親が安倍首相というわけなのだろう。

とにかく、日本が危機的状況にあることは間違いない。以下の本はおすすめ。スイス人の危機管理能力は凄い。この本を読めば、日本人がどんなに無防備であるかがよくわかる。

民間防衛ーあらゆる危険から身をまもる
原書房編集部 (翻訳)
単行本: 320ページ
出版社: 原書房; 新装版 (2003/7/7)
ISBN-10: 4562036672
ISBN-13: 978-4562036677

アマゾンの商品説明から引用させていただく。

商品の説明
内容紹介
本書はスイス政府がその住民と国土を戦争・災害から守るためのマニュアルとして、全国の各家庭に一冊ずつ配ったものの翻訳である。官民それぞれが平時から準備すべき事柄が簡潔に具体的にまとめられ非常に参考になる。この1冊で、戦争や災害などの、想定されるさまざまな局面と状況に対応できる!


【内容目次】

平和

われわれは危険な状態にあるのだろうか
深く考えてみると
祖国
国の自由と国民それぞれの自由
国家がうまく機能するために
良心の自由
理想と現実
受諾できない解決方法
自由に決定すること
将来のことはわからない
全面戦争には全面防衛を
国土の防衛と女性
予備品の保存
民間防災の組織
避難所
民間防災体制における連絡
警報部隊
核兵器
生物兵器
化学兵器
堰堤の破壊
緊急持ち出し品
被災者の救援
消化活動
救助活動
救護班と応急手当
心理的な国土防衛

戦争の危険

燃料の統制、配給
民間防災合同演習
心理的な国土防衛
食料の割当、配給
地域防衛隊と軍事経済
軍隊の部分的動員
全面動員
連邦内閣に与えられた大権
徴発
沈黙すべきことを知る
民間自警団の配備
妨害工作とスパイ
死刑
配給
頑張ること
原爆による隣国の脅迫
放射能に対する防護
被監禁者と亡命者
危険が差し迫っている
警戒を倍加せよ
防衛

戦争

奇襲
国防軍と民間防災組織の活動開始
戦時国際法
最後まで頑張る
用心
戦いか、死か

戦争のもう一つの様相

敵は同調者を求めている
外国の宣伝の力
経済的戦争

革命闘争の道具
革命闘争の目標
破壊活動
政治生活の混乱
テロ・クーデター・外国の介入

レジスタンス(抵抗活動)

抵抗の権利
占領
抵抗活動の組織化
消極的抵抗
人々の権利
無益な怒り
宣伝と精神的抵抗
解放のための秘密の戦い
解放のための公然たる闘い
解放

知識のしおり

避難所の装備
医療衛生用品
救急用カバン
2週間分の必要物資
2ヶ月分の必要物資
だれが協力するか? どこで?

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2015年10月28日 (水)

新訳『北風のうしろの国』、ジョージ・マクドナルドとC・S・ルイス

 ※新ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にも収録しました。漱石にかんするエッセーは①のみの収録にとどまっています。なかなか時間がとれないため、続きの収録には時間がかかりそうです。

33 新訳『北風のうしろの国』、ジョージ・マクドナルドとC・S・ルイス

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

ジョージ・マクドナルドの“At the Back of the North Wind ”(1871)を初めて読んだのは、子供のころに買って貰った児童文学全集の次の本でだった。

世界の名作図書館〈9〉北風のうしろの国へ・まほうのベット
マクドナルド (著), ノートン (著),  山室 静 (翻訳), 田谷 多枝子 (翻訳), 白木 茂 (翻訳)
出版社: 講談社 (1968/1/1)

好きな児童文学作品は数多くあるけれど、一番好きな作品を選ぶとしたら、ジョージ・マクドナルドのこの作品になる。

作品全体から薫る神秘性、内面描写の繊細さ、著者の偉大さを感じさせる「北風」の謎めいた、深みのある魅力に惹きつけられた。

子供のころ姉妹共に馴染んだ本を結婚するときに持って出るのは妹に悪い気がしたので置いて出て、今は結婚して孫もある妹が所有している。

妹の孫――わたしからすれば姪孫――がもう少し大きくなったら読むだろうか?

妹の子供2人――わたしの甥と姪――には児童文学全集を好んだような形跡がない。それなら、わたしが貰えばよかったと思い、「魔法つかいのリーキーさん」が収録された4巻を送って貰ったのだった。

泣くと眉が赤くなる、赤ちゃんなのに落ち着いた風なところのある姪孫が本好きになったら、リーキーさんを貸してやろう。「北風のうしろの国へ」を読んでどう思ったか、訊こう。

好きな児童文学の話ができる小さな友達がいれば、楽しいに違いない。でも、あの子も児童文学とはあまり縁のない子になるのかもしれない。

1981年、ハヤカワ文庫で出ているのを知り、購入した。ハヤカワ名作セレクションとして2005年に再び出たようで、これは今も購入できるようなので、表紙画像からAmazonに行けるようにリンクしておく。

北風のうしろの国 (ハヤカワ文庫 FT ハヤカワ名作セレクション)
ジョージ・マクドナルド (著), アーサー・ヒューズ (イラスト), 中村 妙子 (翻訳)
出版社: 早川書房 (2005/9/22)

以下はAmazonからの引用。

商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)

「北風と一緒なら誰だって寒くなんかないのよ」―美しい女の姿をした北風の精は、ダイアモンド少年を幻想的な世界へと誘った。夜のロンドンの空へ、嵐の海上へ、そして北風のうしろの国へ…。その不思議な国から戻った少年は、想像力の翼を広げ、産業革命期の生活に疲れた人々に、優しさを取り戻させてゆく。C.S.ルイスやJ.R.R.トールキンらによって開花した英国ファンタジイの、偉大なる先駆者による古典的名作。

その後、太平出版社から「マクドナルド童話全集 全12巻」が出た。図書館から借りて読んだ。

以下に全巻のタイトル、訳者などを紹介しておく(1978~1979年版を参照)。

  1. 王女とゴブリン(村上光彦訳、淵上昭広絵、1978)
  2. 王女とカーディー少年(白柳美彦訳、竹川功三郎絵、1978)
  3. きえてしまった王女(田谷多枝子訳、岩淵慶造絵、1978) 
  4. ふんわり王女(萩美枝訳、ラスロップ,D.P.・本庄久子絵、1978) 
  5. 巨人の心臓(田谷多枝子訳、竹川功三郎絵、1978)
  6. 妖精のすきなお酒(田谷多枝子訳、真島節子絵、1978)  
  7. ふしぎふしぎ妖精の国(田谷多枝子訳、本庄久子絵、1978)
  8. 昼の少年と夜の少女(田谷多枝子訳 岩淵慶造絵、1978) 
  9. 金の鍵(田谷多枝子訳、岩淵慶造絵、1978)         
  10. 北風のうしろの国(田谷多枝子訳、真島節子絵、1978)   
  11. かげの国(田谷多枝子訳、竹川功三郎絵、1978)       
  12. おとぎの国へ(村上光彦訳、岩淵慶造絵、1979)

「北風のうしろの国」は田谷多枝子訳で第10巻に収録されている。

そして、新訳で出た北風である。

これまでに出た「北風」の訳でどの翻訳家のものがベストかはわたしにはわからないが、新訳版ではアーサー・ヒューズの挿絵を存分に楽しむことができる。「訳者あとがき」で紹介されていたマクドナルドに関するエピソードや「北風」の創作秘話なども新鮮だった。

北風のうしろの国(上) (岩波少年文庫 227)
ジョージ・マクドナルド (著), 脇 明子 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2015/10/17)

以下はAmazonからの引用。

商品の説明
内容紹介

御者の息子ダイヤモンドは、美しい女性の姿をした北風に抱かれ、夜のロンドンの空や、嵐の海をかけめぐる。そして北風のうしろにある不思議な世界へ。もどってきた幼い少年は、そこで聞いた楽しい川の歌を口ずさみながら、貧しい暮らしにあえぐ家族や友人を助け励まし続けるのだった。イギリスファンタジーの名作を新訳で。

北風のうしろの国(下) (岩波少年文庫 228)
ジョージ・マクドナルド (著), 脇 明子 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2015/10/17)

「北風のうしろの国」の著者ジョージ・マクドナルドについて、ウィキペディアより引用する。

ジョージ・マクドナルド: ウィキペディア

ジョージ・マクドナルド(George MacDonald, 1824年12月10日 - 1905年9月18日)は、スコットランドの小説家、詩人、聖職者。
日本では、『リリス』などの幻想文学や、『お姫さまとゴブリンの物語』などの児童向けファンタジーの作者として知られる。
今日ではさほどの知名度は無いが、彼の作品(特に童話とファンタジー小説)はW・H・オーデン、J・R・R・トールキン、C・S・ルイス、マデレイン・レングルらといった作家たちに賞賛されている。例えば、C・S・ルイスはマクドナルドを自分の「師匠」と呼び、その作品を読んだ経験を次のように語っている。「ある日、駅の売店で『ファンタステス』を手に取り、読み始めた。二三時間後、私は自分が大いなるフロンティアを横断し終わったことに気付いた」。G・K・チェスタートンは『お姫さまとゴブリンの物語』を「私という存在を変えた」本だと述べている。マーク・トウェインも、当初こそマクドナルドを嫌っていたものの、彼と友誼を結んだ。

「今日ではさほどの知名度は無い」とあるが、本当だろうか? ファンタジーの父といわれているマクドナルドであるが?

C・S・ルイスがマクドナルドを「師匠」と呼び、“Phantastes: A Fairie Romance for Men and Women” 1858(蜂谷昭雄訳『ファンタスティス(ちくま文庫)』筑摩書房、1999年を参照)で序文を書いているが、この序文は問題だと思う。

C・S・ルイスについて分析してみたいと思いながら中断した過去があった。

前掲の過去記事で次のように書いている。

当世風何でもありのファンタジーはルイスが元祖ではないだろうか。ルイスの功罪をざっとながらでもまとめておきたい気がする。

 『ナルニア国ものがたり』を読むと、イデオロギー的構成に驚かされると共に、ギリシア神話、創世記、神秘主義などから借りてきたキャラクターや概念などの甚だしい乱用が目にあまる。それらを借りてきたことが問題なのではなく、意味の書き換えを行い、イデオロギーに利用したことが問題なのだ。

ジャンルは違うが、権威あるいろいろな書物から言葉や文章を借りてきてアクセサリー的に私用する村上春樹の作品に似たところがある(元の意味合いが完全に失われるだけでは済まない。別の意味づけがなされてしまう)。

ルイスはジョージ・マクドナルドの影響を受けたそうだが、とてもそうは思えない。アリストテレスがプラトンの哲学を無意味なものにしてしまったのと同じようなことが、ルイスとマクドナルドにもいえ、ルイスはマクドナルドのファンタジー――その敬虔な神秘性――をすっかり無意味なものにしてしまったとわたしには思える。

C・S・ルイスについては改めて批評を書きたいが、今は検証している時間がない。ただルイスがマクドナルドを天才と持ち上げる一方ではどんなことを書いたかを示すための引用をしておきたい。

 もし文学を言葉をば媒体とする芸術と定義するならば、確かにマクドナルドは一流には――多分二流にすら――位[くらい]しない。 (略) 総じて彼の書きものの木目[きめ]は平凡で、時には不器用である。悪しき説教壇的伝統がそこにはまつわりついている。時には非国教主義的冗漫さがあり、時には華麗な装飾に対する古きスコットランド的偏愛がある。 (略) 時にはノヴァーリスからつまんできた過度の甘さがある。 (略) マグドナルドが最も得意とするのは幻想〔ファンタジー〕――寓意的と神話創成的との中間に漂う幻想――である。 (略) われわれに立ちはだかる問題は、この芸術――神話創成の芸術――が文芸の一種か否かということである。 (MacDonald、蜂谷訳、1999、序pp.13-14)

このような序文は「序文」に「位しない」とわたしは思う。読者に、マクドナルドは序文の執筆者――つまりC・S・ルイス――より下位の作家という先入観をもたらすからである。

このルイスの偏向した、偉そうなマクドナルド観に影響されている日本人は多いのではないかと思われる。なぜなら、マクドナルドに関してルイスに似たようなことを書いている記事をインターネット検索で多く閲覧したからである。

マクドナルドを「師匠」といいながら、児童文学作家としてマクドナルドを自分より下に位置づけようとした嫌らしさを感じる。持ち上げ方、貶し方が尋常ではない。

「師匠」の作品に影響されたわりにはルイスの作品には技巧的な工夫に長けたところはあっても、「師匠」の作品を奥深く、輝かしいものにしている神秘性や高潔な人間性とは無縁の二流品にすぎない。

ルイスは、自分のほうが文学的にマクドナルドより優れているといいたいようだが、彼は自分とは異なるタイプの文体、技法を容認できなかったというだけの話であると思えるし(ルイスは一体何様なのだろう?)、また前掲の拙記事「C.S.ルイスの功罪を問うてみたい気がしている」に書いたような理由で、文学的でないのはルイスのほうこそ、そうである可能性が高いとわたしは考えている(ルイスの言葉を借りていえば、ルイスの作品はまあ「文芸の一種」ではあるのだろうが)。

そして、イデオロギー色の濃いC・S・ルイスには、マクドナルドという人間に備わり、作品にも宿った神秘性に惹かれながらも、その本質が理解できなかったのではないかと思われる。

このC・S・ルイスは、神秘主義をまともに批評できずに誹謗中傷するに終わった――わりには馬鹿に知名度の高い――プラグマティズムのウィリアム・ジェームズやゲノンを連想させる。共通点がある。以下に関連記事を挙げておく。

神秘主義者の仕事には、それを叩く人間がどこからか必ず配置されることになっているのかと想像したくなってくる。

マクドナルドを讃えながら、一方ではどこかしら特権的な口吻でマクドナルドの「非国教主義的冗漫さ」を批判するルイスであるが、ルイスがそのように書くとき、彼が「国教主義的簡潔さ」を上位に置き、そこから大上段に構えて発言していることがわかる。

このような態度が文学的といえるだろうか。

C・S・ルイスの思想について、ウィキペディアから引用してみよう。

C・S・ルイス: ウイキペディア

信仰と著作

幼少の頃はアイルランド国教会に基づくキリスト教を信仰していた。14歳の時に無神論に転じ、神話やオカルトに興味を持ち始める。その後様々な書物や大学時代の友人の影響を受け、31歳で同じ聖公会系のイングランド国教会の下で再びキリスト教信仰を始めた。『奇跡』(Miracles, 1947)『悪魔の手紙』『キリスト教の精髄』『喜びのおとずれ』などの神学書や自叙伝、ラジオ講演などを通じて、信徒伝道者としてキリスト教信仰を伝えている。
著作には詩集、神学論文集などがあるが、特に有名なものは『ナルニア国ものがたり』全7巻である。神学者としても著名で、『ナルニア国ものがたり』にもその片鱗が現れているような新プラトン主義的な見解をラジオの連続講義でも披露。スイスの弁証法神学者カール・バルトから、激しい反撥を受けた。1957年には『さいごの戦い』でカーネギー賞を受賞している。
米国聖公会では聖人に叙せられており、命日である11月22日が祝聖日とされている。

イングランド国教会についても、ウイキペディアで確認しておこう。

イングランド国教会: ウィキペディア

イングランド国教会(イングランドこっきょうかい、英: Church of England)は、16世紀のイングランド王国で成立したキリスト教会の名称、かつ世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会。 (略)
もともとはカトリック教会の一部であったが、16世紀のイングランド王ヘンリー8世からエリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離れ、独立した教会となった。プロテスタントに分類されることもあるが、他プロテスタント諸派とは異なり、教義上の問題でなく、政治的問題(ヘンリー8世の離婚問題)が原因となってローマ・カトリックから分裂したため、典礼的にはカトリックとの共通点が多い。イングランド(イギリス)の統治者が教会の首長(Defender of the Faith、直訳は『信仰の擁護者』)であるということが最大の特徴である。

ルイスは「神学者としても著名で、『ナルニア国ものがたり』にもその片鱗が現れているような新プラトン主義的な見解をラジオの連続講義でも披露」とあるが、確かにルイスは「ナルニア国ものがたり」第7巻、瀬田貞二訳『さいごのたたかい(岩波少年文庫 040)』(岩波書店、1986年初版、2008年新版)で、「かかわりのあるよいナルニアのいっさい、親しい生きもののすべては、あの戸をふみこえて、まことのナルニアにひっこしてきたんだ」(Lewis、瀬戸訳、2008、pp.283-284)、「これはすべて、プラトンのいうところだ。あのギリシアのすぐれた哲学者プラトンの本に、すっかり出ているよ。やれやれ、いまの学校では、いったい何を教えているのかな?」(Lewis、瀬戸訳、2008、p.284)と書いて、まことのナルニアがプラトンのいうイデア界であることを示唆している。

だが、ルイスのイデア界はあくまでキリスト教に取り込まれ、即物的な劣化を起こした、およそプラトンのイデア界とは異なる幼稚な唯物論的世界観にすぎない。

だからルイスが如何に言葉を尽くして「まことのナルニア」が「はるかにいみの深いおもむきがありました」(Lewis、瀬戸訳、2008、p.285)と説明しようが、両者の違いを読者に伝えることはできなかった。C・S・ルイスの児童文学作品はアトラクション的なのである。

ここにマクドナルドとの本質的な違いがある。

マクドナルドは『北風のうしろの国』の主人公であるダイヤモンド少年に、別の世界の空気を伝えさせることに成功している。ルイスの指摘する「冗漫さ」はわたしには別の世界の空気を伝えるための技法と思われる。

というのも、“The Light Princess”1867(『軽いお姫さま(妖精文庫)』富山太佳夫・富山芳子編、1999年を参照)などには、「北風のうしろの国」にあるような冗漫さがないからである。

しかし、「北風のうしろの国」では、「軽いお姫さま」を連想させる「ヒノヒカリ姫」*という小話が挿入され、子どもっぽい長い歌詞が挿入されていたり、まだ翼のつぼみでしかない飛ぶのには使えない小さな翼を肩のあたりではばたかせている天使たちが星をほる話が出てきたりする。

*ジョージ・マクドナルド、脇明子訳『北風のうしろの国 下(岩波少年文庫228)』(岩波文庫、2015年、第28章ヒノヒカリ姫pp.125-165)

こうした悠長、閑雅な世界と、御者の仕事をしているダイヤモンド少年の過酷な現実とがコントラストをなしている。冗漫にも感じられる描写が挿入されているからこそ、コントラストが際立つのである。

では、ルイスに「非国教主義的」といわせるマクドナルドの思想は如何なるものであったのだろうか。

George_macdonald_1860s

George MacDonald,1860s.
From Wikimedia Commons, the free media repository

それはひとことでいえば、万人救済主義(Universal Reconciliation)的なものであったようである。

ジョージ・マクドナルドはカルヴァン主義の会衆派教会に属する家で生まれ育ち、牧師になったが、カルヴァン主義に馴染めなかった。

カルヴァン主義がどんな思想であるかというと、1618年のドルトレヒト会議で決められたドルト信仰基準はカルヴァン主義の特徴を5つの特質として明確にしたものだといわれている。ウィキペディアから引用すると、それは次のようなものである。

ドルト信仰基準: ウィキペディア

  1. 全的堕落(Total depravity) - 堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。
  2. 無条件的選び(Unconditional election) - 神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説)。
  3. 制限的・限定的贖罪(Limited atonement) - キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。
  4. 不可抵抗的恩恵(Irresistible grace) - 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。
  5. 聖徒の堅忍(Perseverance of the saints) - いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。

マクドナルドがどんな牧師ぶりを示したかを、英語版ウィキペディアから引用してみる。

George MacDonald: Wikipedia

In 1850 he was appointed pastor of Trinity Congregational Church, Arundel, but his sermons (preaching God's universal love and the possibility that none would, ultimately, fail to unite with God) met with little favour and his salary was cut in half.

1850年にマクドナルドはアランデルの三位一体会衆派教会の牧師に任命されたが、彼の説教(神の普遍的な愛と最終的には誰もが神と一つになることができるという教え)はほとんど支持を得られず、給料は半分に減らされてしまったのであった。

マクドナルドは予定説で知られるカルヴァン主義の世界観には納得できなかった。そして万人救済主義的思想に親近感を抱いたのだろう。以下はウィキペディアから。

万人救済主義: ウィキペディア

万人救済主義(ユニバーサリズム、英語:Universal Reconciliation、Christian Universalism)はキリスト教の非主流派思想のひとつ。これは、すべてが神のあわれみによって救済を受けるという教理、信仰である。すべての人が、結局は救済を経験するとし、イエス・キリストの苦しみと十字架が、すべての人を和解させ、罪の贖いを得させると断言する。 (略)
万人救済主義は地獄の問題と密接に関係がある。救済に至る方法や状態に関して様々な信仰と見解があるけれども、すべての万人救済主義者は、究極的にすべての人の和解と救済に終わると結論する。
万人救済の教理、信仰についての論争は歴史的に活発に行われてきた。初期において万人救済主義の教理はさかんであった。しかし、キリスト教の成長にともない、それは廃れていった。今日の多くのキリスト教教派は万人救済主義に否定的な立場を取っている。

歴史
古代にはオリゲネスの思想に見られ、近代のカール・バルトも万人救済を唱えたとされている。
万人救済主義とはキリスト教信仰の有る無しに関わらず、全人類がすでに救われているという思想である。これに対しキリスト教において正統とされてきた神学はアウグスティヌスらが唱え、19世紀までキリスト教会で主流であった排他主義(Exclusivism)である。これは信者のみが救われるという神学である。

初期の歴史
ダマスカスの周辺の初期のクリスチャン共同体が万人救済の教義を提唱したと信じられている。様々な神学者が初期キリスト教において万人救済主義の立場に立った。アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネスらである。

万人救済主義はクレメンスやオリゲネスによって知られるようだ。

オリゲネスはキリスト教会の聖職者であったが、アンモニオス・サッカスの弟子であった。アンモニオス・サッカスは新プラトン主義の創立者である。神智学という名称はアンモニオス・サッカスとその弟子たちから始まった。クレメンスはプラトン派に所属したアンモニオス・サッカスの弟子である。神父であり、キリスト教哲学者であった。

このようなことを、わたしはブラヴァツキーの『神智学の鍵』の用語解説で初めて知った。オリゲネスもクレメンスも名前くらいは知っていたが。

マクドナルドが神秘主義的だとは思っていたけれど、その思想を遡るうちに神智学に辿り着いたのだから驚きである。

オリゲネス、クレメンスについて、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ 竜王文庫内、昭和62年初版、平成7年改版)の「用語解説」より引用しておく。

オリゲネス(Origenea Adamantius,Origen)
2世紀末におそらくアフリカで生まれたキリスト教会の聖職者であるが、この人についてはほとんど知られていない。というのはオリゲネスの伝記的断片はエウセピオスの権威のもとに後世に託されたが、エウセピオスはどの時代にも見られなかったほどの紛れもない曲解者であったからである。エウセピオスはオリゲネスの手紙100通を収集したが、それらは現在、散逸してしまっているという。神智学徒にとってオリゲネスの著作の中でいちばん興味深いのは、『霊魂先在説』である。彼はアンモニオス・サッカスの弟子で、この偉大な哲学の師匠の講義に長く出席していた。 (Blavatsky、田中訳、平成7、用語解説p.23)

クレメンス・アレクサンドリノス(Clemens Alexandrinus)
 新プラトン派に所属し、アンモニオス・サッカスの弟子。神父で、多くの本を書いた。西暦2~3世紀のアレクサンドリアの数少ないキリスト教哲学者の一人である。
(Blavatsky、田中訳、平成7、用語解説p.29)

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2015年10月17日 (土)

児童文学界の黒(赤?)歴史と那須田稔の業績

前掲の記事で、わたしは次のように書いた。

わたしは過去記事で、感動した那須田稔氏の本のことを書いています。
この方が児童文学界のトップにずっといらっしゃたとしたら(どうしてそうではないのか、事情は知りませんが)……わたしは文学界を糾弾するような、こんな記事を書いていたでしょうか。

それは、山中恒のオンライン論文「課題図書の存立構造(完全再録)」を閲覧していたからであった。

それによると、那須田稔は昭和47年(1972年)当時、日本児童文学者協会の理事、著作権問題委員長、機関誌『日本児童文学』の編集長を務めていた。

また、「過去三回、全国学校図書館協議会(略称SLA)主催の青少年読書感想文コンクールの『課題図書』の選定を受けた、いわば当代一の売れっ子作家」であったという。

ところが、その那須田稔が盗作事件を起こした。8月10朝日新聞(朝・夕刊)、11日読売新聞(朝刊)で報じられたと論文にはある。

この事件は、「那須田の日本文学者協会退会を報じた読売の記事だけで、それに関する児童文学者の公的な論評もないままに終止符を打ってしまった感がある」そうだ。

昭和47年というと、わたしは14歳である。幸運にも、那須田稔の全盛期に小学校から中学校にかけて過ごしたことになる。

山中恒の論文では課題図書批判がなされていたが、「課題図書」は少なくとも読書嫌いの皮肉っぽい1人の子供を本好きにした。

わたしは初めは無理に本を読まされることが嫌で、「あとがき」を読んで選者の大人心をくすぐる感想文を器用に書いた。

それで読書感想文コンクールでよいところまで行って全校生の前で褒められたため、すっかり大人を見下すところまで行った。それからは、世の中が本当につまらないところになった。

それでも課題図書や児童文学全集を買って貰ったりして仕方なく読んでいるうちに、次第に文学のすばらしさがわかるようになり、中学1年生では立派な文学少女になって自分でも書くようになっていた。

読書感想文コンクールと文学賞は似ている。文学のよさが真にわかったわたしにはもう、文学賞の選者心をくすぐる作品は書けなくなってしまった。

わたしは課題図書だった『チョウのいる丘』を覚えている。

悲しいお話だったにも拘わらず、読後に何か大きな、温かいものに包まれる快さを味わった。表面上はよい子を装いながら、どこかしらひねくれていたわたしは、『チョウのいる丘』を読んで「更正」したように思う。人間の世界を信じるようになったのであった。

那須田稔の盗用は信じられなかったが、どのような盗用であったのかが知りたいと思い、図書館から、中学校の国語の教材に採用された『少年』が掲載されている晶文社発行『長谷川四郎作品集』第4巻「子供たち」(晶文社、昭和44年1月30日)と那須田稔『文彦のふしぎな旅 <すばらしい少年時代・第一部> (ポプラ社の創作文学 1)』(ポプラ社、昭和45年2月25日)を借りてきた。

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物語に合った鈴木義春の絵が素敵だ。

『文彦のふしぎな旅』には昭和47年(1972年)8月11日金曜日付朝日新聞が挟まっており、新聞では「子ども文学にも盗作」のタイトルで盗作事件を報じていた。

朝日新聞には「一方、那須田さんの『文彦のふしぎな旅』はこの6月30日(昭和47年)に出版されたとあるが、わたしが借りたのは昭和45年出版の初版だから、新聞記事にある『文彦のふしぎな旅』は版が違うのだろう。

長谷川四郎のコントからの盗用で、前掲の朝日新聞記事に「長谷川さんの原文は、約15年前、小さな雑誌に発表されたもので、その後、晶文社刊行の作品集に収録された」とある。

確かに『文彦の不思議な旅』64頁から65頁までが、長谷川四郎のコントにそっくりである。

少年がジュウシマツを飼う。父親は小鳥をカゴに入れて飼うのは性に合わないという。母親がとりなす。翌朝、少年は父親に「おとうさんはなにも知らないんだな、ジュウシマツは箱の外には住めないんだよ」(長谷川、昭和44、p.136)という。

1羽のジュウシマツが少年が水をとり替えていたときに、箱から飛び出してしまう。少年は追いかけたが、上空からモズがさっと降りてきて、ジュウシマツをさらっていった。

コントでは次のように締めくくられている。

 父親が言った。
 ――箱の中にしか住めない鳥なんて、もう飼うのはよしたほうがいいな。
 少年は黙っていた。父親というものは、なんて心配症なものだろう、と思って。(長谷川、昭和44、p.136)

那須田稔の作品の舞台は1945年夏の満州なのだが、コントの少年は文彦とニーナ(革命後に祖国を追われた人々の子孫である白系ロシア人)に、母親は澄子先生(ニーナを託されている)に、父親がおじさん(澄子先生の夫)に替えられ、次のように締めくくられている。

 おじさんがいった。
「箱の中にしか住めない鳥なんて、もう飼うのはよしたほうがいいな。」
 ニーナはだまっていた。
 文彦は、おじさんってあんがい心配症なんだなと思った。(那須田、昭和45、p.62)

コントはジュウシマツのか弱く、はかない一生を捉えて一筆書きのように描かれ、秀逸である。そして、コントはそれだけのものとして完結している。

那須田稔はコントから霊感を得て、作品を描いたのだろうか。それとも、温まっていた構想をコントが象徴しているように感じたのだろうか。

いずれにしても、最後まで読めば、ジュウシマツがニーナの可憐ではかない一生をシンボライズするものとして、不吉な前奏曲となっていることがわかる。

戦争がもたらす複雑なお国事情に翻弄される少年少女の話はこの作品以外にもあり、構想としてはそれらは似ているが、それは那須田稔がこれら少年少女に戦争によって損なわれた、かけがえのない何かを象徴させたかったからではないだろうか。

だから少年少女はこの世のものであって、この世のものではないものの化身のようで、はっとするような美しさ、透明感を漂わせている。

那須田稔がコントから盗用してしまったのは、魔が差したのだと想像するしかない。

那須田稔ほどの力量があれば、ここに長谷川四郎のコントとは別のオリジナルな、ニーナの人生をシンボライズする断片を挿入するくらいのことはできたはずだ。

当時の那須田稔が執筆に追われていたとの情報が山中恒の論文にあることから考えると、魔が差して、その労を惜しんでしまったのだろうか。

朝日新聞の那須田稔の釈明に「私は長谷川さんの古くからのファンで、好きな文章をよく書き写した経験がある」とある。

プロではないわたしでも同じ経験があり、文豪の作品を読んで参考にしたり、ヒントを得たりすることはあるので、よくわかる。だからといって、勿論このような盗用は許されるものではない。

ただ、それまでの那須田稔の業績が葬り去られてしまう事態になったことに同情のかけらもなく、この一件を権力闘争に利用でもするかのような雰囲気が山中恒の論文から感じられることに、むしろわたしはゾッとさせられた。

当時、課題図書を推進した勢力とそうでない勢力があったようである。

わたしにはどちらも赤い人々に見えるのだが(詳しいことは知らないので、誤解かもしれないが)、同じ赤でも一方は芸術性とヒューマニズムに特色があり、他方はイデオロギー色の強い、子供の自由を謳うようでありながら抑圧的な印象である。

那須田稔の盗用の罪は、芥川龍之介に比べると、こういっては何だが、ささやかといってよいくらいに軽い。わたしはあくまで芥川に比べると、といっている。重大な不祥事に比べると、如何にも軽い不祥事でありながら、失脚させられる政治家が珍しくないように。

那須田稔は主題を空高く羽ばたかせるために盗用したが、芥川龍之介は羽ばたいていたものを捕まえるために盗用した。

例えば、『蜘蛛の糸』はドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』第七篇第三「一本の葱」を盗用したものだ。

小話の背後にあるドストエフスキーの思想に対する配慮もないままに無造作に盗られているため、一幅の絵となる短編となってはいても、それはあくまで装飾的な、深い内容を伴わない張りぼて作品でしかない。

那須田稔は盗用したコントをパン種に加えて、単行本1巻の分量の児童文学小説へと香ばしく膨らませた。

芥川龍之介の盗用癖はこれに留まらないというのに、芥川の作品はあちこちの出版社から出ているばかりか、日本の文豪の一人ですらあり、純文学の登竜門とされる芥川賞には彼の名が冠されている。

芥川の盗用――材源と書かれている――については、『芥川龍之介全集別巻』(吉田精一編、筑摩書房、昭和52年)の中の「芥川龍之介の生涯と芸術」(吉田)に詳しい。そこには、62もの「ほぼ確実と思われる出典」がリストアップされている。

那須田稔はこのような事件さえ起こさなければ、日本を代表する児童文学作家として世界に羽ばたいていたのではないだろうか(それに続く作家も多く出ただろう)。

いや、今からでも遅くはない。そのために中止となった那須田稔選集が上梓されればいいのにと思う。

わたしは前述の『チョウのいる丘』が忘れられない。中古で購入した人々の心打たれるレビューがAmazonで閲覧できる。

傍観者の一見方にすぎないのかもしれないが、那須田稔の失脚で、日本の児童文学の質が大きく変化したことは間違いないように思われる。

純文学的色調が主流だったのが、ほぼエンター系一色となってしまったのだ(翻訳物を除いて)。恐ろしい話である。

このままでいいはずがない。

ひくまの出版から出ていたアンネ・エルボーの絵本も2冊、図書館から借りた。

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2015年10月16日 (金)

イタリア絵本展から思うこと(16日に追記:邦訳版から改めて思ったこと)

イタリア語を勉強している娘が百貨店のイタリア展で、2冊の絵本を購入しました。

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娘と出かけたイタリア展の絵本コーナーには、印象的な絵本がいろいろとありました。娘はその日、黄色い表紙の絵本を選んだのですが、別の日にまた行って、白っぽい表紙の絵本を買いました。

わたしはモナリザを連想させる絵のある絵本に心が惹かれましたが、娘の買った絵本はどちらもすばらしいと思いました。

こんな絵に(どんな絵とはうまくいえませんが、ひとことでいえば芸術的な絵と申しましょうか)、日本の子供たちは飢えているのではないでしょうか。

絵本ですら、漫画っぽい絵が多いように思います。それも、目の大きな、媚びたような顔をした子供たちの顔がここにも、あそこにも。わたしは吐き気すら覚えます。

イタリアはレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどの偉大な画家を生んだ国ですが、日本だって北斎を思い出せばわかるように、負けてはいません。

本格的な挿絵画家を目指している人は日本にも多いはずです。そうした人々はどこへ行ってしまうのでしょうか。

以下の記事は5年前に書いたものです。そのころはまだわたしが文学界を批判すると、僻みととられることも多かったのですが、今ではそうではなかったことがはっきりとわかります。

すっかり左傾化し、腐敗した日本の文学界。そこで書いている人々にはその自覚がないかもしれません。

余命ブログでテーマを募集しています。

わたしは芥川賞に選ばれる近年の作品からも顕著な日本語のおかしさが国民、特に子供たちに与える深刻な影響について訴えたいと思っていますが、いざ考えてみると、難しいですね。

日本の文学の将来を憂えているかたがいらっしゃいましたら、考えてみてほしいと思います。

個人で文学運動を起こすのは難しく、こうした文学界の現象は他の分野と連動した動きから起きてきているものです。放置できないものを感じています。

テーマに投稿するには、抽象的な内容であっては意味がないので、よく考えなくてはなりません。

わたしにはうまくテーマ化し、書ける自信がないので、どなたか投稿してくださればいいのですが。

絵本の話に戻ると、白っぽい絵本は、子供がおかあさんにせがむが如く、娘に訳して貰いました。月曜日と昨日と明日が出てくるお話で、月曜日はやがて雪の中に消えていき、昨日と明日がそのことを悲しんで泣きます。その悲しみの表情が、心底悲しんでいる子供の表情そのままで、わたしも思わず……。

でも、新しい(別の)月曜日が現れます。

不思議な印象の絵本、忘れがたいお話になりそうです。

追記:

ググってみたところ、作者 Anne Herbauts はベルギーのイラストレーターで、活躍なさっているようです。YouTubeに、インタビュー動画が公開されています。

そして、何と、アンネ エルボーの他の本がひくまの出版から6冊、邦訳で出ているではありませんか(現在は中古でしか入手できないようです。原書もAmazonでは中古でしか入手できないようです)。

1978年に浜松市でひくまの出版を創立なさったのは、那須田稔氏。息子さんが那須田淳氏ですね。

ひくまの出版は平成26年に倒産したとウィキペディアにありました。よい本がずいぶん出ていたようなのに、残念です。

わたしは過去記事で、感動した那須田稔氏の本のことを書いています。

この方が児童文学界のトップにずっといらっしゃたとしたら(どうしてそうではないのか、事情は知りませんが)……わたしは文学界を糾弾するような、こんな記事を書いていたでしょうか。

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2015年3月 6日 (金)

#11 疑似祖母との恋愛物語(ぬるま湯物語) - 漱石の「坊ちゃん」

memoNotes:夏目漱石・インデックス

飛ばし読みしながらも、初めて夏目漱石の「坊ちゃん」を最後まで読んだ。

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この作品は純文学小説ではないが、だからといって大衆小説ともいえず、出来の悪い大衆小説的な作品というほかはない。

平板な表現の毒舌がだらだらと続く文章には耐えられず、飛ばしながらでなくては読めなかった。

その文章自体に、問題があるのではないだろうか。言葉の結びつけ方がおかしいのである(ノートですらないメモだから、ここでは省略するが、評論を書くときに例を出して指摘する)。

坊ちゃんはしきりにレッテル貼りを行う。純文学であれば、逆に、世間で貼られたレッテルをまず剥がす作業を行う。

大衆小説であれば、勧善懲悪の爽快感が得られるのだろうが、そういうストーリー展開でもない。

マドンナの心情に重きを置けば、華のある大衆小説ともなるのだろうが、そうした場面もない。

家柄のよい出でありながら、社会的激変のために女中となった清と坊っちゃんのラブロマンスだろうか?

坊っちゃんが殿で、清に祖母・恋人・召使いの役割を担わせた、夢物語というべきか。

借家とはいえ、坊ちゃんと一緒に暮らすという清の夢を実現させ、離ればなれになっても思いを通わせ続けた男女が、晴れて一軒の家に収まるという、庶民の好みそうなつつましい夢物語となっている。

マドンナがまともな形では出て来ないのも、そのためである。清が紅一点でなければならないから。そのことからも、「坊っちゃん」が変則的恋愛小説であることは間違いない。

若い男と老女が一軒の家に仲むつまじく暮らすエンディング、女のわたしには相当に気持ちの悪い恋愛小説である。

坊っちゃんは、いわゆるおばあちゃんに溺愛されたおばあちゃん子であるのだろうが、清が祖母でないというところが味噌なのであろう。清は疑似祖母であるが、まぎれもなく女なのだ。

坊ちゃんと性関係があってもなくても、ああ気味が悪い。疑似祖母との恋愛物語なんて。

わたしは、年齢差のある恋愛関係が気持ちが悪いといっているわけではない。男の側に都合のよすぎる漱石の女性観が、気持ちが悪いといっているのである。

この女性観、既視感がある。村上春樹の女性観だ。以下の作品(Kindle版)で、わたしはそれを指摘している。

「村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち(Collected Essays, Volume 1)」 (ASIN:B00BV46D64)

マドンナ(若い女性)に欲情することもなく、清への初恋を貫いたままの幼児心理で成人後も生きる坊っちゃん。したい放題して、事が暴力沙汰に及んでも逮捕されることもなく、学校をやめても、すぐに他の仕事が転がり込む。常に保護される坊っちゃん。

清にも天にも愛でられる坊っちゃん。このことからも、純文学小説には欠かせない、主人公と作者との間に存在すべき距離感のないことがわかる。

そして、老女が亡くなったあとのことは書かない漱石。

ぬるま湯に浸かり続ける坊っちゃんを、作者が限りなく肯定するお話なのである。

まともに読んで、まともな感想が書けますか、こんな小説で。シェークスピア、デフォー、モーパッサン、ゾラ、イプセン、芭蕉、李白まで貶す漱石が書いた小説がこれって……。

かような内容の「坊っちゃん」を読書感想文に推薦……ほほほ……ホント、どうかしてますねえ、この国。書けないでしょう、まともな感想文なんか。

デフォーは読んだことがないけれど、それ以外のどなたを読書感想文に選んでも、それなりに書き応えがあるはずだ。読書感想文には、漱石が貶す作家をオススメする。

この男が真面目づらして「門」なんか書くと、なおのこと罪深い。門なんてタイトル、こけおどしもよいところだ。

お稽古事に1、2度行ってやめる子供がいるけれど、主人公の参禅がそのレベルにすぎないことを思えば。

まだ漱石にかんする研究は序の口だが、早くも飽きてきた。この男が文豪と祭り上げられてさえいなければ、とっくに夏目漱石から離れているだろう。

夏目漱石は本当はあばた面だが、日本では文豪のシンボルとなっているあの有名な写真には、それを消す修正が施されているそうだ。それは漱石の罪ではないだろうが、加工されたあの写真が漱石のイメージアップに利用されてきたことは間違いない。

隠れマザコン(ババコン)で、幼児心理のまま成熟することを拒否、無教養であることを自慢すらし(この世で教養のある人間は漱石先生だけでなければならない)、他人にレッテル貼りをして馬鹿にして、暴力沙汰を好む――そんな生き方を天は愛でると漱石の文学は教えている……(絶句)。

ちょっと、漱石から離れよう。そのつもりなのに、気になってなかなかそうできない。

テレビの国会中継をつけたまま、KindlePaperwhiteで「坊っちゃん」を読んでいるうちに、爆睡。とにかく、漱石を読んでいると眠くなる。

すると、夢を見た。学校に(高校?)、安倍首相が視察にくる。ぞろっと一団になってこちらに来る安倍首相は、わたしたち生徒のほうを見て、「いつからこの国ではいじめが流行るようになったのか、誰かわかる人がいたら教えてください」と声をかける。

わたしはいじめをテーマとした小説を書いたことがあると思い、その小説の載った雑誌を手に、安倍首相を追いかける。

最上階が首相官邸ということになっていて、最上階へと続く階段の踊り場に首相がひとり。わたしが近づくと、ペロペロキャンディーを差し出される。「お一つどうぞ」

この踊り場でペロペロキャンディーをなめる時間だけが、首相の唯一の自由時間らしかった。

わたしは自作の宣伝ととられると困るなと思いながら雑誌を渡して、この小説を書いた時期からいじめが流行り出しました、いじめをテーマとした小説を書かざるをえない社会状況でした、と説明する。

ほお、という表情の首相。

「子供たちにはよい本を読ませなければいけません。でなければ、この国は崩壊してしまいます。よい本がどんな本かの選択が難しいところですが……」と、力説しているところで、目が覚めた。まだ国会中継中で、共産党議員の質疑中だった。

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2014年10月 8日 (水)

明日に迫ったノーベル文学賞の発表と村上春樹の記事へのアクセス数。イスラム国の戦闘に参加しようとした大学生とフィクションの関係。

ノーベル文学賞の発表が明日に迫ったが、6日のYahoo!ニュース(時事通信 18時35分配信)によると、英国ブックメーカー(賭け屋)ラドブロークスの予想では、今年も賭け率5倍で、村上春樹がトップ。

ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴ氏も同率で、他にベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチ氏やシリアの詩人アドニス氏らが上位に入っているとか。

では、村上春樹人気は健在なのだろうか? 

なぜ、人気を疑うかといえば、朝日新聞の慰安婦問題謝罪のころから、当ブログにおける村上春樹関係の記事へのアクセス数が激減したからだ。

ノーベル文学賞の結果がどうであれ、この時期にこの少ないアクセス数というのは、昨年までを考えれば、ちょっと考えられない。訪問者が減るのは淋しいが、そのぶん、他のブログの他の作家へのアクセスが増えると思えば、嬉しい。

朝日新聞、村上春樹と並べると、2012年9月28日付で朝日新聞・朝刊に寄稿された村上春樹のエッセー「魂の行き来する道筋」を思い出す。

拙ブログ固有の現象にすぎないことを春樹人気と結びつけ、春樹人気の陰りと独断するわけにもいかないが、朝日新聞の偏向報道が明らかになったことが、村上春樹ブランドに疵をつけたということはありうると思う。

村上春樹人気とは無関係だと思うが、7月21日、92歳になった瀬戸内寂聴の体力的負担が理由で、法話の庵「寂庵 ナルト・サンガ」(徳島県鳴門市。京都市の寂庵の別院)が閉鎖されると報道されたころから、大手出版社が何かおとなしい気がしている。わたしの気のせいだろうか。

村上春樹に戻ると、10月4日にYOMIURI ONLINEで、ドイツ紙「ウェルト」が今年の「ウェルト文学賞」を村上春樹に授与すると発表したとのニュースを目にした。これについても、これまでほどには騒がれなかった気がする。

YOMIURI ONLINE(2014年10月04日21時20分)のニュースによると、ウィルト紙は、

一連の作品について「魔法のように多彩なリアリズム」「様々なジャンルを飛び越えている」などと評した。

とのこと。

この評、1982年にノーベル文学賞を受賞したガルシア・マルケスが「魔術的リアリズムの旗手」といわれていることを連想して笑ってしまったが、マルケスの小説はどう読んでも純文学で、村上春樹の小説のように様々なジャンルを飛び越えてはいない。

そういえば、今日のYahoo!ニュース(TBS系〈JNN〉)、1時15分配信のニュース)、イスラム国の戦闘に参加しようとして警察庁公安部の家宅捜索を受けた北大生がフリージャナリストの取材に応じ、その中で以下のように語っているところがあった。

「社会的地位とかに価値を感じなくなった。ただそれだけ。日本の中で流通しているフィクションにすごく嫌な感情を抱いていて、別個のフィクションの中に行けば、違った発見があると思った。それくらい」(事情聴取を受けた大学生)

日本で流通しているフィクションというのが何を指しているのかは漠然としているが、わが国におけるフィクションのあり方、特に日本独特のファンタジー――村上春樹の作品もその中に含まれる――のおかしさについて考察を重ねてきたわたしには、気になる言葉である。

イスラム国が突きつけてくる、非情な生々しい現実を、「別個のフィクション」とは。まるで、粗悪なフィクション漬けになったために脳が冒された若者のサンプルのようだ。

大学生に取材したフリージャナリストの常岡浩介氏は、大学生には破滅願望があり、シリアは破滅的な場所というイメージがあるだけなのかなと受け取った、と語っていた。

日本国内のイスラム教徒はインタビューで、イスラム国のやっていることはイスラムの教えではないといっていた。大学生の行動に疑問を示していた。

それにしても、大学に行きたくても行けない若者が増えてきた日本で……大学生も大学生だが、学生の渡航を仲介していたとして同志社大学元教授が家宅捜索を受けただなんて、言葉をなくす。

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